第4節 初恋の人
私が初めて「恋」というものを知ったのは、小学校5年生の頃だった。
私が通っていた小学校では、4年生以上になると学内の何らかの「委員会」に所属しなければならない。私は小学校5年生の時に、「給食委員会」という委員会に入った。やることと言えば、毎日の給食の時に「いただきます」と「ごちそうさま」の号令をかける。あとは月に1回ある「給食委員会」に出席して、その月の目標などを話し合うことくらいだった。
その5年生の時に、一緒に給食委員を務めたのが、「加藤君」という男の子だった。今から思いだせば、彼はとても「かっこいい」少年だった。眉目秀麗という言葉が正しいのかどうか分からないが、とにかく彼は「イケメン」だったし、小学校低学年の頃からサッカーをやっていて、学校のサッカー部のエースだった。それに勉強もできる。少し色白で中性的な感じがするのが玉に瑕なのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。アニメキャラでいえば、『カードキャプターさくら』の月城雪兎に似ていた。
私の心の中で異変に気付いたのは、たしか、秋口に入った頃だったと思う。
毎日彼と一緒に「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶をするのが、なぜか楽しみになっていったのだ。
私がなぜ給食委員になったのか、それは単純だ。とにかく楽をしたかったからだ。妹の千尋のこともあるし、両親が共働きだから、家のことをいろいろと手伝わなければならない。そういうことを考えると、あんまり面倒なことはしたくなかった。
とはいえ、正直後悔していたのだ。恥ずかしがり屋気質がある私が、毎日教壇近くまで行って「いただきます」「ごちそうさま」の音頭を取らなければならない。加藤君が声を出してくれるから、私も何とかそれに合わせることができたけれど、彼がいなかったら、きっと私は毎日学校に行くこと自体が嫌になっていたかもしれない。
そんな私にとって、嫌々やっていただけのはずの号令が、不思議と楽しくなったのである。相変わらず前に立つのは恥ずかしいが、彼と一緒ならやっていて楽しい。どういう訳か待ち遠しい。そんな純粋な感情が「恋」なんだと知ったのは、友達と会話をしていた時だった。
うちのクラスは早熟というか、ませているというか、とにかくそういう恋愛沙汰を早くに理解していた。女子グループの間で、誰は誰が好き、とか、そういう話が飛び交ったのだ。それで私も、自分が抱えている感情が「恋」なのだということに気づいた。
だけど、それはそれで厄介だった。ドキドキが高鳴ってしまったせいで、逆に辛くなってきたのだ。恋心を知られるわけにはいかなかった。もしそんなこと知られてしまえば、私はたちまち噂の的になってしまう。クラス中でネタにされることは、明白だ。だから私は、その恋心を知られないよう、平静を保たなければならない。そのせいで、だんだん楽しみに感じられていた号令が、また少し苦痛に感じるようになってしまった。
給食委員会も同じだ。1か月に1回だけの会合でも、最初は普通に楽しくおしゃべりできていた。だけどその理由が、自分が彼に「恋」をしていたからだと知って、普通ではいられなくなった。恋心を知られてはいけない。だけど彼と一緒に話していて楽しいし、私のテンションも上がる。だから、はしゃぎ過ぎず、だからと言って大人しくし過ぎず、そういう微妙なバランスを心掛けていたのだったが、それはそれでストレスだった。
小学校6年生になりたての、ある春の日のことである。6年生の時にはクラス替えがない。そして私と加藤君は、前年度と同様に給食委員会に入った。この日は、6時間目に、月に1度の給食委員会が開かれることになっていたのだ。
委員会中は、私語厳禁。だから私と加藤君が会話を交わすことができるのは、委員会室代わりとなっている隣のクラスの教室で着座してから、先生が来るまでの間だけ。時間にして、多分10分くらいだ。もう少し短いかもしれない。私はこの貴重な寸暇を一刻も無駄にしまいと、5時間目が終わるとさっさと隣の教室に駆け込んでいたのだった。この日もそんな風にしていた。
「如月さん、早いね。」
来た!加藤君だ!
「まあね。」
椅子を引いて加藤君が座る。
今日は何を話そうか。普段だったら一生懸命悩むのだが、今日はもう話すことを決めていた。
「加藤君、さっきの試合すごかったね!一人で3得点入れちゃうなんて!」
今日の3時間目は体育の授業だったのだが、授業テーマがサッカーだった。そこで加藤君は、持ち前のサッカーの腕・・・いや足を活かしてハットトリックを決めていた。当然、クラスの女子たちからは、黄色い声援が鳴りやまなかった。
「ありがとう。如月さん。」
彼は照れているようだ。でも言われなれている様子も伺わせた。
「さすがサッカー部ね。」
「これでも小さい時からやっているからね。」
別に自慢するわけでもない、むしろ遠慮して謙遜した感じなのが、加藤君のいい所だった。
「サッカー部っていつから入っているんだっけ?」
「1年生の時から。だから、もう5年やっていることになるのかな。」
知っている。だけど話題作りのためにあえて聞いてみた。
「そうなんだ。凄いなー、そんなに続けられるなんて。サッカー部でもエースなんでしょ?」
「まぁ・・確かにね。」
褒めちぎられると、却って居心地が悪いのか、加藤君の歯切れは良くなかった。
「将来はサッカー選手を目指しているの?」
私は矢継ぎ早に質問を繰り出してみた。加藤君は笑って手を振る。
「そんなことはないよ。プロの道は難しいし。」
「そうかなー、加藤君ならいける気がするけど。」
とにかく只管褒めちぎってみた。
「いやー、やっぱり難しいと思うよ。サッカー中継とか見てても、プロのレベルは僕たちと全然違う。確かに、まだ小学生だからとかそう言うこともあるかもしれないけど、だけど僕があそこまでいくとは・・・到底思えないなー。」
「そういうものなのかしら?」
「うん、そうだよ。プロを甘く見ちゃいけないよ。」
話の展開を見る限り、とりあえず会話を軌道に乗せることは成功したようだ。
「じゃあ加藤君は将来何になりたいの?」
「まだ決めてないよ。如月さんだってそうでしょ?」
確かにそうだ。
「フフフ。うん。」
加藤君が急に何かを思い立ったようだ。
「あっ、そうだ。ちょっと話替えるんだけど、僕、これから料理を始めてみたいと思うんだ。」
「へー、凄いわね。」
私は正直料理は苦手だった。まず包丁を持つことが怖かったからだ。
「僕は食べるのが好きだから、自分で食べるものを自分で作ってみたいなって思ったんだ。如月さんは、家で料理してる?」
「えっ?ええ・・まぁ、お母さんの手伝いくらいなら。」
咄嗟に、私は見栄を張って嘘をついてしまった。
昔お母さんと一緒に料理を作ってみたことがあったのだが、その時指を包丁で切ってしまってから、厨房に立つことはなくなってしまった。だから、それ以外の簡単な家事を手伝っているのだ。そもそもお母さんは忙しいから、私に構っている時間なんてないし。
「そうなんだ!じゃあ、結構料理作れるんだー、凄いなー。」
「まぁ、そんな感じかな。」
なんて嘘をついてしまった。本当は全く作れないのに・・・。
「家ではどんな料理を作っているの?カレー?シチューとか?」
「ま、まぁ・・そんなところかな。」
まずい、あんまり突っ込まれるとヤバイ、ウソがばれてしまう。見栄なんて張らずに、素直に「私も加藤君と同じで料理殆どしたことない」って言っておけばよかったのに、と激しく後悔した。
この時ばかりは、いつも「もっと遅く着て」と念じている先生に早く来てほしいと思ってしまったくらいだった。
その時だ。私の神通力が効いたのか、ガラガラガラと教室の扉が開いて、先生が教室に入ってきた。何とか私は命拾いしたという訳であった。
あれから私は、加藤君を見習って料理を始めてみようかなと考えるようになった。「料理をやっている」なんて加藤君に嘘をついてしまった手前、実際に料理をして経験を積んでおかないと、彼に嘘がバレてしまう。嘘をついていたのがバレて嫌われるのは嫌だ。でもやっぱり包丁は怖い。結局、やろうやろうとは考えていたが、全く手がつかずに1か月が経過してしまったのだ。
そして給食委員会の日がやってきた。
私は例にもれず、ドキドキを抑えながら、隣のクラスの指定席へ。するとその1分後に彼もクラスへ入ってきた。
「相変わらず早いね。如月さん。」
「そんなことないよ。普通だよ。」
加藤君が椅子を引いて、席に着く。今日のトークテーマは給食委員会のことにするつもりだった。
彼が着座するや否や、寸暇を惜しむかのように話しかける。
「私たち、そういえば今年度も給食委員会だよね。加藤君は、そんなにこの委員会が気に入っているの?」
「深い考えはないよ。僕は食べることが好きだから。だからこの委員会に入ってるってだけ。如月さんは?」
「私は・・・ただ単に楽をしたかったから、ってそんな理由。妹の千尋が小さくて、そのお世話もしなくちゃいけないし、色々とやることもあるから・・・あんまり忙しかったり面倒な委員会はやりたくなかったってだけ。」
「ふーん、食べることは好きじゃないの?」
「どうだろう、別に嫌いって訳じゃないけど、私少食だし。そんなに好きって訳でもないかな。」
「ふーん。」
そこで話題が途切れてしまった。少しネガティブに話しすぎたかもしれない。何か話題を作らないと。早くしないと先生が来てしまう。
「そういえば、加藤君、料理始めるって言ってたよね?あれどうなったの?」
加藤君の顔がぱあっと明るくなった。
「そうそう、最近、母さんの料理の手伝いを始めてね、ようやく魚を捌けるようになったんだ。」
「へえーすごい。」
単純に関心してしまった。男の子なのに、魚がちゃんと捌けるなんて。私なんて、女の子なのに包丁一本握れないのよ・・・。
「とは言っても、まだ母さんに教わりながらだから、一人でできるようになったわけじゃないんだけどね。」
「いやいや、それでもすごいよ。魚を捌くのって結構むずかしいんだから。」
難しいらしいことは知っている。私はやったことないから知らないけど。
「そうだよね。正直、スーパーで三枚おろしされているもの買った方が手っ取り早くていいから、楽だよね。世のお母さんがパックの魚に飛びつく理由もわかるよ。」
彼は白い歯を見せて笑った。
「そういえば、如月さんは普段どんな料理を作っているの?」
やばっ、また墓穴を掘ってしまった。少し考えれば、加藤君に料理の話を振ったら、私に返ってくることはすぐにわかる話なのに。話題を作ろうと焦っていた私は、そんなことすら眼中になかったのだ。
「ええっと・・・お母さんと一緒なんだけど、カレーライスとか・・・、シチューとか・・・。」
よくわからないけど、とりあえず簡単な煮込みものを言っておけば何とかなるだろう。口から出まかせを言ってみた。先月もそんな風に答えていたし。
「やっぱり、まずはそこから始めるよね。その辺りは野菜を切っちゃえば、後は鍋に入れるだけだから簡単だよねー。」
「ええ、そうね。」
そうなんだ。
「早く自分だけで料理を作れるようになって、部活の時のお弁当も自分で作ってみたいなー。」
「そっか、部活の時のお弁当はお母さんに作ってもらっているんだよね。」
「うん、でもそのせいで母さん、日曜日に早起きさせちゃってるから、何か申し訳なくってさ、だから自分のお弁当くらい自分で作りたいなって思ったんだよ。」
なんて親孝行なんだろう・・・。正直、私の心の中には、「親に感謝」なんて気持ち、微塵も湧いてこなかった。たとえ家族の関係が変わってしまったからといって、そんなことは言い訳にはならない。私は自分が恥ずかしくなって、彼の方を正視することができなかった。
「今度、炒め物にチャレンジしてみようと思うんだ。チンジャオロースとか、僕が好きだから、それを今度自分で試してみる予定だよ。それを家族みんなに振舞うんだ。」
加藤君は、嬉しそうにはしゃいでいる。料理ってそんなに楽しいのかな?
「料理って、そんなに楽しい?」
「あれ?如月さんは楽しくないの?」
「えっと・・・その・・・。」
純粋に思ったことを口に出してしまったのだが、まずかったかもしれない。料理の楽しみを感じられないということは、「料理をしたことがない」と受け取られかねない。
「私、お母さんに『女の子だから、料理くらいできないとお嫁にいけないんだから覚えなさい』って言われてて、それで料理を始めたの。だから、まだ料理の面白さってよくわからなくって。」
またしても口から出まかせだ。
「そっかー。僕は楽しいんだよな。自分が切ったり、焼いたり、煮たりしたものが一つの料理として完成していく、そういう過程を見ていくのも楽しいし、自分で料理を作るようになると、自分が食べたいものを全部自分で作れるようになって、食卓に乗せる回数も自然と増える。それが嬉しいんだよね。夕食の献立とか任されると、つい自分の好きな料理ばっかり作ろうとしちゃって両親から怒られちゃうんだけどね。」
そういって加藤君はにかっとはにかんだ。
「それだけじゃないよ。僕が作った料理を両親に振舞って、『おいしい』って食べてくれると、本当にうれしい。自分の料理を『おいしい』って言って食べてくれるって、料理人にとって一番うれしいことじゃないかな。」
「確かに、そうね。」
きっと料理って、そういうものなのだろう。それを聞いて、急に私も料理を作ってみたいという気持ちがわいてきた。
「そういえば、加藤君って兄弟っていないんだっけ?」
家族の話が出てきたので、話題を料理から逸らすために、彼の家族について尋ねてみることにした。
「そう。僕は一人っ子なんだ。如月さんには、妹がいたんだよね。」
「ええ、そうだよ。千尋って言うの。今三歳。」
「へぇー、きっと、如月さんに似て、とてもかわいいんだろうね。」
「いやだ~、私がかわいいだなんて~。」
私は思わず、おどけて両手で頬を覆ってみる。
「ハハハ。で?どうなの?妹は?」
スルーですか・・・。
「本当に、『私の妹とは思えないほど』かわいいよ。」
なんて皮肉を言ってみたが、彼はその皮肉に気づかなかったようだ。少しムカついた。
「僕は兄弟がいないから、どういう感覚なのか分からないけど、どんな感じなの?妹がいるって?」
「どんな感じって言われても・・・。」
少し抽象的過ぎる。なんて答えたらいいのか。
「楽しい?妹と一緒にいて。」
楽しいか、楽しくないか。そりゃもちろん楽しい。
「もちろん、楽しいわよ。妹は本当にかわいいし、私のこと好きだから。いつも『お姉ちゃんお姉ちゃん』って言って寄ってくるの。他の子は『兄弟なんてウザいだけ』とか、言ってるけど、私はそうは思わない。」
「他の子が兄弟嫌いなのは、きっと何でもかんでも『お姉ちゃん』のせいにされちゃうからじゃないかな。『お姉ちゃんなんだからしっかりしなさい』とか、『お姉ちゃんなんだから妹のこと考えなくちゃダメでしょ』とか、いつも年上だってだけのせいで色々と言われる。そういうのが嫌なんじゃないかな?如月さんはそういうのないの?」
「私は・・・。」
そもそも無視されているのだ。お母さんからもお父さんからも。両親は、本当は私が千尋と遊んでいるのを苦々しく思っている。だから、私が妹の為に何かをしろなんて、言われたことはない。
「私はそう言うのは・・・ないかな。」
「へぇー、そうなんだ。両親はお姉ちゃんも妹も平等に扱ってくれる感じなんだ。」
「いや・・・。」と言いかけて、口をつぐんだ。余計なことだ。別にそんなこと言わなくていい。彼にあらぬ詮索をされたくはなかった。
「違うの?」
「まぁ、私、言われなくても妹のことを優先して考えているから。だから、言われないだけなのかもね。両親も、やっぱり今は妹優先だよ。」
「やっぱりそうなんだね。」
「そうそう。」
彼は頬杖をついて笑顔で提案してきた。
「例えばさぁ、妹の為に何か料理を作ってみるとか、どう?妹はお菓子とか好き?ホットケーキとか。」
「甘いものは好きみたいだよ。」
「じゃあ、そういうものを作ってみるのもいいんじゃない?喜んで食べてくれる人の笑顔を見ると、作った甲斐があったなーって思えて、料理が楽しくなるから。」
私は心の中で、千尋の笑顔を思い浮かべてみた。ホットケーキを頬張りながら、満面の笑みを見せる千尋・・・。なるほど確かに、そんな笑顔が見られるんなら、料理を始めたい。
ガラガラガラ。
楽しい時間はあっという間に終わってしまうものだ。もう先生が入ってきてしまった。今月の会話はここまでだった。
これを機に私は料理にチャレンジしてみることになった。このままだとウソがばれてしまうという焦りもあったのだが、加藤君が言ってくれたように、千尋に料理を振舞いたい。千尋に「おいしい」って言って欲しい、という強い願望が生まれたからであった。
それから私は、お母さんに頼み込んで、毎日料理を作らせてもらうことになった。お母さん的には、自分が料理を作らなくてよくなるから大歓迎だったのだろう。図書館でレシピ本を借りて、それとにらめっこをしながら、毎日料理を作った。最初の方は、失敗してばかりで、両親になじられていたが、段々コツが分かってきた。そして2か月もすると、レシピ本を見なくても、ある程度の料理なら作れるようになっていた。
そして妹にお菓子をふるまえるようにもなった。お菓子と言ってもオリジナルではなくて、簡単なホットケーキとか、その程度のモノだったのだが、私が想像していたように、妹は私が作るお菓子を満面の笑みで迎えるのだ。そして「お姉ちゃん、おいしいよ。ありがとう!」と言ってくれる。それがかわいくてかわいくてしょうがなかった。私を料理の世界に誘ってくれた加藤君には、本当にお礼の言葉も出ないくらいだった。
一方、私の料理が上達するのと同時に、彼の方も料理の腕は上達していった。今や加藤君は、普通に主婦業ができるくらいに料理の腕が上がっていたようだった。
「へぇー、如月さんも一人で料理ができるようになったんだ!」
「ええ。得意料理は肉じゃがよ。」
7月の給食委員会で私は自慢気に加藤君に話した。肉じゃがは思った以上に簡単に作れる料理だった。料理のできない男の人には「肉じゃが」が得意料理だと言っておけば家庭的だと思ってくれるらしいが、それは完全に騙されていると思う。
「肉じゃがって、結構簡単に作れるからいいよね。僕もすぐに作れるカレーとか肉じゃがは好きだし。」
加藤君には、この戦法は使えなさそうだ。加藤君は言う。
「あと自分のお弁当を自分で作れるようになったよ。」
「それはすごいじゃない!」
「と言っても、スーパーで買ってくる冷凍食品の嵐だけどね。料理は楽しいけど、結構時間使うから面倒くさいんだよね。前日に調理しておくか、そうでなかったら、冷凍食品を解凍するしかない。世のお母さんの気持ちがよくわかるよ。」
私は微笑した。
「加藤君は、もう完全にお母さんだね。」
「あはは、そうかもしれないね。」
そういえば、私はまだ彼にお礼の言葉を言っていなかったんだった。
「私、加藤君のおかげで、やっと料理を作る楽しさを感じることができた。本当にありがとう。加藤君が言ったみたいに、妹にお菓子を作ってあげたんだ。そうしたら、千尋はすごく喜んでた。加藤君が言った通りになったよ。」
多分、凄くほっこりした笑顔を見せたのだろう。加藤君もにこやかな笑顔を見せた。
「いやいや、別にお礼を言われるほどのことはしてないよ。僕が純粋に思ったことを言っただけだし。」
彼の笑顔がとてもかわいい。さわやかな笑顔に、その瞳に、私は思わず吸い込まれそうになる幻覚に襲われた。そして私はふと、彼に、上達した自分の腕前を見せつけたくなってしまった。
「加藤君、来週の日曜日もサッカー部の練習あるんだよね?」
「えっ、あるけど。」
「その時、お弁当を作って持って行ってあげようか?料理の楽しさを教えてくれたお礼がしたいの。」
「えっ・・・。」
あっ、やばっ、とこの時思った。衝動に駆られて、ふとそんなことを口走ってしまったのだ。でも、迷惑だよね。普通。よく考えれば、いや・・・よく考えなくてもわかることだ。別に恋人同士でもなんでもないのに、彼の為にお弁当を作るなんて、ちょっとどうかしている。彼のリアクションも少し戸惑っている様子に見えた。
「あっ、ごめん。今の忘れて。だって迷惑だよね。そんな・・・その・・・あれなんて・・・。」
私も動揺して、何言っているのかよくわからなくなる。
「いや、そんなことないよ!楽しみにしてるから、お弁当。」
「えっ・・・。作っていいの?」
予想外の了承に私の方が驚いていしまった。
「うん、来週の日曜日だからね。」
その顔には、さっき覗かせていた戸惑いも消えていた。私は澄み渡るような笑みを浮かべた。
「うん!豪勢なの作ってくるからね!」
「ハハハ、午後も練習があるから、そんなにたくさんは食べられないよ。それに、あんまり高いものだと、如月さんに悪いし。」
「分かった!それなりに豪勢なのにするから。」
「うん。期待して待ってるよ。」
ここでタイムアウトの扉が開いた。
委員会が終わって、自分が冷静になってみると、私はとんでもないことを約束してしまったということに気付いた。家で晩御飯はよく作るようになっていたが、お弁当を作るのは、実は初めてだった。途端に不安が募ってくる。彼の為にきちんとおいしいお弁当を作れるのだろうか・・・。
しかし、悩んでいても始まらない。もう約束してしまったのだから、彼の為に一生懸命作るしかないのだ。
よーし、作ると決めたら、頑張って作るぞ!
お弁当を作ると言っても一人前だ。それにサッカー部の練習の合間に食べるお弁当だから、それほど豪勢にするわけにもいかない。主菜副菜のバランスも考えて・・・ここは豚の生姜焼きをベースにしたスタミナ弁当にしよう。
主食はお米。そこにゴマ塩を振って、真ん中に大きな梅干を乗せて日の丸型にする。主菜は豚の生姜焼きだ。それとウインナー一本に、半熟卵。そして野菜はプチトマトと、ベーコンをまいたアスパラガスだ。これなら午後の練習でも戦えるはずだ。
日曜日当日、私は起き上がると、早速キッチンに立って料理を始めた。加藤君にはなるべく出来立てを食べてほしかったから、お昼間際に学校に行くつもりだった。家族は、朝から一体何をしでかすつもりなのかと怪訝な顔を浮かべていたが、私はそんな両親を無視してお弁当作りに励んでいた。
そして午前10時30分頃にお弁当が完成した。それを大き目のお弁当箱に詰めこむと、私はルンルン気分で小学校へと出かけていった。
午前11時前に学校に到着した。校門をくぐり、グラウンドへ向かう。そこではサッカー部が練習に明け暮れている様子だった。
私はグラウンドを見回して、加藤君の姿を探した。さて、彼はどこにいるんだろうか・・・。あっ、いた!彼の姿はすぐに発見できた。
私は彼の元に歩いていこうとした。その時だった。彼の右側から彼に向って近づいてくる女の子の姿があった。あれは確か・・・同じクラスの斎藤京子さん・・・。
私は思わず足を止めた。彼女も手に何かをぶら下げている。あれは・・・お弁当箱?斎藤さんは、彼の隣にたどり着くと、彼にその箱状のモノを手渡したではないか!?
何だか、加藤君と斎藤さんはやり取りをしている。そして最後には・・・斎藤さんが半ば強引にお弁当箱を押し付けて、帰ってしまった・・・。
私はしばらくの間、呆然として彼の方を見つめていた。別の人からもお弁当をもらう予定があったなんて・・・。私との約束は一体何だったていうの・・・。
彼が不意に体をひねった。そして私の存在に気付いて驚いていた。私も驚いて、バツが悪くなって、踵を返した。
「如月さーん!」
加藤君が私の名を叫んだ。だけど私は聞こえないふりをして、どんどん校門の方に向かっていく。加藤君・・・ちょっとヒドイんじゃないかな・・・。そんな怒りにも似た感情を隠しつつ、私は加藤君から離れようとする。
「待ってよ如月さん!」
だが、加藤君が私の方に走ってくる。そして間もなく、彼は私の背中を捕えた。
「如月さん、お弁当を作ってくれたんだよね。」
私は立ち止った。彼の方を振り向かず、そのまましゃべりかける。
「斎藤さんからも・・・お弁当をもらう予定があったんだね・・・。」
「違うんだ!今日はそんな予定なんて無かった!彼女が勝手に・・・。」
「だけど、せっかく彼女が作ってくれたんだから、食べないと。」
「如月さんのも食べるよ。」
「でもそんなに食べたら、午後動けないでしょ?」
「・・・『夜』食べる。だから・・・もらってもいいかな?」
そう言われて私は、振り向いた。彼は申し訳なさそうな顔をしている。私は彼の下に近づくと、ゆっくりとお弁当箱を差し出した。
「うん、ありがとう。おいしく食べるね。」
私はそれに対して何も言わずに、黙って駆け出した。
そうか、私のは「夜」食べる分なのか。前々から約束していた私のお弁当よりも、今日いきなり作ってきた彼女のお弁当を優先して食べるんだ・・・。
私より、やっぱり斎藤さんのお弁当の方が良かったんだ・・・。私のお弁当何て・・・どうでもいいんだよね・・・。
そう思うと、何だか負けたような気分になって、すごく悔しくて・・・。私はそのまま家に帰ってメソメソと泣いた。
加藤君が斎藤さんと付き合っているという噂を耳にしたのは、それから1週間後のことだった。
はっきり言えば、私は思いあがっていた。他の女の子が彼のことを狙っている、そして彼も別の女の子のことが好きだ、とかそういうことを全く考えなかった。そんなこと思いもせずに、勝手に独りよがりな自分だけの世界を作り上げていたのだ。
私の「初恋」はこうして敗れ去った。だけど、だからと言って、私は加藤君との関係を変えることはなかった。たとえ恋に敗れても、私は彼のことが好きだったし、両想いになれないと分かった時点で、何だか心の重荷が取れたみたいで、却って仲良く話すことができたからだった。