第7節 妊娠
それから約一週間後、6月下旬のある夜のことだった。
この日、私はバイトを終え午後9時ころに帰宅した。本当は千早ちゃんが、夕飯を作る当番だったのだが、どういうわけか千早ちゃんはまだ帰っていなかった。
嫌な前例が頭を過る。5月末のあの夜、千早ちゃんは朝帰りをした。そのことが、頭から離れない。もしかしたら今日もそうなのではないか。今頃、千早ちゃんは先輩に抱かれているのではないだろうか。
そんなことを思うと、虫唾が走る。私は心の静穏を取り戻すために、急いでご飯の支度を始めた。とにかく、何かをしてないと気が気ではなかったのだ。
それからしばらく経った頃だ。私の携帯電話に、望月先輩から電話がかかってきた。私は喜び勇んで彼からの電話を受けた。
「もしもし。」
「もしもし!?春香!?今電話大丈夫?」
どうしたのだろうか。随分狼狽した様子だった。
「ええ、大丈夫ですけど・・・。何かあったんですか?」
「春香、落ち着いてよく聞いてくれ・・・。千早が・・・倉庫で楓に襲われた。」
「えっ!?」
突然のことに、驚きを隠しきれない。本当に、あの子やったのか!
「今、僕は八王子総合病院にいる。とにかく、今からこっちに来てくれないか。」
「あっ、は・・はい!千早ちゃんは?」
「無事だ。少しケガしているけど命に別状はない。」
「そ・・そうですか・・よかった・・・。」
「とにかく詳しいことは病院で。」
「わ・・わかりました。」
そういうと、半ば強引に電話を切られてしまった。
千早ちゃんが、楓に襲われた・・・。確かに私はそれを願っていた。そしてそれを唆した。こういう展開になるのは、ある種必然と言えば必然だった。
しかし私は先輩の狼狽ぶりが気になった。確かに作戦は「延期」されることになったとはいえ、こういうシナリオは想定通りだったはずだ。なのに、どうしてあそこまで慌てふためいているというのか・・・。
とてつもなく嫌な予感がする。
何もわからない。とにかく、今は言われたとおりにするしかない。私は、千早ちゃんの着替えと一通りの日用品をまとめて、八王子総合病院へと向かった。
動悸が止まらなかった。連絡を受けた時間が遅かったから、私が乗ったのは終バスだった。その日は、病院に泊まることになるだろうと覚悟した。
バスの車窓から、電気のついた住宅街が見える。私はその景色を呆然と眺めながら、自分たちの身に起こったことを考えていた。
おそらく、千早ちゃんは楓から呼び出されたのだろう。先輩は、千早ちゃんは倉庫で襲われたって言っていた。千早ちゃんが自分から倉庫に行って、そこで偶然たまたま楓にあったなんてありえないから、千早ちゃんは呼び出されたのだ。千早ちゃんが呼びだしたとも考えにくいし。
だから、千早ちゃんは先輩を呼んで、作戦を発動した。そういうことなのだろう。でも、先輩は止めなかったのだろうか。明らかに楓が千早ちゃんを襲うとわかっていて、それでどうして先輩はそんな作戦にゴーサインを出したのか。それに、先輩が電話口で慌てていたのも演技とは思えない。まさか・・・千早ちゃんは先輩に無断で、楓と会っていたのではないか・・・。
すべては病院で明らかになるはずだ。幸い・・・なことに千早ちゃんは無事らしい。
複雑な心境を抱えながら、バスに揺られること20分、私はようやく八王子総合病院にたどり着いた。
病院のエントランスに入り、夜勤の看護師に尋ねる。
「すみません。如月さんの病室はどちらですか?私、如月さんのルームメイトの天海というものです。」
「ああ、先ほどの患者さんのお連れさん?如月さんの病室は、102ですよ。すぐそこです。」
そういって看護師は、非常口の緑色ランプに照らされたすぐ先の個室を指さした。
「ありがとうございます。」
私はすたすたと歩き、102の病室前にたどり着いた。深く深呼吸をする。なんだか、とても恐ろしい。こうなることは分かっていながらも、実際にその結果が実現してしまうと、こんなにも恐ろしいことはないのだ。体が恐怖で震えているのがわかる。
コンコン。部屋をノックする。
「はい。」
なんだ?望月先輩の声?
「天海です。」
「春香・・・入っておいで。」
「失礼します。」
引き戸を開けると、そこにはベッドを斜めにして、上体を斜めにして、ベッドにもたれかかる千早ちゃんと、その脇でパイプの丸椅子に座り、彼女を看病している先輩の姿があった。千早ちゃんの右腕には、痛々しく包帯がまかれている。
「千早ちゃん・・・。」
戸を閉めて、私はゆっくりと彼女の元へ近づいていった。千早ちゃんは、私に目を合わせようとしない。
「千早ちゃん・・・何があったの?」
「それについては僕から説明しよう。」
先輩が話に割り込んできた。
「とりあえず座って。」
先輩は自分の横にもう一つ丸椅子を置くと、私に着席するよう促した。私はそれに応じて、席へと就いた。
「千早は、楓に呼び出されたんだ。」
やっぱり、そういうことだったのか。
「それで、楓が指定してきた倉庫へと向かった。そこは、普段人気が全くない、廃倉庫だったみたいだ。そこで千早は、楓に襲われたんだ。千早の右腕にある傷は、その時にできた傷。幸いにも、包丁がかすった程度で、すぐに良くなるらしい。」
「楓は・・・どうなったんですか?」
私は彼女の身を案じた。だけど、望月先輩から、放たれた言葉は衝撃的なものだった。
「楓は・・・死んだよ。」
死んだ!?
「死んだってどういうことですか、まさか。」
「包丁で襲われた千早は当然抵抗した。その時、不運にももみ合った末に、包丁が彼女の腹部に刺さったんだ。そのショックで彼女が倒れこみ、包丁が内臓を深く傷つけ、致命傷になったらしい。」
そんな・・・。
「でもこれは正当防衛なんだ。楓が一方的に襲ってきた。千早は自分の身を守るため仕方なく・・・。」
そんな・・・。どうして、こんなことに・・・。そうだ、先輩の救助は間に合わなかったのか?
「先輩、千早ちゃんから事前に連絡はあったんですか?」
「それが・・・」
「しなかった。」
千早が唐突に割り込んできた。
「どうしてよ、千早ちゃん。どうしてそんな危険なことをしたの!?」
「・・・・・。」
千早ちゃんは黙り込んでいて、話してくれない。
「・・・ごめんなさい。」
千早ちゃんは、一言謝罪の言葉を述べたきり、その理由を語ってくれそうになかった。顔を沈め、私たちから見えないようにしている。
しばらく無言が続いていた。重い沈黙だけが、場を支配する。やがて、千早ちゃんがその静寂を破った。
「春香、私、春香に謝らなくちゃいけないことがあるの・・・。」
「何?」
うつむいていた私は、千早ちゃんの方を見つめた。彼女は、ゆっくりと負傷していない左手を自分のお腹の方にあてた。なんだ?何をしているんだ?
「春香・・・私・・・妊娠したの。」
「えっ。」
にんしん。一瞬、その言葉の意味を見失った。それくらい唐突で、ショックだった。
「僕の・・・子どもだ。」
隣で俯きながら、先輩が小さくつぶやいた。
「そんな・・・ことって・・・。」
先輩が突然椅子から飛び出し、椅子を脇に寄せて、地面に伏して土下座した。
「ごめん!春香!」
頭が真っ白になる。何も考えられない。千早ちゃんが、先輩の子供を・・・妊娠?
「千早ちゃん・・・中に出させたの・・・?」
きっと今の私の顔は、ひどくゆがんでいるんだろう。自分でもわかる。憎悪でおかしくなりそうなそんな顔だ。
「危険日は過ぎていたの・・・。だから、大丈夫だと思った。それにあの時はお酒で酔っていたから・・・自制が効かなかった。・・・ごめんなさい。」
「春香!すまない!」
隣で先輩の強い声が響く。千早ちゃんは、私から目をそらし、私たちがいない左側の隅っこを見ていた。
「そっか・・・そういうことだったんだね・・・。」
なんだか馬鹿みたい・・・。全部千早ちゃんの思惑通りだったわけだ。
「春香・・・。」
「おめでとう、千早ちゃん!これで、心置きなく先輩と結婚できるね!楓はいないし、彼の子供を身ごもった以上、私に勝ち目はないもんね。」
「春香・・・私は・・・」
涙がほほを伝う。なんだかスカッとする。私は完全に負けたのだ。完膚なきまでに叩きのめされると、逆にもやもやしないんだ、初めて知ったよ。
震える声で言った。
「千早ちゃん、ちゃんと先輩をフォローしないとだめだよ!先輩も、千早ちゃんを幸せにしてあげてくださいね、彼女を泣かしたら、承知しませんからね。」
「春香、本当は。」
「じゃあ、あとは夫婦水入らずで、お邪魔虫の私はかえりまーす。じゃあね、千早ちゃん、お大事に!」
そう言って、私は席を立つと、千早ちゃんの呼びかけも無視して、走りながら部屋を去った。
正面玄関を出て、とりあえずバス停まで走る。先輩が追いかけてくるのがわかる。
「春香、待ってくれ!」
「来ないでください!」
私はゆっくりと減速して立ち止まる。それに合わせて、先輩も速度を緩めた。だけど、止まる気配はない。
「春香、待って聞いてほしいんだ。」
「先輩、声をかける人を間違ってますよ。今は彼女のもとについてあげるべきでしょう?こんなところにいていいはずがないですよ。」
「こんなつもりじゃなかった。」
彼は私のすぐそばまで来ている。私は振り返った。
「こんなつもりじゃなかったとしても、結果は結果です。今大事にするべきなのは誰か、賢いあなたなら分かる筈でしょ。」
「春香、謝らせてほしい。」
彼は私の1メートル手前まで来ていた。
「さっき、謝ったじゃないですか。私はもうそれで十分ですよ。」
「何かほしいものはあるかい。この埋め合わせは、絶対に取る。」
「だったら、一人にしてください。今は、誰とも話したくない・・・。」
「春香・・・。」
「そうだ、ほしいものありました。」
「何だい?」
「千早ちゃんの安全です。千早ちゃんは、正当防衛とはいえ人を殺めました。その責任は重い。それに経緯が経緯だけに、きっと彼女は針の筵になる。マスメディアにも嗅ぎつかれて叩かれるかもしれないし、このまま学校にいられるかどうかもわからない。千早ちゃんには、夢があるんですよ。あなたも知ってますよね。あなたの力で、千早ちゃんを守ってあげてください。それが・・・私のお願いです。私も、できる限りの協力をしますから。それでは、失礼します。」
私はまたくるりと振り返ると、前へ向かって歩き出した。どこへ行くとも知れずに。先輩も私の後を追うように歩き始めた。
「わかった。春香の望み通りにしよう。タクシーを手配するよ。もうバスもないはずだ。」
「いらない!」
私はまた立ち止まった。そして後ろにいる先輩に向けて言った。
「お願い、もう放っておいて・・・。」
「じゃあ、どうやって家まで帰るんだ?」
「・・・駅の近くまで行って、そこでどこか時間のつぶせる場所を探します。あとは始発で帰りますから。」
私は前へ向かって歩き出した。先輩がついてくる気配はなかった。
涙が止まらなかった。千早ちゃんの「裏切り」は完璧だった。最初からすべて仕組まれていたのだ。今回の計画が始まった時から。
千早ちゃんは、敢えて自分が愛される役を演じるという「役得」を得た。それは、彼女が正当に望月先輩にアピールする機会を得るためだった。そして、彼女は先輩の心を少しずつ、その持ち前の「魅力」でアピールして、そしてハニートラップを仕掛けたのだ。
危険日を過ぎたと偽って、交わって、それで既成事実を作った。千早ちゃんは、きっと正当防衛なんかじゃない。最初から楓を殺すつもりだったのだ。彼女が生きていれば、どんな妨害をされるか分からない。それくらい、確かに楓の千早ちゃんに対する怨念は凄まじかった。
だから、千早ちゃんは楓を殺したのだ。先輩を呼ばなかったのは、きっとそのためだ。先輩が駆けつけてしまったら、楓を殺す機会を失ってしまう。正当防衛に見せかけて殺すためには、先輩は邪魔だった。先輩が全て手を打ってくれることも計算の内だ。きっと、望月先輩はその持てる力を使って、今回のことをもみ消すだろう。そうすれば、あれよあれよという間に、結婚までたどり着ける。千早ちゃんの身が今後どうなるかは分からない。だけど、きっと何とかなるのだろう。
私ができることは、何もない。もう吹っ切れた。完全に吹っ切れた。私は負けた。望月俊という人間をめぐる争いの、完全なる敗者だった。
だとすれば、私ができることといえば、千早ちゃんを祝福することでしかない。それが、敗者としての役割だ・・・。
その後、千早ちゃんはしばらくの間完全に世間から姿を消すことになった。千早ちゃんは、翌日から取り調べを受けたが、当然白だった。まず楓の腹部に突き刺さっていた包丁は、楓が事件当日に買ったものだということが明らかになった。また、楓の携帯の発信履歴から、楓が指定の倉庫にまで呼びつけたことも明らかになった。後は千早ちゃんの証言以外に証拠となるようなものはなく、千早ちゃんの正当防衛は何の疑いもなく認められた。
先輩は私との約束を守り、今回の一件については、完全な情報シャットアウトに成功した。マスコミのいたるところに圧力をかけ、今回の事件について報じることを阻止できた。そして、学内の噂でも、この事件のことは全く聞かなかった。完全に封じ込めに成功したようだった。
そしてテニスサークルはついに解散となってしまった。こんなことになってしまった以上、騒動の原因であるサークルを続けておくことなんてできるはずもない。サークル内では、解散の理由について明示されなかったから、色々な憶測を産んでいた。
千早ちゃんは、しばらく休学することになった。こんな騒ぎとなってしまった以上、普通に大学に通い続けるわけにもいかなかった。それに先輩は、しばらくの間は千早ちゃんの存在を世間から隠しておくつもりのようだった。いつか結婚することになるとはいえ、許嫁が死んだあとすぐに「できちゃった結婚」となれば、どこかに嗅ぎつかれるかもしれない。とはいえ、いつまで休学するのか、それも決まらなかった。
そして千早ちゃんは、家から出ていくことになった。先輩がホテルに匿ってくれるらしかった。
こうして私は独りぼっちになってしまった。でも全部自業自得だ。千早ちゃん憎しで、全部手順を無視してしまったから、こんなことになってしまったのだ。テニスサークルはなくなり、千早ちゃんも先輩の事実上の庇護下に入り、私は先輩も失った。
何もかも失った。
今の私に残されているものは・・・何もなかった。