第2節 伊織の贖罪
あの事件が起きた後も、構内は不思議と静穏を保っていた。雪村楓が死んだということは、周到に伏せられていたのだ。マスコミも、この事件を報じた例はない。
そして、問題を産んだテニスサークルは、事件からほどなくして、突然、大学から解散を命じられた。校内での「違反行為」があったことがその理由とされたが、その具体的内容は明示されなかった。
私には、もう何もない・・・そう思っていた。だけど、どういうわけか、私には“新しい”友達ができた。美希と伊織である。
サークルが解散になって、私は大学で独りぼっちになっていた。そんなときに、学部が同じだった美希が私に声をかけてくれたのである。
伊織と仲良くなったのは、伊織が私に突然連絡してきたからだった。伊織とは学部は違ったけれど、お昼休みを一緒に過ごしたり、大学が終わった後、一緒に遊ぶようになった。とはいえ、私は殆どしゃべらず、伊織と美希が話しているのを聞いているだけだった。
そして、いつしか私と美希と伊織は、3人で過ごすことが多くなった。どうして、こうなってしまったのかは、なんだかよくわからないが、孤独を感じていた私にとって、2人が一緒にいてくれたのは、とてもありがたいことだった。
7月中旬のことだった。この日、私たち3人は学食棟の4階でスパゲッティをすすりながら、なんでもない雑談に興じていた。ちなみに、私は食欲がないから、お昼を抜いていた。
「あーあ、今日の試験はダメダメだったの。」
隣で美希が愚痴をこぼしていた。中亭大学では7月中旬頃から、ぽつぽつと期末試験が始まりつつあった。試験期間は、7月下旬頃からだが、語学など試験期間中に試験をしない科目は、この頃に試験を行うのだ。
伊織は美希に尋ねる。
「何の試験?」
「フランス語なの。」
「ちゃんと勉強した?」
「ミキ的には、一応やったつもりなのー。」
伊織は手厳しい。
「その『ミキ的』というのが、一番信頼できないんだけど。」
「むー、ミキはちゃんとやったの!」
「でも、成果が出ていないんだから意味ないじゃない。」
「そういうデコちゃんの方はどうなの?」
「ふんっ、常に完璧なこの伊織ちゃんは、もちろんフランス語も完璧よ。多分A評価がつくんじゃないかしら。」
伊織は鼻息荒く自慢した。
「ミキ的には、再履だけは避けたいの。あんなのもう半年やるなんて、苦痛過ぎて欝になっちゃうの。」
「ちゃんとまじめに勉強すれば、いい点なんて余裕で取れるのよ。後は、やるかやらないかの問題なわけ。」
伊織が、窓の外をぼーっと見ている私に尋ねた。
「春香はどうなの?」
「私?私は・・・ちょっとまずいかな。」
正直なところ、勉強に身が入らないからだ。
「時間・・・足りなかったの?」
伊織が恐る恐る聞く。
「・・・まあね。」
少し雰囲気が暗くなりそうだったが、美希があっけらかんとしていた。
「ミキは時間があってもやる気しないの。」
「美希は問題外ね。他の試験はどうなの?」
私は自信なさげに答えた。
「語学以外は何とかなると思う。だって・・・日本語なんだし。」
「ミキは、ちょっとやばいかもー。まっ、今までヤバいと思っても何だかんだ乗り切れたし、今回も多分大丈夫だと思うの。」
「なんだか二人とも不安だわ・・・。」
伊織は顔をしかめていた。
美希が誇って伊織に反論する。
「ミキは、今まで一度も単位を落としたことがないんだよ。フルタンってやつ!」
伊織が意外だという風に目を丸くする。
「私ももちろんフルタンだけど、美希も意外にやるのね。」
「ミキは天才だからねー。」
伊織はこちらを見つめてくる。
「問題はこの子ね。」
私もすかさず反論した。
「本当に大丈夫だよ・・・。単位落としたのだって・・・、今までで2つしかないし。」
きっと目がどこか虚ろだから、大丈夫だとは思ってくれないんだろう。
「本当かしら・・・。」
「大丈夫。きっと何とかするから、単位落としてばっかりじゃ、親に申し訳ないしね。」
私はそう答えた。
強引にテストの話は打ち切った。3人は取っている科目がかなり違う。どうせ、語学以外の話はかみ合わないんだから、続けていてもしょうがないのだ。
気づけば、話題は将来の進路の話になっていた。
「ミキね、これから公務員になろうと思うんだ。」
伊織が意外そうに聞き返す。
「へえー、美希が公務員ねー。なんか意外ね。」
「意外でも何でもないよ。うちはパパもママも公務員なんだよ。」
そういえば、そんな話を聞いたことがあったかもしれない。
伊織がしかめっ面で美希に尋ねる。
「まじめな公務員さんの両親から生まれた子が、どうしてこんな不真面目なのかしら。」
「んー、何でだろうね。あっ、ちなみにお姉ちゃんは、学校の先生をやってるんだよ。」
またしても伊織が意外だという表情を見せた。
「それは公立?」
「うん。」
「じゃあ、家族全員公務員なんじゃない。あんたも家族に影響を受けて、公務員を目指したわけ?」と伊織は尋ねる。
「んー、そういうわけでもないんだよね。公務員ってなんだか楽そうじゃない。だから。」
その発言を聞いて。伊織は途端にあきれ顔になった。
「まともな志望動機かと思えば、随分見下げた理由なのね。」
「でも、パパやママも言ってたもん。『公務員は楽だよー』って。だけど、地方公務員の大都市の行政職しか楽じゃないんだって。教師は大変みたい。土曜日も学校に行っているしね。」
私が力なく美希に尋ねる。
「美希のお姉さんは・・・、どうして学校の先生になったの?」
「お姉ちゃんは、元々学校の先生になるのが夢だったの。だから、一生懸命勉強して、学校の先生になったみたいなの。」
伊織が感嘆をもらす。
「お姉さんは、あんたと違って立派な人ね。」
「ミキの自慢のお姉ちゃんなの。でも、ミキは苦労するのは嫌だから、らくちーんな公務員になるわけ。二人は将来どうするの?」
私と伊織は目を見合わす。将来か・・・正直、何も考えていない。考えたくもないし、そんな精神状態ではない。私が言葉に詰まっていると、伊織の方から話し始めた。
「私は、大学を卒業したら、許嫁と結婚する。」
美希は少し驚いたような表情を見せた。
「えっ、じゃあデコちゃん就職しないの?」
「そうよ。私は誰かに使われるなんて野暮なことしないの。」
「いいなーいいなー、ミキも欲しいなー許嫁。」
伊織が諭すように語りかける。
「アンタねー、勘違いしているかもしれないけど、許嫁なんて良いものじゃないわよ。結婚相手を親に決められて、逆にやりたいことも何もできない。そんなのって窮屈な人生なのよ。私なんてアンタの人生の方がよっぽどうらやましいのよ。」
お互い、ないものねだりなのだ。。
「人生なんて交換できないんだから、美希はあきらめてさっさと公務員試験の勉強でも始めなさいよ。結構難しいらしいじゃない、公務員試験。」
そうなんだ。どれくらい大変なんだろう。私が尋ねる。
「美希は勉強いつから始めるの?そんなに難しいの、公務員試験って?」
「んー、そうね。倍率は8倍~10倍くらいかな。」
私は驚いた。
「難関試験じゃない!本当に大丈夫なの?今から勉強始めて、間に合うの?」
「大丈夫だよ、みんな大学3年生から勉強始めてるし。それにミキも、秋から勉強を始めるつもりだし。それとミキ、この夏からボランティアを始めるんだよ。」
「ボランティア?」
伊織は聞き返した。
「うん。なんでも、公務員って二次試験での面接も結構大事みたい。そういうのを突破するには、『経験値』って言うのが大事らしい。学生時代これやりましたーってアピールする材料が必要なんだって。だから、ミキとしては、今のうちこの経験値を稼いでおこうと思って。」
伊織は舌を巻いていた。
「あんたにしては、随分計画的なのね。」
「あとは、面接でボランティア好きで人懐っこいキャラを演じれば、楽勝だと思うの。最近の公務員試験だと、女の子は面接で有利って聞くし。」
私も美希を称賛した。
「すごいなー、ちゃんと目標に向かって前に進もうとしているんだね。」
「でしょー、もっと褒めて褒めて。」
「でも、将来楽しようと思って公務員を目指すっていうのがいただけないわね。」
あくまで、伊織は動機の邪道さを問題にするみたいだ。
「公務員を目指す子なんて、みんな同じ動機だと思うの。少なくとも、ミキの周りではそうだったし。」
「そんなものなのかしらねー、公務員って。まあ、私は俗世間様のことは分かりませんけどね。」と伊織はうそぶく。
美希は、伊織の結婚相手について尋ねていた。
「デコちゃんは、どんな人と結婚するかって知っているの?」
「もちろん知っているわよ。まだ明かせないけどね。」
美希は食いついたのか、続けざまに伊織に質問をぶつける。
「イケメンなの?その人?」
「別にイケメンでもないわ。普通の30の男。」
「デコちゃんは、その人のこと好きなの?」
「別に好きでも嫌いでもないわ。まあ、そのうち好きになっていくんじゃないの。そうならないと、後で自分が苦しむだけなんだし。幸い、今好きな人もいないから。」
伊織は冷めた口調で言うが、その内容は政略結婚の辛い現実だ。好きな人と結婚できず、親の都合で好きでも何でもない人と結婚させられる。それがどれだけ辛いことなのか、それは先輩の苦悩を見れば、すぐにわかる話だ。
「春香は、就活どうするの?」
美希が尋ねてくる。
「私は・・・。まだ分からない。」
「やりたいコト、見つからないの?」美希が問う。
「うん・・・。ちょっとね・・・。」
すると伊織がこんな提案をしてきた。
「ねえ、春香。もし就職で困っているようなら、うちの会社で働いてみない?」
「えっ・・・。」
いきなりの提案に、思わず戸惑ってしまった。
「えーいいなー、これってコネでしょ。デコちゃん、私もデコちゃんの会社に入れてよ。」
美希が猫なで声で、伊織にせっつく。
「アンタは、公務員になって楽するんでしょ。目標が全然違うじゃない。」
「ミキは、楽ができれば何でもいいのー。」
「ダメよダメ。美希を雇ったら仕事サボるの目に見えてるし、春香はまだ何かやりたいことがあるわけじゃないから誘ったんだから。」
「ありがとう・・・伊織、考えておく。」
「困ったら、いつでも頼ってきていいから。」
「ミキも頼るー。」
「アンタはダメよ。」
「ケチ!」
私は思わず笑っていた。私はこんな日常が好きだったのだ。2人といるときは、日常の憂さを忘れられるような気がしていた。
久しぶりに私が笑ったのを見たのか、二人が心なしか朗らかな、優しい顔になったような気がした。
伊織が号令をかける。
「さ、もうそろそろ3限が始まるわよ。美希は授業あるの?」
「あるよー。」
「春香は?」
「私はない。」
「私もないわ。」伊織がそう答えた。
「じゃあ、美希もないよ。」
伊織がツッコミを入れる。
「『じゃあ』って何よ『じゃあ』って。アンタ授業さぼる気でしょ。」
「別に次は『ラクリン』だからいいの。もう成績は確保できるくらい得点してるし、最悪、授業が終わる30分前に行って、適当にちょちょーいってレポート書けばいいから。」
伊織がしっかりと反論する。
「ダメよ。ちゃんと授業でなくちゃ。大学に遊びに来てるんじゃないからね。」
「はーいなの。」
美希も意外におとなしい。
「じゃあ行ってきますなの。」
そういうと、美希はすごすごとお盆を下げて、昼食棟から出て行った。
「全く美希のさぼり癖は、本当にどうしようもないわね。あんなんで、本当に難関の公務員試験を突破できるのかしら、他人ながら不安だわ。ね、春香?」
「・・・そうだね。」
伊織が尋ねてくる。
「私たちは3限ないし、ここでもう少しのんびりしていく?せっかくだから、法学の試験勉強でも一緒にやっていこうかしら?」
「うん・・・そうする。」
私たちも目の前のお盆を下げに行った。私が席に戻ると、彼女はもうすでにテキストを広げていた。
「春香、早く始めましょう。」
「うん・・・。」
私も席について、今日持ってきたテキストを開く。しまった・・・ノートを忘れていた。これじゃ勉強できないや。
「ノート忘れちゃった。」
伊織はあーあという表情を浮かべる。
「じゃあ、勉強は無しね。このまま少しおしゃべりしていきますか。」
「うん・・・。」
伊織はテキストをカバンにしまうと、美希の話題を振ってきた。何でもないような話だ。
「美希って、天才肌なのに努力しないじゃない。それってすごく損していると思うのよね。あの子だったら、別に公務員に限らず、何でもなれるっていうのに。そう思わない?」
「確かに・・そう思う。」
「本当に、人間って不平等ね。与えられた能力はおろか、生まれる環境まで千差万別。私のようにお金持ちに生まれてくる人もいれば、このキャンパスに行かれないほど貧乏な人もいる。人生、最初の運で決まりね。」
「・・・そうね。」
話が途切れてしまう。いつもこんな感じだ。美希や伊織が私に話しかけて、私は適当に相槌を打って、それで会話が途絶えてしまう。いつものパターンだった。
それを見越したのか、伊織は、私にとって意外な話題を触れてきた。
「昨日・・・千早に会ってきたの。」
私はハッとした。興味があるそぶりを伊織は感じ取ったようだ。
「聞きたい?」
「ぜひ。」
「そうね・・・まず千早は少し太ったわ。ずっとホテルに缶詰めにされているみたいだったから。」
「そうなの・・・太った千早ちゃんって想像できないな。」
「ほんの少しだけよ。別に胸は大きくなってないし。」
私は少し噴出した。
「ねえ春香、怒らないで聞いてほしいんだけど・・・。」
伊織が前置きした。
「あの子、本当に春香の幸せのことを考えているみたいなの。」
私は顔をゆがませた。
「それって、どういうこと?」
「千早は、子供をおろそうかどうか悩んでいる。」
私はハッとした表情を見せた。そして伊織をにらみつける。
「どうして、それが私の幸せを考えることになるのよ?」
伊織は、こうした反応を予想していたのか、物おじせずに答える。
「千早は、お腹の中にいる子供のせいで、自分と先輩が結婚することになったって考えているらしいの。だから、お腹の子をおろせば、先輩と春香が結婚することもあり得るんじゃないかって。」
「そんなの自分勝手だよ!」
千早ちゃんは、私の気持ちなんて全然考えてないじゃない。お腹の子を殺す?そんなの殺人だよ。それにそんなことをして、私に譲られたって嬉しくとも何ともない。
「春香、怒らないでって前置きしたでしょ。」
彼女の一言で少し冷静になった。気づけば、周りがこちらを凝視していた。
「だから私は千早に伝えたの。『春香はあんたと先輩の間の子度を産むことを心から望んでいる。そんなことをして先輩を春香に譲っても、春香は幸せにはなれないって』そうよね?」
まさに、今私が考えていたことだった。
「うん・・・そう。同じこと思った。」
「電話でもしたら?千早から春香に掛けることは、多分ないと思うから。」
「どうして?」
「千早は、春香のこと怖がってる。電話でもしたら、何言われるんだろうって。だから、春香から電話をしなかったら・・・。」
「いいよ、別に。」
「春香・・・」
伊織はどこか悲し気だ。
「今の精神状態で電話なんかしたら、多分一方的に彼女のことを責め続けちゃうと思う。それこそ、千早ちゃんが恐れているようなことになっちゃうと思うから。」
「そう・・・。良いの?彼女が堕胎することになっても。」
「・・・もしできるんだったら、伊織から伝えてほしい。私は、千早ちゃんが子供を産むことを望んでるって。」
「分かったわ。必ず伝える。」
「ありがとう・・・。千早ちゃんはどんな様子だった?体型以外で。」
伊織は窓の外を見つめながら、言葉をひねり出しているようだった。
「そうね・・・まあ絵に描いたような幸せ絶頂という感じとは程遠いわね。高級ホテルのスイートを借り切って、寝床にしている時点で、不幸せとは言えないけど、だけど、千早はとても寂しそうだったわ。ずっと一人でいるみたい。望月もめったに来ないらしいから。まるで籠の鳥のようだったわ。」
「なんだか、大変みたいだね。」
伊織は肩をすくめる。
「そうね。おかげで、『また来てね』なんて言われちゃったわよ。」
「・・・行く気はあるの?」
「まあ、行ってあげてもいいかなって感じかな。」
「ぜひそうしてあげて。」
「あら、珍しいわね。千早のこと気にしてあげるなんて。」
私は伊織から目をそらして、どこかの地面に目をやった。
「なんとなく。」
「そう・・・じゃあ、またなんとなく気が向いたら、行こうかしら。」
私は即座に付け加えた。
「なるべく早めに行ってあげて。」
「はいはい。このテストが終わってからね。」
「うん。」
ここでまた話題が途切れた。私と伊織は、漠然と外の景色を眺めていた。もう3限が始まって20分くらい経つころだろう。ふと私は、何の気なしに、今までずっと気になっていたことを口に出した。
「ねえ、伊織。」
「何?」
「伊織はどうして私の友達になってくれたの?」
いきなりのことに、伊織も戸惑いを隠せない様子だ。
「それってどういう意味よ?」
「あの事件があってから、今までは全然連絡なんか取っていなかったのに、いきなり伊織が連絡してきて・・・それで気づけばずっと私のそばにいる。」
「・・・迷惑かしら?」
私は即座に否定した。
「そんなことないよ。むしろ嬉しい・・・。一人だと、もっと欝なことになってると思うから。」
私は冗談めかしく言うのだが、彼女は冗談には受け取らなかった。
「心配だったのよ。春香のこと。」
「あの事件は、誰から聞いたの?」
「・・・・・。」
伊織はだんまりを決め込んでいる。
「私には言えないような人?」
「・・・そんなことは無い。あの子よ、美希。」
美希が?
「事件の翌日に、美希から電話がかかってきたの。それで・・・」
「心配になって、私に連絡してくれたってわけ。」
「美希は、事件のことについては詳しく言ってなかったから・・・ものすごく気になったわけ。」
でも、そこから私の友達になってくれたのが理解できない。私と伊織が友達になったのは、かなり強引な文脈だった。考えられるのは・・・贖罪。
「もしかして、あの事件のことを気にしているんでしょ。」
伊織は目を泳がせていた。図星のようだった。
「・・・そうよ。春香に私・・・とんでもない提案をしてしまったでしょ。」
私は小声でつぶやいた。
「楓に千早ちゃんを殺させる・・・。」
伊織は体を震わせた。そして両手で顔を覆うのだ。
「咄嗟のことだった。咄嗟に、そんな悪魔のような考えが、心の中を過ってしまったの。千早が死ねば・・・雪村家のスキャンダルは覆い隠せないものになる。そうなれば、春香も望月と結婚できるし、望月財閥自体も妨害することができる・・・。だけど・・・本当にあんな事件が起こるなんて・・・思わなかったのよ。」
「あの事件は・・・私が起こさせたようなもの。あの後、私は楓を挑発した。千早ちゃんが、先輩と結ばれたって、密告したの・・・。作戦の発動を促すつもりだった。千早ちゃんは、先輩が私たち3人が仲良く暮らせる方法を考えてくれていると本気で思っていた・・・。だけど、私はそんなもの信じなかった。あるわけない。それに私・・・千早ちゃんと先輩を共有したくない。私だけのものにしたかった・・・。そのためには、作戦を発動するしかなかった。それが・・・あんな結末を招くなんて・・・。」
「千早は・・・どうしてあんな危険な真似をしたの?下手をすれば、本当に死ぬかもしれない。それが分かっていて、どうして、自ら危険な道を選んだのよ・・・。」
「千早ちゃんは・・・最初から楓を殺すつもりでいたのよ。」
伊織が両手から顔を離し、まさかという表情をした。
「そんなバカな・・・。」
私は目を細めた。
「楓は先輩に依存していたの。私と同じように。先輩が彼女のすべてだった。そんな彼女が、そう簡単に彼のことをあきらめると思う?仮に私たちのどちらかが、先輩を射止めたとしても、彼女は、また必ず何らかの妨害をしてくるはず。だから・・・先手を打った。」
「あるいは・・・本当に殺されようとしていた・・・。」
「それはあり得ない。千早ちゃんが、あのがめつい彼女がそうやって自ら命を絶つなんて・・・考えられないよ。私から大切な人を奪って平気な顔をしているアレが、そんなことするなんて!」
「春香・・・。」
自分でも冷静さを欠いているのが分かった。なんだか、頭に血が上る感じがする。いらだちが募っていくのが分かるのだ。
「ごめん・・・。」
二人の間に重苦しい空気だけが流れていた。
「春香、私に罪滅ぼしをさせてほしい。私のせいで、春香と千早、二人の運命を狂わせてしまった。だから私は・・・。」
「いいよ別に。」
「いいって・・・。」
「別に・・・伊織の責任じゃない。作戦を発動させたのは私だし、千早ちゃんは勝手に楓を殺しただけ。伊織は関係ないの。それに・・・後悔するよ。私たちと絡むと。私たちは疫病神だからね。」
それは本当のことだった。
「千早と約束したの。春香に、就職口を提供するって。千早は言ってた。そこでまともな生活を歩んで、良い人を見つけて結婚して、人並みの生活を歩んでほしいって。」
私は蔑んだ眼で彼女を見下す。
「それで、自分はセレブな生活を送るんでしょ。」
否定できない事実だと悟ったか、伊織は口をつぐんだ。
「伊織がこうやって愚痴を聞いてくれるのはうれしい。そうでもしないと、気が変になってしまいそうになるから。だけど、伊織が私に特別に何かをしてくれる必要は、全くないんだよ。伊織は、別に何にも悪いことをしているわけではないんだから。」
「でも・・・」
私は強引に話を打ち切った。
「もうこの話は終わりにしましょう。そういう目的だったら、就職の話はいらないよ。自分の食い扶持くらい、自分で見つけるから。」
伊織の目は、不思議とおびえているような、子犬のような目だった。
「春香って・・・時々、怖い顔をするのね。」
「私の顔・・・怖い?」
「・・・表情がないのよ。死んだような顔。」
「酷い言い様だね。」
「そんな顔、見たくない。」
「じゃあ、見なければいいじゃない。」
「・・・悪いけど、今日はもう帰らせてもらうわ。」
「うん、わかった。じゃあね、伊織。」
彼女は何も言わず立ち去った。ガラスの鏡面に私の顔が映る。光で反射してわずかにしか見えないが、きっとひどく醜い顔をしているのだろう。それだけは、すぐにわかった。