第8節 新堂の親心
あの日以来、伊織と連絡をつけることはできなくなった。美希には、何があったのかを話した。伊織が私たちを救うために財閥を裏切ったということを。
私には分からなかった。あそこまで財閥に執着し、水瀬財閥の一員であることに誇りを感じていた伊織が、どうして私たち何かのために、一族を裏切るような真似をしたのか。
あれから数日が経過した日のことだった。私は家でぼーっとしていた。特に何かやることがあるわけではなく、朝からずっと布団にもぐって、ただぼーっとしていたのだ。私の目の前から、大切なものがどんどん失われていくような気がした。
千早ちゃん、先輩、伊織・・・そして今や自分の体さえ狙われている。逃げ場所はない。逃げるあても自信も何もかもない。私はどうしたらいいかわからず、ただぼーっとしているしかなかった。
死んでしまおうか、ふとそんな考えがよぎる。もう逃げても仕方がない。千種に場所を特定されてしまった。きっと私も千早ちゃんと同じような憂き目にあうのだろう。だとしたら、もう生きていることそれ自体が苦痛に思えてくる。
死ぬことが千種への最大の復讐のように思えてきた。あの女は、私を痛めつけて喜んでいるのだ。そんなあの女への最大級の復讐は、自ら死んでその機会を奪ってしまうことだ。それがいい・・・。もう、それしかないんだ。
そう考えると、不思議と気持ちが楽になった、もう何も考えなくていいということが、どれほど快感なのか、自分で理解できたような気がする。
だけど、いきなり死んでしまうことはできない。死ぬ前に最後に、私を助けてくれた人たちに感謝の言葉を伝えたい。
気づけば私は携帯電話を取り出していた。かけた先は、“お母さん”だ。今日は平日、しかもこの時間だったら、多分普通に勤務しているはず。電話に出てくれるかどうかは分からなかった。
プルルルルルルル
プルルルルルルル
プルルルルルルル
プルルルルルルル
プルルルルルルル
やはり出ないのだろうか。しょうがないよね、先生は私みたいに暇じゃない。また掛けなおそうかな。
その時だった。
「もしもし、春香!?」
先生が出てくれたのだ。
「お母さん、久しぶり。」
「もう、ビックリしたじゃない。突然電話してくるんだもの。」
「ごめんなさい、お母さん、授業中だった?」
「いや、待機中だったけど。じゃないと、電話出られないわよ。」
「そうだよね・・・。」
「それより、千早は今どうなってるの?」
お母さんが食い気味に千早ちゃんのことを尋ねていた。千早ちゃんと連絡がとれなくなってから数か月が経った後、お母さんから連絡があったのだ。当然のことながら、私と千早ちゃんが音信不通であるということは、お母さんの方から連絡を取ろうとしても取れないということでもある。
私はその時、「千早ちゃんと喧嘩して、千早ちゃんが家を出てしまったから、千早ちゃんことは一切分からない」とだけ述べていたのだ。お母さんを安心させるため「大学にはちゃんと通っている」と嘘をついてしまっていた。
「あれから定期的に千早に連絡をしてるんだけど、全然連絡が取れないじゃない。まあ・・・春香が原因ってわけじゃないから、春香を責めてもしょうがないんだけど・・・。ねえ、あの子にいったい何があったの?」
「・・・ごめんなさい。本当に私何も知らないの。」
先生は少し考えたうえで、私にこんなことを尋ねてきた。
「ねえ春香・・・せめて二人の喧嘩の原因を教えてくれない?あんなに仲が良かった二人が突然、喧嘩別れしてしまったなんて、とてもじゃないけど信じられないの。ねえ、どうして?」
お母さんは、喧嘩の原因を強く迫ってきた。
「・・・お願い、それについては詮索しないでほしい。」
「・・・あなたたちの過去に関する話・・・そういうことかしら?」
私はあえてお母さんには何も言わないことにしていた。この件は、私や千早ちゃんはもちろん、先輩ですらどうしようもできない問題なのだ。もし先生にこのことを話してしまえば、先生はこのことに関わろうとしてしまうかもしれない。
そんなことをすれば、お母さんにまで・・・危害が及びかねない。
「お願い、お母さん。・・・詮索しないで。お母さんを巻き込みたくないの。」
「闇を抱えているのね・・・とっても根が深い闇。」
「・・・・・。」
私は何も答えられなかった。
「私に、何かできることは無い?」
お母さんにできること、それは・・・
「話し相手になってほしい。今話せる?」
「もちろんよ。なんでも話して。」
「うん・・・。」
どんなことから話始めようか、思い悩んで私は、まず軽い世間話から入ることにした。
「まず、お母さんは元気にしてる?」
「ええ、この通りピンピンしてるわよ。」
「もうすぐ二年が経つんだね、最後にお母さんに会ってから。」
「もうそんなに経つのね、私からしたらあっという間だわ。2年間なんて。」
「やっぱり早いの?一年経つのって?」
「年を取ればとるほど、そう感じるわ。春香だって、年を重ねれば、そう思うようになるわ。」
「ははは、何だかそれはそれで寂しいなー。」
年老いた私か・・・多分その姿は誰も見ることは無いんだろうなー。
「そっちはどう?あっという間だった?」
この2年間か・・・。あっという間だったような気がするし、気が遠くなるほど長かったような気もする。なんだかいろいろありすぎて、よくわからないや。
「何だか分からないよ。自分の中で整理がついていない感じ。」
「それだけ、充実してたってことなんじゃないの?」
「そうだといいな。」
これって充実っていうのかな?
「ちゃんと勉強はしてるの?もう期末試験は終わっちゃったの?」
「うん。もう試験は終わったよ。今は長い長い春休み中。」
「ちゃんと単位は取れそう?」
「うーん、まあ、何とかなるでしょ。」
いくつか単位は落としてそうだけど。
「本当に大丈夫なの?留年とかしても、その分の学費は出してあげないからね。」
私は笑って返す。
「大丈夫大丈夫、さすがにそこまでじゃないから。」
「本当かしらー。春香は少しちゃらんぽらんな所があるからねー、油断も隙もあったもんじゃない。」
お母さんの口調には、少しとげとげしたものがあった。でもそれも、全ては私を心配してくれてのことなのだ。改めて、そんなお母さんの想いに胸が痛くなる。私は、お母さんが期待したような「いい子」には、ついになれなかったのだ。
「ごめんね、お母さん。」
「別に、謝るようなことじゃないわ。私は、春香がちゃんと勉強して、一人前の大人になってくれれば、それで満足なんだから。」
「うん・・・。」
結局、無駄になっちゃうんだよね。お母さんが出してくれたお金も、彼女が注いでくれた愛情も・・・全部・・・。全ては、私のせいだ。思えば、千早ちゃんは正しかった。私は望月俊という人間に関わるべきではなかった。私が彼に関わったから、私が彼のことを好きになってしまったから・・・すべてはおかしくなってしまった。
「春香?どうしたの?」
「えっ。」
思わず声が上ずってしまった。戻りたいと思ってしまったのだ。あの頃に。私と千早ちゃんとお母さん、3人がつつましやかだけど、幸せな毎日を送っていたあの頃に。だけど、もうどうやっても戻れない。その厳然たる事実を思い出して、胸が張り裂けそうになってしまったのだ。
「春香・・・泣いてるの?」
「泣いてなんかないよ・・・。」
下手な嘘だ。どうして泣いてないのに、そんなに声が震えているのか。
「相変わらず、嘘が下手ね、春香。」
「・・・・・。」
「ねえ、吐き出しちゃないなさいよ。ここで。そのために、電話してきたんじゃないの?」
私は何も返せない。
「何なら、会いに行こうか?今度の週末でも、東京に行ってもいいわよ。」
「やめて・・・そんなことしないで。」
声がくぐもる。私はそんなこと望んでいるんじゃない。私は・・・。
「ねえ、お母さん。世の中には、何とかしようとしてもどうしようもできないことって、本当にたくさんあるんだね。」
「・・・ええ、そうね。」
「大学に入って・・・そんな現実をいっぱい見ちゃったの。私、生まれた時から不幸だったし、私は不幸な運命なんだって決めつけてたんだけど、千早ちゃんに出会って、先生に出会って、幸せって自分で掴み取ることができるんだって・・・初めて分かった。でも・・・」
「でも?」
「だから私は思いあがってしまった。幸せになるために努力すれば、いつかは掴み取ることができるんだ、そんな思い込み。決して触れてはいけない禁断の果実に手を伸ばしてしまった。そのせいで、私と千早ちゃんは離れ離れになって・・・千早ちゃんは・・・。」
先生は黙って耳を傾けている。だめだ、これ以上しゃべっちゃいけない。これ以上話したら、先生は・・・全てを知ろうとしてしまう。
「・・・ごめんなさい、やっぱりこれ以上話せない。」
「どうして!?あなたは何におびえているの?」
「世の中には、決して触れてはいけないものがある。パンドラの箱、私はそれを開けてしまった。そのせいで・・・身の回りの人がどんどん不幸になってる。無論私自身も。先生、だから私に近づかないで欲しい。」
お母さんは何も言えずに黙っている。
「今日、先生に電話をしたのは、私の遺言を聞いてほしかったからなんです。」
「遺言!?春香・・・あんたまさか・・・。」
「さっきも言ったよね。身の回りの人間がどんどん不幸になってる、私のせいで。私はもっと不幸になる。だから私は・・・もう終わらせようと思う。」
「バカ言わないで!あんた、そんなことの為に私に電話してきたの!?」
「私の人生は、もう終わってしまった。もう追い詰められてしまった。」
「早まらないで!春香!訳が分からないよ。理由は話せない、追い詰められた?訳の分からないこと抜かすんじゃないわよ!どうして、死ぬって決めて電話してくるのよ!?私にそんな損な役回りをさせるわけ?!」
「お母さん・・・私お母さんのこと好きだった。」
「だったら、自殺なんてしないでよ!私からのお願いよ!やっぱり、今日あなたのところに行くわ!誰がなんて言おうとね!」
「無駄よお母さん、もうその時にはこの世にいないんだから。」
「親不孝者!あんたは間違ってるわ。何があったかは分からないけど、どうしてあなたには逃げるって選択肢がないわけ!?それでいて、こんな不幸な電話をよこしてくる。助けてほしいんじゃないの?だから、私に電話をよこしたんでしょ。考え直しなさいよ、私・・・あんたが死んだら・・・。一生後悔しちゃうじゃない。アンタを大学に送り出したのは失敗だった。私のせいで、春香が死んだって。ずっと思っちゃうじゃない!」
涙が止まらない。お母さんの言う通り、私はとんだ親不孝者だ。でも、だからこそお母さんをこの事件に巻き込まないのが、せめてもの良心なのだ。
「逃げ場所がないの。」
「ここにあるでしょ!?」
「お母さんのところに逃げてしまったら・・・お母さんが今度は狙われてしまう。お母さんを危険にさらしたくない。」
「あなたは、いったい何に追われてるの?借金取り?やくざ?それとも殺し屋?」
そんなようなものかな、いや、それよりももっと性質が悪い連中だ。
「多分、それよりもっと性質の悪い連中だよ。お母さん、このままだと私・・・ひどいことされて殺されちゃうと思うんだ。だから、せめて死ぬときは楽に死にたいの、分かって、お母さん。」
「春香!千早は?まさか、千早はもう・・・。」
「安心して、千早ちゃんはまだ生きてると思う。多分・・・。」
「多分!?もう、どうなってるのよ・・・まったく。」
「お母さん、私には。もうこの世に逃げ場がない。だから、せめて楽に死にたい。」
お母さんはしばらく無言だったが、ゆっくりと口を開いた。
「あなたに会いたい。私が愛した・・・娘なのよ。」
「ダメだよ、お母さん。そんなことをすれば・・・お母さんがどうなっちゃうか分からない。見境のない人たちなの、私を追っているのは。だから、来ちゃダメ。全部、私が悪いの。ごめんね、お母さん。」
「バカ!!私は大ばか者だよ!娘がこんなに苦しんでいるって・・・全然気づいて下られなかった。本当に大ばか者よ!私は!」
お母さんは慟哭している。
「自分を責めないで、そんなことをしたって苦しくなるだけ。私は・・・少しだけ、いなくなるの。お母さんとは、運命的な出会いをしているから、きっと来世では、お母さんの本当の子供になっていると思う。大丈夫・・・きっと永遠の別れじゃない。またどこかで、長い年月の果てに・・・きっと会えるよ、お母さん。」
「春香が死んだら・・・私も死ぬわよ・・・。」
「お母さんは死んじゃだめだよ。だって、千早ちゃんが生きているじゃない。」
「千早だって・・・やがては・・・殺されてしまうんでしょ?」
「それは分からない・・・。私、あの子はなんだか生き残りそうな気がするの。千早ちゃんって、結構しぶといからね。」
私は電話口の前で、笑顔を作っていた。
「春香・・・」
「お母さん・・・天海春香は・・・これまでも・・・これからも・・・ずっと秋月律子の娘です!じゃあね、お母さん、元気でね・・・。愛してる、お母さん。」
「春香!待って!お母さんに一目合わせて!」
「じゃあね。」
「待って!待ってぇえぇ!!」
私は非情にも通話を切った。
そこからの準備は早かった。まずは携帯電話の電源を切った。これでお母さんから連絡がかかってくることはない。
そして私は死ぬための方法を考えた。多分、手近な方法で死ぬとすれば、首を吊って死ぬしかない。幸か不幸か、ゲームのコードがある。これくらいの強度があれば、首を吊るのには十分だろう。
ゲームの電源からコードを引き抜いた。補強のためにテレビのケーブルも抜いて、一緒にした。それを玄関口のドアノブに引っ掛ける。コードを引っ掛ける為のでっぱりがこの部屋には他になかったのだ。
いよいよ準備が整うと、私は玄関口に座り、コードを首に巻き付けて、ドアノブに引っ掛けた。
その時のことだった。表の方から、コツコツと革靴のような音がする。誰かが近づいている。私はとっさにコードから首を解いた。もしこの人物に怪しまれてしまったら、自殺は失敗してしまう。
その足音はどんどん近づいていく。どうしたことか、その足音は家の目の前で止まった。そしてインターホンを鳴らすのだ。
私はドアノブにコードを引っ掛けたままであったが、ドアの覗き穴から外の様子をうかがった。
驚いたことに、そこにいたのは伊織の執事の新堂さんだったのだ。
「伊織お嬢様の執事をしております新堂でございます。」
「は、はーい。」
私は即座に鍵を外して、ドアを開けた。
「突然の訪問で申し訳ございません。」
「い、いえ・・・どうかなさいましたか。」
「はい。先日は、お嬢様が天海様に大変ご迷惑をおかけいたしました。そのお詫びをさせていただきたいのと、お嬢様からのお手紙を預かって参りましたので、それをお渡ししたく存じまして、ここに参りました。お邪魔してもよろしいでしょうか。」
よろしいか、と言われても。ダメです、とは言えない。
「わ、分かりました。どうぞ・・・」
私はドアノブに引っ掛けたコードをは外し、それを部屋の床に置いた。テーブルの前にクッションを置いた。
「どうぞ、おかけください。」
「ありがとうございます。失礼いたします。」
相変わらず、とても礼儀正しい人だ。よく見れば、手には風呂敷で包んだ何かを持っている。
「今、お茶を淹れますので。」
「いえいえ、お構いなく。」
私は調理台の端に置いてある緑茶の茶筒を取り出し、茶こしに入れて湯呑にお湯を注ぐ。私は、少し振り返ってこの老紳士の様子を一瞥したが、彼はまっすぐと身じろぎせず、ベランダの方を見つめていて、クッションの上で正座をしている。
お茶を淹れ終わると、私は新堂さんのもとにお茶を運び、差し出した。私は新堂さんに対するようにして座った。
「粗茶ですが。」
「ありがとうございます。それでは、いただきます。」
新堂さんがお茶を一口すすった。そして、風呂敷の中身を取り出すのだ。
「お嬢様が、先日のお詫びにと、菓子をお預けになりました。どうぞお受け取りください。」
「は、はい。ありがとうございます。」
おかきでも入っていそうな、分厚い缶を渡された。
新堂さんはもう一口、お茶をすすった。そして新堂さんが語り始めるのである。
「本来ならば、伊織お嬢様自らが参って、天海様に直接謝罪の言葉を申せばよかったのですが、少しそういうわけにもいかなくなりまして、私めが参った次第でございます。」
確かにそうだ。どうして伊織が来ていないのだろうか。
「もしかして・・・外に出られないんですか?」
新堂さんは少し答えづらそうにしながらも肯定した。
「・・・左様でございます。お嬢様は今、屋敷の中に閉じ込められております。」
「閉じ込められた・・・」
「いえいえ、閉じ込められたといっても、監禁されているわけではございません。屋敷の中は自由に動き回ることはできます。ただ・・・四六時中監視の者が目を光らせてお嬢様を見張っておりますが・・・。」
「・・・伊織にはプライベートは無いということなのですね。屋敷の外にも出られない。」
「・・・左様でございます。」
伊織・・・。
「実は、私はお嬢様のなさったことを承知して、それに協力しておりました。お嬢様が盗んだUSBメモリーを望月秀幸様方に実際に引き渡したのは、私めでございます。」
「えっ・・・そうなんですか?」
なんだか意外だ。伊織はともかくとして、どうしてこの人がそんなことに手を貸したというのだろうか。新堂さんは、水瀬家にやとわれた人間、その彼が雇い主に不利になるようなことに手を貸すなんて。
「お嬢様は、常に水瀬家のことをお思いでいらっしゃいました。誰よりも、水瀬家のことを愛し、水瀬家のことを誇りに思っていらっしゃいました。ですから私は、お嬢様が水瀬家を裏切ろうとしていることが信じられなかったのです。ですが・・・お嬢様には、確かな信念がございました。今の現状を変えなければならない。そういう強い想いを持っていらっしゃったのです。」
私にはどうしても理解できないのだ。水瀬家をそこまで誇りに思い、責任感を持っていた彼女が、どうしてその家を裏切り、私や先輩、千早ちゃんの為に行動したのか。
「その想い・・・どうしてそんなに強い想いを持ったのでしょう。伊織を突き動かしたものはいったい何だったんでしょうか。」
新堂さんは、下を向いてしまった。
「お恥ずかしい話ですが・・・私も詳しい事情を存じてはおりませんのです。お嬢様は、私を巻き込ませないためだ、とおっしゃっておりました。」
「新堂さんは・・・どうして伊織の行動に手を貸したんですか。あなたは、水瀬家にやとわれた人なのではないですか。」
彼は私の方に向きなおった。
「伊織お嬢様は・・・水瀬家の人間としては間違ったことをなさろうとしておりました。ですが・・・人としては正しいことをなさろうとしていたのだと思いました。私は・・・伊織お嬢様がお生まれになる前から水瀬のお家に勤めておりました。そしてお嬢様がお生まれるになると、旦那様や奥様に代わって、私がお嬢様の身の回りを世話をしておったのでございます。旦那様は忙しく、お兄様方も英才教育を受けていらっしゃって、お嬢様と遊ぶ時間はありませんでした。奥様も・・・お嬢様のことは、あまり関心がなかったようで・・・。ですから、私はお嬢様と接していた時間がほかのご家族の誰よりも長かったのでございます。伊織お嬢様のことは・・・なんでも存じているつもりでございました。そんな私めの勘として、お嬢様は、何か大切な目的のために何かをなさろうとしている、そう感じたのであります。」
「伊織は・・・親の愛情を受けられなかったんですね。」
私や千早ちゃんと同じように・・・。
「でも・・・伊織はとても強い子ですね。きっと、それは新堂さんがいてくれたからなのだと思いますよ。」
「いえいえ・・・天海様、失礼ながらそれは買いかぶりでございますよ。伊織お嬢様は・・・決してそのようにお強いわけではございません。」
「・・・そうなんですか?」
「ええ。天海様は、伊織お嬢様がいつも肌身離さず持ち歩いていらっしゃるウサギのお人形があることをご存じでいらっしゃいますか。」
もちろんだ。いつ何時でも、カバンの中で眠っているか、時々ひょっこりカバンから顔をのぞかせているのだ。
「知っています。」
「実は、あの人形は・・・旦那様が、伊織お嬢様が生まれてすぐに買い与えたものなのでございます。」
「そうなんですか・・・。」
「伊織お嬢様は、幼少のころから、ずっとそのうさちゃんと遊んでいたのでございます。うさちゃんは当然しゃべりませんから、伊織お嬢様の一人二役。ですけど、お嬢様には、うさちゃんが本当に生きているかのように思われたのでしょうね。」
「新堂さんは・・・遊び相手になってあげなかったんですか。」
「もちろん・・・私も時々お嬢様のお遊びのお相手をすることもございましたが、所詮私は執事の身。お嬢様の本当の『お友達』にはなれなかったのですよ。ですから、伊織お嬢様にとっての本当の『お友達』は、うさちゃん一人だったのでございます・・・。お嬢様は、時々人知れず涙を流していたことがございました。寂しくて・・・耐えられないときがしばしばございました。そんな夜は・・・私めが絵本を朗読しておりました。伊織お嬢様は、それを聞くと、安心して眠りにつかれるのです。」
新堂さんの顔がほっこりと優しい顔になっている。新堂さんは、本当に伊織のことが好きだったんだろうな。この人が、伊織についていくのも分かるような気がした。
「お嬢様がうさちゃんと戯れになるのは、実のところつい最近までありました。ところが、ここ半年くらい、そうしたことがぱったりとなくなり、うさちゃんから離れたのです。うさちゃんは、ただお嬢様と一緒にいらっしゃるだけになりました。私は・・・お嬢様に『本当のお友達』ができたのだと思いました。こんなことは・・・今までになかったことでございましたから、内心とても喜んでおったわけです。この度、お嬢様がお家を裏切ってまでのことをなさったのは、きっとその『本当のお友達』の苦境を救おうとしてのことだったのだと・・・そう感じたのです。」
「そうだったんですか・・・。」
新堂さんにとって、伊織はきっと自分の娘のような存在だったのだろう。だから、雇い主である水瀬家を裏切ってまで、伊織の為に行動したんだろう。
「私事ではございますが・・・実は私、水瀬家からお暇をいただきました。」
「それって・・・。」
「平たく申せば、クビになったということです。本当だったら、命を取られてもおかしくない、それくらいの大罪ではございまいたが、お嬢様の嘆願によって、何とかクビだけで済んだのでございます。」
なんて反応したらいいか分からなかった。
「今日は、屋敷から離れられないお嬢様に代わって、手紙をお持ちいたしました。本当は、先日お話しする予定だったこと、それをしたためていらっしゃるとのことでございます。私めがこの家を離れてから開封するよう厳命しておりました。」
新堂さんは、スーツの内ポケットから、封書を取り出すと、私の目の前に差し出した。
「お嬢様は・・・大変苦しんでおられました。詳しいことは存じませんが、天海様達の為になさったことが、どうも逆効果になってしまっているようで、そのことでお嬢様は、何度も涙を流されておりました。いつも自分を責めておりました。自分のしたことは間違いだったのではないかと。」
「・・・普段の伊織からは、全く想像もできませんでした。」
「伊織お嬢様は、決して強いお方ではありません。強く見せるお方なのでございます。ですから、人知れず涙を流し・・・心を震わせておるのでございます。天海様、僭越ながらお願いでございます。伊織お嬢様を・・・守って差し上げてください。お嬢様は・・・あの子は・・・誰かの助けを必要としているのでございます。そして私は、もうお嬢様のそばにいてあげることはできません。それができるのは、恐らく、天海様だけなのだと思います。」
私が・・・伊織を救う・・・。
「伊織お嬢様は、天海様のその明るいキャラクターを好んでおいででした。それが失われたと知ったら、お嬢様は大層悲しむでしょうね。何とか、間一髪、間に合ったようですが。」
そう言って新堂さんは、自殺するために取り外していたケーブルの方を一瞥した。
「・・・すみません。」
私は謝ることしかできなかった。
「天海様・・・お願いでございます。生きて、伊織お嬢様をお救いください!この新堂、一生のお願いでございます!」
新堂さんはクッションから身を引くと、その場で深々と土下座をしたのである。
本当だったら、約束したい。伊織のことを大切にするって。だけど、私・・・。
「ごめんなさい。私・・・そんな約束できません。」
「どうしてでございますか!?」
「・・・命を狙われているんです、私。ある人に強く恨まれていて。この場所ももうバレていて・・・。他に逃げ場所もない。私は・・・その人に捕まって、酷いことをされて死ぬ以外に道はないんです。」
「伊織お嬢様が言っておられました。その手紙の中には、天海様が安全に過ごすための方法が書かれていると。ですから・・・天海様はきっと無事でいられましょう。」
私が・・・無事?
「ですから・・・何としても、伊織お嬢様をお救い下さい!お願いいたします!」
「・・・分かりました。もし無事でいられたら、伊織の力になります。」
新堂さんは顔を上げた。
「ありがとうございます・・・ありがとうございます・・・ありがとうございます・・・。」
新堂さんの目に涙が浮かんでいる。よっぽど嬉しかったのだろう。それが痛いほど伝わってきた。
しばらくして、新堂さんが帰り支度を始めた。
「それでは、もうそろそろ失礼させていただくことにしましょう。」
新堂さんは、湯呑を手に取り、残ったお茶を一気に飲み干した。
「おいしゅうございました。」
私は、ふと新堂さんの今後について尋ねてみることにした。
「新堂さんは、これからどうなさるんですか。」
新堂さんは、紳士の笑顔を見せてこう述べた。
「私はもう老いぼれ。今更水瀬以外のどこかに勤めるということも難しいでしょう。それに、『忠臣はニ君に仕えず』とも言いますからね。幸いにして、私には貯金がありますし、年金もありますから、お金に困るということは無いでしょう。私は、旅に出ようと思っています。その中で、これまでの人生を見つめなおしてみようと思います。」
「そうですか・・・何か新しいことが見つかるといいですね。」
「ええ・・・。まあ、今更何かを見つけたところで、今後それを活かせるとは思えませんけど。」
「大丈夫ですよ。新堂さんは・・・心は若いですから。」
「そう感じましたか?ありがとうございます・・・。では、そろそろ本当に失礼しようと思います。」
新堂さんは立ち上がった。私もそれに合わせて立ち上がる。
「天海様・・・どうが、お元気で。」
「新堂さんこそ。」
新堂さんが寂しい背中を見せながら、部屋を去っていった。
新堂さんがいなくなった後、私は机の上に置かれた手紙を開封することにした。ハサミで丁寧に封を切る。
何かが変わりそうな気がした。何かが衝撃的に変わってしまいそうな・・・そんなドキドキワクワク、一方でヒヤヒヤするような気持ちを抱きながら、三つ折りにされた手紙を開いたのであった。