第3節 父親
それから時が経つにつれて、徐々に母がやつれていく様子が、子どもながらに分かった。
私はそんな母を気遣って、とにかく保育園ではいい子でいるように努めていた。小学校に上がってからも、毎日ちゃんと勉強をして、母に負担を掛けないように頑張っていた。掃除などの簡単な家事は自分でもこなせるようにした。少しでも好きだった母の楽をさせたいと思っていた。我ながら、自分は健気だったと思う。
そうした中で、母は新しい恋人を見つけていた。母が働いていたパート先のスーパーに商品を卸している商社の社員の人だった。私を育て上げるだけの生活に疲れ切っていた母にとって、彼の懐は、まるで温かい布団にくるまれたようなものだったのだろう。
私が小学校2年生に上がった時のことだ。母に突然「千早。今度ね、ママに新しいパパができるの」と紹介された。幼いころに父親を亡くした私にとって、その人は「初めてのパパ」だった。
私は嬉しかった。今まで、保育園でも小学校でも、友達から「何故、千早ちゃんにはパパがいないの?」と言われ続けてきたからだ。あの時母には「ママを困らせるようなパパはいらない」といったが、友達からそう言われて、私はだんだん父親というものが欲しくなっていた。子供は純真で、そして残酷だ。当たり前のものがいない、そのことを私の友達は追及し続けていた。
私の本当の思いは、迷惑になるだろうと思って、母に隠していた。
やっと「私にもパパがいるんだ」と胸を張って言える。母に再婚相手ができると知って、私は胸のすくような思いをしたことをよく覚えていた。
“初めて”私の父親になる人物が、我が家を尋ねてきた日のことだ。
私は新しくできる父親を心待ちにしていた。母が新しい父親を連れてくるために、外に出かけたのだが、わくわくして、ずっと胸が高鳴っていた事を覚えていた。
ガチャリ。
玄関の鍵が開き、母に率いられた父親が姿を現した。私はその目をみてキョトンとしてしまった。男は中肉中背、メガネをかけていて、目が鋭かった。その狐のような眼の男が「これからよろしくね。」とつぶやいたのである。その目は笑っていなかった。
「千早、お前も挨拶をしなさい」と促され、私もようやく挨拶を交わしたのであった。
私の新しい父親は、私のことを快く思っていなかったのだ。
いや、厳密に言えばあの人は私の「父親」ではない。私は彼の戸籍に入籍したけれど、養子縁組はしなかったのだ。だから法律上は何の関係もない人だった。そんなことを知ったのは当然ずっと後の話だったから、あの時私はあの人のことを「父親」だと認識していた訳だが。
あの人は、母の美貌に惹かれて結婚したのだ。そうでなければ、貧乏母子家庭であるうちに来てくれるはずもなかった。母が再婚をして、私は今井千早から、「如月千早」になった。
実は再婚後も経済状態がそこまで改善された訳ではなかった。だから、母はパートには出続けた。でも、その回数は減って、母の負担はだいぶましになった。
生活は大きく変わった。子供のころから、母の為におとなしくしていた私は、母が再婚して時間ができると、母に甘え始めたのだ。最初は、母娘の時間をたっぷり楽しむことができた。でも、そんな日々は長くは続かなかった。
新しい父親は、はっきり言えば、私のことが嫌いだった。父は、前の旦那の子どもである私に、その前の旦那の面影を見出していた。まだ子供だった私はそんなこと知る由もなく、父親の機嫌を取る為に必死だった。
新しい父が家に来てからしばらく経った日のことだった。
この日は日曜日で、父は狭い部屋のダイニングでぼんやりとテレビを見ていた。母は買い物に行っていたのだ。未だにこの新しい父親と仲良くなれていなかった私は、父の機嫌を取ろうと、恐る恐る近づいていた。
「お父さん・・・。」
自分の部屋からでてきた私は、父に声をかけた。
「何だ?」
父は私の方を一瞥するでもなく、ただテレビに向かっていた。
「マッサージしてあげようか?」
「・・・千早が?」
「・・・うん。」
しばらく父はぼーっとしている様子だったが、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
そして私の部屋に入って布団を敷くと、そこにうつぶせになったのだ。
「早く。」
私はあっけにとられながらも、ゆっくりと彼の腰のところに乗った。体重は20キロもなかったはずだったから、私が体重をかけてもそこまで重くはなかったと思う。
私はゆっくりと腰を揉み始めた。
「気持ちいい?」
「・・・ああ、まあな。」
相変わらずぶっきらぼうだ。私は父のことを怖い人だと思っていた。まず、目が笑わないのだ。特に私といるときはそうだった。母といるときは、時々目が緩むときがあるのに、私といるとそうはならないのだ。
それにいつも、ぶっきらぼう。まるで親愛の情など感じられなかった。イカツい感じ。そのイカツさがとても怖かった。
「お父さん、お仕事は大変?」
「あ?・・・まあな。楽ちんじゃねーよ。」
「どんな仕事してるの?」
「お前には関係ないだろ。」
「そうだったね・・・ごめん。」
「・・・・・。」
会話が続かない。意図的に向こうが拒んでいるようにしか見えなかった。それでも、父と仲良くなりたかった私は、何とか話題を掘り起こそうと努めていた。
「ねえ、お父さんはどんなテレビが好き?」
「・・・面白いテレビかな。」
「へえー、さっきも見てたよね。なんて番組だっけ。」
「『新婚さんいらっしゃい』」
「あー、あれ面白いよねー。新婚さんがね。」
「・・・・・。」
「お父さんも、さっき笑ってたよね。」
「まあな。」
「私もいつか出てみたいなー、いい旦那さん見つけて、出ちゃおかなー。」
「ああ。いいんじゃないか。」
まるで大した反応がない。じゃあ次の番組はどうだろうか。
「アタック25も面白いよねー。」
「千早にあの面白さわかるのか?」
「うーん、クイズの中身は一つもわからないけど、オセロみたいにパネルがひっくり返るのが面白いんだよねー。お父さんは、クイズ番組好き?」
「別に・・・。」
「そう?じゃあなんでいつも見てるの?」
「暇つぶし。」
「そう。じゃああの時間、お父さんやることないんだね。」
「だから?」
「もうちょっとおしゃべりしてもいいよね。」
「勝手に。」
「うん、じゃあ勝手にそうする。お父さん、好きなことってある?」
父は少し考えているようだった。
「散歩かな。」
「散歩かー、いいよね。温かい日に外にお出かけして、公園でのんびり過ごす。それでたくさん遊んで家に帰ってくる。最高だよねー。あっ、今度家族3人でピクニックに行こうよ。行ってみたかったんだ、ピクニック。もし新しいパパができたら、一度行ってみたかったんだー、ねえ今度一緒に行かない?」
「俺は散歩が好きって言ったんだ。ピクニックじゃない。」
私は少しだけしょんぼりしていた。
「そっかー、きっと楽しいと思うんだけどなー。」
「俺は一人で散歩をするのが好きなんだ。千早、手が止まってるぞ。」
気づけば、父の腰を揉む手が止まっていた。
「あっ、ごめんなさい。」
「いいから今度は背中を揉んでくれ。」
「はい。」
小さな手で父の背中を丹念に押していく。
「気持ちいい?」
「ああ。ちょうどいい。」
「よかった。」
私はこの時、もう一つのことを思い出していた。東京にあるという巨大なテーマパーク、ディステニーランドのことだ。さっきのように断られるかもしれない、そう思いながらも、私は父に打診してみることにした。
「じゃあディステニーランドは?」
「ん?」
「お父さん、ディステニーランドって知ってるよね?」
「ああ。」
「今度、家族3人で一緒に行かない?すっごく大きなジェットコースターとかがいっぱいあるんだって。私行ってみたいなー。」
父は無言を貫いていた。
「ねえ、どうかな?」
「嫌だね。」
思いっきり拒絶された。ここまではっきり断られると、結構心にズシンとくる。
「・・・どうして?」
「俺が好きじゃないから。」
「そう・・・。」
父の背中を揉みながら、私はどこかそっぽを向いていた。なんだかすごく悲しかった。
もう何を尋ねていいのか分からなかった。子供の私には。どうやってあの人の気を引いたらいいのか分からなかったのだ。
やがて、玄関の方から物音が聞こえ、鍵がガチャリと開く音が聞こええた。
「あっ、お母さんが帰ってきた!」
「ただいまー。」
「おかえり!お母さん。」
「あら、千早、お父さんにマッサージしてあげてるんだ、偉いわね。」
「まあね!」
その時の父の表情をうかがい知ることはできなかったが、どこか気まずそうな顔をしていたんだろう。
「もういいよ、ありがとう。」
父がぶっきらぼうに言い放った。
「えっ、もういいの?」
「ああ。どいてくれ。」
「う・・・うん、わかった。」
母に見られたくなかったんだろう。私にマッサージされているところ。父は私のことが好きじゃなかったから、私と仲良くしているそぶりを見られるのが嫌だったのだ。子供の私には、その時その理由が分からなかったが。
私は父の腰から体をどかし、彼はゆっくりと立ち上がった。そして母親の方に駆け寄った。
「ねえお母さん知ってる?お父さん、散歩が好きなんだって。」
「おい、千早。」
父がどこか恥ずかしそうにしていた。どうやら母にも言っていなかったのかもしれない。
「へえー、そうなの。ねえ五郎さん、今日は天気もいいから、みんなで散歩に行かない?」
私もそれに賛同した。
「いいねいいね!そうしよう!」
逆に父は難色を示した。
「いや、ちょっと・・・。」
「あら、何か不都合でも?」
「そういうわけじゃないが・・・分かった。出かけるか。」
「そうこなくっちゃ!千早、お着換えしてらっしゃい。」
「はーい。」
私はルンルン気分で自分の部屋に戻り、そこで外用の服に着替え始めた。正直、母に感謝してた。これでまた父親と話す機会ができた。それに、家族3人で出かけるのが、私は楽しみだったのだ。
やがて、3人とも準備が整って、私たちは自宅を出た。
特に決まった散歩コースがあるわけではなかった。だから、私たちは住宅街のところを一通り歩きながら、私たちの家から離れたところにある大きめの公園へと向かっていた。
「こうやって家族3人で外に出るのも久しぶりね、五郎さん。」
「ああ、そうだな。」
私も続く。
「ぽかぽかして温かくて最高だよねー。」
「ああ、そうだな。」
母が父に尋ねる。
「五郎さん、散歩が好きなの?」
「ああ、ただ一人で歩くのが好きでね。いろいろとこっちも考え事ができるし、結構はかどるんだよ。」
「それって仕事のこと?」
「それもあるかな。まあ、普段家でぐーたらしている人間が考えることなんて、それくらいしかないんだけど。」
父はどこか自嘲ぎみにそう話した。だけど、明らかに対して親愛を感じているようだった。
「お母さん、お父さんったら、今度一緒にピクニックに行こうって言ったら、『嫌だ』っていうんだよ。」
思わず私は告げ口した。母に相談すれば、これも父はコロッと態度を変えてくれるのではないかと思ったのだ。
「あら、五郎さんピクニック嫌いなの?」
「別にそういうわけじゃないけど、あんまり気乗りがしないんだ。」
「そう・・・じゃあ仕方ないわね。」
予想に反して、母はすんなりと引き下がってしまった。
「ねえねえ、今度みんなでディステニーランドに行こうよ。一度行ってみたかったんだ!」
今度はディステニーランドの話を振ってみた。今度こそ、母が増援に入ってくれるだろうと期待していた。
ただ今度は母が反対した。
「ダメよ、千早。今月うちピンチなの。東京まで行くのに交通費が高いし、日帰りだとほとんど遊べないわよ。」
「そう・・・なの。」
母に反対されたのが予想外で、しょんぼりとしてしまった。
「行くとしたら、近場の遊園地ね。それで我慢しなさい。ディステニーランドは、千早がもう少し大人になってからね。そのころには、うちももう少し余裕が出てると思うから。」
「はーい。」
「別に俺は連れていくとは言ってないぞ。」
母が父へと尋ねる。
「遊園地は嫌いなの?」
「嫌いだな、そういう子供向けのテーマパークは。」
「そう・・・。」
母はそうつぶやいただけで、他に何も言わなかった。
今から思えば、母は父に逆らえなかったのだ。惚れたものの弱みというやつなのだろうか。それとも、苦しい生活を救ってくれた救世主という思いがあったからなのだろうか、どちらにしろ、父に嫌われて捨てられて、また苦しい生活に戻ってしまうのを何より恐れていた、そういうことだろう。
なんだかんだで公園に到着した。周辺の住民にとっては、憩いの場のようなところで、それは少し離れたところに住んでいる私たちにとっても例外ではなかった。
花壇はよく整備されているし、遊具もベンチもちゃんとある。土日には家族連れが多く集まるからなのだろうか。出店のようなものも何軒か軒を連ねていた。
「あっ、きれいな花だ!」
私は花壇の方に駆け寄った。白い花が植え込み一面に咲いているのだ。
「それはツツジね。」
母もつられて私の方に駆け寄った。父はゆっくりとそちらに向かっている。
「きれーい。」
「そうね。ツツジは春を代表する花の一つなのよ。」
「へえー、そうなんだ。あっ、あっちにはタンポポがある!お母さん、見に行こう!」
私は母の手を取って、タンポポの方に向かっていた。
「はいはい、わかりましたって。だから、焦らないで。足がもつれちゃうから。」
父は少しぶぜんとしながらも、私に振り回される形で公園内を歩いて行った。
しばらく公園を散策して、ついに疲れてしまって、私たちは公園のベンチのところで休むことになった。公園のベンチの近くには、いくつかの出店があった。
「ねえねえ、お母さん何か食べていこうよ。お父さんも!」
「いっぱい食べると夜食べれなくなっちゃうから一つだけよ。何がいい?」
「うーんとね、たこ焼き!」
「はいはい、じゃあ3人分買ってきてね。落としちゃだめよ。」
そういってお母さんは自分の財布から、1000円札を私に渡した。
「はーい。」
たこ焼きはどうやらこの公園の出店の中でもトップクラスの人気らしい。だから、何人も人が並んでいた。私はその最後列に並び、たこ焼きのいい匂いを嗅ぎながら、自分の番が来るのを待っていた。
たこ焼きの屋台とベンチまではさほど離れていなかった。だから、私は、父と母が会話していることを聞くことができていたのだ。
「ねえ五郎さん、千早のことなんだけど・・・。」
「ああ。」
「やっぱり好きになれないの?」
「・・・努力してる。」
「そう。千早の方がもっと努力してると思うけど。」
「ああ。」
「前の旦那のことは関係ないと思うの。確かに・・・あの子は前の旦那の子供、だけど、今愛しているのは五郎さんだけなんだから。千早だって、前の旦那のことは覚えていないし。あなたのことを父親だって認めてくれているの。だから、お願い。千早のことを好きになってほしいの。あの子・・・そうしないと、とても不憫で・・・。」
「なあ千種、もし俺が千種と千早どちらか選ぶって言ったら、お前は俺と別れるか。」
「それって、どういう。」
「例え話だ。別の言い方をすれば、お前の中の愛情は、俺と千早どっちの方が強いかってことだ。」
「そんなの・・・決められるわけないじゃない。」
「そうか・・・。決めなくていいことを祈るしかないな。」
「・・・・・。」
両親が何か意味深な内容を話しているということは分かった。当時の私には分からなかった。だけど、今ならこの言葉の意味が分かる。父は、私のことを好きになるつもりはなかったということだ。
それでも無邪気だった私は、そんなこともお構いなしに父の気を引こうとしていた。
たこ焼きを3人分買った私は、ゆっくりと落とさないように慎重にベンチに座る両親のもとへと運んだ。
「はい、お母さん。」
「ありがとう。」
「はい、お父さん。」
「ああ、ありがとう。ん?なんか少し多くないか。」
「うん、私の分、少しあげる。」
「いいよ別に。」
「あんまりいっぱい食べるとお腹いっぱいになっちゃうし、お父さんには元気でいてほしいから、ね。」
「せっかくだから、頂いちゃないさいよ、五郎さん。」
父は少し不満げだったが、それを黙って食べることにした。決して父は喜んでいたわけではなかったのだが、幼い私にはそんな様子がただの照れ隠しだとしか思っていなかったのだ。
たこ焼きを食べ終わった頃には、既に陽が傾き始めていた。
「さ、もう戻ろっか。お夕飯の準備をしなくちゃいけないしね。」
私がそう述べて、元気よく立ち上がった。
「ええ、そうね、行きましょう五郎さん。」
「ああ。」
それだけ言うと、父もゆっくりと立ち上がった。私は両親の間を引き裂くように、中に割って入り、右手で父の手を、左手で母の手をつないでいた。
「今日はとっても楽しかったね、お父さん!」
同意を求めるような私のまなざしに、父は目線を反らすという形で答えていた。
「ね、お母さん!」
「そうね、千早。また来ようね。ね、五郎さん。」
「あ・・そうだな。」
母に促されて、ようやく父も同意していた。
「今度はお弁当を作っていこうよ。今日は行けなかったけど、原っぱの方に行って、そこでご飯を食べるときっとおいしいよ!」
私はまだピクニックの夢をあきらめたわけじゃなかった。遠くの場所でのピクニックは無理でも、ここくらいの距離なら実現できると思ったのだ。
「いいわね、近場だけどいいピクニックになるわ。ね、五郎さん。」
「・・・まあ、いいんじゃないか。」
「やったー!今度、必ずだよ。お父さん!」
「・・・・・。」
父は何も言葉を返さなかったが、無言の肯定と私は受け取っていた。
「楽しみだなー、どんなお弁当を作っていこうかなー。あっサンドイッチなんていいかも。」
「いいわねー、おいしそうだわ。おにぎりを作っていくのもいいかもしれないわね。」
「それすごくいい!そうしましょ、そうしましょ!」
父は終始母子の会話を黙って聞いているだけだった。
でも、それすらも実現することはなかった。
それからというもの、私はとにかく父の気を引こうと努力していた。
休みの日には父の為に、かたたたきやマッサージをしてあげたのはもちろんのkぉと、一緒にテレビを見て、父と一生懸命会話を交わした。
でもそれで父の気が引けるわけではなかった。
生活は大きく変わってしまった。翌年、母に再婚相手との子供が生まれた。名前は「千尋」、幸い母親に似た為、かわいい女の子になった。
父は千尋を溺愛していた。母との間にできた可愛い娘、前の父親の血が入っていない、自分だけの娘。それが何よりうれしかったのだろう。
そしてその反面、前の夫の血が入っていた私はとことん無視されるようになった。家族のだんらんにいても、父は私のことなんて全く気にかけず、まだ乳飲み子である千尋の話ばかりしていた。
母は育児に協力してくれない父に代わって、千尋の世話をすべてしていた。数時間ごとに夜泣きをしては、お乳を与えたり、おしめをかえたりしていた。私もまだ幼かったけど、母が千尋中心の生活になってしまうのは仕方がないと割り切っていた。寂しいと思ったけど、それもきっと手がかかる数年だけだろうと心の中で思っていたのだ。
だけど生活はだんだん変わっていった。母は父のことがますます好きになっていった。私に対しては冷たかったけど、千尋に対して優しかったから、彼のことを見直したのかもしれない。
やがて母の視界の中から、私という存在が徐々に消えていくのが分かった。父と千尋にのみ目が行って、私には目を向けてくれなくなったのだ。
私は怖かった。母から徐々に見捨てられていくその様を、私は痛いほど感じていたのだ。でも、母に私のそんな悲痛な心の声が届くことはなかった。
私がいけなかったのだ。私がもっと叫べばよかったのだ。
「お母さん、もっと私を見て!千尋だけを見ないで!」って。
でも、あの頃の私にはそんな勇気もなかった。
たとえ家族が私を愛してくれなくても、そしてその原因が妹の千尋にあったとしても、私は千尋のことを愛していた。千尋が愛おしかった。千尋が初めて私のことを「お姉ちゃん」と呼んでくれた時は、私は嬉しくて千尋を思いっきりギュッと抱きしめたものだった。そんな様子を父は恨めしく思っていたようだったが。