「いま、
「はい、悠生さんに顔を叩かれたとき、反射的に目を閉じて『痛い』と言ってしまいました」
天女も自分に何が起こったのか理解できていない様子だった。
「私に叩かれたとき、どんな感じがしましたか」
「今まで感じたことがない鋭い感覚がありました」
「それは、好ましい感覚ですか、それともよくない感覚でしたか」
「よく分からないのですが、嫌いな感覚ではなかったような気がします」
「きっと、いま天女さんが感じた感覚が『痛い』というものです。今のは軽い痛さですね」
「そうなのですね。でも、なぜ痛さを感じるようになったのでしょう」
天女が首をひねって不思議そうな顔をした。
「おととい、私を殺すとき、私が苦しんだり痛がったりした様子を見て学んだのかも。それが昨日の事故で天女さんが死んで再起動されたことでメモリーに反映されたんですね」
悠生が自分なりの見立てを披露した。
「なるほど、悠生さんが『これが熱いということです』ですとか『これが痛いということです』と身をもって教えてくださいました。それで分かったのですね、きっと」
天女が納得した。
「でも、さっきの痛いのは嫌いじゃないんですよね?」
悠生が天女の言葉を思い出した。
「はい、もっと叩かれたいと思いました」
「無痛は直っても被虐体質は変わらないんですね」
悠生が苦笑した。
「これはプログラムの間違いではなく、私の性格なのだと思います」
天女が屈託なく笑った。
「そうみたいですね」
悠生がもう一度天女の頬を叩いた。
「やっぱり痛いです。痛いということが分かって嬉しいです。今まではただなんとなく気持ちいいとしか思っていなかったことが、はっきりとした痛みとして感じられるのですから」
天女が大喜びした。
「でも、こうなると今までのように簡単に殺すというわけにはいきませんね」
悠生は少し残念そうだった。
天女を殺すのが楽しくなってきた矢先のことだったからだ。
「無痛ではないわけですからね」
天女も残念そうな顔をしている。
「まあ今までがおかしかったんです。これからは普通に生活できるということですよ」
悠生は自分に言い聞かせるように天女に言った。
「おっしゃるとおりです」
天女が悠生に拝礼した。
自分が死ぬのを楽しく感じたのだから、天女も死ぬことを快感と受け止めるかもしれない。
交互に殺し合えたら楽しいに違いない。
そう想像した悠生は、股間がぬめるのを感じた。
悠生は、股間のぬめりを楽しみながら仕事に取りかかった。
天女は、いつものように人をダメにするクッションにもたれかかって薄い本を読む。
悠生は、一度死んで生き返ってから、仕事の質が格段に上がったような気がしていた。
今まで頭を悩ませていたプログラムの記述が、次々と頭の中に浮かんでくるようになった。
しかも、無駄な記述がない美しいプログラムがすんなりと思いついた。
仕事を手際よく片付けた悠生は、息抜きにネットニュースを眺めている。
「へえー、今日はスーパームーンなんですって」
悠生が天女を見下ろして話しかけた。
「スーパームーンって何ですか?」
天女が人をダメにするクッションから身体を起こして悠生に質問した。
「スーパームーンっていうのは、満月と月の最接近が重なることを言うんですよ。簡単に言えば、大きな満月が見える日ということです」
悠生が分かりやすく説明した。
「なるほど、そういう日なのですね」
天女がまたクッションにもたれかかろうとして跳ね起きた。
「大きな満月……ですよね」
何かに怯えたような声で確認した。
「そうですよ。夜になったら外に出て見てみましょう」
悠生は天女の変化に気づかなかったのか、いつものように明るく月見に誘った。
「大満月……」
天女は俯うつむいて囁ささやいた。
夜になった。
「天女さん、月を見に公園に行ってみませんか」
悠生が夜の散歩に誘った。
「あ、はい……」
天女にしては歯切れの悪い返事が返ってきた。
「どうしたんですか? どこか具合でも悪いんですか?」
天女の
「いえ、なんでもありません。すみません」
天女は笑顔で悠生に続いて散歩に出かけた。
羽根木公園には、ジョギングやウォーキングをする人に交じって月見に訪れた人も少なくなかった。
その日の月は、とても大きく、そして赤く光っていた。
「こんな大きな月を見たのは初めてです」
悠生がため息をついた。
天女からの返事がない。
普段なら、天女は悠生の言葉には必ず返事をする。
悠生は、天女の異変に気づいた。
「天女さん、今日はどうしたんですか? やっぱり具合悪いんじゃないですか? 部屋に戻りましょう」
月を見上げていた悠生が顔を戻して後ろから歩いてくる天女を振り返った。
「天女さん!?」
悠生が驚きの声を上げた。
部屋を出るとき、Tシャツと短パンだった天女が巫女の衣装を身につけていた。
髪もしっかり束ねられ、どこから見ても清楚な巫女だ。
しかし、それを身につけている天女の表情は暗く目が虚ろになっている。
「天女さん、その衣装、どうしたんですか?」
悠生は何が起こったのか理解できなかった。
「悠生さん……」
天女が蚊の鳴くような声で悠生を呼んだ。
「なんですか」
悠生は、天女の側に寄り添って天女の顔を見上げた。
天女の頬に一筋の涙が光った。
「お別れの時が来ました」
意を決したように顔を上げた天女が悠生に別れを告げた。
「え、どうしたんですか? なんでお別れしなきゃならないんですか?」
悠生は天女に言われた言葉が納得できなかった。
「間もなく迎えが参ります。私は、その迎えの者たちにより高天原に召還されます」
「そんなかぐや姫みたいなこと信じません!」
天女の説明に悠生が反発した。
「部屋に帰りましょう! 天女さんは、絶対誰にも渡しません」
悠生は、天女の手を引いて早足でマンションに帰った。
天女を部屋に押し込むと玄関のドアを閉め、ツーロックを施錠した。
チェーン錠もかけ、ドアスコープから明かりが漏れないように内側から塞いで見えなくした。
「天女さんは私の大事な人です。天女さんが帰りたくないというのなら絶対に帰しません」
悠生は天女をきつく抱きしめた。
天女は、ただ泣くだけで一言も言葉を発しなくなった。
悠生は、部屋中の明かりを消して人の気配を消した。
自分よりずっと大きい天女に覆い被さるように抱き締め、絶対に離さない覚悟を決めた。
ぴんぽーん
玄関のチャイムが脳天気に鳴った。
悠生は、びくっと身体を震わせた。
1階のインターホンではない、すぐそこの玄関前に誰かが来ている。
天女が配達されてきたときと同じだ。
「渡すもんか、絶対に帰さない」
悠生は泣きながら天女を守った。
ぎぎっ
玄関のドアがゆっくりと開いた。
「なんで!? 間違いなくツーロックかけたのに」
悠生は怖くなった。
しかし、怖がっている場合ではない。
天女を守るのだ。
悠生は、玄関と天女の間に割って入り仁王立ちになった。
自分の命に替えても天女を守る決意だ。
「こんばんはー、天の川交通です」
ドアの隙間から男が顔を出した。
「勝手に入ってこないで!」
悠生は男を睨みつけた。
「高天原たかまがはらからの手配で天女様をお迎えに上がりました」
男がおどおどと用件を切り出した。
「天女さんは、帰りたくないって言ってるの。あなたに用はないのよ!」
そう言うと悠生は玄関に向かって走り出した。
男を玄関の外に出すため肩から体当たりをした。
ばちっ!
男にぶつかる寸前のところで、悠生は強い電気のようなものに弾かれて部屋の中に吹き飛ばされた。
「悠生さん! これ以上抵抗なさらないでください。もう無理です」
部屋に転がされた天女に駆け寄った天女が悲痛な叫びを上げた。
「私が行かなければ悠生さんの身に災いが及びます」
「私はどうなってもいいんです。だって天女さん、帰りたくないんでしょ!? 帰りたくないのに無理矢理連れて行くなんておかしいじゃないですかっ!」
悠生は床を殴りつけながら泣きじゃくった。
「あんたに天女さんは渡さない」
悠生の目つきが変わった。
ふらっと立ち上がると玄関の男に向き合った。
「イ・ツ・ノ・カ・シ・リ」
悠生は、一音一音確かめるように低い声で呪詛を唱えた。
両腕を交差させ、左右の手の甲を合わせるように打ち付けようとした。
「なりません!!」
天女が絶叫した。
その声に驚いた悠生が手を止めた。
「神にイツノカシリを向けてはなりません。神にイツノカシリを用いたとき、すべてが消え去ります。神も私も、そして悠生さんも……」
「どうか、どうか、イツノカシリを用いることはおやめください」
天女が号泣しながら悠生にすがって両手を下ろさせた。
「こんな理不尽に耐えなくちゃならないくらいなら、いっそすべて消えてしまえばいいのよ」
その場に座り込んだ悠生が悔しそうにつぶやいた。
悠生と天女は、抱き合って泣いた。
「もうあの男も待ってくれません。私は行かねばなりません」
天女は、悠生の涙を袂で拭いた。
そして、悠生に向かい合って正座になり威儀を正した。
「悠生さん、本日までわたくしをお育てくださりありがとうございました。悠生さんのおかげでわたくしはぽんこつから正しい神へと成長することができました。このご恩は未来永劫忘れることはありません」
悠生への感謝の言葉を述べると、神に対してのみ行う最も深い礼により敬意を表した。
長い礼から復すると天女はすっと立ち上がり玄関に向けてゆっくりと歩き出した。
「天女さん」
天女の背後から悠生が呼び止めた。
「はい」
足を止めた天女は、振り返らずに返事をした。
「お幸せに」
悠生にとって精一杯の手向けの言葉だった。
「悠生さんに幸在らんことを」
そう言って天女は自分の髪を一本引き抜いて宙に放り上げた。
天女が放り上げた髪は、薄暗い部屋の中で淡い光を纏いながらふわっと舞い上がり悠生の手のひらにそっと乗った。
悠生は、天女の髪をぎゅっと握りしめ、胸に抱いた。
「さようなら」
天女がか細い声で最後の挨拶をした。
「お許しがもらえたら、また……遊びに……来て……く……」
最後は言葉にならなかった。
天女は、振り返らず小さく頷いた。
迎えの男に続いて天女が玄関を出ていった。
玄関のドアが音もなく閉まった。
「天女さん!」
悠生は玄関に走った。
がちゃがちゃ
ドアが開かない。
ドアにはツーロックとチェーンがかけられていた。
悠生はロックを解錠して廊下に飛び出した。
廊下に天女たちの姿はなかった。
廊下から下を見ると今まさに天女が黒塗りのリムジンに乗り込むところだった。
リムジンのドアが閉まると、音もなく走り去って行った。
悠生は天空を見上げた。
頭上に赤い大きな満月が浮かんでいる。
その赤さは天女の血のようだった。