第5節 籠の鳥
事情聴取は私が予想した通りだった。過去の事件に触れられることは無く、雪村さんを殺した件についても、形式的なものに終わった。刑事さんからは「正当防衛が認められることになると思う」とのお墨付きを得ていた。
聴取が終わって、警察署を出ると、先輩が黒塗りの車で迎えに来てくれていた。もちろん、運転士付きの車だった。
その足で向かったのは、西新宿のビジネス街にある望月グランドリゾートホテルだった。私は、そこのVIPルームに長期滞在することになった。
ホテルの最上階近くにあるこの部屋は、ホテルの一室とは思えないほどに豪華な様相を示していた。まるで高級マンションの一室の様だった。ベッドルーム、リビング、バスルームから構成されていて、家具の一つ一つまで高級感にあふれている。そして夜には、新宿の夜景を一望できる。
普通の人だったら、一生に一度しか泊まれないだろうと思えるような部屋に、私はこれから住み続けることになる。
すでに自分のアパートにあった私の荷物は、全て部屋の中に運ばれていた。その時私は、もう春香に二度と会うことはできないだろうという直感を抱いた。私は完全に、この都心のど真ん中の高層階で、籠の鳥となってしまっていたからだった。
新宿のど真ん中に私を住まわせてくれたのは、先輩の配慮だった。先輩は大学生でありながら、新宿で仕事をしている。だから、何かあればすぐに駆けつけることができる。高級ホテルを宛がってくれたのも、先輩の配慮だった。ここならば、生活するうえで確かに何一つ不自由することは無い。たとえ私が産気づいたとしても、どうにかなるだろう。
何一つ不自由することのない生活を手に入れた半面、全てが不自由に感じてしまうほどにやることがなくなってしまった。
大学の休学届は先輩が出してくれて、無事に受理されたらしい。大学に行かなくなってしまって、勉強をする必要がなくなってしまった。またアルバイトもできなくなった。かといって、雲隠れしている身分であるから、私は美希やほかの大学の友達に連絡を取って居場所を教える訳にもいかない。先輩が時折顔を見せてくれるとはいえ、私は日中誰とも話せない。
私は、日常の煩雑さと多忙を失う代わりに、孤独と退屈を手に入れたのだ。だから、自分の問題と向き合う時間はいくらでもあった。
どうすればみんなが幸せになれるのか、お腹に宿ったこの子をどうするべきか。私は必死に悩んでいた。そうした中で、私はある根本的な疑問に突き当たった。
先輩はなぜ、春香と体の関係を結ぼうとしなかったのか。その理由は、いったい何なのか。
私は先輩が春香を嫌いになってしまったとは思えなかった。いや、これは私の中の確信した直感なのだが、嫌うどころかむしろ好きだったのだ。正直な所、先輩が私に関係を迫ってきたことの方が、少し強引でよくわからないところだった。
二人とも好きなら、二股をかけてもおかしくないのに、春香とだけは決して関係を結ぼうとしなかった理由、もしかしたら、先輩には、春香を単なる恋人と割り切れない事情があったのではないだろうか。
もし先輩に、春香との関係を躊躇わせる要因があるとすれば、それは望月財閥としか考えられない。
思えば、私はあまりにも望月財閥のことを知らなさ過ぎた。こんなにも近くにいるのに、私は財閥のことについてはあまりにも無頓着あった。先輩の日常の多忙さの裏に、何が控えているのか、私は無性に気になっていた。
幸いなことに、望月財閥について調べる時間もいくらでもあった。ホテルの部屋にはインターネット回線が引かれていた。そこから望月財閥についての情報をかき集めることにした。
すると、そこには表舞台からは決して見えない、望月財閥の影の側面がありありと浮かび上がってくるのである。
暴力団とのつながり、裏ビジネス、臓器売買、違法薬物、インサイダー取引・・・。あくまでネットの情報だ。当然のことながら鵜呑みになんかできない。だけど、ネットの中では、望月財閥が裏社会と深い関わりがあるという噂がまことしやかに流れていた。
だが、それは望月財閥に限った話ではない。水瀬さんの属する水瀬財閥も似たり寄ったりの話が横行していた。
私ははっきり言って世間知らずだ。ジャーナリストを目指しているくせに、そういう情報には本当に疎い。とはいえ、そんな世間知らずの私でも知っている事実がある。それは、望月財閥がマスコミを説き伏せることに成功したという事実である。
あの事件のあと、この件について報じたマスコミは終ぞ知らない。ネットでは都市伝説のように語られていたが、マスメディアが報道しない以上、話が広がりようがない。あの事件は、あくまでネット上の都市伝説として風化していくだろう。
先輩がどんな手を使ったのかは、想像だにできない。だけど、望月財閥が表の社会において途方もない力を有しているのは疑いないのだ。
ますます望月財閥そのものに興味が湧いてくる。ジャーナリスト志望としての興味もあるが、私は純粋に、自分が好きになった人のことをもっと深く知りたいと思ったのだ。こちらだけ調べられるというのは、正直悔しかった。
7月中旬のある暑い夜、水瀬さんが私の滞在するホテルを訪れることになった。私が水瀬さんに連絡して、私の居場所を絶対誰にも明らかにしないという条件で、会合を取り付けたのだ。もちろん、先輩には内緒だった。
午後7時頃、部屋のインターホンが鳴る。私は水瀬さんが訪れたことを確認すると、さっそく、冷房をきかせた部屋の中に通した。
「こんばんは、千早。」
「こんばんは、水瀬さん。中へ。」
私は水瀬さんが入ったのを確認すると、部屋の扉を閉めた。
「なかなかいい部屋ね。このグレードなら、一泊10万円はするわね。」
その通りだ。普段だったら、この部屋は一泊11万3000円で提供されている。ただ、私が長期滞在するために、この部屋の予約はできなくなっていた。
「今、飲み物を入れるわね。オレンジジュースを仕入れてあるの。」
水瀬さんを招くにあたって、1階にあるコンビニで100%のオレンジジュースを仕入れてきたのだ。
「いいのよ、気を使わなくても。それより、座っていいかしら。少し疲れちゃったの。」
そう言って、水瀬さんはダイニングにある椅子に腰を下ろした。私は冷蔵庫から未開封のオレンジジュースのパックを取り出し、2つのグラスに注いだ。私はそれをダイニングにいる彼女のもとに運んだ。お互い向かい合う形になった。
「この部屋、一人だと広すぎるんじゃない?」
それは私が最初から感じていることだった。
「そうなのよね。開放感がありすぎちゃって・・・。」
「この部屋は、多分もともと複数人で宿泊することを前提に作ってあると思うのよね。そこに一人で住まわせるなんて、望月もセンスないわね。まあ、二人でイチャイチャするならまだ分かるけど。」
そう言って水瀬さんは、私のことを少し蔑んだような眼で眺める。
「・・・彼とはして無いわ。1回しか。」
「その一回で孕んじゃうんだから、あんたも運がいいんだか悪いんだか。」
「あなた・・・どうして・・・知ってるの?」
私が水瀬さんに連絡をしたときには、何も話していなかった。
「春香から聞いたのよ。」
「春香から・・・?水瀬さん、春香と最近会っているの?」
彼女は窓の外を眺めながら「まあね。」とだけ短く答えていた。
どういうつもりなのかしら。またしても、よからぬことを考えているのではないだろうか。私は水瀬さんを鋭くにらみつけた。
「別に、春香をどうこうしようとなんてしていないわよ。もう私の目的は達成されたんだし。」
水瀬さんの目的・・・。それは先輩と雪村さんの婚姻を破談に追い込むこと。確かにそれはうまくいっていた。
「じゃあ、何で春香に近づくわけ?あなたに何のメリットもないでしょ。」
「そう。メリットはない。だからよ。」
だから?何が『だから』なのか。
「言っている意味が分からないわ。」
私は水瀬さんの顔の動きを追ってみた。彼女は依然窓の外を見つめたまま、そんなこともわからないの、という侮蔑の色を見せている。
「私は、純粋に春香と友達になりたいのよ。だから、近づいたの。悪い?春香と友達になっちゃ。」
春香と純粋な友達?なんだか嘘くさい。外の景色ばかり見つめて、私から目をそらしているのも気になるところだ。
「あなたに友達を作る気なんてあるのね。」
彼女はこちらに向きなおった。
「失礼ね。私だって、普通の一大学生なのよ。友達の一人や二人、作って当然でしょ。」
私は憮然とする水瀬さんを見つめていた。せっかくだから、春香のことを聞いてみようと思った。私はあの病院で会ったきり、一度も春香の姿を見ていないのだ。
「春香・・・最近、どんな様子なの?」
「そうね・・・一言で言えば、無理してるって感じ?」
「無理・・・。」
水瀬さんはオレンジジュースに口をつけた。
「春香は本当に望月のことを愛していたのね。望月に会えなくなって、ものすごく寂しがっている感じ。傍目で見ていて、こっちが辛くなる。サークルもなくなちゃって、まともに会う機会も無くなっちゃったし。それと・・・。」
水瀬さんは何かを言い含めていた。
「それと・・・なに?」
「春香、少し痩せたみたい。ちゃんと食事をとれているのかしら。」
「水瀬さんといるときは、ちゃんとご飯食べているんでしょ?」
「・・・正直、そうでもない・・・。」
水瀬さんが脇を向いて、彼女の顔が陰に隠れる。照明のせいなのだが、私には彼女が感じている闇の深さを体現しているように見えるのだ。
「食事がのどを通らないらしいの・・・。」
春香・・・。そんな思いを・・・。
「それに比べて、あんたは少し太ったみたいね。赤ちゃんができたことと関係があるのかしら?」
確かに、妊娠してから少し太ったかもしれない。2~3キロだと思うけど、元々痩せていると、少し体重が増えただけでも、肉付きの変化として現れるみたいだ。
「ただ、幸せ太りってわけでもなさそうね。」
「ずっと部屋の中にいて、全然動かないから。」
水瀬さんは周りを見回しながら尋ねる。
「あんたはどれくらい外に出てるの?まさか、ずっとここに缶詰ってわけでじゃないでしょ?」
正直なところ、殆ど缶詰に近い。特段先輩に外出制限をかけられているわけではない。だけど、一人で新宿の街に出ようという気が起きないのだ。今の私は、純粋にこの街を楽しむ余裕などない。それに、一人で遊んだってつまらない。
「あんまり外には出てないの。あっちこっち行くと、先輩に迷惑をかけるし。近くの広い公園を散歩したり、それくらいかな。」
「ふーん、正直退屈でしょ。」
水瀬さんは私の方に目を向けた。
「・・・まあ・・・ね。だけど、贅沢は言えないわ。自分の置かれている立場を考えれば。」
「まっ、そうね。春香の心境を考えれば、これぐらい当然でしょうね。」
わざと言っているのだろうが、水瀬さんの口ぶりには強いとげがある。水瀬さんは、春香からどこまでの話を聞いているのだろうか。
「水瀬さん、あなたは今回の件について、そもそもどこまで知っているの?」
水瀬さんは、半笑いを浮かべる。
「どこまでって、そりゃ表に出ている情報は全て知っているわよ。あと春香を通じて知った情報も。」
「私が妊娠しているって話はどこから?」
「春香からよ。それしか考えられないじゃない。」
確かにそうだ。私が雲隠れをしているのは、雪村さんの刺殺に関わったからだと世間では思われている。世間は私の妊娠の話は知らないはずだ。だとすると、私が妊娠しているという話を知っているのは、私と先輩と春香と美希、この4人だけだ。春香と親交のある水瀬さんが知っているのは、ある種自然かもしれなかった。
「あの子、相当あんたを恨んでるわね。」
当然だ。私は春香に先輩を譲るという約束をしておきながら、最低な形で先輩を奪い取ったのだ。恨まれて当然だった。
「春香は・・・私のことをなんて・・・。」
「それをここで話させる気?私、人が言った悪口を本人に暴露するほど野暮な人間じゃないんだけど。」
「そうよね・・・ごめん。」
「謝る対象が違う気がするわ。あんた、まともに春香に謝罪してないんじゃないの?」
水瀬さんの言う通りだ。病室で春香に謝った時も、私はずっと春香の顔から目をそらしていた。春香を直視するのが怖くて。
「・・・・・。」
「まあ、良いわ。謝ったって許されるような話じゃないっていうのは、あんたが一番よく知っていると思うし。今の春香に何か言っても、火に油ってことになりかねないしね。」
私は彼女の話を遮って尋ねた。
「水瀬さん、もしも元に戻れるのだとしたら。この子がいなくなって、先輩が私を選ぶ必要がなくなったら、春香は救われると思う?」
「あんた・・・まさか・・・。」
私は、お腹の子供を殺すことを本気で考え始めていた。もし私のお腹の子供が、全てをゆがめてしまっているのだとすれば、私は、心を鬼にしなくちゃいけない。
「私は・・・本気なの。」
水瀬さんの口は開きっぱなしだ。しばらくして、我に返ったか、彼女は私見を述べた。
「あんた・・・それだけは止めておきなさい。」
「それは、どうしてかしら。」
私は水瀬さんに理由を尋ねた。
「春香が・・・あんたの子供を望んでいるのよ。」
「春香が?私の子供を?」
「ええ・・・。」
私から目をそらした彼女は、どこかバツが悪そうに床を見つめている。
「どうして春香が私の子供を・・・?」
「私も、それが不思議なのよ。あんたのお腹に宿っている子供のせいで、自分は望月と結婚できなくなったっていうのに、あの子、本気であんたが子供を産むことを望んでいるの。お腹の子を憎んだって全然不思議じゃないのに、あんたには恨み節吐いても、お腹の子には決して怒りをぶつけなかった。」
その言葉を聞いて、私は美希から言われた言葉を思い出した。「子供には罪はない。」たとえ、私が春香を裏切って、子供をもうけてしまったとしても、できてしまった子供に、罪はない。レイプした男に罪はあっても、そうして生まれた彼女に罪がないのと同じように・・・。
もし私がお腹の子を堕胎すれば、私は罪のない子供を殺してしまうことになる。そんなことになったら、春香は余計に許してくれないだろう。
「私、春香の気持ちが分かったような気がする。」
「そう・・・。」
水瀬さんは、興味なさそうに窓の外を見つめていた。
「気にならないの?どうして春香の気持ちが分かったのか。」
私は水瀬さんが質問を向けるように誘導してみる。
「私はあんたの決断の方が気になるわ。子供を下ろすのか、産むのか。私は正直、どっちでもいいと思っている。それは私には関係ないことだし。ただ、確実に言えるのは、もし子供を下ろしたら、春香はもう何があってもあんたのことを許さないでしょうね。」
「たとえ、それが春香の為だとしても?」
水瀬さんはこちらを向いて噛みついてきた。
「それだからこそ、許せないんじゃいの?あんた、やっぱり春香のことまともに考えたことないでしょ。春香は悔しがっているのよ。裏切られて許せないって気持ちも当然あるけど、あんたに女としての魅力で負けたこと、そのことを本気で悔しがっているの。それだけじゃない。自分に望月を譲るために、お腹の子供を下ろす、それって実質的に春香があんたの子供を下ろさせてるのと同じよね。春香は本気であんたが子供を産むのを楽しみにしているのに、それを自分のせいで殺すことになったって知ったら、春香なんて言うと思う?そういうこと考えたことないでしょ。そんなの、春香をバカにしているとしか思えないわ。」
「でも、そうしないと、春香は先輩と一緒にいられない!」
水瀬さんは立ち上がる。
「そう、その通り。だから春香は苦しんでいるの!あんたがどういう行動をとろうと、どちらにしろ春香を傷つけてしまう。それがたとえ、あんたの善意でもね!」
「じゃあ、私はどうすればいいのよ!?」
「産みなさい!そして、春香に謝りながら生きるのよ!それしかないでしょ・・・。」
「それで、春香は幸せになれるの?」
「さあね、だけど、あんたが子供を下ろして云々なんてするよりかは、よっぽどマシだと思うわ。あんたに子供を下ろさせて、望月と結婚できたとしても、春香は本当の意味で幸せになることなんてできないんじゃないかしら。」
水瀬さんが言っていることは正論だ。この子を下ろすことは、きっと春香を深く傷つけてしまうのだろう。だけど・・・。
「先輩は本当は春香のことが好きなのよ。春香だって、先輩の子供を産みたいはず。だけど、私が彼の子供を産んでしまって、結婚してしまったら、それも叶わなくなる。そんなことになるくらいなら、私は、修羅の道を行くわ。」
水瀬さんは私をにらんでいる。
「あんたって、本当に自分勝手ね。結局、そんなの春香の幸せを願っているんじゃなくて、あんたのただの自己満足じゃない。」
「そんなことは・・・」
水瀬さんがため息をついて椅子に座った。
「もういいわ。後は本人と話しなさい。私は春香じゃないんだから。ていうか、そもそもあんた春香とは連絡とってるの?なんか聞かなくても結果が見えているような気がするんだけど。」
水瀬さんは目を細めて私に尋ねる。お察しのとおり、あの事件以来、私は春香と連絡を取っていない。一度もだ。
「いいえ。」
水瀬さんはまたため息をついた。
「なんで連絡とらないのよ。別に誰かさんに禁止されているわけじゃないんでしょ。」
別に先輩はそんなこと禁じてはいない。
「・・・正直、連絡を取るのが怖いのよ。」
「まあ、怒ってるからね。だけど、いつまでそうやって逃げる気。そうやって一人でうじうじ悩んで、春香が望んでもいない結論を出すわけ?」
痛いところを突かれる。正直、反論しようがない。私が黙りこくっていると、水瀬さんが詫びの言葉を述べてきた。
「なんか、ごめん。いろいろ言い過ぎたわ。」
意外なことに、私は目を丸くした。彼女はバツが悪そうに私から目をそらし、窓の景色を見ながら、ジュースに口をつけていた。
「出前でも取る?お寿司なんてどうかしら?」
「そうね・・・まだ夕飯も取ってないし、そうしようかしら。そういえば、あんたってご飯とかどうしてるの?お金渡されてるの?」
「え・・・ええ。彼からクレジットカードを預かってるのよ。黒い色の。」
彼女は死ぬほど驚いていた。
「はあーっ!?何それ、信じられない!?それっていくらでも使っていいってことじゃない!」
「うん・・・まあそうなんだけど、先輩には悪いから、そんなに高いものは食べてないのよ。時にはコンビニのお弁当で済ませたりしてるし。他の日用品の購入も、大体1階のコンビニでほとんどすべて済ませちゃうし。でも、そうやって節制してると、彼怒るのよね、『もっと体にいいものを食べなさい』とか『もっといいものを買いなさい』とか。」
「まあ、将来のお嫁さんがそんなにけち臭かったから、財閥の沽券にかかわるからね。良いものを使ってもらいたいってことなんでしょ。」
「でも、贅沢に慣れちゃうのが怖くって。生活水準ってなかなか下げられないっていうじゃない。」
「いいんじゃないの、下げなくて。まああんたが下げる前提で行動しているなら別だけど。」
水瀬さんはチクリと刺してくる。私は彼女の言葉を無視した。
水瀬さんの助言を無視して、別に特に高級というわけでもない出前のお寿司を頼んだ。
「セレブな生活に慣れた?」
水瀬さんがふときいてくる。彼女の顔には、どこか悪気のある表情が含まれている。
「正直、まだ慣れてない。あまりに環境の変化が激しくて。すごく場違いな感じがするの。」
「ふーん、まあ、私は生まれた時からセレブリティだったから、別にどうってことないけど。」
「今までは、ワンルームマンションを春香と二人で住むような生活だったのに、それがいきなりこれじゃあ・・・ね。春香は・・・どんな感じなのかしら。」
水瀬さんは、困ったような表情を浮かべた。
「それは直接聞きなさい。私はあんたたちのネゴシエーターじゃないんだから。」
「そうね、ごめんなさい。」
春香はきっと水瀬さんに救われているのだ。愚痴を思いっきり言える相手がいる。それを真剣に聞いてくれる相手がいる。春香がかろうじて精神のバランスを保っているのも彼女のおかげだろう。
「水瀬さん、ありがとう。春香のこと気にかけてくれて。」
いきなり感謝されたのが予想外だったのか、彼女は頬を赤らめた。
「べ、別に春香の為を思ってやったわけじゃないし。あくまで、私自身を思ってやったことなのよ。」
たとえそうだったとしても、私はそれが嬉しかった。
「それにもう一人いるのよ。春香の味方は。」
「もう一人?」
「美希よ。」
そうか・・・。自分で頼んでおきながら、すっかり忘れていた。私は美希に、春香の味方になってくれるよう頼んだのだった。
「二人は、仲が良いの?」
「ええ、まあね。美希が結構春香に絡んできて、それに春香が対応してあげてる感じかな。でも、春香も迷惑がってないし。ただ、私にもちょっかいだしてくるのがうざいんだけど。」
私は思わず吹き出してしまった。
「何がおかしいのよ。」
「ごめんごめん、なんとなくその姿がイメージできちゃって。」
多分、美希が伊織を「でこちゃん、でこちゃん」と呼んでからかっているのだろう。容易にその姿が想像できる。
「なんだか失礼ね。」
水瀬さんは憮然として腕を組んでいた。
本当に安心した。春香はあれからどうなってしまったのかと、強く気をもんでいたのだ。だけど、春香は私がいなくてもやっていける。それが分かった。それだけで私は満足だった。
30分くらい無駄話をして、ようやく出前で頼んでいたお寿司が届いた。私は例のブラックカードで支払いを済ませると、お寿司の丸皿をドンと水瀬さんの前に置いて、私も着席した。
「緑茶はないのかしら?さすがにお寿司食べてるときに、オレンジジュースは飲めないわ。」
あいにくだが、緑茶の買い置きはない。そもそもそんなに飲まないからだ。
「悪いわね。ハーブティーしか今はないの。緑茶に近いところだとジャスミン茶しかない。」
「あらそう・・・じゃあ買ってくるわ。下がコンビニになってるんでしょ。」
水瀬さんは立ち上がった。
「私が買ってくるわよ。」
そう言って私も立ち上がる。だけど、水瀬さんはそんな私を制した。
「良いわよ。お寿司奢ってもらってるのに、お茶代まで払わせるわけにはいかないから。いいからあんたはここで座って先に食べてなさい。」
彼女は私を強引に席に就けさせると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
先に食べていいって言われても、正直先に手を付ける気がしない。水瀬さんに申し訳ないという気持ちがあるのだ。だから、私は見慣れてしまった外の景色を見ながら、さっき気になったことを考えてみることにした。
今までの一連の話で、私が気になっていあのは、何故水瀬さんが春香と友達になったのかだった。春香は水瀬さんに懐いている。それは間違いない。私に関する愚痴や恨み節を言えるくらいの仲なのだ。まず間違いなく、水瀬さんは春香の心の支えになっている。
だけど、やっぱり水瀬さんが春香に近づいた理由が分からない。思えば、春香は法学部。彼女は総合政策学部。学部塔がそもそも全然違う場所にある。普段キャンパスを歩いていても、めったに総合政策学部の人間に会うことは無い。
にもかかわらず、サークルなどのつながりもなくなってしまった彼女が、どうして春香と出会えたのか。春香の方から泣きついたのだろうか、それとも水瀬さんの方から近寄ったのだろうか。
この辺りの事情はもう少し詳しく聞いてみたほうがいいかもしれない。水瀬さんは、財閥の思惑の為に、春香を手ごまにしようとした人間だ。そう易々と信用していいはずがない。たとえ、今は春香の心の支えになっていたとしても、将来彼女に牙をむくかもしれない。
そもそも、水瀬さんが春香とどうして仲良くなったのかを隠しているというのも変なのだ。そこには、裏があるのではないか、私は気になって仕方がなかった。
コンコンとドアをノックする音がする。
「私よ。開けて。」
水瀬さんが帰ってきた。私はオートロックの扉を開けて、彼女を出迎えた。
「何よ。全然手を付けてないじゃない。」
「先に食べるのは申し訳ないから、待ってたのよ。」
「そう・・・。まあいいわ、これ淹れてきて。」
そう言って彼女はTパックのお茶を袋ごと手渡した。私は言われるがまま、コーヒーカップを2つ用意し、そこに沸かしておいてあった魔法瓶のお湯を注ぎ入れた。
「はい、どうぞ。」
私はお盆にのせた2つのコーヒーカップをテーブルに持ってくると、一つを彼女に差し出した。
「湯呑もないわけ?」
「セレブだから。」
なんて冗談を言ってみた。
「うちにだって湯呑くらいはあるわよ。セレブとか関係ないからそれ。」
水瀬さんは文句を垂れながらも、箸でお寿司をつつき始めた。彼女がすぐに席を立つことは無いだろう。
春香との親交について聞くなら、今がチャンスだ。
「水瀬さんがサークルをやめてから、あの事件が起こるまでは、そんなに仲が良かったわけじゃないと思うけど、どうして今更仲良くなったわけ?そもそも、どっちから近づいてきたの?」
水瀬さんは黙っていて、何も語らない。
「どうして、何も言わないの?」
「・・・あんたにそれを教える義務はないから。」
「話せないんじゃないの?後ろ暗い理由がある証拠よ。」
「別にそんなものないわよ。ただ、彼女が不憫に見えただけ。」
「どうして不憫に“見える”のよ。そもそも水瀬さんは、春香とは別の学部。それにサークルも辞めちゃって、春香と接触する機会だってなかったはずなのに。」
矛盾に気づいたのか、彼女は何も言い返せずにいる。
「春香に相談されたのよ、望月のことについて。」
しばらくして、水瀬さんはそう返答した。
「それで?」
「春香の相談を受けていく中で、だんだん彼女が可哀想になっていったの。あんたが、春香を裏切るからね。それで私は春香の友達になることにしたの。悪い?」
「春香の方から連絡を取ってきたの?」
「そうよ。あの事件のあとでね。だから、あんたが知らなくて当然よ。」
一応、筋は通っているようにも聞こえる。
「どんなことを相談されたの?」
「そんなの教えられるわけないじゃない。人の相談を易々と打ち明けるほど軽い人間じゃないのよ。」
「先輩のこと?それとも私のこと?」
「・・・・・。」
だんまりを決め込まれてしまった。どうやら、彼女がこれ以上口を割ることはなさそうだ。
再び私たちは無言に戻ってしまう。居心地が悪い。何かを話さないと。多分、彼女はこれを食べ終わったら帰ってしまうだろう。私はまだ本題を切り出していないのだ。もう話を始めてしまうしかない。
「水瀬さん、今日あなたをここに呼んだのは、望月財閥のことについて教えてほしかったからなのよ。」
水瀬さんはせせら笑う。
「はあ?どうして私に聞くのよ。そんなの望月本人に聞けばいいじゃない。」
「彼に聞けない闇の部分を教えてほしいの。」
「闇の部分なんて余計知らないわよ、逆にどうして私がそんなこと知ってると思ったわけ?」
水瀬さんはあきれ顔で私に反問してくる。
「同じ財閥の人間として、何か情報を知っているんじゃないかと思って。お互いライバルなら、相手のことを分析しててもおかしくないでしょ。」
「なんだか分かったようなこと言ってくれちゃうわね。そりゃ、あんたの言う通り、水瀬財閥と望月財閥はライバル同士。情報を探りあっているのは事実よ。だけど、そんなに重要な話は私だって知らないのよ。特に私なんて、結婚して子供を産むだけしか能がないただの女。そんな人間が大事な情報を握っていると思う?」
「何でもいいの。表に出ていない望月財閥の情報を、何でもいいからほしい。ライバル関係にあるんだったら、悪口言っても、水瀬財閥にとっては失点にならないでしょ。」
私の説得を前にして、彼女は箸をおいて、頬杖を突き、窓の外を眺めながら考え始めていた。もっぱら外を向いているのは、私と目を合わせないようにすることが目的だったろう。
しばらくして、水瀬さんが答えを出した。
「噂レベルの話でいいなら・・・教えてあげられないこともないわ。」
私は頬を緩ませた。
「ありがとう、水瀬さん。さっそく、教えてほしいことがあるんだけど聞いていいかな。」
「まあ、答えられる範囲でね。」
私は満を持して尋ねた。水瀬さんは、またお皿のすしに箸を向け始めていた。
「望月財閥って、裏社会との関りがあるって本当?」
彼女は少しぎょっとした顔を浮かべ、口がとまったが、すぐに真顔に戻り、お寿司を飲み込んだ後に、冷静に答えた。
「私も噂レベルでしか知らないけど、多分本当だと思う。」
「水瀬財閥だって例外じゃないんでしょ。」
「・・・それについては、ノーコメントでいいかしら。」
「結構よ。だけど、大体どの財閥も裏社会とかかわりがあるのよね?」
「まあ、大っぴらには言えないけど、間違いないわ。もっと厳密にいえば、表の社会が裏の社会を管理しているの。」
「管理?」
「ええ。よく考えてみれば分かると思うけど、暴力団とかやくざがどうして壊滅しないのだと思う?」
そんなことなんて考えたこともない。
「・・・分からないわ。裏家業の収入が安定しているからじゃないの?」
水瀬さんは鼻で笑った。
「あんた、ジャーナリストを目指しているくせに、そんなことも知らないのね。やくざの世界では、収入源は『シノギ』って言われるわ。それくらいは知っているでしょ?」
「ええ・・・。まあ。」
「その『シノギ』は、元々は安定しないものなの。それはそうよね。裏ビジネスで稼いでくるんだから、安定するはずがない。それを巡ってしばしば抗争が起き、罪もない一般人が犠牲になる。そうした事態を回避するために、財閥や大企業は、裏でこうしたやくざや暴力団にお金を与えて、勢力を安定させるとともに、自分たちの権勢を拡大するために活用しているのよ。」
「そんな・・・」
初めて聞いた話だ。財閥とヤクザが裏でつながっているなんて。
「財閥側も表立っては、裏社会とのつながりは言わない。世間の風当たりが厳しくなるからね。それで表向きは、政府のヤクザ撲滅に協力している。だけど、裏ではしっかりとつながっている。財閥側は彼らの力を欲しているのよ。その非合法な暴力組織をね。財閥側が何か非合法的な活動をするときに、彼らの力を借りたい。一方でヤクザはヤクザで彼ら財閥に寄生することで生きながらえている。共存共栄ってわけ。あんたもそれくらい知っておいたほうがいいわ。社会の矛盾ってやつをね。」
彼女はまたお寿司に箸をつけ始めた。
「・・・分かった。ありがとう。」
そのまましばらく無言が続いていたが、水瀬さんが突然沈黙を破った。お寿司も殆ど食べ終わったころのことだ。
「雪村家との婚姻・・・」
「えっ?」
「なくなったわよね。当然、その後、望月家と雪村家の関係はどうなったか知ってる?」
テレビの報道で知った。望月財閥のいくつかの企業で、雪村家系の人物が取締役から外れたようだ。
「関係は途切れたのよね・・・複数の雪村家系の取締役が望月財閥の企業から外された」と私は答えた。
「その通り。それはそうよね。結婚相手が恋愛トラブルに巻き込まれて、凶行に走ったんだから。あの事件は雪村楓が起こした事件だけど、望月俊にも間接的な責任がある。あの事件で、両家の間の信頼関係は崩壊したの。もうあの2つの家に提携関係はない。だけど・・・。」
水瀬さんが言い含んでいる。
「だけど何?」
「そもそも両家の提携は不自然だった。」
不自然?
「どういうこと?不自然っていうのは?」
「この提携はもともと望月財閥にとっては、特に利益がある提携というわけではなかったはずなの。」
そうなのか?でも確か水瀬さんは、テニスサークルの最初の歓迎会の時に言っていた。
「あなたは、雪村家が教育界に影響力を持っていて、そこに望月財閥が参入するのが狙いだって言っていたじゃない。」
「最初はそう思っていたの。だけど、なんだか違うような気がしてきた。そもそも、雪村家は教育界に影響力は持っているけど、教育産業そのものには大きな影響力はない。学習塾や学習教材関係には全く力が及んでいないの。だとすれば、民間部門からの教育界参入を目指すにしては、殆ど意味がない。」
「だったら、何が狙いなの?」
水瀬さんはゆっくりと目を瞑り、そして静かに見開いた。
「iPS細胞。」
「iPS細胞?」
「どんな技術かは知っているわよね。」
「確か、人の細胞を使って、万能細胞を作り出す技術よね。」
「まあ、ざっくり言うとそんな感じね。自分の体の細胞を使って、全く機能の違うありとあらゆる細胞を作り出せる技術、それがiPS細胞。例えば、皮膚細胞を使って肝臓や心臓といった臓器を作り出すこともできる。この技術が発達すれば、臓器移植なんてしなくても自分で臓器を作り出せるようになる。」
「夢のような技術ね。」
「そう。まさに夢のように巨万の富を生み出すことができる技術なわけ。」
「まさか・・・それが狙いなの?でも、iPS細胞って、国立科学技術研究所が生み出した技術なんじゃないの?そこに望月家は関係ないんじゃない?」
「確かに直接は関係ない。だからこそ、雪村家との関係を持つことにしたのよ。雪村楓の父親は、この国立科学技術研究所の常任理事を務めているの。望月家は、雪村家との血縁関係を活かして、ここから技術を奪い取ろうとしているわけね。」
「そういうことだったのね・・・。」
「この技術自体は、まだ臨床試験にも至っていない初歩の段階。だから、技術を盗用して研究を進めれば、望月財閥が先に商業ベースでの開発を成し遂げられるかもしれない。そういう狙いだと思うのよ。」
「・・・分かったわ。でも、世間ではそんなこと言っていないと思うわ。望月財閥がiPS細胞を盗もうとしているなんて。ネットでも聞いたことがない。」
「雪村家はただの『家』であって、『企業』ではない。企業同士の提携なら、何が狙いかは分かりやすい。だけど今回は雪村家が関わっている国立科学技術研究所の技術が狙いだった。そもそも表ざたにならない両家の提携のその狙いなんて、ますます表に出てこないのよ。」
そういうことか・・・。水瀬さんは続ける。
「だけど、今回の件は本当に大事になっているわ。望月財閥は、雪村家との提携が切れて、情報が手に入らなくなった。彼らとしては死活問題だと思う。」
きっと先輩も、そのことで動き回っているのかもしれない。だとしたら、あまり会いに来てくれないのも納得だ。
水瀬さんは、お寿司を食べ終わり、カップの中のお茶を飲み干すと、携帯電話を取り出した。電話した先は執事の新堂という人物の様だった。どうやら、迎えの車を呼んでいるみたいだった。
「もう帰っちゃうの?」
「もう・・・って、もう9時を回ったところよ。いい加減帰らないと家の人が心配しちゃうから。」
「そう。箱入り娘さんは違うわね。」
「そういうあんたは、籠の鳥ね。こんなところに閉じ込められて。」
「別に閉じ込められているわけではないわ。散歩に出ようと思えば出れるし、縛られているわけでもない。」
「でも、あんたの意思じゃ出られないんでしょ。ここから。」
「まあ・・・ね。それが・・・彼の為でもあるから。こんなことになってしまったのは、私が暴走したのがいけなかったんだし。」
水瀬さんは、黙ってしまった。そして私にお茶のお替りを要求するのだ。
「新堂が迎えに来るまで、もう少しかかるの。もう一杯だけお茶を飲んでいくわ。淹れてきて。」
「分かったわ。」
差し出されたカップを受け取ると、私はそのままキッチンへと向かった。お茶を入れながら振り返ると、彼女はどこかぼんやりとした表情を浮かべている。その表情はどこか悲し気だった。
お茶を淹れて戻ると、彼女の目の前にカップを差し出した。私も席に着く。
「ありがとう。」
伊織はカップに口をつけて、静かにお茶をすする。よく観察すれば、彼女の一挙手一投足に気品さがにじみ出ている。口では小汚いことを言っていても、彼女はやっぱりお嬢様なのだ。本物のお嬢様ってこういう人のことを言うんだろう。
「何見てるのよ。」
思わず見とれてしまっていた。
「何でもないわ。ただ、水瀬さんってやっぱりお嬢様なんだなって。私にはそういうのは多分無理だと思うから。」
「生まれた時からそうだったから。自然と身についたのよ。別に意識したことは無いわ。私にとってはこれが自然なの。」
「そう・・・。」
私は確信していた。この子なら、水瀬財閥なら、春香を幸せにすることができる。たとえ、先輩が約束を果たすことができず、春香が望月財閥からつまはじきになっても、水瀬財閥だったら、春香にそれなりの財力と結婚相手を用意してあげることができる。彼女に賭けるしかない。
「水瀬さん・・・春香のこと、よろしくお願いします。」
私は深々と頭を下げた。
「ちょっ、ちょっと、お願いしますってどういうことよ!?」
彼女はいきなりのことで少し動揺しているようだ。
「先輩は、春香と私と先輩の3人が仲良く暮らしていける道を用意してくれるって約束してくれた。だけど、春香はそれを信じてない。確かに、可能性は低いんだと思う。もし、私が先輩と結婚することになれば、春香は望月財閥の恩恵に与かることができない。だから、もしもそうなったら、あなたに、春香のこと面倒見てほしいの。」
「いきなり、厄介ごとを押し付けてくるのね。私にどうしろって言いたいの?」
「・・・難しいことは言わない。彼女に人並みの生活を与えてほしいの。就職して、経済的にも安定して、良い人を見つけて結婚して、子供を産んで育てて、家族としての当たり前の幸せで暖かな、当たり前のような日々・・・春香が望んでも手に入れられなかったようなそんな生活、それを与える手伝いをしてほしいの。」
「具体的に言えば、就職口を与えてあげればいいの?」
「ありていに言えばそうなるわ。」
水瀬さんは、少し考えるそぶりを見せた。しばらくして、彼女はこう話した。
「・・・それくらいなら、多分何とかなると思う。良いわ。就職口なら保証してあげる。」
私は手放しで喜んだ。
「ありがとう!これで春香も救われるわ!」
ただ、水瀬さんはずっと浮かない顔だ。
「どうしたの?」
「・・・何でもない。」
その後もしばらくどうということはない会話に興じていた。やがて水瀬さんの電話に着信があった。どうやら新堂さんがホテルの下に到着したらしい。
「じゃあ、そろそろ帰るから。」
彼女は床に置いたバッグを拾い上げると、静かに立ち上がった。
「お寿司ごちそうさま。」
「こちらこそ、お茶ありがとうね。」
そのまま彼女は何も言わず、扉の方にまっすぐ向かっていた。
私もホテルの下まで見送ろうと、立ち上がって、彼女についていこうとした。
「見送りならいいから。」
水瀬さんは、見送りを拒絶した。私は歩みを止める代わりに、彼女に尋ねた。
「また、遊びに来てくれる?」
とっさのことだった。かつては、あんなにいがみ合っていたのに、不思議だ。今は彼女と友達になりたいと思っているのだ。それほど今の私は寂しさを感じているのかもしれない。
彼女は立ち止まって尋ねる。
「あら、寂しいの?」
挑発するような声だ。
「・・・ええ。」
あまりにも弱弱しく答えたからなのか、彼女は少し無言になった。
「・・・寂しくなったら、また連絡しなさい。時間が合えば、また行くから。」
「・・・ありがとう。春香のこと、よろしくね。」
「あんたが心配しなくても就職口は何とかする。大丈夫だから。」
「そうじゃなくて、就職の件もあるけど・・・春香の心の支えになってほしい。」
「・・・分かった。」
それと私は、もう一つ気になっていたことを水瀬さんに尋ねることにした。
「ねえ、水瀬さん。」
「何よ、下で新堂が待っているんだから早く言いなさい。」
「水瀬さんは・・・どうして今日、私に会ってくれたの?私・・・散々あなたに酷いことを言って、反発していたのに・・・。」
「・・・じゃあね、千早。」
静かにそう述べると、私の問いに答えることなく、水瀬さんは、ドアを開けて、部屋から静かに去っていった。