第4節 9月18日
私はこんな生活でも満足だった。日常の生活は、苦しかった。それは間違いなく春香のせいだった。春香と出会う前の私は、感情を押し殺して生きてきた。どんなにつらいことがあっても、悲しいことがあっても、逆にうれしいことがあっても、「人生なんて所詮そんなものだ」と斜に構えて、何も考えないようにしていた。
それはそれで楽だった。何も感じることなく時が進み、気づいたら大人になり、そして気づいたら中年になり、そして老いて死んでいくんだろうと思っていた。
けど、春香に会って私のライフプランは変わってしまった。春香といて楽しい。心の底から、楽しいといえる時間ができてしまった。
でもそれは、封印していたはずの別の感情も呼び起こすことになってしまった。悲しみ、辛さ、そして・・・自殺願望。
それは嫌なことだった。でも、楽しいという感情と引き換えだったのだから、仕方のないことだと思った。この上、苦しみまで取り除いてほしいなんて、罰当たりだ。だから、私の生活は、これでよかった。でも、そんな生活は何の前触れもなく、大きく変わることになった。
2学期が始まってしばらく経った9月18日のことだ。この日はバイトがあって、家に帰ってきたのは午後9時過ぎのことだった。
自宅マンションに近づくと、辺りがおかしいことに気が付いた。なぜか、マンションの下にパトカーが2台止まっているのだ。しかも、辺りは騒ぎを聞きつけた住人が何人か集まって、ひそひそと話し合っている。
そのうちの一人が、私の姿を見つけると、バツが悪そうに眼をそらした。何だか嫌な予感がした・・・。何が起こったのかはわからないが、とにかく、私にまつわる何かが起こったのだ。
瞬間的に頭をよぎったのは、3年前の妹の死だ。まさか、そのことで何かわかってしまったことがあるのではないか・・・。背筋がゾクゾクっとした。もしかしたら、父親が私のことを警察に告発したのか・・・。じゃあ、もう私は学校にいられないの・・・?
とにかく私は、近くにいた警官に話しかけてみることにした。
「すみません、あの・・・何かあったんですか?」
警察官はひょうひょうと話し始めた。
「ああ、このマンションの6階で首つり自殺があってね、奥さんが通報したんだよ。君、このマンションの住人?」
6階で自殺・・・?私が住んでる階じゃない・・・。まさか!
「ええ、そうなんですけど・・・。事件があったのって?」
「603号室」
予感は当たった。マンションの住人が、顔をそむけたのはそういうことだったのか。たぶん、今回の件は3年前の事故とは関係ないんだろう。そうと分かっただけで、とりあえず一安心だった。
「私・・・603号室に・・・」
警察官は怪訝な顔を浮かべた。
「まさか、君、603号室で自殺した人の娘さん?」
「ええ・・・。」
「そうか・・・このたびは、残念だったね。今、君のお父さんの遺体は、この近くの病院に安置されている。行ってみるといい。」
そう言って、その警察官は病院の名を教えてくれた。
「・・・ありがとうございます。母が・・・母が、発見したんですか?」
「そうだよ。君のお母さんから通報があってね。それで、随分取り乱していたよ。泣き叫んでてね。まあ、こんなことがあったんだから、多少はやむを得ないだろうけどね。」
そう言われて、私は「父が死んだ」と聞かされたのにもかかわらず、自分がなんとも思っていなかったことに気付いた。演技でもいいから、悲しんだふりをしたほうがいいのだろうか。
「今頃は、君のお母さんも病院にいると思うよ。早く行ってあげなさい。それと、事件性がないかどうか確認してて、今現場検証中だから、今日は中に入れないからね、それは覚悟しておいてね。」
「・・・わかりました。ありがとうございます。」
私はそう言って一礼すると、病院行きのバス乗り場に向かって歩き出した。
胸の高鳴りを感じている。興奮しているのだ。病院行のバスに乗るのは、実に3年ぶりだ。妹を見殺しにして、その時に乗ったきり。妹を見殺しにしたという罪悪感がフラッシュバックしてきて、ドキドキしているのが一つ。そしてもう一つは、あの憎き怪物が死んだという喜びがもう一つ。
冷静に状況を分析すれば、今の状態は、私にとって喜ばしいことなのだ。もう私は父親からなじられ、罵倒され、そしてあの人のモノを受け入れなくて済む。それって、もの凄く素晴らしいことじゃない!
本当にせいせいする!母親が取り乱したっていうのも、いい気味だった。あの人は、あの男に依存していたから、あれを失ったのはさぞかしショックなことだろう。
しばらくバス停で、病院行のバスを待っていた。バスを待っている間も、心は踊っていた。だんだん、あの男が死んだということの喜びの方が、妹の死のフラッシュバックよりも強くなっていくのを感じた。
バスに乗り込んで、私は人気の少ないバスの座席に座り、景色を眺めた。
3年前もそうしていた。そうして、私は考えていた。3年前、私は妹を見捨ててしまった苦しさで胸が張り裂けそうになっていた。今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られていたのだ。
それが今はどうだろう。あの男の死を素直に喜び、そして母親に対する優越感に浸りながら、病院に到着するのを今や遅しと待っているのである。
その時私は、バスの蛍光灯に照らされてバスの窓に映る自分の顔に気が付いた。自然と笑みがこぼれていたのだ。それはおそらく、喜んで出る笑みではない。人を侮蔑した時にでる、醜い嘲笑なのだ。
その醜い姿に私は驚いた。
危ない、危ない。これじゃ、まるであの男が死ぬのを喜び勇んで待っていたみたいじゃないか。こんなの普通の反応じゃない。
不審な点を見せてはいけない。あの男の死を喜んでいたと知れたら、あらぬ疑いをかけられる。私はあの男の死とは何もかかわっていない。これは本当だ。でも、もしかしたら、あの男の死をきっかけにして、3年前の事故へとつながっていってしまうかもしれない。
それは何としても避けなくちゃいけない。私は改めて自分の置かれている立場を見直した。私はあの男が死んで喜んでいる場合ではないのだ。これは、私にとって、ある種ピンチ。切り抜けなくちゃいけない局面なのだ。
意図的に真顔を作ってみる、いやそれもそれで変だ。必要なのは、悲しんでいる顔だ。でも・・・悲しい表情なんてどうすればいいんだ。意図的にしようとすると、よくわからなくなる。
試しに私が思う「悲しい」顔を作って。窓ガラスに映してみた。
ダメだ。すごく不審な表情に見える。じゃあ、放心状態の顔はどうだろうか。ショックで何も考えられないという表情だ。これなら、今までの仏頂面でいい。
私はもう一度顔を作って、窓ガラスに照らした。
うん、これならいける。この表情をキープしよう。なに、簡単なことだ。今まで意図せずともそうしてきた表情じゃないか。その表情を思い起こして、それをキープしていれさえすればいい。難しいことじゃない。
仏頂面に戻った私は、目をつぶりながら、あの男の自殺について考えてみた。そもそも、あの男はどうして自殺したのだろうか。
私には、あの男が自殺したというのが信じられなかった。私を憎み続け、いたぶり続けるという一貫した行動をとっていたあの人が自殺するなんて・・・。どうしていきなり、何の前触れもなく自殺したのだろうか。
何だか嫌な予感がする。頭の中で最悪のシナリオが出来上がりつつあった。
きっと、あの男は、別の手段で私をいたぶりに来たのではないだろうか。私をどんなに罵倒し、犯したとしても、それに慣れつつあるということを感づいたのかもしれない。
結局、自分が世間体にこだわって私を告発しない限り、私の人生を壊すことまではできない。もしかしたら、あの男は自分の命を懸けて、私の罪を告発しようとしたのではないか。「私が妹を憎んで殺した」のだと。
あの男は、最期まで、私が千尋を殺めたのだと信じて疑わなかった。けれど、私が殺したという直接的な証拠はない。それはそうだ。実際、私は千尋を殺してはいない。千尋は事故で川に落ちた。私はそれを助けなかっただけだ。
だからこそ、警察を動かし、あの事故を再調査させるために、私を告発したうえで、死を選んだのではないだろうか。
死を以て告発したのであれば、さすがの警察も捜査せざるを得なくなる。そしてそれ以前に、私は・・・母親に殺される。千尋を愛し、そしてあの男に依存していた母だったら、私を殺したっておかしくない。いや、殺さない方が不自然といってもいい。もし仮に警察が動かなかったとすれば、私は容赦なく母親に殺されるだろう。
途端に、体が縮み上がるのを感じた。本当に呑気に喜んでいる場合ではなかったのだ。私の罪が暴かれるかもしれない・・・そして私の命が危ういかもしれない・・・。
さっきの警官には遺書があったかどうかは聞かなかった。警官は、何を根拠に「首つり自殺」と判断したんだろうか。「自殺」だったら、遺書があってもおかしくない。あるから、そう判断したのだろうか・・・。
とにかく、病院に行って話を聞いてみないことには、何もわからない。とにかく、今は心を落ち着かせて、病院に到着するのを待とう。今の正解は、「悲しい」という感情だ。その表情ができないのならば、少なくとも、それに近い「放心状態」を見せなければならない。「恐怖」の感情は、おかしいのだ。
しばらくして、病院にたどり着いた。私は受付で事情を話し、あの男の遺体が安置されている霊安室へと向かった。
再び胸が高鳴ってきた。でも今度は高揚感ではない。これからどうなってしまうのだろうという不安感、そして恐怖感だ。顔はうまく作ったはずだ。あとはそれを崩さないように、慎重さを保つのみ・・・。
霊安室が見えてきた。私はゆっくりと部屋に近づき、扉を開けた。
部屋の中には、ショックのあまり、パイプ椅子に座って、肩を落として動かない母親と、白い布をかけられているあの男の姿があった。そして何人かの看護師がいた。まだ、こちらに運ばれてから、時間が経っていないようだった。
「・・・お母さん。」
私はどうしていいか分からず、とりあえず母を呼んでみた。しかし、母からは反応がない。私は母のもとに近づいて、そして座っている母の隣に行って、立膝を突いて、母の手を握った。
その瞬間、私は強い力で手を振り払われたのだ。
「気安く触るんじゃないよ・・・。」
私は突然の母の行動に驚いた。もう母親とは長いこと口をきいていない気がする。私に対して、久しぶりに放たれた言葉が、これだったのだ。
「お母さん・・・お父さんのこと、残念だったね。」
この反応であってたんだろうか。「父を亡くした娘」として、そして「夫を亡くして悲しんでいる母親を慰める言葉」として。
でも、そんなことは関係なかった。母親から放たれた次の一言は、衝撃的なものだった。
「あんたなんだろ。お父さんを殺したの。」
えっ・・・予想外の言葉に頭が真っ白になる。
「あんた、お父さんのこと恨んでたろ、だから・・・自殺に見せかけて殺したんだろ、そうなんだろ?」
「お母さん、いくら何でもそんな言い方はないですよ。」
さすがにひどいと思ったのか、看護師が口をはさんできた。私も動揺を隠しながら、反応する。
「そうよ・・・私は今日ずっと朝から夜まで外にいたのよ。どうして、あの人を殺せるっていうの・・・。」
「嘘だ・・・、嘘に決まってる・・・。」
「嘘じゃない!私は朝学校に出かけて、学校が終わってそのままバイト先に行ったのよ。言いがかりはよしてよ・・・看護師さん、お父さんが亡くなったのていつですか?」
異様な空気に気圧されたのか、どぎまぎしながらも看護師は答えた。
「・・・死亡推定時刻は、午後5時から8時までの間です。」
「ほらね、この時間、私はずっとバイト先で働いていたわよ!いい加減なこと言わないでよね。」
私の反論を聞いて、母はだまりこくった。だがしばらくして。母は静かに口を開いた。
「じゃあ・・・どうして、あの人は自殺したっていうの・・・。おかしいじゃない、お父さんが何かに悩んでいたとか、そういうことなかったでしょ・・・、なのに、どうして自殺したっていうの・・・。」
私は、心のうちの恐怖感を悟られないように細心の注意を払いながら、聞いてみた。
「遺書は・・・あったの?」
「・・・あったわ。」
私は恐る恐る訪ねた。
「遺書には・・・遺書には、何て書いてあったの?」
「遺書にはね、何も書かれていなかったの。」
何も書かれていない?どういうことだ。
「遺書には、『人生に疲れました。』とだけ、書いてあったの。しかも、お父さんの書斎のワードファイルによ。そんなの、誰だって偽装できるじゃない。」
遺書には、自殺の理由を特定できる内容は・・・無かったっていうの・・・。どういうことなんだ。父は、私を告発するために死んだのではないの?
「お父さんは、殺されたのよ!あんたにね!」
母は今にも掴みかかりそうな剣幕で、私をにらんだ。私はその恐ろしい視線に気圧されて身じろぎした。怖い・・・私は身の危険を感じた。
「お母さん!落ち着いてください!」
ただ事でない空気を感じたか、看護師は私たちの間に割って入った。
「やったのはアンタだろ!?アンタしかいないじゃない!恨んでいたのは!?お前が、お前が五郎を殺したのよおおぉぉ!」
私につかみかかろうとするのを看護師が必死に押さえつけようとした。
「違う・・・違う・・・。」
「何が違うって言うのよ!この人殺しがぁっ!!」
私は恐怖で体が硬直しながらも、少しずつ私は、そのまま後ずさりし、あの男の顔を見ることなく、霊安室を去った。
その後、私は病院側の計らいで、今日は市内の緊急一時保護施設に泊まらせてもらうことになった。緊急一時保護施設は、DV被害者を加害者から隠すため、一時的に匿う施設だ。会話の内容から、私は母親からDVを受けていると判断してくれたのだろう。
母は本気だ。本気で私があの人を殺したと思っている。このまま一緒にいたら、本当に私は・・・殺される。こんなとき、相談できる相手なんて一人しかいない。
私のすべてを知った、彼女だ。明日、学校に行ったときに相談してみよう。春香らなら、何か知恵を出してくれるかもしれない。