第2節 命のやり取り
生理が来なかった。
私は特に生理が遅いとか、そういう体質ではなかった。なのに、生理が来ない。こんなことはかつてなかったことだった。
妊娠・・・。その可能性が頭を過る。正直なところ、私には心当たりがあった。5月末、先輩に抱かれたとき、私は酔った勢いで彼に中で出させてしまったのだ。あの日は、もう危険日は過ぎているはずだった。だから、彼が中に出しても大丈夫、瞬間的にそんな判断があった。
だけど、その後になってから不安が襲ってきた。確かに危険日は避けたはずだ。だが、それを避けてから、あまりにもまだ日が浅かった。だからもしかすると・・・。そんなきらいがあった。
もし妊娠していたら・・・。考えるだけで恐ろしい。すでに春香には、あの日先輩と愛を交わしていたことが露見しているのだ。きっと、「生理が来ない」という私の体の変化に、気づいてしまうかもしれない。いや、気づかないはずがない。私と春香は、これまでずっと寝食を共にしてきたのだ。そんなことに、春香が気づかないはずがない。今は大丈夫でも、いつかは気づいてしまう。
もし私が・・・妊娠してしまったら、先輩が春香を選ぶという道がなくなる。そんなことになってしまえば・・・私は、春香をだました「裏切者」ではないか。いや、もう一度私は春香を裏切っているのだ。彼との関係を演技にとどめるとした、その約束を破り、私は彼との愛にはまってしまった。
だから、私は彼のことを何としても、春香に譲らなければならない。なのに、妊娠なんてことになれば・・・。
妊娠検査薬の結果は、残酷なものだった。
私は陽性。妊娠という事実を示していた。それを知った時には愕然とした。たった一回、一度だけ愛を交わしただけなのに、どうして妊娠なんてしてしまうのか。
とにかく、これはまずい。何とかしなければ。けど、何とかすると言ったって、どうしようもない。そう月日が経たないうちに、その事実はみんなの知るところとなるだろう。かといって、堕胎するわけにはいかない。堕胎なんて、人殺しじゃないか。
私は、かわいい妹を見殺しにした。その上、自分に宿った子供まで殺してしまうとなれば、私はもう日の光の下で歩くことなんてできない。
先輩に相談しよう・・・。いや、ダメだ。そんなことをしたら、先輩は責任を感じて、私と結婚しようと言いだすかもしれない。そんなことになったら私は・・・。春香にどんな顔をして会えばいいというの・・・。
春香の言っていることは正しいような気がした。先輩は、春香より私の方を好んでいる。確かにそんな気がするのだ。そして、春香の言う通り。3人が一緒に仲良く暮らすなんて出来はしない。
先輩には、私よりも春香を好きになってもらう必要があるのだ。だけど、どうやって?私が、どうやって自分よりも春香をとアピールするのだろうか。とんでもない矛盾だ。
私は死ぬしかないのかもしれない。そんなことを思い始めていた。春香があの時言った言葉、「雪村さんと刺し違えて死ぬ」。あの言葉が脳裏から離れない。
怖かった。「死んでよ。」そう言い放った春香、春香に言われて顔を上げて、見上げた春香の顔は、あの時のような、いじめられていた時に彼女が見せていた、能面のような死の顔だった。
私はあれを見たとき、心の底から嫌悪感が湧いてきた。「もう出ていったほうがいい?」と聞いたのは、あれは私が怖かったからだ。そしてその時私は、初めて春香の『殺意』を感じたのだ。あのままずっと、能面のような顔で見続けられるのだと思うと、耐えられなかった。
私が犯した罪の大きさを改めて知った。客観的に見れば、私は醜い術策を使って、先輩をだまくらかし、既成事実を作って親友から恋人を奪った最低の人間だ。
こんな私は死んだほうがいい。生きていたって、人に迷惑をかけるだけだ。私が雪村さんと刺し違えて死ぬ、それは、案外このどんづまりの状況から抜け出すための最後の手段なのかもしれなかった。でも私にはそれを決断する勇気がなかった。
結局、私はどうやってこの矛盾を解決すればいいのか、自分の妊娠に対してどう扱えばいいのか、迷いながら日にちだけが過ぎていった。
6月下旬のある日の午後2時頃のことであった。
私は大学の図書館で勉強をしていた。そんなとき、突然携帯電話がブルブルと振動を始めた。どうやら着信があったようだ。
私は携帯電話を開けて、その番号を見る。知らない番号。
恐る恐る電話を取った。
「もしもし。」
「如月さん?」
声の主は雪村さんだった。
「雪村さん?」
「ええ、そうよ。」
「どうしたんですか。急に?」
「あなたに聞きたいことがあるの。今日の午後5時に、今から指示する場所まで来てほしいの。」
何なんだ、いきなり。指示する場所に来いなんて・・・。私はピンと来た。彼女は、私を殺そうとしている。
「ここじゃダメなんですか。」
「会って話がしたいの。誰もいない2人きりの場所でね。」
「・・・わかりました。場所を教えてください。」
私は雪村さんが指定した場所をノートの紙片に書き取った。
「今日の午後5時ね。必ず来てね、待ってるから。」
そういうと電話は一方的に切れた。
胸の高鳴りを感じる。
ついに、そのXデーが来たということなのだろうか。そう考えざるを得ない。こういう時、どうすればいい・・・。手順だと、まずは望月先輩に電話で連絡することになっている。どういう状況なのかを報告して、もし「害意あり」と判断できれば、二人で現場に乗り込むことになっていた。もちろん、先輩はその姿を見られぬよう隠れているわけだが。
私は、先輩に電話をしようとして気づいた。作戦は「中断」しているはずだ。にも拘らず、雪村さんは私を殺そうとしている。となれば、これは「暴発」ということなのだろうか。あるいは・・・考えたくはないが、春香が唆した。作戦を強引に発動させた・・・。春香は「3人で暮らす」という先輩の言葉を信じていない。だから、演技を終了させ、先輩を自分の手に取り戻すべく、強引に作戦を発動させたのかもしれない。
とにかく、まずは先輩に報告したほうがいい。そう思って彼の番号にかけようとした・・・そこで私は躊躇った。
これは、いい機会のような気がした。私が雪村さんに殺されれば、妊娠の事実を覆い隠せる。隠せなかったとしても、先輩が私と結ばれることは無い。そして雪村さんも刑務所に行き、春香と結婚をする上での障害はなくなる。
簡単なことだ。このままノコノコと雪村さんの指定する場所に赴き、そこで殺されればいい。そうすれば、全てがうまくいくのだ。私の命は、今日終わる。だけど、それは全て自分が撒いてしまった種。だから、後始末は全て自分でつけなくちゃいけない。
死ぬのは・・・怖い。まだざっくりとした感覚しかないけど、急に死が近づいてきたと感じて、なんだか体が震えてくる。以前自殺をしようとした時とは、またわけが違う。私は、明確な自殺願望があるわけではない。むしろ、死にたくないと思っている。
覚悟を決めろ、私。全部自分がいけないんだ。だから、最期くらい、勇気を出せ!
これからは時間が大事だ。今は午後2時15分、指定された倉庫までは30分かかるとみていい。そう考えれば、私に残された時間はあと2時間ちょっと。今のうち、やり残したことは無いだろうか。
たぶんない。というより、今更こんな短時間でやり残したことをやれなんて、無理なのだ。だとすれば、最期に会っておきたい人は誰か。
お母さんに会いたい・・・。無論、秋月先生のことだ。今この時間は、まだ勤務中のはずだ。もしかしたら、授業を受け持っているかもしれない。電話をするのは、迷惑をかけることになる。
だけど、そんなこと気にしていられない。私には時間がないのだ。
とりあえず荷物をまとめて図書室を出た。こんなところではまともに電話もできないからだ。
キャンパスのぺデストリアンデッキの上は、思ったより静かだ。おそらく、授業時間中だということもあるのだろう。
携帯電話を開き、電話帳を探す。「秋月律子」私の電話帳で一番最初に出てくる名前だった。通話ボタンを押し、コールに応ずるのを待つ。
プルルルル
プルルルル
プルルルル
プルルルル
出ない。やっぱり、授業中なのだろうか。
プルルルル
プルルルル
プルルルル
プルルルル
プルルルル
プルルルル
だめだ。あと3コール鳴らして、出なかったら諦めよう。
その時だ。
「もしもし、千早?」
お母さんの低いハスキーな声が電話口に響く。
「お母さん!」
私はうれしくなって、大きな声で応じていた。
「どうしたのよ、いきなり。何か月も電話一本よこさないと思ったら、急に電話してきて。」
「ごめんなさい、お母さん。仕事中だった?」
「当たり前でしょ。今日は平日なんだから。」
「今電話して大丈夫?」
「・・・・まあ、授業中じゃないからいいわ。この後も授業はないし。」
久しぶりの親子の会話で嬉しかったのか、お母さんは私との電話に時間を割いてくれるみたいだった。
「ありがとう、お母さん。」
「千早、最近忙しいの?」
「ええ。まあ、ぼちぼちね。」
「何それ。大阪の商人じゃないんだから。」
「フフフ、お母さんの方こそ変な例え。」
「う・・うるさいわね。で、忙しいんでしょ。何か月も電話一本よこさないんだから。」
「まあ、勉強とバイトで忙しいし。」
「サークルもでしょ。」
「うん・・・まあね。」
「そういえば、サークルの話は全然聞かないわね。アルバイトとか勉強のはないとかはするのに。もうやめちゃったの?」
そうだ。お母さんには、サークルのことはほとんど説明していないのだ。お母さんと話す時くらい、恋に患う現実を忘れてしまいたかったからだ。それに、私のこんなみじめな姿、お母さんには決して聞かせたくはなかった。
「まだ続けてはいるけど・・・ほとんど遊んでいるだけのサークルだから。」
「遊んでるって?普通にテニスの練習をしているんじゃないの?」
「いや、テニスの練習なんて、殆どしてなくて、大体部室で遊んでるのよ。」
「えっ!?何それ。」
「部室でゲームやったりトランプやったりマンガ読んだり。」
「それって、テニスサークルって言えるの?」
「テニスの練習は殆どしてないから、実質看板倒れなんだよね。」
「いいねー千早は。こっちなんか、千早達がいなくなってから、独りぼっちで寂しい想いをしているのにー。千早はみんなで暢気に遊んでいるんだから、いいわよねー。」
「まあ、私にとっては息抜きみたいなもんだから。」
律子お母さんががみがみ怒る。
「だったら、たまにはこっちも息抜きさせてよ!本当もう、去年の春に東京行ったきり、春香も千早も1回も帰ってきてないじゃない。長い休みがあるのに帰ってこないなんて、とんだ親不孝もね!」
「はいはい、またいつか・・・」
そうだ、もう私は帰ってこれないんだ。
「どうしたの、千早?」
その厳然たる事実を一瞬でも忘れかけていたのに、また思い返してしまった。
「何でもないよ。」
少し声が上ずっている。お母さんはそれを聞き逃さなかった。
「何かあったのね。」
「いや、何でもない。」
そういう自分の声が、とぎれとぎれになる。胸が苦しくなる。
「千早・・・お母さんに話してごらん。話すだけでも、楽になると思うから。」
「お母さん・・・ごめん。今のは忘れて。」
お母さんに気取られたくはないのだ。
「・・・千早、今日はそれを話しに電話してきたんじゃないの?」
「違うの。そのことはまた今度話すから・・・今は楽しい話をしたい。」
「・・・・・わかった。」
たぶんお母さんは、不思議に思ったはずだ。私は一度たりとも、お母さんに大学生活についての正しい現状を話したことはない。だから、お母さんの認識の中では、私と春香は今も仲良く大学に通い、夢に向かって走り続けている、そう思っているはずなのだ。結果として、お母さんをだますことになる。
「お母さんの方こそどうなの、忙しい?」
私は心の体勢を立て直し、お母さんに尋ねた。
「そうね・・・。前と変わらないかな。でも、まあ忙しくなったわね。2人がいなくなった分、家事とか。」
「お母さん、もう勘弁して。」
お母さんは笑っていた。
「ごめんごめん。相変わらず仲良くやってる?二人は。」
その質問は・・・。
「うん・・・まあそんな感じかな。」
少し言い淀んだ。現実の二人を見れば、お世辞にも仲良くやっているとは言えない。
「ほんとにー?」
お母さんは疑いの目を向ける。電話だから、目じゃないけど。
「ええ、仲良くやってるわ。」
「そう?最近どこかに遊びに行った?」
先輩を取り合うようになってから、私たちは本当にどこにも行かなくなってしまった。そもそも部室や授業で会っているのだし、わざわざこの二人で遊びに行くことは無いのだ。
「特に行ってないよ。そもそも、そんなことして会わなくても、普段から授業やサークルで会っているんだし。」
「そうなのね。二人のことだから、いつでもどこでも一緒に行っているのかと思ってた。」
「フフフ。そこまでべったりってわけじゃないのよ。」
「ふーん、ディズニーランドには行った?行きたいって前行ってたじゃない。」
「いや、行けてない。東京観光なんて、最初に東京に来た時にだいぶ済ませちゃったし。」
「ふーん、あっ、そういえば二人には彼氏できたの?これ聞こうと思ってたんだよね。高校時代は二人とも全然そういう浮いた話聞かなかったし。まあ、担任としては、恋愛で変なトラブルを起こされるよりかはマシなんだけどね。」
彼氏ね・・・もう面倒くさい。なしって答えておこう。
「彼氏ね・・・いないわ。」
「春香も?」
「ええ。」
「若いうちに恋の一つや二つは経験しておいたほうがいいわよ。年取ると、そういう情熱的な恋なんてできないんだから。」
やけに説得力ある言葉だが、既にこっちは、恋の炎で身も心も焼き尽くされているのだ。
「含蓄ある言葉、ありがたく受け取っておきます。」
「あっ、でも勉強もおろそかにしちゃだめよ。大学は遊んでもいいけど、あくまで勉強しに行っているんですからね。」
「はいはい、わかってますよ。」
「特に春香にちゃんと言い聞かせておいてよ。あの子、結構さぼり癖あるから。」
「さすが、よく見てるわね。」
「当たり前よ。私、あの子の母親なんだから。」
母親か・・・。こうやって声を聴いていると、すごく安心する。
「私・・・本当の秋月先生の娘だったら良かったのになー。」
「千早・・・。やっぱり、何かあったのね。」
「・・・うん。」
「今は、話せないの?」
「ごめん・・・、お母さん。」
お母さんは、何かを口籠っている。考えをまとめているのかもしれない。
「千早、何があったのかは分からないけど、私はいつでも千早の味方よ。それに私、ずっと前から・・・千早は本当の娘だと思っているわ。何度も言っているでしょ、私たちは『家族』なんだから。」
『家族』か・・・。思えば、つい1年数か月前まで、私たち3人は「家族」として、一緒に同じ一つ屋根の下で暮らしていたんだっけ。もう、遠い昔のことに感じられる。
あの頃は楽しかった・・・。ずっとこんな楽しい日々が続くんだと思っていた。大学に入っても・・・ずっと・・・。だけど、気づけばこんなに変わってしまった。そのうち半分以上は、私のせいだ。自業自得。
気づけば、涙を抑えきれずにいた。
「千早・・・。」
涙が止まらない。全てを話してしまいたくなる。自分の罪を。
「お母さん・・・私ね・・・とっても、親不孝ものなの。」
「いきなり、何を言い出すのよ。千早。あなたは私にとって、本当にいい娘よ。」
「うんうん。違うの、私は・・・ごめんなさい・・・。」
「千早・・・言いたいことがあるなら、言ってしまいなさい。しゃべったからって、状況がよくなるわけじゃないけど、少しは楽になるでしょ。ね、だから・・・。」
だからダメなのだ。楽になっちゃ・・・決意が・・・揺らいじゃう。
「ごめんね、お母さん。それだけは、ダメなの。だから・・・うん。お母さん、いつか必ず家に帰るから。その時に・・・全部話すよ。」
お母さんは無言だった。
電話の奥から鼻をすする音が聞こえる。お母さんも泣いているのだ。
「千早・・・私、母親失格ね・・・。」
「どうしてよ・・・どうしてお母さんがそんな・・・。」
「だって・・・娘に何があったかも全く分からない。そんな状況でほったらかしにして、何が母親よ。聞いて呆れる。おかげで、私のこと信頼して、話してもくれないじゃない。」
私は電話口で首を振った。
「お願い、お母さん、自分を責めないで。悪いのは、全部私なの。お母さんのことは、とても信頼している。だけど、言えることと言えないことがあるから・・・。」
「千早って、甘えるのが下手で、独立心が強いから・・・だから、千早の状況に気付かなくて、つい平気だって思っちゃう。だけど、本当は、寂しい想いをしているのよね。ねえ千早。それって春香にも相談できないことなんでしょ。だから、私に聞いてほしかったんじゃないの?」
図星だった。
「・・・お母さん、大好きだよ。」
私は、心の内奥を見透かすようなお母さんの言葉を無視して、一方的に話を打ち切った。
「千早・・・。」
「じゃあ、もう切るね。」
「千早!必ず、帰ってくるのよ!それも近いうちにね!」
お母さんの必死な声がこだまする。お母さんは、きっと何かを感じ取ったのかもしれない。その上で、私に無事を諭したのだ。
「うん・・・約束する。じゃあね。」
私は震える手で、電話を切った。
私はその場にうずくまった。顔がゆがみ、涙が零れ落ちる。もうこれで、今生の別れなのだ。お母さんには酷いことをしてしまった。出来もしない約束をして、お母さんを傷つけた・・・。こんな親不孝な娘は、多分私しかいないだろう。でも、もういい。私は・・・きっと満足だったのだ。
時刻は午後3時を回っていた。
もう一人、私には会いたい人がいた。美希だ。彼女は、私を慕ってくれている。しかも、ごく普通で当たり前の、とても純粋な気持ちで。
私は、彼女のことを恐れていた。彼女は、何でもかんでもすぐに本質を見抜いてしまう、天才的な感性の持ち主だ。
それでいて、彼女は純粋だった。世間知らずといえば、悪口になるかもしれないが、私のように裏表ある人じゃないし、とってもうぶなのだ。
私は、そんな彼女のことを妹のようにかわいく思っていた。たとえ春香との関係が悪化しても、私の心が折れなかったのは、多分美希がいてくれたからなのだと思う。私も知らず知らずのうちに、美希を心の支えにしていた。だけど私は、一度たりとも、そんな美希に感謝の気持ちを述べたことは無い。それどころか、私はこれまでずっと美希のことを利用しようとしてきた。そして現に利用してきたのだ。美希から情報を聞き出そうとした。美希が私を好んでいるのを利用して、私の味方にしてきた。
私は、もう一度だけ、美希の声が聴きたかった。本当は、会って話がしたい。だけど、そんな時間はもうない。仮に、あったとしても・・・無理だろう。美希は、全てを見抜いてしまうのだ。美希は、私がむざむざ殺されようとしていると知ったら、どんな手を使ってでも私を引き留めるだろう。
だから、私は退路を断つことにした。
午後3時15分、私は大学を離れ、電車に乗り、雪村さんが指定した倉庫の近くまで向かうことにした。大学から離れてしまえば、美希も私を探すことはできない。その場所は、私と雪村さんしか知らないのだ。
午後4時前、少し迷いながらも、私は雪村さんが指定した倉庫の近くまで来た。指定の場所がどこなのかはすぐに分かった。
美希との会話が、人生最後の電話だ。私は、美希との電話が終わったら、すぐに携帯の電源を切るつもりでいた。美希は望月先輩や春香の電話番号を知っている。きっと、美希はすぐに先輩に連絡してしまうだろう。私の決意を邪魔されたくなかった。
私は携帯電話を取り出し、電話帳を検索する。美希の苗字、星井はかなり後ろの方だった。
「プルルルル」
「プルルルル」
「プルルルル」
5コールくらい鳴らしても、美希は電話に出る気配はない。やはり、授業中だったのだろうか。例え美希が電話に出てくれなくても、留守電にはメッセージを吹き込むつもりでいた。ありがとうぐらい、言えるはずなのだ。
でもそんなの杞憂だった。10コールの末に、美希が電話に応答したのである。
「もしもし。」
「千早さん?どうしたの急に?」
美希の声はいつもと変わらず明るい、幼い子供の様だった。
「ちょっと、話したいことがあってね。今電話大丈夫?」
「うん。授業中だけど、抜けてきたから気にしないで。」
やっぱり授業中だったのか。どうりで、電話に出るのが遅いと思った。
「ごめんね、美希。授業の邪魔しちゃって。」
「いいの。退屈してたし。で、話ってなに?また先輩の話?」
私から美希に電話をかけることはあまりない。もしあるにしても、それは美希の言う通り、彼のことについて相談を持ち掛けるときがほとんどだった。
「まあ、そんな感じかな。」
「美希、今日は暇だよ。6時くらいに会う?夕ご飯込みで。それともカラオケに行く?」
美希・・・ごめん、どれも実現できそうにない。
「いや、今日はちょっと時間がないの。だから、電話でいい。」
「えー、つまんないの。」
「ごめんね。」
「まあ・・・いいの。それで、話って?」
「ああ、えっと・・・」
正直、美希を騙すためのシナリオなんて考えてなかった。そんなこと考える精神的余裕はなかったし、美希の声を聴くことしか頭になかったからだ。
「うん?どうしたの?」
「あ・・・いや、その・・・なんて言うかな。今日は美希の話を聞きたいなって。」
「ミキの話?何の話をすればいいの?」
「そうね・・・最近、楽しいことあった?」
「なんだか唐突なの。そんな楽しいことなんて、すぐに見つかるはずが・・・。あっ、あった。楽しかったこと。」
「おっ、なになに?」
私はワクワクしながら、美希の言葉に耳を傾けた。
「ミキね、今日素晴らしい夢を見たの。サークルのみんながね、ミキにたくさんのおにぎりをプレゼントしてくれたの。それでね、ミキがそれを食べるんだけどね。いつまでたってもお腹いっぱいにならないの。それでいろんなおにぎりを食べられたって夢を見たの。」
「・・・それが楽しかったこと?」
「うん!」
屈託もなく、美希は言い放った。
「・・・そう。それは、よかったわね。」
「あれ、何か期待していたものと違った?」
「うーん、まあ美希が楽しいと思えば、それでいいんじゃない。」
「やっぱり、期待されていたものと違ったの。」
「まあ、正直ね。他には?」
「うーん」
美希は考え込んでしまった。そしてしばらくして、思い付きの言葉を言う。
「ミキね、昨日みんなでゲームをやったの。スマブラね。それでミキがみんなを無双したんだよ。すごいでしょー。」
確かにそれはすごい。うちのサークル、結構つわものが多いのに。
「それはすごいわね。ちなみに、勝率はどれくらいだった?」
「1割くらいなの。」
えっ、1割?
「それだけ?」
「うん。後は2位とかだったかな。」
「・・・それって『無双』って言えるの?」
「うん。カービィを使ってね、吸い込みをするの。吸い込んでいる間は動けるから、それで画面外に落下するの。相手はじたばたともがくでしょ、それで相手が勝手に自滅してくれるの。名付けて『イート戦術!』」
「・・・でもそれだと、共倒れなんじゃないの。」
「うーん、まあ、相手が抵抗しないで諦めちゃうと、確かに共倒れなんだよね。だけど、みんな私を避けてバトルするから、案外生き残ったりするんだよね。」
「ふーん。」
私は殆どスマブラをプレイしたことがないから、正直、美希の言っていることが半分も理解できない。
「それで、ほかのキャラがバトってるときに、ミキのカービィはずっと吸い込みスタンバイをしているわけ。そしたら、気づくとミキとほかのキャラだけになるの。だけど、相手の方が強いからすぐにやられて。それで2位になっちゃうわけ。」
「それって、単に相手にされてないだけなんじゃないの?」
「まあ、そうともいう。」
「全然、『無双』してないじゃない。ただ避けられているだけよ、それ。」
「そうでもないんだよ。罠にかかった獲物は逃がさない。これがミキのポリシーね。だから、意地でも捕まえた相手は、道連れにするの。まさに『無双』状態だね。」
なんだかなー。
「正々堂々と勝負したら。」
「嫌。普通に戦ったら、ミキ負けちゃうもん。だから、ミキは『イート戦術』に頼るの。」
「ふーん、まあなんでもいいんだけど。」
「なんか、千早さんつまらなそうなの。そんなこと言うなら、千早さんの楽しかった話を聞かせてよ。」
私の楽しかった話か・・・。正直な話・・・ないんだよね、一つも。
「無いの?千早さん?」
「・・・そんなこと、ないわよ。あるわよ。それくらい。美希と同じレベルでいいなら。そうね・・・あっそうだ。プリンが美味しかったのよ。プリン。」
「プリン?」
昨日、コンビニでプッチンプリンを買ってきた。しかも大きい方だ。それを春香に黙って、一人で食べたのだ。プリンはおいしかった。
「ええ。久しぶりにプリンを食べたくなってね。それでコンビニで買ってきたのよ。プッチンプリン。」
「やっぱり、プリンといえばプッチンだよね。で、プッチンはしたの?」
「いや、お皿洗いが面倒だからしなかったわ。スプーンだってプラスチックの付属品を使ったし。」
「なんだ、ロマンがないよ。ロマンが。お皿にあけて、プルプルさせるのが楽しいんじゃない!」
確かに、あのプリンは弾力が命だ。もちろん私だって一度はしたことがある。お皿にあけて、プルプル。
「ロマンとまで言いますか・・・。」
「千早さんは、大きいのを買ったの?」
「そうよ。」
「なら猶更だよ。非国民だよ、ぷっちんプリンをお皿にあけて、プルプルしないなんて。あのプリンは、プルプルできるように、カラメルソースが比較的しっかり固まっているんだよ。焼きプリンでもないのに、カラメルソースが固定されているプリンなんて、めったにないんだからね。」
非国民とまで言いますか・・・。
「わかったわかった。美希のプッチンプリンへの熱いこだわりは分かったわ。今度、やってみるから・・・。」
今度・・・ね・・・。
「そう、わかればそれでいいの。」
美希は急に無言になってしまった。私も話題を紡ぐことができなかった。しばらくして、美希が透かしたように聞いてくる。
「で、千早さん、そろそろ相談事を話してみない?千早さん、相変わらず嘘が下手だね。」
美希はくすくす笑っている。
「べ、別に、嘘なんかついてないもん。美希と楽しいお話しがしたかったし。」
「千早さん、なんかかわいいの。」
「冷やかさないでよ。」
「ひゅーひゅー」
「その冷やかし方はないんじゃない。なんだか違っている気がするわ。」
「ミキもそう思うの。」
「なら、なんでそうしたし。」
こんなバカ話を延々と続けていた。時間が経つのが早すぎる。もうそろそろ本当に、本題に入らないと。
「美希・・・本当にそろそろ本題に入るね。もう時間がないし。」
「誰かと待ち合わせしてるの?」
「えっ、ええ。そんなところ。」
「誰と待ち合わせしてるの?俊?」
「・・・。そうよ。」
美希は返事を返さない。しばらくして美希が放つ。
「嘘でしょ。」
「どうして、そう思うの?」
「だって、千早さん嘘つくの下手だもん。」
「それ理由になってない。」
「千早さん、本題。」
美希に促されて、私はことの本質を話し始めた。
「今日はね、美希にお礼を言おうと思ったの。」
「お礼?」
「うん。お礼。」
「ミキ、千早さんにお礼言われるようなことした?」
「うん。」
「そう?」
「うん。」
「どんなこと?」
「・・・私の・・・友達になってくれたこと。」
「・・・・・。」
美希は黙っている。「どうしてそんなこと」と、いつもの美希なら笑いそうなのに。
「千早さん・・・何かよからぬことを考えているよね。例えば、例の作戦を実行しようとしたりとか。」
「・・・・・。」
早速見抜かれている。それならそれで話が早い。
「千早さん。俊に代わって。電話。近くにいるんでしょ。」
「望月先輩は・・・いないわ。」
「どうして!?この作戦は、ゆっきーを陥れるための作戦なんでしょ、わざと襲われて、そこを助けてもらうんじゃないの。どうしていないの!?千早さん・・・まさか、本気で!?」
美希の焦った声が新鮮だ。美希は、本当に心の底から焦っている。
「千早さん、早まらないで!どうしてよ、どうしてそんなことするの?美希、聞いてないよ、そんな話。どうしてよ、ずるいよ!」
「どうせ後でわかっちゃうことだから、今言っておくね。実は、私・・・妊娠しているの。今4週目。」
「その子、俊の子でしょ。」
「うん・・・。」
「千早さんはバカなの!大馬鹿なの!ありえないよ!どうして?なんで、彼の子供を身ごもったら、みすみす殺されなくちゃいけないわけ!?」
美希の最大限の怒声が聞こえる。怒るのも無理はない。私は、それだけのたわけなことをしようとしているのだ。
「私・・・春香を裏切ってしまったの。先輩との関係は演技だと言いながら、私は・・・彼のことを本気で愛してしまった。そして、彼と過ちを犯してしまった・・・。」
私は左手を自分の腹部にあてた。
「この子の存在が分かってしまえば、先輩は絶対に私を選んでしまう。たとえ、雪村さんとの婚約がなくなっても。それでは意味がないの。だったら・・・今ここで私が死ぬしかない。死んで・・・春香を裏切った罪を償うしかない・・・。」
「やっぱり、千早さんは大馬鹿ものだよ!お腹に宿った赤ちゃんに罪はあるの?千早さんの子供は、『まちがい』なの?」
「・・・・・。」
お腹の子供に罪はない。過ちであり、罪なのは、私の存在なのだ。
「あるわけないよね?なのに、その子を殺すの?そんなの、ただの人殺しだよ!それに、たとえ千早さんが春香を裏切っていたとしても、それは生きて償うべきことなんだよ。死んでしまったら、春香に謝ることだってできないじゃない!」
「春香は、きっと私を許してくれない。春香は、私に『死んで』って言ったのよ。」
「だから、春香の言葉通り死ぬわけ?春香が本気で、そんなことを望んでいると思う?」
春香は・・・きっと望んでいる。あの時の顔は・・・すべてに絶望したような顔は、私に「死ね」と言っていたのだ。
「美希は、『親友である春香がそんなことを思うはずがない』って思っているのよね。」
「当たり前でしょ。たとえ、千早さんのことを憎らしく思っていても、死んでほしいなんて本気で思うはずがないの!」
「・・・美希は、春香の顔を見たことがある?」
「当然なの!ずっと、サークルにいるじゃない。」
「どんな表情をしてた?」
美希は意外な質問に、少し戸惑っている様子だ。
「どんなって・・・真顔だったり、笑顔だったり、疲れていそうだったり・・・とにかくいろんな顔なの。」
「そう・・・じゃあ、こんな顔は見たことはある?『能面のような顔』」
「『能面』・・・?」
「そう。顔から希望という希望が抜け落ちて、血の気を失った鉄面皮のような顔・・・。」
「それが、何なの?ミキはそんな顔見たことないの・・・。」
「春香はね・・・昔、虐められていたことがあったの。高校1年の時、私と同じクラスだったときのこと。春香はね・・・いつもそんな表情をしていたの。絶望に満ちた顔。私はそんな春香の顔が嫌いだった。それでね、私が春香に、彼との過ちを話したとき、春香はそんな表情をしていたのよ。そして春香は、『死ね』っていうの。」
「だから何なの・・・。春香が怖い顔で『死んで』って迫ったら、千早さんは死ぬの?」
「・・・それから表情が戻らないの・・・。私と話すときはずっと・・・。」
春香は本気で私のことを憎んでいるようだった。私のことを友人としてみていない。それどころか、私のことを「敵」だと思っている。春香の顔からは、そんな彼女の強い意志を感じていたのだ。
「千早さん・・・千早さんが死んで、そのおかげで春香が結ばれたとして、春香は幸せになれると思う?千早さんが犠牲になって、その上で結ばれたって、きっと春香は幸せになれないよ。」
「・・・どうしてそう思うの?」
「考えてみてごらんよ。千早さんは、春香に俊を譲るために死ぬわけでしょ。そんなの春香にしてみたら、自分が千早さんを死に追いやったようなものじゃない。俊だってそう思うはずだよ。そんなことをして、春香と先輩が結ばれたって、二人ともきっと重い十字架を背負い続けることになると思うの。」
美希の言うことはもっともなことなのかもしれない。私の行動は、きっと春香と先輩を深く傷つけてしまう・・・。だけど・・・。
「美希、もうこのタイミングしかないの。私の妊娠が発覚してしまえば、先輩はもう後には引けなくなってしまう。そうなったら、春香は一生塗炭の苦しみを味わうことになる。私も、春香を裏切ってしまったという一生の負い目を背負って生きていかなくちゃいけない。私・・・こんなことに耐えられそうにないの。」
「千早さん、まずは落ち着こうよ。こんなところで早まっちゃいけない。ミキも一緒に考えるから、ね、お願いだから、こんなバカなことは止めてほしいの。」
美希の哀願する声が、頭の中でこだまする。美希の言葉はうれしい。でも、もう後戻りはできないのだ。
「ごめんね、美希。こんな辛い想いをさせてしまって。でもね、もうダメなの。」
美希は声を荒げる。
「何がダメなの!?千早さんは、まだ始まってもいない!一生かけて春香に謝ろうよ。許してもらえなくてもいいじゃない。生きていれば、お互いもっと幸せになれるかもしれない。だけど、ここで死んじゃったら、時計の針はもう二度と動かなくなっちゃう。」
「私の人生は、常に裏目だった。時計の針は、どんどん後ろに戻っていったの。だったら、もう止めてしまったほうがいい。それがみんなの為なの。」
「千早さん、お願い!ミキの言葉を聞いて!ミキ、嫌だよ!これが千早さんの最期の言葉になるなんて、そんな悲しい言葉で一生を終わらせないで!」
美希の悲痛な叫び声だ。私はその声に耐え切れなくなって、携帯電話のボリュームを下げた。
ふと時計を見る。約束の時間が近づいていた。もう・・・電話を切らなくちゃいけない。
「最期に話せたのがミキで、良かった。」
「嫌!千早さん、死なないで!」
私は美希の金切り声を無視して続ける。
「私ね、美希のこと好きだったよ。正直最初は何この子って思ったよ。常識はないし、みんなに遠慮しないし、正直好きじゃなかった。だけど、美希と接しているうちに、この子って『純粋』なんだって分かった。そして、私自身からしたらなんでか分からないけど、美希は私のことを好きでいてくれている。私、そんな美希のことが、だんだん可愛く思えてきたの。」
「千早さん!ミキも千早さんのこと大好き!だから、辛いの。もう千早さんに会えないって考えると!」
電話の奥の声が小刻みに震えている。美希は泣いているのだ。私も自然と、涙が両目から零れ落ちてくる。
「それなのに私は、穢れてた。美希のことを密偵みたいにして使って、都合のいいときだけ美希と親しくしてた。私って本当に最低ね。人の純粋な善意を利用して、それにそんな純粋な子に、こんな残酷な電話しかしてあげられないなんて。」
「そんなことないの!ミキはあれはあれで楽しかったの!」
「お世辞でもうれしいわ。」
鼻をすする声が聞こえる。私はそんな美希に、かけてあげるべき言葉が見つからない。
やがて、美希の方が尋ねてきた。
「千早さん、怖くない?あと少ししたら、千早さんの意識が途絶えちゃうんだよ。」
正直なところ、怖いよ。だけど・・・。
「怖いよ、そりゃもちろん。だけどね、春香に心の底から恨まれ続けるほうがもっと怖い・・・。」
「ミキ、そんなの怖くないもん。春香だって、所詮人間だよ。春香が怒ることなんて、想像できるもん。だけど、『死』は想像もつかないもの。そっちのほうがよっぽど怖いの。」
意識が消える・・・。それってどんな気持ちなんだろうか。あまりにも急すぎて、あまりにも現実感がなさすぎるのだ。
「死ねば・・・何も考えられなくなる。無に帰るのよ。それだけ。それにもう避けられないの。どうやってもね。」
美希が激しく歯ぎしりをした。普段聞かない音声に、私は驚きを隠しきれない。
「美希、どうしたの?」
「ミキ、悔しい。本当に悔しい!こうやって声が届いて、直接おしゃべりできているのに、ミキは・・・本当に大切な人を助けてあげられない。千早さんが、命を落とすのをただ黙って見ていることしかできない・・・。」
「ごめんね・・・本当にごめんね・・・。」
「だったら、生きてよ・・・お願いだよ。」
それだけは・・・できない。
「ごめん。」
お互いに無言が続く。時刻は午後4時50分になろうとしていた。
「美希、これは私からの遺言。静かに聞いてね。」
美希は鼻水をすすり名がら、静かに「うん」とだけ答える。
「春香を支えてほしいの。あの子には、先輩以外心の支えとなってあげられる人がいない。あの人だって傷つくし、春香のことを一人では支えきれないかもしれない。だから、そんなときに、美希が春香の心の支えになってほしいの。こんなことになって、美希としても、素直に春香のことを見てあげられないかもしれない。だけど、お願い。
私の一生に一度の、最期のお願い。だから、聞いてほしいの。いい?」
美希はしばらく考えたうえで「わかったの。」とぐずりながら答えた。
そしてもう一つ。私が美希にお願いすること、それは・・・私を忘れること。
「それから、もう一つ。美希・・・私のことはもう忘れてほしいの。」
「それだけは、嫌だ!」
美希は大きな声ではっきりと拒絶した。
「そんなの嫌だよ。ミキ、千早さんと過ごした日々は、ミキにとって大切な思い出なの。それをなくせなんて、それこそミキに死ねって言っているのと同じなの!」
「忘れないと、辛くなるよ。私のわがままのせいで、美希の心に深い傷を負わせてしまった。私との思い出も、たとえ今は大切な思い出でも、きっといつか、辛いものになってしまうかもしれない。そんなことになってしまうくらいなら、私のことは、もう忘れてほしいの。」
私は春香が言っていた「トクナガ先生」のことを思い出していた。「トクナガ先生」の気持ち、今ならわかる。どうして彼女がそんなことを春香に伝えたのか。それは・・・紛れもなく、春香のことを心の底から愛していたからだ。今私が美希を愛しているように・・・。
私の声も震えている。涙がどんどんあふれ出てくるのだ。
「それは大丈夫だよ。ミキ、強いもん。」
私は、少しだけ笑顔になった。
「頼もしいわね・・・。」
「うん。」
私はもう一度時計を見た。午後4時53分だ。
「じゃあね、美希、元気でね。」
「うん・・・千早さん、大好き!」
「私もよミキ、大好き・・・。」
電話を耳から話さなくちゃ。だけど、もっと話していたいという気持ちが腕を下げさせない。私は意を決して、別れの言葉を述べた。
「美希・・・愛している!さようなら!」
私は強く目を瞑り、意思に反して硬直を続ける右手を強引に引き下ろし、通話を切断した。そしてそのまま電源ボタンを強く握り、携帯の電源をオフにしたのだ。
私はハンカチで涙をぬぐいながら、近くに迫った倉庫に向かって歩き始めた。これから、雪村さんをだまくらかし、雪村さんを挑発させて、私を殺させなくてはいけないのだ。こんな泣き虫顔では、うまくいく演技もいかなくなる。私は一転して気を引き締めた。全ては、みんなの幸せのためだ・・・。
倉庫の扉を開けて、中に入った。
倉庫は、どうやら長い間使われていない資材置き場のようだった。中はほこりまみれで、廃材がいくつも散乱している。2階建てくらいの大きな倉庫に、明り取りの為の窓がいくつもある。陽は落ちてきているとはいえ、夏至を迎えたばかりの今、まだ外は煌々と輝いている。おかげで、中は電気がつかないのに、外と同じくらい明るさだ。
雪村さんはまだ倉庫に到着していないようだった。私は、自分自身の逃げ場をなくすため、敢えて出口から遠い、倉庫の奥の方へと進んでいった。
出入り口からまっすぐ行った、最も離れたところで歩を止めて、くるりと出入り口の方を向いた。これで雪村さんが入ってくればすぐにわかる。
時刻は午後5時10分、物音ひとつない静かな空間に、かすかに足音が聞こえてくる。私は神経をとがらせた。やがて、西日に照らされたシルエットが、倉庫の中に入ってくる。
「久しぶりね。」
その声の主は、雪村さんだった。
「雪村さん・・・。」
彼女は、倉庫の扉を閉め、密閉状態を作り出すと、ゆっくりと私の方へと近づいてきた。
「よくも、まあぬけぬけと私の目の前に現れたわね。」
その声は、いつも通り私への侮蔑が込められていた。
私も負けずに挑発し返す。
「あなたに、話しておかなくちゃいけないことがあったからね。」
「それはこっちのセリフよ。」
雪村さんは、私と2メートルの位置まで近づいてきた。そこで彼女が立ち止まると、彼女が口火を切った。
「ねえ、如月さん。単刀直入に聞くわ。あなた、俊とセックスしたの?」
あまりにもどストレートな質問だ。ならば、こちらも直球で答えるしかない。
「ええ。したわ。それがどうかしたのかしら?」
そこまでは予想通りだったのか、雪村さんは焦った様子も見せない。
「あなた、俊は私の許嫁って知っているわよね。」
「ええ、当然。あなたから耳にタコができるほど聞かされているからね。」
雪村さんの目は、怒りと憎しみに満ちて言えるように見える。その中に、強い焦りと疲弊のようなものも見えていた。
「だったら、どうして私の俊を奪うわけ!?」
「前にも言ったかもしれないけど、望月先輩はあなたのものじゃない。あなたには、その資格がないの。彼を幸せにしてあげることなんて、あなたにはできない。彼は、雪村さんじゃなくて、私を選んでくれたの。だから、私は彼の愛に応えるだけ。」
「あなたが強引に奪ったんじゃない!彼は私のものだったのよ、間違いなく。それをお邪魔虫のあんたが奪い取った!」
雪村さんは怒っていた。当たり前だ。もうひと押しだ。私は雪村さんに決定的打撃を与えるため、私は最後の秘密兵器を見せつけることにした。カバンの中から、あるものを取り出す。陽性を示した妊娠検査薬だった。望月先輩に見せようと思って、ずっとカバンに忍ばせていた代物だった。
「雪村さん、これを見て。」
ビニール袋に包んだそれを私は見せつけた。
「それは・・・。」
雪村さんの目に衝撃の色が見える。
「私ね・・・妊娠しているの。彼の子よ。これはその証拠。」
「嘘・・・でしょ・・・。」
「嘘じゃない。『判定』のところに、一本線が入っているでしょ。これは妊娠したって証拠なの。悪いけど、私、望月先輩としかやってないから、確実に彼の子を孕んだわけ。」
雪村さんはうなだれるように俯いた。いきなりの衝撃で、心の整理がついていないのかもしれない。
「まだこのことを彼は知らない。だけど、知ったらまず間違いなくあなたは捨てられるでしょうね。何しろ、新しい命が宿ってしまったんですもの。彼はこの結果を無視することはできないはずよ。」
「・・・・・。」
「あなたは負けたのよ。完全にね。だから、もう彼にちょっかいださないでほしいの。もうあなたは、望月先輩の彼女でも何でもない。あなたこそ、ただのお邪魔虫なの。ていうか、最初からそうだった。彼は言ってた。『楓のことを好きだと思ったことは一度もなかった』って。」
雪村さんの表情は変わらない。まるで魂が抜けてしまったようだった。
「ねえ、聞いてる?私の話。」
雪村さんは、言葉を失ってしまったかのように、何も話さない。
しばらくして、雪村さんはカバンから何かを取り出した。私はその動作を黙って見守っている。やがて、彼女がカバンの中から取り出したのは、むき出しの真新しい鋭利な包丁だった。
予想通りの行動とはいえ、さすがに身がたじろぐ。これから私は、この鋭利な刃物で、体を切り刻まれてしまうのだ。そう思うと、体の全身がピンと張りつめてくる。
「その包丁で・・・何をする気?」
声が震えているのが、自分でもわかる。けど、雪村さんはそれに答えずに、一人語りを始めた。
「私ね・・・俊を愛していたの。心の底から・・・。でも私、愛し方が分からなかった。俊はお金持ちだった。それに頭もいいし、スポーツもできる・・・。それに比べて、私は別に頭がいいわけでもないし、スポーツも正直苦手。このサークルに入ったのも、彼が入りたいって言ったから、ついていっただけ。」
私は、右手に包丁を握り締め、腕を真下にだらりと伸ばしている彼女を見つめていた。
「私、多分愛を知らないで育ったんだと思う。親は忙しくて私にかまってくれなかったし、私も意固地だったから、自分から甘えようとしなかった。そんな私の友達は、お金だった。友達は、みんなお金で作ったの。小学校のころから、好きなお菓子を買ってあげて、好きなおもちゃを買ってあげて、そうやって私は友達を作ってきた。それ以外の方法を知らなかった。だから、お金持ちの俊が許嫁になっても、どうやって接していいか分からなかった。」
雪村さんはうつむいているが、多分涙を流しているのだ。地面がぽつぽつと濡れている。それは、雪村さんの涙に他ならなかった。
「ねえ、如月さん、私はどうすればよかったのだと思う?どうして、彼は私を好きになってくれなかったのだと思う?私が不細工だから?それとも、可愛げがなかったから?」
雪村さんは、決して不細工なんかではない。むしろとても綺麗なほうだ。だから、先輩が雪村さんのことを好きだと思えなかったのは、きっとその性格のせいだ。
「雪村さんに足りなかったのは、彼に尽くそうって気持ちよ。あなたには、それが決定的に欠けていた。だから、彼は振り向いてくれなかったのよ。あなたはかわいそうな人ね。愛を知らず、それ故に誰にも愛を与えられない。あなたは、望月先輩を射止める前提条件を満たしていなかったのよ。ただそれだけ。」
私はあくまで、雪村さんを挑発しようとした。だけど、雪村さんは、怒りを見せるどころかますます落ち込んでいくようだった。
「私ね・・・今日、あんたを殺すつもりでいたの。殺すつもりでここに呼び出したの。」
話がいよいよ本題に入り、緊張がマックスになる。
「あんたが死ねば、邪魔者はいなくなって、彼と結婚できるって思ってた。だけど、もう止めた。」
止めた?いきなり何を言い出すの、この子。
雪村さんは徐々に距離を詰めてくる。
「雪村さん、あなた何をする気?」
雪村さんの様子がおかしい。顔からは生気が抜け落ちている。顔面は紅潮しているのに、力が抜けているようなのだ。
彼女は私のすぐそばまで近づくと、そこで止まった。
しばらく無言で見つめあっている。そんな中突然、彼女が包丁を振り上げて、私に向かって振り下ろしてきたのだ!
私はとっさに右腕で包丁を防御した。彼女はゆっくりと減速させながらも、鋭利な包丁で私の右腕に傷をつけた。
「っ!」
燃え上がるような痛みが右腕の前腕を襲う。私はとっさに左腕で患部を抑えた。腕から血がにじみ出ているのが分かる。あまりの痛みに、中腰になった。
私は苦痛で顔をゆがませながら、見上げるような形で雪村さんの顔を見た。その顔には絶望感が広がっているように見えた。態勢を立て直し、腕を庇いながら、私は彼女を見つめた。今、雪村さんに襲い掛かられたら、ひとたまりもないはずだ。
「あんたには、新しい命が宿っている。俊の血を引いた、新しい命。あんたを殺せば、私は先輩の子供まで殺してしまうことになる。そんなことは・・・できないよ。」
「でも、あなたは今、私に切りかかってきたじゃない!」
彼女は首を振る。
「私を・・・殺してほしいの。その包丁で。」
えっ・・・。とっさのことで理解できない。
「私にとっては、望月俊という人が全てだったの。だけど、あんたを殺せない以上、もう私はどうすることもできない。もう私には何も残っていない。だから、今ここで、殺してほしいの。あんたの手によって。」
私はとっさに首を振る。体の中で変な緊張感が抜けていく。私が死ななくていい、直感的に体で理解して、体が安堵していくのが分かる。だけど、その代わりに、私が雪村さんを殺さなくちゃいけないなんて・・・。
「できないよ。そんなこと・・・。死にたければ、自分で死ねばいいじゃない・・・。」
「実はね・・・これまで何度も死のうとしたことがあったの。生きていくのが嫌になって・・・。でも、死ねなかった。怖かったの、死ぬということが。一人じゃ死ねないの・・・だから、殺してほしい。今なら、あんたは正当防衛が主張できる。私に切りつけられて、怪我をしている。私に殺されそうになって、反抗して、逆に殺してしまったなら、あんたは何の罪にも問われない。だからさ・・・お願い。」
雪村さんは、私の目の前まで近寄り、右腕を庇っている左腕をつかむと、強引に包丁を握らせ、一緒に包丁を握り合った。
「これを、私のお腹に・・・。もみ合った感じで・・・。」
雪村さんの腕に力が入る。彼女の力は全力ではない。とはいえ、包丁の切っ先が私の方に向いてくる。私は怖くなって力を入れて抵抗する。包丁が細かく揺れあう。私は怖くて思いっきり目を瞑っている。
そんなやり取りがしばらく続いた後、彼女の力が抜けていくのを感じた。それに合わせて、包丁の切っ先が彼女の方へ向き、そのまま私は、左手を伸ばし、その刃を突き立てた。
何か柔らかいものに当たり、包丁が刺さっていく感触を感じた。
「ぐっ!」
雪村さんのもだえる声が聞こえた。怖くなって、恐る恐る目を開くと、包丁が、彼女の胃の部分から腸にかけて斜めに刺さっている。恐怖を覚えて、とっさに目を瞑った。
「力を・・・入れて・・・」
かすれた声で雪村さんが求める。私は思いっきり、力を入れて包丁を深く刺しいれた。包丁が肉の抵抗を突き破って中に入っていく。そして彼女はゆっくりとそのまま倒れこんだ。重心を雪村さんの体に向けていた私も支えを失い、そのまま倒れこむ。
そのせいで、体に包丁が深く突き刺さる。
「ぐっ、うぅぅう!、ぬっぅうぅう!」
雪村さんの苦痛に満ちた唸り声が響き渡る。私は怖くなってとっさに後ろ側にしりもちをついて、彼女の様子をうかがっていた。あまりにも突然のことに、体に力が入らない。何も考えられず呆然としてしまう。
何とかしなくちゃ。そうだ。救急車を呼ばなくちゃ。
私はとっさに携帯電話と取り出し、電源を入れようとした。
しかし、雪村さんが拒むのだ。
「や・・・め・・・ろ・・・」
ホラー映画の一シーンのように、口から血を流している彼女が、手を伸ばしながら、私に連絡するなと求めているのだ。
ますます血の気が引いた私は、怖くなって、左手を使って後ずさりしながら彼女の様子を黙って見ていることしかできない。息が上がる。心臓がバクバクし、体が徐々にしびれてきて、頭がだんだん重くなっていく。
相変わらず、彼女は苦痛でうめいていた。そんな彼女のうめきを遮るかのように、頭がぼーっとしてきて、周りの音が、視界が、ぼやけていく。そのまま力を失って、私は体の支えを失ってその場に倒れこんだ。