第4節 複雑な想い
ある日、私と千早ちゃんは偶然にも放課後に家に帰ったあと、同じ部屋で過ごすことになった。私と千早ちゃんには、個別の部屋が与えられた。共同でもよかったのだが、幸いにも秋月家には二人分の部屋があったのだ。
千早ちゃんが使っていたのは、書斎みたいな部屋だった。恐らく、秋月先生の旦那さんが使ってた部屋なのだろう。8畳ほどの広さの部屋に、本棚が2つ。そしてシックな感じの木目の机に、安楽椅子が一つある、シンプルなつくりの部屋だった。そこに、家から千早ちゃんの私物を持ち込んだのだった。
私の部屋は、たぶん将来、子供部屋にすることを想定していたスペースだった。ただ、実際に子供はできなかったので、そこは空き部屋だった。秋月先生は、そこに私のための部屋をわざわざ作ってくれた。
勉強するための机に、椅子を買ってくれた。私の家には、もともと勉強するためのスペースなどなかったのだ。だから、勉強するときは、ご飯を食べるためのちゃぶ台を使うか、図書館に行って勉強をするしかなかった。だから、自分の家に勉強机があるというのは新鮮なことだった。
それ以外のものは、私の家から持ち込んだものだった。とはいっても、私専用のものはほとんどなく、大体の物は母親と兼用で使っていた。例えば、テレビとかがそうだった。
私は最終的に、元の家を引き払った。お母さんがいつ帰ってくるか、はたまたそもそも帰ってくるのか分からない。家賃を払い続けることもできない。だから、私は家にあるものをすべて移してきたのだ。それでも、私のための部屋一つですべて収まってしまうくらいだった。
この日、私は千早ちゃんの部屋に行って、壁にもたれかかり、クッションに座りながら、マフラー編みをしていた。千早ちゃんは、机に向かって勉強中だった。
そういえば、こうやって二人で静かに過ごすことなんて、めったになかった。たいてい、どちらかがバイトをしているか、日曜日には「家族3人」で遊びに出かけてしまうためだった。
私は、今だったら千早ちゃんに探りを入れることができるのではないかと思った。千早ちゃんは、私のお母さんの失踪について、どんな感想を持っているのだろうか。そこから、何を知ることができるのだろうか。
「ふうー」
私は吐息を漏らしてみた。少し編むのに疲れたということをアピールしたのだ。しかし、千早ちゃんは黙々と机に向かっていて、相手にしてくれそうにない。
私は両腕を伸ばして、体全体を伸ばしてみた。それでも千早ちゃんは反応してくれない。しびれを切らした私は、千早ちゃんに話しかけてみることにした。
「千早ちゃん、話しかけて良い?」
「別にいいけど。」
そう言って、彼女はシャーペンをノートの上に置き、椅子をくるりと回転させて、私の方に向き直った。
「こうやって、二人で黙々としているのは久しぶりだね。」
私は正直な感想を述べてみた。
「そうね・・・。ラジオでもつける?静かなのが嫌なんでしょ?」
そう言って千早ちゃんは、ラジオに手を伸ばそうとした。それを私は制した。
「いやいや、そういうことじゃないの。ただ、こうしていると幸せだなって。」
「ふふっ、何だからしくないわね。」
千早ちゃんは、そう言って微笑する。何が私らしくないのだろうか。
「それってどういうこと?」
私は少しむすっとして、千早ちゃんに食って掛かった。
「ごめんごめん、春香はどちらかというと明るい方だから、こうやってしみじみ言うのがちょっとおかしくてね。」
まあ、確かに私は感情の起伏が激しい方かもしれないけど、しみじみしたっていいじゃない。
「まあ、でもこんな風になるなんて、誰も予想できなかったしね。夏休みにした約束、覚えてるよね?」
私と千早ちゃんが夏休みにした約束、それは高校を卒業したら、一緒に住んで生活しようというものだ、まさか、1年以上も前倒しになるとは、誰にも想像できなかったけど。
「もちろん、高校を卒業したら一緒に生活するってやつよね。ずっと、それが楽しみでしょうがなかったから。」
千早ちゃんは、やっぱり私との約束を覚えていてくれた。
「こんな偶然ってあるんだね。二人の親が一斉にいなくなって、先生の下に居候できるなんてね。」
その言葉に千早ちゃんは閉口した。できすぎた偶然、これを偶然と考えてしまっていいのか、やっぱり千早ちゃんも疑問に思っているのではないか。
「偶然なのかな?これって。」
私は重い一言を口にした。
「偶然じゃなかったら、一体何だっていうの?」
千早ちゃんは、少しイラついた口調で聞き返した。
「率直な意見を聞かせてほしいんだけど、私のお母さんはどうして、いきなりいなくなってしまったのだと思う?」
千早ちゃんは、突然の質問に少し困った表情を見せた。だが、すぐさま否定した。
「そんなの、私にはわからないわよ。春香の方が見当つくんじゃないの?それに、その話は散々してきたと思うけど。」
千早ちゃんの言う通りだ。なぜ、私のお母さんが失踪したのか、そしてどこに行ってしまったのか、それはお母さんがいなくなってから、千早ちゃんと散々話をしてきた。だから、千早ちゃんが「何をいまさら」と行ってくるのも当然の道理なのだ。
「私は、千早ちゃんに話したよね。お母さんは、いきなりどこかに行ってしまうような人じゃない。そもそもどこかに行く宛があるわけじゃない。両親と断絶しているし、友達と呼べる人もいない。しかも、職場で何かトラブルがあったわけじゃない。」
千早ちゃんは黙って聞いている。
「だから私は、お母さんは私を育てるのが嫌になって、一人になるためにどこかに行ってしまったか。それとも何かの事件に巻き込まれたか、って考えた。でも最近、お母さんが私を置いてどこかに行くってあり得ないなって思ったの。」
「それは初耳ね、どうしてそう思うの?」
千早ちゃんが尋ねてくる。その顔は、随分意外そうな表情だった。
「だってね、千早ちゃん、もしもお母さんが私を置いて逃げるんだったら、とっくの昔に逃げていたはずだもの。そもそも私は生まれてはいけない子。もし私を恨んでいて、憎んでいるのだったら、私を産んだ後さっさとどこかの施設に預けて身を隠していたはず。でも、お母さんはそうしなかった。」
「そうね、あなたを虐待して、痛めつけたかったからね。自分が生きていることがどれほど罪深いことなのかを体で教え込もうとしたからね。」
「そうじゃない、そうじゃないんだよ。きっと、お母さんは、私のことを愛してくれていたのだと思う。」
その言葉に、千早ちゃんの表情はゆがんだ。不快という表情だった。
「どうしてそういう解釈になるわけ?あなたの母親は、春香を散々虐待してきたのよ、聞くに堪えないひどい罵倒を何度もぶつけてきたじゃない!なのに、どうして春香に愛情をかけていたことになるのよ。」
千早ちゃんは、ひどく動揺しているみたいだ。こんなに声を荒げるなんて思わなかった。
「きっと、お母さんは、私にゆがんだ愛情を抱いていたのだと思う。私の存在は許しがたい。けど、自分のお腹を痛めて産んだ私のことはかわいい。だから、憎しみと愛情が入り混じったスキンシップになってしまったんだと思うな。」
千早ちゃんは、ひどく呆れたという表情だった。
「春香、それは考え直した方がいいわ。あなたの母親が、あなたを囲い続けたのは、春香を痛めつけるためなのよ。客観的に考えれば、それは明らかじゃない。もし本当にあなたの幸せを考えているのなら、私だったら春香を施設に預けるわ。だって、自分の子どもを痛めつけてしまうかもしれない、そして実際に痛めつけてしまったんだもの。それに、あなたの出自のことなんて、知らなくていい話じゃない。少なくとも、多感な中学生に聞かせるような話じゃない。もっと大人になって、心の準備ができてから話せばいい。どっちにしろ、春香にとっては不幸な話よ。施設にいて、親というものを知らないまま育たなくちゃいけない。それは間違いなく不幸なこと、だけど、あの母親の下にいなかったら、春香はあんな苦労をする必要は無かった!」
千早ちゃんの言うことはもっともらしい。というより、普通の人はそう考えるんだろう。私は千早ちゃんの言うことは間違ってるとは思わない。でも、一緒に生活していたからわかる。私の母親は、そういう人じゃない。
「あのお母さんの下にい続けたから、分からなかったのかもしれない。あそこから離れてみて、落ち着いて自分で考える時間ができて、ようやくわかったの。」
「何がわかったというの?」
「お母さんがやっていることと、秋月先生がやっていることは同じなんだなって。」
その一言に、千早ちゃんの顔はますますゆがんだ。明らかに、怒っていた。
「ちょっと待って、それは聞き捨てならないわ。春香、あなた秋月先生のことを何だと思ってるの?自分がどういう立場なのかわかってる?あなたは、秋月先生に助けてもらって、ここに住まわせてもらってる。本来は、春香を囲う義務なんて全然ない。だけど、先生はわざわざ春香を住まわしているのよ。住まわすのだってただじゃない。」
千早ちゃんが言っていることはもっともだ。でも、私が言いたいのはそういうことじゃないのだ。
「千早ちゃん、そういう意味じゃないの。秋月先生とお母さんが全然違うのはわかってる。だた、一生懸命お金を稼いでくれて、それで私たちを養わせてくれるのは同じだな、って感じたの。先生はお金を払って、私たちを育ててくれている。だから、私たちはその恩返しに、家の家事をやってあげる。それって、私がお母さんにしていたことと同じことだなって。」
千早ちゃんの怒りは収まらない。
「春香、親が子供に愛情をかけるのは、あたりまえのことなの。親が自分自身でどう感じているかは関係ない。子供が愛を感じられるようにしなくちゃいけないのよ。自分の子どもを痛めつけて、罵倒して、それで自分自身は愛情を持っている?たとえ本当にそうだったとしても、それなら母親失格なの。春香は、家事をやらなくちゃいけなかった。やらなかったら、殴られるから。でも私たちは、秋月先生のために家事をやりたいと思ってる。少しでも恩返しをしたいと思っている。それは、全然違うことなのよ!」
「千早ちゃんの言うことは正しいと思う。私も、こんな愛情の向けられ方なんて望んでない。でも、私一緒に生活してきたから思うの。確かに、お母さんは私のことを愛してくれていた。その証拠はないけど、私を17歳になるまで、自分の中の憎しみと戦いながら育ててくれたことだけは間違いないと思うから。」
千早ちゃんは閉口した。そしてしばらくして、諦めの境地で口を開いた。
「春香がそう思うなら、それでいいと思うわ・・・。春香は、『自分に愛情を注いでいたお母さんが突然失踪することはあり得ない』から、事件に巻き込まれていなくなってしまったと考えているわけね。」
「・・・そういうこと。」
「じゃあ、あなたのお母さんはどんな事件に巻き込まれたっていうの?誰から恨まれるわけではない、そもそも恨まれるような接点もないあなたのお母さんは、どうしていなくなったの?春香の考えを教えて。」
私の考え・・・それは、お母さんの失踪に千早ちゃんが絡んでいる・・・しかし、そんなこといえるはずがない。言ったら、すべてが終わってしまうような気がするから。
結局、私は何も言えなかった。
「わからない・・・全く見当がつかない・・・。」
そういうしかなかった。
「そう・・・。」
千早ちゃんは冷たくつぶやいて、天を仰いだ。自分の中の怒りを鎮めようとしているのか、私に顔を見せようとはしなかった。
そしてしばらくして、千早ちゃんも口を開いた。
「ねえ、春香。春香の考えを聞かせてほしいんだけど・・・どうして、私の両親は私を育ててくれたんだと思う?」
千早ちゃんを育ててくれた理由・・・。私は如月家のことを千早ちゃんほど知っているわけではない。でも、なんとなく思いつく理由がある。「世間体」だ。
「これは、今までの千早ちゃんから聞いてきた内容を総合して考えた結果なんだけど・・・怒らないで聞いてね。」
「うん・・・。」
千早ちゃんはまだ上を向いたままだ。
「『世間体』だったと思う・・・。」
「うん・・・。」
私は続ける。
「千早ちゃんのお父さんは・・・」
「ごめん春香、邪魔して悪いけど、『お父さん』っていうのはやめて。それは・・・もう生理的に受け付けないの。それにあの人は、私の母親の夫ではあるけれど、法律上も私の父親じゃないの。いい?」
「わかった・・・『あの人』は、世間体を気にする人だった。いくら憎んでいて、千早ちゃんをレイプしても、千早ちゃんを施設に預けようとはしなかった。両親が健在なのに、施設に預けるなんて異常でしかない。それは『世間体』から考えて、許しえない。だから、愛情なんて全くないけど、千早ちゃんを育て続けた。母親も・・・母親はどうなんだろうか。多少は、愛情もあったんじゃないかな。あの人につられて、千早ちゃんと遠ざかっていたけど、少しは・・・。」
「ないわね。」
千早ちゃんは、私の言葉を遮った。
「あの男は論外。春香の言う通り、世間体だけで私を養ってきた。時々、体でその対価を払わされていたけど。母親も、千尋のことで私のことを恨んでいた。」
千早ちゃんの言葉が冷たく突き刺さった。上を向いているからその表情はわからないけど、きっと苦痛で悶えているのだろう。
「ねえ、春香。ついでだから、聞いてほしいの。何故、あの男が突然自殺したのか。」
今度は千早ちゃんの独白が始まった。私は緊張して、千早ちゃんの言葉に耳を傾けることにした。
「あの男は、さっきも言ったけど、世間体を一番気にする人だった。死んだ後の自分の評価も気にするような男が、そうたやすく自殺するかしら。」
「自殺する理由はなかったんだよね。」
「私が知る限りはなかった・・・。あの男は会社でうまくいかなかったわけでもない。あの男の生きる目的は、千尋を葬り去ったと思っている私を痛めつけることだから、それを放棄して死を選ぶなんて、考えられない。私を糾弾するために死を選んだのかと思ったけど、そういうわけでもなさそうだった。だとしたら、あの男はどうして死を選んだのか・・・。」
ここで千早ちゃんが首を戻し、私を正視した。その眼はまるで、「春香ならその理由を知っているのではないか」とでも言いたげであった。
「千早ちゃんは、あの自殺があったとすぐにこっちに来たけど、何かあれからわかったことはあったの?」
「いや・・・何もわからなかった。あの家からの荷物の搬入は、秋月先生が頼んだ業者がすべてやってくれたし。危険だから、あの家には全く近づかなかった。警察も、母親の話は全て与太話のたぐいだと思ったのか、何も捜査をしてないみたい。もちろん、警察が私に事情聴取をしてくることもなかった。」
「じゃあ、お母さんは今でもあの家に?」
「それもわからない・・・。でも、安心して。少なくとも、母親は私が今どこにいるかは知らないみたい。学校はさすがに知っているけど、学校も警備を強化しているから、あの人が近寄っては来られないはず。」
「そう・・・。」
千早ちゃんは真顔のまま、私に問いかける。
「あの人が死んだのが、自殺でないとしたら、誰かに殺されたということになる。だとしたら、春香は誰に殺されたのだと思う・・・?」
私は恐る恐る答えた。
「怒らないでね。普通に考えたら・・・千早ちゃんがやったと思うんじゃないかな。」
「そう、その通り。でも私はあの男が死んだ時間、カラオケでバイトしていたのよ。それは、店の人たちが証言してくれる。その日出勤したって出勤簿もある。だから、私があの男を殺すことはあり得ない。そう考えると、一体ほかに誰があの男を殺すことができたのか・・・。あの人を殺したいほど憎んでいた人物・・・。」
私は何も答えられなかった。私は、千早ちゃんのその質問の答えを知っている。二人の間に、重い沈黙が流れた。
やがて千早ちゃんが、重苦しい雰囲気を払しょくするかのように、虚ろな目で静かに口を開いた。
「ねえ・・・春香。新しい約束をしましょう。もう過去のことはすべて忘れてしまうの。きっと今までの人生の出来事は、すべて何かの間違いだった。思い出したとしても何もいいことはない。だから、全て無かったことにしましょう。過去の辛かった思い出に言及するのも、今日が最後。いい・・・?」
私はうつむきながら、ゆっくりと頷いた。
「そう、ありがとう、春香。私は今の生活にとても幸せを感じてる。春香もたぶんそうだと思う。私は、今のこの幸せな生活を崩したくないの。それも、過去のことが原因で崩れるなんて真っ平ごめん。」
千早ちゃんは、また体をのけぞらせて、体を伸ばした。
「さ、勉強の続きでもしようかな。春香もマフラーの続きをしたら。」
私は手に持っていたマフラーを再び編み始めた。千早ちゃんもくるりと椅子を回転させて、また机に向かってしまった。
千早ちゃんは、この数か月で確信したのだ。私が千早ちゃんの父親を殺したってことを。そして私も確信した。私のお母さんをこの世から葬ったのは、千早ちゃんなのだ。
私と千早ちゃんは、お互いに幸せをつかむため、お互いの親を殺した。私と千早ちゃんが封印したのは、そうしたどす黒くて、醜い過去だったのだ。
千早ちゃんが私のお母さんを殺してくれたというのは・・・正直複雑な気持ちだった。もちろん、あの家から離れて秋月先生の家で、3人で新たな「家族」になれたことは、とてつもなく嬉しいし、心の中で何度も願ったことではあった。
だけど、私はやっぱり本当の母親のことが好きだったのかもしれない。そんなお母さんにもう会えないというのは・・・「産んでくれて、育ててくれてありがとう」と言えないのは、やっぱり悲しかった。
あの日以来、私たちは過去について話すことはなくなった。まるで生まれた時から秋月家の家族であったかのように考えるようになったのだ。