第2節 春香の家へ
結局、私は春香にすべてを打ち明けてしまった。
あの時の状況なら、別に春香に何も話さずに、そのまま身を投じることだってできたのに。私はそうしなかった。それは、私が弱かったからだ。
春香と一緒に過ごすようになって、私の気持ちはどんどん変わっていった。私が体を捧げるようになってから、春香を遠ざけようとしたのは、春香にも述べたが、こうやって私が春香にすべてを打ち明けてしまって、春香に迷惑をかけてしまうからだった。そして、春香に助けを求めて、春香に負担をかけてしまうからだった。
私の秘密は、誰にも知られたくはなかった。私が妹を見殺しにして、その贖罪のためとして、あの人の気が済むように体を捧げてきたこと。もちろん、春香にだって知られたくはなかった。
春香と一緒にお昼ご飯を食べるようになって、私はどんどん春香に心を奪われていった。そしてそのたびに、衝動的にすべてを打ち明けてしまいたくなった。そのたびに、私は正気になって、何とか踏みとどまってきたのだ。
だけど、もう私には限界だった。高校を卒業して家を出るまでのあと1年半、一人であの人に対峙するのは無理だった。だから、私はそこから逃げてしまおうとした。誰にも、何も悟られないようにして・・・。でも、結局それはできなかった。
あの日、春香から放課後の教室に来るように言われたあの日、本当に、私は死ぬつもりでいた。春香は賢いから、きっと私の異変に気付いていたのだ。私は、春香に誘われてしまったので、ひどく迷っていた。春香の胸の中に飛び込んでしまおうか、それとも地面に飛び込んでしまおうか。約束の時間になっても決められず、廊下をうろうろしていた。そして最終的に、私は後者を選んだ。
もしあそこで春香が来てくれなかったして、私は本当に地面に向かって飛び込むことができていたのだろうか。私は臆病な女だ。死にたいと思っても、きっと死にきれなかったんじゃないか。結局、春香に助けを求めてしまうのではないか。
あの日から、私は春香のことを「かけがえのない存在」だと思うようになった。月並みな表現をすれば「親友」だと思うようになった。春香に打ち明けたおかげで、私の気持ちは本当に楽になった。
春香にすべてを打ち明けてからというもの、あの男に体を奪われた後は、決まって春香にすべての辛さを打ち明けていた。私は、たとえあの男に体を弄ばれていても、春香の胸の中で泣き晴らせば、あとは胸がすくように軽くなっていたのだ。
でも、私が春香につらいことを打ち明けるたびに、次第に春香の顔が険しくなっていくのを感じた。私はそのたびに春香の身を案じた。春香も母親から執拗な虐待を受けているのだ。私はその点を心配しなければならなかった。そして、私の激白が、春香の心に重荷として伸し掛かっていることをひどく心配した。でもそのたびに春香は「大丈夫だよ」と笑って返すだけなのだ。私は、春香がひどく心配になった。
夏休みになって、春香と会えなって、私は春香の存在の重みを痛感した。
私も春香も携帯電話は持っていなかった。今時、高校生にもなって携帯電話を持っていないのは珍しいほうだったが、お互いに親から愛されていなかったのだから仕方がない。
1か月半にわたって、春香に会えないという事実が、あまりにも重くのしかかった。考えるだけで辛い。夏なのに、私の心には隙間風が吹きすさんだように、寒気が襲ってくる。春香がいてくれるから、春香がそばにいてくれるような気がしたから、あの人が私を襲ってきても、私は何とか大丈夫でいられたのに。連絡が取れないなんて・・・。
何とかして連絡を取りたい。そして、春香と一緒に遊びたい。思えば、春香と一緒に過ごしているのは、いつも学校の中だけだった。春香とは、どこにも遊びに行ったことはない。当然、春香の家に遊びに行ったことはないし、自宅に招いたこともない。
でも、夏休みの今なら、それも可能だ。私も春香も、うちにいるか、バイトをしているかの2つしか選択肢はないはずだ。
どこかに遊びに行くことなんか、できはしないだろう。そんなお金はないし、お金を使ったことがばれたら、きっと親に半殺しにされてしまう。
だったら、家で遊べばいい。どちらの親にも気づかれないように、昼間の時間だけ遊んで、帰ればいい。平日の昼間なら、それはできるはずだ。
私も春香も、火曜日と木曜日の午前中であれば、お互いに「暇」であることは知っていた。そして、フルタイムで働いている私の両親と春香の母親は、外に出ている。早速、次の火曜日の朝にアプローチしてみよう。
ある8月の火曜日、午前10時。
いくら寝坊助とはいえ、この時間には起きているだろう。春香の家の電話番号は、去年のクラスの時の電話連絡網で分かっている。
私は緊張と興奮で震える手で受話器を上げる。7コール目で、応答があった。
「もしもし、天海です。」
「あっ、春香?」
予想通り、電話には春香が出てくれた。
「あれ?千早ちゃん!?どうしたの、何かあった?」
「いやっ、特に何かあったわけじゃないんだけど・・・今は春香のお母さんは、いないんだよね。だったら・・・その・・・なんていうか・・・い、今から、春香のうちに遊びに行っていいかなって・・・。」
口に出すと、結構恥ずかしい。みんな、友達と遊ぶ時ってこんな恥ずかしい思いをしているんだろうか、それとも単に言い慣れてないだけなんだろうか。
「えっ、今から?あっ、うちちょっとちらかってるから・・・ちょっとしたら。片づけるから、待ってほしいんだけど・・・。」
「あっ、待って。そのままでいいのよ。お互いに親には、悟られないほうがいいでしょ。親に知れたら、何されるかわからないし。だから、普段通りで。」
「そう・・ね。じゃあ、今から1時間後に私の家の近くの駅まで来てね。」
「ええ、分かったわ。」
そう言って、私は電話を切った。
それから1時間して、私は春香の家の最寄り駅に到着した。
良く晴れていたので、とても暑かった。
お互いに時間通りに駅に到着。春香の案内で彼女の家に着いた。当然だが、春香の家に来るのは初めてのことだ。
「狭いけど、ごめんね、我慢してね。」
春香の家は、団地アパートの8階にある。1LDKの一般的な住居だ。私の家とほとんど変わらない。
今どき見るのは久しぶりだが、ちゃぶ台がある。私はそのちゃぶ台のところにある座布団の上で胡坐をかいていた。春香は冷たい麦茶をふるまってくれた。
「何か食べる?簡単なものなら作れるよ。」
春香はそう言ってくれたが、ごちそうになるわけにはいかない。ここまでごちそうになったら、たぶん存在がばれてしまう。
「いや、いいよ。自分で作ってきたし。」
そう言って、カバンの中から、お弁当を見せた。
「なんだ、せっかく千早ちゃんに手料理をふるまえると思ったのに。」
春香はがっかりした様子を見せた。なんか、かわいいな。
春香も私の隣に座布団を敷いて、私と同じように胡坐をかいて座った。
「夏休みはどんな感じ?」
春香が訪ねてくる。
「そうね、基本的にバイトしているか、家にいるかのどちらかね。家事もやらなくちゃいけないから、どこかに遊びに行ったりとかはできないわ。そんなお金もないし。春香は?」
「私も同じ感じかな。バイトしてるか、家にいるか、あっ、でも時々図書館で本を読んでるかな。図書館のほうがうちより涼しいし。うちは、冷房あんまり入れられないから。」
「お母さんが入れるなっていうの?」
「・・・うん。だから、扇風機しか入れてない。そのおかげで、基本的に夏の暑さには強いんだけどね。」
春香はそう冗談めくが、春香の置かれた状況の厳しさを物語っているようだった。
「うちも、あんまり冷房入れてないんだ。私の場合、冷房の風がそんなに得意じゃないからね。」
「千早ちゃん、華奢だしね。」
「それ、関係なくない?」
「まあ。そうかもね。」
私と春香は笑いあった。春香が入れてくれた麦茶に手を付ける。
「春香は、最近どんな本を読んでるの?」
「最近は、推理ものにはまってるよ。シャーロックホームズとかね。」
「へえー、結構渋いの読むのね。」
「まあ、図書館にある範囲のものしか借りられないからね。たまたま目について面白そうだったから、借りてみたってわけ。」
「面白い?」
「まあね、時代背景が古すぎて、いまいちピンと来ないことが多いけどね。」
私は部屋の机の片隅に、図書館から借りてきたのとは違う、書店のブックカバーがかけられた本が何冊か立てかけられているのを見つけた。
「あれは、何かしら?」
私はその本の方を指さした。
「ああ。あれね。」
春香は立ち上がってその机のところまで足を延ばすと、さっとその本を取り出す。そして私のところに戻って、見開きの一ページ目を開いて見せた。
「『風と共に去りぬ』。」
「春香、また古い作品を読んでいるのね。」
「まあ、確かに古いのかもしれないけど・・・でも私の愛読書だよ。」
そうなのか。
「どんな話なの?」
「んー、簡単にあらすじを言うと、時はアメリカ南北戦争の時代、南軍側で生活をしていたスカーレットは、美青年のアシュレーに恋をしていた。だけどアシュレーには、婚約者がいた訳。だから、スカーレットは、アシュレーへの当てつけのために、その婚約者の兄と結婚しちゃうわけ。そこから、スカーレットの苦難の人生が始まっていくんだわ。」
「なかなか、情熱的なお話ね。」
「そうだよ!スカーレットは、とても情熱的で強い女性なの。私もあこがれてるんだー。」
なんだか意外な気がした。春香が「強い女性」に憧れているなんて。
「書店のブックカバーがかかってるってことは、自分で買ったんだ。」
「ええ。いつでも読めるようにね。バイト代を捻出して全5巻そろえたんだ!」
「なるほどねー。」
今度私も読んでみようかしら。なんだか、面白そうだ。
「千早ちゃんも興味を持った?」
「ええ。とっても。でももっと気になったのは、春香はどうして『強い女性』になりたいって思っているのかってことね。」
春香ははにかんで答える。
「強くなければ、人は生きていけないんだよ。」
春香がそれを言うと、何だか重苦しい。人生の酸いばかりを見てきたような瞳に、私は思わず吸い込まれそうになった。
あまりに私が真顔だったから、春香が少し吹き出してしまった。
「もー、千早ちゃん、何か変な想像膨らませてない?」
「い、いきなり笑うことないでしょ?それに、変な想像なんて、膨らませてないもん。」
「私が、かわいそうな子だと思ったんでしょ。」
「・・・。」
まあ、当たらずとも、・・・いや当たってるか。私は彼女の追及をごまかすため、お茶に手を付けたが、完全に逆効果のようだ。春香はにんまりと笑っていた。
「正直でよろしい!でも、私がスカーレットに憧れているのは、他にも理由があるの。」
「他にも?」
なんだろう、ぜひ聞いてみたい。
「教えてくれる?」
すると、春香はクククと笑った。
「ひ・み・つ」
えーー。
「こんな大事なところで生殺しなんて。酷いわ春香。」
「私の大切な人との思い出だからね、あんまりひけらかしたくないんだ。」
「言っても減るもんじゃないと思うけど。」
「フフ、じゃあそれは今度、千早ちゃんの家に行ったときに教えてあげる。」
ふーん、それなら仕方がない。楽しみは、またの機会に取っておきますか。
春香も麦茶に手を付け、しばらくして、春香が話題を変えてきた。
「千早ちゃんは、最近はラジオをよく聞いているの?」
「ええ、午前中家にいることが多くなったからね。音楽番組のラジオとか、よく聞いているわ。」
「千早ちゃんって、クラシック音楽しか聴かないのかと思ってた。」
「そんなことないわよ、最近の歌謡曲だって、よく聴くわよ。」
「でも、聴く専門なんでしょ、千早ちゃんは。」
「うん、まあ、歌うのってなんか恥ずかしいし、カラオケなんて行く機会もないしね。」
私と春香は、とりとめのないことをしゃべりながら、時間を過ごしていた。
春香はお昼にそうめんをゆでていた。そうめんが乗った瀬戸物の器、めんつゆの小鉢をそれぞれお盆に乗せて、春香がちゃぶ台に乗せた。いただきますのポーズをして、まずは一口。
「おいしいー。千早ちゃんも食べる?」
「・・・じゃあ、一口だけ。」
私は自分のお弁当のお箸で、麺を少しさらうと、麺つゆにつけて口に運ぶ。
「うん。冷たくておいしいわ。」
春香が笑顔を見せる。
「これが楽でいいのよ。お金もあんまりかからないし、冷たくておいしいからね。」
「あんまり、お腹を冷やすとよくないわよ。」
「大丈夫大丈夫。お腹痛くなったりしないから。」
「栄養も偏っているわ、せめて薬味のねぎは多くしないと、あとタンパク質も足りてないわ。冷奴でもいいから食べたほうがいい。」
「それも大丈夫、ちゃんと夕ご飯で取れてるから。もう、千早ちゃんってお母さんみたいだね。」
お母さんという単語に、私は少しドキッとして、下を向いてしまった。まずいことを口走ってしまったと思ったのか、春香も下を向いてしまった。
「ごめんね、親のことなんて思い出したくないよね。」
私は即座に否定した。
「うんうん、違うの。そうじゃなくて・・・『お母さん』ってのがちょっと気恥ずかしかっただけ。だから気にしないで。」
「ふーん」
春香が二口目をすすっていた。そしてそれが食べ終わった後、春香が言った。
「でも、千早ちゃんが『お母さん』だったら、絶対私、何でも言うこと聞いちゃうなー。だって優しいし。」
「じゃあ厳しくしつけちゃおうかしら。」
「ひぇー。それは怖い。」
二人はゲラゲラ笑った。
春香がぼそりという。
「私とお母さん・・・似てるのは顔だけで、似ても似つかない性格なのに、どうして親子なんだろう・・・。」
「何か言った?」
春香はこちらを向いて取り繕ったような笑顔を見せる。
「何でもないよ。」
そして春香は少しばかり思い詰めたような表情を浮かべると、こんなことを言うのだ。
「千早ちゃん。私、千早ちゃんを必ずあの家から出してあげるからね。だって、千早ちゃんにとって、あそこは監獄みたいな場所だもんね。」
その時の私には、春香がどういう意味でその言葉を発したのかはわからなかった。だけど私はとりあえず、「うん、ありがとう。春香。気持ちだけでもうれしいわ。」とだけ返しておいた。
食事にありつきながら、私と春香は、テレビを見て一緒に時間を過ごした。「笑っていいとも」を見るのなんて、何年ぶりだろう。一人の時は、テレビなんて付けないから、これはこれで新鮮だった。
午後も二人はとりとめのない話をして、楽しんだ。それにしても、楽しい時間というのは本当にあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。
午後3時ころになった。そろそろ帰らないと。今日は春香と遊ぶために、家事はまだ何も手を付けていない。せめて夕ご飯だけでも作っておかないと、さすがにまずい。
「春香、そろそろ私帰らなくちゃいけないから。」
「えー、もう帰っちゃうの。」
「ごめんね、春香。両親の夕ご飯を作んなくちゃいけないから。」
「お惣菜じゃだめなの?」
「・・・そんなことしたら、ぶっ飛ばされちゃうわ。」
少し冗談めいて言ったのだが、私の場合冗談にならないんだった。春香は、少し曇った顔を見せた。
「大丈夫。今から戻れば、全然間に合うから。」
私は荷物をまとめて、そして私が訪ねたという痕跡をすべて消して、春香の家を出ることになった。駅までは、また春香に送ってもらった。
「じゃあ・・・、また遊ぼうね。」
駅の改札前に立っていて、春香の顔はさみしそうだ。やめてよ、春香。そんな顔されると、私までさみしくなっちゃう。もう今生の別れというわけでもないのに。
「春香・・・また今度・・・じゃなくて、木曜日!明後日の木曜日、今度はうちに来ない?」
私のオファーを聞いて、春香の顔がぱあっと明るくなった。
「いいの?!千早ちゃん!」
「ええ、うちは大丈夫よ。春香、また木曜日に会いましょう!」
「やったね!じゃあ、明後日は10時に、千早ちゃんちの最寄り駅集合ね。」
「うん、わかったわ。じゃあね、春香!」
春香が手を振ったのを確認すると、私は踵を返して、切符を改札へ通した。