第6節 「愛情」の価値
翌日、私はお昼休み時間中に例のベンチで、コンビニで買ってきたサンドイッチをほおばりながら、春香に意見を訪ねてみた。
「絶対、秋月先生のところの方がいいよ!」
春香はその話を聞いた途端、すぐに秋月先生案を推してきた。
「何でなの?私にはどっちも変わらないように思うんだけど。」
春香があまりに即答するから、真剣に考えてないのではないかと、内心疑っていた。でも、それはとんだ私の勘違いだった。春香には、春香なりの考えがあったのだ。
「全然違うよ千早ちゃん。確かに、地獄の環境から抜け出せるというのは同じだと思う。だけど、生活環境がまるで違うんだよ。施設って多分、数少ない職員と多くの子どもたちがいるんだと思うんだけど、それだと、どうしても一人に掛けられる時間が少なくなる。それに、千早ちゃん、たぶんそういう集団生活苦手なんじゃないかな・・・。でも、秋月先生のところに行ければ、千早ちゃんは、秋月先生の愛情を一身に受けることができるのよ。そっちの方が、絶対良いに決まってるじゃない。」
確かに、春香の言うことには一理ある。私はああいう集団生活は、はっきり言って好きじゃない。孤立する可能性が高いと思った。けど、春香の言うことに解せないこともある。秋月先生の「愛情」、それっていったい何なんだ?
「秋月先生が、私に『愛情』を注いでくれるっていうの?」
「そうだよ、うらやましいよ。」
「『愛情』って何してくれるの?」
春香は少し考えこんだ。
「まあ、簡単に言えば、千早ちゃんのことをいろいろと考えてくれるってことなんじゃない。」
何だか曖昧だな。春香だったら、なぜ秋月先生が私を招き入れようとしているのか、もしかしたらわかるのかもしれない。
「ねえ春香、そもそもどうして秋月先生は、私を自分の家に住まわせようとしているんだと思う?」
春香は少し考えたうえで、こんな質問をぶつけてきた。
「秋月先生って結婚してたんだっけ?子供はいるの?」
「昔結婚してたみたい。でも子供ができなくて、分かれちゃったんだって。」
「それだ!」
春香はいきなり大声を出した。突然のことにびっくりしてしまった。
「どういうことなの、春香。『それだ!』って。」
「わからないの?千早ちゃん。秋月先生は、千早ちゃんに『自分の娘』になってほしいんだよ。できなかった自分の子どもの代わりにね。」
そういうことか。やっとわかったよ。でも、迷惑な話だ。結局、私のことを救いたいっていう理由じゃなくて、自己満足のために私をおもちゃにしたいだけじゃない。
「やっぱり、私施設に行くわ。」
「えっ、どうして?もったいないじゃん、こんなチャンスもう二度と来ないよ、絶対。」
「結局、秋月先生は私に娘替わりを演じてほしいだけじゃない。秋月先生の自己満足のために、ピエロを演じなくちゃいけないなんて、真っ平ごめんよ。」
春香は少し考えこんでいた。何か考えがあるっていうのかしら。しばらくして、春香が口を開いた。
「いいんじゃない、この際。こっちも秋月先生を利用させてもらおうよ。秋月先生の『娘』として、思いっきり甘えてやればいいと思うんだよ。」
「『甘える』・・・?秋月先生に?」
「娘替わりの役を与えられているんだから、単純に役になり切ればいいのよ。」
「そんなことして・・・私にどんないいことがあるのよ。お金くれるわけ?」
「『愛情』がもらえるはず・・・。たぶん。」
私は少し呆れてしまった。「愛情」そんな不確かなものもらったって、どうしようもないじゃない。第一、それで幸せになるっていうの?
「『愛情』なんてもらっても、どうしようもないわ。」
「わからないかな?『愛情』」
愛情か・・・。思い起こせば、私も母親に昔は「愛されていた」んだっけ。本当に遠い昔のことだ。昔過ぎて、どう愛されていたのか殆ど記憶にない。
「千尋が生まれてから、母の愛情を失った。もう8年も前のことよ。昔過ぎて、覚えてないわよ。」
「なんとなくの感覚は残ってないかな?」
正直な所、その感覚は残っていた。これが「愛情」なんだっていう感覚。でも、春香にそれを明かすのが、少し気恥ずかしくて、私は話題を逸らすことにした。
「じゃあ、春香はわかるっていうの?」
驚いたことに、春香は「わかる」というのだ。春香だって、親の愛情なんて受けたことないじゃない。
「確かに、私も“ほとんど”経験したことはない。でも、本を読んでいると、なんとなく、『ああ、これが愛情なんだな』って分かることがあるのよ。例えば、子供が熱を出した時に、付きっ切りで看病してくれたり、親子で一緒に楽しく料理を作ったり、運動会で両親が頑張っている子供を応援してくれたり、そんな姿って、多分私たち以外の親子だったら、ごく自然でありふれた景色なんだと思う。それに、私だって経験したこと、あるんだから。」
「あら。それは意外。」
春香の母親は、鬼婆のはずなのに。鬼の目にも涙という奴だろうか。
「ほら、中学2年生の誕生日の時に、お母さんが誕生日を祝ってくれたって話をしたじゃない。」
「それって『愛情』って言うのかしら。私には・・・申し訳ないけど、あなたのお母さんが、春香を虐待する訳を説明して、正当化するために、春香の誕生日を道具に使ったとしか思えないんだけど。」
「そうかな?私的には、そのことに本当に母親としての『愛情』を感じていたよ。」
「とにかく」と春香は引き取って言う。
「『愛情』って素晴らしいものだよ。本当に。私が感じている愛情は特殊だから除くけど。」
「・・・きっとそうなんだろうと思う。でも、私はもうそんな『愛情』なんて必要ない。私は、もう精神的には『大人』なのよ、親がほほえましく子供を見守るようなのは必要ない。私からしたら、そんなの茶番以外の何物でもない。」
春香は閉口してしまった。なんとなくわかってきた。春香は、きっと『愛情』に飢えているんだ。「ごく自然でありふれた景色」、多分、春香は私のことをうらやましいと思っている。
「ねえ、春香、正直私のこと羨ましいと思ってるんじゃない。」
率直に尋ねてみた。春香は何て反応するか。
「うん、そう。」
思いのほか、あっさりと認めてきた。
「できれば・・・替わってほしいくらい。」
そこまでしてほしいのか、『愛情』。
「私も、そこまで春香が言うなら、本当は替わってあげたいくらいだよ。でも、実際はそうもいかないし・・・。」
「じゃあ、私から千早ちゃんにお願い。秋月先生と一緒に暮らしてほしいの。一緒に暮らして、幸せになってほしい、そしてその幸せを分けてほしい。」
随分ハードルが高いお願いだな。第一、私が「家族ごっこ」なんかして幸せになれると本気で思ってるのだろうか。
「難しいお願いね・・・。」
私は苦笑せざるを得なかった。
「千早ちゃん、正直迷っているんでしょ。どっちにするか。」
「まあ、私はどっちでもいいと思っているってだけなんだけどね。どっちもイマイチだから、よりベターな方を選びたいと思っているだけだよ。」
「じゃあ、秋月先生のところに行ってよ。どっちでもいいんでしょ、だったら、秋月先生のところでいいじゃない。」
そう言われると反論できない。実際、どっちに行っても「うまくはいかないだろう」と確信を持っているという意味では変わらないのだ。
しょうがない。ここは春香に従ってみることにしよう。春香がいなければ、私は今ここにはいなかったのだ。恩返しの意味も込めて、秋月先生に賭けてみることにしよう。
「わかった。春香の言う通りにしてみる。秋月先生の『愛情』、感じてみるわ。」
「さすが千早ちゃん!話が分かるね!」
とまあ、こんな感じで春香ははしゃいでいた。
それから、私と秋月先生の数奇な共同生活が始まった。
結論から言えば、春香の言うことは当たっていた。あの人は、私と「家族ごっこ」がしたかったのだ。正直な話、私としては迷惑だった。だけど、居候させてもらっている家賃の代わりに、付き合ってあげることにした・・・。
最初はそのつもりだった。
だけど、だんだん秋月家に居心地の良さを感じていた。恐らく、秋月先生が私のペースに合わせてくれていたからだと思う。秋月先生は、私が深い関係を望んでいないことを知っていた。だから、最初からずかずかと心の中に入っていくのではなく、徐々に解きほぐすように私に迫っていったのである。
だんだん、私は秋月先生のことを信頼するようになっていった。
あの家から離れて、秋月先生と一緒に住むようになってから、私は経験したことのないような、深い安堵を手にすることができた。
はっきり言って、私は幸せだった。
春香は羨ましがっていた。私は秋月先生との私生活を春香に話し始めた。そのたびに、春香は羨望のまなざしを向けていたのである。
「春香とも一緒に住めればいいのに。」そんなことを何度も考えていた。だけど、そんなことは絶対に実現しないだろう。
春香のうらやむ目線が、突き刺さるように痛かった。
そして時を経る中で、私ははっきりと理解した。私を地獄の魔の手から救ってくれた人物、それは春香なのだということを・・・。
私が秋月先生と生活し始めてから1か月後の10月、春香の母親が突然謎の失踪を遂げたのだ。たちまち、春香は「みなしご」となってしまった。私はそんな彼女を救うため、秋月先生にお願いして、春香も一緒に住まわせてもらうように頼み込んだ。
秋月先生は、私のそんな無理難題を快く受け入れてくれたのだ。
こうして、秋月先生と私と春香の3人の楽しく愉快な共同生活が幕を開けたのである。