第2節 母娘の一日
私は、父と母の一人娘として生まれたのだった。父はサラリーマンとしてバリバリ働いている人だったらしい。けれど、仕事のし過ぎで重い病気を患い、私が3歳の時に父は病死してしまった。だから、私には自分の生みの親に関する記憶はない。さっき思い出していた記憶の中の父親は、母が再婚した人のようだった。
私の父が亡くなった後、それから私はずっと母の手一つによって育てられてきたのだ。
私が5歳の時のことだった。
「千早―、早く起きなさい、遅刻するわよ!」
母の暖かな声が聞こえる。
「はーい」
私は目をこすりながら、居心地の良い布団からゆっくりとはい出ていた。
キッチンの方から、トーストを焼くいい匂いがする。私はそれにつられて起きだすのが常であった。
布団から這い出ると、まずは掛布団と敷布団を丁寧にたたんで、押し入れの下段にしまう。次にパジャマを着替えるのだ。私が通っていたのは保育園だったので、特段何かの制服があったわけではない。
私はいつも可愛い花柄の服を好んでいた。何となく思い出したが、幼少のころの私は明るい性格だったようだ。
なんてことのない普段通りの朝だ。幼いころの私は、ただ布団にくるまっていただけだから、何も意識することはなかったのだが、母はいつも私が起きるよりも1時間も早くに起きて、私が今日のお昼に食べるお弁当を作ってくれていたのだった。
洗面台に向かい、まずは顔を洗う。冷たい水が顔にしみて、目が冴え渡る。そして私はダイニングへと移ってくるのだ。
テーブルにはすでにきつね色に焼きあがった1枚の半分のトーストにマーガリンが塗られ、あとはたぶん昨日の作り置きのコーンサラダに、目玉焼き、それからコンソメスープが出されていた。いつも思っていたが、5歳の私には、この量はちょっと多かったようで、いつも何かを残していたような気がする。
「いただきまーす。」
「はい、ゆっくり食べてね。」
母の優しい声が響く。
「はーい。」
トーストにかじりつく。母は、今日の私のお弁当をせっせと作っていた。たぶん最終仕上げの段階なんだろう。
「ママ、今日のお昼ご飯は何?」
「うん?今日はね、千早の好きなハンバーグよ。」
「ハンバーグ!?わーいやったー!ママ大好き!」
「ふふふ、千早は本当にかわいい子ね。」
母はやさしかった。母は、仕事がどんなに忙しくても、私のお弁当を欠かしたことは1度もなかったのだ。毎日、私の為にせっせと朝早く起きて、お弁当を作ってくれた。私はそんな母の手料理が好きだった。
「ママ、食べないの?」
「お弁当を作るのに忙しいからね、もうちょっとしたら食べるからね。」
「ママのトースト、冷めちゃうよ。」
「大丈夫よ。少し冷めてもおいしいから。千早は早く食べちゃいなさい。」
「はーい。」
母は明らかに無理をしていた。母は自分と私のお弁当を作り、私に朝食を出すのが精いっぱいで、とても自分でゆっくり食べる時間はなかった。だから母は、いつも時間がたって冷めてしまった1枚のトーストを詰め込むようにして食べるだけなのだ。
幼いながら、私は、母が馬車馬のように働き、忙しい思いをしていることを理解していた。それでも私を大切にしてくれる母のことが、私は大好きだったし、母のためになるべく迷惑をかけないように、「いい子」でいようと努めていたのだ。
お箸で目玉焼きをつつく。冷めて少し硬くなってしまっているが、それでもちょうどいい塩加減でおいしく仕上がっている。母は、私のカバンに風呂敷で包んだお弁当を詰め込み、自分のお弁当も同じように自分のカバンに詰め込んでいた。
そして母は急いで寝室へと向かい、着替え始めるのだ。私は母とゆっくりおしゃべりしながらでも朝食を食べたかったのだが、そんな夢はかなったことがない。
サラダを口に運んだ。実は私は、幼いころ野菜が好きでなかった。できることなら食べたくなかった。だけど、わがままなんか言ってられない。忙しい中で、母がせっかく作ってくれたサラダなのだ。「食べたくない」なんて、口が裂けても言えなかった。
「ごちそうさまでした。」
結局、目玉焼きを半分残したままで食事を終えてしまった。
「あら、目玉焼き残しちゃうの?」
「ごめんなさい、ママ。もうお腹いっぱいなの。」
「そう、でもしっかり食べないと、大きくなれないわよ。」
「うん・・・。」
「まあ、いいわ。ちゃんと野菜は食べてあるから、勘弁してあげる。千早は偉いわね、ほかの子は野菜嫌っているのに、千早はちゃんと食べてるんだもの。」
「えへへ。」
私は照れ笑いを浮かべた。母に褒められたことが何よりうれしかった。
「野菜をちゃんと食べる子は、きれいな子に成長するのよ。だから、これからもちゃんと野菜は食べなさいね。」
「はーい。」
「うん、いい子ね、千早。さあ、歯を磨いていらっしゃい。あんまり時間はないわよ。」
「はーい。」
私はダイニングを出て、洗面所に向かった。歯を磨くときは、必ず小さな踏み台の上に足を乗せるのだ。当時の私の身長では、洗面台に手が届かなかった。
歯ブラシを取り出し、甘めの歯磨き粉を塗り付けて、歯を磨き始めた。相変わらずダイニングの方はバタバタとしていて、母がようやく朝食にありついていた。
歯は5分間磨くことにしていた。母がそうしろと指示を出していたのだ。うたい文句はいつも決まって「虫歯になっちゃうと、すごく痛い思いをするんだぞ。」というものだ。あるいは、歯医者がドリルを持つ「ウィーン」という擬音を出すこともあって、子供ながらに「絶対虫歯にはなりたくない」と思っていた。
私が歯磨きを終わると、入れ替わるようにして母が洗面台に入ってきた。
「おとなしく待っててね。もう少ししたら、保育園に行くからね。」
「うん。」
もう母は食べ終わっていた。別に母は早食いというわけではない。単に時間がないだけなのだ。
私は待っている間、部屋の中でぼーっとしていることが多かった。本当はダイニングにテレビがあるのだが、朝はつけちゃいけないことになっていた。たぶん、見だしたら止まらなくなっちゃうからだろう。テレビを見ていいのは、夕食後のわずかな時間だけだった。
しばらくして、母が歯磨きを終えて戻ってきた。
「さ、千早行くよ。カバンもって。」
「うん。」
私は母の手をしっかりと握り、母と一緒に自宅を出た。母が私を自電車に乗せて、保育園に向けてかっ飛ばす。そして10分くらい走って、ようやく保育園に到着すると、母はそのまま踵を返して職場へと向かうのだ。
それから日中はずっと働き詰で、それが終わって保育園に戻ってくるのは、どうしても午後7時くらいになってしまう。私はいつも保育園で「居残り組」だった。つまり、母が迎えに来てくれるのが遅いので、「待機部屋」と呼ばれるところで、保護者が戻ってくるのを待つというものだった。
大抵、私を引き取りに来るのは、最後か最後から2番目くらいだった。
その間、私は一人で遊んでいるか、先生と遊んでいたりした。寂しかったし、辛かったけど私は、自分の母親に誇りを持っていたのだ。よく自分や先生に言い聞かせていた。
「私のママは、毎日一生懸命働いてくれてるんだ。そのおかげで、私は今ここにいられるんだよ。」
そのたびに、先生は緩んだ眼を見せていたのを覚えている。
この日も私を引き取りに来たのは、午後7時過ぎのことだった。
もうほかの子供たちもみんな帰ってしまって、私だけ、部屋の中で「一人おままごと」をして、母が帰ってくるのを今や遅しと待っていた。
こんこん。
遊び場になっている広間のガラスをたたく音が聞こえた。私はその音で窓の方を振り返った。
「あっ、ママだ!」
私の喜び勇んだ声で、保育園の先生もこちらの方に寄ってきた。先生が窓のカギを開けた。
「ママー!」
私は母に抱き着いた。
「千早、ごめんねー、いい子にしてた?」
「うん!私、ママのこと大好きだから、ずっとおとなしくしてたよ!」
部屋の鍵を開けた先生もほほえましく笑いながら答える。
「千早ちゃん、本当におとなしくいい子にしてましたよ。」
「そうですか。いつも遅くなってすいません。」
「ママー早く帰ろ!」
「そうね、千早。今日はね、千早のためにカレーライスを作ろうって思うの。」
「カレー!?やったー、ママありがとう!」
その頃の私はカレーライスが好きだった。だから、母がカレーライスを作ってくれるというと、バカみたいに喜んでいたのだ。
「先生、今日も遅くまでありがとうございました。」
母が一礼した。私は玄関の方に回り靴を履いて、急いで母のもとに駆け寄った。
「さ、千早。自転車に乗って。」
私が乗り込んで、母が自転車を動かし始める。朝の時のように焦る必要はないので、いつも帰りの自転車ではゆっくり目に走っているのだ。
母がこいでくれる自転車は、まるでゆりかごのように気持ちいい。私はチャイルドシートの部分でうたたねをするのが好きだった。
母も私がそれが好きなのを知って、わざと起こさなかったのだ。気づけば家についてる。それが日常だった。
母はそこからカレーを調理する支度を始める。こういう日は、たいてい翌日の朝もカレーライスだ。その間、私はキッチンにおかれているテレビにかじりついている。時々、そのことで話しかけたりするが、カレーを煮込んでいるときにしか反応してくれなかった。
少し寂しかったが、それでもこうしていることが楽しいと感じていたのだ。
やがて、30分くらいしてカレーが出来上がり、お皿に盛りつけられる。私には小さな可愛い食器にカレーライスが盛り付けられ、これまたかわいい小さめの器にサラダが盛り付けられている。飲み物は牛乳だった。
私はあまり牛乳が好きではなかったのだが、母が牛乳を飲めとうるさかった。
「牛乳を飲むとね、おっぱいが大きくなるんだよ。そうすると男の人にモテるんだよ。」
母はしきりにそういっていた。今から思えば、素直に母の言うことを聞いておけばよかったと思う。
「いただきまーす。」
「いただきます。」
二人が合掌して、そのあとカレーをすくいはじめた。
「おいしーい。ママ、おいしいよ!」
本当においしいと感じていた。ルゥもごく普通のカレーなのだが、やはり大好きだった母が作ってくれたからなのだろうか、その時は世界一おいしいカレーだと確信してやまなかったのだ。
「ありがとう、千早。あなたにそう言ってもらえるのが一番うれしいわ。」
「ママ、シェフになっちゃいなよ。」
「ふふふ、シェフって結構大変なのよ。一日中厨房で動き回って。私には向かないわ。」
「えー、かっこいいよ、シェフ。」
「千早がなったらどう?まずは料理を練習しないとだけどね。」
「うん!私、将来シェフになる!」
「えー、いいの?将来の夢、そんなに早く決めちゃって。」
「うん!私、ママにすごーくおいしいもの食べさせてあげたい!」
母が目を緩ませる。
「ほんと?ママうれしいわ。」
母がスプーンでカレーを掬い、口へと運んだ。私も同じようにした。
「今度、暇になったら料理を教えるね。シェフにならなくてもいいから、ママにおいしい料理を作ってね。」
「うん、私がんばってつくる!」
母は優しく微笑んでいた。しばらくして母は保育園のことを聞いてきた。
「千早、今日はどんなことして遊んだの?」
「えーっとね、今日はしほちゃんとゆずちゃんと一緒におままごとして遊んだよ。」
「へえー、おままごとね。」
「うん。しほちゃんがパパの役で、私がママのやく、ゆずちゃんが子供の役だったよ。」
それを聞いて母の表情がどことなく暗くなったような気がした。
「ママどうしたの?」
動揺を悟られたのかが分かったからか、母は平静な顔に戻った。
「うんうん、何でもない。それで?」
「うん。それで、しほちゃんが言うんだ。『明日家族3人でディステニーランドに行こうって』。私知らなかったから聞いたの。『ディステニーランドって何?』って。そうしたら、ゆずちゃんにバカにされちゃった。『ディステニーランドにも行ったことないの?』って。ママ知ってる?」
母の顔が暗くなるのが分かった。子供って残酷だ。今だったら母がどうして顔を暗ませたのかがわかる。うちの家計にはそんな余裕はなかったのだ。でも、その時の私には、何も感じられなかった。
「ええ・・・。知ってるわよ。ディステニーランド。」
「すごく大きな遊園地なんだって。『とうきょう』ってところにあるんだって。」
「そうね。知ってるわよ。」
「いつか行ってみたいなー、ディステニーランド。すごく大きなジェットコースターがあったり、観覧車があったりするんだって。面白そうだなー。あっ、あと3人でピクニックにも行ったよ。」
「ピクニック?」
「うん。パパ役のしほちゃんが連れて行ってくれたの。私がお料理作ったんだよ。それで野原で3人で食べたの。面白かったなー。」
「それっておままごとでの話だよね?」
「うん、そうだよ。」
「そう・・・。」
気づけば母の手が止まっていることに気付いた。
「どうしたのママ?」
「あっ・・・いや、何でもない。ほら、千早も早く食べちゃないさない。ぼやぼやしていると夜が明けちゃうわよ。」
「はーい。」
私たちは黙々とカレーを食べ続けていた。
その後私たちは一緒にお風呂に入り、背中を流しあいっこをしたりしていた。今から思えば、あの時の私は、本当に母のことを愛しく思っていたのだと思う。私には、ほかに家族と呼べるような人がいなかったし、当然といえば当然だったのかもしれない。
お風呂から出た私たちは、布団を敷いて眠る準備をした。私はいつも、一日頑張った母のために、寝る前にマッサージをしてあげるのだ。
母がうつぶせになり、私がその母の腰のところに体重をかけて座る。
「ママ、気持ちいい?」
「あー、それいいわー。気持ちいい。」
私は母の腰の上に乗って、ぐりぐりと自分のおしりを動かして、腰に刺激を与えていた。
「じゃあ、今度は背中の方を叩いて。」
私は母の指示通り、背中のところをグーでこぶしを作ってトントン叩いていく。幼い私の力は弱いから、かなり強めに叩く必要があるのだ。
トントントントン
「ママ、これでいい?」
「OKOK、最高よ。そのまま続けて。」
私は母に喜んでもらえてうれしくなって、そのままトントンと叩き続ける。
やがて気持ちよくなった母が尋ねてくるのだ。
「ねえ千早。」
「何?ママ?」
「千早はパパのこと覚えてる?」
それで私は手を止めてしまった。母がそんなことを尋ねてくるのは初めてのことだった。
「千早?」
「・・・ううん。あんまり覚えていない。それに、パパのこと好きじゃなかったし。」
父が亡くなったのはここから1年以上前だ。物心ついてすぐのころだ。覚えていないのも無理はなかった。それに、父は働き詰めで、土日もほとんど家にいなかった。だから、私はそんな父が好きじゃなかった。今から思えば、なんて罰当たりなんだろう。一生懸命働いてくれていたのは父だったのに。
「そう・・・。じゃあ教えてあげるね。パパはね、すごく働き者だったんだよ。私たちのために、いっぱいお金を稼いできてくれていたんだよ。」
「でも、パパはもういないじゃない。」
「うん・・・。」
「パパが死んじゃって、その代わりママが大変な思いをしてる。パパは許せないよ。こんなにママに大変な思いをさせて!」
「千早・・・パパを怨んじゃだめ。パパが悪いわけじゃないの。」
私は母を想って、ムキになって尋ねる。
「じゃあ、誰が悪いの!?」
「誰も悪くないのよ。誰も・・・。」
「じゃあ、どうしてママがこんなに大変な思いをしなくちゃいけないの?」
その時の私には、世の中どうにもならないことがあるっていうことを、理解できなかったのだ。
「運が悪かったの。」
「運?」
「そう、運。千早、覚えておくといいわ。世の中にはね、どうしようもなく不運な時があるの。幸せになろうと思っても、なれない時もある。それでも強く生きるのよ。そうすれば、きっといつか幸せはつかめるはずだから。いい?」
「う・・・うん。」
その時には、母が言っていた言葉の真意はよくわからなかった。
「わかったら、それでいいわ。はい、今日のマッサージはこれでおしまい。ありがとうね、千早。」
「うん・・・」
何となく考え込んでいた。母が言っていた意味を理解しようとしていたのだ。
「千早、早くどいて。もう寝ないと、こんな時間よ。」
時計の方を見る。もう10時30分だ。さすがにもう寝ないと。明日も平日だった。私は母の体からどいて、寝る支度を始めた、
それからしばらくして、一緒に布団を敷いて、横になった時だった。不意に母が尋ねてきたのだ。
「ねえ千早、パパがいなくなってからさみしかった?」
「ううん、全然変わらないよ。家に全然いなかったし。でも、ママと一緒にいられなくなって、さみしかったかな。」
「そう・・・。」
その時の母の表情は覚えていないけど、きっとさみしい顔をしていたのだろう。
「もしあたらしいパパが来るって言ったら、千早は喜ぶ?」
私は少しだけ悩んだ。
「一緒に遊んでくれるパパだったらほしいかな。でも、突然いなくなったり、ママを悲しませたり、大変な思いをさせるようなパパだったら、いらない!」
母はちょっと微笑んだ。
「千早は優しいね。」
母はそれだけ言うと、すぐに静かな寝息を立ててしまった。私もすぐに眠りに落ちていった。
あの時、母は何を考えていたのだろうか。
もしかしたら、新しい父親を見つけることを考えていたのかもしれない。母は恐らく、私に父親がいないことで不憫な思いをさせたくなかったのだろう。
それに母自身、新たなパートナーを見つけることで、その負担を減らしたかったのかもしれない。母の生活はある種苛烈だった。私を育てるために必死で毎日パートで働き、私の面倒を見なければならなかった。もし新しい父親ができれば、母はずっと楽をできるはずだった。