第6節 『太陽』
「ただいま。」
「お帰り、千早ちゃん。」
春香は先に帰ってきていた。気づけば、もう時刻は7時を過ぎている。大学の帰りに水瀬さんを誘って、あれから数時間が経っていたのだ。
「千早ちゃん帰るのが遅いから、もう夕食作り始めちゃったよ。」
そうか、今日は私がご飯を作る当番だった。
「ごめん、春香。忘れてた・・・。」
「いいっていいって。明日やってくれればいいからさ。もうそろそろ、用意できるんだけど、先にお風呂にする?」
「いや、せっかく作ってくれたんだし、お腹もすいているから、先にご飯にするわ。」
「そう。じゃあ、着替えて、座って待ってて。」
エプロン姿の春香を見ていると、本当に美しく思える。なんというか、優しいお母さんという言葉がぴったりなのだ。春香だったら、きっといいお嫁さんになれる。それこそ、望月先輩にふさわしい、良妻賢母になれる。ちょっと言葉は古いけど。
「どうしたの?さっきから私のこと見つめちゃって?もしかして、かわいい私のエプロン姿に惚れちゃった?」
春香がいたずらっ子な表情で、ちょっかいを出してきた。
「ば、バカ言わないでよ。さっさと着替えてくる。」
「赤くなった、赤くなった!千早ちゃん、かっわいーい」
私は赤くなったほっぺを隠しながら、クローゼットに向かった。
普段着に着替え終わったころ、ちょうど春香の方も配膳が終わった。手を洗って、食卓兼作業机となっている四角いちゃぶ台を二人で囲んだ。
今日の夕食は、サンマの塩焼きだった。
「いただきます。」
私たちは、無言で食べ始めた。秋月家であったような、テレビをつける習慣は、大学に入ってからはなくなっていた。食事をしているときは、たいてい無言か、あるいは今日あったことを話している。
今日あったこと、私はそれを言わなくちゃいけない。そして・・・私は、春香を説得しなければならない。でも、何を・・・?
春香は本気で望月先輩と結ばれたいと思っている。それこそ「不倫愛」を選択するほどなのだ。そんな春香の気持ちを知ったうえで、「あきらめろ」なんて言わなくちゃいけないのだろうか。
ええい、考えていたもしょうがない。まずは春香の気持ちを聞かなくちゃ。
「あのね、春香。」
「うん?」
春香はご飯をもぐもぐしながら、答えた。
「今日、水瀬さんとお茶してきたの。」
「へー、伊織と。珍しいね。普段そんなに話す仲じゃいないのに。」
「ちょっと、相談事があってね、私から誘ったの。」
「ふーん。」
春香は別に、自分から話を広げようとはしなかった。
「それでね・・・水瀬さんから聞いたんだけど、春香って、水瀬さんからアドバイス受けているんだってね。」
「・・・・・。」
春香は何かを考えているのか、私の質問に答えようとはしない。明らかに、触れられてほしくない、そういう雰囲気だった。
「別に、そのことを咎めるつもりはないの。春香が望月先輩のことを真剣に落とそうとしているのは、分かるし。別に誰にアドバイスを求めるのも自由。だけど・・・。」
「だけどなに?」
春香は少しイラついているようだった。
「水瀬さんから聞いたんだよね。望月先輩を射止める・・・つまり、望月先輩と雪村さんの縁談を邪魔するってことの意味。」
「・・・うん。」
春香は少し考えてから、短く答えていた。
「水瀬さんは、望月財閥と雪村家の婚姻を邪魔することで、望月財閥の弱体化を狙っていた。春香は、そのための手段に過ぎない。それも知ってるよね?」
「・・・知ってる。」
「そして、望月先輩の縁談を破って、結ばれようとする、それがとても危険だってことも。」
「・・・うん。」
「春香は水瀬さんからなんて聞いた?『もしかしたら殺されてしまうかもしれない』そう聞いてない?」
「・・・そうは聞いてないな。」
「じゃあ、水瀬さんは、春香と先輩の不倫を誘ってるって気づいてる?」
「それはどういうこと?」
「水瀬さんは、先輩の雪村さんと結婚するという固い決意を翻すことができるとは思っていない。あの子の本当の狙いは、二人の不倫を世間にバラすこと。二人の不倫を明らかにすることで、望月財閥にダメージを与えること、それが本当の狙いなのよ。それは・・・もちろん知っているのよね?」
「・・・それもよく知らない。」
「春香!あなたは騙されていたのよ、水瀬さんに!水瀬さんは、春香のことなんてこれっぽっちも考えてないの!春香が不幸になることしか考えてないのよ!」
少し呆然としていたような春香だったが、すぐに立ち直ってこう言った。
「そんなことだろうとは思ってた。」
「春香・・・。どこまで知っていたの?あなたは・・・。」
「伊織からは、『合法的な手段しか使っていないって保証はない。』そう聞いた。直接は言わなかったけど、多分それが命の危険も伴う危険なものだって、気づいていたよ。それに私を幸せにする保証もないって言ってた。それがそういう意味だったってのは、初めて知ったけど。」
「だったら・・・」
「でもね、千早ちゃん。私、それでも彼と結ばれたい。」
春香はお茶碗とお箸を机に置いていた。
「そんな・・・どうしてよ。死んじゃうかもしれないんだよ。不倫がバレたらどうなるか分からない。それにどっちにしろバラされて、そこで関係が終わっちゃう!命あっての愛じゃない。死んじゃったら元も子もない。」
春香はうつむいてしまった。
「それで・・・千早ちゃんは、私を止めたいの?」
私は・・・どうしたいんだろう。
「正直な話・・・どうすればいいか分からないの。確かに、客観的に見れば、どちらにしろ、春香は幸せにはなれない。だけど、春香が望んでその道を選ぼうとしているのを止めることが、本当に春香の幸せにつながるのかどうか・・・分からない。だから、春香はどうしたいのか・・・聞かせてほしいの。」
春香は、私から目を逸らすように、うつむきながら話し始めた。
「私は・・・たとえ、陽の当たる道を先輩と一緒に歩けなくても・・・先輩の子供が産めなくても・・・単なる自己満足だったとしても・・・それがたとえわずかな期間だったとしても、それでも良いから、彼と一緒に居たい。」
そう・・・それが春香の答えなの・・・。
「それで、千早ちゃんはそんな私を止めるの?」
正直な話、分からない・・・。どうしたらいいのか・・・。
春香は、無言な私を差し置いて、またご飯を食べ始めてしまった。もうこの話は、ここで終わりってこと・・・。
5分くらい経っただろうか、春香がまたお茶碗をちゃぶ台に置いた。
「ねえ、千早ちゃん。千早ちゃんは、多分こんな姿をイメージしているんじゃない?」
春香は私の方を見つめた。
「将来、千早ちゃんはジャーナリストとして活躍する。今は、千早ちゃんは男の人ダメだけど、いつか克服して、いい人と出会って結婚する。そして子供も生まれる。そして、千早ちゃんはその将来の旦那さんと一緒に暮らす。その一方、私はずっと一人で暮らして、先輩との不倫愛に生きる。決して報われない。望月先輩は忙しいだろうから、いつ会えるとも限らない。それに、会えなくなって捨てられてしまうかもしれない。いつ伊織にバラされて関係が終わってしまうかもわからない。そして私は、そんな不安を抱えながら、ただ一人で寂しく年老いていく。そんな姿が不憫なんでしょ。」
そうだ・・・。春香がいま語った将来像は、私が危惧している姿そのものだ。私が幸せに男性と結婚して子供を産んでいるかどうかはともかくとして、春香がたどるだろう道は、明らかだ。
私は春香から目を逸らした。想像してしまったのだ。春香がけなげに望月先輩のことを待ちわびながら、さみしく老いていくその様を・・・。待ち焦がれ、会えてもほんの一瞬だけ、その一瞬一瞬のために人生を生きる。そんな春香の姿を想像するだけで、胸が詰まる・・・。
「春香・・・本当に・・・それでいいの?」
私は床のフローリングを見ながら聞いた。とてもじゃないけど、私は春香を直視できなかった。
「私は、それでもきっと幸せだよ。」
本当なの?本当に・・・。
春香は言った。
「私・・・一生懸命考えて見つけたんだよ。将来の夢・・・それは、望月先輩の『太陽』になること。」
『太陽』・・・。
「ねえ、千早ちゃん。多分、雪村さんは、先輩の奥さんにはなれても、先輩の支えにはなれないと思うの。彼女には、望月先輩を愛する気持ちがないから、彼女にあるのは、望月先輩を『好き』って気持ちだけ。そんな一方的な気持ちにさらされ続けたら、先輩、きっと苦しみ続けると思う。その点、私は違うよ。私は、先輩を『愛してる』。彼の役に立ちたい。彼を癒してあげたい。彼の『太陽』になりたい。」
逃げちゃだめだ。今こそ、春香と向き合わなくちゃ。
私は自分の気持ちを奮い立たせて、春香を正視した。その目は、うるんでいた。
「きっと、とてもつらい道になると思うわ。とても危険な道よ。しかも多分長くは続かない。春香が望めば、もっと簡単な道がある。春香は、それくらい魅力ある人。それでも・・・いいの?」
春香は、ゆっくりと「うん」と答えた。
「千早ちゃん、ここだけの話にしてほしいことがあるの。話していい?」
「いいわよ。」
「・・・私ね、先輩って、財閥の後継者って向いていないような気がするの。先輩はきっと普通の人として人生を過ごした方が、幸せになれるタイプなんだと思うの。」
「先輩は、人の上に立てる人間じゃないと?」
「『立てない』訳じゃない。『立たない』方が良いの。それは別に、私が先輩と結婚したいからとか、そういうことで言っているんじゃない。私が半年間、彼と一緒にいて、なんとなく感じたことなんだよ。」
「だから・・・彼を引きずり下ろすの?財閥の後継者から。」
春香は頷いた。そして述べるのだ。
「このままだと、先輩は絶対に不幸になる、そんな気がする。だから、私は、彼の傍にいてあげたいの。私のことなんてどうだっていい。彼を幸せにできるんだったら・・・何でも・・・。」
春香の目には涙が浮かんでいる。春香の悲壮なまでの決意を耳にして、私はいよいよ決意した。
「そう・・・。私は『月』。自分自身は、輝くことができるけど、人に輝きは与えられない・・・。私の負けだわ、春香。望月先輩は・・・あなたに譲る。」
春香は妖艶に微笑み「ありがとう」とだけ述べた。
「太陽と月」言いえて妙とはこのことだ。
先輩が言った「太陽と月」。難しくも何でもない。それは、先輩にとっての春香と私、そのそれぞれの関係を意味していたのだ。
春香は「太陽」。その持ち前の明るさと元気さで、望月先輩に活力を与える人。それに対して私は「月」。春香という「太陽」に照らされながら、妖しく光り、庇護欲求を掻き立てる魔性の月。月が奪っていいのは、太陽の光だけだ。
美希は、「月は人を魅惑してしまう」といった。多分、そうなんだろう。私という人間は、きっとどこかで、人を狂わせてしまう。だとしたら、私はやっぱりサークルに居ないほうがいい。彼の目に触れないほうがいいのだ。なぜなら、私は魔性だから。目に入ること自体が、毒なのだから。
それから間もなくして、私はテニスサークルをやめた。