第3節 春香の為に
「ただいま。」
「おかえり、千早ちゃん。もう先にご飯食べちゃったよ。」
気づけば、午後8時30分になっていた。春香はもうすでに入浴もし終わったようであった。
私は、着替えもせず、疲れたとばかりに座椅子に座り込んだ。そして、机の一点を見つめていた。
「千早ちゃん、どうしたの?」
春香は先輩からこの計画を知らされているのだという。そして保留にした。だとしたら、ここで話し合っておくべきではないか。
「千早ちゃん?」
「春香・・・今日ね、望月先輩に会ってきたの。それで・・・あの事を聞いたの。」
春香の表情が曇った。やはり、春香にも事前に話していたようだ。
「雪村さんを貶めるって話だよね。」
「うん。」
「そう・・・。」
春香は下を向いてしまった。
「春香は、即答しなかったんだよね。」
「うん、千早ちゃんは?」
「私も。だってこんな計画・・・荒唐無稽よ。」
「・・・うん。」
私の口調は、多分攻撃的に聞こえていたことだろう。それに対して、春香は居心地が悪そうだ。多分、内心は賛成しているのかもしれない。
「千早ちゃん・・・私、別に本当にいいんだよ。先輩と結婚できなくても・・・。私は彼と一緒に過ごせる時間があるだけで幸せなんだから・・・。」
春香の表情は仄暗い。でも、春香が言っていることは、きっと本心なのだ。春香は、本心から、先輩と過ごせる時間さえあればいいと思っている。たとえ、人生を切り売りするような不利な条件であったとしても、本当にそれでもいいって思っている。
でも・・・私は、それでは嫌なのだ。これは私の我儘だ。私は、本人が望む以上に幸せになってほしいのだ。だから・・・たとえ春香がこの作戦に反対していたとしても、私は・・・。
「私は確かに、この計画はめちゃくちゃだ、荒唐無稽だって思った。だけど、役柄を入れ替えさえすればありかなって思ったの。」
「えっ。」
春香が意外そうな顔をした。
「春香と先輩は心の中で愛し合う。だけど、表面的には私と先輩が付き合う。春香が『先輩を千早に取られた』って言って、雪村さんを挑発する。そして雪村さんに、私を襲わせる。これでどう?」
春香は否定の弁を述べる。
「そんなことしたら・・・千早ちゃんが危険な目に合うじゃない!」
「役柄を入れ替えなかったら、春香が危険な目に合う。どちらにしろ、どちらかが危険な目にあうことは、避けられないのよ。だとしたら、そんな危険な役柄は私が引き受ける。」
「そんな・・・そんなのって無いよ・・・だって、最終的には危険な思いをさせて、そのあと、私が先輩を奪っちゃうのよ。」
私は苦笑した。
「春香、先輩はもともとあなたのものなのよ。私は少し借り受けるだけ。借りたから、元の場所に返す。それだけなのよ。」
「それに!私はそんな作戦望んでないよ。だって、私は、先輩と会えさえすれば・・・それでいいんだもん・・・。」
春香は泣きそうになっている。そんな春香はかわいい。私は、春香の頭を撫でてあげる。そしてこう諭すのだ。
「春香、これは私の我儘なの。あなたには、春香が望む以上の幸せでいてほしい。厚かましい、私からのお願いなの。だから、私が危険な目にあうのは当然。私自身は全然報われなくたっていい。私にとっては、春香の幸せが、私の幸せなんだから・・・。」
これは本当のことだ。私は、春香に・・・依存している。私は、今まで春香がいたから生きてこれてきたのだ。春香がいなかったら、今の自分は、いない。自分に人生を生かせてくれたのは、春香だ。だとしたら、彼女に恩返しをするのが普通だ。
なのに、私は春香のために何もしてあげられていない。
だから、私は今ここで恩返しをするのだ。たとえ自己満足だとしても、それでもいい。
「千早ちゃんを・・・傷つけたくない・・・。」
私は笑って返す。
「大丈夫。私はそんなにやわな人間じゃないわ。今まで修羅場も何度も切り抜けてきたし、いざとなったら先輩が助けてくれる。『月』が『太陽』にできる、唯一の恩返しなのよ。お願い、春香、受けて・・・くれない?」
春香は『太陽』で、私は『月』。自ら輝けない月が太陽のためにしてあげられることは、人を魅惑し、惑わし、そしてその引力で狂わせることだけだ。
「・・・それで、千早ちゃんは幸せになれるの?そんなむなしいこと・・・どうして千早ちゃんがしなくちゃいけないのよ・・・。」
私は春香を撫でながら言った。
「さっきも言ったでしょ。私の幸せは、春香が幸せであることなの。春香が心から笑顔でいてくれたから、私も今まで幸せでいられた。私は、春香に笑顔でいてほしい。だって、それが私にとっての幸せなんだから・・・。」
春香は声を上げて泣き出してしまった。
「千早ちゃん・・・私怖いの・・・。誰かを恨み、誰かに恨まれ、そんなことを延々と繰り替えすなんて。いつか破滅が訪れそうな気がするの。」
私は春香を抱き寄せた。春香の暖かな温もりが肌を伝わる。
「その時は・・・私が春香を守るわ・・・。たとえ、自分の命に代えてもね・・・。」
「千早ちゃん・・・ありがとう。でも、最後の言葉は聞かなかったことにしておくね。」
そう言って、私と春香はいつまでも抱き合い、そして私たちは契りを交わすかのように、愛を確かめ合ったのである。
こうして春香と私は、望月先輩が考えた作戦を受け入れることになった。私は、先輩と堂々と近づくためにサークルに戻り、逆に春香は雪村さんに近づくこととなった。
私・春香・望月先輩・雪村さんの4人を取り巻く環境は、まるで一変した。かつては、先輩と春香が仲が良く、私と雪村さんは、その会話の中に入っていくような感じだった。
だけど、作戦が始まってから、私と先輩の話す頻度が増えて、逆に春香と先輩が話す頻度がめっきり減ったのだ。この変化を、サークルの人たちはどう思っていたのだろうか。
みんなは澄ましこんでいるから、私たちの間に何があったのか聞こうとしない。みんな、私たちの間がどこか異常さを秘めていることに気付いているのだ。気づいたうえで、敢えて触れないようにしている。
春香はテニスサークルの中にいて、時々辛い表情を見せるようになった。それは、あくまで私に先輩を取られてしまったとアピールするための演技。本当は、先輩は春香のことを愛しているし、春香もそうだ。
でも、たとえ演技だとしても、私が春香の苦しんでいる顔を見るのは、とても心苦しく、辛いことだった。
そんな生活が春先まで続いていた。