第9章「家族」 残り68時間 天海春香
第1節 失踪の理由
正直な所、少しショックだった。
私は、自分の母親は千早ちゃんによって殺されたものだとばかり思っていたのだ。多分、今までずっと。ここに監禁されるまで。私の記憶の中の「春香」は、ずっと千早ちゃんが私の母親を殺したと思っているのだ。
私にとっては、その方がしっくりくるし、お互いに、相手を幸せにするために咎を負ったと考えれば、よりお互いの絆が深まったとさえ思っていた。
でもそれは私の思い上がりだった、という訳か。
別に千早ちゃんが何か悪いことをした訳じゃない。むしろ、少しだけホッとしたのだ。千早ちゃんが人を殺めた訳じゃない、千早ちゃんが犯罪者になった訳じゃない。それは純粋に喜ぶべきものだった。
だけど、心の奥底ではもやもやが残る。勝手な思い込みに加えて、勝手な押し付けだというのは、頭で考えればたちどころに分かるのだ。千早ちゃんが人の道を踏み外さないことは、当然。人を殺さないのなんて、当り前。なのに私は、なぜか千早ちゃんにどこか裏切られたような心持を感じてしまう。
どうして千早ちゃんは黙っていたというのだろうか。千早ちゃんは、私があの男を殺していたことに薄々気づいていた。いや、多分、明確に言づいていた。そして私は、千早ちゃんが私のお母さんを殺したと思っていると考えていると、千早ちゃんは知っていたはずなのだ。にもかかわらず、どうして千早ちゃんは、そのことを言ってくれなかったのだろうか。どうして千早ちゃんは「私は殺していない」そう言ってくれなかったのだろうか。
千早ちゃんは、私から特段聞かれない限りは、そう思い込ませておく方が良いと思ったのだろうか。私に身勝手な「交換殺人」を思い込ませておいたほうが、千早ちゃんにとって都合がいいと思ったのだろうか。
そうだとしたら、私は・・・少し悲しい。
確かに、「交換殺人」だったという方が、何というか、心の底では「燃える」ような感じがする。だけど、違うなら違うと、私は言ってほしかった。だって、仮に千早ちゃんが何もしなくったって、私たちの親友関係が変わってしまうことはありえないんだから。むしろ、千早ちゃんがそのことを、私が単に勘違いをしていたということを「隠していた」ことの方が、ずっと寂しい。
それから私は、千早ちゃんが言った見立てには否定的だった。千早ちゃんは、私のお母さんは、単に生活に疲れてどこかに行ってしまったのだ、と言ったけど、私にはそうは思えない。
だけど私はあの時反論しなかった。「どうしてそう思うの?」そう聞かれたとき、多分答えられないからだ。「なんとなく。」きっとそうとしか答えられないだろう。
何となくだが、私は思い出してきた。確かに、私は、千早ちゃんと一緒に秋月先生の下で一緒に暮らしていた。そこで私は考えたのだ。なぜ、お母さんが突然いなくなってしまったのか。
あの時の私は、「お母さんは千早ちゃんによって殺された」そう結論付けたはずだった。だから、ある種、お母さんが突然失踪したことに疑問はなかった。千早ちゃんが殺したから、私の目の前から消えた。これはごく自然だ。
でもそれは、さっき否定された。だとしたら、私のお母さんはどこに行ったのか。
やっぱり私はお母さんから愛されていたような気がする。罵倒されたり、殴られたり、酷いことをされても、それでもやっぱり私のことを愛してくれていたような感じがするのだ。それは単に私を養ってくれていたから、もし本当に私のことを嫌っていたら、もっと早くに逃げ出していたはずだ、という推論だけではない。
今だからわかる。あれはお母さんの不器用な愛情表現だったのだ。本当は私のことが好きで、一緒にいたいけど「好きだ」とか「一緒にいたい」とか言えない、そういう人だったんじゃないか。
私は秋月先生のもとで一緒に暮らしていたが、秋月先生の『愛』を受けて、それが私のお母さんが与えてくれた『愛』と、やり方は違っても、同じ種類のものなんじゃないか、そう考えるようになった。そうやって私を愛していたお母さんが、突然私を置いて失踪するなんて、私からすれば考えにくい。
だとすれば、私のお母さんはどこにいってしまったというのだろうか。何か事件に巻き込まれたのか。だとすれば、誰に?どこへ?
「ねえ、千早ちゃん。」
私はずっと千早ちゃんの隣でうつむいて考え事をしていたが、千早ちゃんの見解を聞いてみようと思って、ふと話しかけた。
「うん。」
「やっぱり私、お母さんは何らかの事件に巻き込まれたんだと思う。」
「またその話?」
千早ちゃんは少しうんざりという様子だ。
「嫌がらずに、聞いてほしい。」
「・・・・・。」
「私、やっぱりお母さんに愛されていたような気がするの。そんなお母さんが私のことを捨てて逃げるはずがない。」
千早ちゃんは、鼻で笑った。
「それは考えられないでしょ。だって、あなたの母親は春香のことを虐待していたのよ。愛するどころか、憎んでいたはずよ。そもそも、それは春香の出自を考えれば明らかなことじゃない。もう・・・言いたくはないけど、春香は・・・ある意味・・・」
「レイプ犯の現身みたいなもの。だよね?」
千早ちゃんは小さく頷く。
「だけど、私気づいた。秋月先生は私に『愛』をくれたけど、それは私のお母さんが暮れたものと同じなんだなって。」
「はっ?何言ってるの?」
千早ちゃんが露骨に不機嫌な表情を見せた。千早ちゃんが怒るのも無理はない。千早ちゃんにとっても大事だった秋月先生が、私のことを散々痛めつけてきた私のお母さんと同じだなんて言われたら、普通は怒る。
「怒らないで聞いてほしい。」
「・・・分かったわ。」
「ありがとう。」
私は続けた。
「確かに私のお母さんは、私のことを散々叩いてきたし、罵倒もしてきた。だけど、それはお母さんなりの愛情表現だったと思うの。本当は『好きだ』とか、『いつも家事をやってくれてありがとう』とか言いたかったんだと思う。だけど、そんなことを言うと、自分は私のことを、レイプ犯のことを憎めなくなってしまう。だからお母さんは、そういう代わりに、私のことを悪しざまに言ってきたんじゃないかな。それって、秋月先生が私たちにしてくれたことと、本質的には変わらないと思う。」
「・・・それだけ?」
「・・・うん。」
千早ちゃんは、ため息をついた。
「それは春香の勝手な思い込みだと思うわ。楽観的、希望的機な観測に過ぎないと思う。」
「そうかもね。」
「・・・正直な話、ちょっとイライラしてる。」
「でしょうね。」
「秋月先生は、私たちに本当の『愛』を教えてくれた!『普通の幸せ』ってこういうものなんだって、教えてくれて、私たちを養ってくれた人じゃない!その人と、あの鬼婆を一緒にするなんて、たとえ春香の言葉でも許せないよ!」
「それはわかってる。多分千早ちゃんが激怒するだろうなーってことも。」
なんだか引っかかるな、この感覚。
「千早ちゃん、もしかして私たち、こんな会話をどこかでしたんじゃない?」
「・・・奇遇だわ。私も同じことを思ってた。」
「その時はどういう結論だった?」
「・・・結論なんて逆にあったかしら?」
結論か・・・。確かにこんな不毛な議論に答え何てあるはずはない。結局、『愛』の形なんて、人がどう感じたかに依るし、一定の答えも形もあるわけない。
「なかったよね、結論。」
「ええ。だから、確か・・・もう考えないようにしようって決めたはずよ。」
「考えない?」
「ええ。たとえ過去にどんな経緯があろうと、私たちは秋月先生と一緒に楽しく暮らしていた。お互いにいろいろなものを犠牲にして、あの生活を手に入れた。だからもう、過去は振り返らない、そうしようって決めたんじゃなかったかしら。」
言われてみれば、そんな気がする。
「確かに、そうだと思う。だけど、今は過去を振り返らなくちゃいけない。」
千早ちゃんは押し黙る。肯定でも否定でもなかった。
「私は、ずっと千早ちゃんがお母さんを殺したから、私の前から姿を消したと思っていた。だけど真相は違う。そして私は、お母さんが私を置いて逃げたとも思っていない。」
「あなたを愛していたはずだから?」
「うん。だとすると、お母さんはどこに行ってしまったのか。」
千早ちゃんは私から目を逸らし、どこか明後日の方向を見ていた。
「そんな議論に意味があるのかしら。仮に春香の言葉が正しかったとして、あなたのお母さんがどんな事件に巻き込まれていようと、私たちにとっては関係ないことじゃない。」
「この事件に、何か関わっているかもよ。」
「そんなことあるのかしら?」
正直、その可能性は低いような気がする。私のお母さんは、もしかしたら私のことを本当に恨んでいるのかもしれない。だけど、千早ちゃんを恨む動機がない。というよりも、そもそも千早ちゃんの存在を知る手段がない。私はお母さんに千早ちゃんの存在を言っていなかった。別に隠していたわけではなくて、単純に言う機会がなかったのだ。
「それも含めて、ちょっと考えてみない?」
「別にいいけど、私、当り前だけど春香より知っていることは少ないわよ。」
「私が千早ちゃんに教えたけど、私自身が忘れちゃってることもあるかもしれないじゃない。」
「まあ、確かに。じゃあ一問一答形式で尋ねるから、それに答えてくれる?」
「うん、分かった。」
「じゃあ、まず、あなたの母親は、誰かと駆け落ちするような人だった?」
「そんな人はいなかったと思う。」
「春香に黙って付き合っていたのかもよ。」
「それもないんじゃないかな。お母さんは、はっきり言えば、友達もいないような人だったし、恋人なんてそれこそ夢のまた夢でしょ。そもそも、外出自体、仕事以外ほとんどしなかったから。」
「誰かに恨まれていたとか?」
「仕事上で恨まれていたなら、私にはわからないけど、私生活上では特になかったような気がするよ。」
「じゃあ、これ以上は分からないわね。」
確かに、何もヒントがないというのなら、これ以上は考えようがない。
ん・・・?待てよ。あるんじゃないか、事件に巻き込まれた可能性。
「ねえ、千早ちゃん。例えば、あのレイプ集団に襲われたとか?」
「レイプ集団に・・・?」
「うん。お母さんを孕ませた集団に再び襲われたってその可能性、考えられるんじゃない?」
「でも、何のために?」
「それは・・・その・・・」
普通に考えれば、再びレイプするためだと思うけど。
「どうして再び春香の母親を拉致して、レイプしなくちゃいけないのよ。下世話な話だけど、レイプするならもっと若い子が世の中にたくさんいるはずでしょ?どうして、わざわざ春香の母親を再び狙ったわけ?あれから、17年も経っていたんでしょ?」
常識的に考えれば、千早ちゃんの言っていることはもっともだとは思う。ただ、集団でレイプするよう犯罪者の心理なんて、私にはわかるはずはない。私も犯罪者だけど。
「こういう言い方はあれだけど、住所を特定されて、拉致されたのだとすれば・・・、逆に・・・その・・・どうして春香は無事だったのかしら?」
慎重に言葉を選んではいるが、千早ちゃんの言いたいことはわかる。年増のお母さんより、若くて犯しがいのある私を拉致しなかったのは何故なのかということだ。
「それも疑問だよね。どうして、私のお母さんだけ・・・。」
「よっぽど魅力的だったのかしら、春香のお母さんって。」
「どうだろうか、確かに私に似てかわいい方だとは思うけど、そこまでするのかな?」
千早ちゃんが正面の方を向いた。
「やっぱり、この線も無さそうね。春香、もうこの話は終わりにしない?どうやったって、これ以上何かが出てくるとは思えないわ。やっぱり、春香のお母さんは単に逃げただけよ。」
千早ちゃんの言うことはもっともかもしれない。そもそも、お母さんが何かの事件に巻き込まれたのかもしれない、という想像だって、「お母さんは私のことを愛してくれていたはずだ」という私の想像から始まった、根拠の薄い妄想に過ぎない。
これについて考えるのは、また何かを思い出した時でいいだろう。
千早ちゃんが、ウキウキ顔でこちらを向いてきた。
「ねえ春香、それよりも、少し楽しい話をしない?高校時代のこと、思い出したんでしょ?久しぶりに、昔語りをしましょうよ。」
「うん、いいよ。何の話からする?」
「そうね・・・まずはカラオケ。私たちが一緒にカラオケに行ったのって、三人で住むようになってからよね?」
確かそうだったと思う。お互いに実家住まいの時には、家族の締め付けが厳しくて、私たちが校外で遊びに行くということは、考えられなかった。
「そうだね。高校2年の秋だったと思う。カラオケ行くのなんて、生まれて初めてだったから、結構ワクワクしてたような気がする。」
「私もあの時が初めてだった。そもそも地元にカラオケボックスなんて、殆どなかったしね。」
「そうそう。市の中心部に行かないと、カラオケ屋さん自体がなかったもんね。でも、私びっくりしちゃった。千早ちゃんって、歌うまいんだね。」
千早ちゃんは得意げな顔をした。
「私、こう見えてもコーラスは得意なのよ。中学の合唱コンクールでは、無駄に歌唱力が良かったから、勝手にエース扱いされてたし。それにしても、春香は歌へたっぴだったわね。」
千早ちゃんがクスクス笑っている。
「うるさいよ。人には得意分野とそうじゃない分野があるの。」
「でも歌うのは嫌いじゃないでしょ?」
「うん。歌ってると楽しいし、ストレスも発散できるような気がするから、むしろ歌うのは好きかな。」
「あの時は、5時間くらい歌って、声が枯れちゃったよね。」
「そうだったね。それで秋月先生に怒られたんだっけ。『少しは自重しなさい』って。」
「怒られたっていうよりか、あきれられたって感じだったかもね。」
二人は笑いあっていた。
私は千早ちゃんに話しかけた。
「そういえば、ボウリングも一緒に行ったよね。」
「そうね。それも春香と一緒に行ったのが生まれて初めてだったわ。」
「私もそう。千早ちゃんと行ったのが初めて。」
「スコアはどれくらいだったっけ?」
少しだけ頭をひねってみる。はっきり言って、あんまりいいスコアではなかったはずだ。
「お世辞にもいいスコアじゃなかったんじゃないかな?殆どガーターになってたような気がするし。千早ちゃんも確かそうだったよ。」
「言われてみれば、大した結果は出なかったわね。でもボウリングも楽しかったよね。」
「そうだね。すごく楽しかった。」
「春香がえらくはしゃいでいたのは、記憶に残ってるわ。」
「えー、そんなにはしゃいでたかな?」
「はしゃいでたわ。子供みたいに。」
「いいじゃん、楽しいんだから。」
「楽しいからって、レーンで転んだら危ないわよ。」
そういえば、私振りかぶりすぎてレーンで大コケしちゃったんだっけ。
「勝手が分からなかったんだよ。何しろ、『初めて』でしたから!」
と、私は強調してみる。
「あらあら、私も初めてだったけど。」
千早ちゃんが、変顔をしてくる。
「ぶっ、なにその顔、どや顔にもなってないよ。」
思わず私は吹き出しそうになってしまった。
「面白い?この顔?」
味を占めたのか、その顔で私の方に迫ってきた。私は笑いながら、千早ちゃんを拒否した。
「ちょっ、やめてよ、もう、千早ちゃんったら。」
千早ちゃんが元の顔に戻った。
「そういえば、私、春香と一緒にやって、それが初めてやったことだったこと、結構あったわ。それまで私、ゲームセンターに行ったことなかった。」
「千早ちゃんと行ったのが最初だったような気がする。あとカフェもかな。」
「うん。カフェでお茶しながら会話するなんて、今どきよくありそうなのに、春香と行くまで、そんな経験もなかったわ。何もかも、『お母さん』のおかげね・・・。」
「ん?『お母さん』って言った今?」
千早ちゃんも、あれっ?という顔をした。無意識のうちに言ったのだろうか。
「そんなこと言った?」
「言ったよ、今。『お母さん』って。」
「そう?」
「うん。」
ただの言い間違いだろうかと思ったが、そういえばなんだか懐かしい響きがする。
「千早ちゃん、もしかしたら私たち本当に秋月先生のことを『お母さん』って呼んでたんじゃないかな?」
すると、千早ちゃんも何かに気付いたようだ。
「確かに、そうだったかも。なんだか、そう呼ぶのが自然な気がする。」
「でしょ?」
「でも、いつからだっけ?そう呼ぶようになったのって。」
いつのことだっただろうか、思い出そうとしたが、なんだかいつの間にか変わっていたような気がするのだ。
「ごめん、ちょっと思い出せない。」
千早ちゃんもしばらく考えていたようだ。そしてしばらくして千早ちゃんが声を上げた。
「思い出した!あの時よ、クリスマスパーティー。」
「クリスマスパーティー?」
「覚えてないの?高校2年の冬の時に、普段お世話になっている秋月先生に感謝しようってことで、サプライズでクリスマスパーティーを開いたじゃない。」
・・・だんだん思い出してきた。
「それって、私たちがサンタの格好をしたやつ?」
「そうそう、それそれ。それからだよ。私たちが秋月先生のことを『お母さん』って呼ぶようになったの。」
「なつかしーい。多分、もう何年も前のことなんだよね。」
ちょっと思い出してみるとしますか。
私はゆっくりと目をつぶり、当時のことに思いをはせてみた。