第7節 伊織の献身
この翌日、試験が終わったのち、私は望月家が懇意にしている大学病院で、体に発信機を取り付ける手術を行った。事前に聞いた話では、臀部、つまりお尻に発信機を取り付けるとのことだった。そこが体への負荷が一番少ないのだという。
これで、先輩にリアルタイムで監視してもらう体制が整った。
一方で私は、先輩の言いつけ通り、千種の要求を完全に無視することにした。あの女の電話番号は、携帯電話の中に登録していたが、もちろんそれに電話をかけることもせず、あの女の要求に応じることは無かった。
伊織を通じて聞いた話だが、あの携帯電話番号は、どうやら表の基地局にはつながっていない闇の携帯電話番号らしい。そこから持ち主、そしてその場所を特定するのは困難ということだった。
表面的には平和な時間が流れていった。期末試験も無事終わり、長い長い春休みが始まった。私は、夏休みと同じように、アルバイトをしたり、伊織や美希と息抜きで遊んだりしていた。
そんな満ち足りた時間は、突然終わりを告げる。
2月中旬のことだった。この日は、午後からアルバイトがあったので、午前中は家でゲームをしていた。時刻は午前10時頃のこと。
ピンポーン
突然、家のベルが鳴った。私はゲームを一時中断し、来客対応の為、玄関口へ向かう。のぞき穴からその姿を見た。私はその姿に度肝を抜かれた。
如月千種・・・その人が私の家の前に立っていたからだ。
ピンポーン
「いるんでしょ?」
さっき足音を立ててしまった。別に防音装置をしているわけでもないから、居留守を使っても無駄だ。
とはいえ、この女を部屋の中に入れるという選択肢はない。そんな危険なこと、できるわけはない。私がこの部屋の扉を開けない限り、この部屋が今は一番安全なのだ。
私はとにかく部屋の中へ戻り、部屋のカーテンを閉め、部屋の中で頭を抱えつつ震えていた。
ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン
千種は執拗にチャイムを鳴らしてくる。
「居留守を使っても無駄よ。」
ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン
10回くらい鳴らした後だろうか。
「アンタにプレゼントよ。」
そういうと、何か固いものを郵便受けに差し込んだ。コツコツとヒールの音がする。どうやらあの女は去っていったようだった。
私は恐る恐る郵便受けに近づき、差し入れられたものを取り出した。少し大きめの封筒にPS2のゲームケースのようなものが入っているようだ。私は封筒の封緘を破り、それを取り出した。
信じられないものだった。
それは・・・千早ちゃんのAVだったのだ。それも以前に見たのとは違う。千種が言っていた2作品目ということだ。しかも、おどろおどろしいパッケージが描かれていた。千早ちゃんは、暗い監獄のような場所で拘束され、そこで男たちに執拗に責められているのだ。千早ちゃんは宙づりにされたり、鼻にフックを取り付けられたり、鞭で叩かれたり、ロウソクをたらされたりしている。
私は血の気が引いて、それを放り出してしまった。封筒の中には、封書が入っていた。私はそれを取り出したが、そこには血も凍るようなメッセージが書かれていた。
「次はあなたの番よ。天海春香さん。」
私は直ちに携帯電話を取り出した。この恐怖、早く誰かに相談しなければ、気がくるってしまいそうになる。
まず先輩に電話を掛けたのだが、つながらない。携帯の電源をオフにしているようだった。そこで私は、次に伊織に助けを求めた。伊織はすぐに電話に出てくれて、私が伊織に泣きつくと、超特急で車を向かわせてくれた。
伊織が部屋に入ってくると、私はすぐに伊織に泣きついていた。
「いおりぃ~。」
「ちょっ、ちょっと、いきなり抱き着かないでよ。」
「いおりぃ~、こわぁかったぁよぉお~。」
私は涙をぼろぼろと流している。
「分かった、分かったって、分かったから落ち着きなさいよ、春香。」
伊織は抱き着いてくる私を放しながら、私を落ち着かせようと頭をポンポン叩いてくる。
私は伊織の言葉に応じて、伊織に体重をかけるのをやめて、伊織の手を引いて部屋の真ん中のテーブルがあるところまで連れてきた。
伊織がクッションもない床に着座する。
「それで、さっきの話だと、千早の2作品目ができてしまったって話なのよね。」
「うん・・・。」
私は窓の近くの床に投げ捨ててある、封筒を指さした。伊織は立ち上がって、それを拾い上げて、中身を取り出す。
「なっ・・・。」
思わず伊織も言葉を失った。そのまま数十秒間固まっていた。そして封筒の中に、一枚の封書が入っていることに気づき、それも取り出して一瞥した。
「これは・・・。」
伊織はそのDVDと封書を封筒の中にしまった。そしてそのまま力なく座り込んでしまった。
「ひどい・・・ひどすぎるわ。」
伊織が唸るようにして声を絞り出す。言い様もない絶望感に打ちひしがれていた。
しばらくして、伊織が立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。私はぼーっと下を向いている。伊織が肩を抱き寄せる。
「逃げよう、ここから。」
「逃げるったって・・・どこに逃げればいいのよ。逃げ場なんてないよ・・・。」
「俊のもとに逃げるの。彼なら・・・いや、彼しかいないよ。春香を救えるのは。」
「そんなこと言ったって・・・今彼は力を失っている。私を匿うことなんてできないよ・・・。」
伊織はしばし黙っていた。そして、思い出したかのようにあることを述べ始めた。
「前に春香聞いたよね。どうして私がサークルをやめたのかって・・・。」
確かに、昔そんなことを聞いたことがあるような気がする。もうあまり覚えてないんだけど。
「その時、私ははぐらかしたけど、私がサークルをやめたのは、自分の身が危ないって感じたからなの・・・。千早と美希がつるんでる。そのせいで、千早に、私があんたに入れ知恵をしているって知られてしまった。千早はひどく怒ってた。私の動機が不純だったからね・・・。それに、春香が俊をゲットするのは至難の業、というか無理だった。本当にそんな夢をかなえるなら、彼の不倫相手になるしかない。そんなことが幸せじゃないって、ちょっと考えればわかること・・・。だけど私は、望月家と雪村家の婚姻を邪魔できる可能性に賭けていた。それが無理なら私は、春香と俊の不倫現場をマスコミにタレこんで、望月財閥にダメージを与えよう、そういう不純な動機で春香を支援してきた・・・。私は、春香の幸せのことなんてこれっぽちも考えていなかった。」
伊織が震えている。
「私には自負がある。水瀬財閥15万人のトップの娘っていう自負がね。だから、望月と雪村さんの婚姻を邪魔しようと思ったの。家の命令でもあったけど、それが組織の為だと思ったから。だけど・・・私は、無責任だった。無責任に逃げ出した。中途半端に春香を助けて・・・、千早に見つかると逃げ出して・・・、何が起こるかなんて全然考えてなかった・・・。挙句の果てには、私は春香に千早を殺すよう唆した。そして気づけば、こんなことになっちゃってる。正直な話・・・私怖いの・・・。口では散々偉そうに、『裏の世界』を知っているそぶりを見せてきたけど、実はは何も知らない。あくまで人から聞いた話と、膨らませた想像だけ。」
伊織の様子がおかしい。
「伊織・・・?」
伊織が声を殺して涙を流しているのだ。
「私・・・とんでもないことをしてしまったの・・・。パンドラの箱を・・・開けてしまった。」
パンドラの箱・・・ギリシャ神話に出てくるあらゆる災厄が詰まっている箱のことだ。
「どういうこと・・・伊織?」
伊織は恐る恐る語り始めた。
「春香・・・不老不死って知ってる?」
不老不死、文字通り、老いもせず死にもしないということだ。
「知ってるよ。」
「人間は誰しもが老いる。そしてやがては死んでしまうもの。これは生物の絶対の法則で、例外はない。だけど、もしこの不老不死がこの世のものになったとしたら、どうなるかしら。」
「どうなるって・・・。それっていいことなんじゃないの?誰も死にたいなんて思っていない。みんなできるだけ長く生きたいって思っているじゃない。」
「・・・もしその技術が、近い将来実現できてしまうとしたら?」
実現できる?何を言っているのだ?
「そんなのおとぎ話なんじゃないの?不老不死なんて現実には・・・。」
「もし望月財閥がその秘法を研究していたとしたら?」
まさか・・・。
「研究しているの・・・?」
「・・・ええ。実用化に向けて研究が進んでいる。多分、世界で一番リードしていると思う。」
そんなことをしていたなんて・・・。
「もし望月財閥が不老不死の秘法を開発すれば、世界はきっとカオスになるでしょうね。お金持ちだけが永遠に寿命を延ばし続け、貧乏人は寂しく死んでいく。そして・・・それを開発した望月財閥は間違いなく比類なき富を築く・・・。やがて世界人口は飽和してしまう。」
私は黙って伊織の言葉に耳を傾けることにした。
「人間がどうして老いて死ぬのか、それは細胞分裂の回数に限りがあるからなの。細胞には、テロメアというものがあって、細胞分裂をするとそれが短くなっていく。それが老いというものなの。やがて、細胞分裂回数が限界を迎えると、その細胞は死ぬ。つまり、人が寿命を迎える。だけど、テロメラーゼという酵素は、この短くなったテロメアを修復する力がある。でも、その修復力にも限りがあるから、やっぱり細胞は最後に死んでしまう。でももしも、このテロメラーゼを活性化させることで、テロメアを永久に回復させ続けることができれば・・・。」
「不老不死が実現できる・・・。」
「そういうこと。実は人間の細胞でも、がん細胞のテロメアは減少しないことが既に分かっているの。」
「へえー。」
「このテロメラーゼなんだけど、実はそれを活性化させるサーチュイン遺伝子という酵素が人体には備わっているの。その賦存量は人それぞれなんだけど、極めてごく稀にその賦存量がとてつもなく多い人がいるの。」
「ふーん」
伊織はとても言いにくそうにしている。
だがやがて、意を決したのか、伊織はついにそれを口にした。
「あなたの母親もそんな一人だった。」
「私の母親が・・・。」
「望月財閥はかねてから不老不死の研究に力を入れていたわ。金のにおいがプンプンするからね。でもその作成は容易ではない。当時の科学でも、サーチュイン遺伝子の量の多寡によって寿命が左右されるということまでは分かっていた。だけど、そのサーチュイン遺伝子は、科学的に合成することはできない。そこで望月財閥は、このサーチュイン遺伝子が多い人間を見つけ出すことにした。健康診断の事業に参入して、そこから得られた人体データから、このサーチュイン遺伝子が多い人間を探していたの。」
「私の母親もその遺伝子が多かった。」
「あなたのお母さんのサーチュイン遺伝子の賦存量は他の人よりもけた違いに多かった。今までに見たことないくらいに多かった。そこで望月財閥は、あなたの母親に協力を要請した。不老不死研究計画、通称E計画の被験者になるようにね。」
「それで、私の母親はそれを受けれたの?」
「いいえ・・・受け入れなかった。拒否したの、彼女は。」
「どうして・・・。」
「まともだったからよ。まともな人間だったら、人間の不老不死が達成されてしまえば、どんな問題が起きるかすぐに想像がつく。人口が飽和して、人間そのものが生活できなくなる。誰が死ぬかで揉めて、大きな争いになる。それが目に見えていたから。だから、あなたのお母さんは被験者になることを拒絶したの。だから、望月財閥は・・・彼女を拉致した。」
拉致!?
「彼女の体を人体実験に使って、不老不死の研究を始めた。望月財閥はiPS細胞の研究成果を盗もうとしていたけど、それも不老不死細胞を効率的に増殖させて、このE計画を進めるのが目的だった。望月財閥が雪村家との縁戚政策を進めたのも、雪村家が深い関わりを持つ高度技術の研究所を押さえるのが目的だった。iPSの技術だけじゃなかったのよ。でもそれがダメになって、今度は医薬品業界で優位に立つ水瀬財閥との提携を進めた。全ては、このE計画を完成させるためだった。」
「どうしてそんなことを知っているの・・・?」
「私は・・・望月家との提携に疑問を持った。望月家の動きがあまりにも早すぎるし、うちだって、医薬品部門での提携に直接のメリットはない。何か裏があるような気がしていた。そして私は、パパの書斎で、この計画に関する資料を見つけたの。私はそれを・・・望月秀幸に譲り渡した。あるルートを使ってね。」
なんだって!?
「あの人に譲り渡したの!?」
「望月のお父様が生きている限り、俊は一生あの人の奴隷。春香も千早も、ずっと不幸のまま・・・。私は、そんな3人が不憫だった・・・。もし秀幸お兄様が会社を乗っ取って、お父様を財閥から排除できれば・・・。」
「先輩には何の制約も無くなる。」
伊織は声をあげて泣いていた。
「こんなぁことになるとぉは思わなかったぁ!こんなぁ形で春香や千早が傷つくなんて、思いもしなかったぁぁ!」
「伊織・・・あなたは財閥を裏切ってまで・・・。」
「私はぁ、あなたたちに幸せになってほしかったぁ。特に春香には!」
「私に・・・?どうしてよ?」
「だって・・・あなたは・・・。春香は・・・本当に産まれてはいけない人・・・」
その時だ。
ドンドンドン。玄関を叩く強い音が聞こえる。
「誰ですか!?」
「水瀬の人間だ。ここを開けなさい!」
伊織が血相を変える。
「そんな・・・どうしてここが・・・。」
どんな手を使ったのか、しばらくして、ドアの鍵がガチャリと空いた。黒づくめのスーツを着た、いかつい男2人が土足で部屋に入ってくる。
「やはり、お嬢様だったのですね、裏切者は。」
「誰よ!あんたたち!?」
「我々は、水瀬家のシークレットサービスです。お嬢様、あなたを保護しにまいりました。」
「保護ですって・・・。」
「我々は望月剛三郎様の依頼を受けて、お嬢様の動きを監視しておりました。お嬢様が裏切者だという匿名の通報があったもので。失礼ながら、調べさせていただきました。」
「どうやって・・・はっ、まさか」
伊織はカバンの中のうさちゃんを手に取った。
「その中にカメラとマイクを忍ばさせていただきました。」
「うさちゃんに・・・なんてことを・・・。」
伊織は声を震わせている。
「お嬢様、無駄話はこれくらいにいたしましょう。こちらにお越しください。でなければ、手荒な真似をしなければならなくなります。」
伊織は腰が引けているようだった。動こうとしない伊織を見て、シークレットサービスの男たちが伊織に近づく。
「何するんですか!やめてください。」
「どいてください!怪我しますよ!」
私は伊織に立ちはだかるようにして静止しようとしたが、屈強な男たちに簡単に跳ね飛ばされてしまった。そして、伊織は男2人に捕らえられた。
「離してよ!?」
「行きますよ。お嬢様。」
「伊織!」
男2人が、伊織の両手両足を持ち上げて連れ去っていく。私は伊織を連れ去ろうとする男に対して、必死で食らいつこうとした。
「邪魔すんな!」
私は男一人に足で蹴られた。
「春香!無理しないで!これでいいの!私は大丈夫だから!追ってこないで!」
痛みで立ち上がれない。慣れているのか、男たちはもう部屋の中からいなくなっていた。私は何とか立ち上がり、ふらふらと玄関先に向かい、伊織の姿を探した。伊織は、外に止めてあった黒塗りの車に押し込まれ、すぐに急発進してしまった。