第6節 悲運の離別
その翌日、伊織から電話がかかってきた。今日、春香に、前日私と会ったことを話したらしい。そこで春香から改めて、子供を産むようにお願いされたということだった。
彼女の話を聞いて、私の心は変わりつつあった。
お腹の子を産むこと、それは春香と先輩が結婚する道が絶たれてしまうということだ。私は、春香と先輩が結ばれる可能性を見出そうと、この子を殺めることを考えてきた。
だけど、それは春香にとって最も望まないシナリオなのだ。よく考えれば、すぐにでもわかりそうなことだった。私は、春香が望むとおりにしようと思う。
それに、この子の命は、私と雪村さんの命も背負っている。雪村さんは、この子が私のお腹の中にいるから、私のことを殺さなかったのだ。だから私は、この子に自分の命を救われている。そして・・・私の代わりに死んだ雪村さんの命も背負っている。
だから私は、何としてもこの子を産まなくてはいけないのだ。それが、雪村さんを殺めてしまった私ができる、唯一の罪滅ぼしでもある、そう気づいたのである。
私は、この子の為に生きよう。何もかもを失って、親友の信頼さえも失って、そんな最低最悪の人間である私が見出した、生きる理由。それが、お腹に宿った新しい命を、先輩と一緒に育てること。
そう思っていた。
8月初旬のことだった。梅雨が明けて、カラッと晴れた暑い夏が始まった。この日もそんな例にもれず、ピーカンに晴れ渡っていた。
午後6時頃のことである。突然先輩から電話がかかかってきた。彼が電話をかけてくるのは、実に2週間ぶりのことであった。
「もしもし、先輩。」
「千早・・・、久しぶりだね。」
心なしか、先輩の声は酷く疲れ切っているように聞こえる。
「どうしたんですか、いきなり。」
「今、千早はホテルにいるんだよね?」
「ええ。そうですけど。」
「これから外出する予定はある?」
「・・・いえ、特に。夕ご飯をレストランで済ませるだけですけど。」
「そうか・・・今日は大事な話があるんだ・・・。そのままホテルの部屋で待っていてくれないかな。今近くまで来てるんだ。」
先輩にそう言われれば、大人しく待っているしかない。
「わかりました・・・。じゃあ、また後で。」
私は携帯電話の通話を切った。
なんだろう、ひどく嫌な予感がする。胸騒ぎを覚えるのだ。大事な話、それはおそらく私たちの今後についての話だ。それを話そうというのに、なぜか彼の声はとても暗い。
その電話から5分くらい経って、先輩が部屋を訪れた。私は先輩を部屋に通すと、お茶の用意をした。冷蔵庫には、下のコンビニで買ってきた冷たいお茶があった。それをグラスに注ぎ込み、ダイニングテーブルにことりと置くのだ。
「ありがとう、千早。」
彼はダイニングテーブルのいすに深々と腰を掛けて、左手で頬杖をつき、ぼんやりと私のことを見つめていた。その表情は、どこか物憂げであった。
私はその彼の態度を疑問に思いつつも、一緒に席に着いた。
「本当に久しぶりですね。2週間ぶりくらいかしら。」
「そうだね、寂しかったかい?」
「・・・はい。」
「すまない、千早には本当に不便な思いをさせていると思っている。」
そう述べる先輩の表情は、とても暗く、落ち込んでいる。
「ひょっとして、悪い知らせなんですか。」
先輩はうんともすんとも言わない。その時点で、良い話でないことは間違いない。胸がどきどきする。不安感と緊張感で胸が張り裂けそうになる。いったい何が飛び出してくるというのだろうか。
先輩は、何も言わずグラスに手を付けると、グラスに入ったお茶を一気に流し込んだ。飲み終わり、グラスを強く机にたたきつける。その眼には、絶望と怒り、憎しみの感情がこもっているようだった。
「せん・・・ぱい?」
見たことのないような表情に、背筋が凍る。夏なのに、悪寒が走るようだった。
「千早・・・すまない!」
先輩が深々と頭を下げて、テーブルにこすりつけてきた。
「先輩!?どうしたんですか!?」
あまりの行動に、度肝を抜かれた。そして、その次に望月先輩から放たれた言葉は、私の胸を引き裂くようなものだった。
「僕は・・・千早と結婚できない・・・。」
「えっ・・・。」
言葉が理解できない。思わず固まってしまった。
「どうして・・・どうしてなんですか・・・。」
私は放心状態のまま、彼に尋ねた。
「親父が・・・許してくれなかったんだ。『婚約者であった楓を殺した人間と結婚するなんて、あまりに体面が悪すぎる』んだそうだ。」
「そんな・・・。」
「話は、それだけじゃない。僕は、また別の許嫁を宛がわれるらしい。だから、春香とも結婚できないんだ・・・。」
そんなばかな!
どうしてそんな・・・これじゃあ私は・・・何のために雪村さんを死に追いやったっていうの・・・。
「誰なんですか?今度の許嫁は?」
「分からない。親父が教えなかったんだ。僕に教えて、また『殺される』のを警戒したのかもしれない。」
そんなことあってたまるか・・・。ショックだった。信じられないよ・・・。こんなこと・・・。
はっ・・・。お腹の子供は・・・お腹の子供はどうなるの!?
「この子はどうなるんですか!?」
私の悲痛な叫びを聞いて、先輩は両手で頭を抱えた。
「親父は、この子を下ろせって言うんだ。」
「そんな・・・お父様が・・・。」
「望月の血を引いてしまっている以上、この子を生かしておくことはできないんだそうだ。そんなことをすれば、後で誰かがその血脈を利用しかねない。だけど!・・・僕は、そうはさせない。」
先輩は両手を頭から話すと、その手で私の手を取った。彼は私をまっすぐに見据えている。その眼は怒りと悔しさ、そして真剣さで引きつり、目は充血していた。
「千早、逃げてくれ。このままだと、キミの命が危ない。」
「命が危ないって・・・。」
「親父は、千早が堕胎を決断しなかったら、多分千早ごと抹殺しようとしてくる。あの人間は、それくらいしてもおかしくない。そういう人間なんだ。だから、逃げてほしい。逃げて、お腹の子供を産んでほしい!」
突然のことに理解が追い付かない。私は衝撃で口をポカーンと開けている。
「逃げるって・・・どこに逃げればいいんですか?」
「・・・国内は、いたるところに望月の手のものがいる。」
「・・・裏社会の人間ですか・・・。」
先輩は顔をしかめて、吐き捨てるように肯定した。
「ああ・・・。非合法なことを生業にしている汚い集団だ。体よく言えば何でも屋、ありていに言えば、ただの犯罪代行業だ。だから海外に・・・。望月の手が届かない、どこか遠くの国へ・・・。」
「海外まで逃げれば、もう追ってこないんですか・・・?」
先輩はまた顔を落とした。
「・・・確証はない。あの男が本気になれば、海外マフィアまで動かしかねない。そうなったら・・・。」
「私は殺されるしかないんですね・・・。」
きっと暗く冷たい顔をしたのだろう。
「千早!すまない!僕がふがいないばかりに!」
先輩は私の手を取りながら、テーブルに伏して嗚咽をもらしていた。
初めて見る姿だった。
お金持ちで、賢くて、運動ができて、ルックスがいい。そんな完璧という言葉がここまで似合う人間はいない、そんな彼が私の目の前で声を上げて泣いているのだ。
きっと誰にも見せたことがない姿なのだろう。親にも、親友にも、春香にも。そんな姿を、彼は私だけに見せてくれた。
私は理解した。
彼はきっと孤独だったのだ。望月家の嫡男として、常に完璧でい続けなければならない。そして常に成功し続けなくてはならない、何でもできた。きっと、彼もなんでもできると思っていた。そんな彼が味わった、深い深い挫折、絶望。
そんな彼が不憫だった。
私は、彼の手を放し、左手で優しく頭を撫でた。普段だったら、逆なのに。初めてなでる、彼の頭。トリートメントがなされ、ツルツルする彼の白い髪。
「俊・・・ありがとう・・・私の為に。たくさん努力してくれたんだよね・・・私・・・うれしい。」
俊・・・名前で呼ぶのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「千早・・・本当にすまない・・・。僕は・・・とんだ役立たずだ!」
彼はぐずりながら、机に何度も拳を叩きつけながら、自分を責める。
「あなたは本当によくやってくれた。えらいよ!私は、俊がしてくれた努力を何も知らない。ここにいてただぼーっとしていただけ。それに比べて、俊はいろいろ行動してくれた。私たちが傷つかないように、日夜駆けずり回ってくれた・・・。私・・・誰が何と言おうと、あなたのことを認めるわ。あなたは、私のために努力してくれた・・・。春香と私と俊で、みんなで仲良く暮らせるように頑張ってくれた・・・。誰も認めてくれなくても、私は認める・・・。」
「結果が全てなんだ!どんなに努力しても、結果が出なければ、何の意味もない!」
私は立ち上がって、彼のもとに移ると、彼に覆いかぶさるように抱きしめた。耳元で囁く。
「私は・・・そうじゃないと思うわ。過程だって大事。私は、私の為に頑張ってくれるあなたが好き。あなたがしてくれた結果だけが好きなんじゃない。だから・・・うんうん。今は、・・・考えるのをやめましょう。考えるのは後でいい。今は、ゆっくり休もう。私の胸は、ここにあるんだから。飛び込んでおいで・・・。」
彼は起き上がって立ち上がると、そのまま私に抱き着いてきた。彼はわんわんと泣いている。
「うっ・・うぅぅうぅぅうああああぁああっぁっぁっっぁっああぁ・・うわあああああぁぁぁぁあぁっっああぁっーーんんんんぁぁっぁっぁっ・・わぁあああ!!・うわーああああぁぁぁぁっああぁっぁんあんっぁん!千早あぁっ!!!!本当にぃぃ・・・ほんとうにぃっぃいっ・・すまなぁいぃぃっっ!!」
「・・・もういいの・・・私は十分幸せでした・・・。俊は、ずっと一人で戦ってきたんだよね。誰にも相談できず、誰にも頼れず・・・。だけど、私は俊の味方よ。もっと頼ってくれていいんだよ。私が・・・頼りなかったんだよね。」
「そうじゃあぁぁあないあぁんだぁ!キぃミぃができるぅうことはぁあ何もぉおなかったぁあぁんだぁあ!うわあぁぁぁぁああっっんぁ!だからぁぁ、僕がぁあし;ぃっかりするしかなあぁい!それしかあぁあなかぁったぁのぉにぃぃぃい!くそっおぉおお!」
「だったら、せめて今日は・・・今は・・・私の胸を頼って。今は泣いて。泣いて、すっきりしようね。」
「うわぁぁあぁああぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁっぁあん!!」
私はそんな彼をひたすら受け止め続けた。私にできることは、それくらいしかないのだから。
あれから10分くらい経っただろうか、彼が落ち着き、またダイニングテーブルに腰を下ろした。私は彼の為にまたお茶を入れてきてあげていた。
「落ち着きました?」
「・・・ああ。ありがとう・・・こんなこと、初めてだよ。いや、小学校2年生以来かな。声を上げて泣いたのは。」
「もう・・・そんなに前になるんですね。」
「親父に言われていたからね。『男は泣くな、涙は女の特権なんだから』ってね。僕もそれを真に受けたほうでね。」
「そうですか・・・。」
きっと先輩のお父様は厳格な人なんだろう。ふと、先輩のお父様のことについて、興味が湧いてきた。
「先輩のお父様ってどういう人なんですか?」
彼は答えづらそうにしながらも、渋々語り始めた。
「持ち株会社望月ホールディング株式会社の会長で、望月グループの総帥と呼ばれる人だ。社員はみんな彼のことを畏敬と蔑視の両方を込めて『皇帝』と陰で呼んでいるよ。」
「先輩のお父様としては、どんな人?」
「はっきり言って、父親の体をなしてなかったね。育児は全て家政婦さんに任せきり、土日祝日関係なく忙しく働いていたせいもあるけど、父親にどこかに連れて行ってもらったことも、一緒に遊んだ記憶もない。僕にとって、あの人はただの他人なんだ。それくらいの印象しかない。」
「・・・私と同じですね。」
「全然違うよ・・・僕はただ相手にされなかっただけ。それに比べて君は・・・。」
父親と称される人に体を蝕まれ続けた。
「そうですね・・・。」
「・・・親父はあと20年は現役でいると思う。その間、僕はずっとあの人の奴隷なんだ。僕に拒否権はない。結婚する相手も、何もかも・・・僕は何一つ自由にできないんだ。そのせいで・・・僕は君にもとんだ迷惑をかけることになる・・・。楓の命を奪わせてしまって・・・それでいてこのざまとはぁっ。」
彼が顔をしかめて唇を噛む。
「もう責めないでください。あなたは、最大限頑張ってくれたんです。それだけで、もう十分なんです。本来、私は・・・、春香もだけど、あなたの大切な人になっちゃいけなかったんです。それを無理して、あなたの心を奪ってしまった。そのせいで、こんなことになってしまったんです。大丈夫です・・・。子供を下ろして、全てが元に戻るだけです・・・。」
私はゆがんだ笑顔を見せた。無理しているのが、自分でもわかる。
「・・・元には戻れないかもしれない・・・。」
「どういうことですか?」
「千早には・・・しばらくうちの別荘に移ってもらうことになる。」
「・・・復学・・・できないんですか?」
「・・・これも親父の命令なんだ。まだ事件が起きてから日が浅い。このまま大学に戻れば・・・また噂が立ってしまうかもしれない。それは・・・避けたいそうだ。」
「・・・わかりました。」
「明日、都内の病院に行ってもらう。そこで手術を受けてほしい。手術が終わったら、うちの会社の人間に迎えに上がらせるから、それに乗って、別荘に向かってほしい。」
「その別荘ってどこなんですか?」
「館山だ。うちの財閥の不動産開発の会社が持っている別荘で、ここなら世間から身を隠せる。・・・大丈夫。館山は静かで過ごしやすい。」
先輩は申し訳なさそうに下を向いた。私はそんな彼の手を取った。
「千早・・・もうしばらく会えなくなる。1か月とか、2か月とかそんなスパンじゃない。もっと長い・・・月日になると思う。」
「・・・もう一生会えない・・・そういうことですか?」
「・・・そうかもしれない・・・。」
「・・・・・。だったら、最期に・・・私を愛してください。先輩の愛を・・・この体に刻みたい。」
「・・・分かった。ベッドに行こうか。」
彼がゆっくりと立ち上がると、私も立ち上がり、そのまま二人で手を繋いだまま、ベッドの方へと向かっていった。
「あっ、ちょっと待って。」
私は彼の手を放し、部屋のカーテンに向かうと、それをしめて、電気を消した。そして彼の元へと戻る。
「恥ずかしいから。」
「そうだね。座って、千早。」
先輩がベッドの下側部分に腰を下ろすと、私も一緒に腰を下ろした。部屋は暗く、真っ暗で何も見えないが、先輩のことはなんとなく見えている。
「先輩・・・好きです。」
「僕もだよ。千早。」
先輩の顔がゆっくりと近づいていく。私は目をつぶり、彼の唇が触れるのを待った。先輩の優しくて甘いキス・・・。
先輩が優しく私の唇に触れると、彼はそのまま片手でゆっくりと私を横に倒した・・・。
行為が終わって、私たちは裸のまま布団の中にもぐりこんでいた。一緒に仰向になって、彼が私の肩を抱いている。私が孕んだあの時と同じ構図だった。
彼がゆっくりと語りかけた。
「僕は親父を脅していたんだ。千早との結婚を認めさせるためにね。千早もなんとなく感づいているかもしれないけど、うちの財閥は結構ブラックなところがある。こんなこと表ざたになったら大問題になるっていうのが、結構ね。僕はその問題を公表するって親父を脅したんだ。」
「・・・相手にされなかったんですか?」
「結果的に言えばそうだった。親父を脅すのは、もともとは、楓を傷つけずに、楓との婚約を解消するための作戦だった。望月財閥の裏側を暴露されたら、組織が持たない。そうやって脅せば、親父は折れる、そう思っていた。だけど現実は甘くはなかった。親父は、僕がつかんでいた証拠を一つ一つつぶしていったんだ。それに、逆に脅された。『望月財閥が崩壊すれば、裏社会が大混乱になる。そうなれば、その原因を作った千早と春香の命はないってね。』」
春香?
「春香は関係ないじゃないですか。」
「僕が春香とも仲良くしている事実を、親父は知ってた。多分、監視されていたんだと思う。暗に、千早と春香を殺すって言われて、僕はどうしようもなかった。親父は、目的の為なら手段を択ばない、そういう男なんだ。」
先輩の口から滲み出る憤りと悔しさで、私の背筋は凍っていた。
「あの男は、春香と千早を殺すって脅せば、僕が何もできなくなると見抜いていたんだ。それに、僕が本気で望月財閥を壊すことはできないと思っていた。完全に見くびられていたよ。・・・もうこれで、僕は一生あの男の奴隷だ。親父は僕に家督を継がせたい。だけど、僕が家督を固辞するということもあり得た。その際には、仕方がないから楓と兄貴を結婚させて、兄が家督を継ぐということになっていた。あの頃の僕には、何の弱みもなかった・・・。失って困るようなものは何もなかったんだ。だから、そういう選択肢もあり得た。だけど今は違う。僕は、春香や千早を失いたくない・・・。」
「先輩・・・。」
「許してくれとは言わない。そんなことおこがまし過ぎる。春香と君を、こんなことに巻き込んでしまった。」
私は自分のお腹に手を当ててみた。瘦せっぽちの私でも、まだお腹のふくらみは感じられない。だけど、ここには間違いなく、新しい命が宿っている。先輩と私の世界にたった一人の子。そしてこの子は・・・私を救ってくれた子でもあるのだ。そして、雪村さんが・・・命を懸けて守ってくれた命なのに・・・。
「先輩、敢えて嫌なことを言わせてください。」
「何だい。」
私はそう言いだしてしまったのにもかかわらず、続きを話すべきかどうか二の足を踏んでいた。先輩が悪いわけではない。全ては望月剛三郎、あの男のせいだ。あの男のせいで、私たちは引き裂かれ、この命は失われる。彼が悪いわけではないと分かっているけど、・・・どうしても言っておきたいのだ。
「雪村さんは、この子がお腹にいるって聞かされたから、私を殺すのを止めてくれたんです。先輩の子供を殺すことになるからって。」
「ああ・・・。」
「本当は私が死ぬはずだった。私なんて、殺されても仕方がない人間だったんです。碌な人生を送っていない。なのに、この子のおかげで、私は生き残り、雪村さんは死んでしまった。」
私は再びお腹に手を当てて、まだ見ぬ我が子、そして永遠に見ることのない我が子の鼓動を確かめようとしている。
「・・・千早。千早は悪くない。全ては楓の自業自得なんだよ。」
「でも、そうさせてしまったのは私たちですよね。彼女を炊きつけて、狼狽させて、そして死に追いやった。」
自分が卑怯なのはわかっている。自分も雪村さんを精神的に追い詰めることに加担していた。どころか、積極的な役割を果たしていたのだ。にも拘らず、私は誰か別の人を非難するかのように、他人事のように話している。
「あの人が自分の命を捨ててまで守ろうとしたこの子を殺してしまったら・・・雪村さんは、一体何のために命を捨てたんでしょう。」
先輩は何も答えられなかった。
「・・・ごめんなさい。今のことは忘れてください。私・・・悔しかったんです。先輩からいただいた愛の結晶を・・・生きている命を・・・殺さなくちゃいけない。色々な人の想いの上に生きているこの子を・・・殺さなくちゃいけない。色々なことが頭をぐるぐると回っていて、何も整理がつかない。それくらい混乱していて、・・・とにかく悔しいんです。こんなことで、この子が死ななくちゃいけない。どうしても・・・整理がつかなくて・・・。」
私はお腹の上で震えながら握りこぶしを作った。
「僕は・・・望月剛三郎のピエロになるつもりはない。今は・・・どうしようもできない。だけど、いつか必ず・・・僕はあの男を打ち破って見せる。そして千早に・・・そして春香に、夢を見せてあげるんだ。」
「・・・・・。」
「約束する。僕はいつか必ず、春香と君を迎えに行く。だから、その時まで待っていてほしいんだ。」
「・・・待っています。ずっと・・・あなたが迎えに来てくれるのを。」
「ああ・・・。」
堕胎の件は、先輩から春香に話してくれることになった。また私は、春香から逃げてしまったのだ。
あくる日、私は3件目の殺人を犯した。自分のお腹に宿った我が子を、その手で殺めたのだ。そして私が身を移したのは、館山ではなく、軽井沢だった。
先輩は、私が軽井沢に移されたということを多分知らないのだろう。もはや、私は先輩に匿われているのではない。その背後にある、もっと巨大な権力によって、半ば閉じ込められたのだ。
軽井沢は本当に静かな場所だった。だけど、その代り、新宿でのホテル暮らしの時と同様に、私にはやるべきことが何もなかった。
別荘には、私の身の回りの世話をしてくれる人がついた。40代の男性2人だ。だがこの人達の本当の目的は、私が不審な動きをしていないか、逃げようとしていないかどうか私を監視することなのだろう。
私の携帯は取り上げられてしまった。もうきっと誰にも連絡をすることはできないだろう。美希にも、伊織にも・・・春香にも。
私は、一人寂しく軽井沢という閑静な監獄の中に、閉じ込められたのであった。