第7節 初めての誕生日パーティー
あれから私は、「トクナガ先生」のことを忘れようと試みた。もう二度と会うことはできない。会ってはならない。そして、もうじき本当に会えない人になる。だから、もう忘れるしかないんだ、そう自分に言い聞かせた。
それから2か月後の9月中旬、「トクナガ先生」は亡くなった。最期は安らかに眠るように逝ったのだという。私はそのことをタマキさんから聞いた。
やがて私もあの図書館に行かなくなった。行けば、「トクナガ先生」のことを思い出してしまうからだ。
そして翌年の4月、「トクナガ先生」と私をつなぐ架け橋であったタマキさんも、本当に図書館を異動になった。タマキさんは、図書館を訪れなくなった私の身を案じて、学校経由で新しい異動先の図書館のことを教えてくれたのだが、私はその内容が書かれたメモを、その日のうちにごみ箱に捨ててしまった。もう二度とタマキさんにも会うことはないだろう。
私は次第にふさぎ込みがちになった。心にぽっかりと穴が開いてしまったようなきがするのだ。友達と遊ぶ気力も失われ、私は次第に孤立していった。
小学校を卒業し、中学校に入ると、いよいよ友達ができなかった。私は再び本を読み漁る日を過ごした。「あの図書館」にはもう行っていない。学校の図書室だ。
しかし、例え違う場所であるとはいえ、本に囲まれた空間の中で本を読むと、どうしても私はあの人のことを思い出してしまう。
私にとって・・・大切な人。私のことを本気で愛し、それゆえに不器用に私と別れた、あの愛しい人。
もう二度と会えないのだ。
私の生きる希望だった人、私に恐れずに人と接することの大切さを教えてくれたあの人。
会いたい。
会えないのならば、私もソッチに行きたい。
そんなことを思い続け、ついに私は自殺未遂をした。
中学1年のある冬の日、私は家にあった風邪薬を飲みほした。衝動的だった。意識は自然と薄らいでいった。もう目覚めることはないだろう、そう思っていたのに、目が覚めるとそこは病院だった。
私は死に損なった。
それから数か月たった、4月3日、私の誕生日の日のことである。
春休みの終盤に差し掛かり、やることのなかった私は、市内にある別の図書館で読書をして時間をつぶしていた。
午後3時過ぎになって、私は家に帰ってきた。母親はパートに出かけているので、この時間に帰ってくることはない。
私はアパートの狭い洗面台の方からバケツと雑巾を取り出すと、バケツに水を汲んで雑巾がけを始めた。母親がパートを終えて帰ってくるのは午後8時過ぎ。それまでに掃除洗濯をすべて終えて、料理を作り終えて待っていなければならない。そうでなければ、お母さんは烈火のごとく怒るのだ。
午後8時過ぎ、アパートの扉がガチャリと開く音がする。お母さんが帰ってきたのだ。
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
私はぼーっとテレビを見ていた。ガサゴソとビニール袋の擦れる音がする。何かと思って音のする方を見ると、お母さんが近所のケーキ屋さんの袋を持っていたのだ。
「ん?何か買ってきたの?」
お母さんは何も言わず、それを食卓のちゃぶ台の上に置く。
「あんた、今日誕生日でしょ?」
確かにそうだ。祝ってもらったことなんて殆どないから、意識などしたこともない。何度か「トクナガ先生」に祝ってもらっただけで、学校も春休み中で、友達から祝福されたことすらないのだ。
「う・・・ん。」
突然のことに、驚きを隠せない。お母さんは、わざわざ私のためにケーキを買ってきてくれたというのだろうか。
お母さんはそのままその場で着替え始めてしまった。
「今、ご飯温めなおすね。」
半信半疑ながらも、とりあえず普段通り、私は冷めてしまったご飯とおかずを電子レンジに放り込み、加熱し始めた。
私はケーキの袋に気を取られながらも、テレビの方に意識を集中させようとしていた。お母さんは、それを冷蔵庫の中にしまったようだ。しばらくして、電子レンジの過熱も終わった。私はご飯とおかずを取り出し、ちゃぶ台へと載せた。
私が大人しく座布団に座っていると、母も着替えが終わったようで、手を台所で洗って、ちゃぶ台の前に座った。
「いただきます。」
「い・・いただきます。」
普段通りの食事だった。ケーキの袋が無造作におかれている以外は。特に会話もなく、二人でテレビを見ながら、ご飯とおかずを突っついている。今日はご飯に、野菜炒め、それから味噌汁に、沢庵だった。
普通だったら、「娘の誕生日だから、祝ってくれた。」そう解釈すればいいだけの話だろう。だけど私には、単純にそう受け取れなかった。これまで誕生日など祝ってくれたこともないこの人が、どうして急に私の誕生日を祝おうと思ったのか。
「お母さん。これ・・・何?」
私は、ケーキが入っていた袋を指さした。
お母さんはぶ然として答える。
「ケーキよ。中見たでしょ?」
「見てない。」
「ケーキよ。ケーキ。」
それだけだった。どうして買ってきたのかと聞こうと思ったが、答えは見えている。私の誕生日だからだ。聞きたかったのはその先なのだ。
でも怖くて聞き出せなかった。私は、お母さんから優しくされたことなんてほとんど記憶にない。だからこそ警戒してしまうのだ。たとえ、単に私のためにケーキを買ってきてくれただけだとしても、その裏には何かがあるのではないだろうか。そんな風に勘ぐってしまうのだ。
「食べないの?」
「あっ、ごめんなさい。」
考えながら食べていると、気づけば箸が止まっていた。私は急いで野菜炒めをかきこむ。お母さんは、その間、何かを話しかけてくれるわけでもなく、ぼーっとテレビを見ていた。
しばらくして、私も夕食を食べ終わった。
既にお母さんが先に食べ終わっていた。私が2人分の食器をまとめ上げ、台所に運んだ。これを洗浄するのも私の仕事だ。
その間にお母さんは冷蔵庫からケーキの箱を取り出していた。ケーキは2人で食べきれるくらいの大きさだった。袋の中を見ていなかったので分からなかったのだが、袋の中にはロウソクが入っていたみたいだったのだ。
お母さんが箱からケーキを取り出し、それに赤いロウソクを1本だけ立てた。
私は台所でお皿とフォークを取り出すと、踵を返し、ワクワクしながら、座布団に座る。お皿を置き終わった後、私に言うのだ。
「年の数は、さすがに刺せないから、1本だけにするね。」
「うん。」
「チャッカマンを取ってくる。」
お母さんがチャッカマンを取りに、台所へと向かう。
私はケーキの方をまじまじと見つめていた。小さいながらも、ホールケーキを食べるのは生まれて初めてだった。白いホイップクリームで上部が覆われ、そこに赤々としておいしそうなイチゴが4個。赤いロウソクはその4つのイチゴの間に建てられていた。
しばらくして、チャッカマンを持ったお母さんが戻ってくる。
「じゃあ、付けるわよ。」
座布団に座ったお母さんが火を点火させる。オレンジ色の明るい炎がとても美しい。
「テレビ消して。」
私はお母さんに言われてテレビを消した。
「ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデーディア春香、ハッピーバースデートゥーユー」
私はあっけにとられていた。そして涙がこみあげてきていた。
「お誕生日おめでとう、春香。・・・なに泣いてるのよ・・・。」
お母さんは少しあきれ顔だった。
「違うの・・・私、うれしくて・・・。」
「早く消さないと、ロウが垂れてきちゃうでしょ。さぁ、早く。」
私は静かにふぅーと吐息を吹きかけた。たった一本だけのロウソクはあっという間に消え去った。
「さぁ、食べましょう。」
お母さんが、ロウソクを取り外すと、フォークを使って不器用にもケーキを2等分し、それを私のお皿に分けてくれた。
私は涙声でいう。
「ありがとう、お母さん。」
「さぁ、食べて。」
私は促されるまま、まずはイチゴの乗った部分を口に運ぶ。イチゴなんて、何か月か前に給食で食べて以来だ。
「甘くておいしー。」
泣きながらほころんだ私の顔に、お母さんも少し表情を崩した。
「ほんと?私も食べてみるわ。」
お母さんもイチゴをほおばっている。
「うん。おいしいわ。」
普段あまり笑うことのないお母さんが、少しだけ笑顔になったような気がした。
今度は私は、ホイップクリームとスポンジの部分にフォークを突っ込んだ。生地はふわふわで、すっぽりとフォークが収まってしまった。
「やわらかーい!」
そのままフォークですくいあげて、口の中へ。ふわふわなクリームとスポンジがかみ合って、口の中で優しい甘みが広がっていく。
「スポンジもおいしーい!」
「そう、良かったわ。買ってきた甲斐があったわ。」
お母さんも少しだけ笑顔を見せていた。
私はその後もいちいちリアクションしながら、ケーキをつついていた。お母さんはそれを横目で涼しげな様子で見守っていた。
「お茶淹れてくるね。」
ケーキを食べて口が甘くなってしまった私は、あったかいお茶を淹れることにした。私は胸が高鳴るのを感じていた。ささやかだが、私は今幸せを感じていたのだ。誕生日を純粋に祝ってもらえることが、こんなにうれしいことなんて思いもしなかった。「トクナガ先生」に祝ってもらった時もうれしかったが、今の喜びは、それとはまた違った喜びだった。
「はい、どうぞ。」
私は急須に入れたお茶を湯呑に注ぎ、お母さんの前に差し出した。
「ちょっと熱いかも。」
「ありがとう。」
そして自分の湯呑にもお茶を淹れた。
「やっぱり熱いわね。」
少し触れただけで、お母さんはそう言って湯呑を置いた。少し冷ましてから飲もうということらしい。
気づけばまた会話が途切れていた。こんな時、私は静寂を打ち破るためにテレビをつけるのだ。しかし、リモコンに手を伸ばそうとしたとき、お母さんが制してきた。
「テレビつけないで。」
いきなりの呼びかけに驚いて、そのまま手をひっこめた。
「どうして?」
「・・・話があるの。」
話か。
「何?」
「・・・・・。」
お母さんは、なんだか言いにくそうにしている。普段なら、何ら躊躇することなく私に話すのに、何だか不思議な様子だった。
「お母さん?」
「・・・春香、いつからか、あんた、髪飾りを付けるようになったのね。」
私は頭の両側のリボンに触れた。
「そうだよ。」
「誰からもらったの?友達?」
「・・・・・。」
なんて答えていいのか分からなかった。お母さんには、「トクナガ先生」のことを話したことは殆どない。存在は知っているかもしれない。私が仲良くしている図書館の人がいる、だけどそれが私にとってどういう人なのか、そんな詳しいことは言ったことはなかった。
「違うんだ。」
「・・・うん、『友達』とはちょっと違うかな。」
「じゃあ、誰?」
言ってしまおうかどうか迷ったけど、私は決心した。
「・・・図書館の人。」
「図書館の人?」
やっぱりお母さんは、私が「図書館の人」と仲良くしているということを覚えていなかったようだ。
「うん。その人から、もらったの。」
「そう・・・。女性?男性?」
「女のひと。多分30歳くらいだと思う。」
生きていたら。
お母さんは湯呑の上の方を握った。そしてお茶を少しだけすすった。まだどうも熱いみたいだ。
「それって、そんなに大事なものなの?お風呂以外の時は、常に付けてるけど。」
「大事だよ。すごく。」
私は即答した。私にとっては、「トクナガ先生」の形見の品だ。大事に決まっている。
「そう・・・。」
お母さんはなんだか悲しそうに相槌を打った。
「どうしたの?お母さん?」
お母さんの様子が少し変だった。少し、涙ぐんでいるのだ。
「いや・・・私、あんたのために何かをしてあげたことって、あったっけなって思って・・・。」
「お母さん・・・。」
初めてだった。お母さんからこんなこと言われるの。
「ごめんね・・・春香。」
お母さんが両手で顔を覆った。
いきなりのことで戸惑いを隠せない。
「本当に、どうしたの、お母さん!?今日のお母さんなんか変だよ!?」
「あんたを叩いている私が、普通だって言いたいんでしょ。」
「そういうことじゃなくて・・・。」
私は、いたたまれなくなって、涙をこらえて鼻をすすっているお母さんの背中をさすっていた。
「ありがとう・・・春香。少し楽になったわ。」
鼻を赤くした母が両手で涙をぬぐい、そして湯呑に手を付けた。私はまたお母さんから離れ、少しぬるんだお茶に手を付けた。
そして、ふとお母さんが尋ねてきたのだ。
「どうして、自殺なんてしようと思ったの?」
私は驚いて、湯呑を落としてしまった。
「あっつーい!」
「あら大変、タオル持ってくる!」
そういって、お母さんは洗面所に向かってしまった。
私が自殺をしようとした理由、それは・・・。
しばらくして、お母さんがタオルを2枚持ってきた。
「ごめんね、お母さん。あとで片付けておくから。」
「うん。」
私はパタパタとお茶がかかってしまったところに、タオルを押しあてた。
お母さんは、付いてないテレビの方をぼーっと見つめていた。そして神経質そうに湯呑に手を付けるのである。ちょうど、お茶を飲み切ったようだ。
「もう一杯いる?」
ある程度服と床についてしまったお茶は取れたと思う。
「うん。もらう。大丈夫、火傷とか?」
「それは大丈夫だと思う。しちゃったとしても、多分大したことないから。」
「そう・・・。」
急須を掴み、またしても並々と注ぎ入れる。さっきよりかは、少し冷めているような様子だった。
私は自分用にもう一杯注ぎ入れようとした。しかし、湯呑の半分も入らなかった。。
「ちょっと継ぎ足してくる。」
立ち上がろうとしたとき、お母さんが立ち上がった。
「私が淹れてくる。」
「いいよ、私がやるから。」
「座ってて。」
お母さんの威迫に負けて、私は座布団に座り込んだ。
湯呑の水面を見つめる。私はさっきのお母さんの問いかけになんて答えようか考えていた。私が自殺をしようとした理由、何て言ったらお母さんを傷つけずに済むのか。そればかりを考えていた。
思えば、私が病院で目を覚ました時、お母さんは特段喜んでいたわけではなかった。あれは安堵していたのだろうか、それとも落胆していたのだろうか。それすらも分からない様子だった。
そしてお母さんは、どうして私がこんなバカなことをしでかしたのか、その理由すら聞こうとはしなかったのだ。退院して、それから私たちはまた何事もないように普通に生活を始めたのである。
もうあのことはお母さんの中で、封印したのだとばかり思っていた。だから私は、非常に動揺しているのだ。どうして今更になって・・・いや、今更だからなのではないか。ほとぼりが冷めたであろうこの時期だからこそ、敢えて聞こうとしてきたのではないか。
・・・嘘をついた方がいいのだろうか。
「淹れてきたわ。」
気づくと、お母さんが急須いっぱいにお茶を淹れてきてくれた。急須の口から、湯気が煙っている。
「ありがとう。」
「今度はこぼさないでね。」
「うん、分かった。」
私は湯呑にお茶を継ぎ足した。
もうもうと湯気が上がっている。しばらくは飲めそうにない。
お母さんは、またバツが悪そうにぼーっとテレビの方を見つめてしまっている。
もう聞いてこないのだろうか。きっとそうなのだろう、こんな聞きづらい話。私から話さない限り・・・。
「ねえ、お母さん。」
「・・・何。」
「私ね・・・会いたかったの。」
「誰に?」
「この髪飾りをくれた人に。」
「うん。」
「でもその人は、もうこの世にいないの。」
「・・・・・。」
「だから、私は・・・。」
「そう・・・分かったわ。」
「うん・・・。」
重苦しい空気だけが流れている。お母さんが湯呑に手を付け、私もそれに合わせるようにしてふーふーしながらお茶をすする。
「大事な人だったんだね。図書館の人。」
お母さんが話しかけてくる。
「うん。私にとっては・・・」
お母さんみたいな人、そう言いかけて、私は口をつぐんだ。
「『お母さんみたいな人』だったんでしょ。」
ドキッとした。もし湯呑を握っていたら、また落としていたかもしれない。
「・・・ごめんなさい。」
「謝る必要はないのよ。私は『お母さん』みたいなこと、何もしてあげられなかったんだから。」
「・・・ごめんなさい。」
私はうつむいていた。お母さんに合わせる顔がない。本当の親でもなんでもない「トクナガ先生」に会う為に、毎日必死で働いて養ってくれる、本当の母親を置き去りにして、死んでしまおうなんて。どんなに謝ったって許してもらえることじゃない。
「・・・今も会いたい?その人。」
会いたくないと言えば、嘘になる。だけど、冷静に考えれば、死んでしまったからと言って「トクナガ先生」に会えるわけではないのだ。あの時の私はどうかしていた。
「もう会えないよ。」
「答えになってない。」
「・・・会いたくないと言えばうそになる。だけど・・・あの時の私はおかしかった。衝動的だったの。衝動的に、風薬に手が伸びて・・・それで・・・。」
「そう・・・。」
お母さんはそれ以上は言わなかった。
また無言な時間がただひたすらに流れていった。
「もうそろそろ寝ようかな。」
私は思いっきり手を伸ばした。時刻は午後10時を過ぎていた。お母さんは、また明日も仕事だ。そろそろ床の準備をしなければ。お母さんはこれからお風呂に入るのだし。
「ねえ、春香。」
「何?」
「昔、あんたは、『どうして私にはお父さんがいないの?』って聞いたことがあったわよね。」
遠い昔の話だ。保育園に通っていたころ、父親がいないことを友達にバカにされて、それでお母さんに尋ねたのだ。その時、お母さんは答えてくれなかった。そのとき、ぶたれもした。
それ以来、私は「どうして自分に父親がいないのか」尋ねることはしなかった。尋ねてはならない、私たちにとっては、それはタブーだと思われた。
「うん。」
「・・・春香も・・・もう14歳になったから、今日はその理由を話すわ。」
「・・・うん。」
改まった言い方に、私は身構えた。
「あなたにはね、春香・・・父親はいないの。」
「父親がいない!?」
どういうことだ、父親がいないなんて。
「ええ・・・。その・・・うん・・・。レイプされたの、私。」
「れいぷ・・・。」
「そう。もう14歳の春香には、その意味が分かるわよね。」
「うん・・・。」
「ただのレイプじゃない。私は・・・ある集団に襲われた。そして『監禁』されたの。地下の、光が差さない、薄暗い部屋の中に。まるで『監獄』のような場所だったわ。そこで私は・・・男たちに何度も・・・。」
「分かった分かった・・・もう・・・分かったから。」
お母さんが話すあまりにも悲しい口調に、私は耐えきれずお母さんの言葉を遮った。
「数か月の暴行の後、私の妊娠が分かって、私は捨てられた。そして・・・私はそのまま子どもを産んだ。」
「それが・・・私ってわけ・・・。」
「そういうこと。」
やっと理解できた。お母さんが私を愛してくれない訳。お母さんは、私を愛してくれないのではない。私を『愛せない』のだ。私は、誰とも知らないレイプ魔との間に生まれた子供。犯罪者の血縁、そして何より、私自身生まれてはいけない人間。
「そっか・・・。そりゃ、ガキンチョの私には聞かせられない話だよね。」
「・・・・・。私が解放されたときには、もう下ろせなくなってた。だから、春香を生んだのよ。」
私は気づいた。
だとしたら、私は・・・とんでもない幸せ者なんだって。
私はお母さんに近づいて、ゆっくりと抱きしめた。
「私を産んでくれてありがとう、お母さん。私を育ててくれてありがとう。こんな私なんかのために、お母さんは・・・お母さんは・・・毎日・・・。」
抱きしめる腕に力が入る。胸が苦しくなり、目頭が熱くなる。気づけば、滝のように涙がこぼれてきていた。
「お母さん・・・ごめんなさい!私・・・お母さんの気持ちなんて全然考えたことなんてなかった!お母さんが、誰にも相談できずに一人で苦しんているというのに、私はそんな苦労をして生んでくれたことにも知らずに!お母さんを傷つけるようなことばっかりしてきた!」
お母さんは私を抱き返そうとしてきた。けれど、その手が震えていた。
「お母さん・・・苦しいんだね。私を愛したくても、『愛せない』。だから、私を虐待してしまう。私を愛せば、その奥には、レイプ魔が見えるから。」
私は構わず抱きしめ続けた。
「お母さん・・・いいよ、私のことを虐待しても。私をこき使っても。私、我慢するから。頑張って・・・耐えるから・・・。」
「・・・いいの?春香・・・。私、あの図書館の人みたいにはなれない。もっと傷つけるわ、私の人生を狂わせた、アイツらの代わりに、あんたのこと。そうやって恨んで、傷つけて、ケガさせちゃうかもしれない、それでもいいの?」
「大丈夫だよ。私、強いもん。」
「そう・・・。ごめんね・・・。」
「大丈夫だよ、お母さん。」
無言のまま静止する。お母さんが鼻をすする音だけが聞こえてくる。そしてしばらくして、お母さんが口を開いた。
「ねえ、春香。久しぶりに、私と一緒にお風呂に入らない?」
「えっ、ホント!?やったー!入る入る!」
「もう一回入っちゃっているけどいいの?」
「もちろんだよ。お母さんと一緒に入れるなら、何回だって入るよ!」
「ふふふ。かわいい子ね。」
お母さんが久しぶりに見せた笑顔だった。お母さんに「かわいい」なんて言われるのは、本当に久しぶりだった。
「そうだよ、私かわいいんだよ!」
お母さんは私から離れて、まじまじと私の顔を見つめた。そして遠い目をしながら、こんな風に呟いたのだ。
「・・・私の子供の頃に・・・、本当に・・・そっくりね。」
その表情は私を見ているはずなのに、どこでもない遠くを見つめているようだった。
「お母さん?」
「・・・さ、さっさとお風呂に入りますか。」
「うん!」
その日、私たちは一緒にお風呂に入った。
私が思い出した限り、お母さんと一緒にお風呂に入ったのは、あれが最後だったのだと思う。
あの日以降、お母さんからの虐待はまた激しくなった。お互いに虐待の理由を理解し、遠慮がなくなったからかもしれない。
私は感謝していたのだ。本当だったら私なんて、どこか捨てられてそのまま命を落としていたっておかしくないはずの命だった。にもかかわらず、お母さんは私のことを、日夜働いて養ってくれた。私はお母さんに生かされていたのだ。
生かされているだけで幸せ、そう思わなくちゃいけないのに・・・。私は欲張りな女だった。だから、お母さんの「愛」を・・・次第に苦痛に感じていったのだ。
かといって私は死ぬわけにはいかなかった。それはお母さんが一番望んでいないことだったからだ。もし私に死なれたら、お母さんは何のためにこれまで生きてきたのか分からなくなってしまう。
私はどうやって生きればいいのか。だんだんわからなくなっていった。そして私はどんどん本の世界に逃げ込んでいった。私が頼るべき世界は、もう本の中にしかなかった。