第17章 怒り 残り17時間30分 天海春香
第1節 湧き上がる怒り
ふつふつと沸騰するように、私の怒りは静かに蓄積されていく。さっき爆発させたばかりだというのに、再びマグマが吹きあがってくるかのようだ。
あの女は、あれからずっと地面に寝そべったまま天井を見つめている。何度もビンタした頬は赤くなっていたはずなのに、もう腫れが引いて、むしろ青あざへ変わっている。私はあの女から離れ、タイムカウンターと向かい合わせになる、奥の壁にもてたれかかっていた。
これこそが私の望みだった。ずっとこうしたいと思っていた。だけど、私の理性が全てを押さえつけてきたのだ。あの女をしばきたい、あの女を叩きつけてやりたい、あの女を痛い目に合わせてやりたい。
私から、非道な手段で大切な人を奪い取ったあの女に、この手で復讐をしてやりたい。「演技」を名目に、心置きなく色目を使って、女としての魅力を最大限に使って、いいにおいをムンムンにさせて、長い髪をひけらかし、端正で凛々しい顔で優しく微笑み、あの人の心に巣食おうとするあの女が恨めしい。
そしてあの女の魂胆に気付かず、あの女を信用した自分が愚かしく思うのだ。あの女は、最優秀主演女優賞を10年連続で獲得できるほどに演技がうまかったのだ。役者か女優でもやっていればいい。あの女は、生き方そのものがある種ジャーナリズムに反している。あの女は、自ら事件を作ってしまう、そんな女がジャーナリストを目指すなんてちゃんちゃらおかしい。
そもそも、あの女が千尋を見殺しにしたのが悪いのに、それを被害者ぶって、ジャーナリスト目指そうなんて、どれだけ意識高い系の女なんだか。よく考えてみれば、バカらしい。
こんなバカらしいバカ勘違い女のために死ぬのなんて、もっとバカらしいが、正直生きているのはもっとバカらしいと思えるのだ。
「ねえ・・・どうするの?」
数時間ぶりに口を開いたかと思ったら、何だか要領を得ないことだ。
「どうするって何がよ?」
「あと、17時間しかないわ。」
どっちが死ぬかって話か。
「死ぬのは私よ。」
「それは・・・ダメよ。春香には・・・先輩がいるから・・・。」
まだ寝ぼけたこと言っている訳!?ビンタがまだ足りないのかしら!?
「私を愚弄するのもいい加減にしなさいよ!誰のせいで、失ったと思ってるわけ!?それをいまさら、アンタを殺せば手に入るなんて、私をバカにするのもいい加減にしなさいよね!そうやって彼を手に入れたって、私がみじめになるだけって、ちょっと頭をひねればわかるでしょ!?そんなこともできないおつむの弱い子に、この国の報道なんて任せられるわけないでしょ!?だいたい、アンタは世間知らずなのよ。それなのにもかかわらず、ジャーナリストなんて、頭どっか沸いてるんじゃないの!?」
「・・・ごめんなさい。」
謝られたところで、どうしろって言うの?
「もう謝らないで、アンタに謝られると、むしろむしゃくしゃするの。アンタのか細い声で、弱弱しく謝る。それこそがアンタの武器なのよ。知ってる?『弱い』って武器なのよ。『脆い』って凶器なの。『儚い』って脅威なのよ!あんたは四六時中そういうオーラを体中から放ってるの。あんたが出してる体臭みたいなもの。人を魅惑して、虜にする悪魔の香水。そんな人間に勝てるわけないじゃない。『守ってあげたい』そう思わせられるなんて、この上ない最終兵器。アンタはそれを自覚してるのか、自覚してないかわかんないけど、誰にも気兼ねすることなく自由に放ってるの。それって、不快以外の何物でもない。」
「じゃあ・・・私は・・・どうすればいいのよ。」
か細い声で天井に向かって話しかける。
「約束は守ってもらうわ。私が死ぬから、アンタは殺して。」
「そんなことはできない・・・。」
本当にそう思っているのだろうか。それすら疑わしい。
「望月先輩と結ばれたのは、私ではなくアンタだった。それは事実なのよ。私にとっては不都合なんだけどね。」
「本当に・・・そうなのかしら?あの人が好きだったのは、本当に・・・私だったのか?」
何言っているんだ?好きでもなかったとしたら、どうしてセックスしたっていうのよ。
「アンタと望月先輩はセックスをした。これが愛し合っていないっていったら、どうして二人はセックスをしたのよ!?」
私はいきり立った質問をぶつけてみる。あの女の返答はこうだった。
「美希の言葉を思い出したのよ。」
「美希の言葉?」
「あの子は・・・全部見抜いてた。私たちがやっていることが全部『演技』だってこと、私たちがとても危ない橋を渡ろうとしていたこと・・・そして・・・春香が本当に私のことを恨めしいと思っていたことも・・・全部よ。」
それは初耳だ。確かに美希はとても鋭い子だ。だけど、全部見抜かれていたなんて・・・。背中に悪寒が走る。美希が全て気づいたというということは、作戦は失敗だ。もしこの後何か事件が起きれば、それは私たちの「作為」ということがたちどころに分かってしまう。
「じゃあ美希は止めたんでしょ。私たちの『作戦』。」
「止められた。だけど、私は振り切った。彼女にお金を握らせて・・・『全ては私たちみんなが幸せになる為』って言ってね、彼女を言いくるめたの。」
「美希はその後どうしたの?」
あの女は黙った。そこから先はまだ思い出せていないということか。
「あの子に知られて、私たちが作戦を継続したのかしら?」
あの女は語らない。それも覚えていないってことか。
「美希はね、望月先輩は私と春香のどちらが好きなのか、自分でもわかってないみたい、って言ったの。」
「ん?どういうことなの?」
「美希は、人としては両方好きだけど、好きな女の子としてはどっちが好きなのかわからなくなっている、そういう趣旨のことを言っていたわ。」
「それは、アンタにだんだん惹かれていっているっていう意味でしょ。美希は本当に人のこと良く見てるのね。」
「そうだけど・・・でも!とにかく、あの人が春香を選ばなかったってことではない!」
「バカにするのもいい加減にしなさいよね!じゃあ何で先輩はアンタのことを抱いたのよ!」
あの女は黙りこくる。自分の言葉の矛盾にすら気づけないとは。
「私、あの人の言葉、その場のしのぎの嘘だとは、どうしても思えないの。」
あの人の言葉?ああ、3人で暮らすってハッタリね。
「3人で暮らすなんてありえないから。合宿の延長じゃあるまいし。私たち3人は、純然たる友達同士ではいられないの。愛し合ってしまったから。」
「先輩は、作戦の最終段階の延期を申し入れてきたの。雪村さんに襲わせるって部分をね。」
私は驚いた。初耳だそんな話。あるいは、まだ思い出せないだけなのか!?
そんな馬鹿な話ありえないでしょ・・・、それじゃあ何のためにいままでやってきたっていうの!?
「作戦を延期して、どうするのよ!?」
「あの人なりの考えがあるんだと思う。その方法で私たち3人を幸せにするって言ってた。」
そんなの方便に決まってる!
「じゃあ、もう『演技』も止めたのよね?この作戦自体中止したんだったら、もうアンタと望月先輩が仲良くする『演技』をする必要もなくなるでしょ。アンタは私に、彼を返したのよね?ね?どうなのよ?」
あの女はゆっくりと起き上がった。そして頭を垂れた。
「まさか・・・止めていないの?」
「・・・中止じゃないの。あくまで『延期』。先輩からは、作戦の『最終段階』だけ延期してほしいって言われたの。先輩が考えているプランBは、確度が低くて、別の問題を引き起こしてしまうからって言われた・・・。」
「へー、随分都合のいい『延期』なのね。じゃあ、アンタと先輩がイチャイチャするのは続けるわけね。」
「プランBがダメになった時は、すぐに元のプランができるようにってことだった。」
相変わらずふざけている。そんなの信用できるわけがない。
「そのプランBって期限はあったのかしら?『いつまでに』発動できなかったら、それは破棄して、元のプランAを遂行するって。」
「・・・ごめん、そこまでは聞いてない。」
「あっそ。」
重い沈黙が流れる。あの女はゆっくりと顔を上げた。
「私が思うに・・・先輩は本当に、私たちのこと、二人とも好きだったと思うの。」
「ベッドの上での言葉を信じろっていうの?」
「美希の見立てもある。」
「確かに美希は鋭いのかもしれないけど、所詮他人の印象、本人の言葉じゃない。彼の本心は、彼自身にしかわからないの。それに・・・。」
私は左側を向いて、赤い点がついているカメラを見据えた。
「もう私、嫌われた。」
あの女もカメラの方を一瞥した。
「先輩がこの部屋の様子を見させられているってこと?」
「可能性は高いんじゃない。アンタの母親だったら、そうするんじゃないの?坊主憎けりゃ袈裟まで憎いっていうあの母親だったら、先輩を苦しめるために、私たちの醜い殺し合いを見せたとしてもおかしくない。」
あの女は私の方に向き直る。
「でも・・・これは仕方がないこと。お互いに命がかかっているんだから、多少荒々しくなっても。」
そういう意味じゃない。そうじゃないんだよ。先輩は、私の恐ろしい側面、凶暴な側面、そういうものをすべて見てしまった。そんな彼が、今更私のことを好きなままでいるとはとても思えない。
「さっき私は、『アンタのことを殺したい』って散々叫んでたわよね。それにアンタの顔を怒りと憎しみに任せてビンタしまくった。」
「・・・ええ。」
「そんな凶暴な私を見て、それでもまだ私のこと好きでいてくれていると思う?」
「・・・あの人の春香への想いは、そんなことで崩れるほど、やわじゃない。だって、あの人は、春香のすべてを知っていた。私のことも・・・だけど、二人とも愛してくれるって言ったのよ。」
『すべて』を知っていた?
「『すべて』ってどういうことよ。」
まさか、私たちの『過去』も知っているというの?
「・・・彼は私たちの過去を調べていた。」
「過去を!?」
「彼は私たちの戸籍を調べてた。それから附票っていったかしら、とにかく住所の履歴もね。それだけじゃない。私の妹の死について、それからあの男の自殺についても調べてた。何もかも、お見通しだった。」
「そんな・・・。じゃあ私の出自も!?」
「・・・ごめんなさい。私が・・・白状したの。」
なんですって!
私は四つん這いになりながら、あの女の下へと向かった。そして両肩を掴んだ。
「私がレイプによって生まれた子ってことをバラしたっていうの!?」
あの女は私から目を逸らした。
「ごめんなさい・・・私・・・春香に嘘をついてしまった。あなたの生まれのこと、先輩には話していないって言ったのに・・・本当は・・・。」
私は思いっきり右腕を振り上げた。彼女も覚悟して、体を縮こまらせる。だが、私は振り上げた手をゆっくりと下ろした。もうすべてが終わったと悟ったのだ。
「・・・叩かないの?」
「アンタを叩いたって結末は変わらない。私が結ばれないってハッキリしたから。」
「そんな・・・どうしてそう思うのよ?」
「あの人は、私のことを知ったから、私から離れたのよ。私の過去を知って、私が殺人を犯していると知った。だから、私から離れた、それだけのこと。」
「ちょっ、ちょっと、それはおかしいんじゃないの。そんなことを言ったら、私だって、酷い人生を送っているわ。私だって、千尋を見殺しにしてる!」
「アンタの犯罪は、すでに死んでいる人を見捨てただけ、私は生きている生身の人間をこの手で殺めた。重大さは桁違いだわ。」
「そんなこと・・・」
「あるんじゃないの。それに、こんな私・・・あの人が好きになってくれるとは思えない。」
「こんな極限状態だから・・・仕方がないことなのよ。」
本当にそうなのだろうか。この顔を見たら、1000年の恋も冷めるのではないだろうか。
「私が・・・こんな顔をしていても?」
私は顔を殺した。あの子は、体ごと反対側を向けた。
「私の顔、怖いんでしょ?死んだような顔をしているんでしょ?こんな顔見られて、好きでいられるはずがない。」
「あの人は・・・それでも・・・。」
私はため息をついた。
「もうこんな不毛な議論は止めにしましょう。結論は一つしかない。アンタは望月先輩をたぶらかした。先輩は先輩で私の過去を知って、伴侶にできないと知った。だから、アンタに言い寄った。それだけでしょ。」
あの女は黙ったままだ。
「どうせ、私が本当にここから脱出したとしても、私はブタ箱行き、それこそ本当に彼は私と結ばれることなんてできないわ。」
あの女が振り返った。
「あの事件には証拠がない。」
「この事件そのものが証拠よ。あのカメラで私たちの言葉は一言一句記録されてる。もちろん、私たちが土下座して、罪の許しを乞うたところもね。もう遅い。」
しばらくして、千早が再び話しかける。
「そういえば、結局この『作戦』はどうなったのかしら?」
この作戦がどうなろうと知ったことではない。それがたとえどんな結末を迎えたとしても、もう私にとっては何も関係ないないのだ。私が先輩を射止められるわけではない。私が幸せになることだってできない。
「さあ?でもどうでもいいでしょ。もう。殺してよ。」
「嫌だ・・・。」
「殺しなさいよ。」
「・・・・・。」
「殺してよ!」
「嫌だ!」
私は右手を振り上げて、思いっきりビンタした。
「これ以上私に恥をかかせる気?あの人と結ばれたのは、アンタなの。私じゃない。アンタは生き残ったとしても幸せになるチャンスがある。だけど私にはない。この違いわかる!?生きていても苦痛でしかない。なのにどうして、アンタを殺してまで私が生き地獄を味わわなければならない訳?どうあろうと、アンタは望月先輩とセックスできた。それはアンタのことが好きだったから。いいじゃないそのままゴールしちゃえば。彼に養ってもらって幸せになりなよ。あるいは、夢だったジャーナリストになりでもすればいい。今回の事件のこと、記事にできるじゃない。アンタに文才があるなら、ノンフィクション作家にでもなればいい。それくらいのネタ、自分でほいほい出せるでしょ?」
「私だってブタ箱行きよ。条件は春香と同じ。」
「ふっ、そんなわけないでしょ。私にはもう生きる希望も夢もない。」
「そんなのは、生き残ってから見つければいい。今はここから出ないと、何も始まらないわ。」
どうして私を勇気づけようとするのか。まさか・・・。
「・・・あんたまだ何か隠しているんじゃないの?」
「・・・それはわからない。」
もうこの女の嘘に騙されるわけにはいかない。全ての過去を暴露して、禊ぎを済ませてからでないと。
「気が変わった。アンタに殺されるのは、もう少し後にするわ。アンタをもう少し痛めつけたい。殺さない程度に、殴ってやりたいから。」
私は右手を振り上げると、そのまま打ち下ろした。
バチン!
「うっ・・・。」
鋭い音がこだまする。私は彼女の上に馬乗りになると、そのまま何発も彼女の頬を殴り続けた。