第3節 再会
あれから、如月家の様子は一変した。
如月家にあった、私には感じられなかったけど、確かに存在していたはずの温かさは完全に消え失せ、私は妹を「殺した」悪魔として扱われるようになった。
父は勿論、母も私のことを蔑んだ眼で見るようになった。
私は、あの「事故」の後、何度も反芻した。どうして、あんなことをしてしまったのだろうかと・・・。そして私は、心の奥底では、両親の愛情を受ける千尋に嫉妬していたのだと理解したのだ。
私は、心のどこかで、千尋がいない如月家を望んでいたのかもしれなかった。千尋がいなくなることで、・・・妹の死によって、私たちは元の家庭に戻れるのではないか、私が両親に無視されることなく、母から愛情を受け、そして父からもそれなりの愛情を受けられる、私にとって決して満たされないけど乾くことのない心の平穏を取り戻せるのではないか、そんな淡い期待を抱いていたのだ。
そんな私に、自分自身で絶望した。
なんて醜い感情なんだろう。たとえ一瞬でもそんな思いに囚われていたなんて考えるだけで、自殺してしまいたくなるほど苦しくなる。まだ幼い子供だった私は、そんなことを一日中ぐるぐると頭の中を駆け巡ることもあった。
あの事故から2か月後、少し寒さが出てきた、10月初旬のある平日のことであった。
中学校での委員会活動を終えて、私は家路を急いでいた。
予想外に委員会活動が長引いてしまって、すでに時刻は午後4時半近くになっている。今日はスーパーで買い物をしなければならないというのに・・・。早く家に帰って両親の為に夕飯を作らなければならないのだ。
しかも悪いことに、空は今にも雨粒が落ちてきそうな雲行きである。あいにく、傘は持ち合わせていなかった。今、降られたらたちまちびしょぬれになってしまうだろう。
私はいつもとは違う道を通って近道をしようとした。学校から家までは歩いて20分ほどだったのだが、近道をすれば3分ほど短縮できる。
しかし、家路を急ぐ中、ポツリポツリと雨が落ち始めた。そしてほんの数分も経たないうちにザーザー降りになってしまった。これでは家に着いた時には完全にずぶぬれになってしまう。
とはいえ、この降り方、もしかしたらこの雨は、この時期特有の通り雨かもしれない。
そう思った私は、近くのマンションの軒下で少しだけ雨宿りをすることにした。10分くらい待ってみて、雨が弱まってくれたら御の字だ。そうじゃなかったら、濡れながら急いで帰ろう。
辺りは人通りがほとんどない寂れた道路だった。人はおろか、車すら通る気配がない。私は何をするわけでもなく、ぼーっと、変わるわけでもない道路を眺めていた。
しばらくして、雨音に交じって、靴が地面を鳴らす音が聞こえた。そちらの方を向くと、一つの傘が私の目の前を通り過ぎようとしていた。私はその人影をぼーっと見ていたが、その道路から数メートル先で雨宿りしている私の正面を通り過ぎようとしたとき、見覚えのある色白の顔が目に入って、酷く驚いた。
「加藤君!?」
気づいた時には、その人影に向かって声をかけていた。その人影が立ち止まり、声をかけた私の方を振り向いた。
間違いない!その人は、私の初恋の人・・・加藤君だった。
「如月さん?久しぶりだね!」
彼も驚いた顔をしている。どうやら幸いにも彼の方も、私のことを覚えていてくれいていたようだ。加藤君が私の方に向かって歩いてくる。私が彼に声をかけた。
「久しぶりね。」
「本当だね。小学校を卒業した時以来かな?」
「そうね。背・・・高くなったね。それに、ちょっと大人っぽくなった?」
少し離れていた時には分からなかったが、近くに寄ってきて、私が見なかった1年半で彼の背が急激に伸びていたことに気が付いた。小学校時代は私と身長は殆ど変わらなかった筈なのに、今では、私が彼のことを見上げている。
それに、背格好だけじゃない。彼は、何というか・・・益々かっこよくなっていた。声変わりしたのかどうかもよく分からないし、やや中性的な風体には変わりないのだが、どことなく雰囲気が大人っぽくなったような気がするのだ。
「10センチくらいかな。ここ1年半で。大人っぽくなったのかな?自分じゃ意識しないけど。」
「すごいね!私なんて、2センチしか伸びてないわ。」
ついでに胸も大きくなっていない。
加藤君は苦笑いを浮かべた。
「これから大きくなるよ。ところで、傘ないの?」
「見ての通り。急に降られちゃったからね。」
加藤君が私の方に傘を向けてくる。
「家は近く?送っていってあげようか?」
これは願ってもない誘いだ!全然止みそうになかったから、ずぶぬれで帰ることも覚悟していたのだ。
それに何より・・・彼と一緒に居られるというのが本当に願ってもない喜びだった。でも、彼に余計な時間を取らせたくもない。
「ここから歩いて10分くらい。・・・でも・・・迷惑じゃないかしら?加藤君も家はこの辺なの?」
加藤君は白い歯を見せる。
「少し離れているんだけど、もう用事も済んだし、送っていくくらいならどうってことないよ。」
そこまで言われてしまったら、断る理由もない。
「じゃあ・・・、お言葉に甘えちゃって平気かな?」
「もちろんだよ。さ、行こうか。」
私は彼の傘の中に入った。そしてゆっくりと雨の滴る夕暮れの中を歩き始めた。
加藤君がしゃべりだす。
「いつもこの道を使って通学しているの?」
「いいえ、今日はたまたま。雨が降ってきそうだったから、近道をしようと思ったの。だけど間に合わなくて、このざまよ。加藤君は、この道をよく使っているの?」
「いや。僕も偶然。普段は全然使わないよ。駅とは反対方向の道だしね。」
私と加藤君の家はそこまで遠くはなかったはずだ。にもかかわらず、今まで一度も会っていなかった。そして、お互いに普段使わない道でばったりと出会うなんて、なんて偶然なんだろうか。
「加藤君は、白鷺学園中学に通っているんだよね?」
加藤君は中学受験をした関係で、一緒の中学には上がらなかったのだ。白鷺学園中学は、電車で何駅か乗り継いだところにある、この辺りでは有名な進学校だ。私の家と駅は遠い。彼に会わないのも道理なのだ。
「そうだよ。」
「勉強は大変じゃない?」
「他と比較できないからよくわからないけど、それなりに大変なんだと思う。塾にも通っているしね。」
白鷺学園中学は中高一貫校だ。彼はもう5年先の大学受験を見据えた勉強をさせられているという訳だ。
「そうなんだ・・・。大変だね・・・。」
そっけないリアクションしかできない。もっと話すべきことは沢山あるはずなのに、いきなりだったから、話題が何も口をついてこない。私はかろうじて思いついたことを尋ねてみることにした。
「加藤君は、今日は何をしていたの?」
加藤君が笑みを見せる。
「ああ。友達の家に遊びに行っていたんだよ。今日、学校は創立記念日で休みだったんだ。だから、久しぶりに友達の家でゲームをやっていたって訳。」
「へぇーそうなんだ。加藤君ゲームやるんだ。」
「うん、結構好きだよ。」
私は、男の子が普段どんな遊びをしているのかはよくわからなかったから、本当に純粋に感心していたのだ。
「へぇー。勉強漬けって訳じゃないんだね。」
そういえば、今日の加藤君は平服だ。制服じゃなかった。
「ハハハ、そんなことしたら、息が詰まっちゃうよ。如月さんは学校の帰りでしょ。」
「ええ。委員会活動の帰り。」
「熱心だね。小学生の時から一生懸命だったもんね。今は何の委員会やっているの?」
小学校の頃は給食委員会に入っていた。私と加藤君は、そこで仲良くなったのだ。
「図書委員よ。楽って前評判で入ったのに、全然楽じゃないわ。」
「それは如月さんが頑張っちゃうからじゃない?」
私は微笑した。
「それはあるかもね。」
「給食委員の時もすごく熱心で、びっくりしちゃったよ。委員会では何度も発言して意見を言うし、全体活動の時でもすごく熱心だったよね?」
「私少食だけど、料理には関心があったから。」
これもある種加藤君のおかげだ。加藤君が料理をやっていて、「私も料理をやっている」なんて嘘をついてしまったから、料理をやらざるを得なくなったのだ。だけどそのおかげで、今の私は料理上手。
「まじめだもんね、如月さんは。」
「加藤君だって。」
「僕は時々サボっちゃうよ。今の中学の委員会。」
「あら、そうなの?一緒に給食委員だったときはまじめにやっていたのに。」
「それは、如月さんの目があるから・・・。」
私はジロッと加藤君を軽くにらんでみた。
「そうそう、それそれ、その目だって!」
私はケラケラと笑った。
「私、『まじめちゃん』ですから。サボりとか、許しませんから。」
「ひぇー。」
加藤君も笑っている。なんだか懐かしい。小学生のころもこんなバカ話をしていた気がする。なんだか全然成長していないなー、いや、いい意味で変わっていないのかもしれない。
「でも懐かしいわね、こうやって話すの。私たち、給食委員会の時しか話さないから。」
「そうだったね。ほんっと、あの頃を思い出すなー。」
もしかしたら今までで一番喋っているのかもしれない。私は恋心を隠す為に、彼と自然に接触できるこの委員会以外では、彼と話そうとしなかったし、彼に彼女がいるって分かってからは、尚更、そんなことができなかったからだ。
「懐かしい?」
「そうだね。こうやって小学校の頃の『友達』に会うこともなくなっちゃったし。」
「友達」・・・か。ちょっぴり複雑な気分だ。私のことをただの女の子ではなくて「友達」扱いしてくれるのは嬉しい反面、それ以上でないのが、やはりちょっぴり残念だった。彼女がいるんだからそんなこと望むべくもなかったのだが。
「別の中学に行っちゃったからね。」
「それに、僕も忙しくて、友達に連絡して一緒に遊ぶこともないしね。今日は、一緒の中学の友達と会っていたから。」
彼は受験をして私たちとは別の中学校に進学してしまった。それに彼も忙しいから、小学生時代の友達に会うことは殆どないみたいだった。
「だから、今日如月さんに会えてよかったよ。」
「・・・ありがとう。」
体が少し火照っているのを感じる。歩いて熱量を出しているからではないだろう。雨が降って気温が下がっているはずなのに、どこか心地よさすら感じてしまう。
割とゆっくり歩いたつもりだったのに、気づけば、もう家のすぐ近くまで歩いてしまっていた。帰りたくない。せっかく、彼とお話できたというのに、ここで別れてしまうなんて・・・。
何かいい口実は無いだろうか。彼をもう少し連れまわすことができる口実が・・。
チャリン
カバンの中で財布が小銭を鳴らした。そうだ。話に夢中で忘れていたが、今日は買い物をしていかなければならなかったんだ!こんなにのんびりしている暇はないのだ。家に帰れば、傘を調達できる。そうすれば、後は走ってスーパーまで行ってさっさと買い物を済ませてしまえばいい。
だけど・・・もっと話していたい・・・。買い物にもついてきてもらおうかとも思ったが・・・それはダメだ。
「もうすぐ・・・家に着くよ。」
「そうなんだ。ねえ、もしこの後時間があったら、もう少しどこかで話していかない?」
「えっ・・・。」
願ってもない誘いだ。本当だったら、この誘いを受けたい。だけど・・・。
「ごめんなさい、今日はこの後買い物に行かなくちゃいけないの。あと料理も作らなくちゃいけないから。」
「へえー、凄いね如月さん。買い物して料理まで作っているんだ!」
「ええ・・・まあね。」
「どれくらい食材を買うの?」
「今週の分は、今日全部買っちゃうつもりよ。」
「じゃあさ、如月さんの家まで運ぶの手伝わせてよ。こんな雨の中、1週間分の食材を買い込むのは大変でしょ?ね?」
飛び切りの笑顔を見せる彼を目にして、私はとても困惑した。彼の申し出はすごく助かる。労力的にも助かるし、気持ち的にも彼と一緒に話せてうれしい。だけど、そんなこと・・・させられないし、一緒に来てほしくなかったのだ。
「・・・ありがとう。」
でも私は、目を輝かせている彼の誘いを断ることはできなかった。彼をしょんぼりさせたくはなかったのだ。
「よし!じゃあ、行こう!」
彼は上機嫌に歩き進めた。そして気づけば、私が住んでいるマンションを通り過ぎて、スーパーへと足を進めていた。
この辺りで「近くのスーパー」は、アソコしかない。私が千尋を見殺しにしてしまったあのスーパーだ。あの事故からまだ日が浅い。そのせいなのだろうが、私はあのスーパーに入ると、息が苦しくなるのだ。そしてボーっとして、気づけばいるはずのない千尋を探している。気を確かに持っていないと、私はどこまでも夢遊病のように、幻影を求めて店の中をうろついてしまうのだ。
私はそんな姿を彼に見せたくはなかった。だから、一緒に行きたくはなかったのだ。でも行きがかり上そうなってしまったのだから仕方がない。彼に醜態を見せないよう、最大限気を張っているしかない。
「如月さん、どうかしたの?」
「・・・大丈夫。何でもないから。」
明らかに、先ほどとは様子が違っていたからなのだろうか。彼は怪訝な目を私に向けているようだった。
私は彼に動揺を悟られまいと、別の話題を振ることにした。
「加藤君は、今も料理やっているの?」
彼が笑顔を見せる。
「やってるよ。料理って、やればやるほど楽しくなってくるよね、少ない食材で、今日は何を作ろうか、明日は何を作ろうか、そんなことを考えるのがすごく楽しい。」
いいなー、加藤君は趣味で料理を作れている訳だ。
「うらやましいわ。料理をそうやって純粋に楽しめるなんて。」
「如月さんは、そうじゃないの?」
確かに私も料理は作っているが、それは家族の為・・・贖罪の為にやっているのであって、そうやって趣味みたいな形でやっているわけではない。
「私は・・・共働きの両親にご飯作ってあげないといけないから。義務感でやっているって感じかな。」
「そっか。僕は、殆ど趣味で料理作っているから、何だか恵まれているんだね。」
本当にそう思う。正直、うらやましい。
「・・・・。」
「如月さん?」
なんて返したらいいのか分からなかった。このまま口を開けば、何だか加藤君に・・・いろいろと話してしまいたくなる衝動に駆られそうな気がしたのだ。
だから私は強引に話題を変えた。
「サッカー、まだやっているの?」
小学生の時、加藤君は所属する小学校のチームのエースストライカーだった。
「やってるけど・・・あんまりやってない。」
「どういうこと?」
「うちの中学にもサッカー部はあるんだけど、みんなあんまり熱心じゃないから。」
「みんな勉強に忙しいのかしらね?」
「うちの中学は、文武両道って訳じゃないからね。チーム自体も周りと比べて弱いから、あまりやる気がしないみたい。」
「文」の方が圧倒的に強いということなのだろう。まぁ、進学校なのだから仕方がない気がする。
「みんなやる気がないから、段々僕も嫌になってきてね・・・。」
加藤君は恥を感じてか、下を向いている。
「もったいないよ。加藤君、サッカーも才能あるのに。」
「そんなことないよ。別にチームが弱いから実力が発揮できないとか、そういう言い訳じゃなくて、中学になって、他の選手の方が格段に実力が上がってきている。僕なんかじゃ、とてもじゃないけど適わないよ。」
そんなものなのだろうか。正直私はサッカーのことなんて全く分からないし、彼の1年間のサッカー生活を見てきている訳でもないから、何とも言えないのだけれど。
「じゃあ、辞めちゃうんだ、サッカー。」
「どうしようかなーって考えている。ところで、如月さんは、何か部活やってる?」
やれるはずがない。
「やってないわ。」
放課後は家事で忙しいのだ。両親がしない分、炊事洗濯は基本的に全て私がやらなければならない。それに、今は亡くなってしまったけど、妹の面倒も見なくちゃいけなかった・・・。部活動なんて始めたら、それこそぶっ飛ばされてしまう。
「そっかー。やりたい部活が無かったの?」
「そんなところね。」
本当は手芸部に入ってみたかった。だけど、それも叶わぬ夢。
「辞めようとしている僕が言うのもなんだけど、部活って結構楽しいよ。普段の学校生活だと、休み時間しか友達と話せないけど、部活をやっていれば、そこでいろいろなことを話せる。如月さんには、打ってつけだと思うんだけどねー。」
私は表情一つ変えずに、「うん、分かった。考えてみる。」とだけ答えた。
もう一つ気になっていることがあった。
「加藤君は、あの子とまだ付き合っているの?」
「京子のこと?」
斎藤京子。小学生の時、加藤君と付き合っていた女の子だ。私なんかよりも数倍かわいくて、元気な女の子だった。彼女も彼と一緒に居たいからなのか、加藤君と同じ白鷺学園中学を受験して、そして見事に合格していたのだ。
「付き合ってるよ。」
「そう・・・。」
「でも・・・」
「でも?」
「いや、何でもない。」
こういうことを想うのもどうかと思うのだが、正直少し落胆した。別れていてほしいなんて願うのが邪道だなんてことは分かっている。だけど、私はどうしても、「万が一」ということに淡い期待を掛けてしまうのだ。
「ここ?」
気づけば、もうそのスーパーの目の前までたどり着いていた。
「ええ。」
「じゃあ、行こうか。」
私は加藤君に促されるまま店内に入る。店に入ると、スーパー独特の喧騒が耳に入ってくる。あの夏の日も、私はこの喧騒を耳に、買い物かごを持って、ずんずん奥へと進んでいったのだ。
「本当にどうしたの?顔色が良くないよ。」
店に入るや否やボーっとしていた私に、彼は目の前で手をひらひらさせた。
「あっ、うん。大丈夫。本当に何でもないから。」
思い出したように籠を持って、今度は不自然なほど速足でずんずん中へと進んでいく。
「ちょっと、待ってよ。」
彼の言葉なんて耳に入らなかった。
一週間分買い込むということになると、肉も野菜もそれ相応な量になる。とにかく、こんなところには一瞬たりとも留まっていたくはない。
野菜売り場にたどり着くと、まずはニンジンを見繕った。形は悪くてもいいから、とにかく量があって安いもの。ジャガイモも、同じような要領で目利きしていく。それから玉ねぎだ。この3つさえあれば、大抵の煮込み料理は何とかなる。
「さっきから様子が変だよ。」
後ろからついてきた加藤君が声をかける。だけど、私は彼の言葉に応じる余裕なんてない。
「大丈夫だから。」
自分でも何が大丈夫なのかよくわかっていない。彼を置いていくかのように、今度は精肉売り場へ。牛肉もできる限り安いものを選ぶ。どうしても高い時は、ポークに変更してしまおう。
「如月さん、急いでいたの?」
運がいいことに、比較的安い牛肉があった。それを数パック、買い物かごへ放り込む。
確か牛乳も切らしていたし、砂糖も残りがわずかだったはずだ。あと、豆腐も勝っておかないと・・・。
こうして私は、加藤君のことを気にかけることもなく、彼と何かを話すということもなく、店内を駆け巡った。
しばらくして、ようやく私は必要なものを集めることができた。
もういいだろう。目的のものは調達できた。さっさとレジへ・・・。そう思ったときのことだった。
「おねえちゃん・・・。」
そんな声が聞こえて、脊髄反射で声がした方へ。
「千尋・・・?」
「おねえちゃん・・。」
「千尋!?」
気づいたら駆け出していた。
どこにいるの、千尋!?
「おねえちゃーん、これ買ってよ!」
「だーめ、もう別のお菓子買ったでしょ。ね、ママ。」
「そうそう、今日は我慢しなさい。また今度買ってあげるからね。」
「えー、けち。」
お菓子売り場で駄々をこねていたのは、私と同じように買い物に来ていた3人組の親子だった。
そうさ・・・そうだよ・・・。こんなところに千尋がいるはずないんだから。
膝の力が抜けて、私はその場で膝をついてしまった。
「如月さん!」
後ろから加藤君が小走りで走ってくる。
「如月さん、大丈夫?」
「・・・・。」
気づけば最後はいつもこんな感じだった。このスーパーを訪れては、千尋の影を探して、そして今みたいに落胆している。こうはなるまいと決意して訪れても、結局最後には、夢遊病の様に千尋の姿を探している。こんな姿・・・彼にだけは見られたくなかった。
「立てる?」
彼が私の脇に手を回して、立たせてくれるようだ。
「・・・ありが・・とう。もう買い物は大丈夫だから、会計に・・・行こうか。」
私はおぼつかない足取りでそのままレジへと向かった。
「本当に大丈夫かい?一体何があったの?」
「ええ。」
レジにたどり着いた私は、カバンから財布を取り出し、そのまま普通にお会計を済ませた。レジ袋に品物を詰めて、そして出口から外へ。
気づけば、雨も小雨になっている。これなら送ってもらわなくても、それほど濡れずに帰ることができる。
「加藤君・・・もう大丈夫。これくらいの雨なら、傘差してもらわなくても大丈夫だから。」
そう言って私は、呆気に取られている彼を置いて、そのまま帰ろうとした。だけど、彼が先回りして立ちふさがる。
「如月さん、もう少し話していかない?ほら、そうは言ってもまだ結構降ってるからさ。」
そう言って私の前に傘を差しだしてくる。私は少し困惑した表情を浮かべた。困った。本当に早く帰らないと、両親に怒られてしまうのに。だけど、彼はその場を通してくれそうにない。確かに彼とはもう少し話していたいけど、こんな醜態見られてしまったからには、これ以上いるわけには・・・。
「じゃあ、行こうか。」
彼が強引にレジ袋を奪った。どうやら、本当に帰してくれるつもりはないらしい。
「これは送っていく間持っていてあげるよ。」
仕方がない。彼と一緒に帰ることにしよう。
「・・・ありがとう。」
そう言って私たちは、私の家に向かって歩み始めた。
彼が話しかけてくる。
「偉いね。如月さんは。いつもこうやってお母さんの代わりに買い物をしているんだよね。」
「ええ・・・そうね。」
あまり、家族のことは触れられたくない。
「料理も毎日やっているんだ。」
「そうね。両親が二人とも働きに出ているから。家事は大よそ私の仕事。」
「凄いな・・・。」
「別に褒められるようなことをしているとは思ってないわ。」
「いや、如月さんはすごいよ。勉強も委員会も家事も全部こなすなんて。僕は、勉強と料理しかまともにやってないから。」
「私は逆に勉強が疎かだわ。加藤君を見習わないとね。」
早くこの状況を逃れたいからなのか、自然と足が早まってしまう。
「如月さん、早いって。」
「そうかしら。」
「明らかに行きよりも早いよ。」
「気のせい。」
「・・・。」
彼は立ち止った。
「どうしたの?」
加藤君が、マンションの入り口を指さした。
「少し雨宿りしていかない?」
私は顔を歪めた。
「えっ、意味わからない。だって、傘差してくれているじゃない。雨宿りの必要なんて無いわよ。それに私、急いでいるの。早く帰って、ご飯の支度をしなくちゃ。」
だけど、彼はそんなことお構いなし、私を傘から外すと、そのままマンションの方へ。
今日の買い物を彼に取られてしまっている以上、そのまま無視して帰るわけにはいかない。私は不機嫌になりながらも、彼の方へと向かうしかなかった。
やがて、彼がマンション入り口の軒下で立ち止まった。私もしぶしぶ一緒にそこで立ち止まる。
「何のつもりなの、加藤君!」
彼が真剣なまなざしを私に向けている。
「このまま帰すわけにはいかないよ。『友達』として、見捨てておけないから。」
「今言ったでしょ。私急いでいるのよ。」
「じゃあ、聞かせてもらえるかな。この1年半で何があったのか。」
「何がって何よ。」
彼は一瞬言うか言わぬか躊躇った様子だったが、意を決したようだった。
「・・・さっきの買い物での様子、尋常じゃなかった。」
「・・・・・。」
閉口するしかない。なんて答えたらいいのか、どうすればこの場をごまかせるのか、私には皆目見当つかなかった。
彼が冷めた声で呟く。
「千尋ちゃん、って言ったよね。如月さんの妹さん。」
「っ!」
「彼女の身に、何かあったんでしょ。そうとしか、考えられない。」
「・・・・・。」
答えたくない。知られたくない。私の・・・もっとも醜い恥部を。
「如月さん。僕の推理を聞いてもらえるかな。」
私はとっさに耳をふさいだ。
「やめて!そんなの聞きたくない!」
だけど、彼は強引に両腕を掴んで引きはがしてくる。
「お願いだよ。如月さん。僕に心を開いてほしい。」
「いやっ!そんなことしたら私・・・。」
彼に甘えてしまう。自分の弱さを武器に・・・彼の心を乱してしまう。だって、加藤君には彼女がいるのよ!?
「このままだと、ずっと苦しみ続けることになる。あのスーパーに、如月さんは妹と一緒に買い物に来ていた。」
「お願い!もうそれ以上は言わないで!」
私は両腕をばたつかせるが、男の強い腕で抑えられてはどうにもできない。
「心の中で消化しないと!そのことを忘れないと、ずっと苦しむよ!あのスーパーを訪れる度に!」
彼の一喝に近い呼びかけで、私は体から力を抜いた。私はもう諦めるしかなかった。
「・・・加藤君の言う通り。今年の夏・・・私は千尋と一緒に買いものに来ていた。そこで私は、千尋の目を離してしまったの・・・。そしたら・・・千尋は・・・川底にしずん・・・。」
涙が頬を伝うのが分かった。
加藤君がぎゅっと私の両手を掴んでいた。
「ありがとう。よく話してくれたね。」
いや・・・違うのだ。私は話していない。一番重要な所を。私は・・・私は・・・千尋をっ!
「如月さんは、ずっと悩んでいたんだね。自分のせいで、妹さんが死んでしまったって。」
そう。その通りなのだ。私のせいで妹は死んだ。私は妹を殺したの!
私は自分に問いかける。ねぇ、如月千早。私、本当にこのままでいいの?私の好きな人に・・・自分に見栄を張って、彼に嫌われたくないからって、そのまま真実を隠し通してしまっていいの?
私は鼻をすすっている。私は涙声で「うん」とだけうなづいた。
彼が続ける。
「ねえ、如月さん。こうしてみるのはどうだろう?楽しいことだけを考えるようにするって言うのは。」
「楽しいこと?」
「うん。如月さん、確か音楽が好きだったよね。あと料理も好きなんだよね。」
「・・・ええ。」
「これからは、音楽と料理のことを沢山考えるようにしようよ。」
「でも・・・楽しいことばかりなんて・・・考えていられないし。」
「今、日常生活は忙しいんでしょ?」
「うん・・・。」
「だったら、それらのことを考えて、他のことを考えないようにしようよ。今、目の前にあることに集中する。妹さんのことを考えなくていいように、今日やるべきことに意識を向けるんだよ。あとは時間が癒してくれる。今は苦しくても、時が経てば、冷静に過去のことを思い出すことができるはずだよ。」
私は自嘲気味に微笑した。
「できるかなー・・私に。そんな真似。」
そしてこうも想うのだ。そんなこと、しちゃいけない。妹のことは、一生十字架として背負っていかなければならない。なのに、妹のことを忘れろなんて・・・。そんなこと、出来るわけないし、してはいけない・・・。
彼は私の手を強く握っている。
「ねぇ、如月さん。今度またお話ししようよ。」
「えっ・・・。」
驚いて私は顔を上げた。
「こうして会えたのも、きっと何かの縁。普段は忙しいけど、日曜日とかならこっちも時間作れるし。どう?」
私は理解していた。加藤君は、私のことを気遣ってくれている。そして私のことを助けようとしてくれているんだ。だけど・・・。私はまた自分自身に問いかけていた。ねぇ如月千早、本当にいいの?私、悲劇のヒロインとして見られているんだよ。本当は妹を見殺しにした犯罪者なのに、私・・・可哀そうだって思われているんだよ。そんなのおかしいよ。いいの?彼から受けるべきは優しさなの?軽蔑じゃないの?
「加藤君には、彼女がいるじゃない。私たちが会っているって知られたら、きっと彼女に迷惑がかかる。」
「京子にはちゃんと言っておく。京子だってわかってくれるはずだよ。」
そうとは思えない。彼女は・・・なんとなくだが独占欲が強そうな気がするのだ。彼女が、加藤君が私と会うことを認めるとは思えない。それに・・・もしも定期的に会ってしまったら、きっと抜け出せなくなる。
それに・・・これは女の勘。加藤君は・・・斎藤さんに飽き飽きしているんだ。二人は、きっとうまくいっていない。このままだと私・・・本当に・・・彼のことを奪っちゃうかもしれない。
「・・・そんなこと・・・してもらわなくても大丈夫。」
私は彼から目を逸らすようにうつむいた。
「如月さん!」
加藤君は私の肩を揺さぶった。
「このままだと・・・如月さんの心は壊れちゃうよ!自分でもわかっているんでしょ!誰かに助けてもらわないといけない!僕はその手助けがしたいんだ!」
私は彼の決然とした、だけど私を守ろうとする優しい目に吸い込まれそうになった。このまま体を預けてしまおうか、このまま彼に抱かれてしまおうか・・・そんなことがふと頭をよぎった。
操られたかのように、体を預けてしまいそうになったその時、いきなりの強風が吹き抜けて、それで私は我に返った。
だめ・・・だめだよ・・・私・・・こんなことしちゃいけない。私犯罪者なのに・・・とんでもない罪を犯したのに・・・それを隠して悲劇のヒロインを気取って、斎藤さんから、彼のことを奪おうとしている・・・。そんなこと・・・許しちゃいけない!
バシッ!
私は彼の両手を払いのけた。涙声のまま言う。
「加藤君・・・何か・・・勘違いしてない?私・・・加藤君のこと・・・好きでもなんでもないんだから。そんなことされても・・・迷惑だわ。」
私の言葉が予想外だったのか、彼は立ち尽くしている。
私は彼が手放していたスーパーの袋を持ち上げた。
「さようなら、加藤君。今日はありがとう。助かったわ。」
私は彼を横目にゆっくり歩き始めた。
「如月さん。」
彼が私のことを追ってくる。
「来ないで!」
私は大声で叫んだ。
「如月さん・・・。」
彼は悲しそうな声を上げる。仕方がないのだ。こうでもしないと、私は加藤君のことを際限なく追い求めてしまう。
「加藤君は、私のことなんて気にする必要ないんだよ・・・。私なんてろくでもない人間だから、関わるときっと後悔すると思う。」
「そんなことない。そんなことない!だから!」
「もう二度と会うことはないと思うわ。私があなたのことをどこかで見かけても、声を掛けないから、加藤君も私のことを見つけても、声を掛けないでね。じゃあね!さようなら!」
私は一目散に走り出した。
「如月さーん!!」
後ろからこだまするかのように雄たけびが聞こえたが、それもやがて小さくなっていった。
あの日以来、私が加藤君に出会ったことはなかった。彼は私の家の場所を知らなかったし、私も彼の家の場所を知らなかった。だから、本当にあれは偶然だったのだ。
たとえ彼に会えなくても、あの日のことは忘れない。あなたが私にくれた言葉・・・私はそれを忠実に実行することにした。
日常に集中して、あのことを考えないようにする。それを突き詰めた私は、ついに心を閉ざすという答えにたどり着いた。
どんなことをしても楽しさを感じない、どんなことをされても悲しみや怒りを感じない、そしてすぐに忘れてしまう。そうすることで、私はあらゆる雑念を心の中から消すことにしたのだ。
油断すると、すぐ「死にたい」という感情に心が囚われてしまう。そんな死の誘いから自分を守るためには、自分自身の心を「殺す」しかその術はなかった。
両親からの虐待は、相変わらず続いていた。
両親は千尋の代わりとなる子供を作ろうとした。そして、首尾よく母は妊娠した。しかし、出産までには至らなかった。高齢での妊娠だったということがあり、妊娠の途中で流産してしまったのだ。そしてそれ以降、二人に子どもができることはなかった。
私はそのことも責められた。「俺たちの間に子供ができないのは、お前が邪魔しているからだ」って。ただの言いがかりだった。けれど、私はどんなに侮辱され、罵倒されても抵抗一つしなかった。
自分はそれくらいのことをされても何も文句が言えない人間だと感じていたからだ。家族に対する負い目がそうさせていた。
どんなにひどい目にあっても、私が自殺をしなかったのは、加藤君の言葉があったからなのだと思う。だから私は加藤君に心の底から感謝している。加藤君に出会えたから、私は生きていられたのだ。彼は私のことをずっと守ってくれていた。
だけど、時々こんなことを想うのだ。もしもあの時・・・私が犯した罪を告白して、彼に助けを求めていたら、彼は・・・どうしていたんだろう。
きっと、私の醜い姿に幻滅して、青ざめていただろう。いや、あるいは優しい彼は、ぎゅっと私を抱きしめてくれていたかもしれない。もしかしたら、私をもっと別の方法で守ってくれていたかもしれない。
だけど、もうそんなことはどうでもいい。私は、犯罪者だ。そしてそれを隠している罪深い人間。そんな人間が、自分が助かる方法を願うなんて、馬鹿げた話だった。
それにもう・・・私には十分だ。加藤君は・・・加藤君の言葉は、ずっと私のことを守護霊のように守り続けてくれていたのだから・・・。