第3節 水瀬伊織の述懐
約束の時間は、午後6時。今は午後5時55分だ。
渋谷のハチ公前と言われたのだが、案の定、周囲は黒山の人だらけで、とてもじゃないが彼女の姿を見つけられそうにない。
私と水瀬さんは初対面だ。話だけは聞いている。彼女は、かの有名な水瀬財閥のご令嬢「だった」人だとか。しかし、ある一件のせいで実家から勘当され、今は普通の人として生活しているとか。
星井さんは、彼女のことを「デコちゃん」と呼んでいたから、まぁそれっぽい人を探せば、見つかるのかもしれないけど。
見つかりやすいように、彼女はピンク色のキャミソールを着ていると言っていた。周囲を見回し、それらしき人影がないか探ってみる。
すると、見つけた。ハチ公前で、飲み屋のキャッチに絡まれている、ピンクのキャミソールの女子。タバコを吸う人で煙たい中、私はその彼女へと近づいていった。
「もう!飲む気なんて無いって言ってるでしょ!」
水瀬さんらしき人が、キャッチにかみついている。これは脈なしと判断されたか、キャッチは追い払われるようにして、その場を後にしていた。
顔立ちは、可憐でかわいい感じだが、もしかしたら気が強い人なのかもしれない。
私は恐る恐る声をかけてみることにした。
「あのー、水瀬伊織さんですか。」
彼女も気づいてこちらを向いた。
「あなたが・・・秋月・・さん?」
「はい、そうです。」
「初めまして、水瀬伊織です。以後お見知りおきを。」
彼女は礼儀正しく一礼した。私も慌てて一礼する。
「こちらこそ、初めまして。」
やはり、生粋のお嬢様というだけあって、一般人にはない気品さがある。
「それじゃ、行きますか。」
彼女が私をエスコートする形で、ハチ公前を脱出した。
「行くってどこに行くんですか?」
彼女はぶ然として言う。
「決まっているでしょ。カラオケボックスですよ。そこしかないじゃないですか。気兼ねなく話せるのは。」
やはり、そういうことになるのね。
彼女の手引きで、あるカラオケボックス内に入った。土曜日の夜ということもあり、多くの若者がつめかけていたが、何とかすぐに入ることはできた。
「時間的にも、お夕食の時間ですけど、何か頼みます?」
水瀬さんが、メニュー表を開いてくれた。気持ちはありがたいが、まだお腹が減っている訳ではない。
「いえ、ドリンクバーだけで大丈夫です。」
「そうですか。」
水瀬さんは、オレンジジュースをチョイスしていた。私はウーロン茶。先ほどと同じように、私たちは向かい合って座っていた。
「さっき、美希と話したんですよね。何を話したんですか。」
いきなり水瀬さんの方から話を起こし始めた。
「色々です。一言じゃ言えません。」
「そう・・・。」
そう、と言った切り彼女は二の次を発しない。今度は私から質問をぶつける。
「正直な話、どうして水瀬さんが千早のことを気にかけているのか不思議なんです。春香と千早が大学に通っていたころ、たまに電話をすることがあったんですけど、あなたの話は一度も聞いたことがなかった。でも、あの事件があってから、あなたは千早のことをとても気にかけてくれている。」
「何か裏があるって思っているんですね。」
有体に言えばそうだ。私が黙っていると、彼女の方が口を開いた。
「・・・聞きますか。私たちに何があったのか。」
「・・・そのために、あなたを呼んだんです。」
「後悔するかもしれませんよ。少なくとも、後戻りはできなくなる。秋月さんに、その覚悟はあるんですか?」
覚悟はあるか、そう尋ねられて正直言えば・・・覚悟なんてない。
「・・・ないなら、お帰り下さい。ここは私が払っておきますから。」
そういって、彼女は手を平らに差し伸べて、出口の方を示した。
私には選択肢などない。私は明日、千早の話を聞く。そこで「全て」を聞いてしまうのだ。否応なく。だから、今私は水瀬さんの話を聞くしかない。
「・・・分かりました。覚悟を決めます。」
彼女は私の目を流し目で見つめていた。しばらくして、彼女がグラスを握り、ストローでオレンジジュースを吸った。グラスを置いて、話し出す。
「私は、あなたも知ってのとおり、水瀬財閥の人間でした。水瀬の人間の使命はただ一つ。私たちの財閥を維持し、発展させていくこと。その為に、水瀬の人間は全力を尽くす。これが水瀬の名を冠する者の宿命。」
そうだ。それはこの子にとっても例外ではないはず。財閥の為に尽くしてきたはずだ。にも拘らず、どうして財閥から放逐されたのか。
「水瀬財閥で活躍する資格があるのは男だけ。女は、役に立たない存在なんです。財閥を継ぐことなんてできないし、どこかの会社の社長もさせてもらえない。どこかに嫁いで閨閥を強くするだけの存在でしかない。私の人生は最初から・・・生まれた瞬間から決まっていたんです。私は、大学を卒業したら、当時水瀬財閥が長期間にわたって提携していた安本財閥の跡取りに嫁ぐ予定だった。大学時代は、私にとって人生最期の自由時間だったんです。」
驚いた。未だに昔のドラマみたいな掟があるなんて。今は女性だって十二分に活躍できる時代のはずなのに。
「私は、その最期の自由時間を、あのテニスサークルに所属して過ごすことにした。実際、私はテニスが好きだったし。だけど・・・今から考えれば最悪のチョイスだったわ。」
「春香たちがいたから?」
「違うわ。あの男がいたからよ。望月俊。望月財閥とうちの財閥は、当時ライバル関係にあった。そして、望月俊は財閥の後継者に指名されていた。望月俊には許嫁がいる。彼は許嫁である雪村楓と結婚しなければならない。だけど財閥の地位さえ放棄してしまえば、彼は他の人と結婚することもできた。その状況を私はパパに報告したんです。」
その話は美希も言っていた。だから、春香は本気で彼のことを落とそうとした・・・。
「パパは私に指令した。『あの二人の縁談を邪魔しろ』って。それで私は、春香に近づいた。テニスサークル内で、彼を狙っている人間は他にもいたけど、アタックの頻度では彼女がずば抜けていた。それに、彼もまんざらでもない様子だったから、突っつけば、うまくいくと思っていました。」
「具体的には、何を・・・。」
「きわめて、合法的なことです。どうやったら、彼に効果的にアピールできるか。そのアドバイスをしてあげただけ。春香が、あの男を落とせるように、私は恋のキューピットとして、後ろから背中を押してあげた。」
「その結果、春香と望月俊は結ばれた?」
「どうやら、そうなったみたい。ただ私は、途中でテニスサークルを辞めてしまったんで、どういう経過をたどったのか、深くは知らないんです。」
テニスサークルを辞めた・・・。
「どうして、途中で辞めちゃったんですか。水瀬さんには、ミッションがあったんですよね?父親から受けた指令が。」
はぁーとため息をついて、彼女はグラスを手に取った。そして、ストローでオレンジジュースを吸いあげる。またグラスをテーブルの上に置いた。
「千早ですよ。彼女に感づかれたんです。千早は、私が介入してきたことに物凄く怒っていました。別に彼が春香に取られそうだから怒っていたわけじゃない、春香が財閥同士の争いに巻き込まれて、危険な目に合うかもしれない。千早はそう思ったから、春香を巻き込むことに強い怒りを見せていたんです。あの時の千早は、私が春香にアドバイスしていた動機に怒っていた。」
水瀬さんの動機、それは他でもない父親の指令。つまりそれは・・・
「別に春香を想ってやったわけじゃないってこと?」
「そう。あの時の私にとってみれば・・・正直言って、確かにこんなことに巻き込んでしまって申し訳ないとは思ったけど、春香のことはどうでもよかった。酷いと思われるかもしれないけど、それはお互い承知の上。私は事前に春香には、財閥の指令で春香を応援するって伝えていたし、彼女もそれを了承していた。お互い同意の上で、こういう関係にあったんです。」
「でも千早は、水瀬さんが、自らの財閥の為に春香を利用していると思って、そのことに怒っていた・・・。」
水瀬さんは頷いた。
「確かに、財閥が話に関わってくると、ただの恋愛問題では済まなくなる。私がやろうとしていることは、100%安全と言えるものではない。春香を財閥同士の争いに巻き込んでしまうかもしれない。だけど、そのことも春香は承知の上でした。」
春香は、そこまでして彼のことを射止めようとしていたのね・・・。
「さっきの質問の答えを言えば、私がサークルを辞めたのは、このままでは本当に財閥同士の争いになりかねなかったから。千早の耳に入ってしまったということは、遠からず、望月俊の耳にも入る。私が彼の縁談を邪魔しようとしているとなれば、当然私に実害が及ぶ。私への悪い風聞が広がるでしょうね。それだけじゃない。私は、あのテニスサークルの中で、針の筵となる。はっきり言えば、とてもじゃないけど在籍できなくなる。」
「居心地が悪くなるからかしら?」
彼女はまたため息をついた。
「私は別にそんな理由じゃ動じないわ。あのサークル・・・はっきり言って歪んでいたのよ。」
歪んでいた・・・?
「望月俊は、望月財閥の後継者。だから、彼に就職のあっせんを頼めば、それだけで一流企業の仲間入りができる。それだけで人生の勝ち組の中に入っていけるわけよ。かつての就職難の時代にね。」
政権が変わり、経済政策が大幅に変わった現在の日本では「就職難」というのは、過去の言葉になりつつある。でも、リーマンショック後の大不況の時代においては、望月財閥の威光というのは、極めて大きいものだったのだろう。
「みんながみんな、彼にあやかろうとした。ある者は彼に就職口を依頼し、またある者は彼に芸能界への道を希望していた。もちろん、それらは全て叶ったわ。これが彼の力。そしてその周囲は、それにあやかろうとする人たちであふれていた。そういうところだったのよ。だから私はすぐに逃げた。私が彼から力を奪おうとしているというのがバレたら、シャレにならないでしょ?」
そうか、そういうことだったのか。でもそうだとしたら、春香に対する風当たりもおかしくならないだろうか。
「春香への風当たりは、はっきり言って無かったわ。春香自身の人柄もよかったし、みんな、望月も最後には雪村さんと結婚するだろうと思っていたから。だって望月本人が、自分は雪村さんと結婚すると豪語して止まなかったんだから。だから、みんな春香が先輩にアタックしてもうまくいかないだろうと思っていたって訳。あるいは、うまくいったとしても、大学時代だけのお遊びの恋愛で終わるだろう、彼が雪村さんとの結婚を捨ててまで春香に走るとは誰も思わなかった。でも、千早に対する風当たりは人一倍に強かった。」
「どうして千早に対してだけ強かったの?」
水瀬さんは口を真一文字に結んだ。そして改めて私に警告する。
「本当にいいのね?ここから先は、『犯罪』が絡んでいるわ。聞いたら、あなたもある種共犯になる。」
『共犯』という単語を聞き、身が震えた。
「言っておくけど、通報するとかそういうバカなことは考えない方が良いわ。そういう次元で話が済むような問題でもないから。そんなことしたら、間違いなくあなたは死にますよ。」
さらっと言ってはいるが、その言葉には真実味が宿っている。水瀬さんの目は真剣そのものだ。
「・・・わかりました。話してください。」
彼女が一回目を閉じて深呼吸をする。そしてゆっくりと目を開いた。
「春香は望月俊に告白した、そしてそれは見事に成功したんです。二人は、密かに付き合うことになった。それできっと、望月俊の気持ちが変わってしまったんでしょうね。最初は、密かに付き合うつもりだったのに、彼は春香と結ばれたいと思ってしまった。」
もし望月俊が雪村さんと結婚するのだとしたら、いずれは春香と別れなければならない。それを避けるためには、雪村さんとの結婚を蹴るしかない。財閥の後継者か、春香との結婚、どちらかを選択するしかない。
「彼は、財閥の後継者の地位と春香の愛情、両立しえないその両方を得ようとした。そしてその為に、彼はとんでもない行動に打って出るの。・・・彼は、春香と千早を巻き込んである演技をした。彼は、春香ではなく、千早と付き合ったような『演技』をした。春香は彼を射止められなかったふりをした。そうして千早は、雪村さんを挑発する。春香は雪村さんと仲良くなって、千早に対する憎悪を強めさせる。」
星井さんが言っていた話だ。
「最後には、雪村さんに千早を襲わせる計画だったんですよね?」
水瀬さんが、呆然としている。
「どうして、あなたがそのことを知っているのよ・・・。」
「さっき・・・星井さんから聞いたんです。」
「美希も・・・知っていたというのね。この事件の真相。」
「彼女は、知っていたというよりかは、気づいてしまったみたいでした。あの3人が何をしようとしていたのか。」
水瀬さんは、不敵に笑った。
「さすがは美希ね。勘が鋭いのもほどがあるってものだわ。」
「千早を襲わせて、それを奇貨として千早が雪村さんを殺す。そういうシナリオだったんでしょ?」
「違うわ!最初の計画では、雪村さんに千早を襲わせて、危なくなったところを望月俊が助ける、そういうシナリオだった!雪村楓がこんな事件を起こせば、縁談は破棄せざるを得なくなる。そう踏んでの演技だった。」
水瀬さんはやけに断定した口調だった。私はそれが気になった。まるで春香たちから聞いていたかのような口ぶりなのだ。
「あなたは、どうして彼らの計画を知っていたというの?あの3人が何をしようとしていたのか。水瀬さんは、その計画を事前に知らされていたんですか。」
水瀬さんは、グラスを手に持った。
「テニスサークルを辞めてから、半年くらい経って、突然春香から連絡があったんです。私は驚いた。作戦を止めてしまって、もう関係が切れてしまっていたから、連絡なんて来るはずないって思っていたから。彼女に相談事があると言われて、内容の察しがついた。私には父親から命じられた使命がある。だから私は彼女に会った。そこで私は、彼らが何をしようとしていたかを知った。」
何となく読めてきた。千早に対する風当たりが強かった理由・・・。
「千早へのサークル内での風当たりが強い理由が分かりました。彼女、雪村さんを挑発したんですよね。恐らくは、みんなのいる前で。そして本気で許嫁の地位を奪う構えを見せた。だから風当たりが強かった。」
彼女はジュースを勢いよく飲み、そして少し乱雑にテーブルへ置いた。
「その通りです。春香たちの作戦を成功させるためには、雪村楓を本気で嫉妬させなくちゃいけない。雪村さんは、『許嫁という地位があるから、望月が千早と結ばれることはないに違いない』そう思っていたはず。それではこの事件は起こせない。だから、千早は、本気で望月俊を狙っていて、尚且つ本気で彼の心を奪いつつあるという演技をしなくちゃいけなかった。そうやって雪村さんに、許嫁の地位から陥落するかもしれないと焦らせる必要があった。その為に、周囲の反応も利用したんです。望月俊の取り巻きが動揺すればするほど、それは反響音のように雪村さんに影響する。望月俊も、千早にゾッコンという『演技』をしていた。いつからか、本気になってしまったみたいだったけどね。」
なるほど・・・そういうことか。水瀬さんは続けた。
「千早は、自分が針の筵になると分かっていた。それなのに、敢えてその役を引き受けた。一歩間違えれば本当に死んでしまうかもしれない、そんな危険な役をね。」
「なんでそんなこと引き受けたのよ・・・あの子は・・・。」
水瀬さんは肩をすくめた。
「色々と考えました。千早は、自分を危険に曝してまでも、純粋に春香のことを幸せにしたかった。そうまでさせるほど春香のことが好きだったのか、あるいは春香に何か負い目を感じていたのか。はたまた、本当の狙いは、望月俊を本当に自分へ振り向かせようとしたのか。」
「あなたもマスコミの報道を信じるつもりなんですか!?彼女が魔女だなんて!」
私はいきり立って反発した。千早が魔女なわけないでしょ。
「正直・・・分からないんですよ。確かに、あの子はマスコミが言うような『魔女』じゃない。マスコミが報じている彼女の姿は、只管に悪女そのままですよね。何もかも自分の為に行動して、人間らしい情がない。人への思いやりなんて何も持っていなくて、目的の為なら手段を択ばない、そんな描かれ方をしている。でも彼女はそんな人間ではないように見える。はたまたそれも『演技』なのかもしれない。あるいは、本当はいい人なのかもしれない。本当に春香の為を想って行動していた、だけど、魔が差してしまった。自分の中の誘惑に勝てなかっただけなのかもしれない。」
そんなことはないっ!そう反論しようかとも思った。だけど、私は知らないのだ。千早がどんな人間なのか、彼女の生い立ちがどうで、彼女がどう過ごし、どう生きてきたか。私は、彼女のことを知っているようで、実は何も知らない。反論できるだけの情報を何も持っていなかったのだ。
「秋月さんは、不思議に思っているんじゃないですか。本来の計画は、雪村さんが千早を襲おうとしたところを、望月俊が助ける計画だった。事件は起きるが、誰も傷つくことはないはずだった。」
にもかかわらず、雪村さんは亡くなった。
「どうして、あの人は助けに来なかったんですか!?」
水瀬さんは苦笑した。
「美希はそのことについて何か言ってませんでしたか?」
星井さんは、何も言っていなかった。なぜ言わなかったのか。敢えて言及しなかったのか。
「もしかしたら、千早が助けを呼ばなかったのかもしれない。自分が犯した罪を自覚していたから。」
「千早の罪・・・?」
「演技は、次第に演技でなくなっていった。千早は本気で望月のことを好きになっていたし、望月も千早のことを好きになっていった。そして春香は春香で焦っていた。このままでは、本当に望月を千早に取られてしまうかもしれない。私に相談してきたのは、どうすればいいか、私に聞くためだった。彼は・・・千早と関係を持ったみたいだった。」
「・・・二人は愛し合ったという訳ね。」
「どう考えても、演技の範疇は超えているわよね。その反面、本来付き合っているはずの春香と望月は、そういうことをしていなかった。春香が焦る理由もわかるでしょ。」
私は恐る恐る尋ねた。
「それであなたは、なんてアドバイスをしたの・・・。」
水瀬さんは顔を歪ませた。その表情は、苦悶に満ちているかのように見えた。
「・・・雪村楓を通じて、千早を殺すようにアドバイスした・・・」
えっ・・・耳を疑った。
「今・・・なんて・・・。」
「雪村楓に千早を殺させるよう唆すようにアドバイスしたのよ・・・。千早が生き残っている限り、春香があの人と結ばれる可能性はない。」
はぁ・・?なんで・・なんでそんなこと!
私の体が震えている。怒りで身が震えているのだ。私は膝元で震える怒りを抑えようと、ぎゅっと拳を握りしめた。
水瀬さんがその様子に気付いていたようだった。
「殴りますか。ここなら大きな音が出ても、誰も不審に思うことはない。」
「いや・・・それは犯罪ですから・・・。」
正直言えば、殴ってしまいたい衝動はあった。しかし、そんなことをしても、どうにもなるわけではない。私の気だって、晴れるわけでもない。
「・・・こうでも言わなければ、きっと春香はこの犯罪を中止してしまうだろうって思ったんです。作戦を続けて、雪村さんが千早を襲ったとしても、望月俊が好きなのは千早。結局、結ばれるのは千早になる。作戦を止めてしまえば、望月は雪村さんと結婚させられる。どちらにしろ、春香は望月俊を射止めることができない。だったら、誰も傷つかないという選択肢を取るでしょ。それは、私にとっては許されない選択だった。だから私は、鬼畜の所業をした・・・。」
なんてことなの・・・春香を殺人鬼にしようなんて・・・。
私は思わずその場で頭を抱えた。
「でも実際に死んだのは雪村さんだった。どうしてそうなったのか・・・私にはわからない。報道で言われている通り、最初から返り討ちにする計画だったのかもしれないし、本当に正当防衛だったのかもしれない。あるいは・・・」
あるいは?
「千早は、本当に殺されようとしていた。」
「まさか!?」
「これはあくまで私の推論なんだけど、千早は、本当は死のうとしていたんじゃないかしら?自分が生きていれば、望月の心が自分に向かってしまう。だから、春香に譲る為に自ら死のうとした。」
そんな馬鹿な・・・。何も死ななくったって・・・。
「千早には、雪村さんと一緒に露と消える動機があった。あの子は、身籠っていたでしょ。彼の子を。」
「えっ・・・そうなの!?」
「はぁ?逆に知らなかったの?」
千早が妊娠していた!?彼の子を?そんなの初耳だった。
「千早は、望月俊の子を身ごもっていたのよ。確かにその情報は公にされていない。彼が密かに千早を堕胎させたからね。だけど・・・親代わりだったアンタがどうして知らないのよ!?」
どうしてそんな大事な情報を・・・私には教えてくれなかったの・・・。千早、あなたは一体何を考えているの?
「まぁいいわ。とにかく話を進めますね。千早は彼の子を密かに身籠っていた。このままでは、妊娠が発覚して、春香が望月を射止めることは絶対に叶わなくなる。この状態から一発逆転を図るには、雪村楓に殺されて、おなかの赤ちゃんごと命を閉ざしてしまうしかない。・・・でも実際には、千早が生き残った。それは、多分、彼女が殺されようとしたあの現場で『何か』が起きたからなのだと思う。」
「『何か』?『何か』って何よ。」
「それは分からない。こんなこと聞けるはずがない。聞きたいなら、明日、彼女に聞くことですね。」
私は驚いた。私は一言も、明日千早に会うなんて言っていない。もしかして、それも美希から聞いたということか。
私はグラスのお茶を勢いよく飲んだ。
「あの事件は、私たちの環境を思いっきり変えてしまったわ。事件をもみ消すために、望月は動き回り、千早はホテルに雲隠れをした。そして事件の遠因となったテニスサークルは解散となった。望月の神通力にも陰りが見え始めたわ。あの頃から、春香の周りには2人の人間が取り巻くことになった。」
「それって誰?」
「・・・美希と私。美希が春香のそばにいたのは、千早の指示だった。自分の妊娠が発覚し、『裏切られた』想いで苦しんでいる彼女のケアをする、それが美希のミッションだったみたいです。美希は本気で千早のことが好きだったみたい。彼女が言うには、千早からは『不幸なオーラ』が出ているとかなんとか、そういうものに惹かれたみたい。私には、分かるようで、よくわからないんですけど。」
確かにさっきも星井さんは言っていた。彼女はきっと、いや間違いなく、心の優しい人なんだろう。だから、千早から出るオーラを感じ取ることができた、ということなんだと思う。
「じゃあなんであなたは、春香に近づいたんですか?」
私はとげとげしい口調で彼女に尋ねた。この人が近づいたからには、財閥に絡む、何か理由があるはずだ。
「理由ね・・・。」
彼女はテレビ台の方を向いた。何か体裁の良いことを考えているのだろうか。
「そんなものはないわ。・・・強いて言えば、彼女への『贖罪』かしら。」
「罪の意識はあったのね?」
「ええ。私のせいで、雪村楓が死ぬことになってしまって、春香を間接的な殺人犯にしてしまった。そのことの責任を感じていた。それに・・・私はどちらかというと『天海春香』という人間のことを気に入っていた。」
「気に入っていた?」
「秋月さんは、私のことを『財閥の為にしか動かない冷血女』にしか見えていないかもしれないですけど、私にも、感情はあるんですよ。好きだったり嫌いだったり、そういう感情はある。私は・・・普通に春香と友達になりたかった。」
ここまで話を聞いてしまうと、嘘くさいとも感じてしまうが、でも私にはそれが嘘だとは思えなかった。春香が魅力的な人間であることは、私もよく知っているからだ。
「私、信じますよ。あなたの言葉。春香は魅力的な人間ですから。」
「・・・そうですか。・・・とにかく私は、私と美希は、春香と友達になった。3人で過ごす時間は、なかなか楽しかったですよ。とても有意義だった。だけど、私たちの背後では、その間にもいろいろな動きがあった。」
春香たちとの思い出を思い出したのか、一瞬だけ、柔らかな笑顔を見せた彼女の顔は、再びシュッと引き締まった。
「望月財閥は、雪村家との提携を打ち切った。というよりかは、打ち切らざるを得なくなった。雪村楓が死に、その原因が望月俊を巡る奪い合いだったなんて、あまりにも世間映えしない。雪村家の方が提携解消を言ってきたんです。それで提携が崩れた。望月財閥は、新たな提携先を探した。そして、新たな提携先を見つけた。」
そこから先は知っている。望月財閥は、水瀬財閥との部分的な提携をした。望月製薬と水瀬薬品の提携。まさか・・・ということは?
「あなたが、新たな許嫁になったんですか?」
「その通りです。せっかく、雪村楓を葬ったのに、結局二人は彼のことを射止めることができなかったわけ。何のために、こんなことまでしたんだか、全然わからないじゃない。」
水瀬さんは、あきれ顔で吐き捨てた。全くその通りだ。これでは、ただ単に雪村さんを殺しただけ・・・。
「私は、春香のことを恐れました。親友だった千早のことを、本気で殺したいと思ってしまうほどなんですから。もしも私が雪村楓の後継者になったって知ったら、ただじゃ済まない。・・・でも、私は春香のことを勘違いしていた。彼女は、そんなことで私を恨むような人間じゃなかった。」
「春香は、望月俊のことを、諦めたんですか?」
「・・・彼女の心の中のことは、分からない。」
「そうは言っていなかったんですね?」
「言ってなかったです。ただ、モヤモヤした感じは、しませんでした。その意味では、彼のことを、諦められたのかもしれないですね、」
彼女は再びオレンジジュースに口を付けた。そしてグラスを置いて、話を続ける。
「望月財閥は、水瀬財閥と手を組んだ。これまでライバルだった望月俊は、一転して私の婚約者になった。だけど私は、そのことに疑問を持ったんです。あまりにも早すぎる。そしてこの提携、うちの財閥には利益がなかった。望月財閥と水瀬財閥の提携は部分的なものだった。それもうちがほとんど唯一望月財閥に対して優位を誇っている医薬品業界だけの提携。」
「望月財閥の狙いは、『あの画期的な医薬品』の実用化だったんですね。」
「ええ、その通りよ。元々望月財閥が雪村家と手を組んでいたのも、それが目的だった。医薬品業界で優位に立つ水瀬財閥が、敢えてこの分野で提携したのも、うちの財閥にとっても利益が大きかったからなの。」
「そして、その研究はついに花開いた。」
つい先日、望月製薬が画期的な医薬品を開発中であると発表した。現在はまだ動物実験の段階だが、その医薬品は、生命個体が持つ余命を飛躍的に増大させ、若返らせる効果があると言われている。この発表で望月製薬の株価は2倍になり、まだまだ天井に達する気配はない。
世間では、あの薬が本当かどうかまだ疑う声がある。もしあの薬が本物の「生命の実」なのだとすれば、人類の永遠の夢である不老不死が実現できることになるからだ。
「望月製薬が発表した『生命の実』、世間ではその効能を疑う声があるけど、あれは間違いなく本物よ。エデンの園でアダムとイブが食べ損ねた『生命の実』、それを望月製薬が人工的に作り出した。それがあの薬。・・・原理はこうよ。人間の細胞の寿命は、テロメアの長さで決まっている。そしてそれは細胞分裂を繰り返すごとに、どんどん短くなっていく。そして最終的に細胞分裂ができなくなると、人は死ぬ。そして、このテロメアを修復する力を持つテロメラーゼという酵素が人間には備わっている。この酵素はサーチュイン遺伝子という遺伝子の量によって、活動量が決まってくる。つまり、サーチュイン遺伝子が多い人間は長生き出来て、少ない人間はあまり生きられない。そういうことよ。望月製薬が発明したこの『生命の実』は、このテロメラーゼを刺激する成分が入っている。サーチュイン遺伝子の量に関係なく、テロメラーゼを活性化させることができるようになる。この薬を摂取し続ければ、やがて、細胞分裂で失われるテロメアの長さより、テロメラーゼによる回復量の方が上回るようになり、年齢は逆回転を始める。最終的には、人間にとって最も活動的な20代前半のところまで余命を回復させられるって訳。」
「やけに詳しく知っているのね。」
「ええ・・・読んだのよ。開発資料。」
開発資料を読んだ?そんなもの、どうして彼女が読めるのか。私は困惑を覚えながらも、彼女を見つめた。
「ここから先は、本当に美希も知らない話よ。」
私は彼女からの宣告に、息を飲んだ。
「望月財閥の狙いは、この『生命の実』によって莫大な富を築くことだった。繰り返すけど、この薬は本物。本当の『生命の実』なの。どんなお金持ちでも、寿命だけは買えなかった。だけど、それができるようになる。当然、お金持ちは大枚をはたいてでもこの薬を追い求めるでしょうね。この薬を開発した望月製薬を率いる望月財閥の総帥、望月剛三郎も、そんな一人だった。そして彼は、不老不死を実現するために、望月製薬にこの秘法を研究させた。そしてその研究を進めるためには、サーチュイン遺伝子の賦存量が多い人間に協力してもらう必要があった。望月財閥は、健康診断の事業に進出して、ドナーとなれる人間を探した。そうして見つかったのが・・・春香の母親だった。」
確かに、こんな話報道ではやっていない。やれるはずがないと言った方が正確なのかもしれないが。
「望月財閥は、春香の母親にドナーとなることを依頼した。だけど、彼女はそれを拒否した。不老不死の体を手に入れてしまえば、死亡者が減って、人類のバランスが取れなくなることに気付いたから。でもそれに怒った望月剛三郎は、彼女を拉致監禁して人体実験するという荒業を取った。」
「か・・監禁!?」
「ええ。彼女を研究施設の中に閉じ込めた。そして、様々な人体実験を加えた。・・・正直、吐き気がするような内容もあったわ。」
水瀬さんは顔をしかめた。その表情が、実験の激烈さを物語っているようだった。
「人体実験には、被験者の細胞を利用する。だけど、実験を続けるうちに、彼女の細胞の中のサーチュイン遺伝子が少なくなり始めていた。このままではやがて、遺伝子が枯渇して実験が進められなくなる。当時は、細胞を増殖させるiPS細胞なんて便利な技術もなかった。ところが、その代わりに彼らには、別の技術を持っていた。・・・クローン技術がね。」
クローンだと・・・。
「クローン技術自体は、とても古い技術よ。比較的原始的な個体であるウニのクローン作製は、19世紀末に成功しているの。カエルなんかは、1950年代に作られた。すると当然、こういう発想になるわよね。『クローン人間』が作れないか。・・・私が読んだ資料では、旧共産圏でこうした研究が盛んに行われていたらしい。さすがに西側諸国では、倫理的な問題からNGだったみたいだけど。どういう訳か、望月財閥はその研究資料を極秘に得ていた。そして彼らは、人体実験を続けるために、春香の母親のクローン胚細胞を作り出し、それを彼女のお腹の中に入れた。」
まさか・・・
「それじゃ春香は・・・。」
「そう。春香は・・・・・彼女の母親のクローン。生物学的には、彼女の母親と全く同一の個体。」
そんな馬鹿な!なんてことだ・・・なんてことだ・・・、こんなこととって・・・。
あまりのことに衝撃を隠し切れない。開いた口が塞がらなかった。
「春香の母親は、臨月になって病院に入院した。そのスキを見計らって、彼女は病院から逃げ出した。そして彼女は春香を生んで、富山で生活を始めた。・・・望月財閥は重要なドナーが失われたことで、研究がストップしてしまった。研究の継続は、不可能かに思われた。しかし、iPS細胞が開発されたことで、クローン人間を作らなくても、効率的に細胞を増やすことが可能になった。これで研究が進展すると考えた望月財閥は、再び春香の母親を拉致することを考え、実行した。」
「それが、春香の母親、失踪の真相・・・。」
「そういうことよ。春香の母親は、千早によって殺されたのでも、春香によって殺されたのでもない。望月財閥が拉致して、監禁した。それが真相よ。」
こんなことが許されるはずがない・・・。春香は・・・。
「ただぁ、それだけぇじゃなかぁったぁの。」
水瀬さんの声が震えている。その目には、涙が溜まっている。
「クローン細胞のぉ寿命はぁ・・・一般的にオリジナルよりもはるかに短いのぉ・・。」
「それって・・・。・・・つまり春香の寿命は・・・。」
「もともとぉ短かぁったの。資料によれば、20代前半までしかぁ生きられない。オリジナルからの劣化部分がガン化してぇ・・・」
水瀬さんは声を詰まらせた。手でこぶしを作り、震わせている。
「だから私はぁ・・・春香には幸せになってほしかったぁ!彼女の人生は・・・決して捨て石なんかじゃない!たとえどんな形でうまれようともぉ・・・春香は春香じゃない・・・。誰かの『劣化コピー』なんかぁじゃないぃ!」
彼女の泣きじゃくる姿を見て、私は初めて水瀬伊織という人間が理解できた。この人は、決して財閥の手駒でも、財閥の腰巾着でもない。一人の意志を持った人間なんだ。
「私は望月剛三郎という人間が許せなかった。天海春香という一人の人間の希望を、生まれる前から奪い取った悪魔・・・。自分が永遠の命を手に入れるために、春香を永遠の苦しみに追いやったあの男。私は、あの男に復讐したいと思った。そして望月俊と、春香と千早の3人が、たとえどれだけ短くてもいい。幸せに生活できる時間を作りたかった。だけど、剛三郎が失脚しない限り、望月俊は彼の元を離れられない。それに『生命の実』が完成してしまえば、剛三郎は永遠の命を得て、それこそ永久に剛三郎は俊を支配し続ける。だから私は、後継者の地位から外れた俊の兄、望月秀幸に目を付けた。私はひそかに彼に接触した。」
望月秀幸・・・今回の春香たちの監禁事件の首謀者とされている男、望月俊を追いやる為、春香と千早に殺し合いをさせた悪魔。
「彼は・・・、どんな人だった?」
「・・・とにかく、気味が悪い人間だった。どこか頭のネジが外れているような、そんなやつだった。でも、話ができない相手ではないと思ったんです。そしてあの男は、望月俊のスキャンダルネタを探っているようだった。雪村家との突然の提携解消を怪しく思ってたみたいだった。私は、そんな彼に私が知っている限りのスキャンダルの内容と、望月製薬が開発中だった『生命の実』の電子データを渡した。これを使って、望月剛三郎を追い落としてほしいって。でもただで渡したんじゃない。研究データを渡す代わりに、望月剛三郎を追い落とした後も、望月財閥との提携を続けてほしい、そしてさらに強化してほしいという交換条件だった。」
さすがは水瀬の子。やはり財閥のことは考えていたのね。
「彼はその条件を飲んだと。」
「・・・ええ。そしてそれから1か月後、事態は大きく動き始めた。彼が望月財閥傘下企業の大株主の支持を調達し始めた。俊のスキャンダルネタと、『生命の実』の開発資料が、あの男の武器だった。だけど正攻法での攻略はうまくいかなかった。そこで、彼は次の方法を考え出した。」
次の方法、そう言った瞬間、彼女の顔が青ざめたのが分かる。小刻みに震えている。冷房が効きすぎているとか、そういう問題ではなさそうだ。水瀬さんが言おうとしていることは私でもわかる。・・・あの事件を起こしたということだ。
「望月俊を犯罪者に仕立て上げた。」
「ええ。如月千種を使ってね。・・・全ては私のせい。私があの男を利用しようとしたばっかりに・・・春香も千早も、酷い目にあってしまった。」
彼女は下を向いて、唇をかみしめている。
「悪いのは・・・望月秀幸よ。あなたは・・・二人を幸せにしようとしてくれたんじゃない。水瀬さんが悪いとは思えません。」
水瀬さんは首を横に振る。
「わたし・・・そう言われるのが・・・一番つらい・・・。千早にも同じことを・・・言われたのよ。『伊織が悪いんじゃない。伊織は私たちを助けようとしてくれただけ。』そう言われて、笑顔を見せてくれる・・・。それが何よりもつらい・・・。」
「それはあくまで結果論ですよ・・・。あなたは、精一杯できることをした。」
「私には・・・もっとできることがあった。にも拘らず、それをやらなかった。」
「水瀬さんに・・・何ができたんですか?」
「・・・わからない。でも、少なくとも・・・こんな結末・・・どこかで回避できたはずなのよ・・・。」
水瀬さんは力を持っていた。力を持っていたからこその苦悩ということもあるのだろう。
「私は、全ての真相を春香に伝えようとした。望月俊に、全てをゆだねるよう助言しに行ったんです。春香を幸せにできるのは、あの人しかいないから。でもその途中で、私の裏切りが露見した。私は、春香と話している途中、家のガードマンに連れ去られた。そして私は、そのまま自宅に軟禁されたんです。軟禁された私は、何とかして真実を春香に伝えようと思った。そして手紙を書いたんです。私の住み込みの執事だった新堂に手紙を渡した。彼は執事をクビになってしまった。私の裏切りに加担したせいで。この家を去る前、彼が最後に私の部屋を訪れた時に、その手紙を渡したんです。そして新堂は、真っ先に彼女の家に行って、それを渡した。新堂が言ってたわ。春香は、自殺する寸前だったみたい。」
自殺寸前?まさかあの日か。
「春香から電話がかかってきたことがあった。2月頃で自殺をほのめかす内容だった。」
「多分その日だわ。新堂が春香の家を訪れたのは。」
「春香はそれを読んで、アパートを出ていった。」
「そしてそのまま拉致された。」
「手紙には、何て書いたの?」
「手紙には、春香が母親の純粋クローンであるということ、それから、逃げるあてを用意し、そして春香を幸せにできるのは望月俊しかないない。だから、彼に頼って、そう書いたわ。」
「春香はどこに行ったのかしら。」
水瀬さんはゆっくりと顔を上げた。
「私が書いた手紙の内容からすれば・・・望月俊のところに行ったとしか考えられない。」
「ならば、そこで一緒に拉致されたのね。彼のところに会いに行って、そしてそのまま行方不明になっているんですから。それに望月俊もその日以来、行方が分からなかった筈。」
「多分・・・そうなのかもね・・・。」
水瀬さんの表情が曇っている。モヤモヤした感情が抜けていない様子だった。
「何か、気になることがあるんですか?」
私は単刀直入に尋ねてみた。水瀬さんは虚ろげに答える。
「3人が監禁された事件からしばらく経って、千早が自由に動けるようになった。望月俊の庇護のもと、彼女はマスコミの目から逃れるようにしてホテルを転々とする生活だった。だけど彼女は、ずっとホテルに缶詰めだったわけじゃない。『気分転換』と称して、あちこち出かけているみたいだった。」
「普通のことじゃないですか。」
「・・・千早は、あの事件のことを独自に調査しているみたいだった。」
「独自の調査・・・。」
「・・・千早は、あの事件の真相に納得していなかった。ある日、私が彼女のホテルを訪れた時、さっきの手紙の話をしてきたんです。」
「千早は、手紙の存在を知っていたんですか?」
「ええ。恐らく監禁されていた時に春香から聞いていたんでしょう。そして千早は、『どういう内容を書いたのか』尋ねてきた。」
「それに水瀬さんは、正直に答えたんですか?春香が、クローン人間だったって。」
彼女はゆっくりと頷き、そのままうつむいた。
「嘘を話すわけにもいかなかったから。ありのままを話したわ。今こうやって、あなたに話しているようにね。」
「千早も、さぞショックを受けたでしょうね。」
「ええ・・・。だけど、何だか納得しているようだった。」
「納得していた?何を?」
「分からない。けど『これが謎が解けたわ』なんて、意味深なことを言ってました。私が『なんの謎が解けたの?』って聞いたんですけど、彼女は何も答えてくれなかった。それから・・・彼女は、私との思い出についてもいろいろと尋ねてきた。」
「どんなことを?」
「『尋ねてきた』っていうよりかは、『確認された』っていう方が正しいかも。例えば、『大学2年生の時の8月に、伊織は私が滞在しているホテルに来て、こんな話をしたよね』とか、『大学1年の秋に、私は伊織をカフェに呼び出して、俊についての話をしたよね、覚えてる?』とか、そんな風に、私たちの間であった出来事を一つ一つ確認されたわ。」
何の意図があってそんなことをしているのか・・・水瀬さんが続ける。
「恐らく、彼女は記憶をいじられている。」
「どういうこと?」
「監禁されているときに、きっと千早の記憶に何らかの障害が起きたのよ。記憶を失ってしまったり、記憶を書き換えられてしまったりとか、とにかく何かしらの障害が起きた。だから彼女は確かめていた。自分が今持っている記憶が正しいのかどうか。」
「じゃあ、犯人は何のために記憶を書き換えたのよ?」
「それは、分からない。でも、わざわざそうしたってことは、犯人たちにとって何か不都合な記憶があったんじゃないかしら。隠さなければならないことが。」
私は続けて問いかけた。
「水瀬さんは、千早から聞いたの?監禁されているときに、何があったのか?」
「・・・聞こうとしたわ。だけど、教えてくれなかった。言ったとしても、それは報道されている内容からは一歩も出ていない。」
「そう・・・。千早は、水瀬さんから見てどんな様子?」
水瀬さんは、少し困惑したような表情を浮かべた。
「どんなって言われても・・・なんて答えればいいのかしら。」
「事件前と後で変わったとか。」
「・・・端的に言えば、人間らしくなくなったわ。昔の彼女は、良くも悪くも、感情的だったような気がする。だけど今の彼女は・・・なんだか心ここにあらずって感じで。会話をするときなんかは、普通っぽく装っているけど、明らかにどこか上の空だったり、ぼんやりとしていることが多くて・・・見ていてとても怖い。」
星井さんと同じような印象だ。そして私の印象とも、符合する。水瀬さんは続けた。
「望月俊と結婚することになっても、千早の様子は変わらなかった。口では『嬉しい』っていうんだけど、全然真実味がない。こっちが恐ろしいくらいだわ。」
彼との結婚を、心から望んでいた人の状態とは思えない。
「千早は、望月さんと結婚できることを喜んでいないんですか?」
水瀬さんは、何かを口籠った。
「何か言いました?」
水瀬さんは、私から目を逸らし悩んでいる様子だったが、こちらに目線を戻して言い放った。
「・・・この際だから言ってしまうわ。どうせ、明日全てを聞くんでしょうから。」
なんだなんだ・・・急に寒気がしてきたぞ。これからどんな言葉が出てくるっていうんだ・・・。
「千早から、私が春香に宛てて書いた手紙の内容を聞かれたとき、『伊織は、春香に手紙を書いたのよね。なんで伊織はこの事件が起きるって知っていたの?それに犯人の名前まで。』って聞いてきた。私は訳わからなくて『なんで私が、この事件が起きるって知っているのよ。私は超能力者でもなんでもないのよ。』って返したんです。それで千早は驚いて、地下室の中で春香が千早に語った手紙の内容を教えてくれたんです。」
「そこに・・・この事件の犯人の名前が書いてあったというわけなんですか、春香の記憶の中の『手紙』では。」
「ええ。春香の記憶の中の『手紙』では、私は春香にこの事件の真犯人が望月秀幸であると教えたことになっていた。だけど私はそんなこと一言も書いてないの。というか、この事件の犯人が誰かなんて全く知らなかった。要するに、春香が思い出した記憶は偽物だった。」
「もしかしたら、それが分かったからこそ千早は水瀬さんに、あれやこれやと昔のことを尋ねて、記憶の検証を始めたのかもしれないですね。」
「真相は、本人に聞くしかないにしても・・・千早はとにかくこの事件のことを疑っている。『望月秀幸が真犯人である』という証拠の一つが、偽物だった。千早は多分、これを真犯人による偽装工作だと考えたんじゃないかしら。」
水瀬さんがグラスを持ち上げ、ジュースをすべて飲み切った。私は、追加のジュースを持ってきてあげようと思い、立ち上がった。
「またオレンジジュースでいいですか?」
「大丈夫です。自分で取りに行きますから。ゆっくりしていてください。」
そう言い残すと、彼女は立ち上がって、ドリンクサーバーがある階下へと降りて行った。
一人になると私は、改めて室内の様子を見回してみた。思えば、カラオケボックスに入るのもひどく久しぶりだ。春香たちと7年くらい前に一緒に入って以来だった。あの時は、流行の曲を歌ったりして、凄く楽しかった思い出がある。
でももう、それも今となっては遠い昔の話。もうあの頃には、二度と戻れはしない。春香はもちろんのこと、千早だって・・・。
ふと、私は彼女のカバンに目が留まった。カバンから、ピンク色の何かがひょっこり顔を出しているのだ。何なのだろうか。私は気になって、もう少し近くで様子を見ようとしたのだが、水瀬さんが帰ってきてしまった。
「お待たせしました。」
彼女がゆっくりと着席する。私は事のついでに尋ねてみることにした。
「水瀬さん、そこから顔を出している、アレなんですか?」
「えっ?」
彼女はカバンの方を一瞥し、しまった、という表情をすると、急いでそれをカバンの中に押し込めた。
「気にしないでください。」
「そうですか・・・。」
やはり気になる。「気にしないで」と言われると余計に気になる。何を隠したのだろうか。
「私が話せるところは、こんなところです。あとは、本人に直接聞くしかないですから。」
私は深く一礼した。
「ありがとうございました。わざわざ貴重な休みを削っていただいて。」
彼女は、やれやれという顔をした。
「ホントよ。私、今日実は彼とデートする予定だったのに、それをキャンセルしちゃったんですから。」
「そうだったんですか・・・それは申し訳ないことを。」
彼とデートね・・・私なんてもう十何年そんなことしてないなー。
「その彼氏って・・・新たな『許嫁』ですか?」
それに対して彼女は大笑いした。
「勘違いしないでください。私はもう水瀬の人間じゃないんです。名前こそ『水瀬』ですけど、家族からはもう勘当されてますから。今の彼は、財閥とは何ら関係ない、自由恋愛で見つけた人ですよ。」
「そうだったんですか、それは失礼しました。」
彼女はジュースを一口飲んだ。
「少しだけ、身の上話をさせてもらっても良いですか。」
「ええ。」
「私、3人の監禁事件があってしばらく経った後、家を追い出されたんです。ほとんど着の身着のままで。水瀬家として持っているお金は多かったけど、個人で持っているお金なんて殆どなかった私は、半ばホームレスになりかけていた。そこを千早に助けてもらったんです。彼女は私にお金を貸してくれた。そのおかげで、ボロいですけどアパートを見つけることができた。」
酷い話だ。だが、分からないまでもない。望月財閥と水瀬財閥の業務提携話は、監禁事件があった後、突然解消された。その代わり望月製薬が、「第三薬品」と業務提携を結び、『生命の実』を作り上げた。
水瀬財閥としては、水瀬伊織の裏切りのせいで、業績の爆発的向上のチャンスを失ったのだ。これくらいの仕打ちは、ある意味やむを得ないのかもしれない。
「家事炊事なんて、今までやったことなかったから、ものすごく苦戦した。あれってすごく面倒くさいんですよね。」
「そうそう、正直やんなっちゃうですよ。春香たちがいた時には、彼女たちにやってもらえたからよかったんですけど、一人でやると本当大変。」
水瀬さんの気持ちは痛いほどわかる。
「ふふっ、だから私は千早に教えてもらったんです。家事のやり方。」
なるほどね、彼女に教えてもらえれば、万事完璧だ。
「それだけじゃない。千早は、私に仕えていた元執事の新堂を探してもらったんです。別に私から頼んだわけではなかったんですけど、彼女が気を利かせて探してくれた。私が寂しくないようにって。涙が出るほどうれしかった。」
「その新堂さんとは長い付き合いなんですか、もともと。」
「・・・親の顔見より見た顔よ。パパは色々忙しかったし、ママは・・・私に興味がなかったから。だから私にとっては新堂が親代わりだった。ちょうど、あなたが千早や春香の親代わりをしていたようにね。」
「とても大切な人だった、そういうことですね。」
「ええ。新堂からもお金を借りたの。当然アルバイトをしていたけれど、それじゃ生活費と学費を賄いきれなかった。縁が切れたとはいえ、実家がお金持ちだったから、奨学金の対象にはならなかったし。新堂は返さなくていい、なんて言ってくれたけど、そこは『水瀬』の意地にかけて、絶対に返して見せる。」
彼女の顔がイキイキとしている。本当に新堂さんのことが好きなんだな。
「その後も私は千早にお世話になりっぱなしだった。望月財閥のつてで、望月不動産に就職させてもらった。おかげで生活も安定して、会社内でいい人も見つけられた。」
「じゃあ、今は幸せなんですね。」
「もちろんよ。こんなの財閥の一員だったら、決して味わえないものだった。そして、それはずっと昔からの私の憧れだった。『普通の生活』、好きな人と恋愛して、一生懸命働いて、料理を作ったり、掃除をしたり、洗濯をしたり、普通の人なら当たり前にやっていることだって、私にとってはまるで別の次元に飛び込んだみたいな体験だった。これも何もかも、千早のおかげ。」
彼女はにっこりと笑って見せた。そのほっこり顔を見ると、彼女が本当に幸せなのだと実感させられる。
「でも時々不安になる。どうして千早は、こんなにも私のことをお世話してくれるんだろうって。私なんて、千早の為に何一つしてあげてない。それどころか、私は千早の命を奪おうとさえした。にも拘らず、こんなにも尽くしてくれる。私のことが好きだとか、そういうのが見えればいいんだけど、彼女の顔は・・・私には見えないから・・・。何考えているのか、何を想っているのか、そういうの多分ないから・・・だから怖いの。」
「千早が、何か利害を持って水瀬さんを助けたと?」
「もう私は力を失っている。戻ることはない。にも拘らず私を助けてくれる。それが、なんだか怖いの。私が思いもよらぬような何かを考えいそうで。」
「考えすぎ・・・だと思いますけど。」
千早は、確かに裏表はあると思う。だけど、基本的に悪い人間ではなかった筈だ。水瀬さんに何かいいことをしたとしても、それだからと言って、何かを企んでいるとは必ずしも限らない。
「新堂は、私が生活に困っているということを知って、真っ先に駆けつけてくれた。そして『私の残りのすべてをお嬢様に捧げたい』って言ってくれたの。別に、私は新堂のことを養ってあげられるわけではない。それどころか、私は新堂が蓄えた貯金に無心することになる。契約ではない、新たな関係を結びたいって言ってくれたのよ。・・・家族から追い出されて、寂しい思いをしていた私にとって、かつての『家族』が戻ってきてくれたことが、何よりもうれしかった。そして私たちは、『親子』になった。」
「親子って・・・。」
「養子縁組をしたの。知ってるでしょ?日本では、たとえ血がつながっていなくても、気持ちさえ繋がっていれば、親子になることができるんですよ。新堂は、今では本当の『パパ』になった。今では、『パパ』『伊織』と呼び合う関係。」
養子縁組か・・・。
「秋月さん。どうして千早があなたにすべてを話そうとしているのか、分かりますか?」
私にすべてを話そうとしている理由・・・。美希は、「私と千早は家族だから。そして私に助けを求めているから」だといった。
「私と千早は家族だから・・・そして私に助けを求めているから?」
伊織は頷いた。
「分かっているじゃないですか。」
「いや、私にはわからなかった。だから、星井さんがそう教えてくれたんです。」
それを聞いて彼女は苦笑した。
「別に示し合わせた訳じゃないわ。本当に偶然、私と美希が思っていたことが同じだった。同じことを感じていたのよ。千早を救うことができるのは、秋月さんだけって。」
「望月さんは・・・望月俊は、彼女を救うことができるんじゃないかしら。」
星井さんに聞いたことと同じことを聞いてみることにした。水瀬さんは、彼のことのついてどう思っているのか。
水瀬さんは、怪訝な顔をしていた。
「・・・私も不思議なの。千早があの人と結婚するってなって、ようやく二人で一緒に居られるってなったのに、あの子の表情は微塵も変わらなかった。表面的には嬉しそうにニコニコしているのに、その顔には『喜び』がない。あれほどまでに、彼と一緒にいることを望んでいたはずなのに、彼女は・・・千早はまるで喜んでいないみたいだった。」
「じゃあ、彼は千早を幸せにすることはできないと?」
「・・・多分、あの子が求めているのは、あの人じゃない。だとすれば・・・もう千早を救えるのは秋月さんしかいない。親代わり、いや・・・千早にとっては、本当の『母親』!」
水瀬さんが凄んできた。
「ねぇ秋月さん・・・あなたはずっと逃げてきた。自分が背負うべき役割から。何も知らず、自分の娘が妊娠して、子供をおろしたことすらも知らない。無知こそ最大の罪よ。そしてあなたのその罪が、千早を苦しめ続けていたの。どうして逃げてきたんですか?」
「それは・・・。」
怖かったからだ。彼女が抱えている闇が大きすぎて、私には抱えきれそうにない。そして私には、それを一緒に支えていくだけの勇気が無かった。私は・・・あまりにも短絡的過ぎた。短絡的に、あの子の人生に関わってしまった。
「分かりますよ。怖いんでしょ?千早が経験してきた人生が。あの子が負ってきた闇が。だから逃げて逃げて逃げ続けた。そうでしょ?」
言葉もない。まさにその通りだ。水瀬さんは続けた。
「千早はずっとあなたが助けに来てくれるのを待っていた。あの子は仮面をかぶっている。本当の気持ちを隠し通すため、真実を隠し通すため、あの子は脱ぎたくても脱ぐことの許されない仮面を・・・ずっと・・・5年間も・・・かぶり続けている。そしてついに千早は、限界になって、あなたに助けを求めてきた。」
これまで私は、ずっと目を背けていた。千早が直面してきた現実から。そして自分自身が負うべき役割から。
「まさか、また逃げないでしょうね!?彼との結婚披露宴の直前で秋月さんを呼んだのは、これが最後のチャンスだと思ったからでしょ?彼との結婚生活が始まれば、もう戻ることはできなくなる。助けを呼べなくなる。だから最後の力を振り絞って、あなたに助けを求めたのよ!それが、分かってるの!?」
「・・・分かってるわよ。」
「分かってない!あんたは分かってなかった!ここで美希と私から説教されなかったら、アンタは自分の役割さえわかってなかったのよ!」
確かに・・・、そうだったかもしれない。何も準備しないで千早に会っていたら、また怖くなって、私は真相から・・・現実から目を背けて、けむに巻いて逃げていたかもしれない。
でもどうすればいいのだ。「千早を助ける」なんて。千早にとって大切な星井さんや、水瀬さんを以ってしても、彼女を救えなかったというのに・・・。「家族」、星井さんも水瀬さんも、私と千早は「家族」だって言っていた。「家族」になればいいのか?二人が養子縁組をして、本当の「家族」になれば、千早は救われるのか?
「私と千早が養子縁組をすればいいの?養子縁組して、戸籍上本当の親子になれば、それで彼女は救われるの?」
「そうじゃない!紙だけの関係では意味がないの!気持ちが籠っていないと、たとえ戸籍上親子になっても意味がない。」
「私にどうしろって言うの・・・?どうすれば・・・私は千早を助けられるって言うの・・・。」
「それは千早が決めることでしょ。千早が秋月さんに何を望んでいるのか。それは会って話してみないと分からない。」
「本当は、知っているんじゃないですか。彼女が何を求めているのか。」
彼女は閉口する。やはり知っているのか?しばらくして、水瀬さんが口を開いた。
「とにかく、千早は救いを求めているのよ。全てを吐き出したうえで、そしてその上で自分がどうすればいいのか・・・秋月さんに助言を求めている。あとは・・・あなたが何をするのか・・・それは秋月さん、あなたが判断するしかない。あなたが、千早に手を差し伸べてあげるしかないんです。きっと千早は、あなたにしかできないことを求めている。」
「・・・『家族』になること・・・ですか?」
「・・・そうだと思います。だけど・・・きっとそれだけじゃない。さっきも言ったでしょ。表面的な問題ではない。気持ちの問題だって。だから・・・千早はその先の『何か』を求めているんだと思います。」
千早が求めている「家族」の先の「何か」・・・それが何なのか、私には皆目見当が付かなかった。
私は話しかけるべきことが見つからず、口を閉じたままだ。ちょうどその時だ。室内に設置されている、電話が鳴った。私は腕時計に目を落とす。気づけば、もう最初に設定した2時間になろうとしていた。
水瀬さんが問いかけた。
「延長します?」
時刻は8時20分。まだ時間には余裕があるが、今日はホテルに帰って考えごとをしたい。
「いや、遠慮しておきます。」
水瀬さんが立ちあがり、受話器を取った。
「これから出ますので。」
そういうと、彼女は受話器を戻した。
「それじゃ、行きましょうか。」
結局カラオケボックスに入ったのに、水瀬さんとも一曲も歌わなかった。なんだか、それはそれで寂しい気もした。
「さっき星井さんと会ったときに、結局意気投合したんですよ。それで今度は二人でカラオケに行くっていう約束をしたんです。」
「ふーん、美希だったらそれくらい言いそうですね。」
「だったら、今度は3人で行きませんか。」
水瀬さんは一瞬驚いたような表情を見せたが、ふふっと微笑した。
「千早を忘れちゃダメでしょ。今度は女4人、いいですね?」
私も微かに笑った、
「そうですね。」
私が二人分の会計を済ませると、店の前で私たちは分かれた。また次に会える日が来るのを誓って。