公園に着いたころには、ファミリーレストランでできた天女の火傷がすっかり消えてなくなっていた。
「広くてきれいな公園ですね」
天女がほっとしたような表情で辺りを見回している。
「公園っていうものは知ってるんですね」
悠生は、天女がどれくらいこの世界のことを知っているのか知りたくなった。
それが分かれば、天女への接し方も考えやすい。
「はい、下界に降ろされる前、その国の標準的な辞書に載っている言葉やもの ごとの概念は教えてもらいました」
天女がにこにこしながら教えてくれた。
「そっか、天女さんの頭の中はプログラムだったんですよね。だからあらかじ め辞書を登録しておくことも可能なんですね。すごいなあ」
悠生は、高木神に教えてもらったことを思い出した。
「あれっ、どうしたの?」
悠生は、天女が浮かない顔をしたのに気づいた。
「悠生さんが私のことをけなすので……」
天女は、申し訳なさそうに話した。
「私が天女さんをけなした?」
「はい、『すごいなあ』とけなされました」
「え?」
悠生は、首をひねった。
(あ、これも高木神が言ってたプログラムミスかも)
悠生は、あることを試すことにした。
「ねえ天女さん」
「なんでしょうか」
「これから、私が天女さんにあることを言います。その言葉の感想を教えてもらっていいですか?」
悠生が天女に提案した。
「はい、かしこまりました」
天女は、にっこりと応じた。
悠生は、自分の予想が当たっていて欲しいような、外れて欲しいような複雑な気持ちになり、言葉を発するのをためらった。
(大丈夫、高木神が言ったことが本当なら、これもきっと予想通りになるはず)
悠生は、意を決して深呼吸をひとつした。
「あなた、本当に非常識な女ね」
悠生は、自分で言いながら気分が悪くなった。
ぱあ!
天女の顔が輝いた。
「嬉しい! 悠生さんがほめてくれました」
天女は、胸の前で手を合わせてぴょんぴょん飛び跳ねながら喜んだ。
(やっぱり。肯定と否定の言葉の感じ方が逆になってる)
悠生は納得した。
これからは、天女を肯定したいときは否定あるいは罵倒の言葉を投げかければいい。
逆に、何か論したい、否定しなければならないときは肯定やほめる言葉を遣う。
悠生が天女の扱い方をひとつ学んだ。
(ただ、これはあれよね。私の生活が脳トレみたいになるわよね。天女さんに 言葉をかけるときは、いちいち逆の意味に変換しないといけないんだから)
脳内で意味を逆転させて言葉にして発するというのは、なかなか難しい。
会話のテンポを殺いでしまうのではないかと心配になった。
それより何より心配なのは、天女以外の人との会話だ。
天女以外の人と会話するとき、うっかり意味を逆転させてしまうとケンカを売 っているようになってしまう。
それだけは避けなければならない。
悠生と天女は、公園の中をそぞろ歩いた。
「天女さんは、何歳なんですか?」
悠生が天女に年齢を尋ねた。
「私ですか? こう見えてもまだ5歳なんですよ」
天女がくすくす笑った。
「5歳!」
悠生は、びっくりして目が丸くなった。
こんなに成熟した身体の5歳児がどこにいるというのだ。
ここにいた。
「いや、あのね、天女さん。こういう天界から降りてきたっていう設定の場合は、たいてい見た目は若いのに実は2千歳とか、とんでもないババアっていうのがセオリーなのよ。その逆っていうのは聞いたことないです」
悠生が驚きの理由を天女に説明した。
「そういうものなのですか? やっぱり私はイレギュラーな製品なんですね」
天女は一向に気にする様子もなく、屈託のない笑顔を見せた。
「イレギュラーな製品なんて最低。存在価値ないですよね」
悠生は、心が痛むのを我慢しながら天女を罵倒した。
「ほんとですか? こんな私でも価値があるんですね!」
天女は、こぼれんばかりの笑顔になった。
「結構疲れるよ、これ」
悠生は、この先のことが心配になった。
「おや、悠生さん、あれはケンカというものですか?」
天女が50メートルくらい離れたところにいる親子連れを見つけた。
その親子連れは、なにがあったか分からないが、母親が子供をきびしく叱って
いるところだった。
「あっ」
悠生が声を上げた。
ヒートアップした母親が子供の頭を一発叩いたのだ。
子供が大声で泣き出した。
天女がうっとりした表情をしている。
「天女さん?」
悠生は、悪い予感がした。
「あ、はい、すみません。あのお母様が子供にしたことが義ましく感じて、ぽーっとしてしまいました」
悠生の悪い予感が的中した。
「あれは、なんという行為なのですか?」
天女が質問した。
「あれが殴るという行為です」
「私も殴られたいです! 悠生さん、殴ってください」
天女が目を輝かせた。
「えっ」
悠生は戸惑いを隠せなかった。
「私、人を殴ったことなんてありません」
悠生は、正直に天女に言った。
「悠生さんは、人に優しくできないお方なのですか?」
天女が寂しそうな顔をした。
「殴られると痛いんですよ」
悠生が「殴られる」ということの意味を説明した。
「そうなんですか。私には『痛い』という感覚がプログラムされていません」
「なにをされても痛くないんですか?」
悠生が驚いた。
「はい、痛いという感覚を感じることはありません。ただ、あの殴るという行為を見ると私の心が温かくなって、不思議な気持ちになります」
天女が切なそうな顔で訴えた。
「えー、そんなことを言われても……私、できませんよお」
悠生も困ってしまった。
「そうですか、どうあっても殴っていただけないんですね」
天女が諦め顔をした。
その顔を見ていた悠生は、天女が気の毒になってきた。
「じゃあ、ここじゃ無理ですけど、うちに帰ってから殴ってみますから、それでいいですか?」
臆病な悠生にとっては、一大決心だった。
「じゃあ早く帰りましょう」
天女が悠生の手を引っ張った。
「さあ、殴ってください!」
家に帰ると、天女が婿しそうに顔を差し出した。
「でも、やっばり……」
悠生は、帰宅してから殴ると言ったものの、やはり人を殴ることにためらいを隠せなかった。
「お願いします」
天女が手を合わせた。
「んもー、神様に手を合わされるシチュエーションって、なんなのよ」
悠生が困り果てた。
天女は、飼い主からのご褒美を待つ犬のような目で殴ってもらえるのを待っている。
「わかりました。本当にいいんですね。殴りますよ」
悠生が根負けした。
「はい。お願いします」
天女が顔を紅潮させている。
「ペたっ」
悠生が右の拳をゆるく握り、背伸びして天女の左類に軽く当てた。
悠生の右拳に天女の柔らかく吸い付くような肌の感触が伝わった。
(天女さんの肌って気持ちいい)
悠生は、軽く鳥肌が立った。
「あんまり気持ちよくないですね」
天女が不満そうな顔をした。
「そりゃそうよ。殴られるっていうのは、気持ちのいいことじゃないんですから」
悠生は、もう殴りたくないと思い、なんとか天女にブレーキをかけたかった。
「殴り方が弱かったのではないですか? さっき公園でお見かけしたお母様は、もっと力強く殴っていらっしゃったようです」
天女が核心を衝いた。
「う……」
悠生は言葉に詰まった。
「でもね、天女さん。強く殴ったら、天女さん怪我しちゃうんですよ? その不細工な顔がもっときれいになってしまうかもしれないんです」
悠生は、天女自身の状態や評価に関係する言葉を逆転させるよう、細心の注意を払った。
「えー、私そんなにきれいですか? 嬉しいです。怪我というのは、身体の損傷のことですよね? それは全然構いません。 私は、自分で再生できますから」
悠生の意図は天女に正しく伝わった。
天女は、インプット側の処理が逆転しているが、アウトプット側の辞書は正常のようだ。
天女が股間を手で押さえてもじもじしている。
「どうしたんですか?」
天女の不審な態度に悠生が気づいた。
「あの、悠生さんに殴られることを想像したら、その、お股が熱くなってきてしまって」
天女が恥らった。
天女の痛覚が間違って性的快感にも代入されているらしいことが分かった。
それでも悠生は、人を殴るということへのためらいが消えなかった。
「早く……お願いします」
天女が切なそうにすがった。
「わ、わかりました。でも、グーで殴るのは怖いからビンタでいいですか?」
「ビンタ?」
「グーじやなくて、パーで叩くことです」
悠生は、手でグーとパーを作って天女に見せた。
「ビンタでいいです。強く殴ってください」
悠生は、ぐっと目を閉じた。
怖くて直視できないと思ったからだ。
「い、いきますよ」
悠生は、天女の頬に当てていた拳を開いて、手のひらを頬に当てた。
「はい」
悠生は、怖くて震えていた。
一方、叩かれるはずの天女は、わくわくしながらじっと待っている。
悠生は、大きく息を吸い込むと右手を後ろに振りかぶった。
びたん
鈍い音がして悠生の右手が天女の頬を叩いた。
悠生としては、思い切り叩いたつもりだったが、最初のグーパンチとさほど変わりのない緩さだった。
「ひっ」
怖くなった悠生は、思わず右手を引っ込めた。
「はあー」
天女が吐息を漏らしながら身体を痙攣させた。
悠生に軽く叩かれただけで絶頂に達したようだ。
「気持ちいいですぅ」
天女がうっとりとした声を出した。
「もうやだ! もうやりませんよ! 私、やっぱり人を殴るなんてできません」
悠生が顔を左右に振りながら必死に訴えた。
「そんなあ」
天女がしょぼくれた。
悠生は、天女を叩いた右手が熱を帯びて火照るのを感じた。
「なに、この火照る感じ」
今まで経験したことのない手の熱さに何かが動き出した気配を感じた。
その後、二人は何事もなかったかのように部屋でくつろいだ時間を過ごした。
その日の夜、悠生は、テーブルの上に置きっぱなしの取扱説令書がぼうっと青白く淡 い光を放っているのに気づいた。
「なんか光ってない?」
悠生が説令書を手にした。
手の中で説令書が淡い光を放つ。
それは、言葉にできない美しさだった。
説令書のページをペらペらとめくると、「普段のお手入れ」に新しい行が増えていた。
3 普段のお手入れ
◯できるだけ過酷な暴力を与えてください。
◯標準的な辞書程度の語彙力を持っています。
◯ほめられることが罵倒に、罵倒されることがほめられることになります。
◯普通の人にとって痛いことが癒やしや愛情になります。
◯ときに痛みが性的快感に代入されますが、ランダムな確率です。
◯痛みは感じません。
◯怪我をさせても大丈夫。死なない限り自分で勝手に再生します。
◯痛みを求めたときは、できるだけ与えてあげましょう。
「ふーん、なるほどねえ。私と天女さんで経験したことが追加されていくんだ。さすが高天原のシステムは進んでるわね」
悠生は、説令書の機能に興味を持った。