第6節 悪夢再来
結論から言えば、作戦はすべてうまくいかなかった。悉くうまくいかなかったのだ。
伊織の父親は、今回の作戦に全く協力してくれなかったのだ。理由は簡単。望月家内部の争いに巻き込まれたくはなかったからだ。水瀬家自体も社会の闇に加担している。もしこの争いに巻き込まれて、それが明るみに出れば、財閥は崩壊してしまう。それを恐れた伊織の父親は、この度の争いに全く何も関与しないことを決めたのだ。
翌日の夜、先輩は手練れの男を大学の校舎に忍ばせていた。だが、その動きは完全に秀幸さんサイドに読まれていたのだ。先輩の手のモノとは、終ぞ連絡が取れなくなってしまった。敵のスパイを生け捕りにするどころか、こちらが生け捕りにされてしまったのだ。
そして、恐ろしいことが起きてしまった。「国民新潮」というマイナーな週刊誌が、千早が楓を殺してしまった事件について、特集記事を組んで掲載したのである。これが蟻の一穴となった。望月財閥との関係悪化を恐れた他のメディアは封じ込めに成功していたのだが、「国民新潮」の報道によってすべては台無しになった。他のマスコミが報道に追随することはなかったが、先輩の醜聞は広く知れ渡ることになってしまったのである。
なぜ、封じ込めに失敗したのか。伊織の話によれば、この「国民新潮」は、秀幸さんへの支持を表明したある金融機関から巨額の融資を受けていたのだ。その金融機関の圧力に抗しきれず、例の記事をすっぱ抜くことになったらしかった。
悪夢はそれだけでない。12月初旬、千早ちゃんのあのポスターが、何者かによって張り出されていたのだ。それも1枚ではなく、5枚も!
構内は朝から好奇の目をした黒山の人だかりででパニックになった。もちろん、私はそんなことに関与していない。恐らく、秀幸さんサイドの「手のモノ」が行ったのだろう。
たちまち、千早は大学を離れて久しかったのにもかかわらず、一躍時の人となってしまった。週刊誌が例の事件をすっぱ抜いたのとほぼ時を同じくしたこともあり、千早は「淫乱な女」というレッテルを貼られることになった。
学内でも、あまりにもタイミングがドンピシャであったことから、これは千早ちゃんによる「復讐」なのだと囁かれた。千早ちゃんは、先輩にもてあそばれて捨てられた。だから行方をくらませた彼女は、すべてを暴露して、AVにまで出捐して、彼に精神的苦痛を与えるのが目的なのだとまことしやかに噂された。
先輩はほどなくして、大学に全くこれなくなってしまった。もちろん、秀幸さんの陰謀を解くのに忙しいという事情もあるだろう。だけど、彼が大学にこれなくなってしまった理由は、明らかに今回の事件が原因だった。
伊織の話によれば、大学の卒業には支障がないらしい。レジュメは確保できているし、この冬の試験さえ乗り切ってしまえば、卒業単位をすべて満たすことができるからだ。
私についていえば、今まで通り生活することになった。ぼろいアパートに住み、ボディーガードもなし。私にとっては、それが一番自然だったし、心落ち着く生活だった。私には、もう逃げ場所はない。見ず知らずの場所に引っ越してしまうよりかは、伊織と先輩の二人から支援を受けられる状況下にいたほうが、遥かに安全だったし、安心できた。
時が経つにつれて、私の千早ちゃんへのふつふつと沸いていた怒りは、すっかり雲散霧消していった。その代り、こんなことを引き起こした千種への憎しみが沸き起こってきたのだ。彼女のせいで、千早ちゃんはありもしないデタラメな噂を流され、彼女の名誉と尊厳は地に落ちてしまっている。
こんなこと決して許されるはずがない。自分の娘がこんなことになって、こんなことをして、手を叩いて喜んでいる人間なんて、母親である以前に人でなしだ。
私はそんなあの女のことが許せない。復讐したいって思っていた。だけど、あの女に会う方法がなかった。連絡先を聞いていなかったし、どこに住んでいるのかも分からない。そしてそれを突き止める方法もない。
悶々としながらも、私は何もできないまま、千早ちゃんの悪いうわさが広がっていくのをただ見守ることしかできなかった。
年が明けた1月中旬のことだった。
中亭大学では、年が明けた1月の頭ぐらいから徐々に期末試験が始まっていく。試験期間中にかからない語学が先行して行われ、その後集中的に各科目の試験が行われるのだ。
試験期間の初日、午後1時頃のことだ。私は試験を終えて、昼食も取り終え、明日の科目に備えようと急ぎ足でキャンパスを横断していた。
その時だ。この間と同じ、キャンパスの柱にもたれかかって、誰かが来るのを今や遅しとまっている、あの女がいた。特徴的な青く長い髪、痩せこけて老けて見えるしわくちゃな顔。
奴の狙いは明らかに私だった。だから、もう逃げない。私は立ち向かってやるんだ。あの女に。
急ぎ足がさらに急ぎ足になって、一直線にあの女へと向かっていく。こちらめがけて歩いてきていることに千種も気づいていた。しかし、表情一つ変えず、千種はまっすぐにこちらを見据えている。
やがて、10メートルくらいの間まで迫ってきて、千種は柱から体を離し、こちらの真正面を向いて、腕を組んで待ち構えた。
彼女の目の前まで来て、私は立ち止まる。千種の方が声をかけた。
「久しぶりね、天海さん。」
私は何も言わず、ただあの女をにらみつけている。前にあの女に会った時から、私はカバンの中に刃物を忍ばせることにしていた。いざというときに、あの女を刺し違えることができるようにするためだった。幸いにも、今日も刃物はカバンの中に入れっぱなしだ。刺し殺そうと思えば、刺し殺せる状態にある。
だけど・・・千早ちゃんはあの女の支配下にある。いわば人質だ。それに、あの女一人じゃない。バックには秀幸さんがいる。あの女を殺ったとしても、千早ちゃんが帰ってくるという保証はない。むしろ、もっとひどいことをされるんじゃないだろうか。そんな気がするのだ。
千種は言う。
「あなたに用があるの。」
「・・・嫌だと言ったら。」
「あなたに選択権は無いはずよ。」
拒否すれば、千早ちゃんがどうなっても知らないということか。
「それとも、もうあの女のことは見限ったのかしら。あんたにとっては、望月俊を寝取られた泥棒猫だものね。」
あの女の顔に嘲笑が浮かんでいる。その顔を見ると、ますます怒りのボルテージが上がっていくようだった。
「千早ちゃんは・・・彼女は、無事なの!?」
「ええ・・・。私たちのもとで元気に暮らしてるわ。」
「嘘よ!千早ちゃんを返して!」
「返す?あんたのもとに?」
そう言い放つと、あの女は声をあげて笑った。
「もともとあんたが彼女を拒んだんでしょ。そんなことも忘れたの?」
この女、私たちが喧嘩別れしたことも知っているようだ。
「あんた・・・千早ちゃんが今世間でなんて言われているか知ってるの!?」
千種は笑いながら言う。
「当然でしょ。私の娘なんだから。あの女は『淫乱』『復讐鬼』そう言われてるわね。当然の報いだわ。」
ふざけないでよ、あんたのせいでしょ全部!
私は心でそう思いながら、両手で握りこぶしを作って震えていた。今にも殴りかかりたい衝動に駆られる。
「こんなところで殴り掛かるわけ?今度は警察沙汰ね。」
あの女の蔑んだ声で我に返る。そうだ、これは挑発なのだ。しかも軽いジャブみたいなものだ。こんなものに乗せられちゃいけない。
私にはやることがあるはずだ。この場に現れたこの女を、先輩に通報することだ。私は携帯電話を取り出した。今すぐに連絡しなくちゃ。先輩に引き渡して、何とかして千早ちゃんの居場所を聞き出さなくちゃいけない。
いや、それもダメだ。結局あの女に危害を加えようとすれば、千早ちゃんに危険が及ぶことになる。じゃあどうすればいい・・・。どうやって千早ちゃんの居場所を聞き出せばいいのか。
「あの男に助けを求めるつもりなんでしょ。」
千種がにやにやしながら言い放つ。私は無言であの女を見つめていた。
「私がノコノコ何の準備もせずに、あんたの前に姿を現すとでも思った?あんただって分かっているんでしょ。私が一人で行動しているわけじゃないって。」
「・・・だったら何よ。」
「もし私が戻らなければ・・・私の仲間は私が捕らえられたと思うでしょうね。そうなったら、どうなるか・・・賢いあんたなら予想がつくんじゃないかしら。」
私は携帯電話を再びカバンの中にしまった。結局、私には何もできないのか・・・。
「良い子ね、天海さん。さっ、ついてきなさい。」
そう言うと踵を返して、彼女は階段を降り始めた。私は黙って彼女についていくしかなかった。行先は、前回と同じ、あのカラオケボックスだった。
カラオケボックスに着くと、あの女がカタログをパラパラとめくりだした。
「私はあんたと歌を歌いに来たわけじゃないの。私も忙しいの、要件をさっさと言いなさい。」
「試験期間中だものね。」
彼女はそんなことお構いなしに、パラパラとめぐり続ける。頭に来た私は、乱暴に千種からカタログを取り上げた。
「いい加減にしなさいよ!」
私は怒鳴りながら、あの女をにらみつけた。あの女は表情一つ変えず、ドリンクバーから持ってきたウーロン茶を一口飲んだ。
「・・・良いわ。さっさと本題に入りましょう。」
一呼吸おいてから、あの女はゆっくりと話し始めた。
「千早のAV、売り上げは芳しくないわね。どうもネットで全編が流れちゃってるのが問題らしいわ。」
伊織から聞いていた。千早ちゃんのAVは、発売されてから間もなくして、その全編がネットのエロ動画サイトにアップロードされていたのだ。何者かが、国内の主要なエロ動画サイトにアップロードしていたのだ。国民新潮の記事が出たばかりの時期だったこともあり、その動画の再生数は数十万再生に上っていた。恐らくは、目の前にいるこの女が流出させた・・・。
「あんたが流したんでしょ・・・。」
あの女は薄ら笑いを浮かべながら、手を横に振る。
「そんなわけないでしょ。あの動画が流れちゃったら、収益が減るのは私たちなんだから。どうして、その私たちが動画を流すことになるわけよ。商業的にあり得ないでしょ、」
「アンタの目的は収益なんかじゃない。千早ちゃんへの復讐でしょ!」
「ふふふ・・・それもそうね。まあ、誰がしでかしたか知らないけど、あの動画はなかなかの良い宣伝材料になったようだわ。」
「だから何?」
「だから・・・2作目を出そうと思うわけよ。ネットでも評判をかっさらったあの子の2作目。これは大いに売れると思うわ。」
「・・・・・。」
私は黙って聞いていた。
「そこで、今度はあんたにもデビューしてもらおうと思うのよ。美人で豊満なバディーの現役中亭大学生としてね。それで二人でレズセックスをしてもらうわ。」
わ・・・私が・・・アダルトビデオに・・・。
「そんなの・・・」
「『嫌に決まってる』そう言いたいのかしら?」
「・・・・・。」
「いいのかしらねー、千早は私たちが握っているのよ。従わないと、どうなるか・・・分かっているんじゃないの?」
あの女は目を輝かせて迫ってくる。私はそんなあの女から首を曲げて、目をそらしていた。
「まあ、今すぐ決めろとは言わないわ。少し時間をあげる。」
そういうと、千種は自分のバックからメモ帳とペンを取り出し、さらさらと何かの番号を書き出した。それをちぎって私に渡す。
「これ、私の携帯の電話番号。決心したら、今から1週間以内に連絡しなさい。そうしたら、場所を指定するから、そこに来るのよ。」
そういうと、あの女は私が取り上げたカタログを奪い返し、またパラパラとページをめくり始めた。
「もう帰っていいの?」
私はあの女に尋ねる。
「そうね。言いたいことは伝えたわ。帰りたければ、帰りなさい。」
私は少し戸惑いながらも、カバンを取って、部屋を後にしようとした。その時、あの女がこんなことを言った。
「あの子、ジャーナリストになるのが夢なんですってね。自分の境遇を世間に発信したいんだとか。」
「・・・そうよ。千早ちゃんの立派な夢。こんなことにならなかったら、きっとかなえていたであろう夢よ。」
「そういうまっすぐな性格が、あの人は嫌いだった。前の旦那に似てたからね、そういう性格。」
千早ちゃんの本当のお父さんか・・・どんな人だったんだろう。
「あの人が病気で死んだ。それから・・・すべてが変わってしまったのよ。千早も私も何もかもね。」
「だけど、こんなことをしたのは、あんたの選択なんだよ。全部、あんたのせいだ!」
「ふふふ・・・。」
あの女は不気味に笑っていた。私はそんなあの女が恐ろしくなり、閉ざされた密閉空間から這い出るようにして出て行った。あの女は、しばらくそこにいる様だった。
私はすぐにカラオケボックスを出て、しばらく走って駅の方に向かった。あの女が追ってきていないことを確認すると、私は先輩に電話をかけた。この一件があって以降、先輩は緊急時にすぐに私から電話を受けられるように、着信拒否を解除していたのだ。
何コールかした後に、先輩は出てくれた、
「もしもし、春香?」
「先輩!大変なんです。あの女が現れたんです!」
「本当か!?今どこにいるんだ?」
「中亭大学駅の近くです。話し合いが終わって、私だけ帰ることを許されて抜けてきたんです。千種は、カラオケボックスの中にまだいます。」
「そうか・・・ただ・・・ちょっと今は抜けられそうにない。拘束するにしても、手のモノを向かわせるまでに、時間がかかる・・・。」
「尾行だったらできますよ。」
「いや、それは止めたほうがいい。あの女はカラオケボックスにわざと残ったんだろう?あとをつけられるのを承知のはずだ。罠かもしれない。それに春香一人でそんな危険なことはさせられないよ。それよりも、またあいつは春香に何か要求を突き付けてきたんだろう?」
「ええ・・・。」
「今日の夜、またそっちに行っていいか?」
「はい。大丈夫です。」
「分かった。じゃあ、伊織も連れてきてくれ。」
「・・・分かりました。」
正直、伊織を呼ぶのは気乗りがしなかった。そもそも伊織はこの件に何にも関係がないはずだ。にもかかわらず、半ば彼女を巻き込むような形にするのは、とても心苦しかったし、心配だった。
その夜、午後8時頃、私の家に3人が会すると、私は今日起きたことを2人に説明し始めた。
「今日の午後1時頃、あの女がキャンパスに現れたの。目的は今回も私に会うことだった。」
伊織が口を挟む。
「会って、また何か無理難題を春香に吹っ掛けた。そういうことね?」
「うん。」
「で・・・何を要求されたんだい?」
先輩に問われて、私はどぎまぎしながらも答えた。
「私に・・・AVに出ろって。千早ちゃんと一緒に・・・その・・・。」
「分かった。もういい。」
言いにくそうにしてもじもじしている私を見て、全てを悟った先輩は、強引に話を遮った。
伊織も大層あきれ顔だ。
「またとんでもないことを考えるのね。あのあばずれ女は!」
「それで・・・1週間以内に決断して、決まったらここに電話を掛けろって。」
私は、カバンの中から、あの女の走り書きしたメモを取り出した。
「電話番号か・・・。」
先輩はそれを見て唸った。一方伊織は喜びの声を上げる。
「やったじゃない、これであの女の場所を特定できるわ。」
「どういうこと?」と私は聞き返す。
「逆探知よ、逆探知。相手に電話をかけさせることができれば、それで場所が特定できるじゃない。」
「伊織、映画やドラマにあるような逆探知装置なんて存在しないんだよ。」
伊織は目を丸くした。
「えっ、そうなの?」
「そう、だから僕が気にしているのは、こうやって僕たちに通信手段を与えたその意味についてなんだよ。」
私は先輩に尋ねる。
「つまりそれって、罠かもしれないってこと?」
「ああそうだ・・・。少なくとも、この脅迫に応じることはできないってことだ。考えれば分かる話だが、春香がAV撮影をして、そのまま素直に家に帰してくれると思う?」
「・・・そうとは思えない。」
先輩は述べる。
「千早の母親が、春香と千早の二人を恨んでいるのだとすれば、二人とも拘束してしまいたいという思うのが普通だと思う。極端なことを言えば、今この瞬間にだって、春香を拉致してしまうことは可能なんだ。あの女は、春香に接触できた。恐らく、春香のこの住居も知られてしまっているはずだ。」
先輩の冷厳な言葉に、背筋が凍る。伊織も表情を失っていた。
「ただ、拉致をするのは少しハードルが高い。だから、春香自ら来させるよう仕向けているということだ。あるいは、春香に恐怖を募らせるために、敢えて拉致をしないのかもしれない・・・。」
伊織が別の質問をした。
「もしも春香が来なかったら・・・どんなことになるの?」
つまり、脅迫材料は何なのかということだった。
「具体的なことは明かされなかったの。ただ、千早ちゃんに危害が及ぶような内容だった。」
伊織がさらに詳細を尋ねる。
「危害を加えるって具体的にはどういうことよ?」
「分からない。『千早は私たちが握っているのよ。従わないと、どうなるか・・・分かっているんじゃないの?』そう言われた。」
またしても重い沈黙が流れる。気候のせいもあるが、空気が完全に凍り付いてしまったかのようだった。
しばらくして、先輩が言った。
「最悪の場合、命を落とす・・・そういうことか。」
伊織は反論する。
「そうとは限らないわ!あの女の目的が二人への復讐なら、すぐに殺したりはしないはず!」
「だから!最悪の場合って言ってるだろ・・・。」
しばらくして、先輩がこんな提案をしてきた。
「春香、お願いがあるんだ。」
「・・・なんですか。」
「発信機を・・・つけさせてほしいんだ。
「発信機ですか?」
「ああ。体に埋め込ませてほしい。」
か・・・体に?
伊織も驚いて聞き返す。
「どういうことよ、体に!?」
「ああ。もし万が一春香が拉致されたときに、その居場所が分かるようにするためだ。知り合いの医者がいてね、これくらいなら親父に妨害されずにやれるんだ。春香の居場所が分かってさえいれば、いざというときに助け出すことができる。転ばぬ先の杖だ。いいね、春香。」
「・・・分かりました。」
「まあ、常に場所が分かっているなら・・・そっちのほうが安心よね。」
伊織も賛同した。
「僕の予想では、あの女の目的は、徐々に春香と千早を苦しめることだと思う。だから、すぐには強硬な手段には出ない。だけど・・・分からない。どうして、兄貴は千早の母親を野放しにするようなことをしているんだ。いくら今回の一連の出来事を、千種の暴走に見せかけるためとはいえ、あそこまで復讐に手を貸す義理はない。」
伊織も首をかしげる。
「確かに、それが分からない・・・。そもそもお兄様にとって重要なのは、俊のスキャンダルを暴露することのはず。確かに、自らの手を汚さずに、ということはあるかもしれないけど、でも千早の母親をわざわざ使う必要はない。それにもう・・・スキャンダルは表に出てしまっている。にもかかわらず、まだあの女の復讐に手を貸している。」
「とても不気味だ。兄貴は、元々何をしでかすか分からないところがあった。だけど、今回ばかりは本当に動きが読めない。」
伊織が今の戦況について先輩に尋ねる。
「それで、どうなの?お兄様の反乱は。抑え込めそうなの?」
先輩は少し答えにくそうに答える。
「まだ分からない。あんなスキャンダルがあったばかりだからね。僕を後継者とすることを直ちに認めるわけにはいかないという事情があるんだろう。ただ、兄貴を積極的に支持する大株主も予想よりは少ない。まだ十分に巻き返せるさ。」
「ふーん。」
伊織は淡白な反応を見せた。
「春香、明日、手術をしよう。早いほうがいい。」
「・・・はい。分かりました。」
「それと、この連絡先のメモはもらっていくよ。」
そういうと。机の上にあったメモ書きをポケットに忍ばせた。
「少しこいつを確かめたい。居場所のヒントになるかもしれない。それと、春香はこの番号に掛けちゃだめだからね。」
「分かりました。」
「うん。じゃあ、僕は先に失礼するよ。病院に連絡したりしなくちゃいけないからね。」
先輩はそう言って立ち上がると、わき目も降らず、部屋を出て行った。
後には、伊織と私だけだった。
二人は何も語らず、ただテーブルを見つめるだけだったが、ふと私がつぶやいた。
「千早ちゃん・・・どうなっちゃうんだろう。」
伊織は何も答えない。その手はわずかに震えている。
「伊織?」
「私・・・怖いの。」
怖い?
「どうして、伊織がおびえる必要があるのさ。伊織が当事者というわけじゃないんだよ。」
伊織はそれに対して何も言い返さない。ただ黙って下を向いているだけだった。
「伊織・・・もうそろそろお家に帰ったほうがいいんじゃない?明日もテストがあるんじゃないの?」
時間はまだ夕方だったが、明日のことを考えるともうそろそろ帰らせたほうがいい。伊織には、明日があるのだ。明日があるとも知れぬ私とは違う。
「うん・・・そうね。」
そういうと、お茶を飲み干し、荷物をまとめ始めた。先輩が機敏に動いていたのとは違い、伊織は実にゆっくりとしていた。
「じゃあね、伊織、また明日。」
「・・・またね。」
伊織は力なく玄関を開け、うちから出て行った。