第3節 壊れゆく心
そんな生活が1か月くらい続いたある日のことだ。
私がいつものように、お弁当を横で食べていると、突っ伏している千早ちゃんの方から話しかけてきたのだ。
「今日は普通のお弁当なのね、天海さん。」
確かに今日のお弁当は、特に何か工夫したわけではない。ただのシューマイ弁当だ。ちなみに常温である。
「私のお弁当、楽しみになってきたでしょ。」
したり顔で問うてみる。
「・・・まあ、ちょっとはね。・・・」
ツンデレだなー千早ちゃん。
「お弁当、いつもどうしているの?私がここに来てからは、千早ちゃんお昼食べれてないでしょ。」
「・・・前にも言わなかった?私、ダイエット中なの。」
「その割には、お腹の虫は正直だよね。」
千早ちゃんは、いつもお腹の虫を鳴らしていた。聞こえないとでも思っていたのだろうか。
「ダイエットって知っているかしら。お腹が減っても、ご飯は食べないのよ。」
「そういうの体に悪いよ・・・特に胸も。」
「胸は関係ないでしょ!」
色をなして怒ってきた。関係は大ありである。
「ごめんごめん、でも関係あるよ、ほんとに。食べなよ。無理してやせ我慢する必要なんてないって。おいしいよ、お弁当。」
そう言って、私はシューマイを口に運んでもぐもぐする。
「・・・分かったわ。一緒にお弁当を食べてあげる・・・」
そう言って、彼女は起き上がると、自分のかばんから風呂敷を取り出した。
「やった!食べよ食べよ。」
「その代り、場所を移しましょう。そうね・・・グランドに行きましょう。」
そう言って、彼女はお弁当と水筒を持って、廊下へと向かおうとした。
「ちょっと待って!私も行く!」
私も食べかけのお弁当をたたんで、千早ちゃんの後を追った。
今日はよく晴れている。五月晴れだ。でも、ベンチには誰もいない。わざわざこんな辺鄙なところでお弁当を食べる必要はないからだ。
私と千早ちゃんは、ベンチに腰を下ろした。私は食べかけのお弁当を広げて、お弁当の続きを食べ始めた。
でも、千早ちゃんはお弁当のふたを開けようとはしない。何かを思い詰めているのか、ずっと地面を見つめて、お弁当のふたとぎゅっと押さえつけている。
「? 千早ちゃん・・・食べないの?」
千早ちゃんの顔を覗き込んだ。彼女は、思いつめたような表情を浮かべている。
「千早ちゃん?」
しばらくして、千早ちゃんが不意に変なことを聞いた。
「ねえ天海さん、あなたは・・・自分が生まれてきた意味を考えたことはある?自分にどんな意味があって、どんな風に生きていけばいいのかって」
唐突だった。あまりにも内容が突飛なので、私は思わず聞き返した。
「どうしたの急に・・・。」
「答えて、“春香”。あなたが、この世に生を受けた意味って何?」
何を言い出すの、千早ちゃん。そんな、私の生まれた意味なんて・・・。私は・・・だって・・私は・・・生まれてはいけない子。
「質問を変えるわ。春香、あなたは“死にたい”って思ったことある?」
「・・・・。」
私は答えられない。怖いのだ。何か、心の奥底をまさぐられるような感覚。今まで。こんなことを千早ちゃんと話したことなんてなかった。もちろん、他の「知り合い」とも話したことなんてない。
「私はあるわ。春香。」
私はただ押し黙っている。
「・・・死にたくて、どうしようもなく死にたくなった・・・。衝動的に死にたいという気持ちが湧き上がってくるの。でもね、私はそれが嫌だった。だって、それって負けみたいなものじゃない。人生に負けて、それでこの世を去る。そんな自分を想像したら、とてつもなく、悔しかった。だから・・・私は、封印したの。」
「・・・何を?」
恐る恐る尋ねる。
「・・・自殺願望よ。私は、それを心の奥底に押し込めることに成功したの。そして、冷静になっていろいろと考えると・・・いろいろと分かってくるの。」
そう言って、ふうとため息をつくと、千早ちゃんは静かに口を開いた。
「この世には、どうにもならないことがたくさんある。それを何とかしようとする方が間違い。変えられないなら、耐えればいい。そして、考えることをやめればいい。何も考えず、感情を殺し、ただ目の前の日々に目を向けていれさえすればいい。そう気づいたの・・・。」
私は何も言えずに黙りこくっている。千早ちゃんにすべてを見抜かれているような気がして、私は目の前のお弁当に目を落とした。千早ちゃんの目を正視することなんてできなかった。
「春香・・・。お願いだから、もう、余計な詮索はもうやめて。春香の気持ちはすごくうれしい。私のことをこんなにも思ってくれているなんて、思わなかった。でもね、春香・・・私には春香のやさしさがとげのように刺さってくるの。お願い、心の静穏を乱さないで。やさしさは、時に人にとって“凶器”になるのよ・・・。」
「千早ちゃん・・・何があったのかは私にはわからない。いったい何があったの?この数か月で。」
「お願い!やめて、春香!私はあなたのことが好きだし、私のことを気にかけてくれて、本当にうれしいって思ってる、だけど、それだから辛いのよ・・・。」
「どうして?どうしてなの!千早ちゃん。どうして、優しくされたくないの?どうして、すべて一人で抱え込もうとするの!?」
私は千早ちゃんに食ってかかった。私は真剣なまなざしを千早ちゃんに向けた。千早ちゃんは、私の眼光を前に、目をそらし、自分のお弁当箱に視線を落としていた。
「・・・誰も巻き込みたくないからよ・・・。どうせ、私の問題は、誰かが解決できるようなことじゃない。春香が知って解決できるようなことじゃないし、知ったら、絶対春香が巻き込まれてしまう。それに・・・」
気づくと、千早ちゃんの目には涙が浮かんでいた。
「それに・・・このままだと、いつか春香のやさしさに甘えてしまう。私はそれが何より怖いの。自分の問題は・・・自分の中で抑えていたい。誰にも迷惑をかけたくないから・・・。」
「いつか・・・パンクしちゃうよ。千早ちゃん、壊れちゃうよ・・・。」
千早ちゃんは涙をハラハラ落としている。
「春香・・・もう、壊れてるの。私は・・・。」
私は千早ちゃんのもとに寄って、ハンカチを取り出すと、それで彼女の涙をぬぐった。そして、彼女を抱き寄せた。
「全部話して・・・千早ちゃん。」
千早ちゃんは何も語ってくれない。
「千早ちゃん・・・!」
千早ちゃんは、私からハンカチを奪い取って、涙をふくと、ぎゅっとハンカチを握りしめた。
「ごめん。春香・・・。今は・・・今は、何も言えない・・・。」
千早ちゃんからは、本当に悔しいという気持ちが伝わってきた。たぶん、千早ちゃんは、私にすべてを話してしまいたいんだ。私のことを信頼してくれている。だけど、その優しさに応えることができない。だから、きっとつらいのだ。
私は千早ちゃんの体をさすった。
「いいんだよ・・・時間がかかっても。私は、千早ちゃんのそばからいなくなったりしないから・・・。」
そう言うと、私は彼女からお弁当箱を奪って、お弁当箱をぱかっと開けた。千早ちゃんは、なにをする?と言いたげだ。
お弁当箱の中は、ごま塩ごはんに、野菜炒め、それに卵焼きとプチトマトだ。
「千早ちゃん、いいお弁当じゃない!」
私は千早ちゃんのお箸を取り出すと、卵焼きを一つまみした。
「千早ちゃん、あーん、して。」
手であてがいながら、卵焼きをつかんだ箸を千早ちゃんの口元へ。
「春香、恥ずかしいよ。」
千早ちゃんは、恥ずかしがってそっぽを向いてしまう。
「食べないと、私が食べちゃうよ。」
そう言って今度は、私の口元に運ぼうとする。
「あーん」
わざとらしく大口を開けて、千早ちゃんの気を惹いてみる。まだそっぽを向いたままだ。だったら、本当に食べちゃおう。
ぱくっ。ん?ちょっとしょっぱいか。
「千早ちゃん、ちょっとしょっぱいんじゃない?」
「私は・・・春香と違って、甘いのはそんなに好きじゃないから。」
「じゃあ・・・こっちはどうかな?」
今度は野菜炒めを一つまみ。ん、これはちょうどいいくらいかも。
「野菜炒めはちょうどいい感じだよ、千早ちゃん。プチトマトも食べちゃおっかなー。」
チロッ。千早ちゃんの視線がトマトに向いた。トマトは食べたいのかな。
お箸を、千早ちゃんのお弁当箱の上に置き、プチトマトのへたを外して、千早ちゃんの口元へ向ける。
「はい、あーん」
千早ちゃんはおずおずしながらも、わずかに口を開いた。そこにプチトマトを勢いよくねじこんだ。
奥の方に入ってしまったのか、げほげほと千早ちゃんはむせ返った。
「ごめんね、ちょっとやりすぎちゃったよ。」
「まったく、春香ったら。お弁当くらい、自分で食べられるわ。」
そう言って、箸を持ち上げると、もぐもぐとご飯を食べ始めた。
「早く食べないと、5時間目の授業始まっちゃうからね。」
私も早く食べきらないと。私はもう一度自分のお弁当箱を開けて、残ったご飯を食べ始めた。お互い目の前の食事に集中して、口を開かない。しばらく沈黙が続いた後、私は千早ちゃんに提案した。
「千早ちゃん、これからもお昼は一緒に食べよう。別に、千早ちゃんのことを聞いたりはしないからさ。」
千早ちゃんは、顔を曇らせた。少し迷っているような気配だ。でもしばらくして、「まあ・・・いいわよ。その代り、これまで通り、お互いのプライベートには触れないようにしましょう。私たちは、あくまで表面的な友達関係ということで。」
私は千早ちゃんの言い方に少し違和感を覚えたが、千早ちゃんと関わりが持てるなら、それでよかった。とりあえず、千早ちゃんの心の支えになってあげられることができる。そしてそれは、私の支えでもあるのだ。
私と千早ちゃんの奇妙な友達関係は、こうして維持されることになった。私が千早ちゃんの教室を訪れて、晴れた日にはあのベンチまで行って、二人で談笑しながらご飯を食べた。雨の日には、教室で席をくっつけて、一緒にお弁当を食べていた。
私の中で、だんだん千早ちゃんの存在が大きくなっていくのを感じていた。午前中は、「早くお昼ごはんにならないかなー」ってわくわくするし、午後になると、「明日はどんなお弁当を作っていこうかなー」と考えていたりするのだ。
千早ちゃんを驚かせるようなお弁当を作ってみたいな、とか、千早ちゃんとおかずを交換し合いたいな、とか、そんなことに胸をときめかせているのだ。私はずいぶん幸せな女だ。
相変わらず、普段の生活はつらいままだ。母を怒らせないように、いつもびくびくしていたし、食材の制限があるから、大した料理ができるわけでもなかった。それでも、日々の楽しみができたからからなんだろうか、そんな辛い日々も乗り越えられるような気がした。しかも、受動的ではなく、能動的に。
千早ちゃんは、私との関係を楽しんでいるのだろうか。確証は持てなかった。でも、おそらく、千早ちゃんは楽しんでいるんだろうと思う。でも、その中には恐怖が色濃く見え隠れしていた。
千早ちゃんが言っていた通り、私の存在は彼女の心の「静穏」を乱していたんだと思う。千早ちゃんは、ふと突然恐怖におびえたような顔を見せるときがあった。私は、そのたびに彼女を気遣っていたが、たぶん彼女がおびえていたのは、きっと私に心を許しそうになっていたからなのだと思う。
それは、実は私も同じだった。虐待・・・その事実を話して、楽になってしまいたいと思った。別に話したからって、どうにもなるわけじゃない。私がレイプされて生まれた子供だという事実は変わらないし、母に疎まれ続けるのも変わらない。
確かに、千早ちゃんの言う通り、世の中には、どうにもできないことは数多くある。でも、相談に乗ってくれるだけで、理解者になってくれるだけで、解決できなくても、だいぶ楽になってくれるものもあるのだ。
千早ちゃんなら受け止めてくれる気がした。本当に身勝手な推論だ。そして、私の重荷を背負ってもらう代わりに、千早ちゃんの重荷を背負ってあげよう。二人で抱えれば、きっと重さは半分になるはずだ。
でも私はそのとき、まだ知らなかった。千早ちゃんの闇は、私が想像していたよりも、ずっとずっと深かったことを・・・。