第3節 最悪の裏切り
それからどれくらい経ったのか、目を覚ますと、雪村さんは私の2メートル先で、目をカッと開きながら、完全に事切れていた。
私はまた気を失いそうになりながらも、震える手で携帯電話の電源を入れて、救急に連絡を入れた。そして先輩にも連絡をしたのだ。
その後のことはよく覚えていない。また気を失っていたのだと思う。気づけば、そこは病院の個室だった。
「んー」
ゆっくりと目を見開いた。
「千早・・・目が覚めたのか。」
私はベッドに寝かされていた。首を右側に向け、声の方を見渡した。
「先輩・・・。」
私はゆっくりと上体を起こそうとした。その時右腕に激痛が走った。
「いてて。」
そんな私を見て先輩が慌てて声をかけた。
「まだ無理しちゃだめだ。今ベッドを起こすから。そのままの姿勢でいい。」
先輩は座っている位置の反対に移り、手元のスイッチで背の部分の高さを調整して、私の体を持ち上げた。
「ありがとうございます。」
先輩は再び座っていた位置に戻る。
「・・・まずは無事でよかった。腕が痛むだろうけど、腕の傷は全治二週間だそうだ。幸いにも、傷が浅かったおかげで、指先に後遺症が残る恐れもないみたいだ。」
「そうですか・・・。それより、雪村さんは?」
先輩は首を横に振った。
「そんな・・・。」
「包丁が深く刺さっていたみたいだ。救急隊が駆けつけた時には、既に心肺停止状態だったらしい。」
なんてことを・・・してしまったんだ・・・。
私は先輩から目をそらし、窓の方を見つめていた。
「千早・・・どうして僕に連絡してくれなかったんだ?こうなることは、わかっていただろう。」
私は何も答えない。
「千早・・・キミは、妊娠しているんだろう?」
私はハッとした。先輩は窓に反射して見える私の表情を見ているようだった。
「精密検査をしたときに分かったんだ。4週目だそうだ。あの時・・・できた子供なんだろ?」
「・・・ええ。」
「千早は自分が妊娠しているの知ってたんじゃないか?」
私は黙して答えない。それが暗黙の回答とみなされた。
「・・・ごめんなさい。」
私は短く謝るだけだった。先輩は深くため息をついてうつむいた。
「なんとなく想像はつくよ。お腹の子の存在が分かってしまえば、もう僕は春香と結婚できなくなる。だから。わざわざ自分から殺されに行ったんじゃないか?」
まさに図星だった。
「千早、僕にすべての真相を教えてほしいんだ。僕は千早を守りたい。だけど、本当のことを知っておかなければ、君を守れない。君は楓に殺されに行ったんだろう。なのに、千早は生き残り、楓は死んだ。どうしてそうなったのか、教えてくれないか。」
私は首をひねり、先輩の方を向いた。
「その前に教えてください。先輩は・・・春香と結婚してくれますか?」
先輩は困ったような表情を見せた。そして、私から目線をそらした。
「ごめん・・・それは・・・できない。」
「それは、この子のせいですか。」
私は左手で、布団越しにお腹をさすった。
「・・・それだけじゃない、けど、そのことも一つの要因。」
彼は煮え切らない態度でそう言った。そしてまた私の方を見つめて言った。
「僕は君と結婚する。だけど、僕は春香を見捨てるつもりはない。前に約束しただろ、3人で仲良く暮らしていくって。僕はその約束を破るつもりはないよ。」
春香は、そんなことあり得ないって言った。現実的に考えて、そんなことあり得ないって。
「ねえ、先輩。どんな方法を考えているんですか。教えてほしいんです。」
「・・・簡単に言えば、養子縁組だよ。」
「養子縁組・・・ですか。」
「ああ。僕は千早と結婚する。それと同時に僕は春香を養子にするんだ。本当は、春香と結婚して、千早を春香と僕の二人で縁組するはずだった。」
「そんなこと・・・できるんですか?」
「法的には可能なんだよ。そうすれば、春香も千早も、望月家の一員になれる。」
「でも、そんなこと望月財閥として認められるんですか?」
「そこが・・・秘密の部分なんだ。」
先輩はうつむいていた。
「そもそも、生活はどうするんですか?まさか3人同居するわけにはいかないですよね。」
「・・・・・。」
先輩はそれには答えなかった。やっぱり、3人が幸せに暮らすのは、きっと無理なのだ。正妻から外れた人は、不倫関係のようにこそこそと会わなければならない。きとそういうことなのだろう。
「とにかく・・・千早に子供ができてしまった以上、表舞台に立つのは千早じゃなくちゃダメなんだ。君のお腹に宿った子供について、説明するためにはそれしかない。」
「・・・・・。」
結局、この子のせいなのか。この子がいるから、先輩は・・・。
「千早、今度はこっちの番だ。どうしてこんなことになってしまったのか。その理由を話してほしいんだ。」
先輩に見つめられ、私は首をひねって窓のほうを向いた。そして私は表情を悟られまいと、目を瞑った。
「私・・・先輩のおっしゃる通り、死のうとしていたんです。自分が妊娠して、このままでは、春香が幸せになれないって思った。だから、私は雪村さんに殺されようとして、あの場所に行ったんです。だけど・・・彼女、私が彼の子供を孕んだって知って、ひどくショックを受けて・・・先輩の血を引いた命を殺すことはできないって言って、私を殺すのをやめてしまったんです。それで、先輩がもう絶対に自分のものになることがないって分かったからなのか、自分を殺してくれって言って・・・。」
「それで、楓のお腹に・・・。」
「ええ。」
「その傷は、どうやってつけたんだ?自分で傷をつけたのか?」
「・・・いいえ。雪村さんにつけられたんです。正当防衛に見せるために、わざと私に襲い掛かるふりをした。そうやってできたんです。」
「そうか・・・。分かったよ、ありがとう。話してくれて。」
私はゆっくりと目を開いた。
「いいんです。全部、私がいけないんですから。」
「いや、僕の責任だよ。僕は、春香という存在がいながら、君を愛してしまった。そして、春香と結婚するために、馬鹿げた作戦を立ててしまった。全部、何もかも、僕が悪い。」
私は正面に向きなおり、白い天井を見つめていた。先輩も無言のまま、頭を抱えていた。
「千早、楓に会う前に美希に連絡したでしょ。」
先輩はにわかに私をにらんでいる。
「え・・ええ。」
「僕は美希から最初の連絡を受けたんだ。『千早さんの様子がおかしい。千早さんが自殺をしようとしているって』まさか、僕たち3人の作戦を話してはいないよね?」
「ええ。話していないわ。」
先輩は私の表情を読み取ろうとしている。私は、自分のウソがばれないよう、必死で平静を装った。
「美希とは、どんな話をしたんだい?」
「たわいもない話です。最期の電話になるって思ったから、最後に美希の声が聴きたくなって。それで話していたんです。普段と変わりのないことです。」
「でも、美希は、千早が自殺をするって受け取った。どんな話をすれば、美希はそう受け取るのかな?」
先輩が私を追及する目は、ひどく鋭いように見える。私はあくまで平静を装うことにした。
「美希に『友達になってくれて、ありがとう』って言ったんです。そうしたら、あの子勘がいいから、『千早さん、死んじゃうの?』って聞いてきて。それで、自殺をする前提で話をしたんです。」
「なるほどね・・・。でも、そもそもどうして千早が自殺をするって話になるわけ?」
「それは・・・私が思い悩んでいたからですよ。雪村さんとの関係についてね。美希は、そのことを悟ったんでしょう。」
「ふーん。」
先輩は、どことなく私を疑っているように感じた。でも、もしかしたら、それは私が心なしか動揺しているから、そう見えるだけで、実際はあっさりと信じてくれたのかもしれない。
私は空気を換えるために、話題を変えてみることにした。問題は、これから私たちがどうなるかということだった。
「これから・・・どうなるんですか。私たち。」
「そのことか・・・。」
先輩はゆっくりと顔を上げた。
「とりあえず、打てる手は全部打つ。まずマスコミ対策はしてある。この事件を表ざたにしないように圧力をかけた。話が話だからね、こんなことが報じられたら、望月財閥も、雪村家も終わってしまう。そんなことはさせない。それと、千早はしばらく大学を休学してほしいんだ。」
「休学・・・ですか。」
「ああ、そうだ。少なくとも、子供を産み終わるまでは、外に出ないでほしい。」
「そんな・・・。」
「千早のお腹が大きくなれば、色々な憶測を生むことになる。それに、楓が死んだ理由やらなにやらで、構内が騒がしくなることは目に見えてる。そんな中で、大学に行けば、針の筵だ。だとすれば、事のほとぼりが冷めるまで、大学にはいかないほうがいい。もちろん、アルバイト先もだ。」
「それじゃあ、生活が成り立ちません。」
「それについては大丈夫。僕が全部費用を工面するよ。千早には、不便な暮らしを強いることになるけど、我慢してほしい。」
「・・・私は、籠の鳥ですか・・・。」
「本当にすまない。だけど、千早を守るためには、こうするしかないんだ。今回の件は、いささか想定外だった。だから、色々とやっておかなくちゃいけないことがある。」
「私が動くと、その邪魔になる・・・そういうことですか?」
「はっきり言ってしまえば、そういうことだ。」
しょうがないことだ。本当だったら、雪村さんから先輩を奪い、雪村さんを死に追いやった人物として非難されるべき人間だ。その罪と罰から、私を逃がしてくれるって言っているのだ。贅沢は言っていられない。
「わかりました・・・。全て先輩にお任せします。だけど・・・お願いです。春香が不幸になることだけは・・・しないでほしいんです。私は・・・これ以上春香を傷つけたくない。」
「ああ、分ってるよ。」
先輩は短く答えた。
「ああ、そうだった。さっき、春香に連絡したんだ。もうすぐ、春香がここに来ると思うよ。」
「そうですか・・・。」
正直、まだ決まっていなかったのだ。春香になんて言うべきか。こうなってしまった以上、謝るしかない。でも私・・・怖いよ。
「春香は、きっと私のことを許さないでしょうね。」
「・・・僕が謝るよ。千早をその気にさせて、抱いたのは僕なんだから。」
「・・・私、怖いんです。春香が。」
「彼女の表情かい?」
「ええ・・・。最近春香は、ずっと能面のような顔をしてきたんです。私、あの顔を見るたびに、背筋が凍るようで。」
「今日は、僕もいるから。」
「・・・ええ。」
廊下からかすかに足音が聞こえる。
「来たかも。」と先輩はつぶやいた。
コンコン。部屋をノックする音。
「はい。」と先輩が応じた。
「天海です。」
「春香・・・入っておいで。」
「失礼します。」
戸が開くと、そこには不安そうな表情を浮かべる春香の姿があった。
「千早ちゃん・・・。」
戸を閉めて、彼女はゆっくりと私の元へ近づいていった。後ろめたさで、私は春香の顔を正視できない。
「千早ちゃん・・・何があったの?」
「それについては僕から説明しよう。」
先輩が話に割り込んできた。
「とりあえず座って。」
先輩は自分の横にもう一つ丸椅子を置くと、春香に着席するよう促した。春香が、席に着くと、先輩がゆっくりと事の顛末を説明し始めた。
「千早は、楓に呼び出されたんだ。それで、楓が指定してきた倉庫へと向かった。そこは、普段人気が全くない、廃倉庫だったみたいだ。そこで千早は、楓に襲われたんだ。千早の右腕にある傷は、その時にできた傷。幸いにも、包丁がかすった程度で、すぐに良くなるらしい。」
「楓は・・・どうなったんですか?」
しばらく間があった。
「楓は・・・死んだよ。」
春香は大層驚いた声を上げた。
「死んだってどういうことですか、まさか。」
「包丁で襲われた千早は当然抵抗した。その時、不運にももみ合った末に、包丁が彼女の腹部に刺さったんだ。そのショックで彼女が倒れこみ、包丁が内臓を深く傷つけ、致命傷になったらしい。」
先輩は続けざまに言う。
「でもこれは正当防衛なんだ。楓が一方的に襲ってきた。千早は自分の身を守るため仕方なく・・・。」
「先輩、千早ちゃんから事前に連絡はあったんですか?」
「それが・・・」
「しなかった。」
言いにくそうにする彼に代わって、私が声を上げた。
「どうしてよ、千早ちゃん。どうしてそんな危険なことをしたの!?」
自分が死んで、春香に先輩を譲るためだ・・・。そう説明することは、難しいことではない。だけど・・・私には言えなかった。私は、春香のリアクションが怖かった。先輩を譲るために死のうとした、先輩の子を身籠ってしまったからだ。そう言ったときに、春香はなんて反応するんだろうか。「そのまま死ねばよかったのに。」と、あの無機質で血の通っていない能面のような顔で言われたら、私は・・・もう立ち直れないかもしれない。そんなことを考えると、私は春香から目を背けるしかなかった。
「・・・ごめんなさい。」
考えに考えた末、絞り出したのは、この言葉だけだった。
春香の反応は怖い。だけど、だからと言って言いださない訳にはいかない。私が彼の子供を身籠ってしまったこと。私は恐る恐る春香の顔を一瞥した。その顔は、うつむいていて、今は悲しさに満ちているように見える。それは先輩の前だから見せる演技に違いない。普段の春香の表情とは違っている。言うならこのタイミングしかない。
だけど怖い・・・。もしかしたら、それを言い出した瞬間、春香が豹変するかもしれない。けど言わなくちゃ。いつかは見抜かれてしまうのだ。もうここで言うしかない。覚悟を決めろ、私!
「春香、私、春香に謝らなくちゃいけないことがあるの・・・。」
「何?」
うつむていた春香は、私の方を見つめた。
私はゆっくりと負傷していない左手を自分のお腹の方にあてた。そして、ゆっくりと心を落ち着かせながら、その言葉を発した。
「春香・・・私・・・妊娠したの。」
「えっ。」
春香の顔が硬直する。何が起こったのか、理解できないといった表情だった。
「僕の・・・子どもだ。」
隣で俯きながら、先輩が小さくつぶやいた。
「そんな・・・ことって・・・。」
先輩が突然椅子から飛び出し、椅子を脇に寄せて、地面に伏して土下座した。
「ごめん!春香!」
しばらくして春香が、呆然とした表情のまま私に尋ねてくる。その顔は、次第に色を失い・・・ああ・・・私が恐れていたあの顔へと変わっていく。冷血で、魂の根底からその生気を奪う、いや今はいつも以上に醜い顔をしている。
「千早ちゃん・・・中に出させたの・・・?」
「危険日は過ぎていたの・・・。だから、大丈夫だと思った。それにあの時はお酒で酔っていたから・・・自制が効かなかった。・・・ごめんなさい。」
「春香!すまない!」
隣で先輩の強い声が響く。とてもじゃないけど、春香の顔を正視することなんてできなかった。私は春香の顔が視界に完全に入らないように、部屋の左側の隅っこを見ていた。
「そっか・・・そういうことだったんだね・・・。」
春香の声が震えている。きっと春香は、こう思ったはずだ。「自分は、千早ちゃんに利用された」って。それは・・・紛れもない事実だ。たとえ、私にそんな意図がなかったとしても、そんなこと、どうやって春香に説明すればいいのか。
いや、そんなことは関係ないのだ。自分の想いがどうであれ、春香をこれでもかとばかりに酷い方法で裏切ったことは事実なのだ。春香にとっては、私の意図がどうだろうと関係ないことだろう。
「春香・・・。」
私は、何かを言おうとしていた。ただ、何を言うかは決まっていなかった。
「おめでとう、千早ちゃん!これで、心置きなく先輩と結婚できるね!楓はいないし、彼の子供を身ごもった以上、私に勝ち目はないもんね。」
「春香・・・私は・・・」
私は・・・春香に幸せになってほしい。そう言いかけて、言葉に詰まった。バカだよ私。こんな状況で、その言葉を言ったって、どう考えたって逆効果。春香の気持ちを傷つけるだけじゃないか。
結局、私は春香に掛けるべき言葉が見つからなかった。
「千早ちゃん、ちゃんと先輩をフォローしないとだめだよ!先輩も、千早ちゃんを幸せにしてあげてくださいね、彼女を泣かしたら、承知しませんからね。」
「春香、本当は。」
春香に先輩を譲ろうと考えていたんだ!そう言いたかった。けど、のどの手前で押しとどまった。
「じゃあ、あとは夫婦水入らずで、お邪魔虫の私はかえりまーす。じゃあね、千早ちゃん、お大事に!」
そう言って、春香は席を立つと、私の呼びかけも無視して、走りながら部屋を去った。
その様子を見た先輩は、春香を追いかけるべく、急いで部屋を出て行った。
結局私は、春香の顔を正視することができなかった。きっと春香は、一生あんな顔をして苦しみ続けることになるのだろう。そう考えると、私が彼女に対して犯した罪の大きさを、改めて思い知った。
全ては、お腹に宿った、この子のせいなのだ。この子に罪はない。でも、その存在自体が罪なのだ。この子がいなくなってくれれば・・・。
死に損なった私が、初めて邪道な考えを持った瞬間だった。