第8節 夕焼け
「いい夕焼けね。」
「そうだね、お母さん。」
私たちは仁王立ちで、窓の外を眺めている。あれから千早は泣きに泣き続け、気づけば夕暮れになっていた。
「お母さん、今日、私がお母さんを呼び出したのは、ウェディングドレス姿を見せたかったからじゃないのよ。」
「じゃあ、何が目的だったの?」
千早はほほを緩ませる。
「お母さんの胸の中で泣きたかった。」
「やっぱりね。」
「『やっぱりね』って、お母さん分かってたの?」
「なんとなく、そんな感じはしてた。」
千早がワンワンと泣いている姿を見て、今日千早の元を訪れて良かったなって思った。すると一気に理解できたのだ。千早が私をここに呼んだ理由。ウェディングドレス姿は、別にいつでも見せることができる。真相は別のタイミングでも話せる。だとすれば、千早がわざわざ私を東京に呼び出した理由はそれしか考えられなかった。それからもう一つ。
「助けも求めていたんでしょ?」
千早は、ゆっくりと頷いた。
「でも、期待はしていなかった。無茶な話だって、自分が一番よくわかっているから。」
「・・・ごめんね。」
「もう謝らないで。お母さんは別に悪くないんだから。」
私は一つ千早に質問することにした。
「千早は、あの人の犯罪を告発するつもりだったの?そんなもの記録していたなんて。」
「・・・お守りにするつもりだった。私には・・・あの人の犯罪を・・・そして望月財閥の闇を世界に公表する勇気なんて無かった。でも、世の中何が起こるか分からないから、保身のために、録音しておいたの。」
「今も怖い?全てを明らかにすることは?」
「・・・怖いわ。あらゆることが変わってしまいそうな気がするの。」
きっとそういうことになるだろう。望月財閥は更なるスキャンダルに見舞われて、望月家は歴史の中に消滅することになる。それに関連して、きっと多くの人間が、路頭に迷うだろう。
「大丈夫よ。私がついているんだもの。」
「そうね・・・。」
千早は笑顔を見せた。
「・・・アメリカにはね、証人保護プログラムというのがあるの。告発を行った人間を守るために、名前も身分も何もかも変えて、別人として生きていけるという制度よ。望月財閥の影響力は、アメリカでは殆ど及ばない。それにこの告発で、さらに力を失う。そしてこの証人保護プログラムがある。千早は、限りなく安全に生きることができるわ。」
「お母さんもね。」
一つ気になっていることがあった。
「春香の『オリジナル』のことなんだけど・・・。彼女は、まだ研究所に捕えられたままなの?」
「・・・ええ。そうみたいよ。」
「彼女も、この告発で助けてあげないとね。」
「そうね・・・。」
「彼女は知っているの?千早が自分のクローンを孕んでいること。」
「分からないわ。私も・・・俊を通じて子宮に入れられただけで、直接は会ったこともないから。」
「そう・・・。」
「いつか、必ず会ってみるわ。そして誓うのよ。『春香』を絶対幸せにするって。」
横目に見える千早の目には、活力がみなぎっているように見えた。
「それがいいわ。」
千早が笑顔を見せた。
千早が言う。
「・・・私、一つだけ気になっていたことがあったの。」
「何かしら?」
「私の初恋の人、加藤君のこと。」
「気になっていたって・・・何を?」
「加藤君は・・・あまりにも俊に似ていた。だから・・・もしかしたら望月財閥の関係者なんじゃないかって。それで私は私費で探偵を雇って、ひそかに調べていたの。加藤家のこと。そうしたら・・・いろいろとわかってきた。望月家のことがね。」
どういうことだ。どうして加藤家を調べると、望月家のことが分かるというのだ?
「二つの家は・・・関係があったっていうの?」
「ええ。望月剛三郎の妻、望月凛子は、俊を産んでまもなく、望月家から出奔した。行方不明者として捜索されていたけど、彼女は見つからなかったの。そして今も見つかっていないことになっている。」
「『ことになっている』ってことは、生きているのね。彼女は。」
「そう。実は彼女は生きていた。そして富山県に流れ着いた凛子さんは、名前も身分も変えて、彼女を助けてくれた加藤君のお父さんと結婚して、加藤君を産んだの。どうりで似ているはずよ。だって同じ母親から生まれた子供なんですもの。」
なるほど、そういうことだったのか。
「私は俊の目を盗んで密かに凛子さんに会って話を聞いてきたの。私は、中学二年生の時を最後に、もう加藤君の姿は見なかったから、彼がどうなっているのか知りたかったし、凛子さんは凛子さんで、自分がいなくなった後の望月家のことを知りたがっていたからね。中々、話は盛り上がったわ。」
「凛子さんは・・・どんな様子だった?」
千早は笑みをこぼした。
「幸せそうだったわ・・・羨ましいほどにね。元々凛子さんは、剛三郎からDVを受けていた。だから、彼女は俊を産んだ後すぐに逃げた。秀幸が暴力的な性格になってしまったのは、きっと剛三郎のDVを間近で見てきたからだって、彼女は言っていたわ。今、凛子さんは加藤君の父と二人で仲良く暮らしている。」
「加藤君の方はどうなの?」
「彼は・・・結婚したわ。小学校から付き合っていた子とね。彼は今、地元の企業に勤めている普通の人。優しくて、かっこよくて・・・普通の人。」
「へえー。」
千早の目に涙が浮かんでいる。
「私・・・凛子さんに嘘ついちゃった。『俊はどんな子に育ったんですか?』そう聞かれて私・・・『とても穏やかで優しい人。彼と結婚出来て本当に幸せ』なんて・・・心にもないこと口走ってしまった。あの時の私の目は・・・多分死んでたわ。凛子さんは、それを聞いてすごく安心したみたいで・・・すっごく笑顔だった・・・。でも本当は彼は・・・俊は・・・天使の顔をした『悪魔』なのよ・・・。」
「千早・・・。」
顔を歪ませながら、ひねりだすように声を振り絞る千早の姿は、とても痛々しい。私が聞こうともしなかった心の声が、ジンジンと耳に響いてくる。
「私思うんだ。俊も・・・望月家なんかに生まれず、加藤家みたいな普通の家に生まれていたら、きっと・・・もっと穏やかでいられたと思うんだ・・・。そして、もっと・・・心根の優しい人で・・・いられたと思うんだ・・・。」
その声は震えていて、とめどなく涙があふれている。千早が泣いているのは、悲しいからではない。きっと悔しいからなのだろう。そして優しくも、惜しんでいるのだ。財閥のトップという地位のせいで狂ってしまった望月俊という人を。
「俊は・・・良くも悪くも普通の人だったのよ。だから、財閥という麻薬に勝てなかった。周りの人間が無条件に寄ってきてチヤホヤするっていう、『権力』という麻薬に勝てなかった。きっと彼は・・・私と春香、どちらか選べなかったんじゃない。・・・どちらでも良かったのよ。財閥さえ引き継ぐことができるならば。だってそうでしょ?もし俊が本当に私と春香のことを幸せにしようと思ったら、きっと本当に財閥を壊していたと思う。望月剛三郎は、俊が本当に望月財閥の秘密研究を表沙汰にして、財閥を危機に陥れることはないと見抜いていた。彼にとって一番大事なのは、自分の財閥での地位だって見抜かれていたの。だから、俊は剛三郎に負けてしまったのよ。俊は本当に、私たちのことなんてどうでもよかった!彼にとっては財閥が全てだった!私たちなんておまけに過ぎなかった!」
「千早・・・。」
私は千早の肩を抱き寄せた。苦しみに苦しみ抜いた彼女から発せられる言葉からは、言いようもないほどの重みが感じられた。
千早が部屋の中の時計を一瞥する。私もそれに合わせて時計を見た。
「もう本当に私も帰らないと。」
「私も明日は授業だから、もう羽田に向かわないとね。」
「引き留めちゃってごめんね。」
「いいのよ。千早の為だもの。」
私は千早の顔を見た。千早も私の方を見た。彼女からこぼれる笑みには、色が戻っている。在りし日に見た、元気な千早そのものだった。
「じゃあ、また来週ね。」
「ええ。披露宴の打ち合わせの電話、明日するから。何時くらいがいい?」
「じゃあ、9時で。私も結構忙しいからね。」
「うん、分かった。じゃあ、下まで送っていくわ。」
「いいわよ。ここで着替えもするんでしょ。」
「ええー。」
千早は、しゅんと顔をしぼませる。何だかそんなに寂しそうな顔をされるとなぁ・・・。
「じゃあ、下までね。」
「うん!」
満面の笑みだ。本当に子供みたいでかわいらしい。
私たちは手を取り合って、エレベーターホールへと向かった。ボタンを押し、エレベーターの到着を待っている。
「そうだ、思い出した。」
「何よお母さん。」
「昨日ね、水瀬さんに言われたのよ。今度4人でカラオケに行こうって。」
「4人?」
「私と千早と、水瀬さんと星井さん。」
千早が驚いている。
「もう仲良くなったの?」
「すっかり意気投合よ。今度2人の連絡先教えてね。」
「ふふっ、お母さん良いキャラしているからね。」
むむっ、何だか褒められているのかけなされているのか。
「もちろん、いい意味よ。」
千早がケラケラ笑っている。
「あー、それ絶対バカにしているでしょ。」
「してないしてない。」
と言いつつ、千早は笑っていた。失礼しちゃう。
その時ちょうど、エレベーターがやってきた。私たちはそれに乗り込んだ。中には誰もいない。
千早が語りかけてくる。
「お母さん、私急いでないから。ハワイに行っちゃったら、もう美希や伊織にも会えなくなっちゃうし。」
「でも、春香が物心つく前に移さないと、悪い影響が出るわ。」
「そうね・・・。」
二人に会えなくなる、そう聞いて千早は少し寂しそうだった。
「電話で声は聴けるわ。最近はスカイプって便利なものもあるし。いつか彼女たちも家庭を持つようになったら、遊んでなんかいられないだろうしね。千早だって、家庭を持つんだからね。」
「・・・そうね。」
そういえば、お腹の子がどれくらいなのかまだ聞いていなかった。
「何か月なの?お腹の子は?まだお腹目立ってないけど。」
「2か月くらいよ。」
「まだ油断はできないわね。」
「ちゃんと養生するわ。」
「体だけじゃなくて、心もね。」
「・・・分かってる。」
エレベーターが1階に到着した。エレベーターから降りて、エントランスの方へ。ウェディングドレス姿の彼女に衆人は驚いているようだ。
入り口付近で立ち止まった。千早が切り出す。
「じゃあね、お母さん。また来週。」
「ええ、また来週。」
千早が何かを言いたげに、私を見つめている。その目は、どことなく潤んでいるように見えた。
「・・・私待ってるから。お母さんが迎えに来てくれるのを・・・。」
「ええ。期待して待っててね。これがあれば、何とかなるから。」
そう言って、私は、さっき千早から渡されたボイスレコーダーを入れたカバンを軽く叩いた。
「そうそう、ちゃんと縁組の手続きも進めておくから。」
千早はにっこりと心の底から笑っていた。春香もそうだが、この子の笑顔も最高に素晴らしく美しい。私は言った。
「『掟』なんて関係ない。『監獄』なんてぶっ潰してやるんだから!」
千早は嬉しそうに笑っていた。
私は踵を返して、エントランスの自動ドアから外に出た。
外に出ると、また焼けるような暑さだ。夕焼けの太陽が、酷くまばゆい。だけどそれは、私たちの前途を照らすかのように優しくも感じられた。
完