第6節 美希のまごころ
先輩の思いがどこにあるのか、私は少しずつ分からなくなっていった。望月先輩は、春香と結ばれたいと思っているはずなのだ。それなのに、私は、先輩が春香と結ばれることをためらっているように感じられたのだ。もしかしたら思い違いなのかもしれない。私の心の中にある先輩と結ばれたいという思念が、私に幻想を見せているだけなのかもしれない。
しかし、幻想と感じれば感じるほど、私の心はどんどん混沌の中に落ちていくようだった。私は、演技をしているのだ。先輩のことが好き、雪村さんを出し抜き、春香を出し抜き、彼を射止めようとしているという「演技」をしている。しかし、その演技に没頭すればするほど、その気持ちが本当に演技なのかどうかがわからなくなっていくのである。
私は先輩が不憫だと思った。好きでもない相手と結婚しなければならない、そんな宿命を負っている。そしてそれをいいことに、雪村さんは先輩にやりたい放題、わがまま放題。そんな彼女のことが、許せなかった。
演技を始めてから2か月余り、サークル内の秩序は完全に入れ替わっていた。私と先輩が“相思相愛”であることは、サークル内の全員が知れ渡るところとなり、その逆に春香は、恋に敗れた「悲劇のヒロイン」として定着していた。
私は悪役に甘んじた。春香に先輩を譲るために、一度はサークルをやめた私が、春香から奪うためにサークルに戻ってきた。そして、私は先輩の婚約者である雪村さんから、望月先輩を奪うために、雪村さんをこれでもかと挑発していったのだ。
5月のある日のことだ。私は部室で壁にもたれかかりながら、一人雑誌を読んでいた。真ん中のテーブルでは、春香や真、美希たちが人生ゲームをやっている。テレビには、亜美や、今年亜美と同じく入部した高槻さんらが張り付いてゲームに興じていた。
バタン。扉を乱暴に開ける音が響く。外からは、憤怒に満ちた表情で雪村さんが私に近づいてくる。
「あなた、またやってくれたわね。」
雪村さんが、私の目の前で立ち止まり、そんな捨て台詞を履いた。私は雪村さんを無視して、雑誌に読みふけっていた。
「如月さん、あなた聞いてるの?」
「何かしら?」
私は相変わらず、雑誌に目を落としながら、適当な相槌を打っていた。私は、雪村さんを挑発するために、サークルに戻ってからは、雪村さんに対して敬語を使うことをやめていた。
しびれを切らしたのか、雪村さんが私から雑誌を取り上げて、真下の床に放り投げた。私は、彼女のことを軽蔑するような冷たい目でにらみつけた。それと同時に、雑誌が放り投げられた音で、周囲の目がこちらに向いた。
「雑誌、返してくれない。私のなの。」
私は壁にもたれかかったまま、手を伸ばし、挑発するように指先を内側へと何度もおりまげた。
「あんたが、俊をそそのかしてるんでしょ。全部知っているんだからね!」
私はわざとらしくため息をついた。
「来週の土曜日のこと?彼の予定はもともと空いていたはずよ。少なくとも私は、あなたと先輩がデートするなんて聞いてないわ。」
だが、雪村さんがそんなことで納得するはずがない。
「嘘よ!知っていて、わざと予定をつぶしにかかったんだわ!」
「彼は確かに私に『予定は空いてる』って答えたわ。だから、私たちはその日デートする約束をしたの。あなたのことなんて一言も言ってなかったわね。」
「どうしてよ・・・どうして、俊はそんな・・・。」
雪村さんは今にも泣きそうだ。これは追い打ちをかけるチャンスだった。
「雪村さん・・・この際だからはっきり言わせてもらうわ。あなた、先輩に嫌われてるのよ。」
「はっ?私は、彼の婚約者なのよ!どうして彼が婚約者の私を嫌うのよ!?」
私は雪村さんを侮蔑するというより、少々憐れんだ眼で見つめながら言った。
「あなた・・・言いようもないほどにかわいそうな人ね。あなたは、人から愛されることは知っていても、愛することは知らないんだわ。お金持ちでちやほやされて育ったのかもしれないけど、人として大切な部分がごっそり抜け落ちてるのね。」
「どういうことよ!?」
「雪村さん、あなた彼のためにどんなことをしてあげた?」
「えっ?」
雪村さんは少し動揺したような表情を見せた。
「彼の幸せを願って、どんなことをしてあげたっていうの?」
「それは・・・私は彼のことを想って、彼と一緒にいてあげるのよ。」
「それって、単にあなたの自己満足なんじゃないの?彼をあちこち振り回して、先輩の気持ちなんてお構いなし。彼は、そんなあなたにうんざりしているの。こんなのと一緒になったら、一生心が休まる時間がないって思っているんだわ。かわいそう。」
半分事実だ。というより、ほぼ全部事実だ。それをありのままに言ったに過ぎない。あまりもの修羅場の光景を前に、テーブルで人生ゲームを遊んでいた真が、私を諫めに来た。
「千早、いくらなんでも言い過ぎだよ。少しは雪村さんの気持ちを考えなよ。」
私は、真にも淀んだ瞳を向ける。
「あら、真は雪村さんの肩を持つの?はっきり言うけど、雪村さんはどうしようもない女よ。先輩と結婚する資格なんてない。そんなことをすれば、先輩の精神は壊れてしまうわ。私だったら・・・先輩の身も心も・・・思う存分癒してあげられるの・・・あの子と違ってね。」
私は艶めかしい表情を雪村さんに向けた。挑発する意図があるのは明白だ。
「ふん!たとえあなたがどれだけ先輩から愛されていようと関係ないわ。俊は、望月財閥を背負って立つ男なのよ!彼が私と結婚するのは、雪村家と望月家で決まっていることなの。たとえどんなに彼に近づこうと、彼があんたを選ぶ道なんてありえないの。わかる?最初からどんなに彼の気を惹こうとしたって、あんたは私に勝てないの。」
「だったら、もう少し堂々としていたらどうかしら?」
「堂々ですって・・・。」
「あなた、怖いんじゃないの?彼を私に奪われるのが。そんなに自信があるなら堂々としていればいいのに。自分に自信がなくて、焦ってるから、そんなにいきり立つんじゃないかしら。」
雪村さんは返す言葉もないようだ。
「もう一度はっきり言っておくわ。あなた、先輩に嫁ぐ価値も資格もないのよ。先輩は、私とあなただったら、必ず私を選んでくれるわ。」
だが、雪村さんもひるまない。
「彼が・・・望月財閥を捨てて、あなたを選ぶと・・・。それこそあり得ない話だわ。そんなことをしたら、私はよくてもほかの人が黙っていない。財閥の跡取りがだれになるか、それって、次の国王をだれにするかっていうのと同じレベルの話なのよ。先輩が、望月財閥を継ぐということに、巨費を賭けてきた人間だっているってことを忘れないほうがいいわ。望月財閥から彼を奪う、それはあなた、殺されたって文句が言えないのよ。」
私は、穏やかな目になって、雪村さんを見つめた。
「雪村さん、勘違いしないで。私は、自分自身の為に、望月先輩を射止めようとなんてこれっぽちも思っていないの。私は、確かに彼のことが好き。彼の優しくてまっすぐで、カッコよくて、包容力があるところが好き。でも、私は彼が幸せになることだけを考えているの。もちろん、私は、彼の正妻になろうとは考えてない。そんなことをすれば、あなた言うように、彼は望月財閥を継げなくなってしまう。」
一呼吸おいて、私は続けた。
「私は愛人でいいのよ。たとえ私自身は、他人から見れば不幸な人生に見えるかもしれない。いつ捨てられるかもしれない、どんな咎が待っているかもわからない。それでも・・・、彼のことを愛して、そして癒してあげられるのは私だけなのよ。雪村さん、あなたには絶対に果たせない私の役割。」
「きっと後悔するわよ・・・いや、絶対に後悔させて見せる!」
その声は、地から湧き上がる怒りの雄たけびのように聞こえた。雪村さんにとって、ここまで屈辱的なことはないだろう。
「私のこと、憎いでしょ。殺したいと思ってるでしょ。あなたの心の底からの殺意、ビンビンに感じるわ。でもね、私、そんなあなたを見ても全然怖くないの。だって、私は、彼の為なら、自分の人生、それだけじゃない、命だって捧げたって惜しくないのよ。雪村さん、あなたにそれだけの覚悟があるかしら?・・・あるわけないわよね。彼のために何かをするって発想自体がない人なんだから。」
彼女は、顔を紅潮させて、今にも泣きだしそうになりながら、逃げるようにして部室から出て行ったのである。
その直後、真が私に非難の言葉を浴びせた。
「千早、見損なったよ。千早がそんなひどい人なんて思わなかった。」
「どこか酷いのよ。酷いのは雪村さんの方じゃない。真、あなたは望月先輩のこと、あまり知らないからそんなことが言えるの。私は知ってる。雪村さんがしつこく付きまとうせいで、彼がどれだけ迷惑しているのか、一方的な押し付けの好意が、どれだけ彼に負担をかけるのかも。」
真は語気を強めて反論する。
「だからって、あんな言い方はないだろ!彼女の気持ちを傷つけるような言い方しなくたって!」
「だったら、なんて言ってあげたらよかったのかしら。あのわからずや、これだけ言ったって、多分私の言うこと聞かないと思うけどね。それに、私も春香も、雪村さんの言動でどれだけ傷ついてきたと思っているの?真は、何も知らないんだから、軽々しく入ってこないでちょうだい。」
「たとえそうだとしても、あんな言い方していいってことにはならないだろ!第一、千早はなんでサークルに戻ってきたんだよ!俊先輩を誘惑するためなのかよ!?」
「・・・私は先輩から、サークルに戻ってきてほしいって言われたの。私のことが好きだから。私は春香に先輩のことを譲ったつもりだった。春香がどれだけ先輩のことを好きなのか知っていたから。でも春香の想いは実らなかった。先輩が好きだったのは、私だったのよ。だから、私は先輩を奪う権利があるの。」
これは演技なのだ。本当は、先輩は春香とくっつく。だけど、その過程には雪村さんという邪魔者がいる。それを排除するために、必要なことだ。そう考えると、今のくだりは必要なのだろうか。いたずらに春香を傷つけるだけなのではないか。
春香を冷たい目で見下した。心の中で「あくまで演技だから」とつぶやきながら。春香は、私から目をそらし、眼を細ませた。
「千早、あんたまさか、本気で俊先輩と結婚しようとしているんじゃないか?」
私は苦笑した。
「さっきも言ったでしょ、私にはそんなつもりは毛頭ないの。ただ・・・選ぶのは彼の方なのよ。」
殺気だった空気を感じる。こんな言い方をすれば、私が彼の気持ちを翻すべく工作しているとすぐわかる。雪村さんの言う通り、このサークルで、彼に「巨費」を投じてきた者たちの警戒感をひしひしと感じるのだ。
「千早、あんたって最低の人間だよ。あんたも雪村さんと何ら変わらないじゃないか。自分が先輩に好かれていることを誇って、雪村さんや春香を傷つけてる。こんな事、俊先輩が知ったら、俊先輩悲しむよ。」
「だったら言わないでくれる。人の恋路を邪魔しようと考えてないならね。」
真は、ゆっくりと座り込み、テーブルに顔を突っ伏した。サークルに重苦しい雰囲気が流れる。その場の居づらさを感じた私は、雪村さんが投げ捨てた雑誌を拾い上げ、荷物をまとめると、部屋を出た。
今日はもう家に帰ってしまおう。あのままいても針の筵だ。だったら、家で課題をやっていたほうが生産的だ。
サークル棟の階段を下りようとする。その時、テニスサークルの扉がバタンと鳴った。
「千早さん、待ってなの!」
その声は美希のものだ。美希は急いで私の方に向かってくる。私は階段そばで振り返って、美希の方を見た。
「美希、どうしたの?そんなに慌てて。」
「千早さん、もう帰っちゃうの?」
「ええ。さっきの光景、あなたも見てたでしょ。今日はもう家に帰って休むのよ。」
私はまた向き直って、階段を下りようとした。
「ねえ千早さん!一緒にお茶していこうよ。」
必死ともとれる美希の声が廊下にこだまする。私はその言葉で足を止めた。振り返らずに言う。
「美希も帰るの?」
「う・・・うん。帰るの!時間ができたから、千早さんとお茶がしたいな。」
こうやって美希が食事に誘ったりお茶に誘ったりするということは、まれにある。たいていは、バカ話をして終わるのだが、今日はなんだか雰囲気が違った。
「そう・・・いいわ。一緒にお茶しに行きましょうか。但し、今日はおごらないわよ。駅で待ってる。荷物まとめてからいらっしゃい。」
「うん!わかったの!」
美希はそういうと、急いで部室の方へと戻っていった。
美希は、勘が鋭い。常人にはない観察力と勘の良さを持っている。そんな美希が、今何を想い、そしてどうして私を無理にお茶に誘ったのか、それが気になったのだ。もしかしたら、美希は、望月先輩のことについて何か知っているのかもしれない。美希から見える望月先輩を知りたかった。
私たちは駅で落ち合うと、駅近くの喫茶店に入った。もちろん、私が勤めている喫茶店ではない。普通のただの一般的なチェーン店だ。
私はカプチーノを注文し終え、すでにそれを受け取って席に座って待っていた。やがて、美希がブラッドオレンジジュースを持って席へとやってきた。
「お待たせなの。」
「ええ。」
私は短くつぶやいた。
「いただきますなの。」
美希はオレンジジュースに、ストローをさし、おちょぼ口でジュースを口に含む。
「おいしいの。」
私はほのかな微笑を見せるだけだ。
「千早さんは飲まないの?」
「私はもう少し冷めてから飲むわ。少し熱いから。」
「ふーん。」
嫌な沈黙が流れる。さっき、駅から喫茶店に向かうまでもそうだった。なんというか、切り出しづらい雰囲気というのか。それにしても、美希がここまで話題に詰まるなんて思わなかった。いつもだったら、軽いノリで話しかけて場を和ませてくるのに。今は、美希が話題に困っている。こちらから話題を振りに行くしかないのだろうか。
「あのね、千早さん。」
美希がもじもじしながら話しかけてきた。
「何?美希。」
「その・・・カプチーノっておいしい?」
「え?ええ、まあ、私は好きよ。美希の口に合うかどうかはわからないけど。」
「少し飲んでみていい?」
「ええ、いいわよ。」
私はカプチーノを一口譲った。
「うん、なかなかおいしいの。」
「そう、それはよかったわ。」
たぶん私もいけないのだ。本当だったら、ここで美希にコーヒーの話題とか、好きな飲み物の話とか、最近食べておいしかった料理の話とか振っていけばいいのだ。でも、今の私はとてもそんな気分ではない。
私はついにしびれを切らして、美希に尋ねた。
「美希、そろそろ話してくれる?何か私に話があって、お茶に誘ったんでしょ。」
美希は聞きづらそうにしていたが、いよいよ意を決したようだ。
「じゃあ聞くね。あのね、千早さん、どうしてあんな見え透いた演技をしているの?」
いきなり核心を突かれた。
「演技?」
私は少し動揺しながら聞き返した。
「うん、千早さんは演技をしている。本当はゆっきーにあんなこと言いたくないんでしょ。でも、どういうわけか、千早さんはゆっきーをいじめようとしている。そしてわざとみんなの反感を買おうとしている。それがよくわからないの。」
「サークルのみんなは、私が演技しているって思ってるの?」
「知らない。そんな話ほかの人としたことないし。でも、今の千早さんは明らかに何かが変なの。千早さんは、多分心からあんなことをしようとする人じゃない気がする。」
確かに、美希の言う通りだ。普段の私なら、たとえどんなことを想っていようと、それを相手に言ったりするなんてありえない。特にあんな恥をかかせる方法で面罵するなんてもってのほかだ。
でも、私が雪村さんに抱いている気持ち、それは本物だ。私は本当に、雪村さんのことが許せないって思ってる。今まで春香を散々威迫して、春香をいじめてきたことは許せないし、先輩は雪村さんのしつこさで迷惑を被っている。それを指弾したいという気持ちもまた一方で事実なのだ。雪村さんの敵意を私に向ける必要があるから、いい口は過激なのだが、それでも私は、自分の心にうそを言っているわけではない。
「美希、あなたの推理は外れてるわ。私だって人間なの。怒ったり泣いたり、人を憎んだりすることだってある。あれは私の本心。真も言ってたけど、私は見下げた人間なのよ。」
「うーん、そうかな。すごくもやもやするの。」
美希は納得していない様子だ。それでいい。美希は勘が鋭い。普通に対処すれば、全て見抜かれてしまう。それを避けるのだとしたら、もうごり押しするしかない。人の気持ちなんて、結局、確信をもって断定することなんてできないんだから。
今度は私が質問をぶつける番だ。
「ねえ、美希、最近の先輩の様子はどう?」
美希は首をかしげる。
「どうって言われても、何を話せばいいの?」
「何か変わった様子とかない?どんな細かいことでも何でもいいから。」
「そうね・・・んー、よくわからないの。」
わからない・・・か。いくらなんても美希がわかるわけないわよね。
「俊が何考えているのか、何をしようとしているのか、だれが好きなのか、全然わからないの。」
そうよね・・・えっ・・・、今、美希はとんでもないことを口走らなかった?
「美希、今こう言ったわよね。『誰が好きかわからない』って。」
「うん。」
「どうして、そう思うの?私のこと好きなんじゃないの。」
「うーん、多分俊は、春香も千早さんも好きなんだと思うの。」
「どういうこと、美希、わけがわからないわ。」
私は少し語気を強めた。美希の言っていることの要領がつかめないのだ。
「千早さん・・・怖いよ。」
気づけば、私は我を忘れて美希を鋭くにらみつけていた。
「ごめんね、美希。」
私は心を落ち着かせるために、カプチーノを一口含んでみた。美希は目をつぶって、静かに話し始める。
「うーんとね、俊は人としては、二人とも好きだと思うの。でも、女の子としてどっちが好きなのかっていうと、それがよくわからないの。」
どう反応したらいいのだろうか。美希の鋭い見立ては、ある種、私から見れば当然の結果なのだ。彼は私が好きだという演技をしている。だけど、実際に先輩が好きなのは春香だ。だから、美希から見ると、どっちつかずに見えてしまうはずである。
「私のライバルは春香ってことね。」
「・・・うん。そうなんだけど・・・。」
またしても含んだ言い方だ。
「美希、気になることがあるなら、正直に聞いてもらっていいわ。答えられる範囲で答えるし、別に怒ったりしないから。」
「うん・・・あのね、千早さんって、俊のことが好きなんだよね。」
「そうよ。」
「二人は付き合ってるの?」
「ええ。」
「じゃあ、どうして二人は、手を繋がないの。」
手を繋ぐ?
「どういうこと?」
「普通のカップルなら、普通手を繋ぐよね。だけど、千早さん、俊と手を繋いでいるところを見たことがないの。春香と俊が手を繋いでいるところは、何度も見たことがあるのに、千早さんは見たことがない。」
確かに、私は先輩と手を繋いだことがない。よく考えれば、いやよく考えなくてもわかることだったが、美希の言う通り、本当に二人が付き合っているなら、手を繋ぐシーンがあってもおかしくない。今まで私は、彼に手を繋ぐことを求めたことはなかった。正直、そんなこと思いもよらなかったのだ。一方で先輩もそう求めてこなかった。
原因は私だ。私は以前、ちょっとした事故で先輩に抱きしめられて、それに驚いた私は、先輩を突き飛ばしてしまったということがあった。あの件について、春香は「高校時代に私が痴漢にあって男性恐怖症になったから」と説明してくれていた。
正直言って、その「男性恐怖症」は治っていない。先輩もそのことを知っていた。だから、先輩は私の手を繋ぐという行動をとろうとはしなかったのだ。
「私は・・・ほら、高校時代に電車で痴漢にあって、それ以来男性がダメになってしまったの。」
しかし、美希は納得しない。
「じゃあなんで俊と付き合っているの?俊のこと好きじゃないのに。」
「望月先輩のことは好きよ。ただ、彼のことが触れられないだけ。また、前みたいなことになるのが嫌だから・・・。」
それは私の本心だ。私の過去のせいで、先輩に無用な心配をさせたくはなかったのだ。
「そう・・・。」
美希はジュースが入ったプラスチックコップを手に取り、窓の外を眺めている。大通り沿いにあるこの店からは、車が通る様子以外には何も見るべきものがない。何かを考えているようであった。
「千早さんはまだ春香と一緒に暮らしているんでしょ。」
“まだ”という表現が気になった。なぜ「まだ」なんていう必要があるのか。
「ええ。住んでるわよ。それがどうかしたの?」
「春香と千早さんは、先輩を奪い合っているんだよね。」
私は苦笑した。身もふたもない言い方だが、一番的を射ている。
「そうよ。最低の争いよね。」
美希は首を横に振る。そして尋ねるのだ。
「二人って本当に固い絆で結ばれているんだね。大好きな人を奪い合っても、まだ一緒に住んでいられるなんて。」
「私と春香の関係って、とても運命的だったのよ。だから、ちょっとやそっとのことじゃ、切れたりしないのよ。それに、正直ルームシェアしたほうが家賃も節約できるしね。」
「へえーそうなんだ、二人はどうして友達になったの?」
「聞きたい?」
「うん!」
私はいたずらっ子のように微笑んでいった。
「だーめ。教えてあげない。」
「どうしてよ!」
美希は腕を組んで怒っている。
「二人の出会いは、私と春香にとってとても大事な思い出なの。そう簡単に話すわけにはいかないのよ。」
「ふーん、そうなんだ。でも素敵なの。きっと、二人はとても素晴らしい出会い方をしたんだよね。」
正直、素晴らしくもなんでもない。第三者から見れば、客観的に見れば、醜い出会いでしかない。春香の「顔」が怖くて友達になったなんて、恥ずかしくて絶対言えない。それに、美希に秘密を教えないのは、これ以上美希に何かを悟ってほしくはなかったからだ。
「ねえ千早さん、結局、春香は俊のことを千早さんに譲ってあげたんだよね。どうして、春香は俊を千早さんに譲ったの。ミキ的には、春香が俊を譲るなんて考えられないと思うの。」
なるほど、そう来たか。美希は本当によく見ている。
「これ美希には言ったことがなかったわよね。実は私、小学生の時に初恋をしたんだけどね、望月先輩、私の初恋の人によく似ていたの。私がそのことを春香に話したら、春香は私に彼のことを譲ってくれたのよ。」
美希は怪訝な顔を浮かべる。
「千早さんって、嘘下手だよね。」
「嘘じゃないわよ。」
私は反駁する。半分はあっているのだ。
「なんか、最近の千早さんは隠し事が多すぎなの。どうしてそんなに隠そうとするの。」
「ちょっと待ってよ、勝手に嘘って決めつけないでよ。」
「だって嘘っぽいもん。春香はそんなに簡単に俊のことをあきらめるとは思えないの。それが例え親友の初恋の人に似ているからって、『はいそうですか』とおとなしく譲るなんて考えられないの。」
「美希がどう思うかは自由だけど、春香が先輩を私に譲ってくれた。これは本当なのよ。」
もうそう強弁するしかない。美希はどこまでも本質を突いてくる。これ以上話していると、こちらからぼろを出してしまいそうだ。この作戦は、私と春香と先輩以外の誰にもばれてはいけないのだ。バレてしまえば、それで全てがおしまいになってしまう。私も春香も、この大学にはいられなくなってしまう。
「美希、そろそろ私帰っていい?こう見えても暇じゃないのよ。帰ってレポートの課題をやらなくちゃいけないから。」
美希はこちらを振り向いた。その眼には焦りの色が浮かんでいる。
「もう少し待ってほしいの。まだ言えたいこと、言えてないの。」
「じゃあ、そろそろ話してちょうだい。私も早く帰りたいから。」
私は少しイライラしながら、美希をせかした。
「うん・・・。最近ね、ミキ、千早さんがすごく遠い人になってしまったような気がするの。」
「遠い人?」
「うん・・・。千早さん、何か大変なことに関わっているような気がするの。そのせいなのかな、最近みんなが考えていることがわからなくなってきているの。」
私はカプチーノを手にして、わざとらしく窓の外を眺めた。美希の目を見つめたくはなかった。何かを悟られてしまいそうな気がするのだ。
「春香はゆっきーと仲良くなった。でも、それって普通に考えたらあり得ないよね。前まで散々、ゆっきーは春香のことを目の敵にしてきたじゃない。なのにいきなり仲良くなるなんて、なんかおかしいの。それに、さっきも言ったけど、春香はそう簡単にあきらめる人じゃないと思うの。それに加えて、千早さんのオーバーな演技。ねえ、千早さん。千早さんたちはいったい何をしようとしているの?千早さん、もしかして、ゆっきーをはめようとしているの?」
ドキッとした。美希は、完全に見抜いているのだ。私たちの意図を。
「どうしてそう思うの?」
「なんだか春香も千早さんも、俊も、みんな演技しているように見えるの。千早さんが戻ってきてから、どこか不自然というか、違和感を感じるの。うまく言葉では言えないんだけど、とにかくとても不思議な感じ。」
私は美希を見ないようにした。動揺して手が震えているのが私にもわかる。美希は多分目ざとくそれを見つけているだろう。
「ミキね、別に千早さんたちを邪魔しようとなんて考えてないよ。ミキもゆっきーのことはあんまり好きじゃないし、千早さんがいうように、このまま俊がゆっきーと結婚させられたら、すごくかわいそうだと思うから。」
私は美希の様子が気になって、ゆっくりと視線を美希の方に戻した。驚いた。美希の目には涙がたまっているのだ。
「でもね、ミキ、誰かが傷ついたり、誰かを傷つけたりするのを見たくないの。特にミキは、千早さんが誰かを痛めつけたり、痛めつけられたりするのは見たくないの。」
「どうして、そんなに私のことをかばおうとするの?美希、私のこと好きなの?」
少し冗談ぽっく言ってみた。ちょっとでも気分を紛らわせたかった。
「ミキは、千早さんのこと好きだよ。」
どストレートな回答だった。その目は真剣そのものだ。
「ミキは別にレズじゃないし、そういう意味じゃないの。ミキは、千早さんの包容力に惚れているの。」
「どういうこと?」
「ミキ、前にも話したよね。千早さんには不幸なオーラがあるって。」
「それが私の魅力なんだって言ったわよね。」
「うん。ミキは千早さんのことよく知らないけど、千早さんが不幸な人生を生きてきたっていうのは、すごくわかるの。」
「それで?」
「千早さんは、そういう人生を歩んできたからこそ、普通の女の子にはない『色気』があると思うの。人生のことをよく知ってて、なんて言ったらいいんだろう。『人生なんてこんなものだ』と諦めていて、それでいて痛みを知っているからこそ、他人に対してやさしくて寛容で、自分のことを犠牲にして、全て受け入れる準備ができていて、それで・・・。ていうか、だからこそ、『守ってあげたくなる』ような感じがして・・・。」
美希は今にも泣きそうだ。私は少し苦笑しながら述べた。
「美希、落ち着いて。美希の言いたいことはわかるわ。」
「わかってないよ!」
美希が声を張り上げた。涙をぽろぽろこぼしている。突然のことに、驚きを隠せない。
「千早さん、千早さんはまた不幸になるつもりなの?どうじて自分を大切にしてくれないの?どうして、甘えようとはしないの?千早さんたちがこのまま演技を続ければ、千早さんがどんどん傷つくだけなんだよ。千早さん・・・千早さんは死んじゃうつもりなの?」
死ぬ?どうしてわたしが・・・。
「どうして私が死ななくちゃいけないのよ?」
美希は泣き崩れている。
「だって・・・だって・・・千早さんは、ゆっきーに殺される役なんでしょ。」
私が、殺される・・・?
「三人の目的は、ゆっきーを挑発して、ゆっきーに千早さんを殺させる事なんでしょ。千早さんがゆっきーに恥をかかせたり、みんなのヘイトを集めているのも、全てはゆっきーを怒らせて、そして焦らせるため。ゆっきーが千早さんを殺せば、ゆっきーは先輩と結婚できないよね。そうなれば、先輩は春香と結婚できる。だけど、先輩は千早さんのことが気になってきちゃったんだよ。だから、先輩は迷っているんだと思う。このまま春香と結婚したほうがいいのか、千早を救おうかって。」
美希の推理はぶっ飛んでいる。でも、その半分は正鵠を得ているのだ。
「ちょっと待ってよ・・・どうして、私が殺されることになっているのよ。」
「私が殺される。」美希の推理は荒唐無稽だ。でも、私たちの作戦を半分以上見抜いている美希の言葉だ。「荒唐無稽」だけで片づけるわけにはいかなかった。
「だって、春香とゆっきーが、千早さんのことを恨めしい目で見てたんだもん。」
それだって演技なのだ。春香が雪村さんの警戒感を解いて、春香が彼女をコントロールしやすくするために、わざと私に敵意を向けるようなそぶりを見せているのだ。そして、私だって、それを狙ってわざと春香を挑発している。
「それも演技だとは考えないの?」
「千早さん、認めるの?全部演技なんだって。」
「別にそうじゃない。私たちは何も演じていない。美希の思考回路について尋ねてるの。今までのことが全部演技なのだとすれば、春香が私を恨めしく思っているのも演技だとは思わないの?だって、私たちは一緒の部屋に住んでいるのよ。美希だって、そういう事実があるから、春香は私のことを本気で恨んでいるわけではないと感じたんじゃないの?」
美希からは意外な言葉が返ってきた。
「・・・だから、千早さんを心配しているの。」
だから?
「どういうことなの?」
「ミキはね、二人が千早さんのことを恨めしく思っているのは、多分本当だと思うの。演技なんかじゃない。春香は演技しているつもりだけど、だんだん自分の演技に取り込まれている感じがするの。本気で千早さんのことを恨めしく思い始めている。」
そんなバカな。あの作戦が始まってからも、私たちは普通の関係だったはず。春香が恨んでいるなんて、何かの間違いよ。私は、先輩を春香に譲るつもりなのよ。それなのに、どうして春香が私を恨む必要があるっていうのよ。
「ねえ、千早さん。たぶんシナリオではこうなんだよね。どういういきさつになるかはわからないけど、最終的には千早さんが春香に先輩を譲るんでしょ。」
まさにその通りだ。だけど、「うん」なんて言えるはずがない。私は下を向いてだんまりを決め込むしかない。
「図星だね。千早さん。」
美希は、おしぼりで目頭をぬぐった。
「千早さんの心の中で、彼のことを譲るのが惜しくなってきているんじゃないの。」
彼のことが惜しい・・・。美希は続ける。
「千早さんも、俊のことが好きだったんでしょ。それはミキにも分かる。だけど、春香のことを想って俊を譲った。そうだよね?」
そこまでは公式のシナリオだ。これは認めてもいい。
「・・・ええ。そうよ。」
「千早さんはさっき部室でこう言ってたよね。『春香の想いは実らなかった。先輩が好きだったのは、私だったのよ。』って。」
「え・・・ええ・・・そうよ。」
一体何が飛び出そうというのか、美希の口から。私は顔を上げて、美希の目を緊張しながら見つめていた。美希の目は真剣そのものだ。
「もしかして、それって演技じゃなくて本気で思っているんじゃないの?」
「そんなことない!先輩は、春香の方が・・・はっ・・・。」
何やっているのよ私・・・これじゃ今までのことが演技だって認めることになるじゃない。
「千早さん、ミキね、俊のことみて感じているんだよ。俊は本気で千早さんのことを愛し始めてる。でも春香のことも同じくらい本気で愛している。俊は本気で迷ってる。そして春香も感じ始めていると思うの。俊が千早さんのことを好きになっていて、千早さんも彼のことを本気で奪おうとしているって。」
そんな・・・私はそんな事微塵も・・・なんて言えないのだ。確かに私は、少しずつ本気で先輩にひかれ始めている。それを嘘だと切り捨てることはできないのだ。
「だから・・・春香は私を殺そうと考えているっていうの?」
「ミキは・・・そんな気がする。でも!そんなのあまりにも悲しいよ。ミキは、そんなことになるくらいなら、絶対に阻止する。」
「美希・・・。」
美希はジュースを一口飲んで、心を落ち着かせる。
「千早さん、こんなこともう終わりにしよう。こんなこと続けても、だれも幸せになれない。千早さんが死んで、ゆっきーが犯罪者になって、きっと春香と俊だってうまくいかないよ。こんなひどいことの末に結婚できたって。」
「美希、もう・・・私たちは引き返せないの。一度動き出してしまった歯車は、もう元に戻せない。それにね、さっき部室で言ったけど、雪村さんは先輩にとって害悪でしかないの。雪村さんと結婚したら、先輩は一生苦しい思いをして生きなくちゃいけない。そんなこと、私絶対にさせたくないの。」
「だからって、千早さんとゆっきーが犠牲にならなくたっていいじゃない。」
「誰も犠牲にならずに解決する方法なんて存在しないの。絶対、誰かが犠牲にならなくちゃいけない。」
「だから、2人が不幸せな目に合うっていうの?」
私は閉口した。美希の言う通りだ。こんな計画ばかげている。でも、これをやらなければ、春香は・・・。
私は美希を安心させるために、ぎこちないながらも笑顔を作った。
「美希・・・大丈夫よ。私は、絶対に死んだりしないから。」
「・・・・・。」
美希は私の言葉、そして表情を確かめている。表層的に見えているものの裏側を読み取ろうとしているのだろう。本当に私が死なないという決意を固め、そしてそのための公算があるのか。
しばらくして、美希は口を開いた。
「ミキね、最近分からなくなっちゃったんだ。」
「何が?」
「幸せ。」
幸せか・・・。
「ミキね、いつも楽して生きて、楽しいこと、自分がやりたいことだけできればいいなって思ってたの。それが幸せだってずっと信じてたから。でも、このサークルに入って、よくわからなくなっちゃった。」
「それは・・・どうして?」
「千早さんは、春香に尽くそうとしている。春香の為に、わざと危険で大変な道を選ぼうとしている。でも千早さんは、それが自分の幸せだと信じて疑わない。誰かに尽くすことが自分の幸せ、ミキにはその気持ちが理解できないの。」
春香に尽くすことが幸せ・・・思いもよらなかったいい口だ。でも、確かに、美希の言う通りなのかもしれない。私は今までの人生を通じて、春香に深い感謝と後悔の念を抱いていた。だから、春香に尽くすことが私の義務なんだと感じていた。でも私は、その中で春香に尽くすことを通じて、幸せを得ていたのかもしれない。
「美希の言う通りだわ・・・。」
「えっ?」
「私・・・春香に尽くすことで幸せを感じていたんだと思う。美希には言えないんだけど・・・私、春香に酷いことをしてきたから。」
「その罪滅ぼしの為に、春香に彼を譲ったわけなんだね。」
美希の結論は、おおむね間違いではなかった。
「・・・ええ。そうよ。」
「でもね、ミキ、千早さんのやっていることはただの自己満足だと思う。」
自己満足ですって・・・。
「それはどういうことなの。」
私は少し目を吊り上げて、美希を問いただした。
「ミキ、よくわからないんだけど、もしミキの為に誰かが命までかけようとして幸せにしてくれたら、ミキ、逆に不幸せを感じちゃうと思うな。」
私は美希の目を凝視した。美希もまっすぐこちらを見つめている。
「だって、捧げられた方は、『幸せにならなくちゃいけない』って義務を負うわけでしょ。そうしないと、自分に幸せをささげてくれた人に恩返しできないじゃない。幸せにならなくちゃいけないなんて、それってすごく窮屈だと思うの。幸せをささげられた人は、自分に暗示をかけるんだと思う。『千早さんが自分を犠牲にしてまで譲ってくれたんだから、私は絶対に幸せなんだ』って。でもそれって、本当に幸せなのかな。」
美希の真意がようやくわかった。私が針の筵になって、雪村さんに殺されかけて、ようやく春香と先輩が結婚できるようになっても、それだからこそ、『春香は先輩と幸せにならなくちゃいけない』。美希は、そんなのは窮屈だから、幸せになれないって言っているのだ。
でも、私が春香を見ている限り、そうは思えないのだ。春香は心の底から、先輩のことを愛しているし、彼と一緒にいられたら、本当にそれだけでいいって本気で思っている。幸せを感じる「義務」を負ったとしても、それを「義務」とすら感じないのではないか。
「美希の言いたいことはわかった。それが美希なりに一生懸命私たちのことを考えてくれて導き出してくれた結論なんだよね。ありがとう、美希。でも、そんな心配はいらないわ。春香は、心の底から先輩を愛しているんだから。」
美希は黙って何も語らない。
「美希、今日はもういいかな。話したいことは、全部話したでしょ。」
私は荷物をまとめ始めた。もうそろそろ家に帰って休みたい。今日はなんだか、ずっしり疲れてしまったのだ。
「待って、最後にこれだけは言っておきたいの。」
美希が改まって、私を見つめる。
「何かしら?」
「あのね、ミキ・・・ずっと千早さんの味方だからね。何かあったら、ミキを頼ってくれていいんだからね。」
「美希・・・。」
その瞳はウルウルとしている。美希がどうして私にそこまで好意を寄せてくれているのかはわからない。けど、美希の想いはとても純粋なんだと思う。私や春香のように、全然けがれていない。無垢な瞳だ。
私は慈愛の心を向けるように、優しく微笑んだ。
「ありがとう、でも、春香や望月先輩が泣きついてきて、私を裏切るように言ってきても、私についてきてくれるの?」
美希は、少し私の方から目をそらした。
「うーん、即答はできないの。」
美希は正直な子だ。
「ふふっ。そうよね、ごめんね。意地悪な質問をして。」
私はカバンから財布を取り出すと、一万円札を美希の前に差し出して、立ち上がった。思えば、やっていることは伊織と同じだ。私が蔑み、軽蔑したあの子と同じこと。
「うん?なんなのこれ?」
「今日のお礼よ。やっぱり、今日は私が奢るわ。ありがとうね、美希。」
「うん・・・。でも多すぎだよ。」
美希はなんだか納得がいかない様子だ。
「口止め料込よ。」
「・・・・・。」
美希は一万円札に手を付けようとしない。
「美希、お願い。受け取って。」
私はねだるような目つきで、美希を見つめた。美希は居心地が悪くなったのか、伏し目になった。
「ミキは口は堅いほうだって、前に言ったよね。だから、ミキ的には、千早さんとの約束は守りたい。でも、千早さんが傷ついたり、傷つけたりするってわかっちゃったら、その約束守れない。」
「それが私の幸せだとしても?」
「・・・後悔すると思うの。」
私は妖しく微笑んだ。
「私は・・・ずっと後悔してきたから、もう慣れてるわ。大丈夫、美希を巻き込んだりしないから。」
「ミキが望んで巻き込まれに行ったら?」
私は決然としていった。
「私がそうさせない。」
「・・・・・。」
「ごめんね、美希。私たちのことで、あなたに辛い想いをさせてしまって。大丈夫、私は何としても幸せになるわ。だから、美希は心配しなくて大丈夫。だから、ね。」
私は、美希のもとに行き、テーブルに置いた1万円札を拾い上げ、強引に美希の手に握らせた。
「私は卑怯者なの。美希に幻滅されても仕方ないと思ってる。でも、今の私にはこうするしかない。だからお願い、美希。全ては私たちみんなが幸せになる為なの。」
美希はずっと下を向いたままだった。
「わかったの・・・。」
美希は一言だけつぶやいた。その言葉には、魂が抜け落ちてしまっているような気がした。
「ありがとう。美希。あなたはもう十分に理解しているじゃない。」
「へっ?」
「人に尽くすことで得られる『幸せ』よ。人に尽くして得られる幸せって、とても純粋なの。あなたの目を見ればすぐにわかるわ。美希の目は、まっすぐな道を見据えている。どうすれば私が傷つかなくて済むか、そのために何をすることができるのか、そのことを考えてくれている。心の内は苦しいかもしれない。だけど、その中に『幸せ』を感じているのよ。」
私は優しく微笑んだ。
「これが『幸せ』・・・なの・・・?人に尽くす『幸せ』ってこんなに苦しいものなの?」
「今は苦しくても、それがいつか心地よく感じてくるのよ。相手のことを想って、好きな人のことを想って、自己犠牲することがね。」
「千早さんって、ドMなんだね。」
私は思わず吹き出してしまった。あながち、間違いじゃないかもしれない。
「そうかもしれないわね。美希もMに目覚めた?」
冗談ぽく言ってみたのだが、美希は笑顔を見せなかった。
「じゃあね、美希。今日はありがとうね。」
私はそう言い残すと、ゆっくりと店の外へ向かって歩き始めた。