第6節 不器用な愛
私は家で料理を作るようになった。お母さんがそうしろと命じたのだ。私としても、料理を作ることは苦痛ではなかったし、お母さんのために何かしてあげたいと思っていたから、料理を作るようになったことは、私にとっては案外うれしいことだった。
それだけではなく、私はそれ以外の掃除洗濯といった家事もこなすようになった。私の体が成長していくにつれて、できる家事も増えていったからだ。そう命じたのもお母さんだった。
私はお母さんに褒めてもらいたかった。いつもブスッとした顔しかせず、笑顔を見せないお母さんに「よくやってるわね、偉いね。」そう一言褒めてくれればそれで私は満足だった。だけど、それすらも得ることはできなかった。
穏やかだが忙しい日々がそれから2年間続いた。家で家事をするようになってから、図書館を訪れる機会はますます減っていた。
小学5年生になってしばらくたった頃になって、私は図書館に「トクナガ先生」がいなくなっていることに気付いた。タマキさんに聞いたところ、「トクナガ先生」は、別の図書館に異動になったのだという。その場所を教えてほしいとせがんでも、タマキさんは「ここから遠くの図書館になってしまったので会いに行けない。」といい、それでも場所を知りたいというのだが、「どこに異動になったか知らない。」というのだ。
私は大好きだった「トクナガ先生」が、私に一言も言わずに図書館を去ってしまったのがすごくショックだった。
そして私は次第に、タマキさんが言っていることがどうも嘘くさいと感じるようになったのである。「トクナガ先生」が、私はともかく、タマキさんにも連絡先を告げずに去ってしまうなんてありえないと思ったのだ。「トクナガ先生」は、本当はどこか別の場所に行ってしまって、それを隠しているのではないか。何か隠さなければならない理由があるのではないか。
他の図書館の職員なら、彼女が本当はどこに行ってしまったのか知っているかもしれない。でも聞くことが怖かった。
「トクナガ先生」は、私と離れたいと思っていたのかもしれない。本当はタマキさんは、「トクナガ先生」の居場所を知っていて、私には敢えて居場所を黙っているのかもしれない。あるいは、単に私やタマキさんに連絡先を伝え忘れただけかも。はたまた、もっと大変なことに巻き込まれているのかもしれない。
色々と考えたのだが、どうも私には、「トクナガ先生」が敢えて私に連絡先を教えなかったような気がしてならないのだ。要するに行先を隠している。何かのっぴきならない事情がある。そう考えると、それを聞き出すのが、たまらなく怖かった。
ある夏の日のことであった。
私の家にはクーラーがない。だから、冷房が効いている図書館に駆け込むことが必然的に多くなっていた。この日もそうやって、涼しい図書館の中で夏休みの宿題をやりつつ、静かに過ごしていた。
算数のドリルがはかどっていた私は、少し息抜きに図書館の本を読もうと座席から立ち上がった。そして何気なく館内をウロウロとしていた。
その時、視界の先にタマキさんが別の女性の図書館員と話しているのが見えた。私は彼女に挨拶をしようとして近づいていくと、別に盗み聞ぎするつもりはなかったのだが、不意にタマキさんと別の女性の図書館員の話声が聞こえたのだ。
「それで、徳永さんの容体はどうなの?」
「ちょっと・・・、まずいみたいです。このままだと秋を越せるかどうか、わからないらしい。」
「そんな・・・まだ若いのに・・・結婚も子供だってまだなのに、乳がんなんて・・・。」
乳がん!?初めて聞いた話だった。
「かなり進行が速いみたいで、お医者さんも手術をあきらめたみたいです。だから、もう後は自然に任せるしかないみたいで・・・。」
「そう・・・。徳永さんと一番親しかったあなたには辛い話ね・・・。」
「ええ・・・。」
そういって二人は別れた。私はショックで立ち尽くしていた。「トクナガ先生」が、乳がんで、しかも秋を越せるかどうか分からないなんて・・・。何も考えられなかった。頭から血が引いていくのがわかる。
膝が震え、そして私はその場にドスンと座り込んでしまった。
「は・・春香ちゃん!?」
物音に気付いたタマキさんが血相を変えて近づいてくる。
「春香ちゃん!?大丈夫!?」
タマキさんが、膝を屈して私と同じ目線で聞いてきた。
「タマキさん・・・今の話・・・。」
「聞いてたのね・・・。分かったわ。ちょっとこっちに来て。立てる?」
私はタマキさんに脇を掴まれながらゆっくりと立ち上がった。そしてそのまま、私たちは、図書館外の談話スペースに移った。
談話スペースは屋外になっていて、いくつかの丸テーブルと椅子がある。外が暑いせいなのだろうか、偶然にも、今このスペースには人がいなかった。
「さ、座って。」
私はタマキさんに促されて、そのうちの一つの丸テーブルに備え付けられている背のない丸椅子に座った。続いてタマキさんも座る。
「どこから聞いてたの?」
「ごめんなさい。盗み聞ぎするつもりはなかったんです。たまたまタマキさんの姿を見つけて、それで声を掛けようと思ったら、話し声が聞こえてきて・・・。」
「全部聞いちゃったわけ?」
「たぶん・・・全部なんだと思います。」
「そっか・・・。」
二人は無言になってしまう。私はうつむいていたのだが、少し顔をあげてみると、タマキさんが苦痛にゆがんだ顔をして、ほおづえをつきながら右手で顔を覆い、何かを考えているようだった。
「ねえ、春香ちゃん。」
不意にタマキさんが話しかける。
「はい。」
「アケミは・・・、もうさっきの話で分かっていると思うけど、乳がんなの。悪性腫瘍。体のあちこちにがんが転移してて、もう助からない。」
「はい・・・。」
「分かったのは、今年の春先のことだった。そのままアケミは入院した。」
「はい・・・。」
「アケミは・・・春香ちゃんにはずっと黙っているつもりだった。私には、『自分はよその図書館に異動になった』って嘘を言うようにお願いされたの。」」
「なんでそんなこと・・・。」
タマキさんの目から涙があふれているのが、見て取れていた。
「あの子はね・・・自分のことを忘れてほしいって思っていたの。」
「そんな・・・。私のこと好きじゃなかったの!?」
「落ち着いて、春香ちゃん。逆だよ逆。アケミはあなたのことが大好きだった。だから、敢えて何も言わずひっそりと死のうとしているんじゃない。」
頭が混乱している。どうしてかわからない。どうして、私のことを好きなら、自分の病気のことを教えず、黙って死のうとしているの・・・。しかも、「トクナガ先生」のことを忘れてほしいなんて・・・意味わかんないよ。
「どうしてなんですか、どうして!?」
鈍く、痛みを堪えたような重い声で、タマキさんは続けた。
「私も春香ちゃんと同じことを考えてた。アケミ・・・あの子は、春香ちゃんのことを、妹のように思っていたのよ。もう助からないってわかっているんなら、尚更、この短い時間を大切にしないといけないんじゃないか、春香ちゃんと一緒にいてあげるべきなんじゃないかって。でもそういったらね、あの子こういったのよ。『だから私のことなんて、もう忘れてほしい』って。『私のことを覚えている限り、私が死んでしまったという悲しみからは逃れられない。だったら、私の存在なんて最初からなければいい。そうすれば、悲しむ必要もない』って。」
「そんな・・・思い出を・・・全部なかったことにしろって言うの・・・。」
「それが・・・不器用な、あの子なりのやさしさなんだと思う。」
気づけば私は叫んでいた。
「そんなの嫌だよ!なによ、自分勝手に!人の気持ちも知らないで!私は、「トクナガ先生」に友達の作り方を教えてもらったんだよ!この髪飾りだって、「トクナガ先生」にもらったの!私の大切な宝物、大切な思い出、それを無かったことにするなんてありえないよ!何考えてるの!?」
タマキさんは、うつむいてしまった。声を殺して泣いているのだ。
「春香ちゃん。君の言うことはもっともだと思う。私だって、こんなお別れの仕方、絶対反対だもの。」
二人の間に重く苦しい時の間が流れていた。外はピーカンに照り付けるような暑さで、アスファルトが蜃気楼を起こしている。そんな灼熱の夏の日なのに、私たちに流れている風は、ひどく冷たく感じられた。悪寒が走る。
「タマキさん。場所を・・・「トクナガ先生」が入院している場所を教えてくれませんか。」
「それは・・・。」
「知っているんでしょ?先生が入院している場所。」
「・・・ダメ。教えられない。」
「どうして!?」
「あの子の意思に反するからよ。あの子は、春香ちゃんの為を思って、敢えて一人でひっそり死のうとしているの。アケミに、春香ちゃんを引き合わせてしまったら、きっと彼女は動揺すると思う。もしかしたら、春香ちゃんを追い返してしまうかもしれない。あなただってきっと後悔する。」
「でも、それって私の想いに反してますよね!?私のためになってませんよ!別にいい!「トクナガ先生」に会えなくても、追い返されても。でも・・・このまま「トクナガ先生」が苦しんでいるのに、全部聞かなかったことにして、全部忘れて平然と過ごすなんて絶対ありえないよ!?それこそ・・・「トクナガ先生」のことが許せなくなっちゃう・・・。恨んじゃうかもしれない・・・。もっと忘れられなくなる・・・。」
「春香ちゃん・・・。」
二人の間にまたただひたすらに重いだけの時間が流れた。
そして、しばらくして、タマキさんが決断した。
「明日、午前9時にここにきて頂戴。病院まで車で一緒に連れて行ってあげる。予定、大丈夫?」
「は・・・はい!」
「じゃあ、決まり。今日は、もう帰りなさい。頭を整理するのよ。何が起こったのか、アケミと何を話すのか。アケミに伝えなくちゃいけないこと。そういうことをね。そして、覚悟しておいてね。もう・・・あの頃のアケミはいない。病院にいるのは、もっとやせ細って、力なくて・・・そういうアケミ・・・もう・・・。」
顔を両手で覆い、鼻をすすっている。タマキさんが何かを言い含めていた。その言葉が、私は気になっていた。
翌日、私は午前8時50分に図書館前に到着していた。やがて、アケミさんが図書館前にやってきた。
「おはよう、春香ちゃん。」
タマキさんは、黒のパンプスにカーキ色のボトム、そして黒色のノースリーブトップスに大き目のサングラスといういで立ちだった。
「タマキさん・・・かっこいいです。」
「私服はいつもこんな感じだけどね。さ、行くよ。」
そのまま駐車場に止めてあるタマキさんの車に乗り込み、車を走らせた。30分くらい行ったところに、県の中でもそれなりに大きい総合病院にたどり着いた。
そのままタマキさんに連れられて、「トクナガ先生」が入っている病室に直行した。「702号室」それが彼女が入っている部屋だった。
コンコンとタマキさんがノックする。
「はい。」
中からは、つい数か月聞かなくなっていた懐かしい声がした。
「私、タマキよ。入っていい?」
「ええ、いいわよ。」
タマキさんが病室の扉を開けた。私が恐る恐る部屋に入ると・・・そこには、かつて見たとき時は比べ物にならないほど、ひどく弱った「トクナガ先生」の姿があった。頭はシャンプーハットのようなものをかぶっている。長く美しかった彼女の黒髪は、抗がん剤の影響で全て抜け落ちてしまった。そして、食事をあまりとっていないのか、ただでさえ華奢であった彼女の体は、更にやせ細り、表情からも生気が消えかかっていた。
「!」
「トクナガ先生」は私の表情を見るなり、あからさまに驚いていた。そして咄嗟に、何かの便せんを布団の中に隠した。私には、それが何なのか、一瞬見ただけで分かった。少しだけ表面の模様が見えたのだが、あの花側の便せんは・・・私が「トクナガ先生」に送ったラブレター。
「春香・・・ちゃん・・・、どうしてここに・・・タマキ・・・あなた話したのね!」
「トクナガ先生」はタマキさんを責めようとしていた。
「違うんです!私がいけないの・・・。タマキさんの話を盗み聞ぎしてしまった。そして、ここに連れてくるようお願いしたんです!タマキさんは悪くない!」
「春香ちゃん・・・。」
私は「トクナガ先生」に近づき、ベッドの横の丸椅子に腰を掛けた。
「先生・・・。」
「トクナガ先生」の手を握った。もう先生の腕はほとんど骨と皮だけになってしまっている。それだけ壮絶な治療なのだということを伺わせた。
「春香ちゃん・・・ごめんなさい。ずっとあなたに黙ってた。」
私は先生を責めるように言い放った。
「本当ですよ!このまま何も言わずに、お別れしようとするなんて、あんまりです!」
「ごめん・・・。」
謝る先生の言葉には、もうかつての力強さはない。
「じゃあ、私はちょっと飲み物を買ってくるから。」
そういって、タマキさんは病室を出て行った。二人きりで話す時間をくれたのだろう。
「ねえ、先生。」
「・・何?」
「体の・・・体の具合は・・・。」
「・・・よくないわ。」
「どこか、痛みます?」
「そうね。今は鎮痛剤のおかげで、何とかなってるけど、時々、ひどく痛くなる時があるわ。」
「そう・・・ですか。」
なに聞いているんだろうか、私。昨日、タマキさんに言われて、頑張って頭の整理をして、何を聞こうかと必死で考えた。だけど、何も思いつかなかった。なんて声をかけていいのかわからなかった。
とりあえず聞いてみたいこと、それは、彼女の口から、今後のこと・・・病気が治る見込みが本当にないのか、聞いてみたかった。
「ねえ、先生。」
「・・何?」
「本当に、治らないんですか?」
一呼吸おいてから「トクナガ先生」が答える。
「・・ええ。」
「そうですか・・・。」
先生の顔をじっと見つめていた。
「何?私の顔に何かついてる?」
「いえ、そういうわけじゃないです。」
「そう。」
そういうと、私から目を背けるように窓の方を見つめてしまった。どうしよう、何を聞いていいのかわからない。自分が何を話したいのかもわからない。仕方なく、私も窓の外を見つめるしかなかった。
「今、何か本読んでます?」
頭をひねって考えて、ようやくたどり着いたのがその質問だった。
「えっ?」
「本、読んでないんですか?」
「そうね・・・読んでないわね。そんな元気もない・・・。」
「そうですか・・・。」
しばらくして、「トクナガ先生」が言う。
「あっ、でもあれは読んだかな・・・。『風と共に去りぬ』」
「へえー、どんな本なんですか?」
「一言でいうのは、難しいけど、・・・悲しい恋の話よ。」
「ふーん。」
「春香ちゃんには、まだ早いと思うな。」
「そう・・ですか?」
「・・・ええ。」
そういってまた会話が止まってしまった。本当に別人のようだった。以前の「トクナガ先生」だったら、こんな時気の利いた話の一つでもしてくれるはずなのに。今は、押し黙ってしまっている。
「さっきの本の話に戻るけどね、私、『風と共に去りぬ』に出てくるスカーレットに憧れていたの。」
先生の憧れの女性か・・・。
「どんな人なんですか。スカーレットって。」
「・・・とても強い女性よ。舞台は南北戦争の頃の混沌としたアメリカなんだけど、彼女はその戦争に巻き込まれて、辛い思いをしていくの。だけど彼女は、どんな荒波にも負けず、健気に生きていく。私、そういう彼女の強い心にすごく憧れていたの。ないものねだりなのよね、私・・・全然心強くないから。」
「そんなこと・・・ないと思います。」
「いや・・・弱い。弱いから私、春香ちゃんとこんな別れ方しかできないんだよ。」
私に黙ってこの世を去る。確かに・・・すごく身勝手だ。はっきり言って、私は怒っている。だけど、それは先生の気持ちが弱いからなんじゃない。私に辛い思いを感じてほしくないという「親心」なのだ。でも・・・。
「私・・・忘れたくない。」
「・・・・・。」
今日は自分の正直な気持ちを言おう。気を利かせるとか、そんな悠長なことはやってられない。
「先生が、私に自分の病気のことを知らせず、『遠くの図書館に異動になった』なんて嘘ついたのは、私に先生のことを忘れさせようとしたからなんですよね。」
「・・・そうよ。」
「忘れませんから、私。一生。」
先生はずっと私に目を合わせず窓の外を見つめている。
「忘れられる訳・・・ないじゃないですか。先生は、私の・・・恩人なんですよ。私、先生がいなかったら、今もずっと独りぼっちだった。父親がいないってことに悩み続けて、深みにはまって、抜け出せなかったと思う。それを助けてくれたのは・・・「トクナガ先生」だったんですよ。どうして忘れろなんて酷いこと言うんですか。」
「・・・・・。」
先生は無言を貫いている。
「先生は・・・本当は・・・私のこと忘れたくないんですよね。だから、私が書いた手紙をずっと大切に持っていてくれている。そしてこうやって、読み返してくれている。そうなんですよね?」
「・・・・・。」
先生は黙して語ろうとしない。
あのラブレターの内容、書いた私が忘れるはずがない。あの時私は・・・本当の気持ちを手紙に認めたのだ。こう感じている。そしてこうあってほしいという、絶対に叶わない願いを。
「私・・・ずっと先生のことが好きでした。私にとって、先生は・・・あなたは・・・お母さんだった・・・。」
「!」
私が書いた手紙の一節だ。それを聞いて、「トクナガ先生」の表情が変わったのが分かった。
「家に一緒にいても、本当のお母さんは、何も話してくれない。一緒にテレビを見ているのに、テレビのことすら何も反応してくれない。」
「・・・だめ。」
先生が小さくつぶやく。
「今日学校でこんな楽しいことがあったんだよ、とか、今日学校の給食は私が好きなカレーライスだった、とか、算数のここがわからないんだけど、とか、この間図書館で借りたこんな本が面白かった、とか、今度食べたい料理はない?私が作ってあげるから、とか、何話してもほとんど反応が返ってこなかった。お母さんは・・・私のことなんて、興味ないの・・・。」
「・・・それ以上は・・いけない。」
私は制止を無視する。
「話したくなった、そんな時は、ここに寄りたくなった。「トクナガ先生」なら、何を話しても楽しく聞いてくれる。「トクナガ先生」の楽しい話も聞ける。私、心の中で思ったんです。この人が・・・私のお母さんだったらなって・・・。」
「やめて!」
病室に金切り声がこだました。「トクナガ先生」は目を思いっきり閉じて、両耳に手をおしあてていた。
「「トクナガ先生」!・・・先生は・・・ずっと私のことを気にかけてくれていたんですよね。だから、今もそうやって、私が送った手紙を大切にとっておいてくれて、そしてこうやって読み返してくれているんですよね。」
そう言って私は「トクナガ先生」の布団を強引にこじ開けた。すると、中からは、絶対に忘れはずのない、少し茶色掛かった便箋が出てきた。咄嗟に先生は布団を閉じようとする。
「何するのよ!?」
「どうして隠すんですか!私、書きましたよね!?私は、ずっと先生の友達でいたい!先生の大切な人でいたい、だから先生も私のことをずっと大切にしてほしいって!なのにどうして、私のことを忘れようとするんですか!?どうしてそんなひどいことをしようとするんですか!!」
「トクナガ先生」はやがて堪忍したのか、抵抗するのを諦めたようだった。私は「トクナガ先生」の布団をこじ開けて、便箋を取り出すと、ベッドの机のところで広げた。
2年ぶりに見た自作のラブレターには、何かぽつぽつと水滴をこぼしたような跡があった。
「春香ちゃん・・・私は・・・あなたの母親なんかじゃない。そしてあなたの母親にもなれない。あなたにとって、私は何でもない人なの。ただの図書館司書と利用者・・・それだけ・・・よ。」
「違うよ!違う違う違う違う!違う!!私にとって、「トクナガ先生」は大切な人!私の人生になくちゃいけない人なの!」
「たとえ昔は、私が必要だったとしても・・・あなたには、もう私は必要ない。いなくても・・・十分強い子よ。」
「私は、強くなんかない!先生がいないと・・・ダメになっちゃう。」
先生は今度、私の手を握り返した。
「いい?春香ちゃん・・・私が春香ちゃんを助けたのは・・・ただの気まぐれだった。」
「きま・・ぐれ・・?」
思いもよらないような言葉に、私は耳を疑った。
「ええ・・・そう・・・。あなたに声をかけたあの日・・・私は悲しい小説を読んでいたの。それで感傷的になって・・・勝手な思い込みをした。いつもうちに来ているあの子は、もしかしたら、かわいそうな子なんじゃないかって。友達ができなくて、困っているんじゃないかって。だから・・・だったら、私が友達になってあげよう・・・そんな気まぐれ・・・。」
「良かったんですよ・・・。そんな気まぐれでも・・・。こうやって、現に私は救われた。」
先生は私の手を放し、また窓の方を向いてしまった。
「面倒・・・だったの。」
「面倒?」
「失敗したなって・・・思った。この子に信頼されてしまった。これで・・・始終私にまとわりついてくる・・・。」
「ウソはやめてよ・・・私に嫌われたいからって、そんな嘘!」
「本当よ・・・。タマキは大切な人だった。だから、ここの場所を教えたの。でも、あなたには教えなかった。その理由は一つしかない。あなたは・・・私にとって、どうでもいい人だったの・・・。」
「嘘だよ!じゃあどうして先生は、そんな『どうでもいい人』が送ったラブレターをずっと取っておいているというんですか。どうしてそんな『どうでもいい人』が送ったラブレターを何度も何度も読み返して、涙を流してくれるんですか!?」
「トクナガ先生」は俯いた。そして少し何かを考えた内に、こう言い放った。
「私・・・ずっと考えていたの。どうやってこの手紙を捨てようかって。」
「捨てる・・・?」
予想だにしていない言葉に、心が動揺する。
「こんなものがあるから、私も・・・そしてあなたも、心を狂わされてしまうの。私はどうやっても、あなたのお母さんになれない。そしてあなたの大切な人にもなれない。そしてあなたもそう。あなたがどんなに頑張ったって、私の大切な人にはなれないのよ。だったらこんなラブレター・・・受け取らなければよかった。受け取らなかったら・・・今こんなにこの手紙で苦しむことなんて無かったっていうのに。」
その顔は苦痛で歪んでいるように見える。「トクナガ先生」が悩んでいるというのは、まぎれもない事実であるように思われた。
「だから、私こうするわ。」
そう言うと「トクナガ先生」は、机の上の便せんを手に取り、真一文字に裂き始めたのだ。
「何するのよ!」
私は彼女に食らいついて止めようとするが、既に四方八方を破かれ、原形をとどめなくなってしまっていた。
「これで・・・もう、思い出はなくなったわ。」
「そんな・・・。」
私は思わずその場に膝から崩れ落ちてしまった。ベッドの上の方から声がする。姿は見えないが、確かに間違いなく・・・「トクナガ先生」の声だ。
「お互い・・・忘れましょう。お互いのこと。私は春香ちゃんに出会わなかったし、春香ちゃんも私に出会わなかった。最初から、手紙なんて無かったんだよ。私は、春香ちゃんのことどうとも思っていないし、春香ちゃんも私のことはどうでもいいと思う。それでいいでしょ?」
私は強く首を横に振った。
「そんな・・・。そんなの・・・そんな言葉聞きたくない・・・たとえ嘘だと分かっていたとしても・・・嫌だよ、そんな言葉・・・。」
吐き捨てるような冷たい彼女の言葉が、胸に突き刺さってくる。分かっているのだ。これは「優しい嘘」、「トクナガ先生」のことを忘れさせるために、私についている、思いやりの嘘、だけど・・・わかっているのに・・・胸が苦しい!
「私はスカーレットになれなかった。だけど・・・あなたなら、きっと彼女みたいに強く生きていける。」
私はそんな・・・強い女にはなれない。無理だよ・・・そんなの・・・。
「帰って。もう二度と来ないで。あなたの顔なんか・・・もう二度と見たくない。」
窓の方を向いていて、「トクナガ先生」の表情は分からない。だけど、とても冷たい顔をしているということは、理解できた。
苦しかった。・・・悲しかった。
呆然と立ちあがると、気づけば私は、病室を駆け出していた。そして扉の取っ手を掴み、思い切り開け放していた。病室から廊下に出ると、タマキさんが病室の横で、部屋番号の書かれたプレートによりかかりながら、頭を垂れていた。サングラスをしていてわからないが、多分泣いているのだと思う。
手には何も持っていなかった。
「最初から、盗み聞ぎするつもりだったんですね。」
「春香ちゃん・・・私は、フェアな女じゃないから。」
「私・・・帰ります。」
「・・・分かった。」
病室の扉を閉め、無言でエレベーターを降り、二人でそのまま車に乗り込んだ。車が大きな幹線道路に入っていく。
冷房が入っていて涼しいはずの車内は、どこか息苦しかった。不意にタマキさんが口を開く。
「あの言葉、彼女の言葉だと思う?」
「あの言葉って・・・どの言葉・・・ですか?」
ふう、とタマキさんがため息をつく。
「私に言わせる気?」
「・・・・。」
もう二度と会いたくない、その件だろう。
「『もう二度と会いたくない』ですよね。」
「うん・・・。それが、彼女の真意だと思う?」
私は明確に答えた。
「きっと、『優しい嘘』だったのだと思います。というか、そうであってほしい。」
「半分は、そう。」
「半分?」
どういうことだ?まさか本当に、もう・・・会いたくないというの・・・?
「そう。半分。どうしてか、分かる?」
私は必死に頭をひねってみた。私に会いたくない理由・・・はっ。それって・・・
「私に会いたくなってしまうからですか?」
「ご名答。」
「・・・・・ばか。」
「そう、あの子は正真正銘の馬鹿よ。会いたければ会えばいい。求めたいならば、求めればいい。それなのに、あの子は『春香ちゃんに会ってしまったら、ずっと一緒にいたくなってしまうから。あの子を離したくなくなるから。あの子も、私から離れられなくなってしまうから』そう言って、春香ちゃんに会うのを拒んでいたの。」
タマキさんが続ける。
「後悔しているといったあの件も、実は本当なの。」
「えっ・・・。」
「春香ちゃんがどんな家庭環境なのか、どんな母親の下で、どんな生活をしているのか、なんとなく分かっていた。そしてそれが幸せでないだろうこともわかっていた。だけど・・・だからといって、アケミが春香ちゃんのために何かをしてあげられるわけじゃない。」
「そんなことないです!話し相手になってくれるだけでも・・・。」
「アケミは、あなたのお母さんにはなれない。」
「それは・・・。」
「どんなに頑張っても、アケミはあなたと赤の他人でしかない。あの子はすごく頑張っていたさ。春香ちゃんの境遇を知って、自分ができることは何なのか必死で考えて、常に明るく接して、春香ちゃんの姉の様に・・・母の様にふるまった。だけど・・・たとえ、あの子が春香ちゃんのことを妹の様に・・・娘のように慕っていたとしても、どうしようもないことなの。」
やっぱり、「トクナガ先生」は私のことを・・・。
「だからって・・・。」
「だからこそ・・・よ。あの子は本気で後悔していた。春香ちゃんを好きになってしまったせいで、何もしてあげられないし、どうしようもないのに、中途半端に春香ちゃんのことを好きになってしまったせいで、病気になってからね、あの子自身が苦しんだの。それこそ、がんの痛み以上にね。」
私には返す言葉がなかった。
「だからお願い。あの子は、ああすることでしか、春香ちゃんを愛することができなかった。春香ちゃんも、それを受け入れてほしいの。」
「そんなの・・・身勝手です・・・。」
「分かってる・・・。でも、それがあの子にとって、一番幸せなの。お願い。アケミの最期のお願い、聞いてちょうだい!」
私はのどかな田舎の幹線道路のただ中を見つめていた。どこまでも続くように見える地平線の向こうを見つめても、この問いに対する答えなど見つかるはずもなかった。
「分かりました。私・・・「トクナガ先生」のこと、忘れます。」
「・・・ありがとう。」
「だけど・・・。」
そういって赤いリボンの髪飾りを触った。
「これだけは、身につけさせてください。「トクナガ先生」という人が、確かに私の歴史の中にいたという証拠として、ずっと大切にしたいんです。」
「・・・それは、あなたが決めることよ。私は何も口出ししないわ。」
「・・・分かりました。」
そのまま車は、どこまでも走っていくようであった。