第3節 運命の夜
12月24日(金)午後7時に、私たちは新宿駅西口の入り口スペースで待ち合わせることになっていた。私は遅れるわけにはいかないと、午後6時30分には待ち合わせスペースに到着していたのだ。
それから15分くらい経って、望月先輩が小走りで私の方に向かってきた。
「ごめん、春香ちゃん。待った?」
「いえ、さっき来たところです!」
「そう?春香ちゃん早かったね。僕のほうが先に来てるかと思ってたのに。」
「今日が楽しみで、早く家を出ちゃったんです。」
今日なんか楽しみ過ぎて、家でずっとそわそわして、その様子をずっと千早ちゃんにネタにされていたのは、絶対に秘密だ。
「さ、こんなとこに居ても寒いから、もう行こうか?」
先輩がふいに私の手を握った。ドキッと胸が跳ね上がるのを感じた。普段だったら、たとえ二人きりになったとしても、こんな事はありえない。
「あ、ごめん。手を握るのがいやだったら、離すけど。」
私はとっさに否定した。
「いやいやいや、とってもとてもうれしいですはい。」
私の慌てた様子に、望月先輩はケラケラと笑っていた。
「もう、何が面白いんですか。」
「ごめんね、なんとなく。焦っている姿がかわいいなって。」
か、かわいいですか!?やっぱり、今日の望月先輩はアタックモードなのかも。普段聞かない望月先輩の言葉に、ドキドキが高まるばかりだった。
先輩は今日の為にもてなしてくれると言ってくれたのだが、どんなお店に連れて行ってくれるのかは教えてくれなかった。「着いてからのお楽しみ」なんだそうだ。
新宿駅を西口から出て、そのまま高層ビル群へと向かっていく。しばらくして、目も眩むほど高いビルの入り口に到着すると、望月先輩に導かれるまま、そのまま中に入っていった。
そのビルの40階、最上階に到着すると、いくつかのお店が立ち並ぶレストランブースになっていた。そのうちの一つの店に先輩は連れて行ってくれた。
「ここだよ。」
そこは、どうやらフランス料理店だった。
「えっ・・・ここですか。」
あまりに高級な雰囲気にたじろいでしまう。明らかに、一般人お断りって感じのお店だ。私は、看板に掲げられた店名を見た。『フレンチリゾートモチヅキ』
私は理解した。ここは望月先輩の系列のお店なのだ。
「先輩のところのお店なんですね。」
「そうだよ。今日は、僕たちのために貸し切りにしてあるんだ。さ、入って。」
望月先輩が扉に手をかけ、ゆっくりと開いて、私をエスコートしてくれる。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
3人のウエイターが、一斉に頭を下げた。
「最高のおもてなしを頼むよ。」
望月先輩が、40代くらいのウエイターに声をかけた。
「かしこまりました。コートをお預かりいたします。」
私は、そのウエイターに指示されるがまま、ダッフルコートを脱ぎ、荷物と一緒に、別のウエイターへと手渡した。先輩も丈の長いコートを手渡していた。
「こちらへどうぞ。」
40代くらいのウエイターの誘導で、私たちは、横目に新宿の夜景が見えるテーブルへと案内された。
「きれい・・・」
レストランから見える夜景は絶景だった。東京の街の一つ一つの明かりが、地上の星のように輝いている。
「本当だね・・・。」
望月先輩も窓の景色を眺めていた。しばらくして、先輩が私に声をかけた。
「春香ちゃん、今日はフレンチのフルコースだからね。」
「え、ええ。分かりました。」
「フレンチのフルコースって初めて?」
フレンチどころか、フルコース自体初めてですよ、はい。
「・・・はい。」
「そっかー。普段こういうところで食事しないもんね。」
普段どころか、特別な時でも1回もないですよ、はい、これ。
「まず・・・何をしたらいいんでしょうか。」
なんだか不安になって、望月先輩に尋ねてしまった。
「別に特別なことは何もないよ。まずは飲み物を注文しようか。僕は白ワインにしようと思うんだけど、春香ちゃんはどうする?」
「えっ、えーと、じゃあ・・・私もそれで。」
正直、お酒飲むの初めてなんだけど、というより、まだ20歳になっていないんだけど。でも、別に先輩は特に何も言わないようだ。そういうことを言うのは、きっと野暮なのだろう。
先輩が慣れた感じでウエイターに注文した。望月先輩は、きっとこういうところで食べ慣れているんだろう。何だか、とても場違いだ。そもそも、こんな高級な店に入る格好をしてないよ。
「すごいですね・・・貸し切りなんて。」
先輩は笑って答える。
「まあ、このお店自体、望月家が私用で使うために作ったお店みたいなものだからね。両親の結婚記念日とか、誕生日とかは、このお店を貸し切りで使ったりしてるし。そもそも、僕と楓も、クリスマスイブの度に貸し切ってもらってたからね。」
「すごいです・・・。」
ただただ驚かされるばかりだ。
しばらくして、注文していたワインがボトルで到着した。ウエイターが、細いグラスに程よく白ワインをついでくれた。
「じゃあ、乾杯しようか。」
先輩がグラスを持ったのに続いて、私もグラスを掴んだ。
「メリークリスマス。」
先輩の声と共に、グラスを鳴らした。
ワインを一口、おずおずしながら口へと運んだ。アルコール独特の味がする。でもそのあとに、ほのかにブドウの風味が漂ってくる。
「なんだか、元気がないね。緊張してる?」
「はい。とても。」
望月先輩は、にっこりと笑った。
「別に、緊張しなくてもいいんだよ。まあ、慣れないから仕方ないと思うけど。楓なんて、最初から堂々としていたし。」
やっぱり、雪村家もお金持ちなんだね、こんな高いお店に入って動揺しないなんて、驚きだ。
「先輩は、いつもこんなところで食事しているんですか?」
「いやいや、さすがに普段はこんな高いお店は行かないよ。クリスマスとか特別な日だけだよ。」
「そっか、そうですよね。」
それを聞いて安心した。普段、サークルでわいわいとやっているときの先輩と、今の先輩は大違いなのだ。だから、いまみたいなのが普通じゃないって聞いて安心だった。
「でもよかったんですか。私なんか連れてきちゃって。このお店、特別な人と一緒に行くためのお店なんじゃないですか?」
先輩は妖しく微笑んで、囁くように言うのだ。
「春香ちゃんは、特別な人じゃないのかな?」
なんだかドキッとした。先輩の目を逸らそうとしながら、ワインに口をつけた。これは酔わないとやっていられないかも。
「食べてないのに、お酒ばっかり飲むと、悪酔いしちゃうよ。」
すぐまた普段の優しい笑顔に戻った。
こんな話をしていたら、最初の料理が運ばれてきた。小さい、カップのようなものに、フランスパンの欠片が乗っている。下はなにやらムースになっているみたいだ。
「春香ちゃん、これはうちのアミューズだよ。」
「あみゅーず、ですか。」
「そう。まあ、居酒屋で言うお通しみたいなものかな。うちのサービスだから。」
私は、そのフランスパンを口に運んだ。フランスパンの塩気とムースの甘味がマッチして、おいしい。
「おいしいです。これ。」
「よかった。喜んでもらえたんだ。」
私の表情が明るくなったみたいで、先輩も一安心の様子だ。
「春香ちゃん、さっきまで持ってたあの大きな袋って、僕へのプレゼントかな?」
さすがに、気になっていたみたいだ。大き目の紙袋に入っていたのだ。気になっても仕方ないだろう。
「ええ。そうですよ。」
「何が入っているんだろうなー。大きかったから、開けたらおじいちゃんになっちゃうのかな。」
「それじゃ玉手箱じゃないですか。」
思わずツッコミを入れた。
「とにかく、プレゼントは後のお楽しみです。先輩こそ、ちゃんとクリスマスプレゼント用意してあるんですか?」
「もちろん。きっと喜んでもらえると思うよ。楽しみに待っててね。」
そんなことを話していたら、次の料理がやってきた。次はサラダみたいだ。見たところ、レタスとトマトをベースにして、アボガドとサーモンのカルパッチョも入っている。けど、量は少なめだ。
「肉や魚などのたんぱく質は、血液を酸性にする働きがあるんだって。それに対して、野菜は血液をアルカリ性にしてくれる。だから、フルコースでは事前にサラダを食べておくってことみたいだよ。」
「へえー、そうなんですね。」
私はサラダを口に運び始めた。先輩もワインを飲んでいる。
「これで雪が降ったら、最高のクリスマスなのに。」
窓の景色を見つめながら、私はため息をついた。
「ホワイトクリスマスって、東京だともう50年くらいなってないみたいだよ。」
やっぱりそうなのか。そもそも、12月に東京で雪が降るってないもんね。
「富山だとどうなの?」
「実家の方だと、毎日がホワイトクリスマスですよ。」
先輩は笑った。
「そうだよね、向こうだと雪も見飽きちゃうよね。」
「そうなんですけど・・・今年こっちに来て、全然雪を見てないと、雪かきをしなくていいので楽なんですけど。何だかそれはそれで寂しくって。せめて、こういう時くらいは降ってほしいんですけど。」
「東京だと、雪が降ると電車が止まったりするから、あんまり喜ばしくないんだよね。まあ、子供は楽しそうに雪合戦とか、雪だるまとか作ってたりするけど。」
そういえば、去年の冬に千早ちゃんと雪合戦したなー。
「春香ちゃんも、雪合戦とかやってたでしょ。子供の頃。」
「ええ、そうですね。やってました。去年とか。」
「あれ、去年もやってたの?」
やばっ、子供っぽいって思われたかな?
「えっ、ええ、まあ、千早ちゃんと。」
「何だか想像できるなあ、二人で雪合戦やっているとこ。」
なんだか、恥ずかしいなー。
「望月先輩は雪合戦とかしなかったんですか、子供の頃。」
「昔はしたなー、兄貴とかと。」
「お兄さんですか・・・。」
望月先輩のお兄さんか、あまり聞いたことないな。
「望月先輩のお兄さんってどんな人なんですか。」
その時、パンとスープが到着した。すでに私も先輩もサラダを食べ終わっていた。パンは、普通のフランスパンを一人分にカットしたものだ。スープは、多分コーンポタージュだろう。
「どんな人って、言われてもね・・・。ちょっと変わった人・・・かな。」
少し言いよどんでいるのが気になった。
「んー、それだけだとなんだかよくわらかないですね。」
「考えることが突飛というか、何と言うか・・・結構極端なことをする人って感じかな。それでいて横柄だし。」
なんだか意外だった。普段、人の悪口を言わない先輩が、お兄さんを悪し様に言っている。
「兄弟仲、よくないんですか。」
先輩は口ごもっている。
「まあ、普通の兄弟とは違うからね・・・。」
普通の兄弟ではない。確かにそうだ。財閥の跡取り息子たちなのだ。和気あいあいとやっていられないのだろう。
確か伊織にも兄達がいた。兄弟仲については聞いたことないけど、少なくとも、伊織は兄達を嫌ってはいなさそうだった。
なんだか、先輩の元気がなくなってしまったようだ。
「ごめんなさい、変なことを聞いちゃいましたね。今の話は忘れてください。」
先輩は、フランスパンをちぎり、口へと運ぶ。
「ああ、大丈夫だよ。ごめんね、気を使わせて。」
「いえいえ。」
何か話題を変えよう。何の話題にしようか。そうだ、お正月。お正月の話をしよう。
「先輩って、お正月はどうするんですか?やっぱり家族で過ごすんですか?」
「そうだね。うちのグループも、28日が仕事納めだから、29日から6日間は、基本的に家族で過ごすことになるね。」
やっぱり、そこは普通の家族なんだね。
「そろそろ、ハワイに行く準備しないとなー。まだトランクの準備全然してないんだよなー」
まてまて、何かがおかしいぞ。
「先輩の家って、年末年始は海外で過ごすんですか?」
「ああ、そうなんだよ。休暇を兼ねて、毎年ハワイかグアムだね。今年はハワイに行く年なんだよね。」
やっぱり、普通じゃなかったよ。
「すごいですね。うらやましいなー、毎年海外で年越しするなんて。私なんて、家でさみしくガキの使いを見てますよ。」
先輩はハハハと笑った。
「それが普通なんだと思うよ。こっちが特別っていうか、異常なだけで。うちも普段は忙しいから、お正月くらいしかまとまった休みが取れないんだよね。だから、家族の団欒を深めるために、毎年この時期はハワイかグアムに。と言っても、みんなバラバラで行動しているから、家族の絆が深まっているかどうかは謎なんだけどね。」
「お父さん、お母さん、先輩とそのお兄さんの4人ですか?」
「いや、僕には『お母さん』がいないんだよ。」
えっ、そうだったんだ・・・。
私が驚いたような表情をすると、望月先輩が続けてくれた。
「母は、僕を産んですぐに蒸発しちゃったんだ。そのせいで、今もどこにいるかは全く分からない。」
「そうだったんですか・・・ごめんなさい。」
「いやいや、春香ちゃんは悪くないよ。僕が勝手に話しただけ。」
少し空気が重くなってしまったようだ。私は気分を変えるために、別の質問をぶつけてみることにした。
「冬のハワイってどんな感じなんですか?」
「冬のハワイはね、結構過ごしやすいんだよ。ハワイっていうと常夏のイメージがあると思うけど、冬のハワイはだいたい25度くらいなんだ。日本の春よりちょっと温かい感じかな。避寒地としては、最適だと思うよ。あと、波が穏やかみたい。僕は、夏のハワイは行ったことないんだけど、冬場のほうが波が穏やかでで泳ぎやすいみたいだよ。初めて行くなら、冬のハワイはおすすめかもね。」
「へえー、なんか意外です。」
と言いながら、スープにスプーンを浸して、口に運んでみる。
「本当は海外旅行とか行きたいんですよねー。だけど、やっぱりお金が厳しくて、なかなか海外には行けないんです。というより、パスポート自体持っていないし。」
「そっかー、奨学生にはちょっと厳しいよね。でもせっかくだから、パスポートくらいは持っておいたほうがいいよ。」
「そうですね・・・。せめて、お金を貯めて、卒業旅行で千早ちゃんと行けたらいいかなって、思ってます。」
今度、パスポートの申請をしてこよう。
本当は、望月先輩とも旅行に行きたい。合宿とかそんなのではなく、二人きりの旅行。
「行くとしたら、どこに行きたい?」
先輩がそう尋ねてきた。
「そうですね・・・。やっぱり私はアメリカかな。でも千早ちゃんは、ヨーロッパがいいって言うんですよ。これじゃまとまらないですよ。」
先輩は笑っていた。
「本当はどっちも行けるのがいいんだけどね。だけど海外旅行に行くなら、今がチャンスだと思うんだよ。円高だし。3年後通貨がどうなってるかは分からないからね。」
今って円高なのか。知らなかった。今度千早ちゃんに詳しく聞いてみよう。
しばらくして、いよいよメインディッシュがやってきた。どうやら、次は魚料理らしい。これは白身魚のムニエルだろうか。
ナイフとフォークを持ち、右手で魚の右端を切っていく。そして、フォークに突き刺し、口へと運ぶ。
「んーおいしい。」と私。
「そうだね。」
お店の料理が褒められたからなのか、先輩も笑顔だ。
「先輩は、お正月に初詣に行ったりはしないんですか?」
「いや、行くよ。ただ、楓となんだけどね。」
あら意外。
「家族では行かないんですか。」
「昔は行ってたんだけどね、なんだかだんだん億劫になってきたみたいで。今なんか『初詣なんて寒いし、風邪ひくから行かない』ってことになっちゃってる。」
ふーん。
「春香ちゃんは、初詣って、家族で行ったりしていた?」
家族か・・・。私にとっての家族は去年できたばっかりだからなー。
「いいえ、正直殆ど行ったことなかったです。うち、母子家庭で、お母さんも普段忙しかったから・・・。」
嘘ではない。実際母親は忙しかったし、初詣、というより、神様自体を信じていなかった。
先輩はしまったという表情を見せた。聞いちゃいけないことを聞いてしまったと思ったのだろう。
「ごめんね、なんか変なこと聞いちゃったね。」
「いいんです。事実ですから・・・。」
私はワインを一口飲んだ。
「注いであげるよ。」
先輩はワインボトルを掴みあげると、丁寧にワイングラスへ注いでくれた。
「ありがとうございます。先輩もどうぞ。」
お返しとばかりに、私も先輩のグラスに、注ぎ返した。
「先輩、雪村さんとは行くんですよね、初詣。来年も。」
少し恨めしそうに言った。
「これもまあ、恒例行事みたいなものだからね。川崎大師に行って、お賽銭を入れて、門前屋台でお昼ご飯を食べて、そのあとどこかでお茶して帰る。それだけ。」
「毎年、川崎大師なんですか?」
「そう。これも習慣。特に意味はないよ。しいて言えば、メジャースポットだし、お互いの家からそんなに遠くはないからね。」
「ふーん、いいなー、私も川崎大師に行きたいなー。」
ちょっと酔いが回ってきたのかもしれない。緊張がほぐれてきて、少し大胆になってきたような気がした。
「じゃあ、来年は一緒に行こうか。」
「えっ、良いんですか!」
「ま、さすがに楓の予定を優先せざるを得ないけど。楓と行った後なら、ね。」
「やったー、ありがとうございます。絶対ですよ。」
「分かってるって。」
先輩がムニエルを口に運び、ワインで流し込む。私もムニエルをフォークでつついていた。
「春香ちゃん、大丈夫?顔赤いよ。」
やっぱり酔いが回ってきているらしい。顔が紅潮しているようだ。
「大丈夫です。ちょっと酔いが回ってきただけですから。」
「どうるす?ジュースとかも頼めるけど、そっちにする?」
「いえ、今ちょうどいい感じなんです。大丈夫ですよ。」
本当に今、心地よい。それは単にあこがれの人と一緒にデートをできているという高揚感。それに尽きると思った。
次に出てきた料理は、なんとシャーベットだった。
「どうしてここでシャーベットが?」
「これはソルベって言って。口の中の風味を一回リセットする意味があるんだ。だから、ソルベは通常、冷たくて甘いシャーベットになることが多いんだって。」
そうなのか。今の私にはちょうどいい。これで少しクールダウンしよう。私は早めにシャーベットを食べ終わった。
その次に、色鮮やかなお肉が運ばれてきた。フレンチの最後のメインディッシュだ。和牛のほほ肉を赤ワインで煮込んだ料理らしい。
「うちのお店で一番自信のある料理なんだ。」
先輩はにこやかにそう語った。
「じゃあ、いただきます。」
お肉にナイフを通してみる。思いの外、ナイフがすんなりとお肉を通っていく。きっと相当に柔らかいのだろう。
お肉を口へと運んだ。解けるように柔らかいお肉だ。かむと肉汁がふわっと広がり、赤ワインの風味と共にマッチして、実に濃厚な味だ。
「おいしい・・・。こんなおいしいお肉を食べたのは初めて・・・。」
「そういってもらえると、こっちもうれしいよ。」
私と先輩は、静かにお肉を食べていた。特に私は、お肉のおいしさに魅了され、天にも昇るような気持だった。
「ねえ、春香ちゃんは『サンタさん』っていつまで信じてた?」
ふいに望月先輩が質問してきた。
「『サンタさん』ですか・・・。」
正直な話、私はサンタクロースなんて嘘っぱちだと思っていた。生まれたときからずっとだ。だって、他の子どもたちにはサンタさんからプレゼントをもらっていたのに、私だけ、そんなもの貰ったことがなかったからだ。
サンタさんなんていない。子供心にそう思っていた。
「小学校1・2年生の頃くらいまでですね・・・。それ以降は、お母さんやお父さんがサンタさんの代わりにプレゼントをあげてるんだなって思ってました。」
私は、とりあえずそう嘘をついておいた。後半のくだりは本当だ。世界に「一人のサンタ」さんがいないと確信したのは、それくらいだったのだ。
「僕もそれくらいかな。僕も幼いころは、ただ漠然と『サンタさん』がいるって信じてたよ。だけど、小学生になってから、全世界にいるすべての子どもたち全てに、1人のサンタさんがプレゼントを届けるなんて無理だなって気づいたんだよ。それからだね、『サンタさん』はいないって確信したのは。」
「やっぱり先輩は子供のころから、賢かったんですね。」
「いやいや、ひねくれてただけだよ。」
先輩は笑って手を横に振った。
「どんなプレゼントをもらってた?子供の時は。」
プレゼントの中身か・・・。何なんだろう。何を貰うんだろう。こういう時って。
「僕は、ゲームソフトとかだったな。でもその頃には、サンタさんなんていないって気づいちゃったから、親にお願いして、ゲームを発売日当日に買ってもらう代わりに、それでクリスマスプレゼントってしてたな・・・。風情も何もないよね。春香ちゃんは?」
わからない。思い出せない・・・。せめて小学校の頃友達が何を貰っていたかが思い出せれば、それを言えるのに・・・。お酒で頭が回らないせいもあるのか、全然思いつかないのだ。
私はうつむいた。何か答えなくちゃいけないのに・・・何も頭に浮かんでこない。
「春香ちゃん・・・?」
出てこない・・・。何も浮かんでこない・・・。みんな何貰っていたのよ・・・私は貰っていないのに!
胸が苦しくなる。締め付けられるような思いだ・・・。きっと酔っているせいもあると思うけど、それは違う・・・。悲しいのだ。
みんなは親からクリスマスプレゼントを貰って自慢していたのに・・・私だけもらっていなくて、話についていけなくて・・・すごく寂しくて・・・悲しくて・・・。
「春香ちゃん、大丈夫?気分悪くなった?」
先輩が椅子から飛び出して、私のもとに近寄ってくる。望月先輩が、片足で立膝をついた。うつむいて、膝にのせている手を取って、私の顔を覗いてくる。
「春香ちゃん・・・。」
その目には、涙が浮かんでいたのだ。
「ごめんなさい・・・。私・・・嘘をついて・・・本当は、私・・・サンタさんなんて信じたことなんて・・・プレゼントをもらったことなんて・・・。」
先輩が驚いたという顔をした。そしてきりっとした表情を見せ、口を真一文字に結んだ。
「春香ちゃん。」
突然、先輩が私を抱きしめた。
温かい、そして男性らしい、硬い体、それでいて、安らぎがある。涙が止まらないよ・・・悲しくて・・・でも先輩が慰めてくれるのがうれしくて・・・優しく受け止めてくれるのがうれしくて・・・。
「もう大丈夫だよ・・・。ごめんね、辛い思い出を聞いちゃったんだね・・・。」
先輩が優しく私の頭を撫でた。
全部話してしまいたい・・・そんな衝動に駆られた。すべて何もかも、話して楽になってしまいたい。先輩なら・・・どんなことがあっても、すべて受け止めてくれそうなきがするのだ。
いや・・・ダメだ。そんなことをしたら・・・すべてがダメになってしまう。すべてが終わってしまう。言えることだけ・・・言ってみよう。私の心の一部だけを、愛する人に。
「先輩・・・先輩は神様を信じたことはありますか・・・。」
「神様かい・・・。そうだな、僕は・・・ないな。もし神様がいたら、こんな残酷な世界を作ったりしないと思うから。」
先輩は私を抱きしめたままだ。
「奇遇ですね・・・。私も、神様なんていないって思ってました。何度か信じたことがありました。だけど、そんなのいないって分かったんです。だって、神様がいるんだったら、私を虐待から救ってくれないなんて、おかしいですもの・・・。」
「春香・・・。」
先輩は、ぎゅっと強く抱きしめた。
「だから私は、自分と、それから自分にとって大切な人を信じることにしたんです。」
「それは、千早ちゃんかな?」
「それと私の恩師と・・・先輩です。先輩は、私にとって『太陽』だから。」
先輩は、くすくす笑った。
「僕にとっても、そうだよ。僕にとって、春香は『太陽』。かけがえのない存在だよ。」
うれしい・・・。先輩が私をそんな風に思ってくれているなんて・・・。
「先輩・・・好きです。」
少し間をおいて、先輩も答えてくれた。
「僕もだよ、春香。」
いつの間にか、「ちゃん」が取れていることに気付いた。それは、望月先輩にとって彼女である雪村さんと同じだった。
「もしも・・・こんな我儘が許されるなら・・・、お願いしたいんです。」
「・・・何だい?」
「私を・・・先輩の彼女にしてほしいんです・・・。」
先輩はゆっくりと私から離れた。そして、私の目を見つめた。
「僕も・・・春香のことが好きだ。できれば、春香と付き合いたい。でも、僕には、将来結婚しなければならない相手がいる。これは変えられないんだ。」
やっぱり・・・ダメなのか・・・。
「別にたった一人の彼女じゃなくていいんです。というより、彼女の座は雪村さんでいい。だから・・・私を『愛人』にしてほしいんです。私は・・・あなたの『太陽』になりたい。そのために、たとえ陽の当たらない道で構わない。あなたのそばにいれさえすればいいんです。」
先輩は少し戸惑ったような表情を見せながら尋ねた。
「春香・・・。いいのかい。多分、僕は君を幸せにできない。春香を不幸にしてしまうかもしれない、いや、多分きっとそうなってしまう。それで・・・、本当にいいの?」
私はゆっくりと首を縦に振った。
「叶わない恋でいいんです・・・。私には、あなたへの愛がありますから。」
「春香・・・。」
先輩は再び私をゆっくりと抱き寄せた。先輩が、震えている。泣いているんだろうか。
「春香・・・先のことはまだ分からない。僕と楓がいつ結婚するのか・・・でもそれまでの間は・・・少なくとも僕たちが学生である間は、多分一緒に居られると思う。」
「先輩・・・。」
「こんな僕でよければ・・・これからも、よろしくね。」
「・・・はい。先輩!」
先輩は私から体を離した。
「春香。目を瞑って。」
「は、はい・・・。」
キスされるんだ・・・私。私は静かに目を瞑った。やがて触れる唇の感覚。あたたかな、彼の唇。それもつかの間。彼はゆっくりと唇を離した。
私は静かに目を開いた。
「先輩・・・。」
「春香・・・。」
私たちはもう一度だけ激しく抱き合った。
それからしばらくして、ようやく私たちも落ち着いた。
「さ、食事の続きをしようか。もうお肉冷めちゃったかな。」と先輩。
それからしばらく経って、先輩が私に声をかけた。
「ごめんなさい・・・せっかくのおもてなしなのに。台無しにしてしまって。」
「気にしないで。料理はまた食べればいい。でも、大切な瞬間は、一回しかないからね。」
先輩は、そう言って笑ってくれた。
私と先輩は、その後、急いでお肉を食べ終えた。どうやら、最後のデザートとコーヒーの準備は、とっくにできていたようで、ウエイターが気を使って、私たちがお肉を食べ終わるのを待っていてくれたようだった。
ケーキは、ガトーショコラ。苦みが甘みを引きたてたおいしいケーキだった。
「そろそろ、プレゼント交換をしませんか。」
ケーキを食べ終わり、食後のコーヒーブレイクをしていたとき、私が先輩に提案した。
「そうだね。もう時間もいいころだし。」
気づけば、時刻は午後10時に近づいている。どちらにしろ、そろそろこのお店を離れなくちゃいけない。だったら、プレゼントを渡す機会は今しかない。
「ちょっと、プレゼントを取ってきますね。」
私は席を立って、フロントのウエイターに、私の荷物を取ってきてもらった。
私のプレゼントは、茶色い紙袋の中に、赤とオレンジ色の包み紙で丁寧に包装された箱の中に入れてあった。
「お待たせしました。はい、これをどうぞ。」
私は紙の手下げのまま手渡した。
「ありがとう。開けてみるね。」
先輩が包装紙を丁寧に開封した。先輩が箱を静かに開ける。
「うわーすごい。セーターだ。」
私が用意したのは、オレンジ色の手編みのセーターだ。箱の中には、先輩へ宛てたメッセージカードも入れていた。
「一から手編みしたんですよ。作るのに一か月かかったんです。」
「すごい・・・。ありがとう、一生の宝物にするよ!」
「そんな、一生なんて大げさですよ。」
「いやいや、春香が真心こめて編んでくれたセーターだよ。後生大事にしないと、罰が当たるね。」
「もう・・・言いすぎですよ。恥ずかしいです。」
恥ずかしがっているさなか、先輩がそのセーターに手をかけた。どうやら、早速来てくれるみたいだ。先輩が、セーターに袖を通した。
「サイズもちょうどいいね。」
そこには、この上品で美しいお店の雰囲気からすると、少し場違いな、あたたかなオレンジ色のセーターを着た、笑顔の望月先輩の姿があった。
「ありがとうございます。」
「じゃあ、僕もプレゼントを渡そうかな。」
そう言って、先輩は自分のカバンから、きれいに包装された縦長の直方体の箱を取り出して、私へと手渡した。
「じゃあ、あけますね。」
私はリボンをほどき、包装を丁寧にはがした。そしてその箱を開けると、驚いたことに、ネックレスが出てきたのだ。
「これって・・・。」
「1カラットダイヤのネックレスだよ。さ、着けてあげるよ。」
望月先輩は立ち上がって、ネックレスを私の手から取ると、背中に回って、ネックレスをつけてくれた。首元でダイヤがキラキラと光っている。
「やっぱり、よく似合ってるよ。」
席に戻って、彼は満面の笑みだ。
「いいんですか、こんなに高いもの・・・。」
「気にしないで。僕のバイト代で十分買える値段だから。」
ほんとかしら。
私はしばらく、コーヒーを楽しみながら、オレンジ色のセーターに身を包んだ先輩を見つめていた。先輩も私を優しく見つめている。
「春香、今日はこんなに素敵なクリスマスイブをありがとう。」
「こちらこそ。今日は、私の人生の中で、一番楽しい日でした。」
先輩は微笑んで言う。
「人生最高の日は、きっとまだまだこれから先だと思うよ。」
私も笑って返す。
「そうですね。私たち、これからが始まりなんですから。」
「そうだよ。だから、何があっても、前を向いて歩いていこうね。」
「うん!」
少し間が開いて、私はいよいよ作戦を実行しようとした。
「あの・・・先輩。」
「何かな?」
「この後、どうするんですか?どこか・・・一緒に行きません?」
できればホテルに誘い込んでそして・・・甘い一夜を。
「ごめんね春香。明日朝早くから仕事があるんだ。だから、今日はもう帰らないと。」
「あっ・・・そうですよね。ごめんなさい無理言って。」
先輩は笑顔を見せる。
「気にしないで。またいつでも会えるんだから。」
「そうですよね。じゃあ、今日はもう帰りましょうか。」
「そうしようか。」
こうして、私たちは雪村さんに隠れつつ、密かに付き合うことになった。でも、この日を含め、何日経っても、先輩は私に手を出そうとはしてこなかった。
初詣、バレンタイン。一緒に会ってデートする機会はあったのに、それだけだった。私は、彼に抱きしめられたかった。彼の愛情を体で感じたかったのだ。
望月先輩は、「人生最高の日は、これから先だ」と言った。私も、それを信じて疑わなかった。