雀《すずめ》の声が夜の闇から朝の光に変わる時を告げてくる。
時間はどれだけ望んでも戻りはしないし、移り行く変化を変える事もしようとはしてくれない。
どれだけの代償を払うと言っても。自分の命さえくれてやると望んでも……
僕が静かに覚醒《かくせい》した頃。頭が微妙に上下していた。
「そっか。あのまま寝ちゃったんだ」思考が記憶を呼び覚ますと同時に思い出したくない言葉まで呼び覚ます。
(いくら血が繋がってないからって義弟《おとうと》には変わりないんだから)その一言は未だに僕を蝕み続け、癒える所か一秒いや、片時も広がらずに留まろうとはしてくれなかった。
(亮輔兄ちゃんってこんな顔で寝てるんだ。やっぱりかっこいいな。この唇に僕は触れる事も許されないんだろうな。ずるいかもしれないけど、亮輔兄ちゃんが寝てる今なら。ばれなければ。大丈夫かな? )亮輔兄ちゃんの口を見るだけで体の熱は一気に上昇し、僕の体を焼き尽くす。それと比例するように亮輔兄ちゃんの言葉が僕の心を切り裂き引きちぎらんとする。
そっと息を殺し、僕の唇は静かに亮輔兄ちゃんの唇と重なり、一瞬のうちに離れる。
「やっぱり僕は亮輔兄ちゃんの事」そっと呟き、唇を人差し指でそっと撫でながら、後ろ髪引かれる思いでベットを後にする。
一歩部屋から出るとリビングの方で話し声が聞こえ、その楽しそうな話し声が今の僕にとって癇《かん》に障《さわ》った。
(どうして僕だけがこんなに苦しい想いしなきゃいけないの? 僕だけが諦めなきゃいけないの? 僕がまだ子供だから? )
リビングの扉の前までは行くのだがどうしてもその扉を開く事ができない。
僕がリビングの前で項《うな》垂《だ》れている所にいきなりドアが開かれる。
「優夜。そんな所で何してるの? 早く入ってご飯食べましょ。あら? どうしたの? もしかしてまだ亮輔ちゃんと仲直りしてなかったの? 」不必要な心配をする母に何も言わず素直にリビングへと足を進める。
「優夜君、おはよう。昨日はうちの亮輔がごめんね。亮輔まだ寝てるんだろ? あいつはいつも休みの日は起きるの遅くて私はあいつが休みの日はいつも一人で寂しかったんだ」朗らかに笑いながら話してくる義父《ちち》にさえ苛立《いらだ》って仕方が無い。
(僕を家族って輪に入れないでよ! そこに入っちゃったら僕狂っちゃうよ)悲痛な言葉は誰にも届きはしない。否、届かないのではなく言えないのだ。
家族と言う絆を失くしてしまったら只の他人に戻る。
それも僕は怖い。
他人に戻ってしまえば会う機会が忽然《こつぜん》と無くなる。それがまた堪《た》えられないのだ。
(これもやっぱり僕の我侭《わがまま》だよね。お母さんの恋路邪魔して自分だけ幸せになろうなんてずるいよね)
「僕、家出ちゃ駄目かな? 」誰にも届かないようにと願いながらポツリと零す。
それこそこの二人を苦しめる言葉だと知っているからこそ届かなければいいとさえ思ってしまう。
ただ、どうせ他人に戻るのも嫌で家族としても嫌ならばせめて、お母さんの恋路は邪魔しちゃいけない。
そして僕はここで亮輔兄ちゃんと家族として過ごす事も無理だろう。
それならば、いっそ亮輔兄ちゃんに会わない様にしないと僕の気持ちが我慢できないとさえ今では理解する。
「どうしたの急に? 何かあった? 」
聞こえてたんだ。ごめんなさい。我侭な子供で。
「何でもない。そうだ! 今日は国久と遊ぶ約束してたから行ってくるね」顔を振り上げニッコリ笑いながら自室へと戻る。
(何しにリビングに行ったんだろう。そっかこの結婚ぶち壊そうとしてたんだ。僕って馬鹿? お母さんの結婚ぶち壊しでもしたら亮輔兄ちゃんに会う理由も無くなっちゃうのに)
亮輔兄ちゃんが目を覚まさないように静かにドアから入り、パジャマから私服へと着替える。
(亮輔兄ちゃん。バイバイ。それとごめんなさい。やっぱり僕はここに居れない。義弟ではいれないから。そんなの無理だから。いつか僕の恋する気持ちが無くなった時、もし生きてたら戻ってくるね。そんな事一生掛かっても無いかもしれないけど)静かに顔を寄せもう一度だけ唇を重ねる。今度は一瞬などではなく、最後の時を愉しむようにゆっくりと。
部屋を出る時も亮輔兄ちゃんが目覚めないよう、細心の注意を払い部屋から抜け出す。
(これからどうしよう。どこかに当てがあるわけじゃない。かと言って生活するだけのものも持ってない。でも、ここから出ないと駄目だから)
リビングのドアを開け、行って来ますとだけ明るく言うと行ってらっしゃいと明るく返ってきた。元々母は明るくサバサバしてるので、あんまりしつこく聞きはしない。
話したくなったら話すだろうしという考えのもとらしい。
それが今の僕にとって、救い以外の何者でもない。
家を出て、国久には謝らなきゃと思い返す。
国久には酷い事されたけどやっぱり大事な友達だから仲直りしなきゃ。
国久が起きる時間まで適当に暇を潰してその後で、国久の家を訪ねた。
「国久ぁー。いるぅー? 」いつも通り外でインターホンを鳴らさずに道端から大声で呼び出す。
いつも通りドタバタと服を着替える音がしたかと思うと次はドタバタと階段を駆け下りる音がする。
その『いつも通り』が僕にとっては嬉しかった。
「姫ー。昨日はごめん! 」玄関が壊れそうな位力一杯開けて、国久が飛び出してくる。
「僕こそごめんね。 昨日一緒に居たの彼氏じゃなくてお母さんがもうすぐ結婚するんだ。その相手の子供。だから、僕のお兄ちゃんになる人」こんな事言いたくないと思いながらも、せめてこの町で暮らす事になるかもしれない亮輔兄ちゃんの為に誤解だけは解かなきゃ。
僕の頬に一筋細い水跡《みずあと》を作り地面にポツリと落ちる。
もうあのぬいぐるみにしがみつき泣く事も無ければ国久に泣きつくことも無い。当然亮輔兄ちゃんの腕の中で泣くなんて事は僕にはもう許される事じゃない。
じゃ、行くねと口には出さず、国久に背を向けあても無いどこかへと踏み出す。
「おい、姫! 一緒に遊ばねー? 近所のゲーセンで」国久は昨日から変だ。辛そうな顔するし、急に怒るし、ゲーセンなんて行った事無いのに急に行こうなんて言い出すし、でも、今日位はいいか。何となくまだ独りになりたくない。
「オッケー。ゲーセン行ったら何する? UFOキャッチャー? それとも格ゲー? 」明るく笑いながら誘いに乗る。
ゲームセンターで遊びまくってなんだかもう遣り残したことは何にも無いって位にすっきりした夕方の帰り道。
ふと川沿いの道路から土手まで国久が駆け下りていく。
仕方なく僕も土手まで駆け下りるが、国久の隣についた時急に国久から抱きしめられた。
「な、なに? どうしたの? 」国久から抱きしめられたことなんて今まで一回も無い。それに亮輔兄ちゃんみたいに安心のみ感じることもない。
「彼氏じゃなくて兄貴なんだろ? そしたら俺が告っても大丈夫って事だよな? 優夜。好きなんだよ。昔から。お前と会ったあの時から。付き合ってくれ。友達としてじゃなく恋人として」
(そっか。国久は妬いてたのか。亮輔兄ちゃんに。喧嘩した時僕が感じた様に。国久が亮輔兄ちゃんに一瞬でも触れた事が嫌だった。殴った事が嫌だった。亮輔兄ちゃんに触れていいのは僕だけなんだからと勝手に思ってた)
「確かにお母さんが結婚すればお兄ちゃんだよ。僕が兄弟以上に好きかどうかは別問題として。ごめん国久。国久とは友達以上では付き合えない」国久の抱きしめた手から力が無くなる。それを僕がそっと解き、そしてそのまま背を向けて歩き始めた。国久を残したまま。
(ごめんね。国久。多分僕としても国久と付き合ってた方がきつくないとは思うけど、それって逃げてるだけだし、僕には亮輔兄ちゃんしか見えないから。亮輔兄ちゃんじゃないと抱きしめられても恐怖…感じちゃうから。ごめん)
心の中でずっと謝りながら何処かに行こうとする。
気がつくともう空は暗く、雨雲が近付いてきている。そして僕が居るそこは亮輔兄ちゃんと初めて会ったホテルの前だった。
(なんでここに来ちゃうかな? ここに来ちゃったら思い出しちゃうじゃん。忘れる為に家出してるのに)薄っすらと涙が浮かびそのまま引き返す。
近くの路地に入りそのまま地面にペタンと座り込むと涙がポロポロと零れ始め、これ以上落ちないようにと視線を高めに向ける。
(ここも何で来ちゃうの? ここ亮輔兄ちゃんが助けてくれた場所だよ。それにすぐ隣の通りは国久と初めて殴り合いの喧嘩した場所じゃん)
何の為に出てきたのかわかんない。
僕の足りない涙を補うようにポツポツと雨が降り注ぎ始めるがどうしてもその場から離れられなかった。
どれ程の時間が経ったのだろう。大通りを行きかう人も疎《まば》らになり、小さな路地に目を向ける人もいない。
雨はあれから一層酷く降り雷まで落ち始めた。
寒さに体がカタカタ震え始め、涙か雨で視界は歪み、嗚咽は益々酷くなる。
それでも、ここから離れたくない。離したくない。例えここで命が尽きたとしても。
その辺りで僕の記憶は途切れた。