第7節 春香の罪・千早の潔白 残り70時間
9月18日・・・あの日、私の父親、いや「あの男」は自ら首を吊って自殺した。でも思えばあの事件には、不可解な点がいくつもあった。
春香は、私の隣で震えている。正面の扉に向かい合うようにして、壁の近くで膝を抱えて蹲っている。
「春香。私、思い出したの。あの日何があったのか。」
「・・・・。」
春香は小刻みに震えたまま、何も返事をしようとしない。
「9月18日の日、私がバイト先から帰ると、マンションは騒然としていたわ。警察車両が何台も来てた。その場で私は、あの男が首を吊って死んだということを知らされたの。はっきり言って嬉しかった。これでもう、あの男に体を犯されなくて済む、屈辱に耐えなくてもよくなる。死んでくれてありがとう、って本気で思ったわ。」
私は春香の左腕に手を触れた。春香はビクッと体を震わせた。
「でも、それはあまりにも私にとって都合が良すぎた。母が、あの男が私のことを性奴隷にしていた事実に気付いていたかどうかは分からない。だけど、私があの男を殺したいほど憎んでいることはわかっていた。だから、母は疑ったの。私が殺したんじゃないかって。正直な話、私もあの男が自殺をするなんて、想像もつかなかった。あれほどまでに世間体を重んじて、世間からの評判を気にするあの人が、最も不名誉な自殺なんて選ぶはずがない!あの男は、殺されたのかもしれない。でもはっきりと覚えてる。私、あの日は学校を出てからずっとバイトをしていた。あの男が死んだ時間、私は家からずっと遠く離れた書店にいた。仮にあの男が殺されたとして、私が殺すことは絶対に不可能だった。」
私には、あの犯行は絶対に不可能だった。そもそも、私が殺していないという明確な記憶もある。
「だとしたら、誰がそんなことをしたのか?私が心の奥底から望んだあの男の「死」、そんな私の宿望を、図らずも叶えてくれたのは誰なのか。私の心を、そして体を、あの魔の手から救ってくれたのは一体誰だったのか。」
私は春香の腰に腕を回し、体を密着させた。
「私のことを心の底から愛してくれて、私のために自分の人生を賭けて・・・私のことを守ろうとしてくれた、『レット・バトラー』は誰だったのか?」
もしあの男が殺されたのだとして、殺す動機があって、尚且つそれが実行できた人間は、冷静に考えて・・・春香しかいない。
春香は思い出していたのだ。私をあの家から救い出すために、修羅の道を歩む決意を固めたこと。私のために、すべてを犠牲にして、たとえ自分が火だるまになっても、私を地獄の火の中から救い出してくれたこと。自分の光が閉ざされるリスクを冒しても、私の心に光をともしてくれたこと。
「春香・・・。ありがとう・・・。ごめんね・・・。」
胸が痛くなる。苦しいよ。だって、春香は、私のせいで!
「私、春香に・・・とんでもないことをさせてしまった・・・。」
春香は、私のせいで!着なくてもいい罪を着て・・・人としての道を捨てて・・・。 私は言う。
「私、心の奥底では気づいていた。多分ずっと前から。ずっと言いたかった。ずっと・・・ずーっと前から。表ざたにできないから隠していた言葉・・・。」
春香も鼻をすすっている。
「春香、あの男を・・・『殺してくれて、ありがとう』。私を、あの地獄から救ってくれてありがとう!私に、『愛』を教えてくれて・・・ありが・・・とうううぅわあぁあぁぁん!」
我慢の限界だった。気づけば、涙があふれて、そして春香に背中から覆いかぶさっていた。
「重い・・・よ、千早・・ちゃん。」
「うわあああぁぁぁぁぁん!!!ごめん!ごめんよ、春香!私が春香のこと・・・春香のこと考えなかったばっかりにぃいっぃい・・・春香をををぉ・・私の大事な春香をぉぉを・・・はんじゃいしゃなんかにしちゃったぁああぁあうああわああんん!!」
「千早ちゃん・・・全ては私が望んだことなの。千早ちゃんは、何も気に病む必要はないんだよ。」
「はるかのばかぁああ!どおしてわたじにぞんなやさしいことばをかけるのをよおぉおおぉお。」
春香はくすくすと笑っている。
「それは、私は千早ちゃんのことが、だーいすきだからだよ。長い間一緒にいて、そんなこともわからないの??」
小悪魔的に笑う春香だったが、そんな優しい言葉を掛けられたら、私はもっと・・・
「うわわわぁぁぁあああああぁああんん!はるかぁぁぁぁぁぁあああぁl!はるかぁぁぁぁぁぁあああぁlだぁああいいすき!!」
春香はますます笑い転げている。
「はいはい。私も大好きだよ、ね。」
きっと、その時の春香の顔は、慈愛に満ちていたことだろう。でも、その時の私は、涙と鼻水で全然前が見えなかった。
あれから少し経って、ようやく私も落ち着いてきた。実は、春香もハラハラと涙を落としていたらしい。せっかくだから、もっと大泣きすればよかったのに。
気づけば春香の震えも止まっていた。
「落ち着いた?千早ちゃん。」
「ぶぅうん。」
ティッシュがほしい。鼻の周りがべちょべちょだ。
「まったく。子供じゃないんだから。あそこのトイレットペーパー取ってくるね。」
春香は腰を上げて、トイレットペーパーを持ってきた。
「はい、ちーんして、ちーん。」
まるでお母さんみたいなことを言っている。私はトイレットペーパーで一生懸命鼻をかんだ。
「うん・・・。はる・・かも、おちつい・・・たんだね?」
「うん。千早ちゃんの泣きじゃくってる姿を見て、なんだか安心しちゃって。」
「それどう・・いうことよ。」
なんだか失礼しちゃう。
「フフフ。私がしたことは、間違いじゃないんだって、気づけたから。」
春香は、にこやかな笑顔を見せる。その顔には、今まで見せていた後悔の色なんて、すっかり消え去っていた。
「春香・・・。」
春香はまっすぐに扉の方を向いていた。暖かな沈黙が支配している。
やがて、春香は私に真相を話し始めた。
「あの日、私はあの男が務めている会社に電話を入れたの。あの男を自宅まで誘い出すためだった。あの男には、『千早ちゃんが、千尋ちゃんを殺した決定的な証拠を見つけた。それを見せたいから、あなたの家にいっていい?』って言ったの。そうしたら、あの男は、私の言葉を怪しいとも思わず、二つ返事でOKを出した。よっぽど、千早ちゃんのことが憎かったんだろうね。」
春香は一呼吸置いた。
「正確な時間は覚えてないけど、陽も傾いてきたころだと思う。千早ちゃんの家の前で私が待っていると、あの男が現れた。あの男が私を家に入れて、飲み物の用意をしてくれた。あの男が、冷蔵庫から飲み物を出そうと、冷蔵庫に首を突っ込んだ瞬間・・・、私はあの男の首を・・・。」
「分かったわ。春香、もうそれ以上は言わないで!」
こんな悲惨な場面、もう二度と口に出させちゃいけない。それが、彼女に特別な恩義がある私の使命だと思ったのだ。
でも春香は、私の言葉を無視して続けた。
「あの男が苦しがっている姿を見て、最初は怖くなった。このままだと本当にこの男は死んじゃう。そう思うと、力を緩めそうになった。けれど、そんな余裕はなかった。あの男は、罠だと気づいて私に反撃を試みたの。」
「大丈夫だったの!?怪我とかしてなかった!?」
「ええ。何とかね。おかげで、私があの男を殺めているときに罪悪感を感じることはなかったから、その点では感謝しないとね。」
春香はほのかな笑みを浮かべる。
「殺してからも、余計な事を考える暇なんてなかった。あの男を自殺に見せかけるため、壁にロープをひっかけて、あの男をつりさげなくちゃいけなかったからね。それに偽装工作。パスワードなんてわかるはずがないから、あらかじめ立ち上げさせた。証拠はUSBメモリーに入っているって言ってね。」
きっと大変な労力だったはずだ。
「全部・・・春香一人でやったの?」
「うん。こんなこと誰にも頼めないよ。」
確かにそうだ。
「あとは、千早ちゃんも知っての通り。」
母親が第一発見者となって通報し、救急車があの男の遺体を病院に運び、警察が現場検証を行った。そんな中、私は自宅に戻ったのだ。
そうだ、あのことも言わなくちゃ。めがねをかけたおさげの「お母さん」の正体。
「ねえ、春香。私思い出したの。めがねをかけたおさげの『お母さん』。」
「えっ、ほんと!?誰だったの、それ?」
すぐに話してしまおうとも思ったのだが、そのまま言ってしまうのでは能がない。
「ここはクイズよ。あの女性の正体は、一体誰だったでしょうか?」
春香はブーブー文句を言う。
「えー、分からないから聞いているんじゃん。」
「頑張って、思い出してみて。記憶が消えてしまったわけじゃないんだから、本気で思い出そうとすれば、別のことも思い出してるかもしれないじゃない。」
「分かった。頑張って思い出してみる。けど、ヒントを頂戴。何もヒントがないんじゃ、どうしようもないよ。」
「そうね・・・。じゃあ、それからのことを少し教えてあげる。私は病院に行ったあと、母親にものすごい剣幕で迫られたの。あの男を殺したのはお前じゃないかって。そんな様子を見て、機転を利かせてくれた病院の人が、私を市の緊急一時保護施設へ入れてくれたの。そのことを聞きつけたある人が、私を自宅に住まわせてくれるといった。さて、その人は誰でしょう。」
春香は頭をひねり始めた。しかし、ヒントだけでは分からなかったのか、いくつか質問をぶつけてきた。
「その人って、千早ちゃんの身近な人?」
「まあ、身近と言えば、身近かな。」
「例えば、千早ちゃんの親戚とか。」
「ぶぶー。私に親戚はいないわ。」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。両親の父母とも亡くなっているし、両親とも兄弟がいなかったのよ。」
「えー、親戚じゃないとなると・・・難しいな・・・。」
私は春香が困っているのを見て、更にヒントを出すことにした。
「じゃあ、二つ目のヒント。不思議なことに、私も春香も、そのめがねのおさげ頭の人を相手の『お母さん』だと思ったのよね。つまり、その人は、私たちと共通の関わりがある人。」
「共通の・・・関わり・・・。」
それを聞いて、また目をつぶって考え始める。しばらくして、「はっ」という声を上げた。何かを思い出したようだ。
「担任の・・・先生?」
「ピンポンピンポン。大正解よ。」
「分かったよ、千早ちゃんのクラスの担任の秋月先生でしょ。」
「その通りよ。」
「思い出したよ、私千早ちゃんに勧めたんだった。秋月先生の家に住んだ方がいいって。」
「そう。『愛』を知りなさいって、説教されちゃったのよね。」
「説教まではしていないと思うけど・・・。」
「フフ、冗談よ。」
春香が緩んだ顔を見せる。どうやら、彼女も思い出したみたいだ。
「ねえ、千早ちゃん。もしかして・・・私も・・・住んでたんじゃないかな?」
私もニンマリと笑顔を見せる。
「やっぱり!」
「ええ。二人が思い出した『お母さん』の謎。それは、私たち3人が、秋月先生の下で一緒に暮らしていた。そのことを示しているのよ。」
「そうだったのね・・・。えっ、でもそれじゃあ、うちは・・・?」
「思い出さない?何があったか・・・。」
一つ確実にさせておきたいことがある。私は・・・春香の母親に何かをしたということはない「はず」だ。今の私の記憶の中にあるのは、春香の母親が突然失踪し、そして私が秋月先生に頼み込んで、春香を一緒に住まわせた。そして私たち3人の楽しい生活が始まった。それだけなのだ。
でも正直な話、私は春香の母親のことを疎ましく思っていた。春香だって、なんだかんだいって、あの「鬼婆」に苦しめられていたことは事実なのだ。そのせいで、春香は、息も詰まるような生活を強いられていた。
私は春香に救われたのに、春香は依然として救われない。そのことを感じている私が、彼女の母親に、一体何かをしたというのだろうか。
「・・・ごめん、何も覚えていないの。」
春香はしばし沈黙した。そして春香は何かに気付いたようだ。
「まさか、千早ちゃん・・・。」
「いや・・・。私じゃないの。」
「えっ・・・?」
「私、春香のお母さんに、何もしてない『はず』なの。」
「そう・・・なの?」
「うん。ごめん、記憶があいまいで。でも、多分そうだと思う。私、春香のこと不憫に思っていたけど、だからと言って・・・何かをできるような人間じゃなかった。」
私は卑怯な人間だ。あの時私はそう感じていた。自分のせいで春香を犯罪者にしてしまっておきながら、同じように苦しんでいるあの子を救ってあげられない。そんな歯がゆさをあの時は感じていた。
「そう・・・なんだ。」
だから、何の前触れもなく春香の母親がいなくなってくれたことは、私にとっては好都合だった。春香は、私の父親を、あの家から救い出すために殺してくれた。だから、私はその代わりに春香の母親に危害を加えた。そう思えるシナリオができたことは、本当に私にとっては都合が良かった。きっと、春香はずっと私が春香の母親を殺したと思っていたはずだ。
「ごめん・・・。」
春香は少し動揺した様子だ。でもあくまで気丈にふるまおうとする。
「な・・なんで、千早ちゃんが謝るの・・・よ。べ、別に千早ちゃんは、わわ悪いことなんて・・・してないじゃない!」
「・・・・・。」
掛ける言葉すら見つからない。春香にしてみれば、裏切られたようなものだ。
「・・・・・。」
春香も黙り込んでしまう。何か言葉を掛けなくては。
「春香、その。」
「じゃあ、どうしてお母さんはいなくなったの?」
私の声にかぶせるように、春香が問いかける。
「いったい誰が、私のお母さんを殺したっていうの?」
「『殺した』って。まだ死んでいるかどうかも分からないじゃない?」
「じゃあ、どうしていなくなって言うの!?」
「それは・・・」
それが分からないのだ。きっと私は、何度も考えていたはずだ。そう。考えていた記憶がある。だから、春香の母親を失踪させたのは私ではないと思う。しかし、結局、私は分からないままだったはずだ。分からない。だから、そのままにしておいた。
「ごめん。千早ちゃんに怒ったって、しょうがないもんね。」
春香は、少しとげとげしく述べた。
「・・・多分、ただいなくなっただけなんじゃないかな。何かの事件に巻き込まれたとか、そういうことじゃなくて、単純に今の生活に疲れてしまった。だから、あの場所から逃げ出した。そういうことなんじゃないかな?」
あの頃の私も考えに考えて、そして最終的にはこんな結論に至ったはずだ。
「そう・・・なのかな・・・。」
「あなたのお母さんは、春香のことを心の中では憎んでいた。不義の子供を孕まされ、そのせいで人生が狂ってしまったと恨んでいたんでしょ。だから、そんな子を見捨てて、逃げ出した。そうは考えられない?」
不義の子・・・言ってしまってからしまったと思った。それじゃ、まるで春香が「本当は生まれてはいけない子」みたいに聞こえるじゃない。
「ご・・・ごめん。今の言葉は忘れて。」
「別に、気にしてないよ。自分が一番よく知ってるもん。自分は望まれて生まれてきてないって。」
「・・・ごめん。」
春香は下を向いて何かを考えているようだった。
あの時の私は、とにかく本当に、春香の母親は「ただ単に失踪した」だけ、そう考えたはずだ。最も自然な考えだ。逆に言えば、それ以外に説明がつかない。
春香は閉口したままだ。だが、春香が納得したという訳でもなさそうだった。