第6節 雪村楓という人
結局、何日か経って、千早ちゃんは家を出ていく決断をした。別に私はそれに対して賛成とも反対ともいわなかった。「好きにすれば」それが私の回答だった。
千早ちゃんは引っ越しの準備を始めた。新しい部屋を探し始めたのだ。だけど、当然その間にも千早ちゃんは家にいる。
私はあの日以来、千早ちゃんを心の奥底で憎むようになっていた。何とかして、それを抑えよう、気取られぬよう努力したけど、それは多分無駄だったのだと思う。
千早ちゃんなんて死んでしまえばいい。
そんな悪魔のような囁きが、どこからともなく聞こえてくる。私はそんな悪魔の声を振り払おうとするのだが、次第にそんな努力も払わなくなり、心地の良い音楽として受け入れるようになってしまっていた。
私も演技をしていた。千早ちゃんが先輩と一緒になり、愛し合うという演技をしているのと同じように、私は雪村さんに近づき、千早ちゃんへの悪口を言うことで、彼女と仲良くなり、陰で操作をするのが私の役割だった。
だけど、千早ちゃんが演技に熱中するうちに演技かどうかが分からなくなっていたのと同じように、私もそれが演技なのかは分からなくなっていった。
私には、千早ちゃんそして先輩が何を考えているのかわからない。二人が親しげに話している中で、どんな会話が交わされ、どんなことが約束され、どんな風に裏切られていくのか。想像もつかなかったのだ。
私はようやく楓の気持ちが分かるようになってきた。好きな人がいなくなり、そして知らず知らずのうちに他の人に取られていく恐怖、悔しさ、焦燥感、今までは全て他人事であったのに、今では強い現実感を伴って、私に襲い掛かってくる。
雪村楓という人間を見ていくうちに、私は徐々に楓という人を理解し始めていた。彼女は、いや彼女「も」というべきなのかもしれないが、ブルジョア一家の犠牲者だった。
楓には兄弟がいた。年の離れたお兄さんだった。長男は雪村家の家督を継ぐ人間だから、大切にされたそうだ。その反面、女の子の楓は大切にされることは無かった。彼女はいつも独りぼっちだった。両親は忙しく働いており、兄も勉強だ仕事だ、と追われていた。
親、そして兄から愛情を受けて育つことのなかった彼女には、一つだけ友達と呼べるものがあった。それが「お金」だった。楓は昔から大金を学校に持ち歩いていた。それも1万円とか2万円とかではない。数十万円が入った財布がランドセルに入っているような子供だった。
彼女は、お金で友達を作れることを知った。友達になりたい子には、その子が望むものを買ってあげて、自分と仲良くすればいいことがあると、潜在的に植え付けた。そうやって彼女は「子分」を作っていったのだ。
そんな彼女を周りは誰も注意することができなかった。雪村家は、教育界を握る黒幕の一つ。当然、楓が通っていた学校は、雪村家の息のかかった私立学校。そんな高貴な身分の彼女の機嫌を損ねれば、教員たちも自分の首が危ういことぐらいわかっていたのだ。
やがて、楓は高校に進学した。家族が楓に与えた使命は、閨閥政策に関わることだった。楓には許嫁が与えられた。それが望月俊という人だった。彼女にとって幸運だったのは、許嫁として与えられた彼が、とてもカッコよくて、優しい人だったということだった。楓はすぐに彼の虜になった。
でも、その人は楓を圧倒的にしのぐほどのお金持ちだった。彼に「お金」は通じない。「お金」をちらつかせることでしか人を扱ったことのない楓は、どうやって彼の気を引けばいいのか分からなかった。楓は愛を知らない。愛されたことのない人に、他人に愛を与えることなんてできるはずがない。
楓はとにかくわがままを言うことで、彼の気を引こうとした。望月先輩は、他人に何かを望んだり、こうしてほしいとか言って我を出すタイプではない。もし先輩がそういうことを口に出すタイプの人だったら、楓も愛情のかけ方を理解できたかもしれない、相手に尽くすということを学べたかもしれない。でも、楓はそうしたことを学ぶことはついにできなかった、そして、徐々に先輩は愛をくれない楓に愛想をつかしていった。
当然楓は焦った。いくら許嫁に指名され、将来の結婚が見えているといっても、先輩には楓と結婚せず家督を捨てるという選択肢が許されていた。楓にとって重要なのは、望月先輩と一緒にいられるかどうかだった。もし先輩が家督を放棄してしまえば、楓は先輩といられなくなる。
だから楓は、先輩に群がってくる女たちに悉く対峙していったのだ。楓からすれば、先輩をどこの馬の骨とも知れぬ人間に奪われたくないという強い気持ちがあったのだ。だけど、楓はどうすれば先輩の心をつかめるか分からないままだった。楓には、焦りだけが募っていく。
とはいえ、これまで軽い気持ちで先輩に好意を寄せる人間はいても、先輩を本気で落とそうとする人間は現れなかった、それと同様に、先輩が本気で心の底から好きになるほどの人も現れなかった。
ところが、先輩が大学2年生になって状況は変わった。私と千早ちゃんが、テニスサークルに入部したからだ。私が先輩に猛烈なアタックを仕掛け、先輩がそれに反応し始めると、楓はますます焦り始めた。当然、楓はいろいろな手段を使って妨害に来るのだが、それも功を奏さなかった。
やがて、先輩は私ではなく千早ちゃんを選んだ。そして千早ちゃんによる、猛烈なアタックが始まった。無論、これは演技だ。どこまで演技なのかは定かではないが。とにかく、演技だった。楓はこれまでも精神的に心休まる日のない日々を過ごしていたのだが、先輩が千早ちゃんにのめりこんでいくたびに、その焦りはますます募っていくようだった。
当然、私たち3人はそうした楓のメンタルを熟知している。その上で、楓の精神を崩壊させて、「暴走」させようと試みたのだ。
こういう状況だったから、千早ちゃんを憎んで、楓の心に取り入るという私の役割は、とてもうまくいっていた。
楓の精神は崩壊寸前だった。あと一押しすれば、楓は何らかの行動を起こさざるを得なくなる。私はそう見ていた。
6月中旬のある日のことだ。
この日私は部室で楓をカラオケに誘った。
楓とカラオケに行くことはたまにあった。彼女は歌好きだったし、私も歌は好きなほうだ。カラオケに行ったあと、晩御飯を一緒に食べるのが習慣になっていた。行く場所は大抵ゆっくりと話ができるファミレスだ。ここなら、ほかの部員を気にせず話ができる。私が楓に工作をするには、絶好のタイミングであった。
この日も例のごとく、多摩センターのカラオケで2時間ほど歌った後、夕食を食べに近くのサイネリアに入った。
「いつも通り混んでるね。」と私は言った。
カラオケ後のファミレスは大抵混雑している。時間も午後7時前といい時間だというのもある。中亭大学に近いとあって、学生で込み合っているのが特徴的だ。
「そうね。まあでも、もう一つのサイゼより空いているから、いいんじゃない。」
楓はそういうと、受付待ちの一覧表に名前を書き込んだ。この分なら10分程度で中に入れるという判断だった。
楓の判断は正しかった。5分程度で、私たちは呼ばれたのだ。混雑の関係で喫煙席しか座れなかったが、私たちにはお構いなしだった。
「はいメニュー、」
席について、まず私は楓にメニュー表を差し出した。自分もメニュー表を開く。
「ありがとう。」
楓はパラパラとメニュー表をめくる。私はもう決まった。ローマ風ドリアとドリンクバーだ。しばらくして、楓も決まった。私と同じのようだ。私がボタンを押して注文をする。いつもこんな感じだ。楓はお金で友達を買うタイプの人間だ。こちらから下手に出ないと、楓が心を開くことは無い。だから、注文したりとかそういう細かいことは全部私がやるのだ。その代り、お代は奢ってもらう。私にとっては、経済的にやさしいから、それで全然よかった。
「それにしても、楓、AKBうまいよね。『ヘビーローテーション』とか最高だったよ。」
話題は今はやりのAKBだ。6月9日、第3回目のAKB総選挙が行われ、前田敦子が大島優子を破って、2年ぶり2度目のVを獲得したことが話題になった。楓はどちらかというとAKBというやり方に対して批判的だが、歌は好きみたいだった。
「でしょ。やっぱり私歌唱力あるんだわ。歌手デビューでも目指してみようかな。」
「アハハ。本気でやるなら、養成所通わないとね。」
楓は適当にほめておけば、機嫌がよくなって話が進みやすいのだ。
「んー、まあそこまでやりたくはないかな。出るとしても、のど自慢くらいかな。」
「それでもNHKデビューはすごいよ。頑張ってね、応募しておくから。」
「こら、待て待て、出るとは言ってないわ。」
「わかってる分かってる、冗談冗談。」
そんな話をしていると、ローマ風ドリアが早速やってきた。サイネリアは、料理が出てくるまでが早いのが取り柄だ。
私たちはアツアツのドリアを食らい始めた。
しばらく無言であったが、私がその沈黙を破るがごとく、口を開いた。
悪魔が私のもとに下りてくる。
「今度、千早ちゃん家を出ていくことになったの。」
「へえー、そうなんだ。」
楓は驚いたという表情をしていた。
「やっぱり、俊のことが原因?」
「うん、そうね。」
楓の中では、もう私はライバルとは見られていない。それはそうだろう。散々、千早ちゃんと先輩がイチャイチャして、私は完全に捨てられたような体になっているのだ。ライバルなんかになりようがない。実際捨てられているし。
「それに正直な話、千早ちゃんに取られるくらいなら、楓と結婚してほしい。正直、千早ちゃんむかつくんだよ。」
と常日頃公言しているのだから、楓が警戒感を解くのも当然のことだった。
「春香はもう俊のことは狙ってないんでしょ。」
「狙ってない狙ってない。だって、狙ったって当たらないんだもん。だったら、ほかのことして遊んでたほうが全然マシ。」
というのも、私の公式での態度だ。楓の警戒感を解くにはもってこいだった。ここまでは割と普段と同じ会話だった。
「それにしても、ずいぶん急なのね、如月さんが家を出ていくって。というより、今まで一緒に住んでたことが驚きなんだけど。」
「一応、親友同士だったしね。シェアハウスしてたほうが家賃が安上がりで済むし、奨学金をもらってる貧乏学生にとっては、理にかなっていたわけ。だけどね、今度ばかりはもううんざりだよ。」
「どうして?」
楓はドリアを口に運びながら聞いてくる。ここが勝負どころだ。
「千早ちゃんね・・・ついに、先輩と体の関係を持ったの・・・。」
「はあーっ!?何それ!?信じられない!本当なのそれ?」
予想通り食いついてきた。
「うん。この間ね、千早ちゃんが無断で朝帰りしてきたことがあったんだよ。千早ちゃんが朝帰りするなんて、今までなかった。それで翌日問い詰めたら、美希とカラオケでオールしたっていうんだよ。でも嘘なのがバレバレ。美希と口裏合わせてたみたいだけど、言っていることに矛盾があったしね。それでこの前、千早ちゃんを締め上げたんだよ。そうしたら白状したよ。先輩とセックスしたって。」
「信じられない・・・私というものがありながら・・・。」
楓は本当に放心状態になっていた。体から魂が抜け落ちてしまったかのようだ。目は虚ろだし、口は開きっぱなしだ。
「俊は・・・『結婚するまではそういうことはしないでおこう』って言ってたんだよ!お互い純潔を守るって。なのに・・・俊ってきたら・・・。」
楓は涙をぽろぽろと流しいる。その顔は紅潮し、唇をかんで、顔をゆがませている。狙ってやっているとはいえ、楓の姿はあまりにも不憫だ。
「楓・・・たぶん、千早ちゃん本気で先輩と結婚するつもりみたいだよ。」
「えっ・・・。冗談でしょ。」
私は深刻な顔で、楓に訴えかけた。
「冗談じゃないよ。千早ちゃんが自慢してた。『先輩は私と結婚するためだったら、家督を捨ててもいい』ってベッドの中で話してたって。千早ちゃんの態度が、あまりにもふてぶてしいからさ、私も頭に来ちゃって、千早ちゃんのことビンタしちゃったんだよね。それで千早ちゃんも怒って喧嘩になっちゃって。」
「それで・・・如月さんが家を出ていくことになったのね。」
「そういうこと。」
本当はこんな話をするつもりではなかった。こんな話をすれば、楓はきっと耐えられなくなることは分かっていた。
「ねぇ、楓。私と同じように先輩のこと諦めたら?諦めて、先輩のお兄さんと結婚すればいいのよ。そうやって義務を果たしていくしかないんじゃないかな。」
「ふざけないで!」
楓が思い切り机をたたいだ。食器が激しいうなりを上げる。
「私がどんな思いで幼少時代を過ごしてきたか、春香知ってるでしょ。家族には愛してもらえず、友達だってお金で繋いできた人間しかいない。私はずっと独りぼっちできた。俊は私の心を満たしてくれたの。砂漠の中のオアシスのようにね。彼は私を愛してくれていた。だけど、邪魔者が入ってきて、どんどん彼の心を乱していくの。そんなことは私は許さない!」
「ごめんね、楓。だけど、状況はかなり厳しいと思うの。」
楓はドリンクバーでとってきたジュースを一気に流し込む。
「そんなことは分かってる。だから、何とかしなくちゃいけないのに・・・。」
「もし、先輩と結婚できなかったらどうするの?先輩のお兄さんと結婚するの?」
楓は眼光鋭く訴えてくる。
「そんなの、絶対ごめんだよ。そんなことになるくらいだったら私、死んだほうがましよ。こんな人生。」
楓は言い放つ。その眼には涙が浮かんでいるように見える。彼女の呼吸が荒くなる。
「千早ちゃんも同じようなことを言ってたよ。『先輩と結婚できないなら、もう死んじゃってもいいかな』って。千早ちゃんも、先輩に相当依存しているみたいだから。」
「あんたはどうなのよ?」
楓が私に聞いてくる。
「私はもう諦めたから・・・。諦めると、なんだか胸がすくように軽くなったよ。」
きっと軽くなるのかもしれない。空虚になるといったほうがたぶん正しいのだろう。私は半分諦めていて、半分は固執しているから、よく分からないんだけど。
「私は絶対諦めないよ!彼のこと!」
「でもね、千早ちゃんも同じだと思うからね、結構難しいかもね。」
楓は机に手のひらを押し付ける。
「あんたはどっちの味方なのよ。」
間髪入れず応える。
「私は楓の味方だよ。だから言っているんだよ。彼のことはあきらめたほうがいいって、そうでなかったら、千早ちゃんが生きている限り、彼と結婚なんてできないよ。」
「だから困っているんじゃない。何か知恵を貸しなさいよ。」
私は困惑したような表情を浮かべる。
「知恵ってもね・・・。私には千早ちゃんがいなくなることくらいしか思いつかないよ。悪いけど、楓にはそれくらいのことが起こらないと勝ち目はないように思うし。」
「そんな・・・。」
楓から力が抜けていくのがわかる。楓が感じているのは絶望感だ。もうどうしようもないという、虚無感、それが体を覆っていくのだ。
「私・・・私・・・うわーん!」
楓は机に突っ伏して、号泣し始めた。
私は対面の席を離れ、楓の隣に座ると、頭をなでながら彼女に覆いかぶさるようにして慰めた。
「辛いよね・・・私も同じだよ。同じ気持ちを味わった。だからわかるよ・・・。」
彼女は微塵も声を押し殺さずに号泣している。でも泣きたいのは、こっちも同じなのだ。
「春香・・・私・・・あの女のこと、許せない!」
あの女、つまり千早ちゃんのことだ。
「うん。」
「私・・・絶対につぶすから。あの女。」
「うん・・・わかった。」
その後も、彼女は泣き続けた。私はそれをひたすらなだめるだけだった。蔑んだ眼で彼女を見下ろしながら・・・。
結局、私は雪村さんのことを好きになれなかったのかもしれない。愛を知らない可哀想な人。きっと根は悪くない人なんだろうし、もしかしたら、私たちに望月先輩絡みで何もかかわりがなければ、普通の友達としてやっていけたのかもしれない。
だけど、楓は、結局私の恋のライバルでしかない。私は工作員として、この子の人生に関わってきたけど、結局、だからこそ好きにはなれなかった。
彼女のことは哀れだと思う。だけど、私は楓のことを助けたいとは、ついに思わなかった。