第2節 疑惑
とうとう、千早ちゃんはその日帰ってこなかった。こんなことは初めてのことだった。5月末のある平日のことである。
事前の連絡は何もない。メール一つよこしてこなかったのだ。その日は私が夕食を作る当番だったから、千早ちゃんの分まで用意しておいたのに、彼女はとうとう帰ってこなかったのだ。そして終電の時刻になっても、千早ちゃんは帰ってこなかった。
私は何度か千早ちゃんに電話をかけた。だけど、留守番電話につながるだけで、彼女は携帯に出ていない。私はやきもきしながらも、次の日また大学があることから、眠りにつくことにした。
ガチャリ
家の玄関の開く音で目が覚めた。目覚まし時計を見る。朝の6時過ぎだ。私はむくりと起き出した。授業までには十分時間があるから、まだ寝てていいのだが、千早ちゃんがガサゴソと物音を立てるだろうから、きっと寝付けないだろう。
問題は、千早ちゃんが昨日どこで何をしていたか、なのだ。私には嫌な予感があった。私はそれを確かめずにはいられない。
「ごめん春香、起こしちゃった?」
「うん。」
寝ぼけ眼だが、意識ははっきりしている。
「本当にごめんね。春香。」
「千早ちゃん・・・昨日どこで何してたの?全然電話にも出てくれなかったじゃない。」
千早ちゃんは、洗面台で手洗いうがいをしている。それが終わって、顔を洗い終わると、千早ちゃんはようやく私の質問に答えた。
「昨日はね、美希とオールしてたの。カラオケで。それで今帰ってきたの。」
美希とカラオケでオール?二人だけで?
「二人で?」
「ええ。美希に誘われてね。」
千早ちゃんは服を着替え始めた。
そんなことあるのだろうか。確かに千早ちゃんは、最近美希と仲がいい。だけど、だからと言って、いきなりカラオケでオールするなんてありえるのだろうか。しかも、千早ちゃん、今日は2限から講義がある。
「今日の授業はどうするの?2限からあるでしょ。」
「今日は、2限は自主休講させてもらうわ。午後から出るから。バイトもあるし。」
怪しい。あの真面目な千早ちゃんが授業をさぼるなんて言い出すなんて、悪いものでも食べたんだろうか。あるいは・・・。
「ちょっとだけ寝させてもらうわ。正午には起きるから。」
着替え終わった千早ちゃんは、そういうと、布団を敷いて、目覚ましをセットし、布団の中にもぐりこんでしまった。
彼女は静かな寝息を立て始めた。私はその横で、布団に入り、眠るわけでもなく、ただ考え事をしていた。最近、同じ事ばかりを考えてしまう。
千早ちゃんは、本当は私から先輩を奪おうと考えているのではないか。
千早ちゃんが、私を裏切るはずがない。あれは全て演技なのだ。千早ちゃんが先輩と親しくしているのも、デートに行くのも、そして手を繋ぐのも・・・私が先輩と結婚するために必要なプロセスだ。ずっと私はそう言い聞かせてきた。
でも最近、本当はそうじゃないんじゃないかと思い始めていた。
二人の間には、演技以上の何かを感じるのだ。単純な演技として、割り切れない何かが。
そして今日の朝帰りだ。千早ちゃんは、美希とオールしたのだという。だけど、それは嘘だ。千早ちゃんがこんな無計画にオールするなんて考えられない。もう何年一緒にいると思っているのだろうか、私がそんな無体な嘘に気づかないとでも思っているのだろうか。
だけど、確認しておく必要はあるだろう。千早ちゃんの言っていることが本当なのかどうか。
その日の夕方のことだ。私が部室を訪れると、雪歩や真と語らっている美希の姿を見つけた。
「おお、春香いらっしゃい。」
真がにこやかに声をかける。
「うん、こんにちは。」
私は靴を脱いで、美希のもとに一直線に向かった。
「美希、少し聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「何?」
「昨日、千早ちゃんとカラオケでオールした?」
美希はすぐに反応した。
「うん。したけど、それがどうかしたの?」
千早ちゃんが口裏合わせを指示した可能性がある。もう少し聞いてみるか。
「どこでやったの?」
「多摩センターなの。」
「ずっと多摩センターにいたの?」
「うん、そうだよ。」
「どんな曲歌った?」
「ミスチルとか。」
「ふーん。二人?」
「うん。」
そばで話を聞いていた真が話に加わってきた。
「へー、昨日二人でカラオケ行ってたんだ?ボクも誘ってくれればよかったのに。」
「ごめんなの。急に千早さんから、カラオケ誘われてね。楽しくて延長してたら、終電逃しちゃって。それで、急きょ延長して朝まで歌ってたの。」
千早ちゃんの方から誘った?千早ちゃんは、美希が誘っていたって言ってたけど。
「誘ったのは、千早ちゃんなの?」
「えっと・・・確かそうだった気がするの。」
「千早ちゃんは、美希が誘ったって言ってたよ。」
「あれ?そうだっけ、細かいことはどうでもいいの。」
なるほどね、これで確信した。二人は口裏を合わせているのだ。急に話を合わせたから、細かい部分で齟齬が生じた。そういうことだ。そして、昨日千早ちゃんは先輩と一夜を共にした・・・。
「美希、ちょっと散歩に行かない?」
「えっ・・・うーん、いいよ。」
「じゃあ、真・雪歩、美希借りてくね。」
「わかった。」「わかったよ。」
こうして私は、美希を強引にかっさらう形で、外へと連れだした。
私たちは校内の静かな散歩道を歩いていた。この時期になると、少し歩いただけで汗ばんでくる。
「美希、どうして嘘をついたの?」
美希は少し黙ったうえで反論する。
「ミキ、嘘なんかついてないよ・・・。ミキ、昨日千早さんとカラオケでオールしたんだもん。」
「千早ちゃんから聞いた話と違うんだよなー。」
「細かいことまではよく覚えてないの。揚げ足取りをするのは、よくないと思うなー。」
美希はこの話で譲るつもりはないみたいだ。別の話題を振ったほうがいい。
「美希は、最近千早ちゃんと仲良くしているじゃん。どうして仲良くしているの?」
「仲良くするのに理由がいるの?」
「そうじゃないよ。別に仲良くなるのに理由はいらないけど、なんか気になっちゃってね。千早ちゃんが、サークルに戻ってきてから、美希が親しくし始めたから。」
千早ちゃんは、朝帰りの言い訳に美希を動員した。それは多分、千早ちゃんが美希のことを信頼しているからだと思う。だとすれば、美希は私が知らない何かを知っているのではないだろうか。そう考えた。
「春香と千早さんは親友なんでしょ。高校時代からの。でも最近、仲が悪いように見えるの。でも、二人はまだ一緒に住んでいるんでしょ。」
質問を質問で返してきた。美希のことを咎めておきたいけど、美希に下手に勘繰られたくはない。ここはさっさと質問に答えておこう。
「そうだよ。」
「一人の男性をめぐって争っていても、親友関係って続くものなの?」
微妙な質問だ。「そうだよ」と答えれば、私たちが演技していると疑われるし、「そうじゃない」と答えれば「なんでそれでも一緒に住んでいるの?」と聞かれる。
「別に争っているわけじゃないよ。私は、千早ちゃんに彼のことは譲ったんだし。」
ここはこれが正解のはずだ。あくまで円満に千早ちゃんに譲ったように見せる。そして雪村さんが千早ちゃんに反発しているという線だけ残す。それしかない。
「ふーん。でも、ミキ、春香が俊のことをあきらめたって到底信じられないの。」
「どうしてよ?」
私は少しムキになって美希にかみつく。
「だって、そんな目をしているんだもん。」
目?
「よくわからないんだけど。」
「春香の目は、先輩をあきらめてないって言っている。」
そんなバカな話認められるはずがない。こっちはこっちとて譲るつもりはない。
「そんなことないよ、二人で話し合って決めたんだもん。」
美希ははあーっと大きなため息をついた。
「ミキね、色々知っちゃってるんだよ。」
いろいろ知っている・・・?この子は何を言っているんだ。
「知っているって何を?」
「春香、千早さん、俊。この3人の本当の関係。」
どういうことだ、まさか、私たちが演技をしているってことを、美希は知っているというのか。
「美希、返答次第では、美希のこと考え直さなくちゃいけなくなるから、慎重に答えてね。美希は、私たち3人の何を知っているっていうの?」
私は美希を少し脅迫した。もし知っていたとしたら・・・。
「ミキを殺すの?千早さんの代わりに?」
美希は、見すかしたようなことを口走っていた。殺す?千早ちゃんを?ばかげている。私が千早ちゃんを殺すはずがない。
「そんなわけないでしょ。どうして、そんな結論になるわけ?」
私はせせら笑いながら、美希を問いただした。
「春香は、千早さんに嫉妬しているの。」
美希の発言に、言葉が詰まる。その通りだった。私は、千早ちゃんに嫉妬している。そして危惧しているのだ。本当に先輩を千早ちゃんに取られてしまうのではないかと。
「ミキね、千早さんに確かめたんだ。これってゆっきーを陥れるための演技なんでしょって?千早さん、否定しなかった。」
何ですって!千早ちゃんが、作戦をしゃべってしまったっていうの!?
「でもね、春香、安心して。別に私はその計画を邪魔しようと考えているわけではないの。ただ・・・。」
「ただ、何なの?」
「千早さんを傷つけたり、誰かを千早さんが傷つけたりするのは止めてほしいの。」
「どうしてよ?」
「どうして・・・?そんなの決まってるの。千早さんが好きだからなの。そんなこともわからないの?春香は、千早さんのこと好きじゃないの?」
私は・・・。
「千早ちゃんのことは、好きだよ。もう隠し立てしても意味がないから言っちゃうけど、美希の言う通り。これは演技なの。楓を怒らせて、千早ちゃんに襲わせる。そこを先輩が救って、それを口実に婚約破棄にもちこむ、そういう計画よ。」
「やっぱり・・・千早さん傷ついちゃうんだね・・・。」
「千早ちゃんは傷つけさせない。私と先輩で守るから。」
美希は、そんなの信用していないという顔だった。
「春香・・・最近の春香、変だよ。昔の春香は、もっと根が明るかった。なのに、今はどす黒いものを感じるの。怒り、憎しみ、嫉み、恨み、そういう負のエネルギー。春香・・・、本当は恐れているんじゃないの?先輩が千早さんに本当にとられてしまうんじゃないかって。だから・・・千早さんを・・・。」
手にかけるって言うの?この私が?
「そんなことあり得ない。」
「ミキにはそう見えないの・・・。」
会話が止まった。本当はもっと話すべきことがあるはずなのに、それが全然浮かんでこなかった。
しばらく歩いて、駐車場のほうまで来てしまった。
「戻ろう。」
美希が提案してきた。だけど、せっかくだ。ここで話せることは全部話しておきたい。
「もう少しだけ、散歩をしよう。まだ話したりないこともあるし。」
美希は少し嫌がるそぶりを見せたが、最終的には私の提案に同意していた。そして、話すべきことを思いだした。
「美希の意見を聞かせてほしい。望月先輩は、いったい誰のことが好きだと思うの?」
美希は即答した。
「春香と千早さんの両方なの。」
両方?
「でもね、美希、先輩と付き合えるのは一人だけなんだよ。」
「俊は、だんだん千早さんに惹かれて行っているの。」
その言葉に、背筋がゾクッとした。
「惹かれて行っている?」
「うん。千早さんが放つどこか悲しいオーラに惹かれてるって感じ。千早さんが、捨て石になるっていう悲壮な決意が、俊の心を動かしていると思うの。」
「それって、単に同情しているだけなんじゃないの?」
「そうかもしれないの。けど、俊が千早さんに惹かれているのは事実だと思う。」
そんな・・・。どうしてよ。千早ちゃんだって確かに苦しい人生を送ってきた。だけど、私だって辛い人生を送ってきたんだよ。それなのに・・・どうして彼女だけ・・・。
「私のことはどう思っていると思う?」
「んー、わからないけど、多分好きなんだと思う。俊は、多分二人とも付き合いたいんだよ。」
そんなことできるわけないでしょ。必ずどちらかが犠牲になる。それしかないのだ。
「でも、結婚相手は一人しか選べないんだよ。」
「うん。だから、先輩は迷っている。どちらと結婚しようか。」
迷っている・・・。どこに迷う要素があるのよ!3人で約束したじゃない、結婚するのは、私と先輩って。
「春香は今こう考えているでしょ。『シナリオでは私が先輩と結ばれるはずだったのに』って。」
図星だ。
「ええ、そうよ。」
「ミキが思うに、先輩は迷っているというよりか、正確に言えば悩んでいるって思うの。」
「悩んでいる?」
「春香と結婚するかどうかについて、俊は悩んでいると思う。」
「それはつまり、私を選ぶか、千早ちゃんを選ぶかってことなんでしょ。」
美希は首を傾げた。
「そういうのじゃない気がするの。」
「どういうこと?」
「あくまで勘なんだけど、俊は春香と付き合うことをためらっている。春香のことは好きなんだけど、付き合うことをためらっている。だから代わりに千早さんを愛してしまおうと考えているのだと思う。理由は分からない。そういう迷い方な気がするの。」
私と付き合うことをためらっている・・・。私と付き合いたいけど、付き合えない理由がある・・・それってどういうことなのかしら。
「それはどういう・・・。」
「ここから先は、美希にも整理がついていないことなの。」
そういって、美希は口を閉ざしてしまった。もう話を進展させることはできないようだ。
「戻ろうか。」
今度は私が提案した。
「うん。」
再び重い沈黙が訪れる。やがて、それを打ち破るかのように、美希が言い放った。
「ミキね、千早さんに約束したの。ミキは千早さんの味方でいるって。だから、ミキは、千早さんを傷つけることは許さないの。今回の計画は、千早さんが危険な目にあっちゃうって話だから・・・本当は嫌だけど・・・全部が安全に終わるなら、ミキ的にはぎりぎり許容できると思うの。千早さん・・・春香に尽くすことが自分にとっての幸せって言ってたんだよ。ミキ、千早さんがそれで本当に幸せになれるっていうから、何とか許したんだよ。」
どうして、美希は千早ちゃんの肩ばっかり持つのだろうか。そんなに、彼女のほうがいいのだろうか。彼女自身は、光り輝くことができないのに。
「美希も、千早ちゃんの内面を見て好きになったわけじゃないんでしょ。千早ちゃんの不幸な生い立ちに同情しているだけ。違う?」
美希は少し黙した。しばらくして、彼女は口を開いた。
「・・・たぶん、春香が言っていることは正しい。ミキは、千早さんの色気に魅了されただけだと思うの。」
「それって、千早ちゃんが好きってことじゃなくて、千早ちゃんの人生、経歴が好きなだけなんじゃないの。彼女の経歴に同情して、彼女を幸せにしようって、それって、結局千早ちゃんのことを見てないんだよ。見ているのは彼女の背後にある暗い歴史だけ。その意味で、美希は千早ちゃんのことを真正面から見てないんだよ。」
「それは、俊に言ってあげればいいと思うの。本当の、生身の自分だけを見てほしいって。」
「それは、色仕掛けを仕掛けろってこと?」
美希は首を傾げた。
「んー、そういう意味じゃないんだけど・・・、でも、まあ、春香もアピールしてみたらいいと思うの。」
春香「も」アピールか・・・。
「私には、味方がいないんだね。」
私は悲しげにつぶやいた。千早ちゃんには、美希という味方がいる。そして先輩もついている。それに対して私には誰にも相談できる相手がいない。
「デコちゃんに、相談でもしてみたらいいと思うの。」
デコちゃん・・・伊織か!確かに、伊織とは最近連絡を取っていない。伊織は、去年の冬に突然何の前触れもなくサークルをやめた。それ以来、全くコンタクトを取っていないのだ。
「伊織・・・どうしてサークルやめちゃったんだろうね。」
「さあ?デコちゃん本人に聞けばいいと思うの。」
それもそうだ。でも、伊織が味方になってくれるだろうか。伊織が私に協力してくれたのは、あくまで、私が望月財閥と雪村家の婚姻を邪魔できれば、それが水瀬財閥にとって利益になるから。今回のケースはそれとは違う。先輩の婚姻を破談に追い込むことを前提に、その後の婚姻にどちらがありつけるかって話だ。
だけど、今回は望月家と雪村家の縁談を積極的に壊そうっていう話なのだ。伊織にとっても悪い話ではない。だとしたら、伊織が何かアドバイスをくれるかもしれない。私は藁にもすがる思いで、伊織に連絡を取ってみることにした。