※この作品はR-18です。

『監獄の掟』   作:ミスターN

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第19章歯車 第4節新しい許嫁

第4節 新しい許嫁

 

 あの日以来、私たちの間柄には大きな変化があった。

今まで私は、伊織と美希の二人から心配される立場だった。だけど、私が少しずつ元気と笑顔を取り戻し、次第に3人は「普通の友達」でいられるようになった。

 夏休みの間、3人で集まっては、カラオケに行き、ボウリングに行き、ゲーセンに行き、ファミレスでだべって、カフェでお茶を楽しむ。そんな普通の女友達の間柄になっていった。

 しかし、そんな楽しい日々も長くは続かなかった。

 9月に入ってから、伊織の様子がおかしくなり始めたのだ。遊びに誘っても、伊織は「忙しいから」「疲れているから」などと理由をつけて、来なくなってしまった。今までだったら、たとえ用事があって遊べないときでも、ほかの日にちを提案してくれたりしていたのに、まるで私たちを避けるかのように、遊びに来てくれなくなった。

 9月中旬、中帝大学の秋学期が幕を開けた。

 秋学期が始まってすぐのある日、私は、「刑法2」の講義を受けるため、8号館の大教室の中にいた。夏休み中に聞いた話では、前期に「刑法1」の授業を一緒に受けていた伊織も美希も、秋学期のこの「刑法2」を引き続き履修するようだった。

 だから、3人はこの授業で再び一緒になれるはずあった。

 私は授業が始まる10分くらい前には座席に到着していた。やがて、あの金髪の子がやってきた気配を感じた。

「やっほー、春香。」

 美希が私の隣の席に座り、荷物を隣の席に置いた。多分、伊織の分の席を確保したのだろう。

「おはよう、美希。」

「秋学期が始まってからは、初めてだね、会うの。」

「そうだね。」

「さっそくだけど、テキスト見せてね。」

「まだ買ってなかったの?」

「だって、テキスト重すぎて、ミキのバッグに入らないんだもん。」

 確かに刑法のテキストは分厚い。ハードカバーで紙の辞書くらいの厚さがあるのだ。

美希はそれを持ち運ぶのが億劫で、テキストを買っていなかったのだ。それで、テスト前には、私や伊織にたかっていたという次第だった。

「いい加減買おうよ。もう貸してあげないよ。」

「えー、春香のケチ。」

「たかるんだったら、伊織からたかったら?」

「うーん、分かったの。」

 だが、肝心の伊織が教室に姿を見せていなかった。

「デコちゃん遅いね、もうすぐ授業始まっちゃうよ。」

 その時だ。後ろの大きな黒扉から、伊織が姿を現した。

「来たの!」

 美希は伊織に自分を見つけてもらうため、軽く手を振った。

 どうやら、伊織はそれに気づいたらしかった。

 だけど、どうしたことか、伊織は私たちのところまでは下りて来ず、私たちより遙かに後ろの席の方に腰を下ろしたのである。

「どうしたんだろう?」

 美希は疑問の色を隠しきれなかった。正直、私もそうだった。

「声をかけて呼んでみようか。」

 美希はそう提案した。

「今日は止めておこう。もうすぐ先生きちゃうし。授業が終わったら、声をかけてみようよ。」

 ところが、そのとりつく島もなかったのである。伊織は授業が終わると、私たちに接触されるのを恐れてか、さっさと荷物をまとめて教室を出て行ってしまったのである。どう考えても、私たちを避けているようにしか見えなかった。

「どうして私たちを避けるのかな。」

 別の大教室へ一緒に向かう途中、美希は私に問いかけた。

「・・・分からない。なんだかいきなりだよね。」

 本当にわからなかった。8月末までは、いたって普通に遊んでいたというのに、9月になってから途端に様子がおかしくなったのだ。あまりにも不可解という以外に表現しようがない。

「明日、強引にでも捕まえて話を聞いてみるの。」

 美希の提案には、正直乗り気ではなかったのだが、理由が分からなければどうしようもない。

「そうね。無理強いして聞き出すのは、気乗りしないけど・・・。何か伊織に悪いことしちゃったなら、謝って仲直りしたいし。」

 私から伊織にメールをすることになった。私からの方が、なんとなく角が立たないと思われたのだ。

「明日一緒にお昼食べない?」

 そんな何でもないメールだ。

なのに、伊織はついに返事をしなかった。翌日は、伊織と一緒になる授業はない。春学期の間は、2限が終わると、私たちは昼食棟の正面玄関付近で合流して、一緒に食事へと向かう。たいていは、学部塔が異なる伊織が来るのを、私たちが待っているというのがいつものパターンだ。

 だから私たちは待っていたのだ。伊織が現れてくれるかもしれない。そんな淡い可能性に賭けたのだ。だけど、伊織はそれを見透かしたかのように、私たちの前には現れなかった。

 結局、私たちは翌週の刑法の授業までの間、伊織に出会うことはできなかった。

 翌週の刑法の授業で、私たちは確実に伊織と接触するため、伊織が大教室に入って席に着いたのを確認してから、中に入って、伊織の隣を確保する作戦に出た。

 伊織は先週同様、教室の後列の真ん中の方の座席に座った。それを確認した私たちは、隠れていた廊下の柱から身を乗り出し、大教室に入ると伊織に気づかれないように、ゆっくりと後ろから近づいていった。そして伊織が座っている座席の列を挟み撃ちにするように、両側から私と美希が近づいていった。

 さすがに伊織もこれに気づいたようで、席を離れようとしたが、既に伊織には逃げ道はなく、彼女も諦めたようだった。

「やっとデコちゃんを捕まえたの。」

 伊織の右隣りに座った美希が、そうつぶやいた。

「私も失礼するね。」

 私は伊織の左側に座った。

「・・・・・。」

 伊織は黙してしゃべろうとしない。ずっと何も言わないつもりなのだろうか。

 私が切り出した。

「伊織・・・最近伊織は私たちのこと避けてるよね。」

「・・・・・。」

 伊織は私たちの言葉が聞こえないふりをしている。別に中身を読んでいるわけでもないのに、重たいテキストをめくって、にらめっこをしているふりをしている。

「デコちゃん、どうしてなの?ミキ達のこと嫌いになっちゃったの?」

 しかしそれにも無視を貫く。

「理由を教えてほしいの。」

 美希が畳みかけるのだが、伊織は答えようとしない。私も彼女に続く。

「もし私たちが、伊織に嫌なことをしてしまったなら謝る。どうして、急に会ってくれなくなっちゃったのか、訳を教えてほしい。直せることなら、直すから。」

 それでも伊織は答えようとしない。

「お願い、デコちゃん!ミキ、デコちゃんと喧嘩したくないの。」

「・・・放っておいてよ。」

「えっ」

「お願いだから・・・放っておいてほしいの。」

 伊織は私たちの方を直視せず、教壇の方を見つめて、言い放つのだ。私たちは言葉を失った。美希はあからさまに悲しい顔をしている。私も正直、すごくショックだった。なんだか、このまま嫌がってる伊織と一緒にいるのは、辛いように思われた。

「美希・・・別のところ行こうか。」

 美希はショックなのか、しばらく放心状態のようだった。私は自分で荷物をまとめ、席を立つと、いつもの前列付近のところに腰を下ろした。しばらく、美希は伊織と一緒のところにいたが、私が彼女にアイサインを送り、ようやく彼女もすごすごと撤退してきた。

 その直後に、教授がやってきて授業が始まった。しかし、授業中も美希は、どこか上の空だった。当然だろう。私だって、何が何だかわからずに混乱しているのだ。

 授業中、何回か伊織の方を振り返ってみた。伊織は、まっすぐ教壇を見つめ、授業に集中している。どこも鬱屈とした様子は感じられない。むしろ凛々しく授業を受けているようだった。

 そして案の定、授業が終わると私たちから逃げるようにして教室を去っていったのだ。

 なぜ、伊織が私たちを避けるのか、その理由が分かるのは、10月に入ってからだった。

 10月初旬のある晴れた日の朝、まだほとんど人気のない大教室の中で、私はPSPを取り出し、イヤホンをつけながらゲームに興じていた。すると、同じ授業でもないのに、美希が血相を変えてうちの教室に飛び込んできたのだ。美希はトントンと私の肩をたたいた。私は振り返り、イヤホンをはずす。

「春香、大変なことが分かったの!」

「おはよう、美希。どうしたの、そんなに慌てて。」

「どうしたのじゃないの。春香、ニュース見ていないの?ビッグニュースだよ!」

 美希は大層焦ったような表情で、強引に私の隣に腰を下ろした。

「いったい何があったの?」

 美希は呼吸を整えて、少し落ち着くと、ゆっくりと話し始めた。

「実はね、今日朝のニュースを見て知ったんだけど・・・望月製薬と水瀬薬品が業務提携を発表したの。」

 業務提携?

「二つの企業が協力するって話だよね。」

「そうなの。ミキ、その時思ったんだけど・・・俊が言ってた新しい許嫁って、もしかしたらデコちゃんのことなんじゃないの?」

 伊織に許嫁がいることを美希は知っている。だから、その事実に気づくことができたのだろう。

「えっ!?うそでしょ、そんな・・・。」

 体が凍り付く。そんな偶然、あるはずがない。どうしてそんなことになるのか。

「でも、それしか考えられないんじゃないの。いきなりデコちゃんがミキたちにこんな態度をとるなんて。もし春香が、自分と俊が結婚するって知ったら・・・。」

 私は多分、伊織のことを恨んでしまうかもしれない。

「だから・・・伊織は私のことを避けたっていうわけ・・・。」

「・・・多分そうだと思う。」

 いや、冷静に考えれば、それはおかしいのだ。去年の合宿の時に私は伊織に許嫁がいるのかどうか尋ねた。その時伊織は「いる」と答えている。当然、その時は楓も生きていて、先輩の許嫁だった。だとすれば、伊織は元の許嫁との結婚を捨てて、先輩と新たに許嫁になったことになる。本当にあり得るのか・・・。

「伊織には、去年のテニスサークルの合宿の時点では許嫁がいたの。もし美希の言っていることが正しいなら、伊織は今の許嫁と別れて、新たな許嫁が与えられたことになる。許嫁って財閥同士の契約みたいなものでしょ。そんなに簡単に、変えられるものなのかしら。」

「真実が何なのかは・・・本人に聞いて確かめるしかないと思うの。」

 重苦しい沈黙が二人を襲う。しばらくして、一呼吸置いた美希が私に尋ねてきた。

「ねえ春香、もしデコちゃんが、俊の新しい許嫁になってたとして・・・春香は、それでもデコちゃんのこと、友達だと思える?」

 私は美希の顔を見返す。その顔は、ひどく心配したような表情だ。主に伊織を。

「・・・分からないよ。」

 分からない。頭の中で整理がつかない。伊織を恨んだってしょうがない、それは感覚的に理解できる。伊織は、先輩のことが特段好きというわけではなかった。だけど、親の都合で、二人は結婚しなければならない。だから彼女は、私を傷つけないために、疎遠な態度を取ったのだ。

 美希はしばらく無言のあとに、こう応じた。

「デコちゃんのこと・・・恨まないで上げてほしいの。別に・・・デコちゃんは春香のことを騙そうとしたわけではないと思うの。むしろ・・・傷つけないように、ひっそりと私たちの前から姿を消そうと努力してるの。」

「わかってる。そんなことをしたって・・・何の解決にもならないことくらい、私だって分かってるから。」

 理解はしているのだ。だけど・・・気持ちが、多分追いついていない。

「・・・はっきりさせたほうがいいんじゃないかな。デコちゃんのこと・・・。本人に聞くしかないと思うから。」

 業務提携の話は、全国区のニュースになっている。今更隠し立てすることなんてできない。先輩に新たな許嫁ができたということを知っているのだから、その相手が伊織であると推理するのは、美希の超人的な推理能力に頼らなくても、分かる話なのだ。だから、伊織も私たちの話に応じるはずだ。何があったのか、それを話すために。

 二日後、そのチャンスは訪れた。この日は、例の刑法の授業がある日だった。伊織は、もうすでに私とミキの電話を着信拒否にしている。メールも多分、拒絶されているだろう。だとすれば、直接会って事の真相を聞くしかない。

 私たちはかつてのごとく、伊織が教室にやってくるのを、近くの柱の陰に隠れて待っていた。伊織が席に着いたら、一緒に教室の中に入り、挟み撃ちにする算段だった。

 ところが、この日伊織は刑法の授業に姿を見せなかった。もしかしたら、事情を聴かれるのが分かっていたから、敢えて姿を見せなかったのかもしれない。

 いよいよ困ったことになった。もし、伊織がもう二度とこの刑法の授業に姿を現さなかったら、私たちはもう伊織に接触する機会がなくなってしまうことになる。伊織が、秋学期にどんな授業を受けるのか、法学部の私たちには全く分からない。秋学期には、この授業以外に伊織と同じ授業はない。そして、学部塔が違う私たちは、普段キャンパスでもその姿を見かける可能性は極めて低い。

 困り果てた私たちがたどり着いた最後の手段が、伊織の家を直接訪れるということだった。前回は車で送り迎えしてもらったとはいえ、大体どの辺に伊織の家があるのかは分かっていた。後は、住宅地図を調べて、そこに行くだけだった。

 思い立ったらすぐ行動。

 その日の夜、私たちは田園調布にある伊織の家の目の前まで来ていた。

「デコちゃんって本当にお金持ちなんだねー。ミキとは大違いだよ。」

 美希が水瀬家の外観に圧倒されている。前回、私がここを訪れた時には、殆ど呆然としていたから、あまり感じるところはなかったが、改めて見てみると、水瀬家の巨大さには舌を巻く。敷地は軽く100坪を超えているだろう。

 私が巨大門に備え付けられたインターホンを鳴らす。

「はい、どちら様でしょうか。」

 すぐに初老の男性らしき男の声が、インターホン越しに聞こえてくる。

「夜分遅くにすいません、水瀬伊織さんの学友の天海春香です。伊織さんは、今いらっしゃいますか。どうしても、話したいことがあるんです。」

「わかりました。少々お待ちくださいませ。」

 声の主は、そういってしばらくインターホンを切った。伊織に聞きに行ったのだろう。3分後、答えが返ってきた。

「天海様・・・たいへん申し上げにくいのですが、お嬢様は、今天海様とはお会いしたくないと申しております。申し訳ありませんが・・・今日のところはお引き取り願えませんか。」

 やっぱり、会ってはくれそうにない。だけど、引き下がるわけにはいかない。こんな形でうやむやにしちゃいけないのだ。少なくとも私は、こんな形で有耶無耶にして関係を終わらせてしまいたくはない。私は別に伊織を恨んでいるわけではないのに・・・。

せっかく、友達になれたのに・・・。こんなことで、もう会えなくなってしまうなんて。それに伊織は約束してくれたじゃない。私の味方でいるって!

「一言だけでいいんです。インターホン越しでもいいんです。伊織と、彼女とお話しさせてもらえませんか!」

「ミキからもお願いしますなの!」

 横でミキも声を上げた。

「ミキ・・・?ああ、星井美希様も一緒にいらしているのですね。・・・分かりました。もう一度、お嬢様を説得してみましょう。それでもしダメなら、今日のところは、お引き取り願えませんか。」

 私は一瞬迷ったが、これ以上この人と伊織に迷惑をかけるわけにはいかない。

「わかりました。それで大丈夫です。」

「かしこまりました。少々お待ちください.」

 声の主は、またしてもインターホンを切った。

 それから10分位経った頃だ。インターホンのスイッチが入ると、聞き覚えのあるあの声が聞こえてきた。

「・・・何しに来たの。」

「伊織!」

 私は喜びのあまり大声を出していた。

「・・・話があるんでしょ。さっさと話しなさいよ。」

 伊織は酷く不機嫌そうだった。初老の男性が頑張ったのだろう。ようやく、伊織をインターホン前に誘い出すことが叶ったようだ。

 さっそく、本題を切り出すことにした。

「伊織・・・私たち分かったよ。伊織がどうして私たちのことを避けていたのか・・・。望月俊と結婚するんでしょ。」

 インターホンの前の声は、何も語らない。

「違うの?」

 インターホンの声は、しばらく無言を貫いたうえで、こう尋ねた。

「もういいの?私、もう切るわよ。」

「質問に答えてよ。そうなんでしょ?」

「・・・だから何なの。」

 伊織はとても憮然としている。伊織は、わざと私を怒らせようとしているような気がするのだ。

「私は、別に伊織が先輩と結婚することになったからって、伊織のことを恨んでいるわけじゃないの。」

「だから?」

「だから!今まで通りでいてほしいの。今まで通り、仲良く会話して、一緒に遊んだりしてほしい。」

「・・・遊び相手なら、美希がいるじゃない。それで十分でしょ?」

「ミキもデコちゃんともっと遊びたいの!」

 隣で黙っていたミキもしゃべりだした。

「ミキ、デコちゃんと一緒じゃなきゃ嫌なの。デコちゃんのおでこをなでなでしたり、デコちゃんの教科書を借りたり、デコちゃんにおごってもらったりしたいの。」

 なんかそれ逆効果じゃないのか?

「私にたかってるだけじゃない。」

 思わず伊織も突っ込んでいた。私は思わず吹き出してしまった。少し場が和んでしまう。きっとこれは美希の作戦なんだろう。

「やっぱり、デコちゃんはツッコミの才能があると思うの。ミキと一緒にお笑いコンビを組まない?『デコ&美少女』で。」

「・・・あんたとコンビなんて組んだら、とてもじゃないけど生きていけないわ。」

「じゃあ、春香と組めば。」

「春香は、面白くないのよ。」

 なんで私がとばっちりを受けているのよ。

「私関係ないでしょ。」

 話がずれていることに伊織も気づいたようで、ここで話を打ち切ろうとしてきた。

「じゃあ、もういいでしょ。私、もう疲れているからこれでやめるね。」

 とっさに、私はインターホンに食らいつく。

「待って!伊織!もっと詳しい話を聞かせてほしい!この1か月でいったい何があったのか。私はそれを聞きたいの!」

「あんたに話す義務なんてないでしょ。」

 伊織はつれない。だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。

「伊織約束してくれたよね!伊織は私の味方でいるって!どうして、約束を破るの?伊織まで私の前からいなくなっちゃうの!?」

「・・・・・。」

 悲痛な私の叫びだった。

「私のことを大切にしてくれるといった人は、みんな私の前からいなくなってしまうの。小学校の頃からそうだった。私が大好きだった図書館の人も、千早ちゃんも、先輩も・・・。伊織まで私の前からいなくなっちゃうつもり?そんなの・・・、私辛すぎるよ・・・。」

「春香・・・ごめん・・・。」

 心がキュンと痛い。涙が込みあがってくるのを感じる。

「謝らなくていい。だから、話を聞かせてよ、伊織。」

「・・・私は、春香との約束も守ってあげられない・・・裏切者なんだよ。どうして、そんな人間の話なんて聞きたいの?」

「私、伊織が裏切ったなんて少しも思ってないよ。伊織は、ずっと私の為を思ってくれてるんでしょ。私のこと考えてくれるから、敢えて私の元から去ったんでしょ。違う?」

「だったら・・・。私の気持ちも汲んでよ。」

「伊織の気持ちは分かってる。だからこそ私たちは会いに来たの。伊織のこころづかいは要らないんだよ。むしろ、それが私たちを傷つけているの。だから、もうそんな気遣いは止めてほしい・・・。ね・・・。」

 しばらく伊織は黙っていた。そしてしばらくして、門扉が開く音がした。

「ちょっと、新堂何やってるのよ!」

 インターホンの遠くの方で声が聞こえる。さっきの初老の男性の声だった。

「お嬢様、素直になさってください。お嬢様だけが思い悩む必要はないのです。せっかく、助け船が出されているというのに、乗らないというのは、失礼に値しますよ。せっかくですから、客人のお夕食もシェフに作らせましょう。」

 そういうと、その声はなくなっていった。

「じゃあ、入るね。伊織。」

「・・・勝手にしなさい。」

 怒ったようにして回線が途切れた。私と美希は、開かれた門扉をくぐり、玄関の前までやってきた。中のインターホンを押すと、しばらくして、さっきの新堂さんが姿を現した。

「ようこそいらっしゃいました。お嬢様の部屋までご案内いたします。」

 新堂さんは、見るからに紳士といういで立ちだった。黒いベストに蝶ネクタイ、白髪に銀縁メガネ、それに立派な口ひげを蓄えている。まさに典型的な、いかにもという形の紳士だった。

「ありがとうございます。」

「ありがとうなの。」

 紳士の圧倒的な高貴さに気圧されながらも、私たちは靴を脱ぎ、用意されたふかふかのスリッパに履き替えると、そのまま新堂さんに連れられて2階へと昇った。

 階を上がってしばらく行ったところで、新堂さんが歩を止めた。

「こちらがお嬢様のお部屋でございます。今日は、天海様と星井様の為に、当家自慢のシェフが腕によりをかけて料理をおつくりしております。料理ができるまで、しばし時間がかかりますので、お嬢様と歓談されながら、お待ちください。お茶をご用意いたしましょう。」

 そういうと、新堂さんは廊下をスタスタと歩いていった。私は美希と顔を見合わせ、意気決して、部屋のドアをノックした。

「入って。」

 その声に応じて私たちは部屋の中に入った。

 部屋には、四角いテーブルの一辺のところの床に敷いたクッションに座っている伊織の姿があった。

「そこに座って。」

 言われるがまま、部屋の扉を閉め、美希が伊織の隣に、私が伊織に向かい合うようにして座った。

 席についたはいいが、何を話したらいいのか。気まずい沈黙が流れている。見かねてミキが話しかける。

「デコちゃんの部屋って、なんだかまがまがしいの。」

「まがまがしいって・・・どういう意味よ。」

 少しむすっとしている。美希は、この薄い真っピンクの部屋に良い印象を抱かなかったようだ。

「なんだか、ピンクピンクしてて、結構目が痛くなりそう。」

「そう?いいじゃない。かわいい感じがするでしょ。」

 私もフォローした。

「私は、嫌いじゃないよ。前に訪れた時も嫌じゃなかったし。」

「ねー、さすが春香ね。美希とは大違いよ。」

「うへー。美希は目を瞑っておくね。」

 そういうと、目を閉じてしまった。なんだかこのままだと眠ってしまいそうだ。

「いい執事さんだね。新堂さんって。」

「確か前にも話したことがあったと思うけど・・・水瀬家に長く仕えている執事なの。私が生まれる前から水瀬の家に貢献してくれてる。私の両親よりも一緒に過ごしている時間は長いのよ。」

 確かそんな話を聞いたことがあった。

「誰よりも伊織のことを知っているんだね。」

 だから、あのタイミングで門扉を開けてくれたのだ。それが何よりの証拠だ。

「多分そうね。あら、この子もう寝ちゃってる。」

 隣を見ると、美希がすでにすやすやと寝息を立てている。

「しょうがない子ね。ベッドに運ぶわよ。」

 伊織が立ち上がるのと同時に、私も立ち上がり、二人がかりで美希をベッドまで運んだ。

「でもこれで、話しやすくなったね。」

 伊織もゆっくりとうなずいた。

 その時廊下をこつこつと歩く音が聞こえた。その足音は、部屋の前で止まると、ノックをした。

「お嬢様、お茶をお持ちいたしました。」

 新堂さんの声だ。

「入ってきて。」

「失礼いたします。」

 新堂さんが扉をゆっくりと開け、ウーロン茶の入ったグラスを3つ、テーブルの上に置いた。

「それでは、ごゆるりとご歓談くださいませ。料理が出来上がりましたら、またお呼びいたします。」

 ダンディーな声が脳裏に響く。新堂さんはまたゆっくりと部屋を縦断すると、扉の前で一礼して、去っていった。

「本当にいい人だね、新堂さんって。」

「まあね。うちの自慢の執事だし。」

 伊織もどことなく鼻が高い。伊織はグラスのウーロン茶に口をつけた。私もちょうどのどが渇いていたのだ。ごくりとお茶を少し飲んだ。

「そろそろ本題に入ろうか。」

「ええ。」

 伊織も二つ返事で応じた。

「まず、本当に伊織は先輩と結婚することになったわけ?」

 伊織は答えづらそうに、目をそらしていたが、意を決して述べた。

「・・・そうよ。大学を卒業したら、望月俊と結婚するの。」

「いつ分かったの?」

「8月の末。」

 ちょうど、伊織が私たちを避け始めた時期と一致する。やっぱり、これが原因だったんだ。

「でも、伊織には別の許嫁がいたんじゃないの?」

「それが・・・突然なくなったのよ。その結婚。」

「なくなった?」

「ええ。理由は分からないけど、業務提携がなくなったみたいなの。それで、8月末にある日突然、パパから望月財閥の跡取り息子と結婚するように言われたわけ。私はパパにその理由を聞いたわ。」

「そうしたら・・・なんて答えたの?」

「パパは『望月財閥と協力関係を結ぶことになった。だから、そこの跡取りと結婚するんだ』って。パパはすごく喜んでた。だって、望月財閥は、水瀬財閥より力のある規模の大きい企業体。確かにそれまで望月財閥とはライバル関係にあったけど、逆にそこと組めれば、その効果はとても大きいから。」

「そのために・・・伊織は先輩と結婚を・・・。」

「だから、春香と会いたくなかったのよ。私は、あんたがどれだけ先輩のことを好きなのかって知ってたから。それを知ってるのに、あんたと会うなんて・・・私にはできなかった。」

 やっぱりそうだったのか。それにしても、なんだか展開が早すぎないだろうか。

「楓が死んだのは、6月末だよね。そこから2か月で望月財閥は提携相手を変えたことになるわけじゃない。それって、あまりにも動きが早すぎるんじゃない?」

 伊織がうなずいた。

「そこが気になっているのよ。雪村さんが千早に・・・その・・・あの事件はとにかく、普通だったら全く想定され得ないイレギュラーな事件だったわけでしょ。なのに、望月財閥は、そこからわずか2か月で新たなパートナーを見つけたことになる。それに、今日、新聞報道で初めて知ったの。提携の内容。」

「望月製薬と水瀬薬品の業務提携。」

「そう。新聞では、新薬開発を共同で行っていくことが柱と言われていた。でも、狙いはそこではない気がするの。」

「どういうこと?」

「春香はiPS細胞って知ってる?」

 聞いたことはある。国立科学技術研究所が作成した万能細胞だ。

「知ってるよ。簡単に言っちゃえば、自分の細胞を元手に、あらゆる細胞を作り出すことができる技術のことだよね。でもそれは国立科学技術研究所が作り出した技術でしょ?望月財閥は関係ないじゃない。」

「そう。だから、望月財閥は雪村家と関係を結んで、その技術を得ようとしたの。雪村家は国立科学技術研究所に理事を出してるから、雪村家との関係を紡いでおけば、その技術を得られる可能性が高い。」

「だけど、それはできなくなった。」

「だから、望月財閥はうちと提携を結んだの。うちの財閥の人間も、国立科学技術研究所の理事を務めているから、雪村家の代わりになるってわけ。」

「そういうことか・・・。」

 ただ、伊織はどこか納得していないような表情を見せた。

「でもそれだと、うちにメリットがない。」

「あるんじゃないの?伊織のお父さんは、随分喜んでいたって言ってたじゃない。」

「医薬品業界では、うちの水瀬薬品の方が規模は大きいの。うちの財閥が望月財閥に勝っているのは、正直ここくらいしかない。なのに、その虎の子の製薬会社の技術を望月財閥に与える意味が分からない。もしかしたら、ほかの分野でも提携を進めるのかもしれないけど、そんな気配は全く見られない。しかも、正直これだけだとうちにメリットはない。なのに、パパはものすごく喜んでいた。このギャップが分からないの。」

「つまり、何か裏があるってこと?」

「・・・少なくとも、長年信頼関係を築いてきた安本財閥との提携を打ち切って、望月財閥に流れるまでの理由が分からない。」

 伊織の表情は深刻だ。その顔には、恐怖感がにじんでいる。強い不気味さを感じているようだった。

 私はグラスのお茶に手を付けた。

 不意に伊織が話しかける。

「正直ね、私春香に会うのが怖かった。」

「どうして?殺されるとても思った?」

 伊織がドキッとした表情を見せた。

「あんた・・・。」

 私は思わず吹き出してしまって大爆笑だ。でも、伊織の表情は固いまま。

「大丈夫だって。そんなことしないから。」

「悪いけど、シャレにならないのよ・・・こっちは。」

 まあ無理もない。実質的に、私たちは楓をこの世から葬ってしまったようなものなのだ。

「楓のことが許せなかったのは、多分、楓が先輩のことを全く考えてなかったからだと思う。楓と一緒に住むことになったら、多分先輩はノイローゼでまいっちゃってたって思うんだ。だけど・・・伊織だったら、多分・・・。」

「多分何?」

 伊織は神経質そうにグラスに手を付ける。

「多分・・・先輩のことを愛してくれると思うから。先輩を幸せにしてくれると思うから。」

「できるかしら・・・私に。」

 私は伊織の方を見つめて尋ねる。伊織は少しおずおずとしたしぐさを見せた。

「伊織は、先輩のことどう思っているの?」

「どうって?好きってこと?」

「うん。」

 伊織は、なんて答えたらいいのか。どうすれば、私を傷つけずに済むのか必死で考えているように見えた。

「別に、私を傷つけないようにしようとか、そんなこと考えなくていいから。とにかく、率直に伊織の感情を知りたいの。伊織がどう思っているのか。」

 伊織は少し私から目をそらし、考えをまとめた後、こんな風に言った。

「正直、私彼のこと好きじゃない。本当に春香や千早のことを考えているんだったら、先輩は二人のことを愛しちゃいけなかったんだし、二人に気を持たせるようなことをするべきじゃなかった。そのせいで、いろんな人が不幸な目に合ってるんじゃない。大財閥の指導者になろうって人なら、それくらい普通に予見できなくちゃダメよ。そんなこともできない彼のことなんか・・・。」

 そこまで言って、伊織は言葉を止めた。確かに、伊織の言っていることは正論だ。反論なんかしようがない。

「ごめん、春香。」

「気にしなくていいよ。伊織が言っていることは正しいと思う。伊織らしい、正しくてまっすぐな意見。なんだか、安心して彼を任せられるような気がする。」

 伊織は無言だった。そして、こんな弱音を吐くのだ。

「私・・・彼のことを愛せるのか、すごく不安なの。私は、色々なことを知りすぎてしまった。その上で・・・彼のことを愛して、そして癒してあげられるのか・・・私は本当に自信がないの。」

 私は笑顔で太鼓判を押した。

「大丈夫だよ。伊織なら。きっと、彼のこと、うまく支えてあげられると思う。」

 伊織はうつむいている。

「それに、結婚相手が伊織なら、なんだかすぐに会えそうな気がするしね。」

 私は悪戯っぽく笑った。伊織も苦笑したような表情を浮かべている。

「さっそく、略奪狙い?」

「別に。そこまでじゃないけど。」

「顔がいやらしい顔になってるわよ。」

 伊織は、私の両ほほを両手でつまんで、むにーっと引っ張った。

「あはは、痛いよ伊織。」

 伊織は面白そうに笑っていた。なんだか優しい笑顔だった。

 伊織が手を放すと、そのままお茶に手を伸ばしていた。ごくりとお茶を飲み干した。

「春香・・・私、頑張って愛してみる。彼のこと。」

「好きなふりをするの?」

 伊織は小さく「うん」とうなずいた。

「だって、私は間もなく望月財閥の一員になるのよ。それも、跡取り息子の妻なんだから。私が望月家を支えていくの。子供を育てて、夫を支えて、夫を愛して、望月財閥をさらに巨大なグローバル企業に育てていく。私の母親みたいに、子育てをほっぽり出したりしない。それが、財閥の女の責任なんだから。」

「辛くならない?それって。」

 伊織は笑って答える。

「そんなの関係ないのよ。だって私は、天下の水瀬財閥の一員なんだから。辛いとか何とか言ってられないわ。」

「さすがだね、伊織。見直しちゃった。」

「もっと褒めてくれていいのよ~。」

「この子にも聞かせてあげたかったなー、伊織の決意表明。」

 私はベッドですやすや眠っている、美希の方を見やった。

「正直、聞かれたくなかったから、ちょうどいいわ。この子には、あんまりかかわってもらいたくないしね。部外者なんだし。」

 伊織のまなざしは、まるで妹でも見るかのようにやさしかった。

「春香・・・私、今度こそ約束するわ。」

「何を?」

「私は春香の味方。もう逃げたりしない。」

「それは、頼もしいね。大財閥のお嬢様を味方につけたんだから。」

 伊織は、私の右のこめかみをこつんとデコピンした。

「調子に乗りすぎ。私の神通力にも限りがあるんだからね。」

 私はくすくす笑った。

「はいはい、期待しているわよー。」

「はあー」と伊織はため息をついた。

 廊下から足音が聞こえてきた。新堂さんだろう。

 足音の主は、部屋をノックして入室してきた。

「お夕食の用意が整いました。ダイニングへお越しください。」

 そういうと、新堂さんは一礼をして、部屋を出て行った。

「さ、あの寝坊助を起こして、さっさと下に行くわよ。」と伊織が言う。

 私たちは、熟睡している美希を叩き起こして、ダイニングでディナーに舌つづみを打った。この日のディナーは、イタリア料理だった。しかも、本格的なフルコースになっていて、あまりもの歓待に驚いていた。伊織は、鼻高々だった。

 この日以降、私たちの関係は元に戻った。私と伊織と美希、3人が仲良くバカをやりあう関係に戻ったのだ。

 伊織に約束した通り、私は伊織のことを恨むことなんてなかった。私は、むしろ伊織のことを応援したく思っていた。そんな私の気持ちを、きっと伊織も感じてくれていたことだろう。私たちの関係は、曲がりなりにも安定を見せていた。

 しかし、そんな安定したささやかな幸せが、長く続くことは無かった。

 

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