第6節 高鳴る想い
私は、望月先輩にメールで連絡を取ることにした。「昨日のことで、謝りたいから、お時間取れませんか。いろいろ話しにくいこともあるので、二人きりで会いたいです。」というものだ。
それに対して先輩は、今日の夜なら空いているということだったので、あの夜の翌日、午後7時に新宿駅で待ち合わせることにした、この日、先輩は大学での授業ののち、望月商事での軽い仕事をした後、こちらに寄ることになっていた。だから、望月先輩の本社がある新宿で待ち合わせることにしたのだ。
「ごめんごめん、如月さん。待った?」
彼は待ち合わせより10分遅く、7時10分に、待ち合わせ場所にしていた小田急線西口改札駅前に到着した。
「いえ、そんなに待ってないから大丈夫です。」
本当は、6時45分から待っていたが、私にとっては「そんなに」の範疇に入っているから大丈夫だ。
「仕事が長引いちゃってね。なるべく手早く終わらせたんだけどね。」
「私が忙しいのに先輩を呼んでしまっているんですから、全然気にしないでください。」
「ありがとう。じゃあ、行こうか。最近、雰囲気のいいレストランを見つけたんだ。きっと、如月さんにも気に入ってもらえると思うよ。」
私は、望月先輩に連れていかれるがまま、西新宿の官庁街へと向かっていった。そして、10分くらい歩いたところに、こじゃれたカフェ&バーがあった。
「ここだよ、さ、中に入ろうか。ここなら夕飯も食べられるし、落ち着いて話もできるから。」
「はい、ありがとうございます」
私はメニュー板を一瞥した。ディナータイムだから、結構値が張る。大体どれも1000円近い。
「ああ、値段のことは気にしないで。僕が全部払うつもりだから。」
その言葉に驚いて、とっさに私は否定した。
「いえ、自分の分は私が払います。私が先輩を誘ったんですから。それに、これは昨日のお詫びですし。先輩に払わせるのは、いくら何でもダメです。」
先輩は笑って返してくる。
「こんな高いところに連れ出したのは僕なんだし、ディナーを指定したのも僕なんだから、ここはかっこつかせてくれよ。お代は、そうだね。君の話かな。」
「えっ。」
「僕は如月さんに何があったか知りたい。僕の見立てでは、君は結構心に闇を抱えているようだ。だから聞かせてくれないかな。何があったのか。」
私は何も言えずに黙ってしまった。私は、この人の意図がつかめない。先輩は一体、どういうつもりなんだろうか。どうして、私の話なんか聞きたがるんだ。
「さ、こんなところに立っていても何だし、中に入ろうか。」
私は促されるままに、お店の中に入った。
お店は、シックなバーという感じで、バーカウンターとは別に、対面で座れるスペースもある。まだ時間が早いせいか、お客さんはそんなにいない。
「2人席で。禁煙席をお願いします。」
慣れた感じで、先輩が席をオーダーする。
「はい、これがメニュー。決まったら、教えてね。」
「は・・はい。ありがとうございます。」
正直、こんな洒落たお店入ったことがない。私は慣れないお店の雰囲気に当惑しながらも、暗がりの中でメニューを選ぶことにした。
「決まりました。」
「そう、じゃあ僕も決まったからオーダーしようか。」
望月先輩が店員を呼んだ。先輩はボンゴレのパスタ、私はミートソースのパスタを注文した。
「飲み物は、白ワインでいいかな?」
「はい、えっ?ええ。」
お酒飲むんですか?私たちまだ未成年ですけど・・・。
「じゃあ、白ワインをグラスで2つ。」
「かしこまりました。」
店員はすたすたと去っていった。
「先輩・・・お酒、飲むんですか?」
「ああ、未成年だからとか、そういうこと気にしなくていいよ。2人きりの席なんだし、お酒が入ったほうが、言いやすいこともあるでしょ。」
「そうかもしれませんけど・・・。」
「如月さん、お酒飲んだことない?」
「えっ、ええ。先輩はあるんですか?」
「僕はあるよ。親父の付き合いでね、よく白ワインを嗜んでいるんだよ。ああ、ここだけの内緒にしておいてね。バレたらいろいろ面倒だから。」
茶目っ気ある目をして、せがんできた。別に私としても、そんなことでどうこうしようとなんて思っていない。
「ええ。わかりました。」
私は改めて、店の内装を見回した。こんなおしゃれな店知っているなんて、やっぱり、私たちとは格が違うな。
「先輩は、どこでこんな店見つけるんですか?」
先輩がにっこりと笑った。
「会社の先輩がね、教えてくれるんだよ。『こういう店知っておいたほうが、女の子落とすのには最適』だってね。ああ、でも今日はそういう目的じゃないから。このお店、結構静かで話しやすいでしょ。この時間なら人が少ないしね。」
確かに、お客さんが少ないこともあって、静かだ。
「ええ、そうですね。」
何だろう。会話が弾まない。緊張してしまっているせいだろうか。いろいろと話したいことがあるのに、なかなか口をついてこない。
ついに、先輩のほうから口を開いてきた。
「如月さん、勉強のほうはついていけてる?」
「ええ・・語学以外は何とか。」
「第二外国語はドイツ語だっけ。ドイツ語って簡単だって言われて、何で苦戦しているんだって言われるけど、本当は結構難しいんだよね。」
「そうですね。名刺の定冠詞がいくつもあったり、二人称が二つあるだけで、かなり混乱してます。」
「電子辞書は買った?」
「電子辞書ですか?ドイツ語の?」
「ああ。あれがあるのとないのでは大違いだと思うよ。特にリーディングの予習をするときにはね。教授によっては、紙の辞書で引くから意味があるんだっていう人もいるけど、僕はそうは思わないよ。結局、覚えられればいいんだから。」
「先輩はすごいですよね。英語もマスターされてるなんて。」
先輩は手を振って謙遜した。
「いやいや、僕だって通訳なしじゃ、そんなにしゃべれないから。日常会話くらいしかできないし。」
「それでも、一通りでも話せるなんて、すごいと思います。私なんて、受験英語くらいなものですから。」
「ちゃんと、勉強しているだけでも偉いよ。」
そのとき、頼んでいたワインが届けられた。
「じゃあ、乾杯しようか」
チーン
私はワインの匂いを嗅いだ。お酒の匂いだ。一口、口に運んでみる。なんというか、アルコール独特の味がする。ブドウの味もしないことはないが、アルコールの味のほうがインパクトが強い。
先輩も一口ワインに口をつけたようだ。
「僕は赤ワインよりも白のほうが好きなんだよね。赤ワインだとたまに、頭が痛くなっちゃうから。」
「そうなんですか。」
「ただ、赤ワインもおいしいから、今度飲んでみるといいよ。」
「・・・はい。」
続いて、注文していたパスタが届けられた。ボンゴレは、あさりがパスタの上に模様のように飾り付けられていて、見た目からもおいしそうだ。ミートソースも、お皿の中央に赤々と彩られており、その香りも食欲をそそる。
「いただきます。」
二人は黙々とパスタを食べ始めた。
やはり、気まずい。何か話さなくちゃ。
「あの・・・」
「どうしたの?」
「あの・・・望月先輩は、パスタはお好きなんですか?」
「ああ。好きだよ。時々食べに行っているし。ヒルトップの最上階にも食べに行っているよ。」
ヒルトップとは、中帝大学の学食棟のことだ。そこには和洋中と様々な種類の学食店が収まっている。山の中にあって、市井の外食店に行けない大学生の胃袋を満たしてくれる存在だ。
「あそこの、パスタおいしいんですか?」
「おいしいよ。そういえば、如月さんはいつも春香ちゃんとお昼食べてるんだよね。うちのサークルで。」
「ええ。節約のためです。」
「今度ごちそうするから、3人で食べに行こうか。」
「いいんですか?」
「3人なら、変に勘違いされないしね。」
そういって、先輩は笑った。私もワインに口をつけた。
「許嫁さんは、怒りそうですね。」
「ああ。まあ、彼女のことを気にしてたらやっていけないし。」
先輩は冷たく吐き捨てた。やっぱり、望月先輩は雪村さんのことが好きではない印象だ。
「変な話をするようだけど、僕は高校生の頃から婚約者が決まってたんだ。楓とは、高校時代からの付き合い。高校時代に同じクラスになって、それからまるで図られたかのようにずっと同じクラスだった。まあ、学長の孫だから、クラス替えをいじることくらい造作もないことだったんだろうね。」
聞きにくい。けど、聞いておきたい。一番重要なことだ。
「・・・雪村さんのこと好きじゃないんですか。」
「・・・どうなんだろうね。楓は僕のことを好きでいてくれているみたいだ。僕は、僕のために尽くしてくれようとする楓を愛おしく思っている。けど・・・それが純粋な気持ちなのかっていうと、それはまた違う。別に許嫁でもなく、普通に出会っていたら、彼女のことを好きになっていたかどうかは正直怪しいし。」
何とも返しづらい雰囲気だ。この人は、雪村さんといずれ結婚しなければならない。私にはない境遇だ。あずささんは、それは「ノブレス・オブリージュ」だといった。ほかの社員を守るために、自分を犠牲にする仕方のない行為なんだと。だけど、「だから受け入れろ」とは言えないし、「そんなこと無視しろ」とも言えない。結局、適当な返事をするしかない。
二人は無言でパスタをすすり始めた。時々、ワインに口をつける。すると次第に、頭がぼーっとしてきた。これが恐らくほろ酔いの感覚なんだろう。
「お代わり頼もうか。」
望月先輩がお酒の追加を申し出た。
「じゃあ、お言葉に甘えてもう一杯いただこうかな。」
「わかった。白でいいね。」
あの話をするなら、もう少しお酒がほしい。
「はい。お願いします。」
私はグラスに入った白ワインを飲み干した。
「許嫁って、財閥だと普通なんですか?」
先輩がワインの追加注文を取り終わった後、私はそんな話題を傾けた。
「どうも、そうみたいだね。財閥のお歴々の家系図を見ると、たいてい、どこかのグループの娘や婿を取ったりしている。だから、僕の運命もそれほどまでに変な話でもない。僕も、別に楓のことは嫌いなわけじゃない。」
でも、好きってわけでもない・・・。
「みんな、どうやって受け入れているんでしょう。好きでもない人と結婚するってこと。」
先輩は肩をすくめる。
「恋愛結婚なんて価値観自体がつい数十年前に定着した考えだからね。それが当たり前だと考えると、許嫁なんて古代じみた事、おかしく見える。」
先輩も酔ってきたのかもしれない。言動が少し浮ついてきている。私も酔いが回ってきた。話すなら、もうそろそろだ。
「先輩・・・。怒らないで聞いてほしいんです。」
「うん。」
「実は・・・私がこのテニスサークルに入ろうって思ったのは、望月先輩のことが気になっていたからなんです。」
「・・・そうか。」
そのとき、追加注文していたワインが届いた。私はワインで口を濡らし、話の続きを始めた。
「私には、小学生時代に初恋の人がいました。加藤君っていう子だったんですけど、望月先輩が、その加藤君にそっくりで・・・。それで、望月先輩が加藤君じゃないか確かめたくて・・・。」
「このサークルに入ったんだね。」
「・・・ええ。」
私は下を向いていた。こんなバカみたいな話、堂々とできるほうが変だと思う。
「如月さんは、富山出身だよね?春香ちゃんと一緒で。」
「ええ。そうです。先輩は?」
「僕は、生まれも育ちも東京なんだ。富山には、正直1回も行ったことはない。だから、僕はその『加藤君』じゃない。」
「そう・・・ですよね。」
重い沈黙が流れた。BGMのジャス音楽だけが、店内を支配している。私はもう一口ワインを飲んだ。
「『加藤君』は、私にとって恩人なんです。私、中学生の時に・・・ちょっと辛いことがあって、それからしばらくして偶然彼に会ったときに、大事なことを教わったんです。」
「それは何かな?」
「・・・心を閉ざすことです。」
「心を閉ざす・・・。」
「正確に言えば、彼はそういうことを言ったんじゃないんです。彼は、日常生活を一生懸命に生きて、楽しいこともして、それで嫌なことが忘れられるようにしろって、教えてくれた。でも私はそれを曲解したんです。心を閉ざして、感情を捨てて、何も感じないように生きようとした。」
先輩は真顔でまじまじと見つめていた。
「却って辛かったんじゃないかな?そういう生き方は?」
私は自嘲気味にほのかに笑みを見せながら、首を横に振った。
「いえ、本当に楽でした。ただ毎日勉強して、委員会活動をやって、家で家事をやって、ただそれだけ。そうして無心で過ごすうちに、気づけば中学を卒業していたんです。そしてその間、私はその辛いことを考えなくて良かった。でも・・・」
「でも・・・?」
「春香に出会って私は変わったんです。心を閉ざすことなんてできなくなった。一緒にいて楽しかったから、殻に閉じこもっていることなんてできなかったんです。」
先輩は笑顔を見せる。
「さすが、春香ちゃんだね。」
はっとした。こんなことをペラペラと語っているけど、私今とんでもないことを口走っているのではないか・・・。
私はとっさに下を向いた。
「ごめんなさい・・・こんな話・・・料理が不味くなっちゃいますよね。」
「気にしないで、如月さん。」
そう言って彼は笑顔を作っている。私はゆっくりと顔を戻したのだが、その笑顔に、どこか気まずくなって、また明後日の方向を向いてしまった。
「私・・・男の人苦手なんです。」
「そうみたいだね。」
「知ってたんですか?」
「春香ちゃんから聞いたんだ。高校生の時に、電車で痴漢にあってから、男の人がダメになったって。」
春香、そんな言い訳をしてたんだ。私は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい!昨日は本当にひどいことを!下手すれば、犯罪者と疑われるようなことだったのに。何も誤解を解こうともしないで、逃げてしまって。」
「いやいや、僕は全然気にしていないんだ。春香ちゃんがすべて事情を説明してくれたしね。それより、僕は君のことが心配なんだ。」
「えっ・・・。」
望月さんは微笑みかけてくれる。
「如月さんって、時々ものすごく深刻そうな表情をするときがあるよね。もしかして、そのことを思い出してしまって辛いんじゃないかなって。それに、中学の時、何かがあったんだよね?心を閉ざさなくちゃいけなくなるほどの何か。それって・・・どんなことだったのかな・・・?」
確かに、私は苦々しい深刻な表情を浮かべることがある。でもそれは、自分自身のことを考えている訳ではない。
春香のことが心配だからだ。春香は、禁断の領域に足を踏み入れようとしている。許嫁がいる望月先輩、その彼を本気で落としにかかるという荒業だ。そのことが、私たちの平穏と幸福を脅かしてしまうのではないか・・・。それが不安なのだ。
「・・・ごめんなさい、それだけは勘弁してください。・・・別に大したことではないんです。ただ・・・」
「ただ?」
「私、春香が心配で。春香って、あの子、結構無鉄砲なことするから・・・。」
「例えば、僕を本気で落としに行こうとしているとか、かな?」
「やっぱり、自覚ありますか。アプローチをかけられているって。」
「僕だけじゃなくて、みんな感じていることだと思うよ。」
私は頭を深々と下げた。
「先輩、お願いですから、春香のことを嫌わないであげてください!お願いします!あの子、結構無鉄砲ですけど、それでもかわいいところいっぱいあるんですよ!」
私は何度も頭を下げてお願いした。
「落ち着いて、如月さん。僕は別に彼女のことを嫌っているわけじゃないよ。むしろ好きなほうだよ。やることなすこと、元気でかわいいし。一緒にいてとても楽しい。」
私は頭をあげて、先輩のほうを見た。先輩は当惑している表情だ。またしても、先輩を困らせてしまった。
「すみません。また先輩を困らせてしまって・・・。」
「気にしないで。僕は何度も言っている通り、楓と結婚するんだ。どんなに春香ちゃんがアプローチをしてきても僕がそれに応えることはない。だからむしろ、僕は申し訳なく思っているんだ。春香ちゃんの気持ちには、応えてあげられないんだからね。」
私は全力で首を横に振った。
「いいんですいいんです。もともと迷惑を承知の上でやっているんだから。あのバカな子を許してあげて下さい。」
そう言って私は何度も何度も頭を下げた。その様子がおかしかったのか、先輩がケラケラと笑っている。
「二人は本当に仲がいいんだね。お互いがお互いを信頼しあって、支えあっている。如月さん、僕が言うのは変だと思うけど、春香ちゃんを大切にしてあげたほうがいいよ。そうすれば、同じだけ春香ちゃんも如月さんを大切にしてくれると思うから。」
私は少し恥ずかしくなって目を落とした。
「そうですね・・・春香とは、酸いも甘いも経験してきましたから。」
「なんだか、君がそれを言うと、何か深いね。」
私は首を挙げて、少し睨むようにして先輩を見た。
「どういう意味ですか?私は重い女ですか?」
私は釣り目で彼に問いかけた。
「いやいや、そういう意味じゃないよ。」
先輩は少しうつむき、ワインを飲み干した。その時になって初めて私が、感情的に彼をなじっていたことに気が付いた。
「ごめんなさい・・・。」
「僕の方こそごめんね。」
重い空気だけが流れている。私は気を紛らわせようと、グラスワインを飲み干した。
「如月さんって、凄いね。」
「・・・何がですか?」
「物凄く強い女の子なんだなって。」
「??どういうことです?」
先輩が真剣なまなざしを向ける。
「如月さんは、中学生の時にも、高校生の時にも辛いことがあった。だけど、それを耐えて、今こうやって僕の目の前にいる。きっと、僕なんかが想像もできないほどに、辛い目にあっているはずなのに、気丈にふるまっている。」
「・・・・。」
確かにそうだともいえる。だけど、全部自業自得なのだ。憐憫をかけてもらう筋合い何てどこにもない。
「全部、何もかも自分が悪いんです。そのせいで不幸になっている。別に褒められたものじゃないです。」
「痴漢に遭ったのも、自分のせいなの?」
しまった。春香は、私が痴漢に遭ったことにしてくれていたんだった。酔いが回ったせいで、そんなことすら失念していた。
「えええっと・・・。」
咄嗟に何とかして取り繕うとしたが、いい考えが思い浮かばない。それを制するように、彼は言う。
「その『加藤君』とは、その後どうだったの?」
「えっ?」
「たまたま会ったんでしょ?その後も、二人は定期的に会っていたの?」
「・・・途絶しました。本当にたまたまバッタリ街中で会っただけでしたし。別に連絡先も知りませんでしたから。」
「会おうともしなかったの?」
「彼女がいましたから、彼には・・・。」
だから私は、自分から身を退いた。
「そっか・・・。」
彼はそうつぶやいた。そして酔い覚ましの為か、グラスの水に口を付けていた。
「如月さんは、もっと自分の気持ちに正直になった方が良い。」
「それって、どういう?」
「如月さんは、その『加藤君』に恋人がいたから、もう連絡を取らなかったんでしょ?彼に迷惑をかけるわけにはいかないから。違う?」
その通りだ。
「ええ・・・。」
「もっと違う生き方ができたと思うんだよね。中学時代。その『加藤君』が教えてくれたことって、嫌なことをを思い出さなくてもいいくらい楽しく過ごそうよ、ってことだったんでしょ。」
きっとそうだったのだろう。だけど私には、そんな自信が無かった。彼から逃げてしまって、彼と一緒に居られない日々を・・・彼に頼れない日々を・・・どうやって楽しく過ごしたらいいのか、あの時の私にはわからなかったのだ。
「僕は、千早ちゃんの味方でいたい。困ったことがあったら、何でも言ってほしい。僕が『加藤君』の代わりになることは、多分できないかもしれないけど、でも、何か僕が役に立てることがあるなら、何でも協力するよ。」
「・・・・・」
私は何も答えられなかった。先輩の気持ちはうれしい。けど、そんなに素直に受け入れてしまっていいはずがない。申し訳ないけど、私が抱えている「闇」は、先輩の力をもってしてもどうすることもできないのだ。先輩を巻き込んでしまうだけ。だから・・・。
「春香ちゃんのことだけじゃないでしょ?悩んでいるのは。」
「・・・私、きっと先輩に迷惑をかけてしまいます。だから・・・私に構わないでいてほしいんです。それよりも春香のこと・・・ちゃんとお願いしますね。」
先輩は朗らかな笑顔を見せる。
「もちろんだよ。春香ちゃんのこと、傷つけたりしないから。それに千早ちゃんもね。」
「先輩・・・。」
「僕は『加藤君』にはなれない。だけど、僕はきっと『加藤君』がしてあげられなかったこと、してあげられると思うんだ。何も気にすることはないよ。だって、僕は楓と結婚するんだから。僕のことは気にしてくれなくていい。ね?」
少しせがむかのような目をされて、自然と笑みがこぼれてきた。かわいいと思ったのだ。
「さ、そろそろ帰ろうか。千早ちゃん。あっ、いきなり名前で呼んじゃったけど、よかったかな、そう呼んじゃって。」
「ええ・・・そっちほうがむしろうれしいです。それより・・・楽しかったですか?今日は。」
私は不安だった。気まずい時間もたくさんあった。私が先輩を傷つけてしまったのに、それでいて、今日の代金まで先輩に払わせて・・・これで、楽しくなかったら、私はどうしたらいいのか。
「ああ、楽しかったよ。千早ちゃんと、大人な付き合いをするのも悪くない。」
「そう・・・ですか。」
先輩は立ち上がると、伝票を取って、レジへと向かった。私もかばんを手に取って、先輩の後に続いた。
私は駅まで先輩に送ってもらい、感謝の言葉を述べて、そして一人京王線に乗って自宅に帰った。
結論から言えば、先輩はやっぱり「加藤君」ではなかった。望月先輩は望月先輩だったのだ。それを知って、だからと言って私の心が晴れたわけではなかった。
私は、望月先輩が「加藤君」ではないんだってわかれば、自分の中のもやもやが晴れて、彼のことをすっぱり頭の中から消し去ることができると思っていた。けれど、実際はそうではなかった。あの日の会食以来、私の彼への思いは募っていった。
あの日、望月先輩が「自分の気持ちに正直になれ」といったのは、「本当は、僕のことが好きだけど、春香のことを気にして、その気持ちを封印していただけなのではないか。」という問題提起だったのかもしれない。
先輩の言ったことは正しかった。私は、先輩に恋をしていた。その気持ちにうそをついてきたのだ。うそをついて、それを認めようとせず、思い出の中の「加藤君」にその恋心を見出していただけだったのだ。
私が望月先輩のことを好きになってしまったのは、彼が「加藤君」に似ているからではない。思い出の中の加藤君は、私に何かをしてくれるわけではない。でも、現実の望月先輩は、私のことを守ろうとしている。そして、私のことを好きでいてくれている。私は、そんな彼の想いを、とてもうれしく感じていた。でも、春香が先輩のことが好きだから、そして私は春香を幸せにしたいから、ずっとその気持ちを隠して、自分の気持ちにうそをついてきたのだ。
私は男の人が嫌いだった。男の人を憎み、みんなあの男と同じだと思っていた。でも、私は、彼は違うような気がした。
もしかしたら、もう一度抱かれたら、その時は、きっと彼の顔を正視できるような気がする。
もう一度、抱きしめられたい。その時は、もう逃げたりしないから。・・・そう思ったのだ。