第5節 過去からの復讐
あの日以降、千早ちゃんとは連絡が取れなくなっていた。私が何度電話してみても、携帯電話の電源は入っていない状態だったのだ。伊織も千早ちゃんのことを心配して、何度も電話を試みたのだが、全て空振りに終わっていた。
伊織は、許嫁になった好もあり、先輩に千早ちゃんの家の連絡先について尋ねていた。しかし、ある種当然と言えば当然だったのかもしれないが、先輩自身も千早ちゃんの家の連絡先を知らなかったのである。先輩の話によれば、全ては完全に父親の管理下にあるらしい。先輩の父親は、先輩が彼女を連れ戻すことを恐れて、望月先輩から千早ちゃんを隠したようなのだ。
先輩によると、千早ちゃんは確かに先輩の父親の管理下の元で安全に過ごしているらしい。だけど、それも彼と対立している父親から聞いた話だ。到底信用できるような話ではなかった。
とはいえ、それを信じない具体的な根拠があるわけでもないし、信じなかったからといって、別に私たちが何かをできるわけでもない。結局、私たちは千早ちゃんの身を案じながらも、千早ちゃんが「釈放」されるのを待つしかなかった。
11月下旬のことだった。冬のとばりが下りてきて、肌寒さが際立つ曇り空の晩秋の夕方のことである。
私は大学のキャンパスを駅に向かって歩いていた。全ての授業が終わり、自宅に帰宅するためであった。長いペデストリアンデッキを歩いていると、遠くの方で、50代くらいの女性の姿が目に入った。彼女は、柱に寄りかかってキャンパスを見渡している。誰かを探しているようだった。
彼女の姿が近づいてくるにつれ、私はどことなく身の毛が逆立つのを感じた。無論寒さのせいではない。その女性の風体に驚き慄いたのだ。
長い青髪にスレンダーなボディ、その様子は、千早ちゃんに似ていただったのだ。もし千早ちゃんがあのまま年を重ねれば、きっとあんな姿になるのだろうと思わせるような感じであった。私は心の静穏が乱されているのを気取られないようにしながら、その女性から離れるように、斜めに歩いていた。
やがて、その女性の前を通りかかった。するとその女性は私に声をかけるのだ。
「天海春香さん。」
私はその声で立ち止まった。
目の前で起こったことが理解できずにいる。なぜこの女性は私の名前を知っているのだろうか。私は面識がないのに。その女性はまっすぐに私の元へ向かってきた。
私はその女性の方を向き、相対した。嫌な予感がする。その予感が正しければ、彼女は・・・。
「天海春香さん、ですよね?」
一瞬言葉を詰まらせたが、私は「はい。」とだけ答えた。
「『私の顔に見覚えありますか?私は知りません。』あなたは今、そんな顔をしていたわね。」
その女性はやけに不敵に、そして挑発的に私を威嚇するそぶりを見せた。
「・・・あなたに見覚えはありません。私急いでますので、これで失礼します。」
「私に見覚えがなくても、彼女には見覚えがあるんじゃないかしら。如月千早。」
私は確信した。この人は、千早ちゃんのお母さんなのだ。彼女の産みの親、そして千早ちゃんの虐待に加担した、悪魔のような女。
私は立ち止まった。きっと、このまま立ち去ることもできたのだろうが、ここが突き止められてしまった以上、逃げても意味がない。覚悟を決めるしかない。
「私に何の用でしょうか。」
「まずは、初めまして。」
「・・・・・。」
「私は、如月千種、あなたは察したかもしれないけど、如月千早の実の母親。」
「・・・千早ちゃんの虐待に加担した、悪魔・・・ですね。」
千種は、不敵な笑みを見せた。
「分かっているなら、話が早いわ。」
ゆっくりと私の元へ近づいてくる。
「あなたに・・・話があるの。二人だけでね。付き合ってくれるわよね。」
ここで何か理由をつけて拒否することもできる。しかし、これ以上の抵抗は無意味だろう。不幸にも、今日はこれから家に帰るだけだ。もしかしたら、この女は、私がこの後予定がないことを知って話しかけたのかもしれない。途端に、背筋が寒くなってくるのを感じた。
「・・・分かりました。」
「いいわ、素直で。あの子とは大違いね。」
あの子とは、きっと千早ちゃんのことなのだろう。
「カラオケボックスに行きましょう。そこなら、誰にも邪魔されずに話ができるから。」
「・・・分かりました。」
駅の近くには確かにカラオケボックスがあった。千種はどうやらその場所を知っているようだ。最初からそこに連れ込む算段だったのだろう。
私たちはカラオケボックスに入ると、何も音楽をかけることなく、ただ部屋で座っていた。やがて、千種が話し出す。
「私がどうして、ここにやってきたか分かる?」
「・・・分かりません。あなたの考えることなんか。」
「ずいぶん挑発的ね。」
私は彼女を終始にらみつけている。千種はそんな私の様子を大層面白がって眺めている。
「・・・もう3年になるのよね。彼が死んでから。」
彼とは恐らく、千早ちゃんの父親のことを挿しているのだろう。千種は、どこか天を仰いでいるようだった。千種は続ける。
「私はね、あの子が殺したって思ってたの。五郎のこと。」
五郎・・・やはり、千早ちゃんの父親の話だった。
「だから分からなかった。あの子がどうやって、五郎のことをを殺したのか。五郎が死んだあの時間、千早には確かなアリバイがあった。アルバイト先で働いていたという絶対に崩れない完璧なアリバイ。あの時間、あの子が五郎の首を絞め殺すことはできなかった。だとすれば・・・どうやって殺したのか。」
「妄想じゃないんですか、五郎さんが殺されたなんて・・・。」
千種が私をにらみつける。
「警察の初動ミス。警察は、五郎の首に通常できないあざがあることに気が付いていた。首の後ろ側。自分で首をくくったんだったら、絶対につかない痕。なのに・・・警察は捜査をしなかった。現場は一見すると、争った跡はない。物取りが入った形跡もない、遺書もあった。だから、警察は自殺でさっさと事件を片付けてしまったのよ。私は、警察に何度も訴えた。あの事件は、自殺ではない、千早によって殺されたとね。だけど、警察は相手にしてくれなかった。そりゃそうよね、事件に関係しているはずの千早には、完璧なアリバイがあったんですもの。私の言葉なんて、世迷い事にしか聞こえなかったでしょうよ。」
私は千種の独演に黙って耳を傾けていた。この女は、いったい何を知っているのだろうか、私は胸の緊張を抑えながら、その発言に神経を集中させていた。
「私は、あの子のことを知らなさ過ぎた。正直、関心なんてなかったわ。知りたくもなかったし、知ろうとすること、関わろうとするだけで虫唾が走る。千尋をその手で殺しておいて、のうのうと生きてる。五郎から全部聞いたわ。あの女は千尋を川に突き落としたんでしょ!それだけじゃなくて、五郎も殺した。もう彼女は、二人も殺しているのよ。なのに、何の罪も罰も受けずに普通に生きてる。私にはそれが許せないのよ。」
「あなたの目的は復讐なんですか?」
千種が不気味な笑みを見せる。
「ええ、そうよ。私は復讐する。復讐するために、地獄から蘇ってきたの。」
「地獄から・・・。」
地獄という言葉に戦慄が走る。そしてあの女が語ったことはさらに衝撃的なものだった。
「私はね、五郎が死んで、何もかもに絶望したの。もう私には生きる希望がない。だから、私は自殺しようとした。私が住んでいるマンションの駐車場で首をくくった。だけど・・・死ねなかった。私は2年間も病院で眠り続けていた。目が覚めて、それで私は悟ったのよ。『私はまだ、この世でやり残したことがある。だから天は私をこの世に残した』んだって。」
「それが私たちへの復讐だっていう訳?」
「そうよ。私はその後、あのアパートを引き払った。そして千早を探していたのよ。住民票を取っても、あの子の居場所は分からなかった。私はあの子を血眼になって探した。そして分かったのよ。あの子が東京に出ているって。そして千早がある女の子と一緒に住んでいるという事実を突き止めた。それがあんただった。」
そう言って、千種は私を睨み付けた。寒くなっているというのに背中が汗ばんでいるのが分かる。あの女は続けた。
「私は、知らなかった。あの子に友達がいた。いや、友達以上の、それこそ親友と呼べる人間がいた。あの子のことなんてどうでもよかったから。千早一人で五郎を殺すことはできなかった。だが、もし共犯者がいれば。表面的には何の関係もない人物が、五郎を殺めていたとすれば・・・。アリバイは関係なくなる。」
一呼吸おいて、千種が吐き出す。
「あんたでしょ・・・五郎を殺したの。」
私は高鳴る鼓動を抑えつつも、微塵も表情を変えないように努力した。正直、なんて反応したらいいのかは分からない。この女は、既に真相にたどり着いている。どう反応しても無駄だろう。
とはいえ、下手に動揺するわけにもいかない。心の隙を突かれれば、何をされるかわからない。冷静になれ!私!このシナリオは、前々から想定されていた内容じゃないか。証拠はない。私があの場にいたという証拠は何もないはずなのだ。堂々としていればいい。
「違うわ。」
少し声が上ずっていたかもしれない。動揺を見透かされたかも。
「ふっふふふ」
千種は不気味に笑う。
「アンタも演技が下手ね。そんなことで、私を騙せると思っているのかしら。」
あんた「も」か。
「五郎はね、千早から滲み出る性的なオーラに取りつかれたのよ。五郎が何度も千早をおもちゃにしていたのは、知っていたのよ。あの子は、隠そうとしていたけどね、私にしたらバレバレだったわ。部屋にね、匂いが残るのよ。女がフェロモンを出したときに出す匂いがね。あの子・・・なんだかんだで五郎の肉棒を喜んで受け入れていたみたいね。」
この女は、千早ちゃんがレイプされていたことを知っていたのか!だったら、どうして止めなかったんだ?あの男のことを好きだったのなら、なおさらだ。
「どうして止め無かったんですか?五郎さんが千早ちゃんをレイプするのを。」
千種が声を荒げる。
「止めたかったさ!だけど・・・そんなことをすれば、私は嫌われてしまう・・・。」
「嫌われてしまう?」
「なんだかんだ言って、五郎はあの女の体が好きだったのよ。若くて、華奢で、やけに大人びていながらも、あどけなさが残るあの女の体のことがね。それに比べて、私は、ただの年増のばあさん。性的な魅力なんて、とうに失っていたのよ。」
その言葉からは強い哀愁が漂っている。
「あの子は・・・私からすべてを奪っていった。かわいい妹の千尋も、そして五郎の肉体を奪い・・・そして命までも奪った!」
「それで千早ちゃんに復讐を?馬鹿げてる。もとはといえば、あんたたちが千早ちゃんを愛さなかったのが原因でしょうが。親の愛を受けられず、千早ちゃんはいつも苦しんでいたんですよ!それに、千早ちゃんは千尋ちゃんを殺してなんかいない!むしろ、健気にも愛していたんです。アンタは、そんなことも知らないんだわ。あれは悲しい事故だったんです!確かに千早ちゃんは、妹のことを助けなかったかもしれない。だけど、それはもうあの時千尋ちゃんは亡くなっていて、それで動揺して逃げてしまっただけなの!殺したなんて、馬鹿げている!それだけじゃない。千早ちゃんは、五郎さんを誘惑したわけでも何でもないじゃない。千早ちゃんは。レイプされていたんですよ!どうして、千早ちゃんを恨むなんてことになるんですか。どう考えたって、ただの逆恨みでしょ。」
「うるさい!あんたなんかに、私の気持ちが分かってたまるもんですか!あんただって騙されているんだよ、千早の色香にね。あの女は魔性の女よ!人を魅惑して、篭絡して、人を不幸に陥れる。あんただって、そのせいで不幸になったんじゃないの!?」
何なんだ?これ。まさか、この女は、私と千早ちゃんが先輩を巡って争っていたことを知っているのか?
とにかく、今は黙ってあの女の発言に耳を傾けるしかない。下手に発言すれば、ぼろを出しかねない。
あの女は、再び沈黙を保ったかと思うと、しばらくしてまたしゃべり始めた。
「ねえ、天海さん。あなたにお願いがあるの。」
「・・・なんですか。」
「あんた、恨んでいるんでしょ。千早のこと。」
私は黙して答えない。なんて答えればいいのか瞬間的にわからなかったからだ。でも、もし千種の意図の裏をかくなら、即座に否定するべきだった。否定しないということは、その事実を認めたも同じだった。
「そこで、あんたにこれを貼ってきてほしいの。」
そういって、千種は大き目の手提げカバンから、2回たたまれてA4サイズになったポスターらしきものを取り出した。千種がそれをゆっくりと開いていく。
そこには、目を疑うような図柄が印刷されていた。
ポスターには、千早ちゃんがあられもない姿になって、男と交わっている写真があったのだ。それだけではなく、股を広げて、性器を弄って自慰をしたり、男に胸をなめられたり、男のモノを咥えている構図もあった。
「なに・・・これ・・・。」
「千早は・・・AV女優になったのよ。これはそのデビュー作。アンタには、これを中亭大学生協の手前にある掲示板にこれを貼ってきてほしいのよ。あの子の女優デビュー作を宣伝する意味でね。」
「狂ってる・・・あんた、狂ってるよ!実の娘をこんな姿にして・・・なんとも思わないの!?」
千種はさぞ愉快そうに哄笑している。
「ピッタリじゃない。淫乱なあの子にはぴったりの職業。女の色香を最大限に活かせるわ。まさにあの子にとっては天職ね!」
怒りが湧きおこってくる。写真を見るだけでもわかる。千早ちゃんは、嫌々やらされているのだ。自分の意思じゃないことははっきりしている。この女がどんな手を使ったかは分からないが、千早ちゃんは、無理やりあられもない姿にされて・・・。
「3日後。3日後の朝にこれが貼ってある状態にしておいて頂戴。もし、その時に貼っていなかったら、千早が雪村さんを殺したってこと、国内中のマスコミにばらまくわ。そうすれば、困るのは誰かしら?」
そんなことまで知っているのか、この女は!?いったい何なんだ!?訳が分からない。どうして、千種はここまでのことを知っているのか。そもそも、千早ちゃんは先輩の父親のもとで事実上軟禁されているはず。なのに、どうしてこの女が操ることができているというのか。
「いいわね。今日から3日後の朝よ。」
そう告げると、あの女は立ち上がった。
「待ちなさい!」
私は千種を呼び止める。
「何かしら?言っとくけど、何を言ったって、何をしたって私の決意は変わらないから。」
「千早ちゃんはどこにいるの!?」
「そんなこと聞いてどうなるっていうの?」
「いいから答えなさい!」
「いいわ。ヒントを挙げましょう。あの子は、もう軽井沢にはいない。」
そう言い残すと、千種は扉を開けて出て行ってしまった。後には、千早ちゃんの悲痛な叫びが漏れ聞こえそうなポスターが、広がっているだけだった。
私は呆然としながらも、考え始めていた。あまりにも状況が進み過ぎている。
そもそも、千早ちゃんは「館山」にいるはずじゃないのか。それがどうして「軽井沢」になっているのだ。しかも、もういないって、どういうことなんだ。
先輩の話では、千早ちゃんは先輩の父親の管理下にあるはずだ。ということは、先輩の父親と千種は裏でつながっているというのか?それにしてもおかしい。こんなこと、先輩の父親、そして望月家にどんなメリットがあるっていうんだ?千早ちゃんを痛めつけたところで、望月財閥に1円の利益ももたらさないはずだ。
その上、千種はあの事件の警察調書を知っていた。私が・・・殺人という大罪に手を染めたあの事件の調書を・・・。そんなもの、やたらと見れるものではない。
さらに言ってしまえば、千早ちゃんが雪村さんを殺したっていうのは、非公開情報だ。先輩と望月財閥、そして雪村家が必死になって覆い隠した事実なのだ。これだって一般人が知るわけのない情報だ。それをどうして、あの女が知っているのか。
ますます訳が分からない。とにかく・・・先輩に相談するしかない。まずは、こんなところから這い出なければ。
私はポスターを中が見えないようにA4になるように折り返し、バッグに詰めると、すぐにカラオケ店を後にした。
自宅に戻り、先輩に電話をかけてみる。そういえば、先輩と話すのは、8月初旬のあの日、先輩から電話がかかってきて以来だった。
しかし、電話はつながらない。もしかしたら、着信拒否をされているのかもしれない。困りあぐねた私は、伊織に相談してみることにした。こんなことを話せるのは、伊織を差し置いて他にいなかったからだ。
「春香?どうしたの?」
幸いにも、伊織は5コールで電話に出てくれた。
「よかったー、電話に出てくれて。出てくれなかったら、どうしようかと思ったよ。伊織!大変なことが起こったの。」
「ど・・どうしたの、なんだか・・・尋常じゃない事態の様ね。」
普段とは明らかに違う動揺の仕方に、伊織も驚いているようだ。
「あー、なんて言えばいいんだろう。」
正直、何を話すべきか決めていなかった。言っていい内容と、言ったらまずい内容の両方があるのだ。それに伊織には、千早ちゃんの過去の話はもちろん、私の過去のことも全く何も話したことがないのだ。
「どうやら、随分複雑な話の様ね。」
「・・・うん。とりあえず、かいつまんで言うと、千早ちゃんの母親に脅迫されたの。千早ちゃんのポスターを3日後の朝に大学の生協近くの掲示場に貼ってある状態にしないと、千早ちゃんが楓を殺したことをメディアに流すって。」
伊織はしばし無言になったあと「ごめん・・・まったく意味が分からない。」と述べてきた。それはそうだろう。私自身、何言っているのかよくわからなかったからだ。
「順を追って説明してよ。まず千早の母親が出てきたの?」
「・・・うん。今日の夕方にね。実は、千早ちゃんの母親は、わけあって、千早ちゃんのことをすごく恨んでいるの。ついでに私のこともね。」
「う・・・うん。なるほど。とにかく、千早の母親は春香と千早を恨んでいるのね。」
「そう。それで、恨んだ挙句、千早ちゃんの母親は、千種って名前なんだけど、千種は、千早ちゃんのことを脅して、アダルトビデオに出演させたの。」
伊織は素っ頓狂な声を出した。
「あ・・・アダルトビデオ!?」
「そう。それで千種は、そのAVのポスターを持ってきたの。」
「それを貼れって言ってきたのね。」
「うん。そうしないと・・・、千早ちゃんが楓を殺したって話を、全国のマスコミに流すって、脅迫してきたの。」
伊織が無言になる。伊織もまだ完全には理解できていないようだった。
「・・・色々と腑に落ちないんだけど、いろいろとおかしくない?そもそも、どうして千早の母親があんたたち二人のことを恨んでいるのよ。それも、聞いたところ、かなり悪質な恨み様ね。」
私は言葉に詰まった。詰まったその上でこう返した。
「・・・そのことについては、今は触れないでほしい。」
「・・・何か訳アリの様ね。良いわ。とりあえず、今は詮索しないでおくわ。あと、気になるのは、どうして千早がアダルトビデオなんかに出演できるのよ。彼女は、館山で剛三郎お父様に、匿われているんじゃないの?」
「そこが分からないのよ。それに、千早ちゃんが捕らえられているのは、館山じゃないみたい。」
伊織はまたしても変な声を出す。
「はぁ?どういうことよ。館山じゃなかったらどこだっていうのよ。」
「千種が言うには、軽井沢にいたらしい。だけど、もうそこにもいないんだって。信じられないような話だけど、私たちのことについてここまで知っていることを考えると、正直、口から出まかせ言っているとも思えないの。」
伊織は少し考え込んだ。
「確かに・・・考えられる話ね。俊は千早のことを愛しているわけだから、剛三郎お父様が千早を俊に奪回されないように、彼に教えたのとは別の場所に匿っているということはあり得ると思う。問題は、どうしてそのことを千早の母親が知っているのかってことよね。」
「そういうことだね・・・。剛三郎さんが教えたのかな。千種も、剛三郎さんに雇われた人間なのかしら?」
伊織はその可能性は否定した。
「それはないんじゃないの。そもそも千早をAVに出すという行動自体が意味不明だし、千早が楓を殺したことをマスメディアに流すという行動自体、剛三郎お父様の利害に反するはずよ。」
「じゃあ、どうしてあの人は、そんなことを知っているわけ?」
「分かるわけないでしょ、そんなこと。」
伊織はキレ気味だった。
「何か心当たりはない?望月財閥の一員になるんでしょ、何かそれらしいヒントとかないの?」
しばしの間、伊織は口を閉ざしていた。そして伊織は意を決したように、つぶやいたのである。
「心当たりは・・・ある。だけど、今ここでは話せない。」
「どうしてよ!?」
私は伊織に食らいついた。
「話はそんなに単純じゃないからよ。彼の許可を取らないと・・・話せないの。」
彼とは、望月先輩のことだろう。伊織は私に尋ねる。
「俊には連絡したの?」
「したけど・・・電話がつながらなかったの。もしかしたら、着信拒否されているかもしれない。」
「じゃあ、私からかけてみる。春香、一旦切るわね。」
そういうと、伊織は一度電話を切った。
伊織からの折り返しの電話があったのは、それから15分後のことだ。
「もしもし、春香。明日、私と俊の二人で春香の家に行っていい?」
開口一番、伊織は私にそう提案してきた。
「うん・・・お願い。今後、どうしたらいいかも考えなくちゃいけないし。」
「・・・・・。」
伊織は不思議な沈黙を保っている。
「時間は何時なの?」と私は聞いた。
「午前9時、それでどう?」
明日の授業と被ってはいる。だけど、そんなの気にしていられない。
「分かった。じゃあ、その時間にうちに来て。場所は分かる?」
「住所をメールで教えて。明日、新堂に運転させて、車でそっちに行くから。彼にも住所を教えておくね。」
その後いくつか言葉を交わした後、電話は切られたのだった。
翌朝のことだった。伊織は集合時刻の15分前にうちに到着していた。予想よりも道が空いていたらしい。そういえば、伊織が家を訪れるのは初めてのことだった。
「かなりボロッちいのね。この部屋。」
伊織が部屋に入って、靴を脱ぐなり、そう評価した。私が住んでいるのは、築20年ほどが経過したワンルームのアパートだ。貧乏学生にとっては、こんな狭いところでも慣れてしまえば天国のような場所なのだ。
「前は、ここで千早ちゃんと一緒に暮らしていたんだよね。」
「随分、手狭なんじゃないの。こんなところで二人暮らしなんで、息が詰まるわよ。」
「まあ、普通ならね。でも私たちは、少なくとも私はそうは感じてなかった。その当時は、千早ちゃんのことは好きだったし、家賃は安かったし、何の文句もなかった。」
「当時は」という留保の言葉に少し動揺したのか、伊織は聞かなかったふりをしていた。
そして伊織は、背の低いテーブルの上に置かれたA4に折りたたまれたコート紙を見つけた。
伊織が恐る恐る近づく。
「これなの?春香。」
私は、うんと頷いた。伊織が恐る恐るポスターを開いていく。そして、ついに千早ちゃんのあられもない姿が彼女の目に入った。
その瞬間、伊織は驚いたような表情を見せた。そしてしばらくポスターをまじまじと見つめて、酷く顔をゆがませた。その顔は、こんなことをさせた犯人への怒りに満ちているようだった。
「千早、本当に悲しそうな顔をしているわね。」
もしかしたら演出なのかもしれない。悲しい顔をさせているだけなのかもしれない。だけど、千早ちゃんは特段演技がうまいわけではない。これが演技だとは思えなかった。
伊織はすぐにポスターを閉じてしまった。
「伊織、お茶淹れるね。」
そう言って私はキッチンスペースにある茶筒を取り出して、お茶を淹れる用意をした。先輩もすぐに来るから、先輩の分も湯呑を用意しておこう。そういえば、先輩もうちを訪れるのは初めてなんだった。
気づけば、伊織は体育座りをして、顔をうずめている。そして鼻をすするような音が聞こえるのだ。
伊織が・・・泣いていた。そういえば、私は・・・泣いていない。千早ちゃんがあられもない姿にされて、千種への強い怒りと憤りは感じていた。けど不思議と、涙は流れなかったのだ。
私は、千早ちゃんに対してどんな思いを抱いていたのだろうか。改めて、自分の心の中の気持ちが分からなくなっていた。
心が動揺する。どうして私は涙を流さなかったのだろうか。悲しいと思わなかったのだろうか、不憫だと思わなかったのだろうか。私は、伊織にお茶を差し出しながら考えていた。
「伊織、お茶だよ。」
「・・・・・。」
伊織はありがとうさえ言えなかった。
それから10分して、先輩が部屋に訪れた。その間、伊織はずっと顔を伏せていて、涙を流していたのだった。
「やあ・・・久しぶりだね、春香。」
先輩の端正な顔立ちは、数か月たっても変わることは無い。当たり前なのだが、それでも不思議と彼の顔は少しやつれているように見えた。どこか、疲れ切っているような感じだった。
「先輩・・・お疲れなんですか?」
思わず私は聞いてしまった。先輩は力なく笑った。
「そう見えるかい?まいったなー、春香に一瞬で見透かされるレベルなのか。」
先輩は部屋に上がり込むと、私が用意した座布団にどすんと座り込んだ。私は、彼の為にお茶を淹れていた。
「最近、大学に行ってないんでしょ。」
伊織が心配そうに先輩に尋ねる。
「ああ、ちょっと色々あってね。」
「色々って・・・その一言で片付くような話なわけ?」
「知っての通りの事情だよ。」
先輩は少し引きつった笑顔を見せていた。明らかに疲れがたまっているのだ。
「少し・・・休んだほうがいいわ。昨日はちゃんと寝たの?」
「ああ。5時間くらい。」
「明らかに睡眠不足ね・・・。」
「仕方ないさ・・・。」
お茶を淹れ終わった私は、彼のもとに湯呑を置いた。
「ありがとう、春香。」
3人がテーブルを囲んで、座った。話始める準備は整った。先輩がまずは話始めた。
「話は大体伊織から聞いた。その話を聞いてから僕は、親父に確認をしたんだ。ちゃんと親父が千早を匿っているのかどうか。そうしたら、親父は・・・あっさり認めたよ。1か月前、千早は何者かによって拉致された。匿っていた『軽井沢』の別荘から、何者かの手によって連れ去られたんだ。」
やはり千早ちゃんは軽井沢にいたのか・・・。
「何者か・・・それが、千種なんですか?」
私は先輩にそう尋ねた。
「分からない。そもそも、千早の母親はずっと行方不明だったんだ。」
「行方不明・・・。」と私はつぶやく。
「そうだ。実は・・・。」
そう言おうとした瞬間に、彼はのど元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「何でもない。」
伊織は食い下がる。
「ちょっと、何でもないってどういうことよ。」
「今の話は・・・今回の事件と関係ない。」
「・・・春香の過去に関する話ね。」
先輩は短くうなずいた。先輩は、知っているというの?高校時代、あの女が私たちを恨むきっかけになった事件のこと・・・。私たちに何があったのかってこと。そう言えば、千早ちゃんが、先輩は私たちの過去を探っているとかつて言っていたことを思い出した。
「とにかく・・・千早の母親がこの拉致に関わっていることは間違いないと思う。あの女は、千早が軽井沢に匿われていて、そしてそこから拉致されたことも知ってたんだから。問題は・・・どうやってあの場所から連れ出すことができたのかということだ。」
先輩はお茶を一口すすった。
「親父が軽井沢に匿った別荘には、世話係と称して、監視の人間を2人つけていた。いずれもそれなりに強い男だった。だから、あの女が一人で、力づくで千早を奪い取ることはできなかったはずだ。だまして連れていくということもできないはずだ。そもそも、そうした怪しい動きを封ずるために監視をつけたんだ。となると、どうやってあの女は、千早を拉致することができたのか。」
伊織が口をはさんできた。
「協力者がいたわけね。」
「自然に考えればそうなる。その後の流れを見てもそうじゃないか。千早をAVに出演させて、それを製品化して・・・。そもそもあの女ひとりじゃ千早を監視しきれない。この犯罪はどうやったって一人では成立しない。裏で誰かが協力していないと成立しないんだ。そこで・・・僕には思い当たる節があった。こんなことに手を貸した人間にね。」
私は息を飲んで聞き返す。
「それは・・・誰なんですか。」
先輩はため息をつきながら、ゆっくりと答えた。
「・・・兄貴の秀幸だよ。」
先輩のお兄さんが!?
「どういうことなんですか、それって・・・。」
「兄貴が、望月グループの乗っ取りを計画しているんだ。」
「グループの乗っ取り・・・。」
私は驚きを隠せない。
「春香、ここで聞いたことは絶対に口外しないでほしい。いいね。」
私は素早く何度もうなずいた。
「楓が亡くなった後から、これまで大人しくしていた兄貴が突然、反旗を翻してきたんだ。うちの財閥の各企業の大株主企業の支持を集め始めた。来年の定期株主総会で自分の息のかかった人間を経営陣に送り込もうとしているらしい。今、僕が忙しいのも、その対応に追われているから。各企業や株主にあいさつ回りをして、何とか兄貴への支持を思いとどまらせるよう説得している。」
「それが・・・千早ちゃんの拉致と関係しているんですか?」
「そうとしか思えないんだ。あの女は、千早のポスターを貼らないと、彼女が楓を殺したってことを公表するって脅しているんだろう?そんなことをされたら、困るのは僕だよ。兄貴がそういうことをする動機は十分にある。それにそもそも、あの女が、楓の事件を知る方法なんて、兄貴にたぶらかされた意外に考えられない。」
「まさか・・・。」
「屈強な男二人の監視を逃れて拉致するためには、こちらも強い力を持った人間を用意しなくちゃいけない。だけど、それをあの女ひとりで用意できるはずがない。それに、無理やりAVに出演させるなんて、それこそ無理だろう。どう考えても、兄貴が裏で手を回しているとしか思えないんだ。」
私は頭を抱えた。そんな大変な事態になっているなんて・・・。
「じゃあ、千早ちゃんは今・・・。」
「兄貴の手中にあると考えていい。」
伊織が尋ねる。
「これからどうするつもりなの?」
「・・・僕が思うに、千種は完全には兄貴にコントロールされているわけではないんだと思う。千種は、春香に千早のポスターを貼れと言ってきた。これ自体は、望月家の抗争とは何ら関係ない。そこは、純粋にあの女がやらせたいことなんだろう。だけど、それをしなかった時のペナルティーは、兄貴が望んでいる内容だ。となれば、兄貴は最終的には、何だかんだ理由をつけて、そのペナルティーを実行に移すに違いない。あの女をかませているのは、自分が真正面から表舞台に立つことを避けるため隠れ蓑にするつもりだからなんだろう。兄貴の目的は、僕が財閥の後継者になるにはふさわしくないと宣伝して回る材料を作り出すことなんだ。そう考えれば、兄貴は絶対あの事件のことを公にしてくる。」
伊織は話をまとめに入った。
「つまり、要求に応じようと応じまいと、結果は変わらないってこと?」
「そういうことだ。だから、春香、要求は拒否したほうがいい。」
私はゆっくりとうなずいた。
「・・・分かりました。」
正直安心した。いくら千早ちゃんのことを恨んでいたとはいえ、彼女の痴態を私の手でさらしていかなければならないなんて、まっぴらごめんだったからだ。
「それにしても、要求が手ぬるい・・・。」
先輩はぼそりとつぶやいた。
「手ぬるい?」
伊織が聞き返す。
「確かに・・・春香へ求めてきたのは尋常じゃないことだ。だけど、千早を脅してAVに出演させたのと比べると、春香への要求はハードルが低い。多分・・・これには裏があるんだと思う。」と先輩は言う。
「裏ですか?」
「ああ。おそらくだけど、敵の狙いは、春香を大学から追い出すくことなんだと思う。」
「私を・・・大学から追い出す?」
「そうやって、春香を孤独へと追い込んでいこうとしているんだと思う。敵は、ポスターの掲示場所を指定してきた。時間もだ。その狙いは・・・春香がポスターを貼っているところを激写すること。」
伊織が合点がいったという表情を見せて述べた。
「それでまた春香を脅迫するのね。『これがバラされたくなかったら言うことを聞け』って。」
「そうだ。それだけじゃない。多分、あの女、最後は約束を破るだろう。そうやって春香を大学から追い出すのが狙いだ。ならば、僕たちはその裏をかけばいい。」
「裏ですか?」
「ああ、そうだ。明後日の朝にポスターを貼ってある状態にするってことは、明日の夜のうちにこっそり大学に忍び込んで、ポスターを貼るしかない。そして、その様子を収めようと何者かがキャンパスに現れるはずだ。僕たちは、そいつを捕まえる。捕まえて、千早の手掛かりを探すんだ。」
「そんな、危険すぎますよ!」
「大丈夫、別に僕自身が大学に忍び込むわけじゃない。そもそも、僕にそんなスキルはないよ。」
「じゃあ、どうするんですか?」
「・・・うちの配下の人間を使う。」
「それって・・・。」
「表沙汰にはできないところの人間だ。」
暴力団・・・彼はそれに頼ろうとしているわけか。不思議と体が震えてくる。改めて、自分たちが踏み込んでしまった世界が、想像を絶するものだということに気づかされたのだ。
私は湯呑を両手でつかんだ。少しでもこのうすら寒さが凌げればいいと思ったのだ。
「春香、大丈夫?」
伊織がそう尋ねてきた。とても心配そうな顔だ。
「・・・うん。」
「ねえ、俊。私、春香がこのまま無事でいられるとは思えないの。千早だって、秀幸お兄様たちによって拉致されたんでしょ。千早の母親の狙いが、春香たちへの復讐だとしたら、春香の身が危険だと思う。」
先輩はうつむき気味に言った。
「・・・僕もそう思う。」
「どこか安全な場所はないの!?望月財閥の中で!」
「・・・ないよ。思い起こせば分かるだろう。千早は親父が管理していたところから拉致されたんだ。うちじゃ守れない。それに親父は春香に対して、いい印象を持っていない。とてもじゃないけど、協力してくれるとは思えない。伊織のところはどうなんだ?」
「・・・パパに相談しないと分からない。それに・・・パパが協力してくれるかどうかも。」
「伊織、是非お父さんに相談してみてくれないか。」
「分かった。協力するわ。」
どんどん進んでいく話の流れに、私はついていけなかった。気になったのは、大学のことだった。
「もう大学には通えなくなるの?」
先輩と伊織は顔を見合わせた。
「・・・ボディーガードををつけよう。何かあった時に、力づくで助けてくれる頼もしい人だ。伊織、頼めるか?」
「うん・・・それも頼んでみる。」
それっきりしばらくの間無言が続いていた。先輩が思い出したかのように話し出す。
「春香、本当にすまない。うちのごたごたに君を巻き込んでしまって。本当だったら、うちでボディーガードをつけて、春香のこと守ってやんなくちゃいけないのに。だけど、今の僕では・・・何もできない。本当に情けない限りだよ。」
そう言って先輩は頭を垂れた。
「いえ、気にしないでください。」
私は努めて笑顔でいるようにした。先輩が悪いわけではないのだ。全ては、秀幸さんと千種が悪いのだ。
「ポスター、見せてくれないか。」
先輩が私に声をかけた。伊織が、床に置いたツルツルのコート紙を手に取った。先輩はゆっくりと見開く。伊織は、もうポスターを見まいと、顔をポスターから背けていた。
先輩はポスターを開くと、床の上に置いてまじまじと眺めた。そしてまたすぐにポスターを閉じた。
「製作元は分かった。ダメ元だけど、圧力をかけてみる。これを発売すれば、どうなるか・・・。それと、マスコミ業界にもだ。あの女があの事件のことをマスコミに垂れ込むのは確実だ。早いうちに手を回さないとまずい。」
伊織も応じる。
「それもパパにも頼んでみる。ウチでできることは何でもやるわ。」
「ああ、頼むよ、伊織。」
先輩は湯呑をつかみ、すっかりぬるくなったお茶を一気に流し込んだ。
「僕はもう本社に戻るよ。」
そう言って、先輩は立ち上がった。
「もう帰っちゃうんですか?」
私は名残惜しそうにつぶやいた。
「春香・・・ごめんね。まだまだやらなくちゃいけないことがたくさんあるんだ。マスコミ対策をしなくちゃいけないしね、手のモノを動かすのに準備もいるからね。」
分かっている。彼は本当に目が回るほど忙しいのだ。本当ならば、私にかまっている時間なんて一瞬もないのだ。
「先輩・・・また、会えますよね。」
私はどんな顔をしていたんだろう。きっと寂しくて今にも泣きだしそうな顔をしているのかもしれない。
先輩は驚いたような表情を見せたが、すぐにやさしい笑顔を見せて、腰をかがめて、頭を軽くポンポンと叩いた。
「必ず・・・僕は戻ってくるよ。」
その眼にはうっすらと涙が浮かんでいる。先輩は必死に涙をこらえているように見えた。
「じゃあね。」
それだけを言うと、振り返ることなく靴を履き、そのまま家を出て行った。
しばらく無言が続いていたが、伊織が沈黙を破った。
「あの人、泣いてたわね。」
先輩のことだ。
「俊の涙、初めて見た。」
「うん。」
「やっぱり、彼は春香のことを愛しているのね。愛していて、それを我慢している。」
「どうなのかな・・・。」
「きっと、いや絶対にそう。」
伊織はやけに断定的な口調だった。
「・・・ありがとう。」
私はそんな拍子抜けした言葉しかつぶやくことができなかった。
私も伊織も、お互いに顔を合わせることなく、ずっと何をするわけでもないのに、下を向いてテーブルを見つめている。しばらくして、伊織が口を開く。
「もう、避けられないのよね・・・。千早のあれ。」
もうポスターまで刷り上がってしまったのだ。今更世間に出回るのを阻止するのは、正直難しいだろう。それでも、私は希望を捨てたわけじゃない。
「先輩に、期待しようよ。そのために・・・今動いてくれているんじゃない。」
「そうよね。彼に期待するしかないわね。」
伊織がぬるくなったお茶に手を付ける。そして、ゆっくりと私に問いかけるのだ。
「春香、あんたは宿命って信じてる?偶然ではない、必然的なめぐりあわせ。出会うべくして出会って、相対すべく相対する、そんな関係。」
宿命・・・よく考えれば、いやよく考えなくとも、分り切っていたことだ。私は、如月千種の恐怖におびえていたのだ。秋月先生と3人で暮らすようになって、やっと平和が私に訪れた。私は、そんな幸福な生活が、いつか壊れてしまうのではないかと、ずっとおびえてきたのだ。
そして東京に出て、地元から離れられて、やっと私は恐怖から解放された。東京までは追ってこられないはずだ、そう高をくくっていた。だけど、これは逃れられない。なぜならそれは、私そして千早ちゃんは、あの女にとっての「宿命」の相手なのだから。
「『宿命』、あると思うよ、私は。伊織はあると思ってる?」
「そうね・・・、私もそう思うわ。」
「宿命の相手・・・戦って倒さなくちゃいけない相手。あの女だけは、絶対に・・・許さないよ。」
私の目に怒気が宿っているのを感じたのか、伊織が私の手を取ってきた。
「無茶しないでよ、春香。アンタはいつもそうじゃない。無理して、そして一人で傷つている。アンタは一人じゃない。仲間がいるんだから、そのことは忘れないでよ。」
「・・・分かってる。」
分かっているよ、伊織。伊織はこの件に関わっちゃいけないんだ。これはあくまで、私と千早ちゃんの問題なんだ。関わるとろくなことになりはしない。
「だけどね、伊織・・・。」
「何?」
「これは私と千早ちゃん、そして千種の3人の問題なの。だから、伊織は関わらないでほしいの。」
「ば・・・バカ言ってんじゃなよ!これはもうとっくに水瀬財閥と望月財閥の問題になっているの、あんたたちだけの問題じゃない。」
「そうじゃない。元をたどれば、あの女が秀幸さんに加担しているのが問題なの。千種はおそらく望月財閥のことなんか眼中にない。関心があるのは私と千早ちゃんのことだけ。だから・・・この問題は私が何とかするしかないの。」
「何とかって・・・何をするつもりなの?」
「・・・・・。」
刺し違えるしかない。あの女と。あの女が死ねば、秀幸さんは、計画を修正せざるを得なくなるはずだ。そうすれば、先輩が反転攻勢を仕掛けるきっかけも出てくる。
「アンタまさか、あの女と刺し違えるなんて言うつもりじゃないでしょうね。」
さすが伊織は私の目論見に気づいたみたいだ。
「させないわ!そんなことしたら・・・そんなことしたって、何の解決にもならない!秀幸お兄様は、また別の手ごまを見つけてくるだけよ!」
「分かってる・・・だけど、あの女と対決するのは避けられないことなのよ。」
「考え直して、春香!あの女を止める方法は、ほかにもある筈よ。」
「じゃあ、どうやって止めるって言うのよ!」
「それは・・・」
伊織は言葉を詰まらせた。
「でも、あの女の居場所は分からないんでしょ。」
私は答えた。
「うん。あの女は、連絡先も何も言わずに去っていった。」
「春香!とにかく、変な気起こしちゃダメよ。あの女の狙いは、春香たちを不幸にすることなんだから。」
「・・・うん、分かった。」
私はにこやかな笑顔を見せる。
「でも、伊織は心配しなくても大丈夫だよ。私強いから。」
伊織は呆然としている様子だった。