第3節 私の家に
2日後。私は自分の家の最寄り駅に、午前9時45分に到着した。きっと春香はまだ来ていないだろう。そう思って、私は駅の改札前までやってきたのだが、驚いた。春香はもう改札前で待って、本を読んでいたのだ。
私はあわてて、春香のもとに駆け寄った。
「ごめん、待った?」
「うんうん、私が早く来すぎちゃっただけだから。」
「何分前からいた?」
「うーん、15分前くらいかな。」
はやっ。約束の時間の30分前じゃない。
「ほんとにごめんね。じゃあ、立ち話もなんだし、そろそろ行こうか。」
私は、春香を自分が住むアパートまでエスコートした。
自分が住むマンションに到着すると、そのままエレベーターで6階へ。私の家は、603だ。
私が住む部屋の前まで来ると、ドアの横にある小さな植木鉢の下から鍵を取り出し、鍵を開けて部屋の中へ。
「おじゃましまーす」
春香の快活な声が響く。
「大丈夫、誰もいやしないわ」
「さ、私の部屋はあっちよ。」
そう言って奥の部屋へと通した。
「待ってね、今椅子を持ってくるから。」
私の部屋には、私の勉強机備え付けの椅子以外に座るところがない。私は、ダイニングキッチンにある椅子を持ってきて、そこに座らせた。
「千早ちゃんの部屋には、テレビがないんだったよね。」
「ええ、だから私はラジオをよく聞いているの。」
そう言って勉強机にある古めのコンポを指さした。
「結構古そうだね。」
「まあ、でも音は悪くないわよ。」
私はラジオのスイッチをつけた。ラジオからは、この時間のニュースが流れてきていた。私はすぐにそれを切った。
「うん、確かに。これなら悪くないね。」
私たちはしばらくとりとめのない会話を交わした。そしてしばらくして、二人の進路の話になった。
「千早ちゃんは、大学受験するの?」
「私は・・・本当は大学に行って、ジャーナリストになりたいなって、思ってるの。」
春香は、かなり感心している様子だった。
「すごいじゃない!ジャーナリストなんて!でもなんで、ジャーナリストになりたいの。」
「・・・まあ、一言でいえば、私みたいな経験をした人の声を聴いて、それを伝えていきたいからかな。私、そして春香みたいに、何らかの形で虐待されたり、いじめを受けたりしている人は、ものすごく多いと思うの。私は、そうした人達の声に耳を傾けて、それを多くの人に伝えていきたい。実際に、経験した私だから伝えられることもあると思うの。」
「・・・すごい・・・。本当にすごいよ、千早ちゃん!そこまで考えて将来を決めてるなんて、私・・・本当に尊敬しちゃう。」
私は少し戸惑った。ここまで驚いてくれるとは、正直思わなかった。
「でもね・・・たぶんそれは無理なんだよ。」
弱気な発言に、春香は少しムキになった。
「どうして無理なのよ。やってもいないうちに。」
「大学・・・行けないの。」
「えっ・・・。」
「親にね、高校出たら地元で働きなさいって言われてるの・・・。だから、私の夢は、単なる夢。」
春香はうつむいた。よく見ると、その眼には涙がたまっているようだった。
「ちょっと、春香、泣かないでよ。春香が悲しむような話じゃないじゃない。」
私は少しおどけて言ってみたのだが、春香は否定した。
「そうじゃないの、悔しいのよ。千早ちゃんは、こんなに前途有望なのに、親のせいで進路を諦めなくちゃいけないなんて・・・。」
私は春香を何とか慰めようと必死だった。
「春香、世の中には、本当は大学に行きたいけど、お金がなくて大学進学をあきらめる人はたくさんいるわ。私はたまたまそのうちの一人だったってだけ。しょうがないことなのよ。それに、お金を貯めることができたら、東京に出ることだってできる。そこから記者になることだって、不可能じゃない。」
「じゃあ、千早ちゃんが、親からレイプされたり、虐待を受けたりするのも、たまたまそういう人たちの一人だったってこと?!そんなのおかしいよ。こんな現実、受け入れちゃいけないのよ。」
春香は取り乱していた。春香の気持ちはよくわかる、というより、私が一番よく分かっている。だから、今はこれ以上蒸し返してほしくない。
「春香。現実は変えられないのよ。少なくとも今はね。だから、今は耐えるしかない。」
「そうやって、あと1年半も耐えなくちゃいけないっていうの・・・?こんなのってあんまりだよ。」
「そんなことわかってるわよ!」
「・・・・・」
ああ、気が立って、思わず春香に声を荒げてしまった。春香は、純粋に私の身を案じてくれていただけなのに・・・。私はなんてことしてしまったの・・・。
「春香。ごめん・・・。イライラしちゃって・・・。」
私は顔を手で覆った。
「ねえ、千早ちゃん。やっぱり警察に相談しようよ。あるいは、担任の秋月先生にでも。そうすれば、状況は大きく変わる。少なくとも・・・こんな八方ふさがりな状況だけは、抜け出せるはずよ!」
それは何度も検討した。でも、そんなことをすれば、私は・・・。
「あの人に、妹を殺したって言われるでしょうね。」
「でも、そんな証拠はないじゃない!そんなこと単なる言いがかりに過ぎないよ!」
「状況証拠を提供できる人が・・・いるのよ。」
「それって・・・?」
「誰だかはわからない。でも、警察の資料では、私の姿を見たっていう人がいるらしいの。」
「本当に、そんな人はいるの?もしかして、千早ちゃんに鎌をかけるために、そんなデマカセを言っただけじゃないの?」
確かに、その可能性はある。私を初めて犯した日のあの焦燥も、単に演技だったのかもしれない。だとしたら、どうして突然あの人は私を襲ったのだろうか。女性的な魅力に欠いている私を、どうしてそんな・・・。
屈辱を与えたいからだろう。そんな動機を持つということは、あの男の中での私への恨みは、本物のはずだ。
「なんとも言えない。だけど、私にとってはどちらにしろ、分が悪い賭けになってしまうでしょうね。」
「そんな・・・」
「どっちにしろ、大事になって、学校にはいられなくなると思う。私の母親もどうなるかわからない。あの人は、あの男に依存しているから、あの人が私を抱いているって知ったら・・・」
春香は肩を落とした。私が抱えている状況が、あまりに複雑すぎるのだ。最初から、どうにもできない。だとしたら、何もせずにじっとしているのが正解だ。
私は重い空気を換えるために、質問をぶつけてみた。
「春香のほうこそどうなの?大学は?将来の夢は?」
「私は・・・全然決まってない。でも、私も千早ちゃんと同じ。大学には行けない。きっと、このあたりで就職するんだと思う。」
「そう・・・。」
私はそっけない返事しかできなかった。
「でも・・・お嫁さんなんかもいいかもね。」
春香は、ふとつぶやいた。
「確かにね、きっといつかはそうなるんでしょうね。春香も、運命の人と結婚して、子供を産んで、子供を育てて・・・。」
「そういう月並みな人生って、それこそすごく幸せなんだよね。少なくとも、私たちはそういう人生を今まで歩めなかったわけだし。」
春香は少し自嘲気味に言い放った。私は窓の外をぼーっと眺めていた。
春香は言う。
「私・・・不安なの。仮に結婚して、子供ができて、その時に、ちゃんと自分の子供を愛することができるのかって。親の愛情を知らない私が、子供に愛情を注ぐなんて、無理なんじゃないかって思う・・・。」
春香は涙声になっていた。
「私も不安。ちゃんと、男の人を愛することができるのかな。ちゃんと、抱かれることができるのかな。」
「千早ちゃん・・・。」
「怖いよ私、好きな人に抱かれているときに・・・あいつの顔が浮かび上がってしまうんじゃないかって思うと・・・。」
重い沈黙が流れた。
私は、気を紛らわせるため、ラジオのスイッチを入れた。ラジオは相変わらずお昼のニュースが流れ続けている。世の中のニュースだと、最近景気が落ち込み始めたらしい。でも、今の私たちにとってはどうでもいいことだった。
ふと、春香が口を開いた。
「ねえ、千早ちゃん。高校を卒業して、親元から離れられるようになったら、一緒にアパートを借りて住まない?」
「えっ、二人で家をシェアするってこと?」
突然の提案に驚いた。けど、いい話だ。春香と一緒に生活できるっていうなら、私も賛成だ。
「そうそう、どうせ二人ともこの地元で働くんだから、二人で住めば家賃も半分になるし、二人で住めばきっと生活も楽しくなるよ。」
「いいわね、楽しみだわ。そうすれば、二人で一緒に遊びに行くこともできるし、もう誰にも邪魔されなくなるもんね。」
「そうだよ、だからあと1年半、お互いに頑張って生き抜こうよ。何があっても、お互いめげないこと、困ったことがあったら、お互い相談しあおう。そうすれば、大丈夫だよ、あと1年半くらい。」
前向きな春香の言葉は、まるで私の心を包むようだった。
「そうね、そうしましょう・・・。ありがとう、春香。そう言ってくれると、何だかすごく安心する。」
「私もだよ。千早ちゃんが付いていてくれるって感じるだけで、すごく安心。強い味方を手に入れたみたい。」
私は微笑した。
「私はそんなに強い人間じゃないよ。」
つられて春香も笑う。
「私だって、別にスーパーマンじゃないからね。」
私たちは、楽し気に笑いあった。こうやって、お互い自然でいられることが、何よりの幸せだった。
そんな折、ふと、春香が何かに気付いたようだ。
「千早ちゃん、CDって持ってないの?」
私の趣味が音楽鑑賞なのに、CDが見当たらないことに気付いたらしい。
「一応、あるにはあるわよ。」
私は自分の部屋の引き出しを開いた。そこには、近所の100円ショップで買ってきた、クラシック音楽CDが20枚くらいもあった。
「私もアルバイトをするようになって、細々とだけど、こういうものを買えるようになったの。でもなかなか、買えなくてね、両親にほとんど召し上げられちゃうからね。」
「千早ちゃんは、どんな曲が好きなの?」
んー、好きな曲か。少し考えたうえで、私は答えた。
「レクイエムかな、別に誰の作曲のものってわけじゃなくて。」
「れくいえむ?」
「鎮魂歌って意味よ。讃美歌の一種ね、まあ聞いてみるとわかるわ。」
私は、CD集から適当に楽曲を選択して、レクイエムを流してみた。流したのは、モーツァルトのレクイエムだ。
「なんか辛気臭いね。」
実に正直な感想である。
「まあ、そうね・・・。でも鎮魂歌だけあって、気分は一番落ち着く。」
「もっと明るい曲はないの?」
「そうね・・・」
私はまたCDをあさり始めた。・・・あった!ビゼーのカルメン。
「これなんて、どうかしら」
春香は乗りの良い経過な音楽に、体を震わせた。
「確かにこれはテレビとかでよく聞く曲だね。でも、一部分しか聞かないから、結構新鮮だね。」
これは春香にも好評だったようだ。
音楽にも飽き飽きとしてきたころ、私はふと急に、この間の約束のことを思い出した。
「ねえ、春香。今日こそ教えてよ。春香がスカーレットに憧れている理由。強い女性に憧れている以外に、理由があるって言ってたじゃない。」
春香がびっくりして、少し困惑した顔をしていた。
「あっ・・・あー、それね・・・。」
私はにんまりしながら詰め寄る。
「春香、約束は約束よ。今日こそは、ちゃーんと教えてもらうんだから。」
春香は不思議と目を細めていた。
「分かった。じゃあ、話すね。私の生い立ちを。」
「お、生い立ち!?」
「まともに話したことなかったでしょ?私。」
確かに。春香の生い立ちを聞くのは初めてかもしれない。でもスカーレットとどんな関わりがあるのかしら。
「私、幼いころから、自分の父親がいないことに強いコンプレックスを抱いてた。お母さんのレイプの末に生まれたのが私なんだから、お父さんなんているはずがない。私が保育園に通っていた時、周りの子供たちは、みんな、お父さんとどっかに行ったとか、お父さんに何かしてもらったってそういう話ができるのに、私にはできない。そのことをバカにされちゃってね。それ以来私、全然友達ができなくなっちゃった。
そのまま小学校に上がったんだけど、そこでもずっと独りぼっちだったの。」
やはり、春香の幼少時代から・・・春香は不幸せだったのね・・・。
「だけど、小学校に入って人生が大きく変わった。」
「本に出合ったかしら?」
「その通り。小学校に入って文字が読めるようになって、本の世界に出会ったことで、本当に世界が見違えて見えたんだよ。そして私は、近所の図書館に足繫く通うようになった。そこで私は一人の大人の女性に出会った。私が『トクナガ先生』と呼んでいた若い女性の司書さんだった。その人が私に声をかけてくれたの。『トクナガ先生』は、本ばっかりに夢中になっていた私のことを心配してくれていた。そして私が『トクナガ先生』に『友達がいない』って言ったら、『トクナガ先生』は『私と友達になろう』って言ってくれた。そして私に初めての友達ができたの。」
春香の顔が自然とほころんでいくのが目に見えた。話を聞いているだけで、「トクナガ先生」が春香にとって大事な人だというのは、ひしひしと伝わってきた。
「『トクナガ先生』とはいろいろなお話をしたなー。本の話や、テレビの話、それから『トクナガ先生』自身の人生の話とか。図書館はあまり人がいなかったから、私と『トクナガ先生』は付きっきりで話をしてたんだよね。それはもう、本当に楽しかった。そして『トクナガ先生』のアドバイスのおかげで、初めて同学年の友達もできた。」
春香は自身のリボンの髪飾りを指さした。
「私が普段付けているこれ、『トクナガ先生』からもらったんだよ!小学校3年生の時にね。ラブレターと愛情お弁当のお礼として。」
「ら、ラブレター!?」
「うん。好きな人には、ラブレターとお弁当がいいって話になって、それで私が先生にお弁当を作ってあげたって訳。」
思わず私も笑顔を見せた。
「随分、かわいらしい動機ね。」
「うん。異性への好きって感情、よくわからなかったら。でも私にとっては、真剣だった。私ね、そのラブレターの中で、『トクナガ先生』が本当のお母さんだったら良かったのにってそういう内容を書いたの。」
「そうしたら、その『トクナガ先生』は何て・・・?」
「そのことには何にも言ってなかった。『トクナガ先生』は、私が虐待を受けていたということをある程度知っていた。だけど、『トクナガ先生』は何もしなかった。何もできなかったんだよ・・・。別にそのことを恨んでなんかいない。私は、『トクナガ先生』と一緒に居られるだけで嬉しかったから。先生がこの髪飾りをくれたのは、『私はいつもそばにいるよ』ってことを伝えたかったから。現に、こうやって『トクナガ先生』は今も私のそばにいる。」
そういって春香は、二つの髪飾りに手を触れていた。
「だけどもう・・・私は『トクナガ先生』には会えない。」
「どうして?」
「だって・・・死んじゃったから。」
「亡くなった・・・。」
「小学校5年生になって、『トクナガ先生』が図書館から姿を消した。『トクナガ先生』の親友で、一緒に同じ図書館に勤めていたタマキさんは、『別の図書館に異動になった』って言ってたけど、それはウソだった。『トクナガ先生』は、乳ガンで病院に入院していて、もう助かる見込みはなかった。私はタマキさんにお願いをして、『トクナガ先生』に会わせてもらった。『風と共に去りぬ』は、病院に入院していた『トクナガ先生』が読んでいた本だった。だから私はこの本が好きになった。そして『トクナガ先生』が、このスカーレットに憧れていたの。それで私も、スカーレットに憧れるようになったって訳。」
私は真剣なまなざしで春香を見つめていたが、気づけば、春香の目が潤んでいた。春香が続ける。
「私ね・・・『トクナガ先生』と悲しいお別れしかできなかった。『トクナガ先生』は、自分から私のことを遠ざけようとした。そして最期にあった病床で、「帰って。もう二度と来ないで。あなたの顔なんか・・・もう二度と見たくない。」なんて言われちゃったの。」
「酷いわね・・・。春香はそれだけ『トクナガ先生』のことを慕っていたっていうのに。そんな言い方するなんて。」
「そうじゃない。これは『トクナガ先生』なりの優しさなんだよ。『トクナガ先生』は、自分のことを忘れてほしかったの。自分のことを忘れることで、私が悲しまなくていいようにしようとしていたの。」
「それで・・・春香は忘れられたの?」
「結論から言えば・・・無理だった。『トクナガ先生』はその年の秋に亡くなった。私は『トクナガ先生』の言いつけを守って、彼女のことを忘れようとした。あの図書館にもいかなくなったし、『トクナガ先生』との繋がりがあるタマキさんにも会わなくなった。頑張って頑張って・・・忘れようとした。だけど・・・どうやっても無理だった。」
春香が拳を震わせて、下を向いて、涙を落としている。
「だから私は・・・一度死のうとしたの。」
「あの屋上で、言っていたわね。」
「『トクナガ先生』に無性に会いたくなってしまった。それで私は風邪薬を飲んで死のうとした。」
「だけど死ねなかった。」
「そう。ああそうだ。この話もしておこうかな。私、一度だけお母さんに誕生日を祝ってもっらったことがあったの。自殺未遂をした後の、中学2年生の時の誕生日。」
「そう・・・それは・・・良かったわね。」
なんて返したらいいのか分からなくて、こんな空返事になってしまった。
「うん。私にとっては、大切な思い出なんだ。そしてその時に、私の出生の秘密を打ち明けられた。私にお父さんがいない訳、お母さんが私に虐待をする訳。」
春香の母親がレイプされ、そしてその末に生まれたという悲運の宿命・・・。
「それを聞いて私、お母さんに少しだけ感謝をするようになった。私なんて、普通だったら中絶されていても全く不思議じゃない命。だけどお母さんは・・・もう中絶できなくなっていて産まざるを得なかった命だけど、そんな私を産んでくれて、必死で働いて生かしてくれている。それだけで私、本当に幸せ者なんだよ。」
はらはらと春香の顔から涙がこぼれている。私には、春香のこの涙の意味が・・・理解できなかった。
「だから私は、お母さんの虐待を受け入れようと思ったの。そうやって受け入れて、時を過ごしていこうって思った。だけど私は・・・やっぱり無理だったんだよ。私は、人の温かみを知ってしまった。優しさを知ってしまった。『トクナガ先生』の・・・愛を知ってしまった。今更私は・・・叩かれて虐げられる生活に、我慢できなかった。」
「当たり前よ。春香は何も悪くない。」
「私は・・・また一人の世界に閉じこもってしまった。『トクナガ先生』という心の支えを失って、また私は自信を無くしていた。だから私は、中学生の時、まともに友達を作れなかった。そうして私は中学を卒業して、高校に入った。千早ちゃんに出会った。」
「ようやく私が出てきたわね。」
「うん・・・。」
ずっとうつむいていた春香の口が止まる。
「・・・どうしたの?」
しばらくして春香が口を開く。
「ねぇ千早ちゃん。怒らないで聞いてほしいんだけど、いい?」
「・・・ええ、いいわよ。」
春香は一体何を言い出すのだろうか。
「私が千早ちゃんと仲良くしようと思ったきっかけは・・・千早ちゃんが『トクナガ先生』に似ていたからなの。」
「私が?」
「うん。確かに『トクナガ先生』は千早ちゃんよりも明るくて活発な性格だし、私以上におしゃべりだし、髪の色も違うんだけど、華奢な所とか、お姉さんっぽいところとか、笑ったときの笑顔とか、そういうところが『トクナガ先生』にそっくりで、それで私・・・千早ちゃんと仲良くしたいって思うようになったの。」
「ふふっ、こんな笑顔とか?」
春香が顔を上げて、そして少しだけ顔が緩む。
「そうそう。そんな感じ!・・・怒って・・・ないよね?」
私はもっと笑った。
「怒るわけないじゃない。人が人を好きになるなんて、それぞれ理由があるんだから。それに私は、春香と『親友』になれただけで、本当に幸せなんだから。」
何だか自分で言っていて恥ずかしい。こんな浮いた言葉、生きてきて一度も使ったことがないと思う。
春香も明るい笑顔を見せる。
「私、どうしても千早ちゃんのことを救いたかったんだ。千早ちゃんが、どんな苦境のもとにあったのかは分からなかったけど、なんとなく、自分と似たような境遇にいるってことは分かっていたし、千早ちゃんが自分のことを顧みず、私のことを助けてくれたことの恩返しもしたかった。それに・・・『トクナガ先生』の面影がある千早ちゃんを見て、もう一度『トクナガ先生』を失いたくはないって思ったの。」
春香があの時屋上で叫んでいた意味がようやく分かった。春香は、大切な人を一人失っていた。春香の心を一番えぐり取るような形で。だから、『トクナガ先生』の面影が残る、春香にとって大切な人を、何としても失いたくはなかったのだ。
「ありがとう、春香。春香のおかげで・・・今、こうして会話ができる。あの時春香が来てくれなかったら、多分私はこの世にもういない。そして春香を・・・塗炭の苦しみに追いやっていたと思う。」
私の人生は、自分だけのものだと思っていた。だけど、もうあの時、私の命は既に、自分だけのものではなかったのだ。
「私こそありがとうだよ、千早ちゃん。千早ちゃんが、あの時飛び降りていたら・・・多分私も後追いしていたと思う。千早ちゃんが生き残ってくれたから、私も生き残ることができたんだよ。」
「お互いに救われたのね、私たち。」
「そうだよ。だからもう、あんなバカなこと絶対にしないでね!」
春香が私を強く睨み付ける。
「分かってるって。もう春香を悲しませるようなことはしないから。」
「うん、それでよし!」
睨んだと思ったら、今度は笑顔になる。まったく、春香の顔は七変化の様に面白い。
「ちょっと、トイレ行ってきていい?」と春香が言う。
「いってらっしゃい。」
私はトイレの場所を教えると、私の部屋を出ていった。
初めて春香が辿ってきた半生を知った。これまで決して聞くことが無かった春香の道筋、そして、そんな春香の中の私の位置づけについても知った。春香にとって、私はかけがえのない存在になっているようだった。
かく言う私も、もう春香抜きに生きることなんて、まるで考えられない。まるで私の体の一部分であるかのようだった。
私も・・・春香に語っておくべきだろう。私が過ごしてきた人生、そして、私が春香に隠している「秘密」について。
「ただいまー。」
「おかえりなさい。」
5分程度で春香がトイレから帰ってきた。春香が椅子に座るや否や、私は突然切り出した。
「ねぇ春香、今度は私の半生を語らせてくれないかな。」
春香は少し面食らったような顔をしたが、すぐに笑顔で首肯した。
「私の両親はいたって普通の人だった。普通に結婚して、普通に私を産んだ。だけど、私の生みの父親は、私が幼いころに病気で亡くなってしまったの。それまで母は専業主婦をしていたのに、父が亡くなったせいで、経済的にも精神的にも苦しい生活を余儀なくされたわ。母は毎日、私の為にお弁当を作って、私を保育園へ送り迎えして、夜までフルタイムで働いて、それでも家計には全く余裕が無かった。そんな生活が続いていたの。それに耐えられなくなった母は、新たな伴侶を見つけた。私が小学校2年生の時に、母は再婚した。」
「その再婚相手が・・・あの男なのね。」
「そうよ。あの男は、私のことが嫌いだった。前の旦那の面影が残る私を、最初から毛嫌いしていた。私は、物心つく前に父親を亡くしていたから、私にとっては初めての父親だった。だから私は、新しいお父さんに好かれようと、色々な努力をしたわ。一生懸命会話を振ってみたり、休みの日にはマッサージをしてあげたり、だけど全然・・・あの人の態度が変わることは一度もなかった。」
私は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「千尋が生まれたのはその翌年のことよ。千尋の存在は、曲がりなりにも安定を保っていた如月家を大きく変えてしまった。あの男は、当然、自分の遺伝子が入った千尋を可愛がった。溺愛と言ってもいいくらいだったわ。そして母の愛情も、次第に私から千尋へと移っていった。私は段々と、家族の環から外れていくのを感じていた。」
私はため息を吐き、こみあがってくる涙を抑えようと上を向いた。
「千尋は本当にかわいい子だったわ。私も千尋のこと、本当に大好きだった。私たちはいつも一緒に遊んでいた。千尋と遊んでいると、いつも全然飽きないの。時間だけが矢のように過ぎていく。だけど、そんな純真な千尋も、いつかは如月家の矛盾に気付いてしまう。それが嫌で私は、家族の団欒から自らを切り離すことにしたの。」
「それって・・・どういうこと?」
「・・・私だけ、食卓を外れて自分の部屋で食事をとるようにしたってこと。もちろん千尋は両親とともに食卓を囲む。私だけは、自分の部屋で食事を取る。そうでもしないと、私が他の家族からつまはじきにされているってこと、千尋に悟られちゃうでしょ。」
春香が辛そうに顔を落とす。その反面私は正面を向いた。
「・・・あんまりだよ。」
「・・・仕方ないことだった。千尋はまだ幼かったから、私だけ別の部屋で食べることの言い訳はできた。幼い千尋には、刺激が強すぎたから・・・。結果的にそれは良かったのだと思う。一応、そのやり方は上手くいっていたから。両親は千尋と食卓を囲む。私は、千尋と同じ部屋で楽しく遊ぶ。それでよかったのよ。」
私は一息ついた。
「あの事故があったのは・・・中学2年生の夏休みのこと。」
「それは・・・聞きたくない。」
春香が制してくる。春香は、屋上でのやり取りで、あの事故の概要を知っている。
「分かった。・・・あの事故の後、私は両親から虐待を受けるようになった。当然よね。私のせいで、両親が愛してやまなかった千尋を死なせてしまったんですもの。その後、二人は別の子供を身ごもった。だけどその子も流産してしまった。・・・散々なじられたわ。お前のせいで、子供が流産したんだって。」
「そんなのただの言いがかりじゃない!」
「言いがかりよ。だけど、そうでもしないと、収まらないんでしょう。あの人たちの立場に立てば、無理な話じゃないわ。」
「だからって・・・。」
私は手で春香の言葉を制した。
「続けていいかしら?」
「・・・・・。」
春香が無言になったのを確認して私は続けた。春香は顔を上げた。
「私は、小学校時代に初恋を経験した。小学校5・6年の時に同じクラスで、サッカー部のエースストライカーだった加藤君って子。優しくて中性的な感じがする、いい子だったわ。彼は中学受験をしたから、私とは中学時代に離れちゃったけど、ずっと私の心の奥底に残っていた人だった。そんな彼に、あの事故があってから2か月後くらいに、偶然街中で出会ったのよ。」
「それはまた、凄い偶然だね。」
「その日私は、委員会活動の帰りで、少し時間が遅くなっていたの。しかも悪いことに、雨が降り出していた。私は傘を持ってなくて、仕方なく、途中マンションの軒下で雨宿りをしていた。そこに彼が通りかかったの。」
「再会の仕方もドラマチックっー!」
私は思わず吹き出してしまった。
「もう、茶化さないでよ。」
春香が頭に手をやりながら謝罪してくる。
「ごめんごめん。」
「その時、私は彼にその事故の話をしてしまった。本当はそんなこと話すつもりじゃなかったんだけど・・・。成り行きでね。もちろん、あの場に私がいたということは、話していないわ。そうしたら、彼は私に、妹を死なせてしまった苦しみから逃れる方法を教えてくれた。それは、一言でいえば、せわしない日常を送ることだった。他のことを考えて、あの事故のことを考えないようにする。それが、彼が教えてくれた解決策だった。」
「千早ちゃんは、それを実行していたの?」
「私は彼から教わったことを、少し変えた形で実行していた。心を閉ざすって方法。」
春香の顔が一気に険しくなった。
「何をしても感情を感じないように心がけたの。楽しいことがあっても、楽しいと思わず、悲しいことがあっても、悲しいと思わず、怒りたいと思っても怒りを感じない。そうやって、何をしても、何も感じないようにした。心の起伏を無くした。」
「そんな生活・・・ずっと続けていたの?」
春香が震えている。
「高校1年生の時まではね。心を閉ざすことは、思ったほど難しくはなかった。」
「彼に・・・、助けを求めなかったの。その、加藤君に。」
「そんなことは許されなかった。」
「どうしてよ!?」
「彼には付き合っている女の子がいたの。私と一緒にいたら、どう思われるか分かったものじゃない。」
「そういう問題じゃないでしょ!?千早ちゃんは、それから2年間も人生を棒に振っていたというの!?」
「春香、落ち着いて。あの頃の私には、こうするしかなかったの。過去のことをなんだかんだ言ったって、もう過去は変えられないんだから。」
「・・・・・。」
「続けるわ。高校一年生の時、私は春香に出会った。・・・・。」
本当にいいのだろうか。こんなことを言って。「春香の顔が怖かったから、私は春香を助けることにした。」なんて・・・。いくら私にとっての「親友」だからと言って、言っていいことと悪いことがある。
「どうしたの?」
春香が怪訝な顔で尋ねてくる。ここまで言っておいて、今更止めるわけにもいかない。
「春香・・・怒らないで聞いてね。」
「うん。」
「私、初めて春香の顔を見た時、体が凍り付いてしまったの。」
「・・・どうして?」
「その・・・なんて言うか・・・あの・・・えっと・・・」
やっぱり、こういう表現しかない。
「怖かったから。」
「怖かった?」
「うん・・・春香の顔、表情に凹凸が無くて・・・仮面みたい、いや能面みたいだった。そんな顔が・・・怖かったの。」
「うん。」
「私、その感情を抑えようとした。私、別にお化けでもなんでも怖くなんか感じないのに、春香の顔は何て言うか・・・私の心をかき乱したの。これまで抑えていた自殺願望を呼び起こすような、そんな感じだったから。でも無理だった。」
春香は、どこか顔を歪ませている。顔はほころんでいるのに、目が笑っていない。
「私は、お化け以上って訳だね。」
私は深々と頭を下げた。
「ごめん!春香!私、春香にほっとけないって言ったけど、あれは・・・その・・・。」
「自分にとって、ほっとけないって意味だったんだね。」
「許して!春香!私、春香にとんでもなく失礼なことを・・・。でも春香自身のこともすごく可哀そうだと思って、助けてあげたいと思っていたことも本当なんだよ!」
春香がケラケラ笑っている。私はびっくりして頭をあげた。
「こんな顔でしょ。」
そういって、彼女は死んだような顔を作ってみるのだ。私は途端に肝を冷やして、そのまま気を失ってしまった・・・。
「・・・ちゃん。ちはやちゃん・・・千早ちゃん!」
ゆっくりと目を開くと、そこには心配そうに見つめる春香がいた。私は気を失って、そのままひっくり返ってしまったらしい。
「・・・春香・・・。」
「千早ちゃん!大丈夫!?頭怪我してない!?」
「イタタタ、ええ・・・なんとか大丈夫よ。」
ちょっとコブになっているようだが、まぁ大丈夫だろう。私は起き上がって、定位置の椅子に座った。
「ごめんね、千早ちゃん。もうあんな冗談二度としないから!」
「うん。そうしてもらえるとありがたいわ。それよりも・・・本当にごめんね。私、元々は春香のことを想って・・・あなたを助けた訳じゃないの。春香を笑顔にしないと、あんな顔止めさせないと、私がおかしくなっちゃいそうだから、だから・・・。」
「もういいって。全てはもう終わったことだよ。結果として、私はいじめから救われた。私は千早ちゃんの自殺を食い止めることができた。そして今こうやって、お互いに信頼して、過去を話すことができている。それで十分じゃない。」
「じゃあ・・・許してくれるの・・・?」
春香は満面の笑みを見せる。
「許すも何も、別に気にしてないよ。私は。」
それを聞いて、私はほっと胸をなでおろした。
春香が尋ねてくる。
「それよりも、今はどうなの?」
「ん?」
「感情だよ。今もまだコントロールしているの?」
私は笑って答えた。
「もう、してないわ。だって無理じゃない。こんなにも一緒にいて楽しい人を目の前にして、感情を抑えるなんて。」
春香にも笑顔が戻る。
「でも・・・感情を抑えられなくなってしまったせいで・・・悲しいことや辛いことも、その分味わわなくちゃいけなくなっているんだけどね。」
軽く言ったつもりだったのに、また春香の顔が悲しそうになってしまった。私は必死にとりなそうとした。
「あっ、でも、大丈夫だよ!あの男にやられれている時は、春香のことを考えて、春香との楽しかったことを考えているから。そうすれば、案外、早く過ぎ去ってくれるものなのよ。」
「今も・・・あの男は、千早ちゃんのこと、蝕んでいるんだよね・・・。」
春香はわなないている。
「その話は止めましょう。そんなこと話してもいいことないから。」
そう言って春香を抑えたのだが、二人の間の空気はどんよりと重たくなってしまった。
しばらくして、春香が堰を切ったように笑顔を作った。
「千早ちゃん!苦しかったり、辛かったりしたときは、いつでも連絡してね!もし千早ちゃんが悲しかったり苦しかったりしたら、私が楽しませてあげるから!例えばこんな風に・・・。」
そう言って春香が変顔を作った。
「ぶっははははっっ!なにその顔!?面白すぎ!」
「ろう?らもしんれほらへた?(どう?楽しんでもらえた?)」
「春香っ・・・ふふははは・・もう十分楽しんだっっふふ・・ぁから。もうやめてよっ」
「ほう?ふまらはいはー(そう?つまらないなー。)」
「春香、結局自分が楽しみたいだけじゃない。」
「ほうはもねー(そうかもねー)」
「まったく・・・この子ったら。」
私は右手で春香のおでこを突いた。
「うへへへ。」
春香はいたずらっ子な笑顔を見せていた。本当に、この子は千尋みたいな、かわいいかわいい子だ。
こんな感じのやり取りが夕方まで続いた。私にとっても、春香にとっても二人で過ごす時間は、とても楽しいものだった。
「じゃあ、もうそろそろ帰ろうかな。」
「そうね。もういい時間だし。私も夕飯の用意をしなくちゃいけないから。」
陽はまだ高いのだが、お互い隠れて会っている以上仕方がない。
「こうやってコソコソ会っていると、何か不倫でもしているみたいだよね。」
私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、何だかそんな感じね。」
「また会いに行くよ、ハニー。」
「もう、やめてよ。何だか恥ずかしい。」
なんで恥ずかしいのかはよく分からないけど、なんとなく恥ずかしい感じがしたのだ。
「あー、千早ちゃん赤くなってる。かわいい~。」
「こらっ、人を小ばかにするのもいい加減にしなさいっ。」
「はーい、気を付けまーす。」
「まったく。」
そう言って春香は荷物をまとめて玄関先へ。そこで靴を履いた春香が振り返った。
「千早ちゃん、私、必ず千早ちゃんを助けに行くからね。千早ちゃんが悲しい顔をしたり、苦しんだりしなくてもいいように、頑張るから。」
「え、ええ。ありがとう。」
「じゃあね、また今度。」
「ええ。またね、春香。」
そう言って、春香は我が家を後にした。この時の私は、春香が言っていたことの意味を理解することはできなかった。
私たちは、こうして夏休みの間、お互いの親に内緒で、お互いの家を行き来して遊んでいたのだった。