第4節 蒼い花嫁
千早と望月俊の結婚式場となる「望月グランドリゾート」は、超高層ビルが林立する西新宿官庁街の中にある。格式あるホテルとして有名で、一度は泊まってみたいホテルランキングで常に上位を占める一流ホテルだ。
約束の時間は午後1時。フロントで、千早の名前を使えば、ホテルマンが案内してくれる手筈となっていた。
ホテルの中に入って度肝を抜かれた。キラキラとしたオープンスペースのギャラリー。豪華絢爛という言葉がまさにピッタリの場所だった。
私はフロントに声をかけ、ホテルのボーイに案内されて、そのまま34階の披露宴があるフロアへ案内された。千早がいるのは、その控室なのだという。今日千早は、披露宴の為の打ち合わせでホテルを訪れているという話だった。
「こちらでございます。」
そういって大きな扉の前まで案内された。
「ここが控室なんですか?」
「左様でございます。如月様は、サプライズのプレゼントを用意されているようでございますよ。」
えっ、そうなの?
「それでは、ごゆっくりお過ごしください。」
ホテルマンはそう言うと、廊下をスタスタと去っていった。
私は大きな扉に圧倒されながらも、部屋をノックした。
「はい。」
中から千早の声がする。
「私。律子よ。」
「入ってください。」
私はゆっくりとドアノブを捻り、ゆっくりと扉を開けた。
キラキラとした控室の中には・・・純白のウェディングドレスに身を包んだ千早の姿があった。私はその圧倒的な美しさの前に、言葉を失っていた。
「どう、お母さん?綺麗でしょ。」
「すごい・・・きれい・・・。」
千早は艶やかな笑みを浮かべている。
「さぁ、中に入ってもっと私を見て。」
私は導かれるまま中に入り、扉を閉めた。そのままゆっくりと、立っている千早の前へと行く。
「これを見せたかったの。まだ誰に見せたことがないのよ。美希や伊織はもちろん、俊にもね。」
彼女のみずみずしい姿は、まるで天使のようだった。
「サプライズってこれのことね。」
「びっくりしたでしょ。」
「ホントに。・・・驚いたわ。こんなにきれいだとは思わなかった。」
「本番さながらの用意をしてもらったの。」
そういって彼女は、ゆっくりとその場でくるりと一回転をした。
「すごいわ、これでみんなの目をくぎ付けにできるわ。」
「ふふっ、ありがとう。一生懸命用意した甲斐があったわ。」
彼女の白無垢姿を見て、千早が本当に嫁いでしまうのだと実感させられた。親らしい事なんか何もしたことはないのに、急に娘を失う母親になったような寂しい気分になった。
「さぁ。あっちに座って。」
そういって千早は、広い控室の一角にある応接間のようなところを指さした。
「あそこで話しましょう。あっ、そうだ。飲み物を用意しなくちゃ。アイスティでいい?」
「ええ。いいわよ。」
彼女はホテルの内線電話でボーイを呼んでいた。千早がボーイに命じている。なんだか慣れた感じだ。
「もうすぐ来るみたいだから。」
「なんだか、こなれた感じね。」
「高飛車女に見えた?」
「そうとは言ってないけど。」
「まぁ、とにかく座って。」
千早が応接テーブルの脇のフカフカそうなソファーに座った。私もそれに合わせて、反対側の方に、千早に向かい合うようにして腰を掛ける。
「久しぶりだね、お母さん。1年ぶりくらい?」
多分もう少し間は空いている。
「もう少しあると思う。1年数か月くらいかしら。」
「仕事は相変わらず忙しいの?」
「まぁ、高校教師だからね。仕事の忙しさは相変わらずよ。千早はどうなの?」
彼女はくすっと笑う。
「私は相変わらずヒマ。特にやることがあるわけでもないし、気分転換に外に出かけたりするだけ。それも、パパラッチに気を付けなくちゃいけないし。」
「相変わらずマスコミが追いかけてくるの?」
「うるさいのがいくつかね。最近はようやく少なくなってきたんだけど。」
相変わらず身を隠す生活が続いているようだ。そのせいで彼女はしたいこともできないでいる。
「今は、どこに住んでいるだっけ?」
「最近は、青山のホテル。でももうすぐ引き払う予定だわ。六本木ヒルズに住居を構えるから。」
「彼と暮らすの?」
「ええ。遊牧生活ともこれでおさらばよ。」
彼女はにかっと笑った。私もそれにつられて笑う。
「おめでとう。ようやく、彼との二人暮らしが始まるのね。」
「・・・ええ。」
何だか気になる間だ。彼女の笑顔が硬直している。私は少し話題を変えようと試みた。外の方を見つめる。全面窓ガラスの大きな窓だ。
「今日も暑いわね。」
「部屋の中にいると分からないけどね。」
「千早は、熱中症とか大丈夫?」
「ええ大丈夫、まだ私若いから。」
「若いとか、関係ないんだからね。」
「はいはい、分かってますって。」
その時、部屋をノックする音が聞こえた。
「如月様、お飲み物をお持ちしました。」
「入ってください。」
「失礼します。」
ガチャリと扉が開いて、こちらへと歩いていき、私たちが座っているところのテーブルに二つグラスを置く。ホテルマンは、そのまま一礼すると、部屋を去っていった。
千早が言う。
「さて、邪魔者もいなくなったことですし、そろそろ本題に入りますか。」
彼女がグラスを持ち上げ、ストローで赤茶色のアイスティを少量口に含む。いよいよという緊張感が、胸を高鳴らせる。
「冷たくておいしいわ。お母さんも飲みなよ。」
「・・・ええ。」
千早に促されて、私もアイスティを飲んでみる。外は暑かったから、冷たいものがおいしく感じられる。とはいえ、胸のどきどきまでは抑えてくれそうにない。
「昨日はどこに行ってたの?」
「えっ?」
「昨日から、こっちに来てたんでしょ。東京観光?」
「まあ、そんなところよ。」
「・・・うそでしょ。」
千早がジトッとこちらを睨むように見える。背筋が凍るような思いだ。
「どうしてそんなことわかるのよ・・・。」
「美希と伊織に会っていたんでしょ。ちゃんと、知ってるんだから。」
二人が、千早に報告したのか・・・。
「・・・そうよ。二人に会っていた。」
「そこで、二人の想いを聞いたのよね。」
「・・・そう。」
「ふーん。」
千早の目は、どこか私を侮蔑していた。
「いけなかったかしら?」
「別に、悪いとは言っていないわ。でも、出来れば私から全部話したかったかなーって思っただけ。彼女たちが知っていることは、もうお母さんも知っているんでしょ。」
確かに、昨日二人は、彼女たちが知っていることをすべて話してくれた。だけど、千早の口から言えない訳じゃない。というか、もし千早がそういう「カンニング」されるのがいやだったら、二人に口添えすればよかったではないか。
「千早の口から、直接聞きたい。それに、本当に二人の口から話されたくなかったら、二人を止めればよかったじゃない。二人は、事前に千早へ連絡してきたんでしょ?」
「その通り。二人は私の味方だからね。私は二人に、知っていることは全部話していいって許可したわ。予備知識を付けておきたいと思ったんでしょうから。お母さんは、今まであまりにも知らなさすぎたんだから。」
千早のとげとげしい口調には、明らかに私への非難が込められていた。でも憎まれて当然だ。私はそれだけ、何もしてこなかったんだから。
「・・・言い訳するつもりはない。確かに私は、あまりにも千早のことを知らなさ過ぎた。そして・・・知ろうともしなかった。」
「怖かったから、でしょ?みんなが感じてたことよ。お母さんは、恐れている。お母さんは、自分が巻き込まれるのを恐れているんだって。」
「・・・その通りよ。」
私は顔をしかめ、唇をかんだ。
「私は、今更それを咎めるつもりはない。二人へ、お母さんに会うことを許可したのは、二人の正直な気持ちも、お母さんに知ってほしかったから。二人は、色々と話したんじゃない。自分たちの率直な気持ちを。」
確かにそうだった。星井さんと私は殆ど初対面だったし、水瀬さんに至っては、顔すら知らなかった。にも拘わらず、彼女たちは自分たちが知っていることと、本音を涙交じりに正直に話していた。これも全ては、千早の指示だったってことか。
「確かに、色々と聞いたわ。」
「そう・・・。」
千早は外の景色を見つめた。私もつられて外の方を見やった。千早が言う。
「世の中って、どうしてこんなに不公平なんでしょうね。」
「何を今更・・・。」
「お金持ちの家庭に生まれて、人生での成功を約束された人もいれば、例えば私や春香の様に、呪われた人生を歩む人もいる、」
「でも、人生は変えられる。水瀬さんの様に、一度どん底に落ちても這い上がることだってできる。」
千早は鼻で笑う。
「どうかしら?彼女は別に這い上がってきた訳じゃない。誰かが垂らした蜘蛛の糸を器用に登っていっただけじゃないかしら。」
千早は、自分が彼女を助けたと言わんばかりだ。実際そうなのだが。ただ、昔の千早はこうしたことで鼻にかけるような人ではなかった筈だ。
「私最近嫉妬しているの。美希や伊織に。彼女たちは、平凡だけど満ち足りた生活を送っている。実にありふれた、ごく当たり前の生活。私が求めていたのにもかかわらず、決して手に入れられなかったもの。」
「千早はこれから、比類なき幸せを手にするんじゃないの?」
千早は黙っている。やはり、彼と結婚することは幸せではないというのか?彼女がこちらに振り返った。私も千早を正面に見据えた。
「今日は、『全て』を話す。いいね?お母さん。」
「分かってる。」
「じゃあ、まずは私の生い立ちから話しましょうか。報道でもう知っているかもしれないけど、これすらも、お母さんには話したことなかったと思うから。」
「・・・分かった。」
千早が、目をつぶってゆっくりと深呼吸をした。ゆっくりと息を吐きだす。
「私は、富山市内で生まれた。今は『如月』を名乗っているけど、生まれた時の苗字は『今井』だった。高校生の時に死んだ私の父は、言わば継父。本当の生みの父親は、私が幼いころに病気で亡くなった。その後、如月千種は・・・当時は今井千種だったけど、彼女は女手一つで私を育ててくれた。あの頃のことは、おぼろげながら覚えている。あの頃の彼女は、優しかったわ。今となっては、まるで想像もつかないんだけど。そして私が小学生になって、彼女は再婚した。それが如月五郎という男だった。」
「それで『如月千早』になったのね。」
「そうよ。あの人も『今井千種』から『如月千種』に名前が変わった。あの女は、私への子育てに疲れていて、それで再婚相手を探していたの。結婚して経済力が付けば、子育てが楽になると思ったみたい。だけど、彼女が結婚したこの男には問題があった。それは、亡くなった父親の忘れ形見である私のことが好きになれなかったこと。私の彼への態度に問題があったとは思えない。私の本当の父親は、物心がつく前に死んでいるから、私にとっては『初めての』父親だった。だから私は一生懸命、彼に好かれようと努力したわ。だけど、彼の心は全然つかめなかった。そうこうしている内に、吾郎と千種の間に子供が生まれた。ニュースでもやっていたでしょ。私が殺したと言われている、あの子が。」
「『如月千尋』、千早にとっては、父親違いの姉妹。」
彼女はゆっくりと頷いた。
「彼女は本当にかわいかったわ。妹ができたって知って、私は心の底から喜んだ。そして、心の底から大切にしたわ。そして千尋も私のことが大好きだった。だけど、あの人はそれが気に入らなかった。」
「あなたのお父さんね。」
「ええ、『如月五郎』。私たちは養子縁組しなかったから、正確に言えば親子ではないの。母親と苗字が違うと困るから、合わせただけ。あの人が親子になるのを嫌っていたから。」
彼女はもう一度お茶を飲んだ。そして彼女は続ける。
「如月五郎は、千尋を溺愛していた。その反面、私のことを酷く疎むようになったの。それはそうよね。五郎は千尋を溺愛しているのに、千尋は私のことも好きで、懐いてくれている。五郎から見れば、私は千尋を奪おうとしている悪魔にしか見えない。だから五郎は、私のことをとても疎ましい目で見るようになった。その頃から、如月千種の態度もおかしくなった。次第に私のことを疎んじるようになっていった。」
「・・・どうしてよ・・・前は千早のことを愛していたんでしょ。」
彼女は苦笑した。
「如月千種は、ある意味可哀そうな女なのよ。あの女は、吾郎に依存していた。愛に飢えていたのよ。だから、吾郎の憎む人間は、彼女にとっても敵になる。分かりやすい構図だと思うけど。そういうことは、ニュースではやっていなかったのかしら?」
やっていなかった。如月家の内情を知る人間は、もう千早しかいない。だから、彼女が口を閉じている限り、真相が世の中に出てくることはない。
「初耳よ。」
「ふふっ、でしょうね。あの女が異常なのは伝わっているとは思うけど。・・・とにかく、私は小学6年生のある日から、家族の食卓には加わらないことにした。私がいると、食卓が暗くなってしまうから。まだ幼い千尋には、ギスギスした食卓の光景を見せたくなかったから。でもあの子は優しくてねぇ・・・。」
千早の声が震えている。
「そう決心して、千尋に話した時、千尋は優しく抱きしめてくれたのよ。『私は・・・何があっても、お姉ちゃんの味方だよ。だから、ガマンしなくていいんだよ。お姉ちゃんが辛いときは、いつだって、ぎゅーってしてあげるんだから。』そう言ってくれたんだよ。まだ3歳の幼子だったのにね・・・あの子は私なんかよりよっぽど大人びていたように感じたわ。」
「優しかったのね、千尋ちゃん。」
千早は頷く。
「私と血がつながっているとは思えないほど、優しくて純粋な子だった。」
「千早だって優しい子よ。」
すかさずフォローを入れるのだが、彼女は「どうかしら」とけむに巻いた。
「そしてその2年後、あの事故は起きた。」
千尋ちゃんが死んだ水難事故、あの時、千早らしき女の子が現場で目撃されているのだ。私は千早に尋ねる。
「あの時、現場では、そこから走り去る、あなたに似た『青い髪』の中学生くらいの女の子が目撃されている。それって本当に、千早なの?」
「ええ、それは私。紛れもなくね。でも殺してなんかいない。」
千早の言葉が正しいなら、少なくとも、千尋ちゃんが水没しているところを見たはずなのだ。それに驚いて逃げたのか。それとも助けを呼びに行ったのか。逃げたとしたら、どうしてなのか・・・。どうして助けを呼ばなかったのか。
「『殺していないとすれば、どうして助けを呼ばなかったのか。』私がマスコミから100回聞かれた内容よ。」
「そしてそれに対して千早はこう答えていた。『私は現場にはいなかった』。でも、認めるのね。あの時現場にいたのだって。」
「ええ。認めるわ。私はマスコミには嘘をついていた。」
「どうしてそんな見え見えの嘘を・・・。」
青い髪の少女なんて、そう多くはいない。しかもあの日、あの現場付近で、「中学生くらい」の少女となれば、一人しかいないはずだ。
「簡単な話よ。もし私があの場にいたと認めれば、私が罪に問われるから。保護責任者遺棄致死、はっきり言って重罪よ。そして私はさらに問われることになる。『何故、助けを呼ばなかったのか。』」
「今日は・・・その理由を聞けるのよね。」
「理由・・・。お母さんに話したいけど、正直な話、自分でもよく分からないの。どうしてあの時、千尋を見捨ててしまったのか・・・。気が動転してしまっていて、あの時どういう感情だったのかは、あまり覚えていない。」
私は恐る恐る尋ねた。
「何か、思い出せることはないの?その時感じていたこととか?」
「川底に沈んでいるあの子を見た時、恐怖がこみあがってきたの。とんでもないことをしてしまった、助けなくちゃって。だけど・・・なんだか、これでもいい気がしてしまった。」
千早から出てくる言葉に身の毛がよだつ。
「死んでもいいって、思ってしまったの?」
「・・・そんな気がする。とにかく気が動転していたから、何だかよくわからない。あの瞬間は、何度もフラッシュバックしているのに、肝心の気持ちが、ほんわかしてしまって、よくわからない。あの時何を想っていたのか、どうして助けなかったのか、それは分からない。助けなくていいはずなんてないのに、フラッシュバックしているときはいつも『助けなくちゃ!』そう思っているのに、なぜか体はそう動いてくれない。でもなんとなく分かる。いや、自分でこう理解した。私は・・・千尋に嫉妬していた。千尋のせいで、私が食卓から追い出された。絶対に違うのに、私はそんなありもしない妄想に取りつかれていた。」
千早がうつむいている。彼女は、確かに真実を言っているようにも思う。だが、それは後付けの理由の様にも感じる。
「それはあの事件の瞬間に思ったことじゃないでしょ。あなたの罪悪感が、そういう意識を刷り込ませたのよ。千早は、恐怖で気が動転した。だから『助ける』という選択肢すら出てこなかった。それが真相なんじゃない?『助けなくていいと思ってしまった』っていうのは、千早の罪の意識が作り出した幻想なんじゃない?」
「・・・分からない。何が正しいのか・・・でも事実は一つしかない。たとえ私があの時どう思っていたのか、何を考えていたのか、そんなことに関係なく、私は千尋を助けなかったってことよ。たとえ私が記憶していなくても、目撃者がそう記憶している。」
目的者はいる。しかしその目撃者が見たのは『青い髪』の少女、というだけであって、千早を見た訳ではない。それに、「保護責任者遺棄致死罪」というのは、遺棄したことと亡くなったことに因果関係がなければならない。「川底で沈んでいた」という千早の証言が正しければ、千早が発見したときにはすでに死んでいた可能性が高い。そして報道によれば、彼女は買い物の為に千尋と一緒に出掛けていた。
「千早に一つ確認したいんだけど、千早は買い物をしているときに妹とはぐれてしまったのよね。」
「ええ。」
ならば、千早は別に千尋を「遺棄」したわけではない。ならば、千早を罪に問うことはできないのではないか。
「私を法律的にさばけるかどうかは、正直微妙な所みたい。私が全ての罪を認めて、彼女がまだ生きていたと証言すれば、私は有罪になれるわ。だけど、私があの場にいた事実を否認して、『彼女はもう死んでいた』と主張すれば、検察はそれを覆す証拠を提示することはできない。」
やはり千早もそれは理解しているということか。
「つまり私が罪を認めれば有罪にできるし、認めなければ有罪にはならない。」
「たとえ私が千早を告発したとしても、有罪にはならないって訳ね。」
「あら、告発してくれるの?」
千早がいたずらな笑顔を見せる。だけど、今のこの状況では冗談になっていない。
「・・・遠慮しておくわ。」
「そう、ありがとう。じゃ、次の話をするね。」
そういって彼女はこの話題を打ち切った。
「千尋の死の真相は、隠していた。五郎と千種には、私が彼女を見殺しにしたことを黙っていた。二人は私のことを虐待した。二人は私のことを責め立てた。そりゃそうよね、私が彼女をしっかり見張っていれば、こんなことにはならなかったんだから。」
千早は自嘲気味にそう述べた。
千早が両親から虐待を受けていた。それは週刊誌の報道で知っていた。なぜそんな話が世に出てきたのか。それは、望月財閥側が情報を流したからである。千早へのバッシングが過激化する中で、少しでも千早に対する同情を集めるために、敢えて週刊誌にリークしたのだった。
「家事のスキルはその時に覚えたの。料理も洗濯も掃除も、何もかもこの時に。そうしないと、怒鳴られたから。辛かったわ、毎日死にたいと思ってた。死にたい死にたい、どうやったら死ねるんだろう、どうやったら楽に死ねるんだろう、痛いのはやだな、苦しんだりするのも嫌だな、出来れば眠るように死にたい。夜眠った時に、もう次の朝何て訪れなければいい。そんなことを毎日毎日、考えてた。どう?」
私は困惑して答える。
「『どう?』って・・何がよ。」
しかし彼女は何かをあざ笑うかのようにせせら笑うだけで何も答えない。
「そんなことを考えいた時に、私は運命の人に出会った。」
「望月さんに出会ったの?」
「いいえ。違うわ。私の初恋の人、加藤君っていう人。正確には再会ね。彼は私の同学年の人で小学生の時に出会っていた。小学生の時に同じクラスで、一緒の委員会活動をしていたの。それで彼のことが好きになった。その彼と中学の時、たまたま再会した。そして私は悩みを打ち明けた。『妹が私のせいで死んでしまった』って。それで彼はこう教えてくれた。『楽しいことだけを考えて、辛いことを考えなければいい。毎日忙しく日々を過ごして、嫌なことを考えなければいい。』」
「真っ当な意見ね。そうして、後は時間が全てを癒してくれる。」
「ええ。だけど私はバカだったから、素直には受け取らなかった。私はこう解釈した。
『死にたくなるくらいなら、心を閉じてしまえばいい。』」
「心を・・・閉じる。」
千早は笑顔だった。言っていることは、こんなにも悲しいのに、どうしてそんな嬉しそうに話すのか。
「そう。何も考えないようにするの。まるで機械の様に反応する。嬉しい時は嬉しそうに、悲しい時は悲しそうに機械的に反応する。過去のことは考えない。勉強だったり読書でもなんでもいい。とにかく何かに集中する。そうやって心を閉じれば、やがて嫌なことを考えなくて済むようになる。」
それはまるで、今の千早のようじゃないか・・・。思わず私は聞き返してしまった。
「今の様に?」
彼女は笑いながら答える。
「その通りよ。悲しい時は悲しそうにする。まじめな話をするときは、まじめな顔をする。」
でも、そういっている彼女の顔は、どうしてなのか、笑っている。
「笑ってるわよ、今の千早は・・・。」
「今は・・・だって楽しい話をしているんでしょ?」
「何が楽しいの?」
「・・・こうやって話していることじゃないの?まあいいわ、どうでも。続けていい?」
「待った。少し落ち着いた方が良いんじゃない。飲めば?」
何だか千早の様子がおかしい。目に涙を浮かべているのに、顔は笑っているのだ。
「喉なんて乾いてないわ。」
「そう・・・。」
「とにかく続けるわ。心を閉ざした私は、それなりに順調な人生を送っていた。それなりの友達もできて、それなりの成績を得て、それなりの人生を送れると思っていた。ところが、高校に進学した1年目のクラスで、私はとある問題児に出会った。」
「その問題児っていうのは、春香のこと?」
「ええ、そうよ。」
また彼女はまじめな顔に戻っている。
「何が問題児なの?」
春香が問題児だとは、彼女たちを教えていた時には聞いたことがない。
「正確に言えば、私にとっては問題児だった。春香は『怖い顔』ができるからね。」
春香の怖い顔?どんな顔なのかしら?見たことがない。
「どんな顔?」
「一言でいえば、『能面』のような顔、一切の表情が顔面から消えた、この世の終わりを悟ったかのような、不気味な顔。」
そんな顔、ますます見たことがない。私と一緒にいるときの春香は、常に笑顔だった。
「お母さんは、想像できないでしょうね。春香のそんな顔。」
「・・・ええ。全く。」
「あの顔は、私に『死にたい』という感情を思い起こさせた。あの顔を見ていると、何だか死にたいと思ってしまう。なんだかわからないけど、彼女も私と同じような苦しみを味わっているんじゃないか、彼女も死にたいと思っているんじゃないか。そんなことをふと考えてしまうようになったの。」
思い出した。春香は問題児なんかではない。むしろその逆だった。
「春香はいじめられていた。黒井先生のクラスでひどい苛めがあったのよね。その被害者が春香だった。」
「その通り。春香は同じクラスで虐められていた佐藤さんをかばったせいで、いじめのターゲットになった。そして彼女がいじめにあうようになってから、あの『能面』は酷くなった。」
「あのいじめは、学校に入った匿名の通報のおかげで分かったのよね。」
「あの通報をしたのは、私なんです。」
「えっ!そうなの!?」
「他に誰がいるんですか?それにクラスでは噂になってましたよ。やったのは私だって。」
彼女はケラケラと笑っている。
「あのクラスで、いじめを告発できた人間なんていませんよ。私以外には。だって私にとっては、『命がけ』でしたから。春香へのいじめを終わらせて、彼女を『笑顔』にしないと、私が春香にある種殺されることになる。」
「それで二人は友達になったのね。」
「そういうことです。全ては自分の為だった。春香のいじめを救ったのも、別に春香のことを想っていたわけではない。私はいじめのことなんて、自分が被害者にさえならなければどうでもよかった。事実、佐藤さんがいじめられていたときには、何もしなかったわけだし。でも結果的に、春香に対して貸しを作ることになった。」
なんだか強い違和感を覚える。千早が「貸し」とか、そんなことを言い出すなんて。二人は、「友情」という強い絆で結ばれていたのではないのか。
「二人の友情関係は、大体うまくいきました。というか、うまく行き過ぎた。それが誤算だった。春香と一緒にいて、楽しいと思えるようになってしまったんです。生きるために感情を捨てたはずなのに、また取り戻しかけていた。」
「いいことだと・・・思わない?春香と一緒にいて、楽しいって思えるなら、春香の明るい笑顔を見れば、自殺なんて・・・思いとどまらない?」
「自殺願望は抑えることができました。だけど今度は逆に、春香に助けを求めてしまいたくなった。この現状から抜け出したい、楽しいことをしたい、一緒に遊びたい、一緒に過ごしたい・・・そんな『生きる希望』を見つけてしまった。そして偶然にも、春香も親から虐待を受けているみたいだった。私たちは、きっと共感し合える。辛い虐待の同じ被害者として、お互い良き理解者になれる。そう感じたんです。」
春香も虐待されていた・・・?初めて聞く話だ。
「春香も、虐待されていたというの・・・。」
「ええ。じゃあここで、春香の半生もお母さんに伝えるとしますか。」
そう言って、千早はアイスティーで口を湿らした。
「昨日、伊織に会ってきたのよね?」
「ええ・・・。じゃあ聞いているんでしょ?春香が本当はどういう人間なのか。出生の本当の秘密について。」
天海春香という人間は、自分の母親の純粋クローンだった。
「春香は・・・母親のクローン。」
「その通りよ。彼女の生みの母親は、望月財閥におもちゃにされて、そして彼女への人体実験を続けるため、クローンを孕まされた。そうして生まれたのが春香。春香には父親がいなかった。いるはずがないのよ。だって、父親の遺伝子なんて、少しも存在しないんだから。」
そう吐き捨てる千早の顔は、歪んでいる。しかし、それですらある種の「演技」に見えてしまう。
「春香は幼少の頃から母親に虐待されて育った。あたりまえよね。双子ですらない、それをも超えて、自分と全く同じ個体なんて、気味が悪いと思うのはある種自然なことだたわ。小学生になって、春香に人生の転機が訪れたの。お母さん、なんだと思う?」
小学生に上がったことによる変化・・・そうだな、例えば・・・。
「友達ができたとか?」
「ブブー。はずれ。他には?」
小学校に入ると勉強が始まる。それに関係することか・・・。あっ、分かった。もしかして・・・。
「本に出合ったとか?小学校に入って、文字が読めるようになったとか。」
「その通りよ。春香は小学生になって本の世界に出会った。だけど、彼女に友達はできなかったの。だから春香は、学校ではなくて、町の図書館に通うようになった。そこで春香は、運命の人に出会った。」
「まさか、望月さん?」
千早は吹き出していた。
「お母さん、望月さんのことはいったん忘れて。彼はしばらく話には出てこないから。」
「千早が『運命の人』なんて紛らわしいこと言うからいけないのよ。」
「ごめんごめん。」
「『トクナガ先生』って春香が読んでいた図書館の職員。」
「その人が、春香にとっての『運命の人』だったの?」
「そうよ。彼女は、いつも一人で図書館を訪れる春香を気にかけていた。もしかしたら、この子には友達がいないんじゃないかって思ったらしいわ。そうして、二人は仲良くなって『トクナガ先生』と春香は友達になった。小学生になって、初めてできた春香の友達だった。」
「へぇー。」
千早は不意に、自分の頭につけている右側のリボンに手を触れた。
「この二つのリボン、春香が小学校三年生の時に、『トクナガ先生』が春香にプレゼントしたものなのよ。」
「えっ、そうなの!?」
だとしたら、もう15年以上前のものということになる。確かにあのリボンは春香のトレードマークだったが、そんなに長いルーツがあったとは・・・。
「春香にとっては大切な思い出の形見の品だったのよ。春香は『トクナガ先生』にラブレターを書いたの。春香お手製のお弁当を添えてね。『自分の本当のお母さんになってください』そう訴えかけるものだったわ。本当に健気よね。実際の母親に幻滅して、赤の他人である『トクナガ先生』を本当の母親のように思っていたんだから。でも『トクナガ先生』は、春香の母親にはなれない。だから、その代わりに、いつでも自分のことを思い出せるようにと、あの人は春香にリボンの髪飾りをプレゼントしたっていう訳。」
ん?形見の品・・・?
「『形見の品』ってことは・・・。」
「ええ。『トクナガ先生』はそれから2年後に亡くなったわ。末期の乳がんだった。」
「・・・大切な人を、失ったのね。」
「しかも、別れ方が最悪だった。」
「どんな別れ方をしたの?」
「『トクナガ先生』は、自分が長くないと分かって、春香の前から姿を消した。彼女は、春香には何も言わずに黙って死ぬつもりだったの。お別れの言葉一つ残さないつもりだったらしい。そして、春香が目の前に現れると、『私のことを忘れて。もう二度と顔も見たくない。』そう言い放ったらしいわ。そうやって、春香と『トクナガ先生』は絶縁して、彼女はこの世を去った。」
確かに、酷い別れ方だ。
「なんでそんな別れ方をしたのよ・・・。そんなの春香が傷つくだけじゃない。」
「彼女は、春香には自分のことを忘れてほしかったみたい。自分がこの世から居なくなってしまって、そのことを思い出して悲しむくらいなら、自分の存在なんて忘れてほしい。『トクナガ先生』なりの春香への思いやりだったの。ただ・・・それは結果として春香の心を傷つけてしまった。春香も『トクナガ先生』の気持ちは理解していた。だけど、こういう悲しい別れ方をしてしまったからこそ、春香は余計に彼女への想いを募らせてしまった。そうして彼女は、中学1年生の時に自殺未遂をした。」
「自殺未遂・・・。」
信じられない。私が知っている春香は、普段から明るくてあか抜けている。そんな彼女が自ら命を絶とうとしたことがあるなんて。
「『トクナガ先生』に出会って、春香は自分に自信が持てるようになった。友達も数多くできた。だけど彼女が亡くなってしまって、春香はふさぎ込むようになってしまった。そうして中学に入学して、春香はまた本だけが友達という生活に戻ってしまった。本のおかげで、何とか彼女は正気を維持して、高校に上がった。」
「そこで二人は出会うことになった。」
「そういうことよ。私が春香のいじめを解決して、友達関係が始まった。そうそう、後で聞いたんだけど、私ってその『トクナガ先生』に似ていたらしいの。それで春香は、私のことをますます好きになったみたい。」
そうなのか、まさに二人は出会うべくして出会ったのね。
「春香と話してみて、この子、虐待を受けているんじゃないかって段々分かってきた。他の女の子たちと生活リズムが少し違っていたから。バイトがないのに厳しい門限があったし、家事も大分やっていたみたいだった。それに、家族の話をしたがらなかった。私も同じ感じだったから、直感的に、この子も私と同じように親から虐待を受けているんじゃないかって思った。」
ようやく、話が追い付いたみたいだ。
「それで、二人は・・・相談したの?そのこと。」
「・・・しなかった。」
「どうして?」
千早が鼻で笑う。
「簡単な話。私は犯罪を犯した。そんなこと、他人に話せる?それに・・・如月家のごたごたに、春香を巻き込みたくはなかった。でも確かに、話してしまいたいという気持ちはあった。そうこうしているうちに、高校1年生が終わった。」
学年が変わればクラス替えになる。そこで二人は別々のクラスになった。
「春休みに・・・大きな出来事があった。」
千早の声が小さくなる。私は彼女の言葉を聞き逃さぬよう、聞き耳を立てた。
「五郎に、私の罪が露見してしまった。五郎は、あの水難事故には目撃者がいると知ってしまった。『青い髪』の少女が現場から走り去るところ、それを見た目撃者がいるとね。当然、私が殺したんじゃないかって疑われた。」
「当然、否定したんでしょ?」
「もちろん、『殺した』なんて真実じゃない。本当は私、『見殺し』にしたことも否定しようと思った。だけど口が滑ってしまって・・・。真実を知ったあの男は、それをネタにして、私を・・・私のことを・・・。」
千早の手が、体が小刻みに震えている。
「私のことを・・・レイプしたの。」
千早の発言に、私は思わず言葉を失った。咄嗟のことで、言葉がうまく租借できない。れいぷ・・・レイプ・・・つまり如月五郎は、千早のことを・・・手籠めにしたというの。
えっ・・・嘘でしょ。
でも、千早の動揺ぶりが全てを物語っている。
「本当なの?・・・本当に、そんなひどいことを・・・?酷すぎる・・・人間の所業とは思えないわ。」
「ううぅぅ・・・。」
千早が両手で顔を覆って、唸っている。私は思わず反対側のソファーに座り、千早の肩を抱き寄せた。
「あの女の遺書に書かれていた内容は・・・。」
「ほぼ全部事実よ。私の処女は、あの男に奪われた。昔ほどじゃないけど、今でも悪夢が私を襲うの。あの男の汚いモノが、私の中に入って、蠢いている。そして私の胸を触り、舐めて汚していく。」
両手を顔から放したが、千早の顔が苦痛で歪んでいく。
「もういいから・・・分かったから。」
千早は、マスコミに対しては、あの女の遺書の内容を全て否定していた。否定しなければ、千早は犯罪者になってしまうし、父親にずっとレイプされ続けた娘として、好奇の目を受けることになる。そしてその後の父親の自殺も、ますます疑わしいものになる。千早に父親を殺害する明確な動機が生まれることになる。だから千早にとって、あの遺書だけは絶対に認めるわけにはいかなかった。しかし、疑惑の『魔女』の言葉に、世間が耳を傾けるわけがない。
「そうして私は、クラス替えを機に、春香と決別することを誓った。春香と一緒に居たら、楽しくて、全部話したくなっちゃうから。ちょうど、クラスは別になってくれた。だからちょうどいいって思ったのよ。だけど、春香は私のことを見捨ててはくれなかった。」
そこから先は知っている。春香が毎日、お弁当を持って千早のクラスを尋ねたのだ。そして千早にちょっかいを出していた。
「千早を振り向かせようと、毎日お昼の時間に春香が訪ねてきた。」
千早は、思い出し笑いをしていた。
「そうそう、あれはとても愉快だったわ。最初はうっとおしく感じていたのに、だんだん楽しみになっていったの。心待ちにさえしていたわ。」
また千早はすぐに真顔に戻った。
「でも、そんな私たちに転機が訪れた。7月のある日のことだったわ。私はついに耐えきれなくなって、いよいよ本当に死のうと思った。それを悟った春香が、私を放課後の教室に呼び出した。きっと、私は春香に救われるんだろうと思った。春香にすべてをゆだねるチャンスができたんだと思った。お母さんは知らないだろうけど、私が春香をいじめから救ったときもそうだったから。私が春香を放課後の教室に呼び出して、春香を助けると誓った。だから、放課後の教室で春香に会ってしまえば、私は全部を春香に委ねてしまえる、そして委ねなければならないと思った・・・。」
「それで、あなたは行ったの?放課後の教室に・・・。」
千早は立ち上がった。そして、ゆっくりとソファーの方を出て、窓の方へ。超高層のビル群を眺めている。私は彼女の方に体を向けた。
「・・・行かなかった。行ったら春香に迷惑をかけるから。でも、直前までずっと迷っていた。このまま、春香に助けを求めてしまおうか、それとも一人で死んでしまおうかって。迷った挙句、私は自殺することにした。そして、屋上の階段を登っていったの。」
「学校の校舎から・・・飛び降りるつもりだったていうの!?」
「ええ。その予定だった。だけど、屋上に上がってもまだ私は迷っていた。あの時の私は、多分春香を待っていたのかもしれない。春香が私を助けに来てくれるのを。気持ちの上では、死ぬことにしていたのに、心の奥底では、春香が私を引き留めに来てくれるのを待っていたのだと思う。春香の教室から、屋上は、見上げれば見える位置にあった。もし本当に死ぬつもりだったら、飛び降り自殺に、学校の校舎なんて選んでなかったと思う。」
「春香は・・・助けに来たの?」
「ええ。私が飛び降りようと、校舎のフェンスに登っていた時にね。そこで私は・・・誘惑に負けた。」
「全てを話してしまった。」
「そう。私が妹を見殺しにしたこと、吾郎からレイプされ続けていること。その代わり、春香も秘密を話してくれた。出生の秘密をね。」
「自分がクローン人間であるということね。」
千早はこちらの方を向いた。
「話が飛び過ぎよ。春香は、自分が『レイプ』の末に生まれた子供だって答えたの。」
話が全然違う・・・。
「じゃあ、春香の母親は、春香に嘘をついてたってこと?」
「多分、そうなんだと思う。自分がクローン人間だ、なんて言われたって、意味わからないし、誰も信じないでしょ。たとえどんなに大真面目に春香に説明したところで、信じないのがオチだってわかってたんだと思う。それに、それにそんなことを話せば、自分たちが大きな組織に狙われているということまで話さなくちゃいけなくなる。・・・それに、考えようによっては、それってレイプされたのと実質同じじゃないかしら。強制的に、自分のクローン個体を孕まされたんだから。」
彼女はまたゆっくりと歩いて、元のソファーに腰を下ろした。
「私たちは互いの秘密を知った。そして春香は、あの男の殺害を決意した。私には、なんの相談もなかった。」
なんてこと・・・。
「二人で殺害を共謀したんじゃないの?」
「違う。私は何も知らなかった。本当のことよ。春香は、自分をいじめから救ってくれたことに恩義を感じていた。だから春香は、私を巻き込まないために、私に何も言わず・・・殺したの。春香自身は、『あいつのことが許せなかったから、殺しただけなんだ』って言ってたけど。それは多分、本当の気持ちじゃない。」
もしこの話が本当なのだとすれば、千早には罪がないことになる。
「殺してくれって直接頼んでなくても、それを示唆したとか・・・。」
「うんうん、そういうこともなかった。春香は純粋に、私のことを想って殺してくれた。完全犯罪にするために、私の完璧なアリバイがある時間に、彼女は犯行に及んだ。」
私には分からない。
「・・・もし千早をレイプと虐待という悪夢から救うだけだったら、もっと他の方法もあったはず。春香だって、それは理解していたはずよ。にも拘らず、・・・殺した。」
「これしか方法はなかった。もし他の誰かに相談するとか、警察に通報するとかしたら、きっと必ず、私が千尋を見殺しにしてしまったことが露見してしまう。そんなことになったら、私はもう・・・学校にはいられなくなる。少年院にでも・・・入っていたでしょうね。私を地獄から救いつつ、全ての過去をひた隠しにする。その為には、道は一つしかない・・・。」
「だから春香は、あの男を殺害した。」
「きっとそうだと思う。そしてそれはうまくいった。千種は私が殺したのだと思った。でも私には完璧なアリバイがある。だから本当に殺したのが誰かは、すぐにはあの女も分からなかった。そして私は、秋月先生に『拾われた』。」
「『拾った』っていう言い方はどうかと思うけど、まあその通りね。」
千早が笑顔を見せる。
「正直言って、お母さんの下に行ったのは正解だった。最初は私、施設に入っても良いって思ったの。『家族ごっこ』なんてするくらいなら、施設で十分だって。」
「『家族ごっこ』は、楽しかった?」
千早は満面の笑みを見せる。この時の彼女の表情は、本当に心からの笑顔に見えた。
「ええ、もちろんよ。私にとって、『家族』はあそこしかないから。そして最初は二人だけの家族だったけど、そこにもう一人仲間が加わった。」
春香のことだ。
「水瀬さんから聞いたわ。春香の母親は、『生命の実』の人体実験のために拉致されたって。」
「そう。だけど、当時はその真実を知るものは誰もいなかった。私も知らなかったし、春香も知らなかった。だから、春香は、私が彼女の母親を殺したんじゃないかと考えた。春香が五郎を殺したように、私があの子の母親を殺したのではないかと考えた。」
「・・・交換殺人って訳?」
「そう考えていた。実際は違うんだけど。」
彼女は、内気温ですっかり結露してしまったグラスを掴み、チューチューとお茶を飲む。
「そして私は、『交換殺人』ではない、と知っていた。当然よね。私は殺していないんだから。でも私はその事実を彼女には伝えなかった。どうしてだかわかる?」
交換殺人を否定しなかった理由・・・。
「春香を傷つけたくなかったから?お互いが生きるために、お互いの障害を取り除いたとなればある種の美談になる。でも実際はそう美しくはない。それを知ったら、春香が傷つくから?」
千早はやや自嘲気味にクスリと笑った。
「大外れ。正解は、その方が私にとって都合が良かったからよ。別に私は、自ら『交換殺人』をしたと嘘をついた訳ではない。春香がそう勘違いしていて、私もその勘違いを正さなかった。私はウソをつかずに、春香への負い目をなくせる。お互いに殺したとなれば、対等に見えるでしょ?どう、醜い女だと思うでしょ?」
私は何も答えない。
「美しい友情とか、家族愛とか、それだけじゃ動かないこともある。お母さんも、私がこんな醜い人間だとは思わなかったでしょ?でもこれが現実。」
「・・・いつかバレるとは思わなかったの?」
「その時は、嘘をつこうと考えていた。私が殺したといったところで、それ以上は追及してこないだろうし、適当なウソをつける自信はあったから。最低の人間でしょ?」
ここで千早を非難するのはたやすい。だけど、私には批判できないと思った。
今の話を聞いて、仮に私が千早と同じ立場にあったとして、ちゃんと真実を話せたという自信がないからだ。春香に対して負い目を感じて、感謝の気持ちを持っている自分が、春香が勘違いしているということに気付いたとして、それを正す勇気が・・・本当にあったのかどうか。
「別に今日は、千早を非難するために来たわけじゃない。話を先に進めましょうか。」
千早はしばし私の顔をまじまじと見つめた後、正面を向いた。
「分かったわ。そうしましょう。春香が秋月家にやってきて、秋月家はにぎやかになった。」
「間違いないわね。サプライズのクリスマスパーティーも開いてくれたし。あっ、そうだ。」
千早にも見せよう。あの時作ってくれたクリスマスプレゼントを。私は立ち上がって、自分のカバンが置いてある正面のソファーに向かい、そこで腰を下ろした。そしてカバンの中からそれを取り出した。
「じゃんじゃじゃーん!」
千早の目の色が変わった。
「これは・・・。」
「覚えてる?」
「もちろんよ。私と春香が、一生懸命編んだ手編みのマフラーじゃない・・・。まだ持っててくれたんだ。」
「捨てるわけないでしょ。私、これを毎日持ち歩いているの。春香と千早をいつでも感じられるようにね。それからこれも。」
私はスマホの待ち受け画面を見せた。
「あっ、それ!」
「この時3人で撮った写真よ。懐かしいでしょ?私にとっての大切な宝物。」
「ふふっ、二人とも変な顔してるわね。泣き腫らしちゃって。」
「あら、二人とも最高にキュートよ。」
千早が目を細めている。
「本当に懐かしいわね・・・。」
「あの頃は、本当に楽しかったよね。」
「ええ・・・。」
「あの頃に、戻りたい?」
「・・・・・。」
千早は私の言葉聞こえていないのか、はたまた聞こえても聞こえていないふりをしているのか。答えてはくれない。
「私たちは、本当は県内で就職する予定だった。だけど、お母さんが学資援助してくれるおかげで、私たちは大学に通えるようになった。」
「一気に話が飛ぶのね。」
「思い出話をしている暇はないから。もっと大事な話をしなくちゃいけないしね。」
そういって千早は先を急ぐ。
「大学に入学して、私たちはテニスサークルに入った。そこであの人に出会う。私の夫になる人物にね。春香はあの人にベタ惚れしていた。本気であの人を狙いに行こうとしていた。」
「落とそうと思えば、落とすことは可能だった。望月俊が財閥を継ぐのをあきらめればの話だけど。」
「その通り。だけど、本気で彼と結婚しようと考えている人はいなかった。雪村楓という強力な許嫁がいたし、そもそも彼自身雪村さんと結婚すると言い切っていたからね。だから、そんなことはありえないとみんな考えていた。それに万が一、彼が財閥の後継者の地位から降りてしまえば、影響を受ける人も多い。このテニスサークルもそうだった。みんな俊に就職のコネを期待していたのよ。だからもし万が一俊が財閥の後継者の立場から身を引いて、力を失ってしまったら、テニスサークルはたちまち修羅場と化す。そんなリスクを背負って、彼のハートを射止めようとするなんて、自殺行為に近い。」
「その自殺行為を春香はしようとしていた。」
「春香は一目ぼれだった。そして私も彼のことが気になっていた。だから私は最初、テニスサークルに入るのは止めようって提案したの。あの場所に居続ければ、きっと想いを募らせることになるのは目に見えていたから。でも結局入ることにした。どうせ叶うはずのない恋だって分かってたし、彼への気持ちを抑えることは難しくないと甘く考えていたの。でも、現実はそうじゃなかった。」
千早は、テーブルの方に目を落とした。
「春香は俊と接しているうちに、どんどん彼の人柄に惚れていった。一方で私は、最初はただ彼が、初恋の人である加藤君に似ていたから好きになっていただけだった。だけど私も、彼の包容力があるところに次第に惹かれていった。でもそれは、私が最も恐れていたことだった。」
「春香と奪い合いになってしまう。」
千早は頷いた。
「結局のところ、私は春香の為に何かをしたことなんて無かった。いじめを助けたのだって自分の為だったし、春香の母親がいなくなったのも私のせいじゃない。私は春香に対して強い負い目を感じていた。だから、春香に先輩のことを譲りたいと思った。」
「それで・・・最終的には譲った訳ね。」
「そう。あの人は、結局私ではなくて、あの子のことが好きだった。私は別に彼に好かれていた訳ではない。彼に同情されていただけ。私が醸し出す、『暗いオーラ』に魅惑されてしまっただけ。私が彼の心を奪ってしまうことは許されない。」
「だから千早はテニスサークルを辞めた。でもそれでハッピーエンドとはならなかった。」
「・・・春香は、自分が幸せになれないって分かってた。春香は、自分が幸せになろうとして彼と付き合おうとしていたんじゃない。春香は・・・俊を幸せにしようとして、彼に自分の一生を捧げる決意を固めていた・・・。この意味わかる?」
自分の一生を捧げる・・・。一瞬では、思いもよらない。
千早は、唇をかみしめている。
「俊は財閥を引き継ぐ決意を固めていた。もし自分が後継者となることをやめてしまえば、数多くの人に影響が出てしまう。だからこれは譲れない。春香もそれは分かっていた。そして、俊が雪村さんと夫婦になってしまえば、俊は絶対に幸せになれない。むしろ不幸になる。雪村さんは自分勝手で、俊の幸せのことなんてこれっぽちも考えていなかったからね。だからあの子は・・・決して報われない『不倫愛』を貫く決意をしていたんです。それは、自分の為じゃない、俊の為。俊の『太陽』となって、彼を照らし、癒し続けるため。その為に・・・彼女は一生を棒に振ろうとしていた。そんな堅い決意を前にして、私が俊を奪いに行くなんてありえなかった。」
春香は、そこまで思い詰めていたというの・・・。
「ここまで聞いて、お母さんはどう思った?あの子を止めようと思った?」
私は・・・私だったら・・・。なんてアドバイスしていただろうか。もしこの状況を知って、私がどうにかできる立場にいたとしたら・・・私はなんて言えばよかったのだろうか。「そんな生き方、絶対後悔するだけだからやめろ」そう言えばよかったのか、それとも「自分が選んだ道なんだから、信じて進め」というべきだったのだろうか。
少なくとも、今言えることは、そう春香に相談されたら、私は答えに窮していたということだ。
それ以前に、もし私が、春香が犯した罪を知っていたとしたら、私はなんてアドバイスしただろうか。「自首をしろ」と勧めていたであろうか、でももし彼女が自首をすれば、芋ずる式に千早の過去が全て明らかになってしまう。私たち家族はバラバラになってしまう。千早は確かに妹を見殺しにしてしまったかもしれないが、それもこれも全て元をたどれば、望月五郎がいけないのだ。あの男のせいで、千早は辛酸をなめることになった。にも拘らず、そのせいで春香と千早が咎められるなんて、あまりにも理不尽にすぎないだろうか。
どちらにしろ、私にはそうやって人の人生に関わる勇気が無かった。
「お母さん、答えられないのね。」
冷めた口調で千早に問われて、私は首肯することしかできなかった。千早は続ける。
「少なくとも、私には止める権利なんてなかった。幸せの価値なんて、本人以外は誰も決められないの。他人が『それは不幸せ』だなんていったところで、本人が『幸せ』だって言えば、それで議論は終わってしまうんだもの。確かに世間一般から見れば、彼の為に一生を尽くして自分はいい思いができない人生なんて、不幸せにしか見えない。でもそれが春香にとって本当の幸せならば、それを止める権利なんて誰も持っていない。そうでしょ?」
千早の言うことは正論だ。少なくとも、今の私の様に付け焼刃で考えた結論ではない。考えに考えた上で、彼女が下した結論なのだ。
「だから私は春香を止めなかった。それでも、もし雪村さんがいなくなって、春香が正妻の地位につけるなら、きっとこれ以上に幸せなことはないと思う。本人だってそう思っていたはずよ。だから私は、苦渋の想いで、彼の提案に乗ることにした。」
演技の話か・・・。
「ねえ美希や伊織から聞いてる?演技の話。」
「ええ・・・。」
「なら話は早いわね。演技の話はとてもリスキーだった。犯罪だっていうことは、分かっていた。もしこの企みがバレてしまえば、お互いシャレにならない。」
「けど、春香も千早も・・・特に千早がこの提案に乗ったというのが驚きよ。だって、この計画には、千早にとって何らメリットはない。春香を俊の正妻にするために、自分がサークル内で針の筵になって、しかも雪村楓に殺されかけるという危険な役目を負う。見返りは何もない。」
普通だったら、そこに裏があると考える。水瀬さんは、千早の目的は、本当は自分に望月俊の心を振り向かせることかもしれないと考えた。でも星井さんは、千早は純粋に春香のことを想っていたと考えた。
「私は・・・さっきも言ったように、春香の為に純粋に何かをしてあげたことがない。そして春香は、私のせいで犯罪者になってしまった。この事は一生かかってもぬぐえない私の負い目。だから私は、純粋に春香に愛をささげたかったんです。春香が俊に対してしようとしたようにね・・・。信じてもらえるとは思ってないわ。みんな、私が俊を奪おうとしてテニスサークルに戻ってきたとしか思ってないから。多分、伊織もそう考えているんでしょ?」
千早・・・。
「お母さんは、信じてくれる?」
信じるも信じないも・・・信じるしかないでしょ。
「信じる。」
「そう・・・ありがとう。」
千早は流し目でそう答える。本当のところ、千早は今何を想っているというのだろうか。私は言葉を紡いだ。
「でも計画に誤算が生じたんでしょ。千早は望月さんのことを好きになってしまった。」
「そして、俊が春香のことを遠ざけるようになっていった。」
「それはどうしてなの?」
「今となれば、分かるんじゃない?あの人は、私と春香の過去、それから私たちの全てを探っていたわ。春香と結婚するにあたって、彼女がそれにふさわしい人物なのか見極めるためだった。」
過去を・・・そして全てを・・・。そうか。春香は普通の人間じゃない。
「春香はクローン人間だった。」
「そして25歳までしか生きられない。そのことも伊織から聞いているわよね?もし彼が私たちの過去を調べて、そして最終的にこの事実に行き当たったのだとしたら、突然春香を袖にする理由も明らかじゃないかしら。むしろ因果は逆かもしれない。父親が研究している事業の内容を知った俊は、春香によく似た『ドナー』が閉じ込められていることを知った。そして春香がその『ドナー』と同一個体であることを知った彼は、その裏付けのために私たちの過去を探り始めた。」
あり得る話だ。
「俊は、ベッドの中で私に約束してくれた。『私と春香と俊の3人で幸せに生活する』って。春香と俊が結婚して、私は彼と養子縁組する。それで家族の出来上がり。あとは3人で住居を買って、そこに住む。」
「そんな生活、本当に実現できるの?」
千早は薄ら笑いを浮かべる。
「春香にも同じことを言われたわ。こういうのって『複数愛』って言うらしいわね。私も最近知ったんだけど。俊は春香と私を平等に愛する。私と春香は、彼を共有する。お互いに、そのことでいがみ合ったりしない。浮気でも不倫でもない愛し方。それが『複数愛』。でもそんなこと、考えなくてよかったのよ、最初から。だって、春香は黙っていてもあと5~6年しか生きられなかった。『複数愛』の生活は、長くは続かない。俊も、それが分かっていたから、そういう約束をしたんじゃないかしら。春香の残り少ない人生だから、春香にとってきっと一番幸せであろう形、私も俊も春香の大事な家族って形で最期を看取りたいって。」
そうか、それなら、この言葉の意味もわかる。
「でも春香は信じなかった。」
「それはそうよね、春香は、自分はもっと長く生きる、あと60年は生きると思っていたはず。『3人で幸せに生きる』ことの真意は、彼しか分からなかった。だから、春香は、私が先輩と約束した言葉を信じようとしなかった。何十年も3人で『複数愛』をするなんて、世間体もあるから現実には難しいからね。まあ、ベッドの中でした約束だってこともあったと思うんだけど。」
「そうして春香は、千早への憎しみを募らせていった。水瀬さんに唆されて、それは作戦の実行に繋がった。」
「俊は、あの作戦以外で、彼が財閥を引き継ぎ、尚且つ3人で幸せに生きる方法を考えていた。それは、父親を脅迫するという方法だった。彼は、財閥が違法な人体実験を行って秘法の開発に取り組んでいることを知った。もしこのことが公となれば、望月財閥は大きな打撃を受ける。そのことをネタにして、剛三郎さんを脅したの。そして、雪村さんとの離縁を実現しようとした。だけど、この工作の発動中に、事件は起きてしまった。俊は、私たちに作戦発動の延期を指示していた。お父様を脅迫するという方法が成功するかもしれなかったから。もしこれが成功をすれば、こんな危険なリスクを背負う必要はない。」
「だけど春香は、彼の言葉を信じなかった。信じず、作戦を実行に移した。」
「その通り。別に私も作戦を回避することはできた。雪村さんに呼び出されても、行かなければいいだけの話。そうすれば、何も問題はなかった。さすがに白昼堂々、私を殺そうとしたりはしないでしょうから。」
私は千早を真っすぐに見据えた。
「でも千早はあの現場に行った。・・・水瀬さんは、千早が雪村楓に殺されようとしていたんじゃないかって推理していたわ。千早・・・あなた身籠ってたのよね。望月俊の子供を。」
千早は不敵に笑っている。
「・・・そうよ。さすがに、バレちゃったのね。伊織にも。てっきり美希にしかバレてないと思っていたんだけど。・・・そうよ、あの時私は彼の子供を身ごもっていた。」
「そしておろしたのね。どうしてよ!?どうして、そんな大事なこと・・・私に相談してくれなかったのよ・・・。」
「大事だったから、教えなかったのよ。もし話すとしたら、一から説明しなくちゃいけない。こんな風にね。そんなこと、出来ると思う?」
確かにそうだ。ここまで話が複雑化してしまうと、相談しにくいのは間違いなかっった。
「事件のあった日、私はお母さんに電話をした。覚えているよね?」
「もちろん、忘れるはずがない。あんな意味深な電話。」
「時間は限られていた。雪村さんに指定されていた時間が近かったからね。だけど死ぬ前に、どうしてもお母さんの声を聴きたかった。だから、あの時お母さんとお話しすることができて、本当に嬉しかったわ。」
私はあの後すごく後悔した。私は、千早にいったい何があったのか、追及しなかった。そして気づいた時には、電話ができなくなっていたのだ。
「もし、私があの後、千早に『何があったのか』しつこく聞いたら、千早は心を開いてくれた?」
千早は少しだけ考えていた。そして答える。
「多分、答えなかったと思う。だって、これ以上この話題を外に漏らしたくはないから。さっきも言ったでしょ。心を開いて、話をするということは、事件に巻き込んでしまうということなのよ。巻き込んでしまうのは、美希や伊織だけでもうたくさん。それにお母さんをがっかりさせたくなかったし。だから、『何も尋ねてくれない』ていう方が、私にとってはよっぽどありがたかった。」
これはきっと、千早の本心なんだと思う。だからといって私の「無知の罪」が許されるわけではない。
千早が突然立ち上がった。
「少し休憩しましょう。お茶もぬるんじゃったでしょ。ホテルマンを呼んで替えてもらうわ。それから、ちょうどいい時間だし、甘いもののルームサービスでも頼みましょうか。」
千早はゆっくりと化粧台のところに向かい、そこに無造作に置かれている、茶色の本の形をしているメニュー表を取ってきた。その隣には千早のポーチがある。
「何がいい?」
メニュー表を見せられて、頭が硬直した。やはりこういうところのルームサービスだけに、値段が高い。なんだかよくわからないシャンティーなるケーキが1500円もする。というよりか、このアイスディだけで1000円もするではないか。
千早がケラケラと笑っている。
「金額気にしてる?大丈夫よ。全部こっち持ちだから。」
「千早もこういうの慣れたのね。」
「逆に、毎日こんな生活だと、飽きちゃうわよ。・・・こんなことを言うと、高飛車女にしか聞こえないでしょうね。私、そういう感じになるのが一番嫌なの。自分の立場は、分かっているつもり。だから余計にね。」
千早のため息のような吐息からは、千早が置かれてきた特殊すぎる環境の悲哀がひしひしと伝わってくる。
「千早のおすすめは?」
「特製イチゴシャンティーかな。ケーキよ。」
「じゃあ、それと紅茶で。あんまり冷たいものばっかり飲むと、お腹壊しちゃうから。」
「うん、分かった。私も同じものにする。」
千早がまた内線電話へと向かう。電話する姿も本当に手馴れている。千早は本当に、別の世界の住人になってしまったかのようだった。
「お待たせ。」
そういって、彼女はまたソファーに座った。私は、純白のウェディングドレスに身を包んだ千早をまじまじと見つめている。
「何?そんなに面白い?」
「いや、面白いって訳じゃないけど・・・見とれちゃって。アイドルみたいに、美しいから。」
「あらホント?別にできなくはないのよ。アイドル。望月財閥はアイドルプロダクションともコネクションはあるし、実際うちのテニスサークルから、そこ行った人も知っているから。」
「へぇー、そうなんだ。」
「三浦あずさ・四条貴音ってアイドル知ってる?」
その二人と言えば、確か今を時めく爆乳アイドルじゃないか。その豊満なバディーを活かしてグラビアモデルをしているだけでなく、演技力の高さからドラマ、そして天然ボケを発揮してバラエティにも今引っ張りだこだ。
「もちろん知っているわよ。グラビアをメインに、ドラマやバラエティにもよく出てるじゃない。」
「さすがお母さん、テレビの情報には敏いのね。あの二人も元々は俊の紹介で、プロダクションに入ったのよ。」
「へえー、じゃあ千早も本気でやろうとすればアイドルになれちゃうわけね。」
千早はやや自嘲気味に笑った。
「だけど、こんな性悪なアイドル。すぐに炎上ね。むしろそれで売っていこうかしら、『炎上アイドル』、逆に売れるかもね。」
自虐を込めた冗談のはずなのに、笑えない。
「冗談よ。」
「分かってる。」
その時、部屋をノックする音が聞こえた。もう準備ができたというのか。なかなか早い。今度はウエイトレスの格好をした女性が入ってきた。いかにも高そうなお皿の上に、これまた高級そうなケーキ、そして一杯の紅茶が運ばれた。
ケーキのお皿を持ち上げて、クリームで装飾されたスポンジにフォークを下ろし、一口サイズに分けてみる。見た目にもとてもおいしそうだ。ゆっくりと口に運んでみるが、これがまたすごくおいしい。市販のケーキとは、スポンジの弾力もクリームの濃さも違う。私はその余韻を楽しんでいるのだが、千早はそんなこと気にも留めない様子で、パクパクと食べ進めている。やはり、慣れている人は違うんだな。
「ちょっとだけ、思い出話をしない?3人で住んでいた時のこと。」
私はそう提案した。
「・・・それはいいわ。時間がないし。」
「今は休憩中でしょ。」
やはり、千早は3人での思い出について触れられることを忌避している。その理由は何なのか。少し変化球を投げてみよう。
「私も、もう二十年近く前だけど、千早と同じ白無垢姿になったことがあったのよ。」
「お母さん、結婚してたもんね。」
私はケーキのお皿をテーブルに置いた。
「千早みたいにきれいじゃなかったけど、それでも私にとっては大切な思い出だった。どこかに写真もあったと思う。」
「ふーん。」
「あの時は、一生を誓い合った仲だったんだけどね・・・。私に子供ができていれば、一人で寂しく大きな家に住むことだってなかった。」
千早は黙って耳を傾けている。
「3人くらいでもちょっとまだ広かったのよね。子供二人作って4人で住むことを考えて作った家だったから。だから、春香と千早だけじゃ、まだ足りなかったかな。リビングだって、3人だとまだスペース余っていたし。」
「お母さん、早く食べちゃいなよ。」
千早が割り込んできた。どうしても、3人の思い出に繋がりそうなことは、シャットアウトしたいようだった。
やがて私たちは、ケーキを食べ終わった。私は口直しの紅茶に口を付けた。
「ありがとう、千早。おいしいケーキだった。」
「あとで料理長に伝えておくわ。」
涼やかな目で紅茶を飲みながらそう答える千早は、どこかかっこいい。
「なんだか、財閥の令嬢って感じね。」
私がにっこり笑った。
「それ、冷やかしてる?」
「まあね。」
千早も微かに笑みをこぼした。そして紅茶のカップをテーブルに置く。
「さて、そろそろ話の続きをしますか。」
「・・・そうね。」
それを合図に、千早はとうとうと語り始めた。
「私は、本当に雪村さんに殺されるつもりであの廃工場へ行った。彼女も当然、私を殺す気でいた。でも実際はその通りにはならなかった。私は、彼女をさらに激高させるため、私が彼の子供を身ごもったことを伝えた。そうしたら、急に雪村さんから怒気が消えてしまった。」
「千早には敵わないと思って、逆に失意のどん底に叩き落された。」
「ええ。そして、その持ってきた包丁で、私の腕を切りつけてきた。だけどそれはあくまで、私が正当防衛に見えるようにするための偽装工作。その上で、雪村さんは、私に自分を殺すように言ってきたの。私は必死で抵抗した。そんなこと、私は絶対にしたくなかったから。彼女は、私のことを刺そうとしていた。だけど、それは明らかに本気なんかじゃなかった。争っている『ふり』をしていただけ。本気でもみ合いになったら、腕をかばっている私は絶対に勝てない・・・。やがて彼女の腕から力が抜けていくのを感じたわ。それで私は腕を思いっきり伸ばしたの。そして・・・包丁が彼女の腹部に突き立った。・・・あの人は、この世の者とは思えないうめき声を上げながら絶命したわ。そして私もあまりの恐怖に気を失った。そして、私はまた目を覚まして、救急車を呼んで、望月先輩にも電話して、そこでまた気を失ったの。」
背筋も凍るような話だ。
「一つ確認しておきたい。千早は結局、雪村さんともみ合ったとき、彼女のことを刺そうとしたの?それとも完全に抵抗したんだけど、彼女の力に負けて、彼女自身が腹部に刺したのか?」
もし前者だったら、それは同意殺人になる。後者なら、彼女は罪に問われない。ただ雪村さんの自殺現場に立ち会っただけということになる。
「・・・あの時のことは・・・頭がぐちゃぐちゃしてよくわからないけど、多分、刺そうとしたと思う。正直怖かった。死ぬのは覚悟していたつもりだったのに、いざ包丁が自分の方を目掛けて迫っているのを感じて、恐怖で体が縮こまってしまった。それで思いっきり抵抗して、彼女から力が抜けてくると、とにかく生き残ろうとして、腕を伸ばしたの。」
「・・・分かった。」
報道では、この事件に対する見解は分かれていた。望月を我が物にするために、襲われると分かっていてあの場所に行き、返り討ちにしたという確信犯だとする見解。そして、今回の事件は、全く予期していなくて、千早は本当に被害者だったという見解。
でも真相は、伊織が言う通り、本当に自分から殺されようとして出向いた、ということだった。千早がその時身籠っていたという事実は、報道機関も知らなかった。そして、3人の悪魔の計画も、見事に隠しきっている。マスコミがこの事件の真相に気付くことはない。
「その後私が目を覚ますと、そこは病院だった。そこで私は俊に、事件の真相を話した。そこで彼に私の妊娠の事実を知られてしまった。その後、春香も病院に駆け付けたけど、修羅場だったわ。これで春香は俊と結婚できない。妊娠という既成事実ができてしまった以上、結ばれるのは私。春香は、私の裏切りと捉えたわ。当り前よね。春香は、無理に気丈にふるまいながら、泣くようにして病院を後にしたわ。それが、私と春香が普通の形で会った最後になった。次に出会ったのは、あの『監獄』の中だったから。」
「一つ確認していい?どうして千早は、彼と関係を持ったの?いくら何でも、関係を持ってしまうところまでが演技だとは考えられない。しかも、中に出させるなんて。」
そこが信じられないポイントなのだ。もし本当に春香のことを想っていたら、それは拒否すると思う。けど千早はしなかった。
「・・・弱かったの、私。こんなの演技じゃない、どう考えてもやりすぎている。このままでは本当に彼の気持ちを奪ってしまう、そんなことは分かっていた。だけど私・・・演技の名のもとに、『これでいいや』って思ってしまったの。ズルい女だから。あの日私は、俊にホテルに誘われた。作戦のことを話すっていう名目でね。過去にもそう言うことがあったから、特に私は警戒しなかった。そこで彼は私の過去について話してきたの。彼は私と春香の過去をすべて調べ上げていた。そして彼に甘い言葉をささやかれて・・・。心の迷いがあった。それにお酒を飲んで、気が高ぶっていて、冷静な判断ができなかった。それに・・・ぎゅーってされて嬉しかったの。私、あの男のレイプのせいで、男性に抱きしめられることがトラウマになっていた。実際、私、居酒屋で転びそうになったところを俊に抱きしめられて支えてもらったんだけど、その時悲鳴を上げてしまって。でもこの時は・・・抱かれても全然平気だった。それがうれしかった。中に出させたのは・・・もう危険日は過ぎたと思ってたから。それは、計算ミスだった。」
「まるで1回で孕んでしまったって言いたげね。」
「そう、私たちはその1回しかしていなかった。」
「なのに孕んでしまったっていう訳!?」
「ええ、そうよ。」
何といううらやましい話。こっちなんて、100回やってもできなかったって言うのに。
「とにかく、その後俊はこの事件の後処理に追われた。私は世間から身を隠す為、ホテル住まい。春香のことは、美希に任せたの。春香と美希の蜜月はそこから始まった。テニスサークルはもちろんそこで解散。春香には伊織もついていたみたいね。」
「もう6年近くもホテル暮らしか・・・。そりゃホテルマンの使い方も慣れるってものよ。」
「金銭感覚は、若干おかしくなったかもね。でもずっとホテル暮らしって訳じゃない。途中、軟禁されたり、監禁されたりしているから。」
彼女は紅茶を一口。
「私は、お腹の子を産むかどうか迷った。この子のせいで、私は先輩と結婚することになってしまった。私自身は、そんなつもりはなかったけど、それでも春香を裏切ってしまったという結果がついて回る。この期に及んでも、私は春香と先輩がどうすれば結婚できるかを考えていた。もう、彼自身にその気がなくなっているというのにね。今から考えると、あほらしい努力だった。」
千早は自嘲気味に笑った。
「でも私は、最後には産む決心をしたの。春香が望んでいたから。」
「春香が・・・望んだ・・・。」
「ええ。お腹の子を殺すことだけは、絶対に許さない、そういう態度だったらしいの。直接は話していないから、伊織を伝っての話だけど、でも分かるわよね。その気持ち。」
その理由か・・・。春香の立場になってみれば、確かにそれは分かる。私は答える。
「春香は・・・本来消えていてもおかしくない命だと思っていた。レイプの末にできてしまった命だと思っていたから。だけど、母親は産んでくれた。だから、中絶に強い忌避感を抱いていた。そうでしょ?」
「その通り。私も、春香が望んでいない事をするわけにはいかなかった。それに、私はまだ信じていたから。彼の言葉。」
「『3人で幸せに暮らす』ってやつ?」
「ええ。・・・そうよ。でもそれも叶わなかった。」
千早は子供を産んでいない。つまり中絶したのだ。だとすれば、どうしてなのか。
「俊が・・・剛三郎さんに負けたのよ。」
「彼が負けた?」
「俊は、剛三郎さんに対して脅しをかけていた。秘密研究の件でね。だけど、逆を突かれた。剛三郎さんにとっては、秘密研究が弱みだったけど、その逆に、俊にとっては私と春香が弱みだった。俊は逆に脅されたの。私たちを殺されたくなければ、言うことを聞けって。それに、剛三郎さんは俊の足元を見ていた。秘密研究をバラして、財閥自体にダメージが及べば、結局は共倒れになって、俊も没落する。だから、剛三郎はこの脅しはブラフだと見ていたらしい。勝敗は明らかだった。」
「剛三郎さんが、おろせって言ったのね。」
千早は涙ぐんでいた。
「私はどうしても生みたかった。だってあの子は・・・雪村さんの命を受け継いでいるんですもの。」
「雪村楓の命・・・。」
「あの人は、私のお腹に俊の子がいるって知って、それで死を決意したの。もしもここでこの子を殺してしまったら、雪村さんの犠牲は一体何だったのってことになるから・・・。でも春香の命を危険に晒すわけにはいかなかった。私が自分のわがままで、この子を産んでいたら、春香に危害が及ぶ。そんなことは決して許されなかった。」
「どうして、望月剛三郎はそんな惨いことを・・・。」
「望月の血を引くものが、他にできてはいけない、そういう理由であの子は葬られた。そして私は・・・望月財閥が所有する軽井沢の別荘に移された。いつ解放されるかもわからない軟禁生活が始まった。」
「それっていつぐらいのことだった?」
「大学2年の8月くらい。」
ちょうど、千早と連絡が取れなくなった時と同じだ。
「携帯電話を・・・取り上げられたのね。」
「ええ。ずっと電源がオフにされていたそうよ。私がいた別荘には、外部と連絡を取る手段がなかった。だから、誰にも近況を伝えることができなかった。」
千早が震えている。
「その後私は・・・ずっと一人だった。確かに別荘には私のお世話をしてくれる人はいた。その人の本当の役目は、私の監視。私が不穏な動きをしたり、逃げたしたりしないかどうか、監視するのが目的だった。私はずっと・・・心細かった。今まで私・・・ずっと一人でも生きていけるって思ってた。誰も信用しないで、自分だけを信じて、そうやって生きていけるって思ってた。でもできないんだねぇ・・・。一人ってぇ・・・やっぱさみしいぃ。」
声も震えている。私は再び千早の下に駆け寄った。私は千早の背中をさすった。
「今は、一人じゃないでしょ?」
「・・・今もぉ、一人ぃだよぉぉ・・・。」
誰にも、心を開けない・・・。ずっと千早は、『独りぼっち』。
「その間に、春香たちに何があったのかは、美希や伊織から聞いているんでしょ。」
「・・・あまり聞いてない。」
「そう・・・私の方は・・・10月頃になって、別の場所に移された。この時私は、如月千種に拉致された。拉致されて、連れてこられた場所は、小さな山小屋だった。多分、世間からは絶対に目の届かない場所に連れられたのだと思う。そしてあの女が、私の目の前に姿を現した。・・・酷く痩せこけていて、魔女のようだったわ。千種は私に・・・アダルトビデオに出演するよう求めてきたの。要求を断れば、春香がひどい目にあう。そういって脅してきた。私には選択の権利なんて無かった。そして私は・・・」
「そこは・・・聞きたくない。」
千早が私の方を向いてくる。
「また、目を背けるの?」
「もう見た。二度はいらない。」
また千早は正面を向いた。思い出したくもない。千早の動画は、インターネットのピンク系のサイトの至る所にある。見た目も綺麗でスキャンダラスだから、衆人の目を引いているのだ。千早があられもない姿になり、気持ちよくもないのに・・・「気持ちいい」とよがらされている。あんなおぞましい光景、二度と見たくない。
「私の裸、もう100万人くらいに見られているのね。見せるのは、春香やお母さんと一緒にお風呂に入った時か、彼に抱かれている時だけかと思ってたのにね。」
千早が薄ら笑う。
「不思議に思わない?如月五郎が死んだのは、それから3年も前なのに、どうしてあの女は今更になって現れたのか?」
確かに気になる。私もあの女が自宅に押し掛けるのではないかと、少し不安に思っていた。
「その理由を知っているの?」
「ええ。あの女は、あの事件の後、自殺を図ったの。だけどアパートの外で首を吊っているところを見つけられてね、そのまま2年くらい病院で生死の境をさまよっていたらしい。そして死の淵から目を覚ましたあの女は、復讐に目覚めた訳。五郎の死の真相を調べ上げて、私たち二人が犯人だと見抜いたあの女は、最大限復讐できる方法を考えた。そして、あの女は、私たちが望月俊と近しい関係にあることを知って、望月秀幸の下へと駆け込んだ。」
「秀幸としても、これはいい玉が手に入ったと考えたでしょうね。」
「その通り。だから秀幸は、手駒のやくざも彼女に与えて、ある程度彼女の自由にさせた。自分が真犯人だと思わせないようにするため、ね。そしてあの女は、春香の元にも現れた。あの女は、徐々に春香を苦しめようと考えていた。だからまずは、私と春香の関係をさらに引き裂くことから手を付けた。あの女は、春香を脅迫して、私が出演したAVのポスターを大学の掲示板に張らせようとした。その様子を撮影して、更に脅迫のネタを増やそうとしたのね。春香は俊と伊織に助けを求めた。そして俊たちは、要求を拒否して、動画を撮影しようとやってくるだろう、秀幸の手の者を捕まえようと画策した・・・。」
そこまで言って、千早は身を震わせた。
「結果は・・・どうだったの?」
「・・・無残に失敗したらしいわ。俊が放った刺客たちは、秀幸の手の者に捕えられてしまった。でもそれは今から考えれば当然だったのよ。だって・・・私たちが住んでいたあの部屋には、盗聴器が仕掛けられていたんだから。」
「盗聴器ですって!?」
「あの女が目覚めてから、比較的早い時期に、私たちが住んでいた家の場所を把握していたらしいの。そして、盗聴器を仕掛けた。私たちの会話は、ずっと・・・あの女に筒抜けだったのよ。春香は俊と伊織を自分の部屋に招いて作戦会議をしていた。そりゃ、うまくいくはずがないわ。」
そういうことだったのか・・・。ということは、あの女は長い間、春香たちの居場所を知りながら、そして春香たちの生活を知りながら、長い間接触の機会を伺っていた、言い換えれば、ずっと監視されていたことになる・・・。確かに、それは身も凍るような話だ。
「秀幸らは、春香が要求を拒否したことに対する報復として、雪村さんの事件を報じた。」
それは覚えている。あまりにも衝撃的だった。
「私も何が何だかさっぱりだった。千早が、二股をかけていて、それで・・・痴情のもつれで、こんなことになるなんて・・・。電話をしてもつながらなかったし、誰も居場所が分からない。」
「天地がひっくり返ってしまうような驚きだったでしょ。」
「本当に、訳が分からなかったわ。」
「その時、マスコミはお母さんのところには来た?」
「いや、来なかった。」
「そう。・・・私のAVは注目を集めた。世間様は、私による復讐だとかなんとか、好き勝手に騒いでくれちゃってね。本人は寒い山小屋の中で震えていたというのにね。」
千早は、紅茶に口を付けた。
「山小屋の中には、何もなかった。別荘の時にはテレビがあったのに、それもない。あるのは無味乾燥な本だけ。山小屋だから殆ど寝て起きるだけのスペース位しかない。お風呂はあった。だけど、監視カメラが付いていて、正直入りたくもなかった。冬は只管寒い。一応暖房があったけど、それでも寒さはしのげない。食事も衣服も与えてはくれたから、生きる最低限の条件は満たせたけど、それでも私は・・・生きているのか死んでいるのか、それすらもわからなかった。台所みたいなスペースはあったけど、器具はない。武器になりそうなハサミもフォークもない。包丁は後に取り上げられてしまった。だから誰も殺せないし、自殺もできない。ないない尽くしで言えば・・・時計もなかった。だから、窓から入ってくる光の加減で、時間を計るしかない。カレンダーもない。今が何月何日なのか、それもわからない。毎日が・・・只管意味のない、同じ光景の繰り返し。ペンもないから、何日たったのか、それすらも分からない。永遠に続くように思えた。むしろ私はそれが怖かった。こんなことが・・・あと何十年も続くんじゃないか。その恐怖で私は何度も押しつぶされそうになった。発狂したこともあった。山小屋の正面の扉の前には、いつも誰かが立っていた。私が何かしでかさないように、ずっと見張っていたの。私は、その人間に何とかしてもらおうと、本を投げつけた。『ここから出して!お願い!』そう何度も何度も叫んだ。だけど願いが聞き入れられたことはない。その時は、男が部屋に入ってきて、私のみぞおちに拳を食らわせる。そして目が覚めると、まるで今までのことが夢であったかのように、全て元通りに戻っている。そんな日々が、多分2か月くらい続いていた。」
千早の顔から生気が消えているのが分かる。私は彼女の目の前で手を振った。
「千早・・・。しっかりして。」
「ふふっ、ごめんねお母さん。あの時のこと思い出してたら、何だかぼーっとしちゃって。」
「もう一度休憩しようか。」
「いや、・・・大丈夫。あまり時間はかけられないから。」
時間がない?まだ日は高いはずなのに。
「またあの女が現れた。二作目のAVに出演させるために、あの女がわざわざ顔を出してきた。」
「悪趣味な女ね。わざわざ自分から伝えに行くなんて。」
「私はその時、あの女を殺すつもりでいた。あの女が油断したところを、大きな本で脳天をたたき割って殺そうと思った。だけど寸前でかわされた。多分、読まれていたんだと思う。私が殺そうとするのをね。今思えば浅はかだった。それくらい、向こうだってわかっていただろうに。」
でも、もしあの時本当に殺せていれば、あんな事件は起きていなかったかもしれない。
「私は千種に馬乗りにされて、そのまま薬を打たれて意識を失った。次に目を覚ましたら、そこは『監獄』だった。」
「春香もそこにいたのね。」
千早は手をパタパタとやって否定する。
「そっちじゃないの。アダルトビデオの地下撮影所。」
あぁ・・・そうか、千早はもう一つ出ていたのだった。あのおぞましい作品に・・・。
「撮影は3日間にわたって行われた。あくまで合意がある撮影という建前だったけど、でも実際はそうじゃなかった。」
あの作品についてもピンク系サイトに出回っている。あれも数十万再生されているのだ。
「私が本当の監獄に連れていかれたのは、それからしばらく経った日のことだった。多分、1か月くらい経過していたのだと思う。またあの女が現れた。そしてこういったのよ。『あんたには、天海春香と殺し合いをしてもらう』そう言って私は、あの監獄へと移されることになった。」
私は寒気で体を震わせた。あまりにもおぞましい・・・。
「エアコン、消そうか?」
私が震えたのを見て、千早がそう尋ねてきた。
「いや、大丈夫。そういう寒気じゃないから。」
「そう、分かった。」
そして千早は拉致された。・・・報道であの女の遺書が公開されていたが、それによれば、二人は同じ部屋に監禁されていたらしい。そして殺し合いをさせられていた。
千早の目はまっすぐに、誰もいない正面を向いている。私は千早の目を見て会話をしようと思い、反対側のソファーへまた腰を下ろした。
「やっぱり、目を見て話さないとね。」
「・・・まぁいいわ。お母さんは、美希みたいに、目を見られても大丈夫だし。」
美希と目を合わせると、吸い取られてしまうということなのね。心の中のことを。
「春香が拉致されたのも、多分私が拉致されたころとほぼ同じだった。年が明けて、またあの女が現れた。あの女は春香に・・・私と同じようにアダルトビデオに出演するように要求してきたわ。このままだと、春香が拉致されてしまうかもしれない。その危惧を抱いた俊は、春香の体に発信機を埋め込んだ。」
「はっ、発信機!?」
「春香がどこにいるのか、分かるようにしておこうとしたの。既に私は奴らに拉致されていたから、そうならないように、先手を打った。」
「でも・・・結局、それは使われなった。」
「そう。一緒にいるところを拉致されたから。2月に入って、伊織の執事をしていた新堂さんが春香の元を尋ねてきた。そこで彼は、伊織から預かったという手紙を渡した。そこには、今回の事件を警告する内容が書かれていたらしいわ。望月秀幸は、如月千種を使って、私と春香に殺し合いをさせて、その罪を俊に擦り付けようとしているって。驚いた春香は、先輩に連絡を取った。先輩はロスへ春香を逃がす手立てを整えてくれた。その日、二人は一緒のホテルに泊まったんだけど・・・そこで春香と俊は拉致された。」
そうか、一緒に拉致されたなら、発信機が意味なかったとしても、頷ける。
「そして私たちは、暗い暗い『監獄』の中に押し込められた。」
千早の声が潜まっている。
「部屋は8畳ほどの大きさ。窓は一つもない。多分地下室だったと思う。照明は、部屋の手前側に裸電球が一つだけ。だから部屋の中は本当に暗かった。そして長方形の部屋の奥側には、妖しく光るタイムカウンターがあった。」
タイムカウンター・・・。
「そこには120;00;00と表示されていた。」
「まさか・・・それは制限時間?」
「ええ。その間にどちらかがどちらかを殺さなくちゃいけない。そうしなければ、二人とも死ぬことになる。蛍光色のそれは、暗い室内で良く光っていたわ。それが不気味で仕方がなかった。」
120時間というと、日数にして丸5日。確か春香が拉致されてから、死体で発見されるまで1か月以上あった。その間はどうなっていたのか?
「春香が拉致されてから・・・見つかるまでは1か月以上あった。その間はどうしていたの?」
「多分・・・記憶をいじられていた。」
「・・・どういうこと?」
「私があの監獄の中で目を覚ました時、私は全ての記憶を失っていた。かろうじて、自分の名前は憶えていたけど、自分が何者で、どういう人生を過ごしていたのか、とにかく、私に関することを全て忘れてしまっていたの。隣にいる春香のことも完全に忘れていた。それは一緒に目覚めた春香も同じだった。」
「記憶を消されたということね。」
「ええ。だけど、完全に消されたわけじゃない。一時的に失わされただけだった。私たちは、監獄で時を過ごす中で、少しずつ記憶を取り戻していった。幼少のころから、順を追っていく形で。」
それも不自然な話だ。記憶喪失の人が、記憶を取り戻していくことはあるが、それはまばらだったり、ある日突然何かの拍子に全て思い出すこともある。しかし、幼少のころから順を追って取り戻していくなんて、仕組まれているとしか思えない。
「つまり犯人は、二人の記憶を消して、監獄で時間を過ごしていく中で、それを徐々に順々と取り戻させていったという訳なのね。」
「そういうこと。そのおかげで、私たちはもう一度、お互いに自分の人生を辿っていくことになった。・・・思い出したくもない酷い人生をね。」
如月千種の狙いは、まさにそれだったのだろう。春香や千早にとって最悪の人生をもう一度ゼロから思いださせることで、もう一度生の苦痛を味合わせようとした。
「でもそのおかげで、私はもう一度天海春香という女の子に出会えた。不純な動機から芽生えた友情だったけど、それはそれで嬉しいことだったわ。」
「人生なんて、楽しいこともあれば悲しいこともある。千早の人生は・・・ちょっと浮き沈みが激しかっただけ。」
千早は押し黙ってしまった。私の言葉に抗議するわけでも、認めるわけでもない。ただひたすらの沈黙。
「ごめん、続けて。」
「もう一つだけ、あの『監獄』に閉じ込められてていいことがあった。春香と仲直りできたの。」
私は驚きながら笑顔になった。
「それは良かったじゃない!最期の最期で打ち解けたのね。」
千早もそれに応じるように笑顔を作った。
「ええ。私の想いはちゃんと伝わった。私は春香を裏切るつもりだったんじゃない。ただ単に私の心が弱かっただけ、春香を傷つけようと思ったわけじゃない、春香は分かってくれた。それが、唯一、あそこに居てよかったこと。それ以外は、何もかもが最悪だった。多分、この気持ちは誰にも分からないでしょうね。5日以内に、どちらかを殺されなければ、両方死んでしまう、そんな境遇に置かれたときの心境なんて。」
きっと想像すら及ばないだろう。その時感じていた動揺、恐怖感、絶望感、怒り憎しみ、悲しみ、そういったことは・・・体験した人間でなければ分かるまい。
「ちなみに、ちゃんと水と食事は支給された。そうしないと、脱水症状で死んじゃうからね。タイムカウンターが動きだして、私たちはいろいろと手探りで状況を探っていった。記憶を消されていたわけだから、隣にいる女の子が一体だれで、私とはどういう関係なのかもわからない。私たちは、記憶を一つ一つ辿っていった。家族構成、幼少期の思い出、小学校時代の思い出、そして中学の思い出へと進んでいったわ。そうした中で、私たちは、ここから脱出するための術を探った。二人で生きて帰る為には、逃げ出すしかない。」
「方法はあったの?」
「部屋には扉が一枚あるだけ。窓はなく、換気扇のところからは出られない。部屋には監視カメラがあって、中の映像と音声は筒抜け。そうなると、正面突破するしかない。ただ犯人側に隙はあった。定期的に私たちに水と食料を運び、汚物入れのバケツを回収するために、あの監獄を訪れる。そこを見計らって、汚物入れのバケツを投げつけて怯ませる。その間に逃げるという寸法だった。」
「無茶するわね・・・。」
「それしかなかった。私たちは、犯人は少数グループだと思っていたから。これなら勝算があると思った。でも実際はうまくいかなかった。私たちが逃走を図ることを読んでいたみたい。脱出は完全に失敗に終わった。その後がひどかった。」
千早が顔を落とす。酷いことをされたのは、聞かなくてもわかる。
「私と春香は、レイプされたんです。何人もの男たちに・・・。」
私も千早から顔を背けてしまった。握りこぶしを作り、机の下で、怒りで震わせていた。やがて、千早が正面を向いていることに気付き、私も千早の方に目を向けた。
「やがて私は、この事件の犯人に気付いた。私と春香をここまで執拗に恨んでいる人物。」
「如月千種。」
「うん。そして、もし彼女が犯人なのだとしたら、『生き残った方を解放する』という約束も嘘。きっと何らかの形で生き残った方も捕え続ける。」
確かに、それは妥当な推理だと思う。そもそも、犯人側が「生き残った方を解放する」と約束したところで、それを保証するものは何もなかったはず。この事件の犯人が、如月千種だと分かってしまった以上、生き残りを解放すると考えるのは、無理がある。
「だから私たちは、一緒に死ぬことにしたんです。私たちは友達、いや・・・親友同士だということを思い出した。だから、一緒に手をつなぎながら死ぬことにした。これがあの人に対してできる唯一の逆襲だったから。そして、私と春香はお互いに愛を交わした。」
愛を交わした?
「どういうこと?」
千早がわずかに頬を染める。そしてデクレッシェンドに言うのだ。
「春香と・・・えっちなことをした。」
「えっ、あっ、え!?」
「・・・私たち、そういう関係だったの。高校の頃は違ったわ!だけど大学時代で色々あってね・・・ああいう状況で気持ちが高ぶっててたから。」
私はどぎまぎして、千早の方を直視できなかった。
「まぁ、別にお母さんとしては・・・うん、まぁ、気にしてはいないけれど・・・。」
千早はいたずらっぽく笑っている。
「お母さん、子供じゃないんだからそんなに動揺しなくたっていいでしょ。」
「うるさいわね。いきなりそんなカミングアウトされたら、誰だって驚くわよ。」
「ふふっ、そうかもね。でも別に私、特段レズってことじゃないのよ。春香だったから抱きたかっただけ。もちろん私、男の人の方が好きだから。春香だけ別枠だったってこと。」
緩んでいた千早の顔が、またまじめに戻ってしまう。
「私たちは手をつないで一緒に死ぬことを心に決めていた。でも、あの女はそれを許さなかった。すぐさま次の手を打ってきた。」
千早は紅茶の入ったカップを手に取り、口に含んだ。
「・・・すっかり、冷めてしまったわね。」
「もうおかわりはいらないわよ。」
「私も大丈夫。」
千早はカップを置いた。
「・・・俊を出してきた。彼をスピーカーの前に出して、私たちに声を聴かせたの。あの部屋には、何人もいるこの監獄の看守なる人物と会話するためにスピーカーがあった。」
「読めたわ。このまま時間切れになったら、彼の命も奪うって脅したのね。」
「その通り。だから私たちもこのままという訳にはいかなくなった。そしてそれと同時に、私たちは大学時代のことを徐々に思いだし始めた。そうこうする中で、私は春香に殺されることを決意したの。」
いよいよ、話は核心部分に近づいている。
「その理由は?」
千早が微笑を見せる。
「嫌な予感がしたからよ。私はまだ春香を裏切ったという記憶を取り戻していた訳ではなかった。だけど、なんとなく『嫌な予感』を感じていた。思い出してはいけない何かを思い出してしまいそうな予感がした。だから、それを思い出してしまう前に、私は殺されようと思ったの。それに、俊は春香のことが好きそうだったから、私が死ねばちょうどいいと思った。」
「・・・だけど千早は生き残っている。」
「焦らないで。そういう結果に至るまでには、長い経緯がある。春香は、私の提案を否定してきた。そして『俊を射止めていた方が生き残る』という提案をしてきたの。私は、当初それを拒むつもりだった。それだと、確実には、春香が生き残るとは限らなかったから。でもその後、私はそれに同意した。自分は、春香に先輩を譲っているという気がしたから。もちろん、私があんな最悪な形で春香を裏切ることになるなんて、思っていなかった。・・・私たちは犯人ついて別の疑念を持った。確かに、如月千種は今回の事件に関わっていると思う。だけど、他に黒幕がいるのではないかとも思ったの。」
「それはどうして?」
「単純な話よ。千種が指揮している犯人の一味はきっと10名近くいる。もしかしたらそれ以上いる。そして、監禁におあつらえ向きな地下施設、そして私たちと先輩の拉致、それらすべてあの女が手配できたとは思えない。そんな財力や組織は彼女にはない。だから、必ず裏で手を回している人間がいるはずだと思った。ある程度お金があって、私の母親を隠れ蓑に使おうとする動機がある人物がね。最初私たちは、春香をいじめて退学になったあの3人組のうちの誰かじゃないかと思った。だけど、こんなことまでするほど恨んでいるとは、少し考えにくかった。犯人の目的は、私たちではなくて、俊の方にあるんじゃないかと私たちは考えた。つまり、財閥同士の抗争。」
「それじゃ、千早たちは完全にとばっちりじゃない。」
「そう。あくまで狙いは俊を葬ることにあって、私たちはこの事件の黒幕をカムフラージュするためのパペットに過ぎない。あくまで私たちを恨んだその延長線上で、彼を捕えたに過ぎない、そう演出するための道具に使われたのだと思った。だとすれば、犯人は財閥関係者。」
そこで望月秀幸が出てくるのかしら。
「私たちは、伊織・・・もっと言えば水瀬財閥が黒幕なんだと思った。水瀬財閥と望月財閥はライバル関係にあったし、伊織は私たちの事情をある程度知っているから、こういう犯罪を立ち上げやすい位置にいた。」
「でもその後の経過を見ると、明らかに彼女ではなかった。」
「そう、結論から言えばそうなのよ。だけど、その時の私たちには、この推論を覆すだけの証拠は何もなかった。そして・・・春香が、真実に気づいてしまった。スピーカーの男が、春香の記憶を呼び起こそうとして・・・春香に意味深なことを吹き込んだ。」
「春香はそれを信じてしまったわけね。」
「しょうがなかったのよ。その男はありのままを言っていただけなんだから。事実、私は春香に酷いことをしていたんだし。そして春香は、全てを思い出してしまった。私がしてしまった悪魔のような行いにね・・・。彼女は当然激怒した。そして春香は絶望の淵に叩き落された。そりゃそうよね、今まで、春香は自分と先輩が結ばれていたと思っていたのに、ふたを開けてみれば、結ばれたのは私だった。つまり、生き残るのは・・・私。」
千早は残り少なくなった紅茶のカップに目を落としている。
「怒気のこもった、恐ろしい夜叉のような顔で、私は何度も何度もビンタされた。それこそ意識を失うほどにね。」
正直耳を疑った。千早の表現に誇張があるとは思えない。ああいう状況だったから、多少、オーバーな認識をすることはあるかもしれない。だけど、いつも笑顔が素敵な彼女が、鬼畜な顔で千早のことを殴り続けていたなんて・・・。
「いくら極限状態とはいえ、それは随分なことね・・・。」
とはいえ、春香の気持ちも分からなくはない。封印されていたもやもやした気持ちがさく裂したのだろう。きっと春香は、ずっと千早のことを殴りたいと思っていたのかもしれない。たとえ千早に積極的な害意がなかったとしても、春香を傷つけてしまったことは誤りないことなのだ。そしてそれによって春香が傷ついたことも事実。だから私は、春香を一方的に責める気分にはなれなかった。
「あの子は意地になっていたわ。『私が先輩を射止めていたから』、だから春香は自分が殺されることを望んでいた。だけど私はそんな不条理なこと絶対認めるわけにはいかない。どっちが死ぬのか、押し問答が続いた。そしてしびれを切らした春香が、私のことを何度もビンタしてきた。そして私は気を失った。顔面が血まみれになるまで殴られていたらしいわ。」
確かに、千早が発見されたとき、顔には大きなあざがあった。それは犯人によってつけられたものじゃなくて、春香のビンタの跡だったという訳ね。
「そして春香は私のことを殺そうとした。」
「やってることが・・・むちゃくちゃね。自分が殺されるって言ったり、千早を殺そうとしたり、顔に大きなあざができるまで殴ってみたり。」
「それだけ、春香の中での混乱が大きかった。春香は、全てが私の策略だと思っていた。演技を引き受けたのも、彼の子供を身ごもったのも、そして雪村さんを正当防衛で殺したことも、何もかもが私の計画だと思っていた。そして春香は、私が彼との子供を産んだと思っていた。」
「だけど実際はおろしていた。」
「・・・その時は子供をおろした理由までは分かっていなかった。だから私はとっさに言ったのよ。『春香が先輩と結ばれる為に、子供をおろした』って。それで・・・春香は冷静になってくれた。」
「千早の言葉を信じたのね。」
「信じたというよりかは、半信半疑で真相を確かめよとした。確かめるために、殺すのを思いとどまってくれたみたいだったけどね。私たちはこの事件の黒幕は、水瀬さんではないかもしれないと考え始めた。真犯人は、雪村家なんじゃないかって。雪村さんは、私と春香と俊の3人に殺されたようなもの。だから、雪村家だったら私たちを拘束してひどい目に合わせる動機がある。そしてそこに伊織も絡んでいる。私たちのこの犯罪を知っている人間は、私たちの他に2人しかいなかった。その内、私のことが大好きである美希が、この事件に手を貸すはずはない。そう考えると、財閥の力学も考え合わせれば、犯人は伊織しかいなくなる。」
確かに、考えられない話ではない。
「でも、どうしても腑に落ちないことがあった。犯人は、私たちが殺し合いをして、生き残った方と、そして俊は必ず生かして帰すって言っていた。その理由が分からなかったの。挙句の果てには、制限時間以内にどちらも生き残っていたら、『サドンデス』をやるって言ってたわ。」
また新しい単語が出てきた。何よ、「サドンデス」って・・・。
「何やら、また恐ろしいことをしていたようね・・・。」
「制限時間が経過した時点で私たちが両方生き残っていた時には、奴らは私たちを拷問にかけるつもりだった。そしてその拷問で生き残った方と俊を逃がすって言ってきたわ。」
何だか引っかかる。どうしてそこまでして、どちらか一方を生かすことにこだわったのか。今ならわかる。それは望月俊の犯行と思わせるため。
「つまり、犯人は何が何でも望月俊は生かして帰すって言ってきた訳ね。それじゃあ、犯人は彼を何のために捕まえたのか。今ならその理由もわかるんだけどね・・・。」
「私たちもそこが引っかかっていた。犯人のブラフかとも思ったけど、ここまでする以上は、犯人は本気でそうしようとしているって思った。最終的に・・・春香が記憶を取り戻して、望月秀幸が全ての黒幕だと知って、ようやく全てが氷解したわ。」
春香と千早の殺し合い、これを望月俊の犯罪だと見せかけるのが目的なのだとすれば、彼が生き残る道理は明らかだ。彼が死んでしまえば、彼を真犯人に見立てることはできなくなる。
「残り時間はどんどん少なくなっていた。そうした中で、私たちは最終的に、どちらが生き残るのかジャンケンで決めることにしたの。」
「ジ、ジャンケン・・・。」
私は目を丸くして驚いていた。
「最後には、こうするしかなかった。お互いに、死にたい理由、生きるのが怖い理由、相手に命を譲りたい理由はあった。だから、こうでもしないと、結論が出せなかった。」
「そこで、千早は勝った・・・のよね?」
千早は否定する。
「私は負けた。後出しジャンケンをしてね。」
「えっ、後出しジャンケンをやって、その上で負けたということ?」
「そう、わざと負けた。自分が死ぬためにね。・・・ズルいと思うかもしれないけど、私は春香を殺すことだけは絶対に許されなかった。春香まで殺してしまったら・・・私は4件目の殺人を犯すことになる。それに、私は春香のことを散々苦しめてしまったのに、私が春香を殺して生き残るなんて・・・絶対に考えられない。それだけじゃない。私、せめて今回だけは純粋に、『春香の為』になりたかった。今までずっと・・・純粋に『春香の為』に何かをしてあげたことなんて無かったから、だからせめて今回だけは、『春香の為』に死にたかった。私の命を懸けて、春香に命を与えたかったの。」
「春香は気づかなかったの?そのイカサマに。」
千早は鼻を鳴らし、自嘲しながら言った。
「春香は気づいていた。気づいていて、ワザとそれを見過ごしてくれた。春香は優しかったから、私のわがままを通してくれた。私の罪滅ぼしを、受け入れてくれた。」
千早にも、自覚はあったのね。千早は純粋に『春香の為』に死のうとしたのではなく、春香の為に死ぬことで罪滅ぼしをしたかったんだって。
「そして私はもう一度春香に心から謝った。謝って・・そこで赦しを得た。『水に流そう』って言ってくれたの。それが私には、何よりうれしかった。」
千早の目に涙が溜まっている。それはきっと嬉し涙だ。こんなにもうれしいことはない、そんな千早の心からの気持ちが伝わってくるようだ。
「私が死ぬって決まって、私は遺言を残すことにした。生き残った春香に、私の言葉を伝えてもらおうと思ったの。もちろん、お母さんにも残した。まぁ。こうやって生き残ってしまったから、意味はなかったんだけどね。美希と、先輩にも、そして春香自身にも残した。」
千早は、カップに残った最後の紅茶を飲み終えた。
「ここで春香が思い出してくれたの。真犯人は望月秀幸だったって。この事件は、全ては望月財閥の中の抗争が原因だった。私たちは、俊を失脚させるために利用されたスケープゴートだった。事件の真相は、これではっきりした。みんなに遺言も残したし、最期の最期で私と春香は真に和解することができた。それに、私は、また春香の体に貪りつくことができた。もう思い残すことはない。あとは春香に殺されるだけになった。その時だった。」
千早が息を飲む音が聞こえた。
「春香が突然、頭を押さえ始めたの。酷い頭痛に襲われたみたいだった。」
「何があったの・・・。」
「その時は分からなかった。そして春香はそのまま気を失ってしまった。私は突然のことに驚いて、必死に何度も春香を揺さぶったわ。だけど反応がない。」
「まさか、そのまま死んでしまったの!?」
「いや、そういうわけじゃなかった。彼女は30分後に目を覚ましたわ。だけど・・・春香は・・・まるで様変わりしたかのように突然死を乞うようになった。それも・・・やむを得ず死を望んでいた訳じゃない。積極的に、そして強くて堅い死の意志を持っていた。」
激しい頭痛の末に、春香は失神し、そして死を願うようになった。
「何かを・・・思い出したのね。」
「そう。『何か』を思い出した。」
「春香は一体何を思い出したというの?」
「・・・春香はそれを教えてくれなかった。タイムリミットが迫っていた。残り時間はその時、もう30分も残されていなかった。このままでは拷問が始まる。春香は、私が嫌がるのを無視して、強引に別れの言葉を述べると、私の両手を掴んで・・・それを春香の喉元に持って行ったの・・・。そして彼女は・・・そのまま力を込めた。私は・・・春香に引きずられるように力を込めたわ。目をつぶって、泣きながら・・・私はひたすらに力を込めた。そして気づいた時には・・・春香はもう冷たくなっていた。」
私は思わず千早から顔を背けた。何と痛々しい、苦痛に満ちた話なのだろうか・・・。
「私が部屋で発狂をしていると、あの男たちが入ってきた。彼らは、暴れる私を押さえつけて、春香の死を確認したわ。そしてそれが分かると、また薬を嗅がされて、そのまま意識を失った。次に目が覚めた時は、病院だった。幸いにも、顔面に傷を負っていたけど、それ以外に体の傷は無かったから、比較的早くに退院できたわ。」
あの時のことはよく覚えている。警察から千早が無事に見つかったと聞いて、心の底から安堵した。それと同時に・・・春香の死に酷く、深く落胆し、悲しんでいた。私は、千早を抱きしめ、そして春香の死を確認するために、仕事をほっぽりだして東京に行ったのだ。
「大事な所が抜けてるわよ。私が千早に会いに行ったところ。」
千早がまだ病院で安静にしているとき、私は千早の病床を訪れていた。
「そうだったわね。2年ぶりの再会だったのよね。」
「ええ・・・。」
私は彼女に再会して・・・そこでわんわんと泣いたのだ。もちろん、千早に再び会うことができてうれしかったからだ。だけどそこには、こんなことになるまで放っておいてしまった自責の念もあった。そうやって私は後悔したはずなのに・・・結局、その後5年間にわたって、再び私は・・・千早と距離を置いてしまった。
そして私は春香の遺体を確認した。春香の死因は窒息死。手で首を絞められた跡がくっきりと残っていた。そして驚いたことに、比較的早くに発見されたおかげか、春香の遺体は腐敗も進まずにきれいなままだった。
血色さえ戻れば、今すぐにでも動きだしそうなくらいに、春香は綺麗だった。そんな彼女を見て、私は泣き崩れた。結局私は、春香を東京に送り出したのが、最期の別れになってしまったのだ。
全ては私がいけなかったのだ。春香も千早も、大変な問題を抱えていることは明らかだった。にも拘らず、私は何もしようとしなかった。
「病院を退院した私は、警察の事情聴取を受けたわ。あの場所で何があったのか。証言するよう求められた。そこで私は最初ウソをついた。私たちは一緒の部屋には閉じ込められたけど、春香を殺めてはいないと主張したの。」
「どうしてそんな嘘を・・・。」
「・・・とっさの嘘だった。そこまで深く考えていた訳ではない。だけど、なんとなくだけど、『そう答えないとまずい』って感じたの。多分・・・私には後ろめたいことがたくさんあったからだと思う。」
後ろめたいこと・・・それはきっと千早が春香と先輩を奪い合っていたということだろう。千早は言う。
「私と春香は俊を巡って争っていた。これはあくまで仮定の話よ、認めるわけじゃないけど、もし私が先輩を独り占めしようとして、春香を殺さなくちゃ自分が生き残れないという状況なのをいいことに。春香を殺めたら、これって・・・殺人よね。」
「・・・緊急避難なんじゃないの?」
「表面的には緊急避難だと思う。だけど、これを機会に積極的な意思を持って春香を殺めたとするならば、それは立派な殺人になる。そんなこと、私以外に立証できる人間なんていないけど。でもあの嘘は、あの女の遺書でバレてしまった。だから私は、春香を殺したと証言を変えざるを得なかった。」
私は、千早が望月俊を春香と奪い合っていたから、この状況を利用して春香を殺害したのではないかと、マスコミが執拗に追及していたことを思い出していた。途中で証言を変えたことも、千早への疑惑を深める結果となってしまった。
「私は、自分の母親が事件の黒幕だと告発したわ。そして行方が分からなくなっている、千種の捜査が始まった。」
「そしてその直後に、千種の遺体と遺書が見つかった。そしてその遺書を基に望月秀幸の捜査が始まり、彼も遺体で見つかった。」
「事件は、これで収束を見せたわ。秀幸が私の母親を操っていた。遺書のおかげで、事件の舞台となった『監獄』の場所も特定できたし、実行犯の男たちも逮捕された。これにてめでたしめでたし。剛三郎も死んで、俊はあの男のくびきからも逃れられた。」
そして、千早に対するメディアの執拗な追及が始まった・・・。
「千早は、針の筵になってしまって、そのせいでこうやってホテル住まいをすることになってしまった。」
「今から思えば、それも世間様の反感を買ったわね。『金持ちの道楽』とか『政治家ごっこ』だとか。」
千早は被害者なのに、事件があまりにも奇異すぎたせいで、どうしても彼女の過去に耳目が集まってしまう。そして不可解な真相が災いして、千早への疑惑と悪意だけが募っていく・・・。
「そうね。俊がしてくれた配慮が、結果的には裏目に出てしまっていたわね。でもおかげで、私はノビノビと過ごすことができた。」
ノビノビと?
「ホテルに缶詰め・・・じゃなかったの?」
「基本的にはそうだった。そしてやることもなかった。だから私は、調べることにしたのよ。この事件の『真相』をね。」
事件の真相・・・。
「千早は、この事件には何か『裏』があると思っていたの?」
「ええ。きっかけは、伊織から、彼女が春香に送った手紙について話したことだった。さっきも言ったけど、あの監獄の中で、春香は伊織からもらった手紙には、今回の事件を予告する内容が書かれていたと言ったわよね。」
「そうね。」
「だけど・・・それは違っていた。」
そうだ。水瀬さんが書いた内容は、そうではない。水瀬さんは、春香がクローン人である、ということを書いたのだ。
「水瀬さんの手紙に書かれていたのは、春香の『正体』だったのよね。春香は普通の人間ではなくて、クローン人間。そしてその寿命も・・・尽きようとしているって。」
「その通りよ。それを聞いた時、私は腰を抜かすほど驚いたわ。そして疑問に思った。どうして春香は手紙の内容を間違えていたんだろうって。もしかしたら、記憶が正常に戻っていないのかもしれない。私はそう思って、自らの幼少からの記憶が正しいか、一つ一つ確かめていくことにしたの。その為に私は、何度も富山に帰った。」
その度に、千早は私の下を尋ねていたが・・・それは自分の記憶が本当に正しいのかを確かめるためだったのか・・・。
「そして、私たちが思い出した記憶の内、その内容が大きく食い違っていたのは、あの手紙だけだったということが分かった。」
「あの記憶だけが違っていた。じゃああれは・・・作られた記憶?」
彼女は頷いた。
「ああ、後もう二つ違っていることがあった。一つ目は、春香が拉致された日、春香は美希に電話を掛けたって言っていたの。だけど、そんな事実はなかった。」
そういえば昨日星井さんが帰り際に、そんなことを言っていた。千早は星井さんにしつこく、事件の日に電話があったかどうか聞いていたって。
「昨日、星井さんから聞いた。春香が拉致された日に、春香が星井さんに電話を掛けたかどうか、千早がしつこく聞いていたって。記憶の矛盾がないかどうかを探っていたという訳だったのね。」
「その通りよ。そしてもう一つ。春香はあの時、美希だけじゃなくてお母さんとも電話をしていた。その時、春香は確かにお母さんと会話を交わしたって言うのよ。」
だけど、そんな事実はない。私は春香から2回目の電話かが勝ってきたときには、飛行機に乗っていた。だから電話を取ることは不可能だった。
「その時の電話に関する記憶が、大きく違っていたということね。」
「他の過去の記憶は正確なのに、ここだけ違っているのはおかしいって思ったの。」
「犯人はどうしてそんなことをしたのよ・・・。」
千早がそっとほくそ笑む。
「『真犯人』を隠す為。それ以外に考えられないでしょ?」
真犯人!?
「ちょっと待ってよ、真犯人ってどういうこと!?望月秀幸が黒幕なんじゃないの?」
千早は不敵に笑っている。
「そもそもおかしいでしょ?望月秀幸が真犯人なのだとしたら、彼は自分が犯人であるという証拠をわざわざ作り出したことになる。自分で犯行を自供しているようなものじゃない。あまりにも不自然だと思わない?」
「確かにそうだけど・・・。」
「そもそも、この事件には不可解な点が多かった。まず如月千種が自殺したのも、不自然だった。あの女のバイタリティを考えれば、ゾンビの様に生き続けて、生き残った私に復讐してもおかしくないのに、突然自殺するなんて・・・。なんだかすごく違和感を覚える。」
「でも自殺はものすごく効果があったんじゃないかしら。彼女の遺書のせいで、千早は今もこんなにも苦しんでいる。」
「実際口で言った方が、もっとインパクトはあったと思うわ。」
「単に用済みになったから、『処分』されただけかもしれないわ。」
千早はクスッと笑った。
「それはあるかもしれないわね。でもそれだと矛盾が生じる。千種の遺書には、望月秀幸が真犯人だとしっかり書かれていたわ。用済みになって処分されたのだとしたら、わざわざ自分が犯人だと書き込んだということになる。だから、その可能性はありえない。本当に千種が自殺をしたか、あるいは別の真犯人によって消し炭にされたかのどちらかしかない。そして気になるのはそれだけじゃない。」
千早は、ふぅーと息を吐いた。
「・・・真犯人である望月秀幸が自殺をしたこと。」
「報道では、如月千種の裏切りによって、秀幸が疑われ、それに狼狽した彼が自殺をしたということになっているわね。」
「でもそれもおかしい。まずそもそも、どうして如月千種が裏切ったのか。あの女には、真犯人を明らかにするメリットなんて一つもないというのに。私たちを監禁していた場所までご丁寧に教えてくれた。これもおかしい。それに秀幸は事件の後、あの女を野放しにしていたという訳?自分の犯行の一部始終を知っている彼女を放っておいて、自殺を許し、そして遺書まで残す猶予を与えた?おかしくない?」
言われてみればそうだ。別に真犯人の名を明らかにしたところで、千早にダメージを与えられるわけではない。
「そして望月秀幸が自殺をしたのも、なんだか都合が良すぎる。まるで何か仕組まれたみたいに。」
仕組まれていた・・・。
「私、どうしても引っかかっていた。望月秀幸が犯人だと知って何も動揺すらしなかった春香が、突然何かを思い出して狼狽し、心から死を願った。・・・最初私は、春香が自分の本当の正体に気付いてしまったことが原因なんだと思った。自分がクローン人間であって、あと5年くらいしか生きられない。そう気づいてしまったから、お幸先短い自分ではなく、私を生かそうとした。だけど、あの記憶が『ねつ造』であったということがすごく引っかかった。あらゆる記憶が失われて、その後取り戻したけど、ねつ造されていたのはここだけだった。春香が最後に思いだした記憶・・・それだけが改ざんされていた。まるでこの記憶を改ざんすることが目的で、全ての記憶を失わせたかのようにも見える。」
「どうして犯人は、手紙の記憶を書き換えさせたのかしら?水瀬さんが春香に宛てた手紙の内容なんて、水瀬さんに聞けば、分かってしまうじゃない。千早が気づいたみたいに。」
「うん。だから隠したい情報は、春香がクローン人間だったということじゃないんだと思う。」
「じゃあ、真犯人は何を隠したかったの?」
千早の目が虚ろになる。
「決まってるでしょ・・・真犯人そのものよ。」
千早は死んだような表情のまま話を続ける。
「春香が思い出した記憶は、手紙だけじゃない。その後春香がどう行動して、そしてどうやって拉致されるに至ったか、そこも含まれていた。」
「それもねつ造されたと?」
「・・・そうだと思う。春香が“あのタイミング”で思い出した記憶にねつ造のメスが入っていたのだとしたら、ねつ造される前のオリジナルの記憶の中には、真犯人の姿があったことになる。」
「春香が正しい記憶を取り戻したのだとすれば・・・じゃあ春香は、真犯人の正体を知ったってこと?」
「恐らくそう。そして・・・その人物は、春香にとってあまりに衝撃的な人物だった。自ら死を乞いたくなるほどにね。」
「・・・誰よ・・・。」
千早が不気味に肩を震わせ笑っている。
「私が知る限り・・・一人しかいないわ。」