第8節 水 残り108時間
あれから何時間が経ったのだろうか。
私はふとタイムカウンターに目を向けた。
「108:15:20」
私たちが目を覚ましてから12時間、如月さんは、私が座って腰を掛けている壁とは違う場所に座っている。私はタイムカウンターの近くで、監視カメラに相対する形で座り、如月さんは奥の側面の壁によりかかりながら、じっと静かに音を立てながら回る換気扇を見つめていた。
私は生まれてはいけない子供だった。思い出したくもない事実、その事実に愕然としていた。そしてお母さんのことを思い出していた。
お母さんも、こんな暗くて狭い場所で何度もレイプされたというのだろうか。何か月も何か月も。たぶん希望なんて持てなかっただろう。生きて帰れない、そんな絶望感に打ちひしがれていたお母さんの絶望感、怒り、悲しみ、憎しみ、恐怖、それがいかほどのものなのか、死を目の前に宣告された私には、ようやくその痛みが理解できていた。
そうやってできた私を愛することができないのも、当然のことだ。お母さんは悪くない。悪いのは・・・お母さんをレイプした連中だ。それどころか、お母さんは立派だった。私なんて施設に預けられても不思議ではない。だけど、お母さんは毎日毎日夜遅くまで働いて私を養うという道を選んでくれた。私は、今この時、純粋にお母さんに感謝していた。
だけど、心の中のもやもやは消えそうにない。この「もやもや」は何なのだ。何かが引っかかっている。
そんな時、如月さんが私に話しかけてきた。
「天海さん。」
ビクッ
突然の呼びかけに、私は体の全身を震わせた。
そういえば、私が思い出した記憶の中に、如月さんの情報は含まれていなかった。私が思い出した学校生活のイメージ、そして図書館の中のイメージの中に、如月さんの姿は見て取れなかった。私と如月さんは、中学時代までは全く見知らぬ人だったというわけなのだろうか。
「何ですか。」
如月さんが少しうつろな目で問いかける。
「何か、思い出せましたか。」
「・・・・・。」
どうしようか。話してしまった方がいいのだろうか。私の出自について。この事件と関わりがあるとは考えにくい。しかも、こんなこと、例え命がかかっている状況と言えども話したくない。
「思い出せませんでしたか・・・。」
如月さんは少し悲しそうな顔を見せた。
「いや、その・・・。」
私は反射的に反応した。
「? 思い出せたんですか?」
「たぶん、この事件とは関係ないんでしょうけど。」
「関係なくても、話してくれませんか。お互いに何かを思い出すきっかけになるかも。」
そう言われてしまうと断り辛い。どちらにしろ、私たちが絶体絶命なのには変わりはない。何とかするためにも、ここは話しておいた方がいいだろう。
「実は、私・・・お父さんがいないんです。」
「やっぱり、そうでしたか。」
「如月さんの予想通りでした。」
「理由は、なんでかわかりますか。」
「それが・・・。実は・・・。」
如月さんは、少しワクワクした表情だ。どうして、こんなことで興奮できるのだろうか。
「私は・・・レイプによって生まれてきたからなんです。」
「れいぷ・・・。」
急に如月さんの表情が凍りついた。
「ええ。私のお母さんは大学時代に、よくわからない集団に拉致されて、集団で強姦されたんです。何か月も拘束されて、それで、私の妊娠が分かると、捨てられたみたいなんです。それで私はお母さんから嫌われた。私は、母から疎まれて育ったんです。」
「・・・そう・・・でしたか。ごめんなさい、辛いことを聞いてしまいましたね。」
如月さんの顔は、本当に悲しそうな顔をしていた。
だが、私にはこの人が演技をしているようにも見える。親愛の情を持って接していると思わせようとしているのではないだろうか。
「いいえ、気にしないでください。ただ、いいことも思い出したんです。これについてです。」
そういって私は頭の二つのリボンに手を触れた。
如月さんは尋ねる。
「誰からもらったか、分かったんですか。」
「ええ。とはいっても、多分あなたが知らない人です。」
「・・・一応、教えてもらってもいいですか。」
「「トクナガ先生」という人です。私が小学校の時に、家の近所の図書館で働いていた司書さん。この人と仲良くなって、私はこのリボンをもらったんです。」
如月さんがほのかに笑顔になる。
私はその表情を見て、背筋が寒くなるのを感じた。
「天海さんは、物持ちがいいんですね。小学校時代にもらったものを今でも大切に身に着けているなんて。・・・どうしたんですか?」
如月さんが、きょとんとした顔をした。
「いや、何でもないんです。」
私は動揺を悟られまいとすることに必死だった。そしてこれも言いにくい。このリボンは「トクナガ先生」の形見だなんて。ただ、言わないわけにはいかない。私は意を決した。
「・・・形見なんです。その「トクナガ先生」の。」
「・・・亡くなったんですか?」
「ええ。ガンでした。」
「そうですか・・・。」
如月さんがうつむいた。悪いことを聞いてしまったと、しょげているようだ。
「大切な人だったんですね、その「トクナガ先生」。」
「ええ。私にとっては、『親代わり』みたいなものでしたから。」
「親代わり・・・ですか。」
「ええ。私・・・お母さんに愛されなかったんです。平たく言えば・・・虐待されてました。しょうがないですよ。だって、私、望まれて生まれてきた人間じゃないですから。それどころか、私は憎きレイプ犯の血を引く忌まわしい人間。愛されなくてあたりまえなんです。・・・でも「トクナガ先生」はそんな私に優しくしてくれた。本当に優しい・・・お母さんみたいな人だった。だから・・・私にとっては、『お母さん』みたいな存在だったんです。」
思い出すだけで、胸がズキズキしてくる。熱いものがこみあがってくる感覚を感じていた。
「天海さん・・・さぞかし、辛かったでしょうね。」
「ええ。とっても。それこそ、死にたくなるくらいでした。」
実際、私は自殺未遂をした。「トクナガ先生」に会いたいから、というバカな理由で。私はもう一度、頭のリボンに触れた。
「これは・・・私が書いたラブレターに対するお礼としてもらったものなんです。」
「ラブレターですか。」
「ええ。私はその中で『「トクナガ先生」の娘でありたい』そんなことを書きました。そして「トクナガ先生」はこの髪飾りをくれた。『この髪飾りを私だと思ってほしい』、先生はそう言っていました。だから私にとって、この二つのリボンは「トクナガ先生」そのものなんです。」
「そうだったんですね・・・。」
如月さんはそう言って、押し黙ってしまった。
重苦しい空気だけが流れている。話題を変えるために、私は如月さんの現状を聞いてみることにした。
「如月さんの方こそ、何かを思い出せましたか?」
すると如月さんは、無言で首を使って否定した。
「そうですか・・・。私のことは、何か思い当たることはありませんか。例えば、私たちが出会った時期とか、場所とか、そういうこと。」
「・・・ごめんなさい。それも全く思い出せないんです。」
「私、中学生までのことは大体思い出したんです。だけど、中学生までの私の記憶の中に、あなたは出てこなかった。きっと、高校時代、それ以降に出会ったと思うんです。」
「そうですか・・・。」
如月さんは、それ以上のリアクションはしてこなかった。本当に何も思い出せないのだろう。
「ただ・・・」と如月さん。
「ただ?」
「・・・思い出せた記憶というか、単なるイメージなんですけど・・・気になることがあって・・・。」
如月さんがやけに含んだ言い方をしていた。
「・・・話してもらえますか。」
「・・・暗いイメージが浮かんでくるんです。私だけがいない家族の団欒があって、それが突然音を立てて壊れていく、そんなイメージ。
家族が壊れるイメージ・・・。
「それは、具体的にはどういうことなんですか?」
「わからない・・・。思い出せるのは、とにかく3人の団欒が崩れて、そして・・・妹が・・・。」
「妹さんが・・・妹さんに何かがあったんですか!?」
如月さんが再び首を横に振った。
「それが・・・思い出せないんです。家族の団欒にひびが入り、そして、妹の顔が・・・割れた、そんなイメージ。」
妹の顔が割れた・・・。とてつもなく嫌な予感がする。如月さんの妹さんの身に、何かが起こったことは間違いない。
もし私が如月さんと深い関係がある人間だとすれば、如月さんの妹に起きた何かについて、知っていることがあるかもしれない。
思い出せ・・・、何か知っていることがないのではないか。
如月さんの妹・・・「千尋ちゃん」・・・青い髪・・・水・・・。
水?
私の頭の中にぱっと浮かんだのは、なぜか「水」のイメージだった。どうして「水」のイメージなんて出てくるんだろうか。
妹さんは、「水」関係で何かあったということなのか。
「・・・如月さん。」
「何ですか?」
「・・・水。」
「水?」
「何か思い当たる節はありませんか?」
「水が・・・どうしたんですか?」
「どうしてかは分からないんですけど、私が『千尋ちゃん』のことを思い浮かべようとしたとき、どういうわけか『水』のイメージが浮かんだんです。『千尋ちゃん』は、『水』と何か関係がある。私の記憶のイメージがそう告げるんです。」
「『水』・・・『水』・・・」
如月さんは、ぶつぶつとつぶやき始めながら、ゆっくりと目を瞑った。
やはり私と如月さんは、どうも特別な関係らしい。断片的ではあるが、如月さんの妹さんの情報をこうも簡単に思い出すことができた。
そして、さっき。私が如月さんの笑顔に悪寒を感じた理由。それは、どういうわけか、私は如月さんのほのかな笑顔の中に、「トクナガ先生」を見たような気がしたからだった。