第5節 秋月先生の提案
翌日のお昼休み、春香が私の教室にやってくると、私は早速彼女を連れ立って、人気のない校庭のベンチへと足早に向かった。
二人がベンチに座り、周りに人がいないことを確認すると、私は静かに切り出した。
「春香・・・大事な話があるの。」
「うん・・・」
普段とは異なる切迫した雰囲気を感じ取ったか、春香の面持ちも強張っている。
「自殺したの。私の父親が・・・。昨日。」
「えっ・・・。」
春香のリアクションは、最初に私が第一報を聞いた時と全く同じだった。
「理由はどうして?」と春香は尋ねる。
「理由・・・それがわからないの。」
「思い当たる節はないの?」
食べ始めたお弁当に目を落としながら、少し考えたうえで「全くない。その前兆らしきこともなかった。」
「そう・・・。何て言ったらいいのかしら。普通だったら、多分慰めてあげるのが普通なんだけど・・・。千早ちゃんの場合は・・・そういうわけじゃないものね。」
私はその「父親」にレイプされてきた。そこから解放されたのだから、本来は逆に喜ぶべきなのだ。
「春香、気にする必要は無いわ。正直なところ、あの男が死んでくれて、心の底からうれしい。うれしいんだけど・・・」
深刻そうな私の表情に、春香の顔も曇る。
「何か・・・まずいことでもあるの?」
春香はそう尋ねる。
「最初、私は、あの人が自分の命を使って私の罪を告発しようとしているんじゃないかって思ってた。あの男は、私が千尋を殺したと本気で思っていたから、私の罪を告発する契機として、自分で命を絶ったんだと思った。けど実際はそうじゃなかった。」
春香はおずおずと尋ねる。
「どうして・・・そうじゃないってわかったの?」
「遺書にそんなこと書かれてなかったからよ。遺書には単に『人生に疲れました』って書いてあったらしい。だったら、なんで自殺したのか。」
「言葉通り、『人生に疲れた』んじゃないの?」
私は首を横に振った。
「確かに、私はあの男の心の中のことまではわからない。それに、仕事のこととかもわからない。でも、少なくとも表面的には、あの男は突然自殺をするような状態には見えなかった。それに・・・、あの男は私への底知れぬ憎しみを抱いていた。私の女性としての尊厳を奪い続けてまで執着してきたのに、ある日突然ぽっくりと自殺する・・・。やっぱり、どうしても違和感があるの。」
春香は「んー」とうなりながら、考え込んだ。しばらくの沈黙が流れた。
「千早ちゃん、こういっちゃ悪いんだけど、理由なんて、どうでもいいんじゃないかな。」
静寂を破って春香が口を開いた。
「千早ちゃんの父親が死んだ理由。それは誰にもわからない。けど、千早ちゃんの父親が死んだ事実は変わらない。もう千早ちゃんがあの人にレイプされる心配もないし、罵倒されることもない。深いことなんて、考える理由はないのよ。」
確かに春香の言う通りかもしれない。理由はわからなくても、あの男は死んだ。死人に口なし。死者が遺書でその遺志を残さなかった以上、これ以上死者の思惑を詮索することなんて無意味だ。
「ただ一つ問題があるの。結構深刻な問題。」
「何・・・?」
春香の顔がまたしても曇った。
「私の母親は、あの人を殺したのは私だと思い込んでるの。」
「はあ??」
春香は少し素っ頓狂な声を上げた。そりゃそうだろう。私だって最初そう言われて、頭が真っ白になったのだから。
「私があの人のことを恨んでいるから、あの人を殺したっていうのよ。」
「状況的には自殺だったんでしょ。仮に誰かに殺されていたとしても、昨日千早ちゃんは、バイトだったんでしょ。朝に家を出てから夜まで帰らなかったんだから、殺せるはずないじゃん。」
正論だ。それに私が殺していないことは間違いないのだ。
「確かに・・・正直なところ、あの男は殺したいほど憎い相手だった。だけど、実際私は殺していないし、春香の言う通り、死亡推定時刻のころは、アルバイトしてたのよ。それはちゃんと言ったの。でも、母は半狂乱で、私の言葉に耳を貸そうとしなかった。」
春香は怪訝な表情を浮かべた。
「どうしてって思うわよね・・・。実は。私の母親、あの男に精神的に依存してきたの。だから、あの男の死が受け入れられないみたい。」
それを聞いて、春香は納得したようだった。
「千早ちゃんのお母さんは、千尋ちゃんを・・・えっと・・・」
言いにくそうにしている春香の様子を見て、春香の言いたいことはわかった。
「私が妹を見殺しにしたことを知っているのかってことでしょ。」
「うん・・・そう。」
「ずっとそれが気になってたのよ。私はずっと、母もそのことを知っているのだとばかり思ってきた。でも・・・もしかしたら、母親には知らせてなかったのかもしれない。」
「どうして?あの人なら、自分の妻であり千尋ちゃんの母親である人に伝えてもおかしくないのに。」
「そうなんだよね・・・。もしかしたら、母は実は知っていて、あえて私には口に出していないかもしれないし、あるいは、あの男が母に言い出せない事情があったとか。」
「知っていて敢えて言わなかったというのは、考えにくいんじゃない。知らないふりをする理由なんてないわけだし。」
春香の言う通りだ。母も私のことを疎んじていた。だとすれば、その娘に不利な情報をあえて隠しておく理由がわからない。
「もしかしたら、警察の目撃情報というのが最初から嘘なんじゃない?千早ちゃんを、レイプするために、わざと鎌をかけたとか。」
春香はそういうが、それもどうなんだろうか。自分を犯すために、そんなウソ出鱈目なこと言うだろうか。
「たぶん、ゆがんだ復讐心を持っていたんだと思う。自分だけが、私の罪のことを知っていて、自分だけが思いっきり私を凌辱したい、ほかの人には邪魔されたくない。そう思って、あえて母にはそのことを告げなかったのかも。」
そう自分で言った後に、私はやっぱり疑問に思った。そこまでして恨んでいるというのに、何の前触れもなく自殺。それはおかしい気がした。
「それとね、大事な話がもう一つ。」
春香は「まだあるの?」という表情だが、これが一番深刻なのだ。
「私、このままだと母親に殺される・・・。」
「それって・・・」
冗談だったり、比喩だったりしたら、どれだけ幸せだろう。でも、これは冗談でも比喩でも何でもない。
「昨日、霊安室で見たあの人の目、あれは私を本気で殺そうとしていた目だった。」
春香の顔が凍り付いているのがわかった。
「でもね、安心して。昨日はね、病院側の計らいで、市の緊急一時保護施設に入れてもらったのよ。今日もそこから学校に来たの。だから、とりあえずは安心。」
だから私の今日のお弁当は菓子パンなのだ。
そう言って、とりあえず春香を安堵させようとしたのだが、春香はうつむいたままだ、それに何故か涙ぐんでる。
「ちょっと春香、どうしてあなたが涙ぐむわけ?」
春香は涙を腕で拭いた。
「・・・いや、本当にかわいそうだなって・・・。とても失礼な話だけど・・・やっとあの父親から解放されたと思ったら、今度は母親に付け狙われなければならないなんて・・・。」
「・・・仕方がないわよ。世の中には、変えられないことなんて山ほどあるんだからね。」
二人の間には重たい沈黙が流れた。話に集中してしまったせいで、お互いほとんどご飯を食べられていない。
「春香、そろそろ食べ始めないと、次の時間間に合わないよ。」
「うん・・・」
春香は相槌を打つのだが、箸が全然お弁当に伸びていかない。やっぱりなんか変だ。
「じゃあ、私がもらっちゃおうかな、私、昨日の今日だったからお弁当作れなくて、菓子パンしか買ってきてないんだよね。」
そう言って、春香のお弁当に入っていた卵焼きをひょいと拾い上げる。普段だったら、抵抗しそうなのに、何だかしおれてしまって元気がない。
「春香・・・別に春香がそこまで暗い顔する必要ないのよ・・・。」
「うん・・・。」
だめだこりゃ。でも、春香が心配してくれるのはとてもうれしかった。
「・・・これから、どうするの?もう、母親のもとには戻れないでしょ?」
春香がそう尋ねてきた。一番厄介なのは今後だ。春香の言う通り、あの様子だと、家には帰れない。今、自宅に戻るのは、死地に赴くのと同じことだ。かといって、いつまでも保護施設にはいられない。
「たぶん、児童福祉施設にでも行くんじゃないかしら。母親に場所を特定されるとまずいから、両親の実家に行くわけにもいかないだろうし・・・。」
「そっか・・・」
やっぱり、春香は落ち込んだままだ。
「でもね、春香。私施設に行くことになっても、悲しくなんかないよ。だって、家にいる方がよっぽど辛いんだもん。それよりかは、だいぶ楽になると思う。だから、心配しないで、春香。」
「そう・・・だよね。」
「私もそろそろご飯食べないと。」
私は菓子パンにかじりついた。もういい加減時間がない。早くしないと、お昼休み終わってしまう。
「千早ちゃん、今日は食欲がないから、お弁当あげるよ。」
そう言って、春香は自分のお弁当を私の横に置いた。
「・・・ほんとにいいの?」
「うん・・・。」
「じゃあ、全部は食べれないけど、いただくね。」
「うん・・・」
春香は、真っすぐと遠くの方を見つめていた。視線の先には、校舎がある。でも、特定のどこかを見つめているわけではなさそうだった。
放課後になって、私は秋月先生に進路指導室へ来るように言われた。恐らく、市の緊急一時保護施設から担任の先生に連絡が入ったのだろう。DVで親類縁者誰も頼れないとなると、担任の先生に連絡が入るのは、ある種あたりまえだった。
秋月先生は、私のクラスの担任の先生だ。40代くらいの女性の先生で、厳しいが面倒見のいい先生のようだ。めがねをかけていて、年甲斐もなく、髪の毛をおさげにしているのが本人にとっては、トレードマークのようだった。
私は、正直ほとんど会話したことないから、どんな人かは良く知らない。世間の風聞だとそんな感じだというだけだ。
コンコン、私は進路指導室のドアをノックし、中に入った。
「如月さん、わざわざごめんね。中入って、座って。」
私は招かれるまま、ドアを閉めて、先生に対面するように座った。
進路指導室は生徒の進路などのプライベートにかかわる話がなされる関係で、部屋の中の気密性は高い。しかも4畳くらいの広さだから、やけに狭い。そこに一つのテーブルがあり、先生と生徒が間近で対面するようになっていた。今回の私のように、ナーバスな話をするにはもってこいの部屋だった。
「如月さん・・・、お父さんのことは聞いたわ。このたびは、本当にご愁傷さまでした。」
「・・・いえいえ・・・。」
私は秋月先生から目を逸らしていた。別に秋月先生のことが嫌いだったわけではない。ただ、なんとなくやり辛い感じがしたのだ。
「如月さんのお母さん、まだ精神的に不安定みたいね・・・、まあ、あんなことがあったばかりだし、仕方のない部分もあるのかもしれないわね・・・。」
「で、用件は何でしょうか。」
私は秋月先生に話を促した。さっさとやり過ごして、この場を出たいのだ。
「・・・単刀直入に言うわね。あなたの家庭環境について、教えてほしいの。」
家庭環境について教える?今更教えて一体何になるっていうんだ。
「今日、市の子ども総合センターから電話がかかってきたの。あなたの父親が自殺して、母親からのDVの危険性があるから、うちで保護しているっていう電話だった。私は、担任として、あなたの状況を知っておく義務があるの。そして、担任として、あなたを守るって義務がね。だから、どうしてこういう状況になったのか、教えてくれない?」
正直、あまり気のりはしない。というか、話したくない。そもそも、どこまで話していいのだろうか。私には、話していい過去と、話してはいけない過去、そして話したくない過去がある。
私は、その判断ができずに、口を真一文字に締めていた。やっぱり、怖い。あたりまえのことだが、私は「見知らぬ」人に自分の半生を語ったことなどない。そもそも、聞かれることなどないのだ。
「そうね・・・やっぱり、話しづらいわよね・・・。いいわよ、今日話してくれなくても。先生も如月さんに特殊な事情があることはわかっているから。」
特殊な事情?そもそも、秋月先生はどこまで私のプライベートを知っているんだ。学校の中では、おとなしい普通の学生を装って今日まで過ごしてきた。昨日、市役所から電話で教えられたことしか知らないはずだ。
「先生、先生はどこまで、私のことを知っているんですか。」
「それは・・・あなたのプライベートについて、という意味かしら。」
「そうです。」
先生は少し考えた。そしてこう提案した。
「そうね、じゃあ私があなたについて知っていることをすべて話すわ。はっきり言って、今日、市の子ども総合センターから電話がかかってくるまでは、あなたのプライベートのことはほとんど何も知らなかった。両親がいて、共働きしていることしか知らなかった。あとは、あなたの家の住所と電話番号だけ。ただ少し・・・気になっていたことはあった。」
先生はつばを飲み込み、少し間をおいてからまた話し始めた。
「夏にお母さんを交えて三者面談したとき、他の家族とは違う感じを覚えたの。」
「・・・他の家庭よりも、よそよそしかったということでしょうか。」
「まあ、そんな感じね。もちろん、単によそよそしいからってすぐに虐待を疑ったりはしない。三者面談だと、母親と子供が私と対面するわけだから、恥ずかしがってよそよそしくするってことはあり得るから。でも、あなたの場合、他の人とは違って・・・うまくは言えないんだけど、どこか決定的な『溝』を感じたの。普通の恥ずかしがりとは違う何かね。事前情報はそんな感じ。」
「・・・市役所からの電話は・・・どんな電話だったんですか。」
「さっき、あなたに概要を説明したけど、如月千早という人物の父親が昨日自殺して、母親が取り乱して娘に危害を加える恐れがあるから、市の子ども総合センター所管の緊急一時保護施設で預かっている。それだけ。」
本当にそれだけなんだろうか。病院では、母から「お前が殺した」って散々なじられた。そのことは伝わっていないんだろうか。そして、私が父親を憎んでいるということも。
「本当にそれしか知らないのか、疑ってるって顔ね。まあ、知らないということを証明することはできないからね。でも本当に私はそれしか知らない。」
しばらく沈黙が流れた。
「お話がないようでしたら、もう帰ってもよろしいでしょうか。」
しびれを切らして、退席を願い出た。もうこんな狭苦しいところにはいたくない。
「一つだけ、あなたに提案しておこうと思って。」
秋月先生が急に切り出した。
「たぶん、あなたはDV被害者として保護されることになると思うわ。詳しい事情は分からないけど、病院がわざわざ通報して、保護したんだから、よっぽどのことがあったんでしょう。」
私は黙って先生の高説を聞いていた。
「おそらく、このままだとあなたはどこかの児童福祉施設に送られることになると思う。身元引受人になれる親戚はいないし、場所を知られてはいけないからね。そこで、提案なんだけど、如月さん、あなた、うちで一緒に住まない?」
うん、えっ、はっ?
「突然のオファーでびっくりだと思うけど、うちは構わないのよ。こんなこと話したことないんだけど、実は私、20代のころに結婚してたことがあるのよ。その旦那と
一緒に住むつもりで買った一戸建てがあってね。だけど、私子供ができなくてね、それで離婚したの。その慰謝料代わりに譲ってくれたのが私の家だったってわけ。もちろん、ローンも全部こっちで買い取りだったけどね。」
先生はそう言って笑って話している。きっと先生は、後ろ暗いところがない人なんだろう。だから、こんなに明るく過去を話すことができるんだ。
「だから、部屋は余っているのよ。もし如月さんがOKしてくれれば、私が身元引受人になって、あなたをうちに住まわせることができるわ。どうかしら?」
どうかしら?って言われても、そんなの即決できるわけがない。それに、この人がそもそも信用に値する人なのかもわからない。
「まあ、急に言われて決断できるわけもないか。じゃあ、考えておいてよ。うちはいつでも大歓迎よ。」
私は秋月先生の勢いに少し気圧されながらも「まあ、考えておきます。」とだけ述べておいた。
さて、どうしたものだろうか。正直な話、私はどっちでもよかった。施設に行こうが行かまいが、多分私にとっては同じことだ。私は施設の人たちを信頼できないだろう。施設には、きっと私と似たような境遇の子たちが多くいるに違いない。もしかしたら、そういう子たちと分かり合えるのかもしれない。
でも、現実はきっと甘くないのだ。昔、何かの番組で見たことがある。施設にいる子は、たいてい心に何らかの問題を抱えている。半ば人格破綻者である私が言うのもどうかと思うが、きっと私みたいな人間は、施設でやっていけないだろう。私は聖人でも何でもない。同じように問題を抱えて、暴れまわっている子に、同情の念を抱くほど、私はできた人間ではない。きっと、「ウザい」と思って、心を奥にしまいこんで、孤立していくはずだ。
だからと言って、秋月先生のもとで私が心を開くとも思えなかった。そもそも、秋月先生の狙いがわからなかった。どうしてわざわざ、厄介者で問題児の私を、しかも自分の家に囲い込もうとするのだろう。
第一、私は教師という人間をとてもではないが信頼できないのだ。思えば去年、担任の黒井先生は、佐藤さんや春香がいじめられているのを知っていたはずだ。それなのに、彼はいじめの存在を無視したのだ。生活部主任や副校長、校長も、こうした動きを無視していた。
だから、私は周到に臨んだのだ。春香がいじめられている場面を録音し、黒井先生副校長・校長そして、教育委員会にも通報した。そしてこうまでして、ようやく教員たちを動かすことができた。
先生方はたぶん日常生活で忙しい。日々の授業、試験準備、それから庶務、肝心の生徒にかまう時間なんてないのだ。
これが私にとっては重大な決断になるということは、なんとなく理解していた。そして、この一時保護施設を出なければならない日も近い。だから、私は春香に相談を持ち掛けてみることにした。