第4節 愚痴
それから数日後のことである。
その日の午前中、大学で授業を受けているときに、先輩がメールで私に「今日一緒に夕ご飯を食べよう。」と誘ってきたのである。こんなことは本当に久しぶりだった。あの作戦が始まって、私たちは公然と会えなくなった。隠れて会うことも憚られた。もし万が一、私たちが会っているところを誰かに見られてしまえば、この作戦がおじゃんになってしまうかもしれない。
だから、私たちは隠れて食事をすることもできなかった。
メールの文面では「どこか食べに行きたいところはある?」となっていた。だから、私はこう返した。「先輩と一緒なら、どこでもいいです。」
こんな調子だったから、結局、どこに行くかも決まらないまま、集合場所の高幡不動の駅に到着してしまった。
私が駅の改札口に到着すると、先輩はすでに到着して私のことを待っていた。文庫本らしきものを手にしている。約束の時間よりかは少し早めについたのだが、先輩の方が一足早かったようだ。
「ごめんなさい。先輩、待ちました?」
「いや、つい5分前くらいについたところ。」
先輩は、紐のしおりを挟みこみ、文庫本を肩掛けカバンの中にしまい込むと、「さ、どこに行こうか?」と水を向けた。
「そうですね・・・じゃあ、サイネリアにしませんか?」
先輩が意外だという風に驚いていた。
「いいの?そんな安っぽい店で。」
「ええ。だって・・・デートじゃないですから。」
私たちは、今はただの友達。そんな高いところに連れて行ってもらうのもおかしいのだ。
「そう・・・。」
先輩は少し寂しそうな顔をした。
「そんな顔しないでください。サイネリアにも結構おいしい料理いっぱいあるんですから。それに、サイネリアはこの駅ビルの中にあるんですよ。近くて安い、私にとっては最高ですよ。」
そういって、私は先輩のお尻を叩くようにしてサイネリアへと歩を進めた。
「結構混んでますね。」
平日とはいえ、時間帯は午後7時。駅構内にあって、便利な空間。混まないはずがなかった。仕方なく、私たちは受付で席が空くのを待つことになった。
「サイネリアって行ったことあります?」
待ち時間の間、私はそんな話を振った。望月先輩ぐらいのお金持ちだと、もしかしたらサイネリアなんて行ったことないんじゃないだろうかと思った。
「普通にあるよ。高校時代に、克也や隼人達とよく行ってたし、今だってたまに行くよ。僕はお金を気にしないけど、克也たちはそうじゃないからね。」
彼はいたずらっ子な笑顔を向けた。そりゃそうだよね、たとえ彼がブルジョアだとしても、周りもみんなそういうわけではないのだ。
「僕結構好きだよ。ローマ風ドリアとか、イカスミスパゲッティとか、あと甘味チキンとエスカルゴを焼いたのも好きだね。」
「結構、詳しいんですね。」
「まあね。あ、あとお酒が安いんだよ。白ワインのマグナムだったら、居酒屋なんかで飲むより断然安いね。克也たちと行って驚いたよ。ワインだけ飲むんだったら、サイネリアに敵う店はないね。」
「へえー、じゃあ今日頼むんですか。」
「おっ、春香、結構酒豪?」
私は苦笑しながら言った。
「いえいえ、そんなことないですよ。先輩は結構飲みますよね。」
「まあ、だんだん慣れてくるって感じかな。会社での付き合いもあるからね。」
「やっぱり、お酒って慣れなんですね。」
「必ずしもそうとは限らないよ。日本人のうち数パーセントの人は、全くお酒への耐性がない人だからね。」
「へえー。」
そんな話をしていると、あっという間に時間がたち、そしてあっという間に順番を消化した。どうやら、喫煙席しか空いていないということらしい。
「喫煙席でも大丈夫?」
先輩が尋ねてくる。
「ええ。そこで大丈夫です。」
私たちは店の中に入った。いつも通り、店内はがやがやとしている。逆に私は、閑散としたサイネリアを見たことがない。
先輩が席に着くと、メニュー表を手に取って、パラパラとめくりながら眺めていた。
「たまにはお酒を飲もうかな。」
先輩がつぶやく。
「普段は飲まないんですか。」
「そうだね。仕事の付き合いで、あとサークルの付き合い、その二つでしか基本的に飲まないかな。春香は?」
「私も・・・全然飲まないです。千早ちゃんが、飲める年齢じゃないし。」
「そっか。千早はまだ未成年なんだ。それじゃあ、お酒を片手に女子トークもできないんだね。」
「まあ、お酒の力を借りなくても、言いたいことは言ってますからね。」
それは嘘だった。実際は・・・聞いておきたいことは何も聞けない。きっと、お酒の力を借りても聞けないのだろう。
「へえー、やっぱりうらやましいよ。それだけ仲が良いと。」
「・・・・・。」
どこか空疎な感じが否めない。あけすけな嘘ほど、心に堪えるものはない。軽々に発言したことを後悔していた。
「春香、決まった?」
「あっ、いえ、まだ。」
私は急いでメニュー表を手に取った。どれにしようかな・・・。やっぱり値段を気にするべきか・・・。ローマ風ドリアにしよう。それにドリンクバー。これだけなら500円にも満たない。
「決めました。」
「僕も決めたよ。」
先輩がボタンで店員を呼んで注文する。
「えっと、春香は?」
「私はローマ風ドリアとドリンクバーで。」
「僕もローマ風ドリアで。あと甘味チキンと、白ワインをデカンタで。250ミリのほうでね。」
店員はかしこまりましたと言って、下がっていった。
「やっぱり飲むんですね。」
「春香は飲まない?」
「私は・・・止めときます。明日もありますから。」
正直、そんな気分ではなかったのだ。
「飲み物取ってきます。」
私は席をはずして、グラスを取ってオレンジジュースを注いで戻った。
席に着くと、私は黒山でにぎわう店内をぐるりと眺めていた。大好きな先輩と来ているはずなのに、どこか楽しくない。店がうるさいとか、そういう物理的な問題ではないように思う。もっと本質的に・・・。不安なのだ。
「春香は、最近忙しいの?」
先輩がふとそんな話題を持ち掛けてきた。
「まあ・・・人並みにはってところですかね。」
「FF10はやってる?」
私は先輩から、FF10を貸してもらっていたのだ。
「まだ半分くらいしか。あれって試練の間のパズルが難しいですよね。」
「そうなんだよね。後半になるとどんどん難しくなるし、正直あれで2時間とか平気でつかちゃったりするからね。」
「へえー、難しいんですね、やっぱり。」
「特に隠しアイテムまで手に入れようとすると時間かかるね。」
「隠しアイテムとかスルーですよ。スルー。なんか独力じゃ行ける気がしないですし。」
「クリアすると、再挑戦できなくなるのもあるから、注意してね。」
「えっ、そんなのあるんですか?」
「FFシリーズって結構不親切だよ。例えば、FF8だと、攻略にほぼ必須のヒーラー召喚獣なんか、イベント戦闘の中で相手から盗み取らないとゲットできないし、一回逃しちゃうと二度と手に入らなくてリセット確定とか。」
「それきついですね。」
「まあ、FF8はシステムがダメだとか批判されてるけど、個人的にはFFシリーズの中でもかなり面白いほうだと思う。早くリメイクが出てくれないかなー」
そんな話をしていたら、先輩が注文したワインが運ばれてきた。
先輩が白ワインをグラスに注ぎかえる。
「じゃあ、乾杯しようか。」
私たちはグラスを鳴らした。先輩がワインを一口運ぶ。
「最近、僕も忙しくなっちゃってね。全然ゲームをやる暇がないんだ。」
「確かに、最近先輩は、部室に入っても、机で何か作業をしていることが多いですよね。そんなに課題が多いんですか。」
「授業のこと?まあ、それなりにね。ただ、まあ、僕は自宅に課題をあまり持ち帰らないタイプだからね。部室とかでこなしてるから、忙しく見えるのかもね。」
家には課題を持ち帰らない。そんな彼は、家では何をしているというのだろうか。
「春香、倫理学って取ってる?」
「えっ、ああ、あれですね。ラクタンの。」
「そうそう、通称ラクリン。あれは取っておいたほうがいいよね。」
中亭大学法学部の教養カリキュラムの中に、「倫理学」という授業がある。この授業は、毎回授業の最後に提出するレポートが出席点となっており、その1回1回のレポートの出来によって成績が決まるというスタイルのものだ。
たぶん、普通に聞けば少しは面白い授業なのかもしれないが、正直なところ、私はまともに先生の講義に耳を傾けたことがない。ほかの学生もそうだろう。みんな、くっちゃべるか内職するか、寝ているのだ。
「僕もあの授業には助けられたよ。次の授業が英語だからさ、当てられてもいいように、予習しなくちゃいけいないんだけど、毎回予習がぎりぎりでね、だからあの時間を使って内職してたってわけ。」
「あの先生、眠くなっちゃいますもんね。仕方ないですよ。それに、みんなテスト無しという楽さに惹かれて、履修してますからね。」
「テスト無しで思い出したけど、『医療と福祉』って授業あったよね。あれもラクタンだよ。」
そうなんだ。初めて聞いた。
「へえー、そうなんですか。テストがないんですか?」
「テストもないんだけど、あれって体育科目なんだよね。それをテスト無し座学で2単位埋められるって、破格だと思うけどね。」
中亭大学の場合、基本的に1コマ2単位計算だ。だけど、語学と体育科目の実技は1単位計算となる。体育科目は4年間で4単位取らないと卒業できないのだが、この『医療と福祉』は体育科目で2単位を献上してくれる。
「確かにそうですね。でも私は、体動かすの好きだから、体育実技取っちゃいますけどね。」
「何取ってるんだっけ?」
「えーと、バレーボールですね。」
「テニスは?」
「えっ・・・、まあーテニスは苦手なんで。」
「テニスサークル入ってるのに?」
先輩はくすくす笑っている。
「むー。そういう先輩はどうなんですか?」
「僕は野球だね。テニスはいつもやってるし。」
「言うほどやってないと思いますけど・・・。」
「まあ・・・、そうかもね。今度まともにみんなで練習する?このサークルで、みんなでまともに練習したのって、合宿で丸1日やったきりだもんね。」
「あれはなかなか辛かったです。」
「みんな途中でばててたもんね。」
その時、注文していたローマ風ドリアと甘味チキンが届けられた。
「じゃあ、そろそろいただきますか。」
先輩がケースの中からスプーンを取り出すと、私に一つ手渡した。
「ありがとうございます。」
スプーンで、ドリアの真ん中あたりをすくい取り、ふーふーした後、口に運ぶ。グラタンの甘みが炒めたコメにマッチして、おいしい。サイネリアでは、これが一番おいしくて、コストパフォーマンスもいいのだ。
先輩も少し熱がりながら、食べ進めている。
「先輩、最近結構バイトで忙しいみたいですけど、どんな仕事をしているんですか?全く想像がつかないです。」
望月先輩は、父親が会長を務めている「望月商事」でアルバイトをしている。将来、会社を継ぐことを前提に、いわば丁稚奉公のような形で、働いているのだ。普通、学生が商社でアルバイトをすることなんてありえない。だから、どんなことをするのか気になっていた。
先輩は、少し慎重に言葉を選びながら答えた。
「そうだね・・・まあ言ってしまえば雑用かな。コピーしたり、資料を打ち込んだり、お茶くみをしたり、掃除をしたり、そんな感じ。」
「ふーん、やっぱりそんな感じなんですね。」
「まあ、学生だし、勉強が本分だから、営業したり契約を取ったりとか、そういうことはできないよ。それに、このアルバイトも社員への顔見せが主な仕事だから。」
「顔見せですか。」
「ああ。将来、自分の上司となる人物と交流させて、その仲を深めさせようってことだね。僕はもうあの会社で働くことが決まってるし。」
私は驚いた。
「えっ、もう決まってるんですか。」
先輩は、さも当然のごとく言う。
「うんそうだよ。というよりか、大学に入る前から、ここに入ることは決まっていたしね。」
「へえー、そうなんですか。お父さんが決めたんですか。」
先輩は少し苦々しい表情を浮かべた。
「ああ、そうだよ・・・。」
「アルバイトの方針も?」
「ああ。」
先輩は言葉少なめだ。あまり聞かれたくないことなのだろうか。
「アルバイトは・・・楽しいですか?」
おずおずしながら聞いてみた。これで答えてくれなかったら、この質問は止めよう。
「そうだね・・・楽しくはないかな。」
「そうなんですか。大変なんですか、アルバイト。」
先輩は涼しい顔で否定する。
「いや全然。仕事は楽だよ。決まりきった雑用をやっているだけだからね。だけど・・・人間関係がちょっとね。」
私は眉をひそめた。
「先輩、まさか会社の中でいじめられているんですか?」
先輩は大笑いする。
「まさか。その反対だよ。みんなが僕に気を遣うんだ。それはそうだよね。将来、自分の上司になることが確実な人物なんだから。だから、すごくやり辛くてね・・・。」
「そうなんですか・・・。」
「これも僕が財閥の跡継ぎだからなんだよ。だからみんな、僕にへりくだる。本当はお茶くみが僕の仕事なのに、先輩社員が率先してお茶を出してくる。カステラなんかの洋菓子まで用意してくれる始末だよ。これじゃ、ただのお客さん。」
先輩の冷めた口調が印象的だ。本当に飽き飽きしているってことなんだろう。
「私なんか、うらやましいって思うなー。人からちやほやされるなんて、そうめったにできる経験じゃないですから。」
「毎日どこに行っても、何をやってもちやほやされるって、正直生きづらいよ。」
どこに行っても何をやっても・・・。
「みんな僕のことを見てないんだよ。見ているのは、僕の後ろにある望月という看板だけ。僕は望月という看板の持ち手に過ぎないんだ。」
私は伊織と出会った時のことを思いだしていた。確か新人歓迎の飲み会で、最初に水瀬財閥の話をして、伊織から怒られたんだっけ。みんな同じような思いをしているっていうわけか。
「伊織にも同じことを言われました。私が最初に伊織と会った時です。」
「そうか・・・でも彼女はまだマシなんじゃないかな。」
「どうしてですか?」
「だって、水瀬さんは財閥を引き継ぐわけじゃない。きっとお兄さんが財閥を引き継ぐんでしょう。だけど、僕は違う。僕自身が、この財閥を引き継いでいかなくちゃいけない。一緒にされたら困る。」
先輩は強い口調でそう述べた。そこには強いこだわりが感じられた。
「先輩・・・」
私は彼の勢いに気おされていた。
「ごめん・・・春香。別に春香を責めてるわけじゃないんだ・・・。さ、これも食べて。」
そう言って、先輩は甘味チキンが入ったお皿を差し出した。
「これって手が汚れるんですよね。」
「そうだけど、ナイフとフォークじゃ食べにくいと思うよ。ここはガブリと。」
先輩は、一つチキンをつまむと、文字通りカブリとかみついた。
「んっ。スパイシーでおいしいよ。さ、春香も早く食べな。」
先輩に促された私は恐る恐る、チキンを一つまみし、かぶりついてみた。手羽先を食べているみたいだ。鶏の歯ごたえのある感覚に、油と香辛料がマッチしている。おいしい。
「おいしーい。」
「でしょ。食べて正解でしょ。」
「ええ。」
しばらくの間、私はむしゃむしゃとチキンを頬張っていた。先輩も2本目のチキンに手を出し、時々ワインに口をつけていた。
私には聞いてみたいことがあった。それは、先輩がどうして家督の相続にこだわっているのかということであった。財閥を継ぐなら、楓と結婚しなければならない、それが嫌なら、家督を兄に譲って、私と結婚すればいい。そこまで家督が大事なのか・・・。ノブレスオブリージュ。それって、そんなにも大事なことなのだろうか。自分の一生を棒に振るかもしれない、そんな負担を負わなければならないほどに、大事なことなのだろうか。
「先輩はどうして財閥を継ぐことにこだわっているんですか?やっぱり、ノブレスオブリージュですか。」
先輩は少し怪訝な顔を浮かべた。どちらかというと、びっくりしているという感じだ。
「いきなり、突飛な質問だね。」
「ごめんなさい・・・答えづらいですよね・・・。」
先輩は私の言葉を遮った。
「いや、答えるよ。」
先輩は食べかけのチキンをお皿に置いた。手をナプキンで拭いて、ワインで口を湿らせる。
「結論だけ言ってしまえば、春香の言う通りなんだ。ノブレスオブリージュ。高貴な人だから、それ故に当然背負わなければならない責任。そんな言葉を誰かから聞いたんじゃないかな。例えば、水瀬さんから。」
私は、伊織からそういうことを聞いていた。他にも、それっぽいことは、あずささんが言ったことを千早ちゃんを通じて間接的に聞いている。
「それらしきことは伊織から聞きました。」
「誰が企業グループのトップになるか、それはもしかしたら、その財閥全体に大きな影響を及ぼすかもしれない。それくらい大事なことだ。だから、僕は譲れないんだよ。それに、ちやほやされた分、僕はその人たちにお返しをしなくちゃいけない。」
私は真剣に先輩の言葉に耳を傾けていた。
「なんでみんな僕をちやほやするのか。それは僕が財閥のトップになるからなんだよ。そうじゃなかったら、きっと僕なんか相手にされない。力がないんだからね。だけど、僕には力がある。そんな僕に、多くの人が『投資』をしている。僕はこの投資に結果で応えなくちゃいけない。」
「そんな義務なんて・・・」
「あるよ。悪いけど。」
ピシャリと私の言葉を遮った。
「このサークルだってそう。」
先輩は軽いため息をついた。
「僕は、ある種サークルのみんなを『買収』したんだ。そして、あのサークルを僕にとって居心地の良いサークルへと変えていった。」
変えていった?
「前はどんなサークルだったんですか。」
「あのサークルは、僕が入った時点で、出来てから1年という歴史の浅いサークルだったけど、僕が入る前は、それなりにテニスをするサークルだったらしいよ。だけど、僕が入ってから、それをやめさせたんだ。『みんなが好きなことをやればいい』って言ってね。」
「それをみんなが受け入れたんですか?」
「そう。誰も反論しなかった。それは、僕が財閥の跡取りだから。」
「そんな・・・。」
そんなことない。私には分かる。テニスをしていなくても楽しいのだ。テニスをする楽しみもあったのかもしれない。だけど、テニスをせずに部屋で過ごし、みんなでわいわいとお菓子を食べたり漫画を読んだり、ゲームをして遊ぶ、そんなのんびりとした雰囲気が好きだから、今のサークルが成立したはずなのだ。
「それは先輩の意思を受け入れたんじゃない。みんながそれを望んだんです。そうしたほうがきっと楽しいって、みんなが思ったからなんです。」
「そうなのかな。そうだといいな。」
先輩は頬杖をついて、私を見つめる。優しいようで、どこか小ばかにしたような目つきであった。
「みんなの就活、どうなったか知ってる?」
「就活・・・。」
私は知っていた。このサークルにいる先輩方の就職状況、それは先輩の「買収」を裏付けるものだった。
「まずはあずささん、例の765プロダクション、あそこはうちの財閥とゆかりがある芸能事務所なんだよ。もちろん、僕が掛け合って契約を取ったんだ。それだけじゃない。四条さん、彼女も765プロに入ったよね。今、一緒に2人はコンビを組んでる。それも僕の力だよ。」
確かにそうだ。今やあずささんと四条さんは、765プロダクションで、爆乳天然ボケコンビとして、売り出している。まだ知名度は低いが、その強いインパクトはパイレーツの再来と言われているらしい。
「響は望月フーズ。うちの財閥の系列企業に内定が決まった。小鳥さんは、望月不動産販売、これも系列企業だ。隼人は望月商事、僕が入ることになる企業だ。どう?僕は、みんなの就職の面倒を見てあげているんだ。こんなことができるのも、僕が力を握っているから。水瀬さんにはできなくて、僕にはできる。そういうことなんだよ。」
先輩・・・。
「先輩・・・もしかして酔ってます?」
こんな先輩の姿を見るのは初めてだ。酔っているからこそ、感情をぶつけられるのかもしれない。醜い先輩の姿。醜いけど、そんな姿をさらけ出してくれるのは、きっと私を信頼してくれているからなのだ。
「まあ、少しはね・・・。」
そう言って、先輩は頬杖を突きながら店の中を見回した。
「春香。」
先輩が私を見ないで呼びかける。
「はい。」
先輩はどこかを一点に見据えたまま、口を閉ざしていた。
「先輩。」
私は彼を促してみる。
しばらく無言を貫いていた。そして、彼が冷めた口調で言い放った。
「僕は・・・中毒になっているのかもしれない。」
「中毒ですか?」
先輩の意外な言葉に耳を疑った。
「そう。権力中毒。」
「権力中毒・・・。」
彼は右手でグラスをつかむと、煽るように一気にワインを流し込む。
「これは初めていうことなんだけどね。中学生までの僕は、大人しくて、引っ込み思案で、友達も少なかった。それでも僕自身はそれなりに幸せだった。高校になってからだよ。大きく変わったのは。父親から後継指名されて、楓という許嫁までつけられた。それからというもの、いろんな人が僕の周りについてくるようになった。みんな、僕の家柄が目当てなんだ。そして『望月財閥の後継者』っていう看板がね。隼人や克也もその一人。今までだったら、とてもじゃないけど、あんなタイプと友達になれるなんて想像だにできなかった。僕も友達になろうとは思わなかったし、向こうだってそうは思わないと思う。きっと彼らは僕の経歴に期待して、友達になってくれたんじゃないかな。」
「そんな・・・。」
先輩と猿渡さん、京極さんのつながりがそんなものだなんて・・・。
「先輩、私には・・・そうは見えません。京極さんも、猿渡さんも、先輩のこと親友のように思っているような気がするんです。利益をくれるから友達になるなんて・・・そんなの、京極さんたちに失礼ですよ。そんなこと聞いたら、絶対怒ると思います。」
私は強い剣幕で、先輩に反論した。
「でも、二人は僕に何度も言ってきたよね。『就職をあっせんしてくれ』って。」
「それは・・・。」
確かに、2人が先輩に就活のあっせんを求めているような口ぶりは、何度も見せていた。
「けど、それは冗談ですよ。」
先輩は頬杖をやめて、私のほうに向きなおって尋ねる。
「あれが冗談に聞こえるの?」
私は先輩から目をそらした。正直なところ、あれが冗談というのは、厳しいと思う。彼らは、本気で就職のことを気にしていたようにしか見えないのだ。
「たとえそうでなかったとしても、友達になる動機が、自分の就職なんて、それは言い過ぎですよ。本当に友達になりたくて、先輩に近づいてきたかもしれないじゃないですか。」
「春香、僕は別に隼人や克也のことを責めているんじゃないんだ。彼らがどんな理由で、どんな目的で僕に近づいてきたのか、そんなことは関係ないんだ。それが僕にとって利益になるなら、害にならないなら、僕にとってはどうでもいいことなんだよ。僕の友達になってくれるなら、いくらだって就職なんかあっせんしてくれてやる。」
「先輩・・・。」
なんかショックだった。普段の優しい先輩のイメージからは、あまりにもかけ離れた、荒んだ彼の姿だった。
「春香、幻滅したでしょ、僕に。」
「・・・・・」
私は何も言い返せずにいる。
「でもね、春香。僕にとってはこれが楽なんだ。例えるならば、ゾンビゲーみたいなものなんだよ。周りは無条件に僕のことを襲ってくる。それにいちいちまともに対処してたら、残機がいくらあっても足りなくなる。だから僕は、自分にとって害をなさない限り、適当に利益を与えて、いなすことにしたんだ。それなら、相手は適当に満足して帰ってくれる、僕も利益を得られる。そしてね、利益を与え続けるには、力がないといけない。」
「・・・それが、家督にこだわる理由なんですか。」
「そう。だから、権力中毒なんだよ。僕は・・・。」
先輩が虚ろな目で私を見つめている。
「先輩・・・失礼を承知でこんなこと言わせてください。」
「・・・いいよ。」
「私、ずっと先輩は『普通の人』だと思ってました、前からずっと。その方が、先輩には合っているし、それが先輩にとって幸せな姿なんだって。家督なんて捨てて普通の人生を歩んだ方が、先輩にとってはよっぽど幸せなんだって。」
彼はゆっくりと大笑いしている。
「さすがだね春香。僕自身、そう思っているんだ。僕じゃ身に余るよ。この地位は。」
「そういう意味じゃないんです!私・・・そういう意味で・・・。」」
私が言いたかったのは、なんとなくだけど、先輩はもっと純真だったはずだったと言いたかったのだ。だけど、権力を手に入れて、あなたはどこか変わってしまっている。
「なんとなくだけど、春香の言わんとしていることは分かるよ。僕は普通の人間だったけど、権力の中毒になって狂ってしまった、そう言いたいんでしょ?」
先輩はデカンタからグラスに勢いよくワインを注ぐと、一気に飲み干した。
「先輩!そんなに一気に飲んだら、体に毒ですよ!」
先輩はそれには何も答えない。やがて、彼は述べ始める。
「おかしくなるよ・・・。ちやほやされるって。自分が何者なのかが分からなくなる。快感なんだけど、どこか不快で、恐ろしい。そしてやがてそんなことも忘れて、全能感だけが体を満たしてくるんだ。そして、一回快感を覚えると、そこから抜け出せなくなる。本当に、麻薬みたいなものだよ・・・。」
彼の目は冷たかった。私には聞きたいことがあった。先輩にとって、私は「麻薬」でしかないのか?心の底から癒してあげることはできないのか?それは・・・千早ちゃんにしかできないことなのだろうか。だけど、聞けそうになかった。私には。
「あとで、公園に行かないか?あの作戦のことを話したいんだ。二人きりになれる静かな場所がいい。」
先輩と私は、サイネリアでの食事を終えると、二人きりになれる場所を求めて、夜の公園を目指していた。
私たちは手を繋いでいた。この時期になると、湿度も高いせいか、少し歩いているだけでもう汗ばんできてしまう。だけど、私は手を離そうとはしなかった。離したくはなかった。手を離せば、彼がどこかにいなくなってしまうような気がしたから。だから私は、たとえ手の中に汗がたまっても、その手を離そうとはしなかった。
道中、私たちは無言だった。気まずさを感じていた。私には、彼になんて言葉をかけていいのか分からなかった。彼を慰めたとしても、その言葉はきっと空疎なものになるだろう。「何をわかったふりをしているんだ」ってきっとなじられる。仮にそう言わなかったとしても、そんな目つきをされるのが、私には目に見えていた。
私たちは駅から歩いて10分程度のところにある自然公園にたどり着いた。しばらく中に入ったところに、ベンチがあって、そこで二人で腰を掛けた。
「ここなら、誰にも邪魔されないね。」
先輩はきょろきょろと辺りを見回した。確かに、辺りには人がいない。この辺りは電灯がほとんどなくて、辺りは真っ暗に近いレベルだ。むやみやたらにここを通過する人もいないだろう。
「でも、暗くて怖いです。」
私は先輩の手をぎゅっと握る。自分で言うのもなんだが、少しわざとらしい。
「大丈夫。いざとなったら、携帯のライトがあるから。」
そういうことじゃないんだけどなー。
「暗いとこ、もしかして苦手?」
「特に苦手ってわけじゃないですけど・・・別に好き好んでは来ないです。」
「だよね。じゃあ、さっさと本題話して、ここから出ようか。」
先輩がいよいよ本題へと入った。
「春香、あの作戦なんだけど・・・実行は延期したいんだ。」
「延期・・・ですか?」
どういうこと?いきなり延期なんて。
「そうだ。」
「ちょっと待ってください、あの作戦って、最後は私が楓を焚きつけるんですよね、それで千早ちゃんを襲わせる。」
「そうだよ。」
「それを延期なんて・・・じゃあ、これからどうするんですか。」
「演技は続けていてほしい。ちなみに、千早もそれで同意を取ってある。」
「いつまで続けるんですか、演技。」
「当面、といったところかな。」
当面って・・・。
「どうして延期なんですか!?納得できる説明をしてください!」
私は声を荒げた。ここで延期なんてありえないよ。もうあの作戦を発動してから4か月近くが経っている。こんなこと、はっきり言って私は苦痛なのだ。こんなことからは早く解放されたい。それに、私は楓からの信頼も得ている。状況はばっちりだ。なのに、どうして延期なのよ・・・。
「別の方法を考えているんだ。」
「別の方法?どんな?」
先輩は言い淀む。
「それは・・・言えない。」
「言えないって・・・どうして。」
「春香を巻き込みたくないからだ。」
「私、もう十二分に巻き込まれているんですけど。」
「春香、千早にもそう言われたんだけど、これはそういう性質の問題じゃないんだ。とにかく、春香は立ち入らないほうがいい。千早にも同じことを聞かれた。どうして、自分は新しいプランを聞いちゃいけないのかって。千早は納得してくれた。僕を信頼してくれたんだ。だから、頼む!僕を信頼してもう少し待ってほしい。」
そんないきなり言われたって・・・。
でも、どうしようもない。先輩が延期してくてと言っているのだ。それに従わないわけにはいかない。
「頼む、春香。」
暗い中でもわかる。彼は頭を下げている。私に対して。
私は少し呆然としながらも答えた。
「・・・わかりました。もう少しだけ・・・待ちます。」
先輩は頭を上げた。そして私を抱き寄せた。
「ありがとう、春香!」
いきなりのことで驚いた。彼の感触、息遣い。抱き寄せられるなんて久しぶりだ。とてもドキドキする。
「あっ。ごめん、春香。いきなり過ぎだったね。」
硬直した私の様子を感じて、驚かしてしまったと先輩は謝罪した。
「いえ、そうじゃないんです。私うれしくて・・・。そういえば、先輩にぎゅってしてもらえるの、本当に久しぶりだったなって思って・・・。」
そうだ。こうやって抱き寄せられるのも本当に久しぶりなのだ。なのに、千早ちゃんは・・・。この間、彼の肉体にむさぼりついていたのだ。私だってまだ感じたことのない、彼の愛をその細い体で全面に受けたのだ。
「春香、ごめんな。寂しい想いばかりさせて。」
私は先輩に聞きたい。どうして、千早ちゃんを抱いたの?それも演技?そんな演技いらないよね?先輩は、私と結婚してくれるんだよね?本当だよね?嘘ついてないよね?裏切らないよね?
「・・・いいんです。」
私には。聞けない。私は先輩に嫌われたくなかった。
「春香、いつか必ず、迎えに行くよ。だから、今は我慢してほしい。」
先輩の言葉に力が入る。これはきっと「演技」ではないはずだ。そう信じたい。
「春香・・・今日はもう帰ろう。」
そう言って、先輩は私の手をつかみ、ベンチから立ち上げようとする。だけど、私は彼の手を精一杯つかんで、その場を動かない。
「先輩・・・今日は帰りたくない。」
私も抱いてほしい。ホテルならいくらでもあるはず。先輩が本当に私のこと愛してくれてるなら、私のこと抱けるよね?
先輩は力を込めてベンチに座って動かない私に、声をかけた。
「春香・・・今は堪えてほしい。」
どうして・・・どうして「堪える」必要があるの?私には分からないよ。
絶望感が体を襲い、腕から力が抜けていく。何もかもがわからない。考えたくない。先輩はそんな私を優しく抱き起した。
「さあ、帰ろう。今日はごめんね、変なこと聞かせちゃったよね。」
愚痴のことだろう。
「いいえ、気にしないでください。」
「本当に、春香にはそんな話聞かせるつもりはなかったんだ。僕も・・・少し疲れていた。だから柄にもないことをしてしまった。できれば、忘れてほしい。」
「・・・忘れます。」
「私には」聞かせるつもりはなかった。じゃあ、誰ならあなたの愚痴を聞けるのよ。千早ちゃん?やっぱり私は、あの子には勝てないの?
忘れたかった。見なかったことにしたかった。今日のことは、全部、何もかも。