「はぁ……はぁ……っ」
息を切らしながら、僕は走る。一体どこかも分からないこの迷宮を。
僕の目に映る迷宮は、とても直視できたモノではない。絵の具でマーブル色に塗りたくられた歪な空間。
まるでいつか、クラスメイトが動画サイトで面白半分に見せてくれた死刑囚が描いた絵画のような、人間の常識という範疇から逸脱したナニカを彷彿させずにはいられなかった。
やがて背後からチリチリとした本能的な恐怖を感じる。ほんのわずかに背後を振り返ったときに僕の目に映ったのは――
『bafnaolhgalgiuglbnmznxcsdigaoaubvuldkjhial;nblcxhoas;:@ak』
支離滅裂で、もはや人間の言語、いや発音すら訳の分からない鳴き声とともに、のっぺらぼうのような顔をした化け物がものすごい速さで僕に追いつこうとしていた。
「ひっ・・・ヒィッ!」
僕は脱兎のごとく走る。いや、もうこれ以上早く走れない。なぜなら僕はずっとあの化け物に追いかけられているのだから。
僕の体力が、限界になるのはそう時間のかかることではなかった。
「――うわっ!」
やがて、足が限界になった僕はそのまま地面に転がり込んでしまう。地面と言っても、歪なマーブル色の風景をしあ足下を地面と言って良いのかわからないけど。
いや、それの是非はもうどちらでもいい。
だって、僕はここで死んでしまうのだから。
「や・・・やめろ。来るな! 来ないでくれ!!」
足が棒になって、立つことすらままならない僕は這いつくばってでもその化け物から逃れようとする。だけど、そんなことをしたところで無駄なのはわかってる。
ただ、死にたくないという、生物的本能だけで僕の体は動いていた。
やがて――化け物の顔が、僕の目の前にまでやってきた。
『nsu;a;lzmgo;@:khp:mgsp:jsmsnhstionn:kshi;apha:mb;fjs:hs//???』
僕の鼻先がぶつかりそうなきょりで、またさっき支離滅裂な言葉を投げかける。それは僕に対話を求めているのか、それとも今からお前をなぶりごろすと言っているのか、おそらく、僕が遭うのはその後者なのだろう。
化け物は僕の体を覆い隠そうとする。のっぺらぼうのような顔が翻った刹那、僕はただ、目の前の『死』を傍観することしかできなかった。
・・・・・・あぁ、死んだ。
「――伏せなさい!」
絶望的なこの状況に、僕の耳に飛び込んできたのは目の前の化け物の声とは違う、もっとはっきりとしていた人間の言葉だった。
咄嗟に僕はその場にうずくまった。もう、それ以外にできることが思いつかなかったから。
『nviu;an;a:p@kxm;ohsjiohns;iombpoxsja:phja:ga:s--!!』
次の瞬間、目の前にいるはずの化け物から再び声が聞こえる。うずくまっている僕にはわからなかったけど、それはまるで断末魔のように聞こえた。
「もう大丈夫よ。顔を上げて」
「え・・・?」
再び聞こえた、僕に伏せろと叫んだときと同じ声が聞こえた。
顔を上げると、そこにはのっぺらぼうの化け物――ではなく、とても綺麗な女性が僕に手をさしのべていた。
「あなたは・・・・・・?」
その女性の姿は不思議なものだった。
長い藍色の髪をした彼女は、甲冑にドレスを身につけたような青を基調とした衣装。なぜか左脚のほうだけスカートが切られていて、しなやかな太ももが覗いている。
手には・・・飾りがついた槍?のようなものを持っている。
本物の武器を持っている人を見るのは、さっきの化け物を見るのと同じくらい初めてだけど、不思議とこの人からはあの化け物のような生理的な嫌悪感は感じられなかった。
「安心して、魔女はもういないわ。ちょっと脅かしたら逃げていったようだし、グリーフシードも持たない使い魔のようなものだったみたいだから」
「ま・・・魔女?」
いきなり出てきた固有名詞に面を食らってしまう。それに、気がつけば辺りの風景も変わっていた。気色の悪いマーブル色はどこにもなく、僕があの迷宮に入る前にいたはずの人気のない路地裏にへたり込んでいた。
あんなに走り回ったというのに、一歩の動いてなかったなんて・・・。
驚いたのはそれだけじゃない。僕に手をさしのべている彼女の服装もまた変った。黒を基調としたワンピース。大きな白い襟と、スカートに浮かんでいる白い斑点が特徴的だった。
「話はあとにしましょう。とりあえず、家まで送ってあげる。ご両親とは連絡は取れるかしら?」
「・・・父さんと母さんは――っ!」
思い出してしまった。
僕がこの人に助けてもらう前に、僕以外にもあそこに人がいたということを。それが父さんと母さんだったということを。
あのときは逃げるのに必死でそれを考える余裕なんてなかった。でも、こうして助かった今、二人が僕を逃がしてくれたことを思いだす。
でも、あの化け物はすぐに僕を追ってきた。つまり――
「ぁっ・・・あぁっ・・・・・・!」
嗚咽とともにこぼれたのは涙だった。
そうだ。僕は父さんと母さんを見捨てて。
「・・・そう、ごめんなさい。私がもっと早く駆けつけていれば」
察したように謝る彼女は、膝をついて僕の頭にソッと触れながらこぼれた涙を拭ってくれた。まるで、彼女にはこれがそれほど珍しいことでもないような、そんな口ぶりだった。
「ひとまず、私の下宿先に向かいましょ。落ち着いてなんて言わないけれど、気休め程度にはなるはずだから」
「あの、貴女は・・・誰なんですか?」
こんな状況で、父さんも母さんも死んで、天涯孤独となった僕は、彼女がなぜ自分にそこまで親切にしてくれるのか聞かずにはいられなかった。
彼女は僕を立ち上がらせてくれたあと、少し間を置いて言った。
「・・・私はね、魔法少女なの」