第2節 千早の懸念
このテニス同好会は、ただのテニス好きの集まりではない。望月俊、日本最大規模の財閥である望月財閥の跡取りである彼をめぐる、ある種の「社交場」であり「修羅場」だ。彼に取り入り、利益を得ようとするもの、そしてそれを邪魔したいと思う人間たちが入り混じるところ・・・。
新歓からしばらく経ったある日、私は春香に、一緒にこのサークルから出ようと進言した。
「こんなところにいたら、私たちはどうなるか分からない。いい、春香?周りの状況は普通じゃない。財閥の息子に理事長の孫、それだけじゃない。財閥の跡取りというおこぼれを狙う者とそれを邪魔しようとする者であふれている。私たちは、はっきり言えば、脛に傷を負っている人間なの。こんな危険なステージに上る必要は無い。もっと普通のサークルに入ろうよ。」
でも春香は意に介さなかった。
「じゃあ、千早ちゃんだけ抜ければ?私はそんなに危険だとは思わない。私たちがボロを出さなければ、あの人たちが私たちの過去を知るなんてありえないよ。」
「春香・・・。」
「千早ちゃん・・・普通って何なんだろう?私たちの人生、最初から今までずっと『普通』なんかじゃ無かったよね。むしろ・・・多分すごく特殊な人生を送ってきたんだと思う。だから私たちは、人生を自分たちの手で切り開いてきたんじゃなかったの?どうして今更遠慮なんかしなくちゃいけないの?」
「ようやく掴んだ『普通の人生』だからよ。それを危険に曝すようなこと、するべきじゃない。」
春香は笑って、手をパタパタさせている。
「千早ちゃん、何か勘違いしていない?確かに私、望月さんのことかっこいいって思ったし、彼と結婚出来たらすごく幸せになるだろうなーって思ったことあったけど、別に彼のことを本気で狙いに行っている訳じゃないんだよ。私は純粋にあのサークルが面白そうだって思っただけ。大丈夫だよ。普通にしていれば、何の問題もないんだから。」
そう言って春香は私の忠告を聞こうとしなかった。
春香は望月さんのこと、本気じゃないって言っているけど、私の目はごまかされない。あの子の目は、鷹が獲物を狙うかのように、本気だった・・・。
あのサークルにいる中で、なんとなくだが、あのサークルの構造が見えてきたのだ。確かに望月先輩は、雪村さんと許嫁の関係にある。そして彼自身、彼女との結婚を公にして憚らない。そうやって、他の女子からの好意を退けようとしている。そして、間接的に彼が財閥を引き継ぐと公言することで、周りを安心させようとしているのだ。
だけど、サークルの人たちは、先輩が雪村さんのことを好きではないと気づいている。私も何となく、そんな風に感じる。許嫁だから、雪村さんを相手にしているだけということを知っているのだ。そして先輩は、自発的に財閥のトップから降りるという選択をすることができる。
だからみんな「もしかしたら」と期待して、彼に接触しようとしているのだ。
でももし本当に彼の心を射止めてしまったら、それこそ大変なことになる。京極さんとか、猿渡さんとか、その人たちの就職に大きな影響があるだろう。当然、そんな結末は多くの人が歓迎しない。先輩の心を奪ってしまった女の子は、きっと針の筵になると思う。だから、「ワンチャン」あるのではないか、と思いつつ、本気で彼のことを狙いに行こうとはしないのだ。
春香もそんな一人・・・のはずだ。しかし私には、春香が本気であの人を狙っているように見えてしまうのだ。
結婚相手なんて普通のサラリーマンだっていいじゃない。普通に大学を卒業して、普通に就職して、普通に結婚相手を見つけて、普通に子供を産んで、普通に会社を辞めて、普通に子育てをして、普通にパートで働いて、普通に子供の成長を見守る。
昔の私だったら、きっと一生そんな幸せな人生を掴むことは多分できなかったと思う。私にとって、そんな「普通」の人生は、ある種の憧れなのだ。だけど春香はそうじゃない。
春香は、きっと病んでいたのだ。いや、もしかしたら彼女にとってはそれが「普通」だったのかもしれない。親の虐待に耐え、自らの産みの悲劇を知り、望もうとも手に入れようともして手に入れられなかった「家族の愛情」という幸せを、彼女は犯罪を犯してまでして手に入れた。愛に飢えていた。心の貧しさに飢えていた。そんな彼女が、普通の生活で満足しようとしないのは、もしかしたら当たり前なのかもしれない。
「それこそ、千早ちゃんこそどうなの?彼は『加藤君』だったの?」
サークルに入ってから、私は望月先輩に事の真相を尋ねる機会をうかがった。けれど、そんなタイミングはなかなか訪れなかった。彼は常に人に囲まれていた。猿渡さんと京極さん。それに春香、その他の先輩、同学年、こんなバカみたいな話、二人でないと聞けない。でもそんなチャンスはなかなか訪れなかった。
「結局、聞けなかった。そんなチャンス無かったよ。」
「じゃあ、私が聞いてきてあげようか?」
「えっ。」
「そうすれば千早ちゃんも未練が絶てるんじゃないかな。」
「別に、そんなことしてもらう必要ないわよ・・・。多分、きっと・・・彼は『加藤くん』じゃないんだし。」
「ふーん。じゃあ、もしも私が彼のこと奪っちゃっても、文句は言わないんだね。」
にこやかな笑顔を見せているのに、目の奥は笑っていない。
こんなに末恐ろしい春香を見たのは、生まれて初めてだった。私に甘えて、ねこなで声を上げる、いつもの春香の姿は、そこにはなかった。
「別に本気で狙っている訳じゃないんでしょ?」
「そうだよ。」
別に私は春香の邪魔なんてするつもりない。春香が望月先輩のことを密かに狙っているなら、私はむしろ、応援したかった。けど、私の心に複雑な気持ちが去来していることはぬぐえなかった。
最初に、あの勧誘で望月先輩を見たときは、すごく驚いた。特徴的な銀髪に色白の肌、そして眼鏡に優しい笑顔。それはまさに私がかつて恋をしていた『加藤君』そっくりだったからだ。
だから私は動揺していた。あの彼は加藤君ではないはずなのに、どうしてあそこまで似ているのか。私は聞いてみたかったのだ。
その機会はやがて訪れるだろう。場合によっては、その機会を作ってもいいかもしれない。ただ結果は見えている。望月先輩は加藤君ではない。
私にとって問題なのは、加藤君でないと確認した後、私のこの胸の高鳴りが鎮まることができるかどうかだった。私が好きなのは、あくまで「加藤君」なのだ。「加藤君」に似ている望月先輩ではないのだ。
とはいえ、私にとっても彼はとても魅力的であった。何もお金持ちだから良いって言う話ではない。たとえお金を持っていたとしても、京極さんや猿渡さんみたいな人だったら、喜んで春香に譲っていたと思う。
彼は優しかった。誰に対しても分け隔てしなかった。それは、私に対してもそうだった。思い上がりかもしれないが、彼はもしかしたら私のことが好きなのではないだろうか。そう思わせるところがあった。でも、私は単純に彼に対して好意を抱いているというわけでもなさそうだった。何だかよくわからないもやもやとした感情が、心の中に鬱積していた。
ある日、自宅で春香と交わしたこんな会話を思い出した。
「ねえ、千早ちゃん。望月先輩は、雪村さんのこと好きだと思う?」
「雪村さんは、許嫁の相手なんでしょ。じゃあ、好きなんじゃないの?」
私は適当に返していた。
「私、思うんだけど、望月先輩は雪村さんのこと好きじゃないと思うの。」
「また大きな予想を立てたね。その根拠は?」
ふう、と一息つく。ともすれば、それは「そんなことも分からないの?」と馬鹿にしているかのような吐息であった。
「望月先輩の雪村さんに対する態度を見れば、一目瞭然だよ。あのサークルにいて、彼から雪村さんに話しかけたことって見たことある?」
確かに、言われてみればほとんどない。雪村さんの方が割って入ってきて、望月先輩に話しかけることの方がほとんどだった。
「あんまりないね。」
「というか、ほとんどない。だから、望月先輩は雪村さんのことが好きなわけじゃないんだよ。許嫁だからなおざりにしないだけ。本当は別れたくてしょうがないんじゃないかな。」
春香の言いぶりは極端に過ぎるところがあると思う。でも、望月先輩が雪村さんに積極的に好意を抱いていないのも恐らく事実だ。春香の言う通り、許嫁だからなおざりにしていないだけなんだと思う。
「でも、雪村さんは、望月先輩のこと本気で好きみたいね。」
私はそう述べた。はあ、と春香はため息をつく。
「そこが問題なのよね。もしかしたら、雪村家じゃなくて、雪村さん本人の方から許嫁を申し出たんじゃないかな。」
「まさか。そんなこと考えられる?家と家との姻戚政策に子が割り込んで介入するなんて、常識では考えられないわ。」
まあ、こんな平安時代みたいなのが現代にも生きていることの方が非常識な気がするが。
「みんな感づいているのよね。望月先輩は雪村さんのことが好きなわけじゃないって。だからみんな、もしかしたら・・・って色気づいてる。」
春香のいい口は、まるで「盛りのついた雌犬」みたいな言い方だった。
「色気づくことと、本気で落としに行くのは別の話だと思うわ。」
「まあ、そうなんだけどね。それにしてもマリオカート面白いね。」
「結局、はまっちゃったのね。彼の趣味に。」
春香はそれまでテレビゲームなんてやったことなかった。望月先輩が置いてるゲームで、初めて春香はテレビゲームをプレイしたのだが、どうも春香はその面白さにはまってしまったらしい。ついには、自宅にゲーム機を買い込む始末であった。
別に彼に合わせるために無理してゲームをしているわけではなく、自然と自分の好きなものになっていた。そういうところ、春香は柔軟だ。
「千早ちゃんもやればいいのに、楽しいよ。」
「私は画面酔いしちゃうから、どうもダメみたい。あまり動きがないゲームだったら行けるかもしれないけど。」
「そっかー残念だなー。」
春香は座椅子に座って何か考え事をしているようだ。私はそんな彼女を気にせず、iPodで音楽を聴こうとしていた。春香がそんな私を制した。
「千早ちゃん、誰が先輩のことを好きなんだと思う?」
「えっ?」
「望月先輩のことが好きな女の子は誰かって話?」
私は首を傾げた。
「さあ、人の心は覗けないからね。雪村さん以外には分からないな。」
「私はね、なんとなく分かってきたよ。誰が先輩のことを好きなのか。」
ほう。そうなのか。あまり関心はないけど、春香の言葉に耳を傾けることにしようか。
「具体的に言うと誰なの?」
「まずあずささん。」
いきなり意外な名前が出てきた。私の目から見ると、別にあずささんは、彼を狙っている風には見えなかった。特段彼にアプローチを仕掛けている訳ではないし、どちらかというと元部長としての好から、音無さんの後見役を買って出てるだけだと思ってた。
「どうしてそう思うの?」
「だって、もう既に引退している4年生の中で、あずささんだけ部活に足繁く顔を出しているし、あずささん、何だか望月先輩とお話ししているときはとても楽しそうだし。それに、歓迎会の時、あずささんは望月先輩を狙ってそうな感じがしたのよ。」
ふーん、その話は初耳だ。
「他には誰がいる?」
「私が感じているのは。四条さんかな。彼女はお家再興のために望月先輩に近づいているって感じがする。あとは、雪歩。」
またしても意外な名前が出てきた。萩原さんは、確か男性が苦手だって言っていたはず。真と仲が良いから、萩原さんは多分レズなんだと思ってた。
「萩原さんは、男の人が苦手だって言ってなかった?」
「うん、確かにそう言ってた。でも、雪歩は望月先輩は大丈夫なんだと思う。雪歩、彼に話しかけられると、頬を染めながらも。ちゃんと会話するしね。あれは完全に惚れていると思うよ。」
望月先輩のことになると、春香は本当に目敏くなる。そんなの私気づかなかったよ。
「それと千早ちゃん。」
それを聞いて私は苦笑した。
「何で私なのよ。」
「だって、彼のこと気になってるんでしょ。」
「気にしているのと、好意を持っているのって別だと思わない?それに私、春香の邪魔をして取りに行こうとなんてしないから。」
「ふーん。」
春香は信じていない目だ。確かに、正直な話、望月先輩に話しかけられて悪い気はしない。京極さんや猿渡さんが話しかけてくると、嫌な気持ちがするのとは大違いだ。
私も萩原さんと同じで、男性が苦手になっていた。だから、男が、しかもチャラい男の人が話しかけてくるだけで、虫唾が走る。私の場合、多分男性が嫌いというよりか、男性を憎んでいるのだろう。
でも不思議と、望月先輩に話しかけられても悪い気はしない。それは、彼が「加藤君」に似ているからなのかもしれない。あるいは、やさしくて中性的な雰囲気が、私の男性への警戒感を緩めているだけかもしれない。だけど、それを以って、私が彼を狙いに行っているというのは心外だ。
「確かに私は、望月さんに嫌な気持ちは抱いていない。正直、話しかけられても大丈夫な人よ。だけど、やっぱりそれとこれとは違うから。」
「まあ・・・本人がそういうんだから、その言葉を信じるしかないよね。」
逆に、春香はどうして先輩にそこまでこだわるのだろうか。改めて聞いてみたくなった。
「春香、どうしてあなたは先輩にこだわるの。やっぱりお金?」
春香は少し考えた上で、答えた。
「それもあるけど、やっぱり『ドキッ』としたからかな。」
「『ドキッ』?」
「最初に一目見たとき、『この人かっこいい』って思った。あのトキメキは、私の人生で味わったことのないものだった。多分、一目ぼれってやつなんだと思う。そして、実際に話してみて、遊んでみて、とても優しくて紳士的な人だって分かった。うぬぼれだけど、多分先輩も私のことを好きでいてくれていると思う。だから。」
やっぱり私の気持ちは勘違いなのだろうか。私から見ると、先輩は私に好意を寄せているように見えるのだ。でも、春香も同じ感覚を抱いている。どちらかが間違っているとするならば、きっとそれは私の方なのかもしれない。