第3節 春香の味方
8月初旬のことだ。春学期の期末試験は何とか無事に終えた。かなり苦戦したものの、とりあえずほとんどの単位は落とさずにキープできたと思う。
やることのない夏休みだった。去年だったら、たびたび大学を訪れては、サークル室でみんなと遊んでいたのに、もうそれもできない。アルバイトに行って帰ってくるだけ。当然合宿もない。
唯一の救いは、美希と伊織がたびたび私を遊びに連れ出してくれることだった。私は、2人に気を使われている。この間、伊織と話していて分かった。これは全て千早ちゃんの差し金なのだ。
私を傷つけた罪滅ぼしのつもりなんだろうけど、自分で謝りに来ないで、人を使うなんて、卑怯者のやることだと感じていた。
この日、私はバイトもなく、ただ家の中でじっとしていた。やることがないから、家でゲームに興じるしかない。おかげで、先輩から借りたFF10はもう終盤まで来ていたが、ゲームの内容が切なすぎて、途中でやめてしまった。なんだか、不思議と自分の境遇とだぶらせてしまうのだ。結局、私は自分で買った別のゲームで遊んでいた。
午後3時頃のことだ。突然、携帯電話のバイブレーションが鳴り出した。ふと私はゲームを中断し、携帯電話を手に取った。架電の主は、望月先輩だった。
私は驚きながら、すぐさま電話を取った。
「もしもし、先輩!?」
「やあ、春香。」
紛れもなく先輩の声だった。
「先輩・・・お久しぶりです。」
正直複雑な気分だった。先輩の声が久々に聴けたことは確かにうれしい。だけど、1か月前、病院で、あんな風に彼のもとを去ってしまって、それから初めて先輩の声を聴いた。正直、どんな風に接していいのか、分からなかった。
「久しぶりだね、春香。ずっと、連絡できなくてごめんね。」
「・・・いえ、いいんです。先輩が忙しいことは、百も承知ですから。」
先輩との間に壁を感じてしまう。口調もどこか、よそよそしくなってしまう。
「そうだよね・・・ごめんね春香。」
「気にしないでください。それで、今日は、何の用なんですか。」
なんとなくだが、先輩の声に張りがない。少し疲れているようにも感じる。
「うん・・・。今日はね、大事な話をしなくちゃいけないんだ。春香の今後にもかかわる話だ。」
何だいきなり。大切な話って・・・。
「千早ちゃんのことですか?」
先輩は少しだけ閉口した。そしてしばらくの後、肯定した。
「・・・そうだ。」
なんだか嫌な予感がする・・・。どうして先輩はそんなに暗い声なの。
「いい話・・・じゃなさそうですね・・・。」
「ああ。悪い話だ。」
正直心の準備ができていない。どんな話が降ってわくのか。緊張感で胸がドクドクしているのが分かる。
先輩が恐る恐る尋ねる。
「春香・・・話してもいいかい?」
どちらにしろ、話から逃げることはできないのだ。正直、何が飛んでくるのか恐ろしくて、携帯電話を切ってしまいたい衝動に襲われるのだが、ここは覚悟を決めるしかなさそうだった。
「・・・わかりました。覚悟は・・・できています。」
先輩は静かに応じた。
「じゃあ、話すよ・・・。僕は・・・千早とは結婚できない。」
「えっ・・・。」
いきなり衝撃だった。そして一瞬、心の内で、私と結婚してくれるのではないかという甘い幻想が去来した。でもそれは一瞬で打ち砕かれた。
「親父が・・・僕に新しい許嫁を宛がったんだ。僕は、その新しい許嫁と結婚しなくちゃいけない。」
嘘でしょ!?
そんな・・・せっかく、楓を葬ったのに・・・。
「それじゃ、意味ないじゃないですか!」
「ああ・・・すまない。」
「どうして、そんなことに・・・。」
「僕が・・・権力闘争で親父に負けたんだ。千早から聞いているかもしれないけど、僕は、春香と千早、そして僕の3人で幸せに暮らすことを考えていたんだ。そしてその為に、楓を傷つけない方法で縁談を破談に持って行こうとした。その為に僕は、望月財閥の裏社会とのつながりを公開すると親父を脅していた。いくつも証拠を手に入れていたんだ。だけど、親父はその証拠を一つ一つつぶしてきた。そして逆に僕を脅迫してきたんだ。自分の言うことを聞かなければ、君と千早を殺すって脅してきた。僕は・・・その脅迫に屈したんだ。」
「裏社会?・・・私と千早ちゃんを殺す?いったい何を言っているの・・・?」
「春香・・・あまり詳しいことは言えないんだけど、望月財閥は、裏社会との関りがあるんだ。裏ビジネスから殺人まで請け負う『何でも屋』だ。僕たちは、その『何でも屋』を使うことで、表社会での不都合をもみ消している。春香・・・このままだと、春香自身、抹殺されかねなかったんだ。」
あまりのことに、言葉が追い付かなかった。でも、一つ思い出したことがあった。伊織がかつて言っていた。高貴な世界に潜む影、裏社会の闇。その闇が、もう私たちの目の前にまで迫っているということなのか・・・。
恐る恐る尋ねてみた。
「私たちは、どうなるんですか・・・。」
「大丈夫。二人の無事だけは、何とか約束させた。」
無事「だけ」・・・「何とか」って・・・。
「それ以外は・・・?」
「・・・何も勝ち取れなかった。千早のお腹の子供も下ろすことになった。」
「はあーっ!?どうして子供まで!?」
怒りの籠った声を上げる。それに対して先輩は平謝りするだけだ。
「・・・本当にすまない。親父は僕の血を受け継いだ子の存在を許さなかったんだ。たとえ、僕が認知しなかったとしても、千早が産んだ子が僕の血を受け継いでいることには間違いない。もしその子の存在を他の人間に知られてしまったら・・・その子は望月財閥の権力争いに利用されてしまう。親父はそのことを避けようとしているんだ。」
「あまりにも身勝手です!そんな理由で・・・人ひとりの命を殺めるなんて!」
「ああ、僕も許せないさ!僕たちの間にできた大切な命を、そんな風に扱うなんて・・・。でも春香と千早の二人が人質にされている。僕に選択肢は・・・なかったんだっ!」
気づけば私は一方的に先輩を責め立ててていた。先輩の決断は、私と千早ちゃんを守る為、仕方が無かったことだったのに・・・。
「・・・ごめんなさい。全ては、私と千早ちゃんを守る為なんですよね・・・。私のことを想っていてくれたのに・・・こんな言い草、あんまりですよね。」
「気にしないでくれ。悪いのは僕だ。完全に僕の負けだった。親父は、僕が春香と千早を失いたくないって完全に見抜いていた。守るべきものができてしまった。そんな僕に、勝ち目はなかったんだよ・・・。」
信じられない。何も考えられない・・・。頭がぼーっとしてしまう。
「春香、今日君に電話したのは、お別れの挨拶をするためなんだ。」
「お・・・お別れ?」
何を言い出すの・・・。どうして・・・いったい何なのこれ!?
「ああ。親父は、春香と千早を生かしておく条件として、春香と千早とは、もう二度と連絡を取り合わないことを挙げたんだ。」
「先輩は・・・それを呑んだんですか?」
「・・・ああ。それしかなかった。」
そんな・・・。
「でも・・・僕はあきらめたわけじゃない。僕は、いつか必ず、あの男を倒すよ。親父を倒して、必ず二人を助けに戻ってくる。それまでの間・・・我慢してほしいんだ。」
本当に・・・そんな日が来るんだろうか。先輩を大敗させた最強の父親を倒すなんて・・・。
「それで、彼女は・・・千早ちゃんはどうなるんですか?」
「千早は・・・館山に連れていくことになった。」
館山・・・どんどん大学から離れていっているじゃない。
「戻れないんですか!?大学に。」
「・・・・・。」
彼の閉口こそが、今の質問の答えだったのだ。
「千早ちゃんの夢は、どうするんですか!?彼女には、ジャーナリストになって、虐待を受けている子供たちの声を世間に届けるっていう立派な夢があるんですよ!?」
「・・・すまない。千早の夢・・・かなえてやれそうにない。」
私は言葉を失った。こんなこと信じられるわけがない。突然、目の前で今まで築きあげてきたのものが、音を立てて全て崩れていくのだ。
「春香、思えば僕は・・・キミを裏切ってばかりだな。情けないよ、自分が。こんな形で、君と別れなくちゃいけないなんて・・・。」
せめて、もう一度、私はあなたに会いたい。会って・・・キスをしたい。その大きな体で私を包んでほしい・・・。
「先輩・・・せめて会えないんですか。私は・・・先輩に・・・会いたいの。」
「ごめん・・・。できないんだ。そんなことをしたら、僕は・・・きっと君のことを手放せなくなってしまうような気がする。」
「離さないでほしい・・・。私を・・・一人にしないで!」
寒くもないのに、体が震えている。苦しい。熱い涙が目にたまる。鼻の頭も熱くなっている。
「春香・・・今まで散々嘘をついてきて、今更信じてくれなんておこがましいと思う。だけど、これだけは信じてほしいんだ。僕は、君のことを世界で一番愛している。今までも・・・これからもずっとだ。」
先輩のまっすぐな言葉、その言葉に、きっと嘘はない。私はそう感じる。たとえ誰かがそれは嘘に決まってるといっても、私はずっと信じ続ける。
「先輩・・・私も・・・愛しています。たとえ、あなたに会えなくても・・・あなたの声が聴けなくても・・・あなたはぁずっと私の心のぉ中にいるかぁら。だからぁ、寂しくなんてぇ・・・ないですよ。」
涙がほほを伝う。言葉が震えているのが分かる。強がっている。本当は、想像しただけで息が詰まるほど寂しいのだ。苦しいのだ。悲しいのだ。切ないのだ。
「必ず、必ず僕は君を迎えに行く。それまで、待っていてほしい。どれだけ先になるかは、正直分からない。だけど、僕は、必ず春香を迎えに行くから!」
「先輩!私待っています・・・。ずっと、ずっと・・・。」
両目から涙が滝のようにあふれ出ている。胸が締め付けられるように苦しい。
「春香・・・ありがとう・・・。もう、大学では赤の他人だ。僕が春香のことを見つけても、僕が君に話しかけることはない。春香も、そうしてほしい・・・。」
「・・・ええ、分りました。・・・」
私たちは、何も言えずただ黙っている。言いたいことは山ほどあるのに、どれも口をついて出てこない。声を殺して泣いている。鼻をすする音だけが、電話口に響いていたことだろう。
「春香・・・元気でね。」
「せ・・せんp・・先輩こそ・・・。」
私は、声にならない声で、別れの言葉を述べた。
「じゃあね・・・。」
その言葉から数秒の後、電話は不意に途切れた。電話切れのツーツーという音が、むなしく耳に響いていた。
しばらくして私は、携帯電話を見つめ、ある番号にダイヤルを合わせていた。その電話の相手が、応答する。
「春香?どうしたの、いきなり?」
「・・・伊織?・・・今、会える?」
「え・・・ええ。会えるけど・・・。」
伊織は、涙でかすれた私の声の異変に気付いたようであった。
「じゃあ、伊織の家に行っていい?」
「私の家?・・・良いわ。じゃあ、田園調布の駅まで来てくれる?」
「分かった。今から行くから、」
それだけ言うと、私は電話を切り、財布と携帯電話だけをカバンに詰め込み、着替えることもせず、その足で電車に乗り込んだ。
電車の中は空調が効いていた。外は夏晴れでカラカラとして晴れている。午後4時近くの電車は、殆ど人がいなく閑散としている。まるで、私の今の心の中を表しているかのように、あまりにも物寂しく、不思議と寒々しかった。
駅に到着して、私は改札口で伊織が現れるのを待っていた。私は、敢えて日陰の中に入らず、暑い暑い日向で直射日光を浴びていた。汗をかきたかった。体を痛めつけてしまいたい、そんな破壊的な欲求に襲われる。もしもこのまま伊織が現れなかったら、私はその場で、柱に頭をぶつけ始めていたかもしれない。
くやしさ、憎しみ、悲しみ、怒り・・・いろいろと混ぜ合わさって、なんだかおかしくなりそうだった。蝉の声がうるさい。それすら、私をいらだたせ、そして・・・涙を誘うのだ。
どれくらい待っていたのだろうか、頭の中で感情がぐるぐると回っているうちに、時がたつのを忘れていた。
やがて、黒塗りの車が私の目の前で止まったことに気づいた。扉が開かれ、彼女がゆっくりと車から降りた。
「春香・・・何があったの。」
伊織は恐る恐る近づいてくる。これまでとは違う尋常じゃない様子に、恐れおののいているという様子だった。
でも私は、そんな彼女の心配をよそに、ただうつむいて黙っている。伊織は、そんな私の目の前までやってくると、「さっ、行きましょう。」と手を取った。
私は伊織に導かれるまま、車に乗り込むと、伊織の指示で車を走らせ、家に向かうことになった。人形のように固まって、動かない私に、伊織はシートベルトを締めてくれた。
「うちに向かって。」
伊織が運転手に指示をする。ほどなくして車は動き出した。
「春香・・・。後で・・・聞くわ。」
伊織は、私の手をぎゅっと握る。その手は、私に「一人じゃないよ」と言っているように感じられた。私は、そんな伊織の無言の言葉が嬉しくて、声を殺して泣いていた。
車の中は空調が効いていた。だけど、伊織が握りしめた私の手の中は、とても熱くなっていた。汗をかき、手がべたべたする。それでも伊織は、決して手を放そうとしなかった。
5分位車を走らせ、ようやく家に着いた。初めて訪れる伊織のお家・・・そこは、まさに邸宅といって差し支えないほどに大きな家だ。大きな庭もあり、本当に日本の住宅なのかと疑わせるものだった。
伊織が車の扉を開け、伊織が車の外に下りた。私の手を握っているので、私も車から引きずり下ろされる形になっていた。
「ここが私のお家よ。大きいでしょ。」
「・・・うん。」
私はうつむいたままだった。
「じゃあ、入るわよ。」
伊織は、インターホンを押した。
「私よ、開けて。」
その声に呼応して、2メートルくらいあるのではないかという門扉がゆっくりと開いた。
「自動開閉式なのよ。これ。」
「・・・うん。」
伊織がゆっくりと歩きだす。手を繋がれた私は、その後ろをくっついていくだけだ。
広い庭の中を通り、玄関の扉を伊織が開け、玄関へと上がる。玄関だけで2畳くらいある。
「さ、靴脱いで。」
私は伊織に言われるがままに靴を脱ぎ、伊織のエスコートで、伊織自身の部屋へと向かうことになった。玄関から奥まったところにある階段を上り、階段を上った先にある奥の部屋へ。
伊織に手を繋がれ、歩いて行ったから、どこをどう行ったのか、まるで覚えていない。気づけば、伊織の部屋の中にいた。
「どう、私の部屋、かわいいでしょ?」
ゆっくりと顔を上げて、軽く部屋の内装を一瞥する。ピンク色で統一された部屋の内装は、いかにも女の子らしいかわいらしい部屋だった。
伊織は私の手を放すと、8畳の部屋の真ん中にある背の低いテーブルの横に、かわいいクッションを置いて、テーブルの上にあるリモコンで、エアコンをつけた。
「そこに座っててよ。今冷たいもの持ってくるから。」
そういうと、伊織は階下へ向かっていった。私はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ふと思い、伊織が用意したクッションの上に正座して座った。
空調の音だけがむなしく響く。いろいろなことが頭を過り、一周回って、もう何も考えたくなくなっていた。
しばらくぼーっとしていると、伊織自身が飲み物を運んできた。お盆に、冷たそうなアイスティーが乗っている。
「じゃーん、伊織ちゃんお手製のアイスティーよ。暑い日には、これに限るわ。さ、飲んで飲んで。」
伊織がわざとらしく私を励まし、グラス入りのアイスティーを目の前に置く。細長いグラスに、赤味かかったオレンジ色の紅茶が、氷に照らされほのかに光っている。
私がアイスティーに手を付けずにいると、伊織が声をかけてきた。
「飲まないの?せっかく、この伊織ちゃんが自分で入れてきてあげたのよ。」
伊織は、自分のグラスに注がれたアイスティーをストローを使って、チューチュー吸っている。
「うーん、おいしいわ!やっぱり、夏はアイスティーに限るわね。」
私はうつむいて何も答えない。
伊織は私の顔を覗き込んでいる。私はそれが嫌で、顔を背けた。
伊織はため息をついた。
「・・・泣きたいんでしょ。春香。」
涙が今にも零れ落ちそうなのを、見られていた。
伊織がゆっくりと立ち上がり、私の目の前までやってくる。そして伊織は、私の目の前で立膝を突き、ゆっくりと抱きしめるのだ。
「・・・泣きたいときに、泣けないことの方が、よっぽどつらいのよ。だから、泣けるときに、泣いちゃなさいよ。」
伊織が優しく甘い言葉をかける。
まるで魔法の言葉の様だった。
「ひっく・・・ひっく・・・。」
私は声を押し殺して涙を流していた。
「・・・何があったの・・・春香。」
耳元で囁く彼女の声は、不思議とセクシーだった。普段は可憐な少女のような風貌なのに、この時ばかりは、大人な雰囲気を感じていた。
私はそんな伊織の甘い囁きに心が揺さぶられていた。そしてついに私は、伊織に真相を話し始めた。
「さっき・・・望月先輩から電話がかかってきたの・・・。彼・・・千早ちゃんと結婚できないんだって。」
「えっ・・・。ど、ど、どうしてよ?」
伊織も動揺を隠せない。
「・・・父親に負けたからだって言ってた・・・。彼の父親は、先輩が・・・千早ちゃんと結婚することを・・・認めなかったの。それで・・・新しい許嫁がついた・・・。」
「そんな・・・」
「全て・・・無駄だった。何もかも・・・。千早ちゃんも、子供を下ろすことになったの。彼の命令で。」
伊織はただ茫然として、固まっていた。
「それでもう・・・先輩には会えないの・・・。学校で会っても、他人のふりをしなくちゃいけない。そんなのって・・・ひどすぎるよ。」
しばらく重苦しい間が支配していたが、やがて伊織が述べた。
「春香・・・もう、忘れましょう。」
その言葉に私は強く反駁した。
「忘れられるわけないじゃない!だって、彼は・・・私にとっての、生きる希望だったんだから・・・。」
「生きる希望は、一つだけじゃない。自分で諦めちゃいけないよ。」
「先輩と会えない人生なんて・・・そんな人生、生きてたって意味がない・・・。」
「春香、望月だけが人生じゃない。せっかくこうやって生きているのに、どうして諦めようとするの?あんたは、雪村さんと同じ道をたどるつもり?」
楓・・・。
「雪村さんは、恵まれた地位にいながら孤独だった。そして彼に依存して生きていた。その結果・・・彼女はどうなったのよ。」
「彼女のことは、関係ないじゃない・・・。」
「大ありよ!雪村さんは、先輩に依存して・・・そして、その身を滅ぼした。春香・・・もう先輩のことを忘れるしかないの!忘れて・・・ほかの未来を一緒に見ようよ。運命を変えようとなんてしちゃいけない。そう簡単に運命や宿命なんて変わりはしないの。だから・・・」
「伊織は何もわかってないのよ!」
私は声を荒げた。伊織の言っていることは正しい。正しいからこそ、余計に頭にくるのだ。
伊織は、私の肩を更にぎゅっと抱きしめる。
「私には・・・確かにわからない。春香たちにどんなことがあって、どんな風に生きて、今春香が何を考えているのか・・・。だけど、私にもわかることがある。」
伊織は言葉に詰まっていた。そして、しばらくの後に紡ぎ出した。
「このままだと・・・『太陽』は死んでしまう・・・。」
「『太陽』・・・。」
「望月は、あんたのことを太陽に例えたのよね。どんなものでも平等に照らし、生きる希望と活力を与えてくれる、まるで太陽のようだと。最初は、中二病でもこじらせたんじゃないかってバカにしてた。でも、彼の言いたいことが次第に分かってきたの。あんたは、底なしに明るくて、誰にでも優しい。そんな性格の持ち主。望月があんたを太陽だって言っていたのは、まさに正しかったのよ。私も・・・そんなアンタの魅力に惹かれていた人間の一人。」
「私が・・・明るい?」
「・・・そう。テニスサークルでの春香を見ていて、あんたのこと、すごくいいなって思ったの。あの男が春香に惚れたのも、そんな明るいところだと思うわ。だけど、今の春香はどうよ。千早を恨んで、憎々しい顔をするか、ずっとメソメソして、死んだような表情をして・・・こんなの春香じゃない。」
私じゃない・・・私って何なのだろう。よくわからない・・・。
「・・・伊織は知らないんだよ。私がどんな人生を送ってきたか、どんな苦しみを味わってきたか。」
「そして、どうやって千早と出会い、千早に助けられ、千早を助け、千早と一緒に生きてきたか、私は知らないのよ。」
千早ちゃん?どうしてここでその名前が出てくるのよ。
「ねえ、春香。私はよく知らないんだけど、多分あんたと千早は、友達、いや無二の親友だったんじゃないの。一緒に上京して同じ大学に通い、一緒に一つ屋根の下で暮らして・・・あんたたち二人は、家族だったんじゃないの!?」
「そんな関係じゃ・・・。」
「違うの?だったら、どうして、千早は自分のお腹に宿った命を殺そうとしてまで、あんたに彼を譲ろうとしたの?どうして雪村さんに本当に殺されようとしてまで、あんたに先輩を譲ろうとしたの!?」
「それは・・・そんなの、千早ちゃんの演技なのよ。千早ちゃんが、殺されようとしていたなんてありえない。千早ちゃんは、自分が襲われることを知っていたのよ。だから、正当防衛を装って彼女を殺した。結局、あの子は私に先輩を譲ろうとしたふりをしているだけ。心の底では、私のことなんか考えてないのよ!」
伊織が震えている。そして鼻をすする音が聞こえる。泣いているのだ。あの子が、普段涙なんか見せない伊織が・・・。
「・・・本当にそう思っているの・・・。」
私は冷たく吐き捨てる。
「そうよ。千早ちゃんは裏切者!」
「・・・目を覚ましてよ。アンタはそんな子じゃないでしょ。春香は、もっと明るくて、楽しくて、みんなを笑顔にしてあげるような人だったじゃない!みんなでゲームして、トランプをして、お菓子を頬張って、みんなの輪の中心にいるような子だったでしょ!?」
「そんなの演技よ!先輩を落とすための。」
「演技でもいいじゃない!そんな春香の明るさで、救われている人がいるんじゃないの?救える人がいるんじゃないの?春香はいつまで、死んだ魚のような顔をした生活を続けるつもりなの?永久にそんな生活を続ける気?人生はまだまだ長いのよ。あと60年、あんたはそうやってウジウジしているつもりなの?」
「そんなことは・・・」
「だったら、今すぐ変わりなさいよ!演技だっていい、自分を騙したっていいじゃない。第一歩を踏み出すの。先輩のことを忘れて、普通の大学生として生きて、就職して、結婚して、子供を産んで・・・普通の幸せを手に入れるのよ。それで、良いじゃない。」
そんな生活・・・幸せなのかな?
「春香がいて、千早がいて、私や美希がいて、みんなでワイワイと過ごす。それなりに背伸びしない恋愛もして、バカ話をして、就活して、お酒を飲んで、みんなでカラオケに行ったりボーリングに行ったり、ショッピングをしたり、パフェを食べたりお茶を飲んだり・・・変り映えしないけど、そんな平凡な幸せだっていいじゃない。無理をして恋愛して、親友を傷つけ、傷つけられ、悲しみ、憎しみ、落ち込んで、死にたくなって・・・。そんなこと・・・、誰も得しない。だから・・・もうやめにしましょう。」
そんな生活・・・幸せだろうな・・・。勉強したり遊んだり、バイトをしたり、お酒を飲んだり、普通の大学生ってそういう生活を送っているのだろう。そんな普通の大学生活・・・確か私はそんなものに憧れていたのかもしれない、そう思っていたのは、確かずっと昔のことだった。
「・・・幸せって何だろう?」
「それは、あんたが決めることよ。でも私が言えるのは・・・、先輩のことを思い悩んで生きていくのは、絶対に幸せになれないってこと・・・。」
そうなのかな・・・そうなんだろうな。きっと、伊織は正しい。伊織は、実に私のことをよく見ているような気がする。
「・・・私の大学生活って、人生って何なのかな?」
「・・・後悔してる?」
「・・・分からない。全てが無駄になって、何もかも失って・・・今の私に何が残っているのかな?」
伊織は、膝が痛くなったのか、そのまま正座して私と同じ目線に合わせた。そのとき私は伊織の顔をようやく見れた。その顔は、今にも決壊しそうなダムのように、涙袋に潤いを溜めているのだ。
「バカ・・・。私たちがいるでしょ?千早だって・・・。」
「千早ちゃんは・・・。」
「彼女だって負けたのよ。春香と同じ敗者、もう恨む必要なんてないじゃない。千早だって、もうあの人と結ばれることはできない。」
そうか・・・千早ちゃんも負けたのか・・・。ショックのあまり、そんな単純な事実さえ忘れてしまっていた。
「もういがみ合うのは止めにしましょう。前を向いて・・・歩いていこうよ。私が・・・ついているんだから・・・、ね。」
伊織はこれまでにないくらいに、飛び切りの笑顔を見せるのである。涙袋にたまった涙が、表情の変化で流れ落ちる。その顔は、その表情は、私が見てきた伊織の顔の中で最もかわいいものだった。
「伊織!!」
私は、伊織に思い切り抱き着き、声を上げてワンワンと泣いていた。伊織は私の髪を優しくなでる。
「一回、全部吐き出しちゃったほうがいいのよ。そうすれば・・・楽になるから。」
私は、伊織に思いのすべてをぶつけていた。
「私・・・!先輩のぉことがわすれられなぁくって、朝もぉ昼も夜もぉずっとそのことぉばっかり考えぇていてぇ!・・・何をしても、全く手がつかなぁくて、何をしても上ぁの空で、楽しくなくぁって、辛くってぇ・・・悲しくってぇ、彼に愛されてる千早ちゃんがうらやましくってぇ・・・そんな彼女のことが憎らしくって・・・。」
「うんうん・・・。」
伊織はそんな私の想いを黙って受け止めてくれた。
「生きるのがぁ辛くぅなっててぇ!もぉう嫌だったぁぁ!生きるのがぁー!。ずっと思いぃ悩ぁむくらいなら、死んでぇしまいたかったぁ!でも、やっぱり死ねなくて・・・。死ぬのが怖くって・・・。」
「うんうん・・・。」
「私・・・私・・・ヒック・・・ううぅ・・・」
私はきっと10分位、彼女に抱き着ていたのかもしれない。気づけば、彼女のうなじ辺りは、私の涙とよだれでべとべとになってしまっていた。
「ごめんね・・・伊織・・・。」
「いいのよ、こんなの洗濯すればいいんだから。ちょっと着替えてきていいかしら?」
「うん。待ってる。」
「そうだ!今日は家でご飯食べていきなさいよ。シェフに腕によりをかけた料理を作らせるわ。」
「うん・・・ありがとう。伊織。」
「いいっていいって、客人を招いておきながら、ロクな扱いするわけにはいかないんだから。」
そういうと、伊織は廊下に出てしまった。私は、伊織が持ってきてくれたアイスティーに手を付けることにした。運ばれてから時間がたってしまったせいか、アイスティーは、氷が解けて、グラスも結露してしまっていた。
少し味が薄まったような気はするが、それでもおいしい。清涼感が体に流れていく。
なんだか、すっきりした。今まで泣きたくても、泣ける相手がいなかった。だから、どんどん心に重りが募って、心を押しつぶしてしまいそうだったのだ。全ては伊織のおかげだった。
しばらくして、伊織が戻ってきた。伊織は、ピンク色のノースリーブを着ていた。
「お待たせ!シェフに命じて、今日はステーキを作らせることにしたの。春香、お肉大丈夫でしょ?」
「うん!」
そういうと自然と笑みがこぼれた。
「良い笑顔ね。」
伊織もつられて笑顔になった。
「料理ができるまで、少し時間がかかるから、もう少しお話ししましょう。」
そういって、伊織は自分用にベッドからクッションを取り出し、テーブルのところに座った。私と伊織はちょうど、正方形のテーブルの下と左側に座っていた。
「伊織・・・千早ちゃんなんだけど。」
私は彼女の命運について相談しようと思った。多分、さっきまでのもやもやした気持ちのままだったら、千早ちゃんのことを恨んで、相談することなんてできなかったと思う。
「彼女がどうかしたの?」
「・・・館山に移ることになったの。」
「はあ?なんで?結婚がなくなって解放されたんじゃないの?」
「いや・・・ほとぼりが冷めるまでは、まだダメらしい。」
「・・・そうなの。それにしても、館山なんて・・・今度は東京を離れちゃうのね。」
「うん・・・。」
そこで伊織はこんな提案をしてきた。
「これを機に、彼女と和解したら?電話してさ、『仲よくしよう』って言いなよ。」
「そんな・・・いきなり電話なんて・・・。」
「だって、もう気軽に会えないじゃない。だから、電話するしかないのよ。携帯貸しなさいよ。こっちから電話してあげるから。」
伊織が手を伸ばしてくる。私はとっさに嫌だというリアクションを示した。
「いいよ、今日は。」
「じゃあ、私が電話をするわ。」
「いいって、そんな。」
「これは私が話したいだけなの。春香は別に話さなくていいんだから。」
そういって彼女は、ベッドに置いてあった携帯電話を取り出すと、千早に電話をかけた。
「あれ?おかしいわね、携帯の電源が入っていないみたい。」
「電源を切ってるの?」
「なんか、そうみたいよ。」
千早ちゃんが携帯電話の電源を切るなんて、珍しいことだった。どんなに忙しい時でも、とりあえず留守番電話にして、メッセージを残せるようにしておいてくれるはずなのに・・・。ただの偶然だろうか。
それから私たちは。部屋でいろいろなお話をした。久しぶりに、心の底から笑いあえたような気がした。伊織の専属シェフが作ってくれた料理も格別な味だった。こんなにおいしい料理を毎日自分で作らなくてもありつけるなんて、それだけで私はうらやましかった。
午後9時頃になって、私は伊織の家を出ることにした。伊織が田園調布の駅まで私を送ってくれるらしい。行きの時と同じ。運転手付きの車だ。だけど、今の私は、先ほどまでの自分とは違う。
「今日はありがとう。伊織のおかげで、私・・・少し楽になったよ。」
車に乗り込んで。シートベルトを自ら占めているときに、私は伊織に話しかけていた。
「そう、それはよかったわ。あんたが辛気臭かったら、こっちまで気が滅入っちゃうんだから。」
「ごめんね・・・。」
「もういいって。これからが大事なんだから。」
これから・・・か。
「ねえ。やっぱり私・・・千早ちゃんのこと、まだ許せないよ。それに・・・千早ちゃんが自ら死のうとしていたことだって・・・私にわかには信じられない。」
「春香・・・。」
伊織が悲しそうに眉をひそめた。
「たとえ、今は千早ちゃんが敗者になったとしても、私のことを裏切った事実には変わらない。非道な手段を使って、彼を奪おうとしたこと、やっぱり私は許せない。それに・・・先輩が約束してくれたの。今は無理でも、いつか必ず私を迎えに来てくれるって。」
伊織は顔を曇らせる。私はそんな彼女を安心させるように笑顔を作った。
「大丈夫よ。伊織の言葉で吹っ切れたから。気長に待つことにしたの。先輩と結ばれるだけが人生じゃない。だから私は、先輩が約束を果たしてくれるまでの間、別のことをして楽しむことにしたの。」
「別のこと?」
「うん・・・例えば、こうやって伊織と遊んだりね。」
それを聞いて、伊織も笑顔になる。
「少しずつ・・・前へ進んでいけばいい。無理しなくていいのよ。ちょっとずつちょっとずつ心の傷を癒して、辛い過去を『過去』のものにしていく。」
「うん・・・。私、逃げないからね。過去からも、自分からも。」
伊織がそれに付け加える。
「千早からも、逃げないであげてね。」
「・・・うん。」
「今度・・・電話してみなさい。決心できたらでいいから。二人でゆっくり話せばいいのよ。心を落ち着かせて。そうすれば、きっと誤解は解けるはずだから。」
本当にそんなことできるのだろうか。でも伊織の言う通りかもしれない。私は、ずっと千早ちゃんを避けてきた。だから思いが募りに募ってしまうのだ。冷静に二人だけで話せたら、もしかしたら、何か別のことが見えてくるのかもしれない。
「分かった。」
「必ずよ。」
「分かってるって。」
しばらくして、伊織がこんなことを言い出した。
「美希がこんなことを言ってた。『ミキはずっと千早さんの味方なの~』って。あの子、よっぽど千早のことが好きなのね。今度あったら、こういってやろうかしら。『私はずっと春香の味方なんだからね!』って。」
私は思わず吹き出してしまった。伊織が顔を赤くしている。
「何がおかしいのよ!?」
「だって・・・なんか伊織可愛いんだもん。」
「か・・・かわいいのは当然でしょ。この伊織ちゃんなんだからね!」
「はいはい、分ってますって。」
「なんだか、投げやりな返事ね。絶対、思ってないでしょ。」
「そんなことないってー。」
私は茶化して返事をした。伊織は腕を組んでぶぜんとしている。
正直私はとてもうれしかった。伊織はよっぽど私のことが好きなんだ。私のことを、好きでいてくれるんだ。
私・・・伊織の為に何かしてあげられるのかな。お金持ちで、可愛くて、将来安泰な彼女に、私・・・何をしてあげられるのかな。
私が思いついた答えは・・・、ただ一緒にそばにいてあげることだった。