第2節 見えない厚い壁
春香は言っていた。
「千早ちゃん知ってる?先輩のことを好きだった、あずささんも、四条さんも、雪歩もみんな先輩のことを諦めたけど、それは先輩がこの3人に『手切れ金』を手渡したからなんだよ。あずささんと四条さんは、芸能界デビューの道をプレゼントされて、雪歩は実家の会社の債務の借り換えをしてくれたらしいんだよ。でも私たちは、彼から『手切れ金』をもらってないよね。ということは、先輩は私たちのうち、どちらか一人のことを本当に好きでいてくれているんじゃないかな?」
春香の話が本当ならば、先輩は私たちを手放したくないということになる。つまり、本当に・・・私たちのどちらかが先輩と付き合える・・・。バカな想像だ、とも言えなかった。事実、私は先輩から何ももらっていないのだ。
親友同士で一人の男を争う。私はそんなバカげたレースに、ついに同意してしまった。私はあれから後悔していたのだ。たとえ、春香との争いが、先輩をめぐる競争だけだったとしても、やはりお互いに、そのことを意識せずにはいられないのだ。
きっと春香は、私と春香が対等の立場にいると思っているのかもしれない。私も春香も、両親から虐待され、お互いが幸せになる為に罪を犯し、そして一人の男の人を争っている。もしかしたら、そう思っているのかもしれなかった。
だけど、実際はそうではない。春香は、私を性的虐待から救うために、あの男を殺してくれた。だけど私は・・・何もしていない。春香の母親は、本当に出奔したのだ。私は手を下していない。だけど春香は、それを私の仕業だと思い込んでくれた。そして私も、そうした彼女の勘違いをやや積極的に利用している。
こんなことをしてはいけない・・・心の底では分かっている。この競争に乗って、「対等に勝負すること」それ自体が最初から許されない行為なのだ。私たちは対等ではない。私は・・・春香に対してとんでもない負い目を負っている。それに、春香が虐待を受けたのは、春香には何の責任もないことだ。それに対して私は、千尋を死に追いやった・・・その咎を責められている。内容が全然違い過ぎる。
頭ではわかっている。私がいけない競争に応じてしまった、だけど、心が、気持ちが追い付いていなかった。
合宿が終わって、しばらく大学に行く必要がなかった間は、そんな約束なんてなかったかのように、普通に仲良く過ごしていた。
けど、9月に入って、秋学期が始まると、私は、春香と交わした戦いの火ぶたが、あまりに重いものだったと思い知らされることになった。
私と先輩が話し込んでいると、そこに割って入るように春香が話題に入ってくるのだ。そして3人で話していると思ったら、いつの間にか春香と先輩の二人きりで話していることも多くなった。私は、春香に負け続けているような気がしてならなかった。
9月下旬のことである。この日も、私と春香は部室で思い思いのことをしながらくつろいでいた。望月先輩と雪村さんは、部屋の真ん中に置いてあるちゃぶ台でなにやら話をしていたようだった。
すると、突然雪村さんの怒声が響き渡った。
「信じられない!どうして、休みとれないのよ!」
「しょうがないじゃないか。急な仕事が入っちゃったんだから。」
「一緒にデートしようって約束したじゃない!」
「その埋め合わせは、また今度するからさ、今回は諦めてくれよ。」
「バカ!もう、知らない!」
雪村さんは、怒って部室を出てしまった。
望月先輩は、深くため息をついて、ちゃぶ台に顔を突っ伏した。すると、同じちゃぶ台で勉強をしていた春香が先輩の隣に寄って行った。
「望月先輩、お茶を淹れてきますね。」
9月下旬だが、この日は少し肌寒い日だった。
「春香ちゃん、ありがとう。」
「今日は、良いものも持ってきましたから。」
いいものというのは、おそらくクッキーのことだろう。昨日、春香が一生懸命焼いていたのを思い出した。先輩にあげるために余計に焼いていたのは、知っていたのだ。
やがて、春香が二人分お茶を淹れて持ってきた。
「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」
そういって、望月先輩はお茶を一口すすった。
春香は自分のカバンのところに向かい、チャックを開けて、何かを取り出した。
「先輩、これ先輩のために焼いてきたんです。是非食べてみてください。」
春香は、そう言って、小さな袋に詰めたクッキーを渡した。
「春香ちゃん、これ自分で焼いたの?」
「はい!がんばって作りました!」
「へー、わざわざありがとう。じゃあ、いただくね。」
望月先輩は、小さな袋に結わっているリボンをほどき、1枚クッキーを取りだして、口へ運んだ。
「ん。おいしい、ちょうどいい甘さだね。」
「でしょー。やっぱり。クッキーはこれくらいの甘さがいいですよね。」
「そうだね。春香ちゃん、お菓子作りがうまいんだったら、将来パティシエになるのとかいいんじゃないかな?」
「えっ、そうですか?」
そろそろ私も話に加わろうかな。
「春香がお菓子職人やったら、春香が全部おかし食べちゃいますよ。」
「あっ、ひどーい、そんな言い方はないよ。」
望月先輩はハハハと笑って、もう一枚クッキーを取り出して、口に運んだ。
「さっき、雪村さんと何を揉めてたんですか。」と春香が尋ねる。
先輩が、右手で後頭部を抑えて、「参った」という表情をした。
「いやー、お恥ずかしいところを見せちゃったね。実は、楓とデートの約束をしてたんだけど、その日に急な仕事が入っちゃって、それで延期してくれって言ったら、あんなに怒っちゃったってわけさ。」
「大変ですね、先輩も。」
「まあ、ね。」
春香が一呼吸おいて、先輩に語り掛けた。
「何かお手伝いできることがあったら、何でも言ってくださいね。このサークルのことで、お手伝いできることは何でもしますから。」
望月先輩は、一応このサークルの副部長を務めている。とはいえ、基本的に何も活動しない部活だから、やることなんてほとんどないのだが。
「春香ちゃんがそばにいてくれるだけで、心強いよ。」
先輩は優しい笑顔を春香に向けた。私はうらやましそうな顔で、春香を見つめた。
そして、先輩がクッキーを食べ終わると、春香が先輩を「モンハン」に誘った。最近、先輩はPSPのモンスターハンターにはまっているらしい。それで、春香もPSPを買って遊んでみたら、すっかりはまってしまったとのことだった。
私は春香と望月先輩が、小さな画面に向かって声を掛け合っているのを見ながら、考え事をしていた。
最近、春香の行動パターンが変わってきたのだ。前は、望月先輩にひたすらくっついて、その度に雪村さんにつつかれていたのに、最近は一歩引いていることが多くなった。先輩と雪村さんが一緒にいるときは邪魔しないで、雪村さんがいなくなったところで、話しかけるのだ。
ほかにも変化があった。先輩のためにお弁当を作ったり、お菓子を作ったりすることが多くなった。最初は、みんなにおすそ分けするという形をとっていたが、最近は、先輩に直接あげることも多くなっていた。
そして、先輩の趣味を積極的に取り込んでいっている。もともと春香は、先輩の趣味に合わせてゲームをやっていたわけではない。大学時代に入って、ゲームをやり始めて、その面白さにはまってしまったという次第だった。
だけど、春香は先輩が好きなゲームをよく研究して、はっきり言ってすごく上達していた。モンハンでも、最初は先輩がゲームをリードしていたのに、気づけば春香がリードしているくらいなのだ。
これらの一連の行動は、恐らく多大な成果を上げていた。自分にとって贔屓目に見ても、先輩が春香に好意を寄せているのはまるわかりだった。
気づいたら、私が入り込む隙はなくなっていた。ゲームという、私が入れない領域に、二人はどっぷりと浸かっている。その時点で、私はもうどうすることもできないのだ。
私は、二人が楽しそうにゲームに興じるのを横目で見ながら、強いジェラシーを感じていた。
私が春香の挑戦状を受けてしまったのは、本当に失敗したと感じていた。
これまで、私の胸の中にもやもやした気持ちがあっても、「望月先輩は雪村さんと結婚するんだしどうしようもないことだし、春香も狙っているから」と割り切ることができた。春香に「本当は望月先輩のこと狙っているんじゃないの?」と聞かれても、「雪村さんから奪いに行く勇気はないし、春香からとったりしないわよ。」と堂々と答えることができた。
でも、春香からの挑戦状を受けてしまったことで、それすらできなくなった。これまで、私と春香と望月先輩と雪村さんの4人で過ごしていても、私は春香のことを意識する必要なんてなかった。私は、多分自然のままでいられたのだと思う。
だけど、春香との勝負を受けてしまって、4人でいるときも、春香のことを意識せざるを得なくなった。私が先輩に話しかけようとしたり、私が望月先輩に近づこうとしたら、また春香が邪魔してくるのではないか、そしてそれがきっかけになって、春香とけんかをしてしまうのではないか。そして、最終的には、春香と絶縁してしまうのではないか。そんな強迫めいた観念にとらわれることになって、かえって望月先輩に話しかけづらくなってしまった。
そして、どうせ望月先輩を射止めることができないのにもかかわらず、「もし自分が先輩を射止めてしまったら、どうなるのか」とバカなことを考えるようになった。
だんだん、分からなくなっていく。普通に考えれば、潔くあきらめた方がいいのだ。そもそも、望月先輩には許嫁がいるわけだし、仮にそれを破れるとしても、その資格があるのは春香だ。春香がしてきたこれまでの努力を考えれば、私なんか足元にも及ばない。
だけど、自分の中で気持ちを抑え込もうとすればするほど、不思議と春香が恨めしくなって、気づいたら、二人が仲良くしているところに目移りしてしまう。
私はその場に居辛くなって、荷物を纏めて、部室を出ることにした。
「あれ、千早ちゃん、もう帰るの?」
春香が無邪気に、私に尋ねてくる。
「ええ。今日は家に帰って課題をやろうと思うから。」
「そっか、じゃあね。」
「ええ、また後で。」
私は、このサークルの中にだんだん自分の居場所がなくなっていくのを感じていた。
私は春香の提案を受けてしまったことを本当に後悔していた。そのせいで私は、春香に疎まれ、春香に警戒され、そして春香との間に見えない壁ができてしまったのだ。
これまでテニスサークルで感じることも無かった強い疎外感を感じるようになってしまったのだ。
もし叶うのならば、私は春香と一緒にこのサークルを抜けたかった。サークルを抜けて、恋敵ではなく、親友として・・・そして家族として、また2人でワイワイと『普通の人生』を謳歌したかった。
10月初旬、3年生の就職活動開始を契機に、現在の3年生がサークルから「卒業」することになった。サークルの部長の座は、音無さんからの禅譲により、望月先輩が新たな部長に就任することになった。
そして副部長には、春香が就任した。今から思えば、これも春香の戦略だったのだと思う。ほとんど活動していないサークルであるとはいえ、部長と副部長の2人が主にサークルの会務を行っていく。となれば、二人の仲もサークルの仕事を通じて深まっていく訳である。
そしてここ最近、雪村さんと望月先輩が言い争いをする場面が増えてきていた。恐らく、雪村さんが焦り始めているのだ。これまで自分が「許嫁」であり、その自分を差し置いて本気で望月先輩を狙いに行く人間がいなかったから、彼女も余裕だった。
だけど、春香という強力なチャレンジャーが現れて、しかも望月先輩も春香のほうに魅かれているという状況を前に、雪村さんもうかうかしていられなくなった。いくら自分が「許嫁」の地位を得ているとはいえ、望月先輩のことを本気で好きでいる雪村さんにとっては、彼の気持ちが春香に移っていくことが許せなかったのだろう。
もしかしたら、殆どあり得ないとはいえ、先輩が財閥トップの地位を兄に譲ってまでして雪村さんと絶縁する可能性も、彼女の目にはちらついていたのかもしれない。
雪村さんは、春香と望月先輩が仲良くしていると、露骨に嫌がらせをしてくることがあった。そのたびに、先輩が雪村さんを嗜めてけんかになる。その繰り返しだった。