第19章 歯車 残り8時間 天海春香
第1節 遺言
「春香、お願いがあるの。」
千早ちゃんがそう切り出した。私たちは相変わらず無常に刻々と時を刻み続けるカウンターと向かい合いながら、名残惜しむように時を過ごしていた。
「何?」
「私の・・・遺言を聞いてほしいの。」
遺言・・・。
「千早ちゃんに財産なんてあったっけ?」
「いや・・・そういう意味の遺言じゃない。私はここで死んでしまう。だけどあなたは生き残る。だから、私がお世話になった人たちに、私の最期の言葉を届けるメッセンジャーになってほしいの。・・・やってくれる?」
断る理由なんてない。
「もちろん大丈夫だよ。」
「ありがとう。ちなみに私自身の財産は殆どなかったはずよ。残念ながら春香には1円も上げられないわ。」
私はくすくす笑った。
「大丈夫、期待してないから。」
「ふふっ、お互いの経済状況はよく知っているものね。」
「そうだよ。」
ひとしきり冗談を言った後、千早ちゃんがまじめな顔になった。遺言の中身を考えているようだった。
「今、頭の中で誰に何を言うか考えてる。まとまったら、また声をかけるから。」
「分かった。」
千早ちゃんは、そういうと、軽く目をつぶって瞑想を始めた。私はそんな彼女を横目に、千早ちゃんのことを考えていた。
数時間前に行った、生死をかけたジャンケンがイカさまだったことは、私にもわかっていた。千早ちゃんは、私にバレないように「後出し」をしたつもりだったようだ。だけど、はっきり言えば、私にはバレバレだった。
というよりか、そもそもかなり不自然だった。3回連続で、あいこもなく、1回で勝負が決まってしまうなんてやはり不自然だったし、千早ちゃんの目線が、明らかに私の手の形へ向いていたし、微妙にラグがあった。これで私をだまそうなんて、おととい来やがれといった感じ。
だけど私は、それを指摘しなかった。どうしてか。それは・・・多分怖くなってしまったからなのだ。
私は「死ぬ」ことを覚悟していた。自暴自棄になりながらも「死」を望んでいた。だけど改めて冷静になって、少しずつ、また冷たい「死」への恐怖が、心の奥底から蘇ってきたのだ。
だから私は指摘できなかった。指摘する勇気が立ち消えてしまった。あれよあれよという間に、彼女の「死」は既成事実化してしまった。
「いいわよ、春香。」
隣で千早ちゃんがゆっくりと目を開いた。
「うん。」
「まずは、私の『お母さん』、律子お母さんに向けて。」
「分かった。」
「じゃあ行くよ。」
「待って、長くなるよね。全部は覚えきれないよ。」
「内容の要点だけ覚えてくれればいい。細かいところは、違っててもいいから。」
「分かった。」
「じゃあ、改めていくよ。」
千早ちゃんが再び目を閉じて、ゆっくりと話し始めた。
「お母さん・・・突然に先立ってしまう不幸をお許しください。私は・・・あなたにとって親不孝な娘でした。お母さんは、私の為に、自分の家と部屋と生きる糧、大学への支度金、そして一番大事な愛をくれた。なのにもかかわらず、私は、あなたの為に・・・何をしてあげられたでしょうか。高校を卒業してから1回も帰省せず、最も大事な時に、一番相談するべき相手に、私は何も話さなかった。それだけじゃない。私は幾度となくあなたを心配させ、こうして目の前からいなくなってしまう。私はとんだわがまま娘で、親不孝者でした。こんな私を赦してください。」
彼女が涙ぐんでいる。一度目を開けると、両目からぽろぽろととめどなく降り注ぐのだ。
「もういいの?」
「まだ途中よ。」
彼女は再び目を閉じた。
「私は、あなたの娘で本当によかった。私はお母さんから多くのことを学びました。やさしさ、愛情、勉強、勇気、そして生きる希望。本当は、お母さんから学んだことを今後の人生にいかしていきたかった。お母さんに、私が社会で活躍する姿を見せて、恩返しをしたかった。だけど、もうそれも叶いません。だけど、悲しまないでほしい。お母さんには、もう一人娘がいる。」
「ちょっと・・・。」
「私よりも、明るくて、優しくて、素直な娘がいる。私なんかより、よっぽど親孝行な娘がいる。お母さん、私の魂は、この娘に預けました。私の魂は、常にこの子の中にいます。この子の中で春香とお母さんのことを見守っています。だからお母さん・・・泣かないでえぇ・・・。」
そういっている千早ちゃんが泣いているのだ。
「春香ぁのことをぉ・・・よろしくぅお願いします・・・。私のぉ・・・忘れ形ぁ見だと思っってぇ・・・。大切にぃしてあげてください・・・。親不孝なぁ私が最期の最期までこんなお願いをしてぇごめんなさい・・・。あなたと過ごした1年半あまりの時間はぁ、私にとって一生の宝物です。身体には、くれぐれも気を付けてください。もう若くないんだから・・・。」
「怒るよ。そんなことを言うと。」
涙を流しながらも、千早ちゃんはぎこちない笑顔を見せた。
「それじゃあ、お元気で。」
そういい終えると、彼女はゆっくりと目を開いた。
「今のが、私のお母さんへの遺言。」
「・・・私に関するくだりは、いるの?」
「それが一番重要なんじゃない!」
「・・・ありがとう。千早ちゃんは、ずっと私の心の中にいてくれるんだね。」
「そうよ。春香が悪いことをしないように、見張っておくの。」
私は微笑した。
「何それ?子供じゃないんだから・・・。」
「春香はまだまだ子供よ。私がついていないと、危なっかしくてしょうがない。」
「へいへーい。」
「ふふふっ。」
なんだか癪だな。
「じゃあ、次は美希に対する遺言ね。」
「うん。」
「美希へ。こんな形でお別れすることになってしまってごめんなさい。あなたには、いつも迷惑をかけっぱなしだったわね。今だから正直に話すけど、私は、ずっとあなたのことを利用していた。先輩のことで悩んだことがあると、いつも美希に意見を求めていた。私は、鋭い感性を持っている美希の率直な意見がほしかった。それを聞くために、私は美希と仲良くしている部分があったことは事実です。たぶん、もうとっくの昔に気付いていることでしょう。だけど・・・最初は利用することしか考えていなかったのに、だんだんと・・・あなたのことを友達と思うようになっていった。美希ともっと遊んでいたい、美希ともっとおしゃべりをしたい、美希と一緒にカフェに行きたい、美希と一緒に遊園地に行きたい、美希と一緒に買い物をしたい、美希と一緒にカラオケに行きたい、美希と一緒にゲーセンに行きたい・・・気づいたら、切りがないくらい、あなたと一緒にやりたいことがあった。なのに私はぁ・・・なんてぇいうか・・・バカだったかぁら・・・こんなにも大事な友達のことを、ないがしろにしていたぁ。」
聞いていてこちらが恥ずかしくなるようなセリフだ。だけど、にじみ出る千早ちゃんの苦悶の表情からは、美希への贖罪と、強い訴求を感じるのだ。
「思えば、私は美希に迷惑をかけっぱなしだった。美希が散々警告してくれたのに、私は自分勝手にも、あなたにお金を握らせて口封じをした。それだけじゃない。『今から殺されに行く』と電話をして、美希にすごく心配させた。それだけじゃなく、その後『春香のことを頼む』って言って、自分は雲隠れ。挙句の果てには、面と向かってお別れも言えなかった。本当に私って・・・罪深い女。」
千早ちゃん、私のことを美希にお願いしていたのか・・・。
「美希って、一見するとすごく子供っぽい。やることなすこと、全部かわいいかった。だけど、私たちの中では一番大人だった。何をして、何をするべきでないのか、全部きちんと理解していた。全ては、私がいけないの。私が・・・私と春香が、修羅の道を選んでしまったから・・・こんな結果になってしまった。美希のせいじゃない。だから、お願いだから、美希は責任を感じないでほしい。責任を感じるなって言ってもそれは難しいかもしれない。だけど、私は・・・美希には私たちのこの事件のことから開放されて、幸せな人生を送ってほしい。美希は悪くない。悪いのは全て私たちなんだから。」
その通りだ。美希は被害者なのだ。私たちが巻き込んでしまった、罪のない犠牲。
「美希ぃ・・・あなたぁの声がぁ聞きたい。美希のかわぁいくって、子供っぽくって、甘ぁえん坊ぉな声がぁ聞きたぁい・・・。もう一度だけでぇいいぁから・・・。」
千早ちゃんが顔を抑えて、嗚咽を漏らしている。見ている方が辛い・・・。
「春香、今のは伝えないでぇ・・・。こんなこと言ったら、美希を悲しませるだけだからぁ・・・。」
「・・・分かった。」
「私、美希の友達でいれて本当によかった。いや・・・友達なんかじゃない。『親友』だった。少なくとも、私はそう思っていたよ。美希も、そう思っていてくれたら、うれしいな。」
千早ちゃんは、まるで目の前に美希がいるかのように、虚空に向かって語り掛けている。
「お願い・・・。春香と友達でいてほしい。」
「へっ・・・。」
また私の名前が出てきた。
「私、美希にお願いしたよね。あの病院で。春香のことをお願いって。これは私から美希への最期のお願い。春香のことを、これからもよろしくお願いします!春香のことを、幸せにしてあげてください!」
千早ちゃんは虚空にむかって深々と頭を下げた。
「ちょっ、ちょっと、千早ちゃん・・・。」
千早ちゃんは、私の言葉を無視して続けた。私の言葉など聞こえてないかのようだ。
「さようなら、美希。元気でね。私は、春香の心の中にいるから。春香を通じて、いつまでも美希のことを見守っているからね・・・。」
静かに、千早ちゃんは、口を真一文字に結んだ。美希への遺言が終わったようだった。
「終わり?」
「そうよ。」
「みんなにお願いするつもり、私のこと?」
「もちろんよ。私はもう、何もできないんだから。」
「・・・ありがとう。」
「親友として、家族として、遺してしまう人のことを想うのは当然のことよ。」
「家族か・・・。」
今となっては、この言葉も空疎そのものだ。千早ちゃんにとっての家族も、私にとっての家族も、すでに原型は留めていない。そうした中で作った「新しい家族」。憎しみあっていたせいで忘れていたが、私と千早ちゃんは「家族」なんだった。
「次の人、いい?」
「次はだれに対する遺言?」
「えっと・・・その・・・」
千早ちゃんがどぎまぎしている。
「ん?」
私は答えを催促した。
彼女はしばし、あちらこちらを向いて、どうしようか逡巡していたようだったが、いよいよ思いを決めたようだ。
「・・・望月先輩への遺言。」
「先輩に・・・。」
「もし春香が良ければ、で、いい。」
だから躊躇していたのか。恋敵である彼女の遺言を、私を裏切った彼女の言霊を、そのまま伝えなければならない。
「いいよ。伝える。単なるICレコーダーだと思ってしゃべってくれていい。」
千早ちゃんは申し訳なさそうに顔をしかめた。
「ごめんね、春香。辛いことばっかりさせて。」
「いいよ、もう慣れてるから。」
千早ちゃんがハッとした表情をして、私から顔を逸らした。
「本当にごめん。」
「冗談だから!冗談だよ、千早ちゃん。」
半分だけ冗談だ。
「うん・・・、そうであってくれるとうれしい。」
千早ちゃんは、体育座りの姿勢をして、タイムカウンターを見つめた。残りは『7時間34分20秒』だ。彼女は何かを考えているのか、あるいは単にぼーっとしているだけなのか、黒くくすんだ地面を見つめて微動だにしない。
「千早ちゃん、時間を大切に。」
心配になって私が声をかける。
「あっ、・・・うん、そうだね。じゃあ、始めようか。」
千早ちゃんは、また虚空を見据えた。まるでそこに先輩が見えているかのようだ。だが、何かを思いついたようにあのカメラを見つめた。
「そういえば、先輩は、見ているんだよね?あそこで。」
千早ちゃんがカメラを指さした。
「そうかもしれない、でもそうじゃないかもしれない。」
犯人の狙いが私たちへの復讐だったとしたら、こんな泣けるシーンを先輩に見せようとは思わないだろう。多分、先輩はあの場にいない。
「先輩・・・。」
千早ちゃんは、カメラを見つめている。あの場所に先輩がいる、そう信じたみたいだった。
「望月先輩・・・何から話していいのか分からないですけど・・・とにかく、・・・あなたと過ごした1年数か月の日々は、本当に・・・かけがえのないものでした。」
千早ちゃんがカメラから目を逸らした。どこか落ち着きがない。何かを惑っている様子である。
千早ちゃんが唇をかみしめている。本当に悔しい、そういう気持ちがにじんでいるようだった。
「こんな言い方をするのは、失礼かもしれませんが、敢えて言わせていただきます。望月先輩には、春香を幸せにする義務がある。」
「ちょっと、千早ちゃん、別に私はそこまでは・・・」
「春香は黙ってて。」
千早ちゃんが予想以上に凄んでいて、私はその勢いに気圧された。
「先輩は、約束してくれましたよね。私たち3人で仲良く暮らす。その為に待っていてほしいって。私、その言葉、まだ信じてます。先輩は必ず、約束を守ってくれるって。もう私はここで死んでしまうから、その点では約束を守れない。だけど、春香は生きていく。これからずっと。何十年も。だから、約束を守ってほしい。彼女のそばにいてほしい。春香の支えになってほしい。春香が困った時、苦しい時、泣きたいとき・・・抱いてほしい時に・・・一緒にそばにいてほしい。常に一緒にいることはできないと思う。会えるのは、数週間に一回、あるいは数か月一回かもしれない。それでもいい!お願いです!春香のそばにいてあげてください!」
千早ちゃんは深々と頭を下げた。
「・・・恥ずかしいよ。千早ちゃん・・・。」
体の中がぽーっと熱くなる。状況が状況だけに仕方がないのかもしれないが、いくらなんでも・・・「抱いてほしい時」なんて。
「これぐらい言わないと、彼はわかってくれないから。」
千早ちゃんは、カメラの方に目を向けていたのだが、また正面の方を見つめていた。まさか、もう終わりだというのだろうか。
「これで終わり?」
「・・・うん。もういいわ。」
「いやいやいや。もっと言いたいことあるんじゃないの?」
「大丈夫。」
「私に気兼ねしてない?」
「・・そんなことない。」
一瞬だけあった間が全てを物語っている。千早ちゃんは、わざと抑えているのだ。自分の言いたいこと、彼女が愛してやまなかった彼への遺言。
「耳でもふさいでいようか?」
「・・・いいわよ。」
「じゃあ、終わったら呼んでね。」
私は彼女の言葉を無視して、ゆっくりと立ち上がった。
「いいって・・・。」
私はタイムカウンターの後ろ側へとゆっくりと歩いていく。
「ちょっと・・・。」
千早ちゃんは困惑しているようだ。
私は千早ちゃんから離れた、タイムカウンターの後ろ側にたどり着くと、そこで体育座りをして、耳をふさいだ・・・ふりをした。本当は、耳などふさいでいない。でも遠くの千早ちゃんからは、私が耳をふさいだように見える。
多分、あのスピーカーの奥に先輩はいない。だから、彼女の遺言は、私が伝えなければならないのだ。そうしなければ、千早ちゃんの最期の想いは、誰にも伝わることがない。誰も聞いていない暗い監獄の中で、愛を叫ぶだけなんて、こんなにも寂しいことはない。
「・・・先輩。」
千早ちゃんもついに決心したのか、カメラに向かって話しかけ始めたようだ。
「私・・・あなたのことを愛していました。本当に、心の底から・・・。」
千早ちゃんの声は、鈍く冷たい。悲しみが心の中でこだましているかのようだ。
「先輩は、私のことを・・・本当に愛してくれていたんですか?ただ単に・・・私の『負のオーラ』に惹かれてしまっただけなんじゃないんですか?・・・・・まあ、いいです。答えなんて、聞けないままこの世を去りますから。でも少なくとも私は、好きだった相手から・・・心の底から愛していたあなたから、たくさんの愛を受けた。愛の結晶まで作ってもらった。それだけで・・・幸せでした。」
まるで彼が隣に座っているかのように、千早ちゃんは語りかけている。
「多分私は・・・春香も含めてだけど、あなたと出会わない方が良かった。あなたと出会ってしまったせいで・・・ふふっ、私たちの人生、狂っちゃいましたから。もともと狂ってたんですけどね。・・・・・でもそれくらいに、先輩は・・・いや、二人でいるときくらい、こういう言い方は止めましょう。・・・俊は、私のことを大切にしてくれた。それがなによりうれしかった・・・。」
きっと千早ちゃんの顔は、笑顔なんだろうな。千早ちゃんには、見えないはずの彼が、どこかで見えているのだ。そんな千早ちゃんの顔を・・・もう見ることはできないだろう朗らかでほっこりした姿を見てみたい、彼に愛されて幸せそうな彼女の姿、憎らしいことは憎らしいが、見てみたい気もする。
「私が俊のことを好きになったきっかけは、俊が、私の思い出の中に存在した、初恋の人に似ていたから、ただそれだけでした。私たちは修羅の道を潜り抜けて、寒い雪国を抜け出して、華やかな東京に出てきた。私たちにとっては、ある種逃避行みたいなところがあったんです。あの忌まわしき家から逃げて、そして・・・私の母親から逃げようと思って・・・東京に出てきた。」
そう。千早ちゃんは、いつも自分の母親が秋月先生の元を訪れて、私たちの平穏をぶち壊すのではないかと恐れていたのだ。
「だから、私・・・あの雪国での思い出に飢えていた。いいことなんてあんまりなかったのに、数少ないいい思い出に浸っていたかっただけなのかもしれない。私もそう思ってきた。だけど・・・覚えていますよね?私が大学1年生の時の5月の日に、私はあなたに酷いことをした・・・・。絶対嫌われたと思いました。許してくれないと思った。だけど俊は・・・私にやさしい言葉をかけてくれた。『自分の気持ちに正直になれ』って言ってくれた。それで私、思い出の中の人が好きなんじゃなくて、俊のことが好きなんだってはっきりした。」
鼻をすする音が聞こえる。
「それからは・・・辛かった・・・。俊に恋心を抱いてしまって、春香に申し訳ないと心の底から恥じました・・・。春香に先輩のことを譲る、先輩なんて狙っていない、口では何とでも言えたのに・・・。心の内では、あなたのことを求めていた。そんな私が嫌いだったし、心の欲望を抑えられないのが、本当につらかった・・・。」
きっと、千早ちゃんが先輩のことで苦しんできたのは、本当だったのだろう。彼女の悲痛な叫びが、何よりも真実味を持っているような気がした。
「私たちぃ・・・バカでしたよね。雪村さんを傷つけて、それでいて俊と春香の二人が結ばれようなんて。たとえ、それ以外に方法がなかったとしても、そんなことなんてするべきじゃなかった。冷静になれば、そんなことは子供だってわかる。あの頃の私は、とても幼稚だった・・・。今もそうかもしれないけど、あの頃は特に、バカだった。他のことが見えてなかったんです。どうすれば、春香と俊の二人が幸せになれるか、そんなことばかり考えていた・・・。」
千早ちゃん・・・。
「俊。どうしてあなたは、私なんかに惚れてしまったの?私なんて、ただのネクラ女。胸も大きくないし、骨と皮しかないような魅力のない女。それに比べて春香は、かわいいし、優しいし、胸も大きいし、それに・・・抱き心地は最高。それなのに・・・どうして、俊は私なんかのことを好きになってしまったの?・・・私から『不幸なオーラ』が出てたから?美希はそう言ってたわ。・・・私・・・不思議でしょうがないの。俊は、春香のことが好きだったはず。なのに・・・どうして私のことを・・・好きになってしまったの・・・。もちろん、俊が私のことを抱いてくれたのは・・・うれしかった。だけど、だったらどうして春香を・・・抱かなかったの?春香のこと、嫌いになってしまったの?・・・」
千早ちゃん、何言っているの・・・?
「春香の過去を知ってしまったから?春香が・・・レイプによって生まれた子で、殺人を犯していたから?でもそんなの・・・私だって同じようなもの。だったら・・・どうして春香だけ遠ざけようとしたの・・・?美希は、俊は『私と春香両方好きだと思う』って言ってた。どっちと付き合うべきか迷ってるって。でも私知ってる・・・先輩の・・・いや俊の春香への気持ちは本物のはず!だとしたら、どうして!?どうして、私の体を抱いてくれたの!?私が可哀そうだったから?春香だって十二分にかわいそうじゃない!だったら、どうして私は抱いて、春香は抱いてくれなかったのよ!?」
千早ちゃんは取り乱している。仮に耳をふさいでいたとしても、今の言葉は漏れ伝わっていたことだろう。
「・・・こんなことを話しても仕方がないことですね。どうせ私は死ぬ。春香は生き残る。さっき話した通り・・・今度は春香を抱いてあげて下さい。あの子にとっては、それが一番の幸せですから・・・。」
人を性欲の塊みたいに言わないでほしいな。
「私・・・正直言って、本気で自分に魅力があるなんて思っていないんです。美希は、私の負のオーラが俊のことを魅惑したんだ、なんて言い方してますけど、自分の魅力は、自分が一番よく知っているつもりです。確かにそういうオーラは出ているかもしれない、人の庇護欲を掻き立ててしまうのかもしれない。だけど先輩は・・・確かに春香のことが好きだったはずなんです・・・。なのに、どういう訳か、春香を抱かない・・・。俊が純粋に私のことを愛してくれたなら、これほどうれしいことはない。だけど私は・・・そうは思っていない。・・・うがった見方かもしれないですけど・・・そこには何か理由があるんじゃないんですか?あなたは春香の過去を調べていた。私の過去も。それ以外にも私たちの周辺を洗っていた。その中で・・・何かを見つけたんじゃないですか?春香を・・・愛してはいけない理由を。」
私を愛せない理由?
「・・・ただの憶測です。根拠なんて何もない。だけど私は不安なんです。私が死んだ後・・・春香が不幸せな思いをしないかって。あなたに見捨てられて、春香が泣いて過ごすんじゃないかって・・・。それだけが、不安で心残りなんです。だから・・・お願いします。春香を、心の底から愛してあげて下さい。あなたを魅惑してしまった私は、もうこの世にいないんですから・・・。」
千早ちゃんは嗚咽を漏らして泣いている。私には、なんとなくだがその涙の意味が分かる。半分は、先輩を失うことへの悲しさ、そしてもう半分は、私への涙・・・。
「・・・最期に、叶うはずのないわがままを言わせてください。・・・できるぅことならぁ私は、もう一度だけぇ・・・あなたに抱かれたかった。あなたの胸板でぇ、私を・・・包み込んでぇほしかったぁ・・・。あなたの肌、俊の吐息ぃ・・・感じたかったぁっ・・・。もう一度だけでいいぃ。『愛してるよ、千早』って言ってほぉしかった。私のことぉ、慰めぇてぇほしかっった。ダメなぁ私を・・・認めてほしかった。赦してほしぃかった・・・。でも・・・もう・・・叶わないんだよねぇ・・・・。」
これ以上聞いていたくない。千早ちゃんの苦痛に満ちた声、苦悶し、苦しみ悶えている千早ちゃんの姿なんて・・・。
本当に耳をふさいでしまおうと思った。だけど、そんなことするもんか!だって私は・・・私にしか、彼女の想いを伝えることはできないんだから。
「・・・だから一方的に言わせてください。俊、私はぁあなたのことをぉ・・・愛しています。心の底からぁ。でも、もう私のことは忘れてください。あなたが向かい合うべきは、私ではなく、春香なんですから。最期までわがままばっかり言ってごめんなさい。じゃあね、・・・・さようなら、俊。」
最期の千早ちゃんの言葉は、とても寂しかった。
しばらく千早ちゃんは何も発しなかった。微動だにせず、何をしているかもわからなかった。
2分くらい経って、千早ちゃんが動き出す。どうやら私の方に向かって歩いているようだ。
千早ちゃんが、私の肩を叩く。
「何?」
「終わったわ。」
「もういいのね?」
「うん。もう言い残すことはないから。」
今度は即答した。本当に思い残すことはないみたいだった。
「分かった。」
私も立ち上がり、元の場所に戻ることにした。千早ちゃんが差し伸べた手を取って立ち上がると、そのまま手を引かれて、元の定位置へ、そして私たちは、再びタイムカウンターが見えるところの壁に背中を預けた。
もう『7時間10分20秒』しかない。
「あと7時間しかないんだね。」
私は千早ちゃんに声をかけた。
「・・・次は、春香の番。春香に遺言を授ける番。」
「まだ・・・あとででいいよ。まだ7時間あるんだから。」
「たった今『あと7時間しかない』って言ったばかりじゃない。」
「そうだけど、こればっかりは、もう少し後にしてほしい。」
「でも」
「お願いだから・・・。」
私はドキリとしてしまったのだ。私への遺言、それを聞いてしまったら、もう戻れなくなってしまうような気がしたのだ。何もかも不合理で不条理なこの結末から。
「・・・分かった。」
「ありがとう。」
千早ちゃんはまた真っすぐを見つめている。死を前にして、彼女は今何を想い、何を考えているのだろうか。
「何を考えているの?」
思わず聞いてしまった。名残惜しむように、今は少しでも彼女と話していたいのだ。
千早ちゃんは、にこっと笑う。
「春香の将来のことよ。」
「いいじゃない、私のことなんて。」
「そういう訳にはいかないわ。春香には、私の人生の分まで生きてもらわないといけないんだから。ぜひ幸せになってもらわないと。」
「私、幸せにはなれないと思う。こんなにも人を傷つけてしまったんだから。」
千早ちゃんが朗らかに笑う。
「大丈夫。春香には大切な人が何人もいる。お母さんに、美希、それから先輩も。お母さんと美希は、春香に安らぎを与えてくれる。先輩は、春香に愛とお金を与えてくれるの。だから春香は生活に困ることはない。あとは春香の天性の明るさをもってすれば、きっと人生はうまくいく。やりたいことを考える時間なんていくらでもある。そしてそれをサポートしてくれる大切な人がいる。幸せになれないはずがないわ。」
そうなんだろうか。私に、夢なんて、見つけられるのかな?
「私、先輩のお嫁さんになる以外の夢なんて・・・考えたことなんてなかった。」
「だから、ここを出てから考えるのよ。いい?これは春香への宿題。どうすれば自分が幸せになれるかを考えるの。友達や家族、大切な人の手を借りてもいい。みんなで協力して、春香自身の人生を幸せにするの。」
「・・・うん。」
私はゆっくりと目をつぶった。
何か思い出せそうな気がする。私は・・・まだ、大切なことを見落としている。そんな気がする。
しばらくして、ウサギの人形を持った、あの子の姿が思い浮かんだ。
「伊織・・・」
「・・・ん?」
私はゆっくりと目を開いた。
「伊織が、私に笑いかけている。」
「・・・そういう記憶があるの?」
「・・・記憶っていうか、そういうイメージかな。なんだか、不思議と身近に感じる。」
千早ちゃんは、少しだけ苦虫を噛み潰したような顔をした。
「敢えて言わなかったんだけどね、春香。」
彼女はそう前置きした。
「春香は伊織とも仲良くしているようだったの。」
「そうなの?いつの話?」
「私がホテルに缶詰めになった後に、私は伊織を自分のホテルに招いたの。望月財閥のことについて知りたくてね。その時、伊織が言っていたのよ。春香とは親しくしているって。」
そういえば、さっきも千早ちゃんは、伊織に会ったって言ってたな。
千早ちゃんがホテルに缶詰めになった後ってことは、夏以降のことだ。正直な話、それ以降のことはまだうっすらとしか思いだせていない。
「どうして、千早ちゃんは伊織には私のことを頼まなかったの?お母さんや美希、それから先輩には、私のことを託したのに。」
千早ちゃんは、語気を強めた。
「信用できないからよ!あの子は、たとえ自分自身に悪意がなくとも、財閥の為に、春香を利用しようとしていたのよ!確かに・・・私がホテルに水瀬さんを招いた時には、すがる思いで春香のことをお願いした。だけど・・・根本的に、あの子のことは信用できない。信用しちゃいけないと思う。そもそも・・・水瀬さんが春香に近づいてきたのは、雪村さんの事件が起こってからのはず。どうして、今更になって近づいてきたのか。」
その理由ならわかる。なんとなく予想がつく。
「伊織は、私に罪悪感を抱いていたんだと思う。」
「罪悪感?春香に何かしたっていうの?」
千早ちゃんの顔がこわばるのを感じる。そうか、彼女は知らないんだ。伊織の「教唆」。
「今だから・・・いう話なんだけど、とりあえず怒らないでね。」
「・・・うん。」
千早ちゃんは身構えた様子である。
「実は、伊織に言われたの。『楓を炊きつけて、千早ちゃんを殺させればいい』、そうすれば、先輩を狙う人間がいなくなって、先輩は私のものになるって。」
「なに・・・それ・・・。」
「伊織だって、言いたくてこんなことを言ったんじゃないと思う。楓がぬぐいようのない犯罪を犯す。そうなれば望月俊と雪村楓の縁談は確実になくなる。望月財閥にとって大きな打撃となる。そうすることが、財閥の為、そう思っただけのこと。」
「そんなの・・・許せるはずないじゃない・・・。」
千早ちゃんは怒りに心を震わせているようだ。
「私はその言葉にある種乗っかった。先輩を取られた気分でいたから、その腹いせに作戦を実行しようとしたの・・・。作戦が済めば、『演技』をする必要がなくなるから、千早ちゃんと先輩がもうイチャイチャすることはできなくなる。もう私は我慢の限界だった。どうせ最後はシナリオ通りに先輩が止めてくれるだろうって思った。」
「でも私は本当に殺されようとして、事件になった。そのことへの罪悪感を感じているというの?」
「・・・多分そうだと思う。」
「信用できないわ!あの子は、春香を利用してまた何かを企んでいるに違いない!」
「・・・私はそうは思わない。だって、楓が死んで縁談は破談になった。この件で望月財閥は少なからずダメージがあった。伊織の目的は達成されている。」
「まだ何か別の目的があるのかもしれない。」
「・・・どうなんだろう。」
「とにかく・・・彼女に頼りすぎるのは危険だわ。」
「・・・私には、彼女がそんな悪い子だとは思えない。」
千早ちゃんは、その見立てを否定しなかった。
「私も、根はいい子だとは思うわ。人間的にもできている子だと思う。話していて、随分客観的に状況を見れている子だとは思った。だけど、財閥が絡むとあの子は変わってしまう。だから、警戒しなくちゃいけないの。あの子を疑うというよりかは、水瀬さんの背景にあるものを疑え、そういう意味よ。」
「うん、分かった。」
「そもそも、この事件を仕組んだのも・・・水瀬さんかもしれないのよ。」
もしも、望月財閥を徹底的に叩きのめすことが目的なのだとすれば、雪村家にこの事件の真相を話していてもおかしくない。私に近づいたのだって、私を通じて望月先輩の情報を取ろうとしていただけなのかもしれない。
伊織か・・・。なんだかモヤモヤする。まだ私は、伊織に関して、大事なことを思い出せていない、そんな気がするのだ。
私は意識を伊織に集中させることにした。あと少しで、思い出せそうな気がする。そんな気がするのだ。