第8節 殴打 残り20時間
私は、春香を裏切った。性欲と愛欲に負けて、春香の望月先輩を奪ってしまった・・・。どう転んでも、どうあがいても、それが変えられない真実だった。
「ねえ春香。」
春香は明り取りの豆電球の下で体育座りをしながら、顔を下に向けている。私の呼びかけで、更にうつむいてしまった。
タイムカウンター近くで考え事をしていた私は、ゆっくりと立ち上がり、春香の下へと恐る恐る進んでいく。
「ねえ春香。あの作戦のこと・・・覚えてる?」
「・・・楓を炊きつけて、アンタを襲わせる作戦だっけ。」
春香も思い出していたようだ。『アンタ』、そんな言葉で呼ばれるのは、初めてだった。私は動揺して歩みを止める。
「先輩が提案したのよ、私たちに。全ては春香が先輩と結ばれるため、春香が幸せになる為。」
私はまた一歩ずつゆっくりと近づいていく。
春香は吐き捨てるように言った。
「それすらも狙いだったわけ?」
「狙い?」
「私を油断させて、先輩を奪い返すつもりだったんでしょ。」
何を言っているのよ・・・。
私は春香の前にやってきて、正座をした。
春香は首を上げた。
「私も思い出したよ。望月先輩は、私たちが結ばれれるために・・・望月財閥を引き継ぎながら、あの縁談を破談に追い込むために一計を案じた。先輩は私とラブラブに付き合って、アンタは恋に破れた悲劇のヒロインとして楓に近づくの。そうして楓に私への恨みを高ぶらせて、私を襲わせる。そこを先輩が助けて、縁談を破談に追い込む。あの子を犯罪者に仕立て上げる、そういう作戦でしょ。」
「・・・そうよ、その通りよ。」
春香はさげすんだ目で私を見やる。
「ねえ、最初はそんな風に違ってたよね。最初は私が襲われる役だった。私が普通に先輩と付き合って、アンタが楓を炊きつける。そういう手順だったんだよね、先輩に提案されたのは。どうして、『逆転』させたの?どうして、自分がいい思いをするように役を付け替えたの?」
「それは、春香が危険だったからよ。この作戦は最終的に、望月先輩を取られて嫉妬に駆られた雪村さんに襲わせる必要があった。彼女を犯罪者にして、婚約者から追い落とす。でも、襲われる方は、当然怪我をする危険がある。場合によっては、命すら危うい。だから・・・。」
「それが名目なんでしょ。」
「名目って・・・。」
「本当は望月先輩のことを狙ってた。一度は私に譲ってあきらめたつもりだったけど、やっぱりアンタは諦められなかったんだよ。だから、アンタは、役柄を交代させた。自ら危険な道を選ぶと思わせて、一番おいしい道を選んだ。それだけのことじゃない。」
「違う!」
「何が違うのよ!」
私に一喝した春香の目は、見開いて血走り、ひどく恐ろしい。目の奥に、烈火のごとき怒りを秘めているのだ。
「私は・・・本当に・・・自分のことなんてどうでもよかった。春香が幸せでいられるなら、それでよかったの。」
「全部、『迫真の』演技だった。そういうつもり?白々しい。私が何も覚えてないと思って、適当に言いくるめようとしているのね。」
「そんなつもりは・・・。」
怯えた私の目に食らいつくように、キッと春香は睨み付ける。
「全部が全部計画してやったことだとは思わない。アンタにそこまで考える頭があるとは思えないから。でも途中から、『このままでいいや』って思ったんじゃないの?千早が、アンタは『演技』の名のもとに堂々と先輩と一緒にいられる。一緒に手をつないで、一緒にデートして、一緒に映画に行って、一緒に食事をして、しかもそれを先輩にも強要できる。『すべては春香の為』、その旗の下にね。こんな役得は他に存在しないわよね!?」
言い返せない。確かに先輩と過ごした日々は、例えそれが演技とわかっていても、いや、演技だと分かっていたからこそ、楽しかった、春香への罪悪感を抱くことなく、二人だけの時間を楽しむことができた。全ては演技、春香のためを思ってする行動、そう信じることができたからだ。
「まだアンタは、それでも私の為だったって言うつもり!?」
正直に言ってしまえば、私は・・・。
「春香の為・・・そう思ってきた。そう思い込んできた。でも実際は・・・そうじゃなかったのかもしれない。」
「白々しい。私のことなんて微塵も思ってなかったでしょ!?」
「そんなことない!本気で私は春香に幸せになってほしいと思っていたわ!」
「じゃあなんでアンタは、私から先輩を奪ったの!先輩の心を!」
「奪ってなんかない。先輩が・・・私に近づいてきたのよ。先輩はどういう訳か、少しずつだけど本気で、私のことを好きになり始めていた。」
「それはアンタが誘惑したからでしょ!?」
「誘惑なんてしてない!」
「アンタの体からは、知らず知らずのうちに『フェロモン』が出てるからね。知らず知らずのうちに誘惑していたのよ。だけどアンタは、私の為だとか言いつつ、先輩が自分に寄ってくるのを払いのけようとしなかった。むしろ好意的に受け止めていたんだよね。それって、私から彼を奪っているのと同じじゃないの!?」
返す言葉もない。春香の言う通りだ。私は、先輩の気持ちが揺らいでいると知った時点で、この作戦から降りるべきだったのだ。このまま続けていたら、先輩が・・・いや私の気持ちが、抑えられなくなってしまうのは、分かっていたからだ。
でも私は、そうはしなかった。いくらでもチャンスはあったのに、私は心地よいフィクションから抜け出そうとしなかった。それどころか、ありもしないフィクションを現実に変えようとしてしまった。
あのホテルの時だって、お酒に酔っていたというのは言い訳にもならない。拒めば良かったのだ。私は男が嫌いなのだ。だから、逃げてしまえばよかったのだ。何もかもから。
「私、途中から演技じゃなくなってたよ。アンタと同じように、私本気で、アンタのことをにらんでた。楓と一緒に、いや楓がむしろ引いてしまうくらいに、本気だった。私は怖かったの。『演技演技』だといっているアンタが、ある日突然、演技じゃなく本当に彼を射止めてしまうんじゃないかって。普段何気なくしていても、家の中にいても、四六時中、アンタといるときは、そういう恐怖感にとらわれていたの。アンタにその気持ちが分かる?」
わかるはずがない・・・。その間、私はある種浮かれていたのだ。演技にかこつけて、私の頭の中は先輩のことでいっぱいだった。春香のことなんて・・・正直考えなかったと思う。『春香の為』、こんな都合のいい四文字で、私は思考停止していた。
「ごめんなさい。」
「謝ったってもう遅いよ。私、思い出したんだよ。アンタが朝帰りしたときのこと。」
その日は・・・。
「望月先輩に抱かれてたんでしょ?望月先輩のモノ咥えてた!先輩のモノを挿れられてよがってた。そうでしょ!?」
その通りだった。私は、あの日、ついに春香を裏切ってしまった。超えてはいけない一線を越えてしまった。
「何とか言いなさいよ!」
私は体を震わせた。胸が苦しい。恥ずかしいのだ。自分の欲望が抑えられなかったことに対してではない。とどのつまり、私は春香をいいように利用していたのだ。たとえ積極的な加害の意思がなかったとはいえ、そんなの言い訳にならない。私は心の奥底で密かに、この作戦を悪用してやろうと思っていたのだ。
私を救ってくれた最良の親友の幸せを願うと言いながら、実際は他でもない、最もひどい傷つけ方をしてしまった。それも最悪の形の裏切り。
気づけば涙がハラハラと零れ落ちていた。
「ごめん、春香・・・。」
「それも『演技』かしら?是非極意を教えてほしいものだわ。」
最大限の皮肉だ。
「違うって・・・。」
「今更信じろって言うの?こんなにもひどい形で裏切られて。」
「信じる方が難しい・・・よね。」
「ねえ、本当はもっと前から分かってたんでしょ。本当に結ばれていたのは、自分だって。だから、『先輩を射止めた方が生き残る』なんて同意したのよね。」
「ち・・・違う!あの時は本当に私が春香に譲っていると思ってた!こんなの、全然予想外だった!」
春香はジトッと侮蔑した目線をぶつける。
「じゃあなんであんなに死に急いでいたの?本当はアンタ、もっと前から気づいていたんじゃないの?だけど、私にこうやって追及されるのが怖くなった。だからアンタは、早く死にたいと願った。そうよね?」
半分あっている。でも半分は違う。
「確かに私は、まだ見ぬ封印された記憶におびえていた。どんな悪夢が出てくるのだろうかと、ずっとビクビクしていた。だけど、それだけじゃない。私は純粋に、春香に生き残ってほしかった。春香を不幸にしてきたのは私だから。だから、せめてこれからの人生だけは、幸せに生きてほしかった!」
「ねえ、敢えて聞くけど、今までアンタが私にしてくれたことで、純粋に私のためを思ってしてくれたことってあった?」
「それは・・・」
春香は天井の豆電球を見つめている。
「この顔が・・・怖かったんでしょ。」
春香がゆっくりとその顔をこちらに向ける。私は蛇睨まれたかのように、凍り付いた。そこには、私が心の底から恐れていた、あの「能面」の顔があった。
私はとっさに顔を背けた。
「やめてよ・・・。」
「ねえ、どうしてこの顔がそんなに怖いの?」
「おねがいだから・・・。」
「高校の頃、私はずっとこんな顔をしていたよ。私が将来に絶望して、本を読むことしかやることがなかったころ。佐藤さんを助けて代わりに私がいじめられていたころ。アンタが言うところの『能面』のような顔をしてた。」
春香がその顔のまま私に迫ってくる。正座をしていた私は後ろに下がることができず、そのままのけぞった。
ああ、それだそれだ。私が本当に恐れていたことは、私が本当に恐れていた顔だ。私は必死で顔を背け、目をつぶった。
「ねえ、正直に答えてよ。アンタは、如月千早が私に近づいたのは、『この顔』が原因なんでしょ。前に言ってたよね。私の顔が怖かった。私の顔は・・・見ていると『死にたくなる』。そんな表情に耐えられなかった。だから私のことを助けた、そう言ってたよね。アンタ私に言ったよね。『放っておけなかった』って。だから、私を助けてくれたんだって。でも、『放っておけなかった』のって自分自身だったんだよね!?アンタ自身が、私の顔のことを放っておけなかった。だから友達になったんでしょ!?私のことなんてどうでもよくて、私からあの顔を奪い取って、安心したかっただけでしょ!」
なんて返せばいいんだ・・・。春香が言っていることはその通りなのだ。もしも春香が普通の女の子だったら、いや、普通の『顔』をしていたら、きっと私は彼女に見向きもしなかっただろう。彼女の顔が怖かったから、私は彼女に近づいた。
「それだけじゃない。アンタは私のために何もしてくれなかった。それどころか、ずっと私をだましてきたじゃない!私はずっと自分の母親はアンタに殺されたと思っていた。殺してくれたと思ってたのよ。アンタは私の勘違いを知っていた。私がアンタの父親を殺したように、アンタが私の母親を殺したと私が思い込んでいることを知っていた。知っていて、敢えて正さなかった。そんな理由は一つしかない。アンタにとって都合がいいから!私が勘違いしてくれれば、私がアンタに感謝の気持ちを持つから!二人が『対等』であると思い込むから!だから話さなかったんでしょ!?」
そうだ、その通りだ。私は春香の勘違いを利用していた。これ幸いと思っていたのだのだ。春香が勘違いしてくれたおかげで、私は何もせずに春香の信頼を勝ち取ることができた。春香に「自分だけが犯罪者じゃない。」そう都合よく思わせることができたのだ。
「そして極めつけは、アンタは私から望月先輩を奪った。全ては自分が幸せになる為。その為に、私の気持ちを踏みにじった!そして今も!アンタは記憶を取り戻して、私にこうやって追及されるのが恐ろしくて、私に謝らずに勝手に死のうとした!自分だけ都合よく、この世から逃れようとした!ぜーーんぶ、何もかも私の為じゃない!自分の為じゃない!」
「きゃっ!」
春香は私を勢いよく押し倒した。心の構えができていなかった私は、地面に思いきり頭をぶつけた。
「痛い!」
思わず私は目をうっすらと開けてしまった。そこには、能面のような表情ではなく、怒りに燃えた夜叉の顔があった。
「私の為とか都合のいいこと言ってんじゃないわよ!あんたが今まで私の為って言ってきたのは、全部アンタ自身の為じゃない!私のことを思ってたことなんて、一度たりだって無かったじゃない!」
そうなのかもしれない。結局、私は春香のことを都合よく使っていただけだったのかもしれない。「春香の為」、それは私にとって都合のいい言い訳、免罪符だったのかもしれない。
「・・・春香の言う通りだよ。私は・・・多分一度たりとも、本当に純粋に春香のためを思って、何かをしてあげたことなんて・・・一度もなかった。」
「全部認めるのね!アンタがやってきたことは、全部自分の為だった、私の為じゃなかったって!」
「・・・ええ。そうだと思う。だからもう・・・殺してよ。今度こそは、春香のために・・・なってあげられると思うから・・・ね?」
春香の表情が怖い、そんなはずなのにもう「恐怖」という感情は心の中からすっぽりと抜け落ちていた。全て春香に見透かされ、もう何もかもが終わってしまった。あきらめの境地とでもいうべきなのだろうか。全てが終わってしまって、空っぽになってしまったからなのだろうか、私には、もう恐怖するほどに恐れなければならないものは何もなかった。
「それも、アンタの自己満足よ!私には、もう帰る場所もない。ここを出たところで、どうせ私はブタ箱行き。アンタなんかのせいで、10年は外の空気を吸えないの。もちろん、望月先輩だって失う。うんうん、もともと私は失っていたのよ。アンタに奪われたせいでね!」
それは違う!先輩は春香を捨てたりなんてしてない。
「違うわ!先輩は春香を捨ててなんていない!春香は失ってなんかいないのよ!」
「どういうことよ。」
「先輩は私に言ったの。『僕は春香と結婚する。』その上で私も幸せにしてくれるって、3人で仲良く暮らせる方法を考えているって!」
「そんな方法あるはずないじゃない!常識的に考えればすぐにわかる話でしょ!三角関係を永遠に維持するなんてありえない!それに、そんなのいつ言われたっていうのよ!?」
あのベッドの中だ・・・。
「私が・・・抱かれているときよ。」
「ふっ・・ふふはははははは。アンタが抱かれてよがっているときに聞いた言葉を信じろって?笑わせるのもいい加減にしてよ。そんなの嘘に決まってるでしょ、アンタの罪悪感を鎮めるための方便に過ぎないってこと。彼にそんな気持ちがあるなんて毛頭考えられないわ。」
「そんなこと・・・。」
確かに春香の言う通りかもしれない。3人で幸せに暮らすなんて、常識では考えられない。
「それにそもそもそんなの、私望んでないから!」
「じゃあ・・・春香はどうしたいの?私に、どうしてほしいの?」
春香はさらに歯を食いしばって、手で握りこぶしを作り、地面を何度もたたきつけた。
「アンタが憎い!!!私もようやくあの女の気持ちが分かったわ!あの女だって被害者なのよ!アンタというとんでもない悪魔!殺人者、犯罪者!あんたのせいで、罪もないかわいい妹は死んでしまった!レイプされて当然だったのよ!それなのに私は・・・アンタにたぶらかされて、着なくてもいい罪まで背負ってしまった!別にアンタは私のことなんて微塵も想ってなかったくせに!許せない!こんなにも人を殺して、人を不幸にしておきながら、まだ被害者ぶるつもりなの!その精神が腹立たしいわ!できることなら殺してやりたい!今すぐ首を絞めて殺してやりたい!」
私は力なく声をかける。
「殺して・・・いいわよ・・・。」
「ああ、だから殺せないのさ!死ぬことまで思い通りにさせるなんて癪に障る!さっきも言ったでしょ!私にはもう帰る場所もないの!先輩を奪われ、自由を奪われるの!生き残ったところで、ここから開放されたところで、私には将来なりたい夢もあるわけじゃないし、何もできない!」
「じゃあ、春香はどうしたいの?」
春香はゆっくりと笑う。それは面白くて、おかしくて笑うのではない。怒りに満ちながらも、満ちているからこそ、口角が上がってしまう。
「できることなら、私は拷問にかけてやりたい。私も犯人に加わって、この身も心も腐った女を、とことん痛めつけたい!でもそれもできないのよね。」
春香が私の上に馬乗りになり、体を固定する。そして春香はその右手で優しく私の頬を撫でる。
「この顔・・・アンタって本当に顔はきれいだよね。男の子を魅惑するためにあるみたいな顔じゃない。端正な顔立ち。笑顔でも、泣いても、怒っても、普通にしてても、かっこよくてきれいな顔。この顔があるせいで・・・先輩は!!」
バチン!
春香は高くその手を振り上げたかと思うと、一気に私の頬に振り下ろした。ビンタの反動で私の頬は左方向に揺さぶられる。
「ビンタひとつじゃびくともしないのね。」
そういうと彼女は再び、今度は左手で私の右頬に鋭く平手を打ち落としてくる。
「ぐっ!」
今度は右方向に顔が揺さぶられる。
「ふっ、よく見ると醜い顔。痛みに堪えて歯を食いしばる姿、プレーリードッグのようね。でももうすぐアンタの顔は、真っ赤に腫れ上がることになるわ。まるでサルみたいにね!」
バチン!バチン!
痛い!でも、痛がるところを見せたくはない。
「今から思うと自業自得だったと思うよ。どうして私はあの男を殺さなくちゃいけなかったんだろうって」
バチン!
「うっ・・・。」
「私があの男を殺したのは、アンタの名誉を守るため、そう思ってきた。」
バチン!
「ぐっ・・・。」
「でもそうじゃなかった。私はあの男のしたことが許せなかったの。」
バチン!
「くっ・・・。」
「私はレイプの痛みなんて知らなかった。だけど私は間接的にそれを知っていた。レイプの痛み、それは心を蝕む痛み。」
バチン!
「っつ・・・・。」
「私は母親から痛いほど思い知らされていた。文字通りね。レイプがどんなものなのか、人をどのように変えてしまうのか、人をどう凶暴にさせるのか!」
バチン!
「っっうう・・・。」
「だから許せなかったのよ、あの男が。レイプの痛みは、体の痛みだけじゃない。うんうん、むしろ心の痛み。私はアンタのことを親友だと思ってた。だから、そんな痛みを味合わせたあの男を、殺したい!殺さなくちゃいけないって思った!」
バチン!
「あうっ・・・。」
「でも、そんなの無駄だった!通報すればよかったのよ!それだけで済んだ。アンタにとっては不名誉だったかもしれない。けど、そんなの自業自得じゃない!アンタが千尋を見殺しにしなかったら、そもそもこんなことにならなかった!」
バチン!
「・・・・。」
「自分を悲劇のヒロインか何かと勘違いしてない?アンタは悲劇のヒロインでもなんでもない、ただの魔女、人を魅了し、人を狂わせ、不幸にする。私は、こんな女に騙されて、人殺しまでしてしまった!完全に自業自得!」
バチン!バチン!バチン!
「・・・・。」
「ねえ、まだ死なないでよ。意識失ってるだけ?ねえまだ意識あるよね。正気を保ってくれなくちゃ困るよ。」
ぺちぺちぺちぺち。
春香は私の頬を平手で何度も軽くたたく。途絶えそうな意識がかろうじて保たれている。
「ようやく、アンタらしくなってきたわ。真っ赤に腫れ上がって。おさるの千早、完成ね。鏡がないのが残念でならないわ。こんな滑稽な顔、アンタ自身が拝めないなんてね。」
血の味がする。口が切れたのか。
「ぷっふははははははわあっははあは。ひっどい顔!あら、血が出てるの?そのまま出血多量で死ねばいいのに!ふっ、さすがに死なないか。あーあ、刃物でも置いておいてくれればよかったなー。せめて割りばしの一本でも置いておいてくれればなー、そうすれば、アンタの目玉に突き刺して、そのまま脳天を突いて殺すことだってできたのに!この犯人はとんだ無能ね!今の私だったら、それくらいだってできるっていうのに。見たくないのかしら!この女が目玉から血を拭きだして横死するところ。」
気持ちが悪い・・・。何度も頭を揺さぶれたせいか、頭がしびれている。
「ねえ、アンタは神様なんて信じたことある?私は何度かあるわ。辛い時に何度か神頼みをしたことがあるの。だけど・・・そんなの意味なかった。神様なんていなかったんだよ。いるのは人間だけ。その意味が分かる?」
わからない。私は春香から目を逸らした。
「人間なんて残酷なの。誰も信じちゃいけない。信じたほうが負け。神様がいない世界ってそういう世界。神のバランス調整なんて一切存在しない。現にこうやって、私はアンタを信じたせいで敗者になった。信じることに意味がないなんて、とっくの昔に知ってたはずなのにね。」
春香はニターと笑いながら涙を流している。
「アンタだけは例外だと思ってた。アンタだけは、この不条理な世の中で、唯一、いつでもどこでも、どんな時でも、私の味方でいると信じてた。信じてたんだよ!信じて、私、アンタのためにすべてをなげうったんだよ!その意味が分かる!?それが裏切られた気持ちってわかる!?」
「・・・わか・・・。」
わかるんだろうか。分からないんだろか。それすら分からない。ずっと考えてきたつもりだった。私は春香を裏切っている。その春香がどんな思いをするか・・・。
でも私は・・・きっとわかってなかったんだ。
私に裏切られて・・・こんなにも怖い顔をして、意識が飛びそうになるほどビンタして、心の底から殺したいと願っている。
春香は固まってしまった。私の上で馬乗りになりながら、顔を俯かせている。
「は・・・るか・?」
「殺したい。殺したい。殺したい。・・・殺したい。」
春香はぶつぶつとつぶやいている。
「でも殺せない・・・殺したいのに殺せない・・・。私には・・・帰る場所がないから・・・。」
春香はそうつぶやくと、腰を上げて、ふらふらと、近くの壁にぶち当たり、そのまま沈み込んでいった。