夢を見ていた。不思議と懐かしい、温かい気持ちになる夢だった。
二年くらい前の事だと思う。私はそれよりずっと前から、今もそうだけれど、どうしても雷が苦手で、昔から夜に雷が鳴る日は兄さんと一緒に寝てもらっていた。
そういう時、兄さんはいつも優しく抱きしめてくれて、頭を撫でてくれた。包み込むように、慰めるように、丁寧に優しく。
私はその時間が凄く好きだった。雷が苦手というのは事実で、同時に口実だったのも覚えている。
その頃の、丁度その時の夢だった。
優しい手も、温かい腕の中も、全部が全部あの頃のままで、何故か涙が出てきてしまう。
好きで好きでしょうがない、私にだけ優しい兄さんの夢。私を一番愛してくれた、世界中で一番大切な人の夢。
でも、私は兄さんの愛に甘えてしまった。甘え過ぎてしまったから。
兄さんは、私から離れていってしまった。
失ったあの頃を取り戻せるなら、私は他の何を犠牲にしてもいい。
けれど周りの人達は、それを赦してくれなかった。
私は、兄さんに赦して貰えるだろうか。兄さんは、どんな顔をするだろうか。
それを想像したら、二年前の大好きなあの時間が、恐怖で色褪せていった。
そうして長い間眠っていたような感覚が、グレースケールの夢によって醒めた。
重い瞼を持ち上げて映った、精神病棟のように思える光景に、私は反射的に呟く。
ここはどこ。なんで。
震えた小さな声で、そんな風に。
答える声は無く、渇いた音が無機質な部屋に虚しく響いた。
ーーーーーーー。
最初の瑠璃を壊したあと、何回か作ったり壊したりと繰り返した。
その中で気付いたのだが、おそらく凍結させた瑠璃の持っていた記憶の一部、具体的には長期保存される前の状態だった記憶情報が消えている。
私は、わざわざそんなデータに書き換えを行った覚えは無い。やろうと思えばできるのだろうが、私の目的には無関係だからだ。
つまり、長い眠りに就く前のおよそ二週間程で経験した出来事の一切を、凍結の影響、或いはクローンの作成段階で維持できない、ということになる。
何故そうなるのかは全く分からないのだが、タイミングとして、その二箇所以外には考えにくいのだ。
もし短期記憶の読み込みができない原因が凍結の方にあるというなら、この先どう手を打っても二度とその記憶は戻らない事になる。
記憶というのは曖昧なもので確信には至らないが、私が過去の状態に戻した自分を作った時は、直前の記憶もあったように思う。
つまりコールドスリープの方に原因がある確率が非常に高いということになる。
或いは、瑠璃が経験した最後の二週間の記憶が二度と戻せない可能性もあるのだ。
それは非常に困る。たった二週間であってもその時間の瑠璃を失ってしまうのは困る。
私が欲するのは瑠璃の全てなのだから。
何故だ。何が悪かった。人の道を踏み外した私に下った天罰なのだろうか。
なるほど。瑠璃が報いだとか言っていたのは、もしかするとこういう感情なのかもしれない。
私は久々に、欲する事以外の感情を抱いた。それは喪失感と恐怖感で、自分が持つことは二度と無いと思っていた、実に人間らしい感情。
しかし、瑠璃が見せる、愛しくて堪らない同じ感情とは、大きく離れた印象の醜悪なものに思えた。
微塵も魅力を感じないし、渦を巻くように大きく膨れ上がっていく。酷いものだ。
ああ、こんな時は瑠璃を奪って私を満たそうか。
そろそろ次の瑠璃が目覚めるだろうから、良いタイミングかもしれない。
「他愛も無い・・・」
呟いて、瑠璃が居る部屋へ歩き出す。
不意をつかれた様に思わず口から出たその言葉は、取り返す決意から来たものだった。
文字通り、時間は幾らでもあるのだ。どんな手段を使っても取り返すと決めてしまえば、この分野で私に不可能は無い。そうでなくてはならないからだ。
靴底が床を叩く硬い音が、廊下に響いていく。自らへの怒りの為か、普段よりも大きく聴こえる。
気のせいだと頭は理解するが、普段の音量に戻る事は無かった。
やがて見えてきた、重い扉。
電子錠のパスコードを入力する手が鈍った事に不快感を覚え、確定のキーをいつもより強く叩いた。
扉を動かす機械音も、普段より鬱陶しく感じる。
全く、なんだと言うのか。
腹立たしいのは自分のミスに対して、又は力不足に対してなのだが、どうしても内側に留めておく事が出来そうも無い。
このままでは怒りの矛先を瑠璃に向けてしまいそうだと思い部屋に入る足を一瞬止め、しかしすぐに、それも一興か、と打ち消して歩みを進めた。
「すまないね、瑠璃」
何を謝っているのかは自分でも分からなかったが、その言葉に、確かに応じる声があった。
「兄、さん・・・?何の事・・・?」
驚いたような表情で視線をくれる瑠璃。私に向けられた質問は敢えて無視し、逆に訊ねてみる。
「起きていたのか。おはよう、瑠璃。寝覚めはどうかな?」
「悪くないです。でも、ここは・・・?」
不安げな瞳。恐らく、見慣れない光景に違和感を感じるのだろう。前の瑠璃も、その前もそうだったと記憶しているし、これが当然の反応だと思われた。
答えの代わりに、というのは余りに理不尽な気もするが、いきなり殴りつけた事もあった。
だが、同じ事をしても面白くない。
ならばどうしたものか。暴力に訴えかける以外で私は私を抑える事ができるだろうか。
不意に、答えを出し渋っている私へ向けて、言葉がかかった。
「怒って・・・ます、か?それも、自分に・・・」
「よく分かったね。その通りだ」
瑠璃が、私を心配するように瞳を覗き込んでくる。或いは、自分の恐怖を見ないようにそうしたのかもしれないが、そんな些事に興味は無かった。
これも永らく忘れていた事。目頭が熱くなる、という感覚。それを思い出したからだ。
研究が完成した時でさえ、こんな感情を思い出すことは無かった。
感情も記憶も、全てデータとして処理できるものとしか考えていなかったからだろうか。
「きっと、大丈夫・・・。兄さんは、間違ってないと思いますから」
「瑠璃は昔から変わらないのだね。まあ、素直に受け取っておくことにしようか」
「昔・・・?」
私は何も言わずに首を振る。今の瑠璃には関係の無い事だったからだ。
さて、理由が分からないのは癪に障るが、暴力に訴えかける事に拘る意味は無くなった気がする。
私も人間的になったものだ。
いや、人間から遠ざかったと感じていた時点で、既に人間的だったと考えるべきか。
なるほど私は未だに、何者にもなれていないらしい。
やっと辿り着いた筈の解答は、私にとって不足であるのか。
「昔と言えば、瑠璃。私が研究すると言い出した事を覚えているか?」
「え・・・?研究なんて聞いてないですけど・・・」
やはりそうか。しかし何故だ。どっちが原因なのだ。
そもそも短期記憶が不安定な情報であるのは理解できる。
自分の細胞を過去の状態に戻して生成した私のクローンでは、短期記憶の欠損が無かった。
いや、それも定かではないか。もしその部分の記憶が私から欠如していたとしても、私がそれに気付くことができないだろう。
無いものに気付くことはできない筈だ。
もしそうだとすれば可能性は残っている。まだ空想の域を出ない仮説だが、冷静に考えればそういう可能性も否定できないように思われた。
「そうか。ありがとう、瑠璃」
「え?あ、はい・・・」
瑠璃が不思議そうな表情になる。それはそうだろう。私の考えている事など何も知らないのだから。
「あ、あの、兄さん・・・?今言うのは卑怯なんですけど・・・赦してくれますか・・・?」
「何度でも言うが、私は何を赦せばいい?」
この質問を受けたのも何度目だろう。
瑠璃の中には明確にあって、且つ私にとっては些細な問題、或いは問題でさえない事か。
八十年分の記憶の中からそれを見つける事は容易ではない。もしかすると、既に忘れた事かもしれない。
「私、兄さんに・・・見限られたんじゃ・・・?」
「私が?それは何の冗談だ?」
私が瑠璃を見限る筈が無いだろう。
すぐにそう言葉にできれば最も良かったのだろうが、私の口から出たのは、感じた疑問に対する解答を求める問いだった。
自分の発言に、職業病か、と呆れながら瑠璃の言葉を待つ。
少しして返ってきたのは、言葉というよりも叫びだった。
「冗談なんか言ってない!兄さんは周りに人を集めた私に嫌気が差して、距離を置いたんでしょう!?」
「・・・そう思わせたのなら、悪い事をした。私はその環境から瑠璃を奪い返す為に研究者になった。私が望む答えを得るまでには、流石に時間がかかってしまったよ」
淡々とした口調で説明していく。長い間、抑揚をつけて話す事が無かったからだろうが、どうしても無感情な声になってしまう。
「研究、者・・・?答えを得るまでって・・・どういう・・・」
「私の研究は既にその殆どを完成させている、という事だよ。殆ど、というのは、ついこの前気付いた欠陥の事だがね」
思えば、長い道のりだった。だが私が研究に費やした七十年という歳月は、決して無駄ではなかったのだ。
私は私の目標を、理想を成し遂げたのだ。いや、成し遂げた筈だった。
ぞっとしない話だが、見過ごせない可能性として、私の研究は完成しないかもしれない。
「まさかここは・・・兄さんのラボなんですか・・・?」
「そうとも。良い推理だ。因みにもう一押しで私の研究内容も分かるのではないかな?」
優秀な瑠璃の事だ。この程度のヒントでも十分に現状を把握できるだろう。
簡単なゲームのつもりだったが、存外悪くない。予想していたよりも愉快なものだ。
子供らしい愉しみ方かもしれないが、構わない。それを咎める者は誰一人として居ない。居たら排除するだけの事。
「兄さんが・・・兄さんが研究にかけた時間は・・・?」
「詳しくは覚えていないが、七十年程だろうね」
察しが良いというかなんと言うか、その質問は、殆ど核心に迫った回答だった。
内心、流石だと讃えつつ、しかし同時にそれを受け容れられるか、という疑問が浮かんだ。
別段、受け容れられなくとも問題にはならないが。
「それは、おかしいです。私も兄さんも、あの頃の姿のまま・・・」
「不思議に思うのも無理は無い。当の私でさえ、研究を始めた時は半分程絵空事だと思っていたからね」
「・・・クローン、ですか。兄さんは、そういう分野が得意でしたし」
「お見事。今ここに居る私も、瑠璃も、細胞や遺伝子情報を元にして作られたコピー品だ」
ほぼ完璧な答えだ。
だが、得意だから研究者になる、人の役に立つ研究をするなどと考えていた訳ではない。結果として、或いは研究過程にあった副次結果が人の役に立つものになっているだけのこと。
研究内容は、おいそれと公にできるものでは無かったから表面的には遺伝子工学や脳科学、細胞学の研究という事にしていた。よく七十年も隠し仰せたものだ。
いくつもの研究結果を発表していく裏で、密かにクローン技術を完成させた後は、その確実性を高める為に殆ど全ての時間を使った。
だがそこまでしても稀に、具体的には一パーセント未満の確率で失敗作が生まれることがある。
体の一部欠損、記憶情報の破損、精神の破綻といった様な比較的些細な失敗だが、目的によっては致命的なものになるのではないだろうか。
だからと言って、修正しろと文句を言われた事は無い。それ程に、技術としては完成されたものなのだ。
しかし、完成させたものだからこそ、短期記憶の問題だけは現状、打開策を見いだせない。
そんな事、瑠璃の知るところではないのだろうが。
と、思い出したように瑠璃に視線を向けると、何やら意図の読めない事を訊いてくる。
「兄さんは・・・なんで、クローンを・・・私を作ったんですか?」
「私は瑠璃の全てが欲しいだけだ。それ以上でもそれ以下でもないよ」
紛れもない本心だった。過去から現在まで、未来さえも確約して差し支えない程の本心だった。
永遠ともとれる時間の中で、ただ目標の為に、自分の為に研究を続けてきた私にとって、費やした時間は無限であり一瞬なのだ。
求めるものを、愛する者を手に入れたいという、人間の根本的な部分にある欲求。その為なら一度全てを犠牲にする事も厭わない。
歪んだものかもしれないが、私にとってそれは正しく愛だった。
「私を・・・受け容れて、くれるんですか?」
「当然だ。その為の技術であり、研究だったのだから、そうでなければ意味が無い」
この研究を完成させた事で、私は永劫の時を生き、またその為の犠牲になった時間を取り戻す事ができる。
等価交換なんてレベルの低い事をするまでもないのだ。
思い出そうと思えば、いくらでも色々な記憶が頭の中を駆け巡る。だが、瑠璃の喜ぶ顔だけが思い出せなかった。
だから気が変わったのだろう。考えた時には言葉にしていた。
「気の済むまで、甘えてくれていい」
「兄さん・・・」
いつの間にか苛立ちも収まっていた。
体がその頃のものに戻っているからか、上手く思い出せない記憶ばかり読み返そうとする。
或いは、痛めつけ、犯し、壊してばかりだったからかもしれない。
偶には、久しく見ていない瑠璃の笑顔を見てみたいという気持ちが、多かれ少なかれあった。
片時の幸せな夢を見る事で、瑠璃の全ての内どれ程を得られるかは分からないが、分からないからこそそれを試してみない訳にはいかない。
これもまた、職業病の様なものだろう。
「抱き締めてほしいです・・・」
「あぁ」
体を預けてきた瑠璃が望んだように、私はその華奢な体躯をできるだけ優しく抱き締めてみる。
温かい。感覚の温度とは異なる温かさだった。
ゆっくりと、瑠璃が口を開いて呟く。
「七十年もあった筈なのに、全然変わらない・・・」
瑠璃の表情が見えた訳ではないが、その言葉を聴いた私は何故か、昔の瑠璃がしていた笑顔を思い出す事ができた。
だが、逆に私は確信する。私が見たいのは、瑠璃が恐れ、怯え、請い、苦しみ、哀しみ、絶望する姿だと。
幸せな表情も、勿論それが瑠璃の一面であれば私の欲するところであることに嘘は無い。手に入れる事が叶うなら私は満たされるだろう。
しかし、それでは私に向けられたものという実感を得られない。私にとって価値があるという事と得難いものだという事は一致しない。
とは言え、すぐにこの時間を終わらせてしまうのも興醒めだ。
そう考えた私は、昔にしていたように瑠璃の頭を撫でてみる。
「なんだか夢みたい。夢だったら、醒めないでほしいです・・・」
「なら安心するといい。この夢は終わらない」
「本当・・・?ありがとう、兄さん・・・」
悪くない。率直にそう思った。
或いは、こういう結末が、運命あったのかもしれないが、それは今の私には関係の無い事だ。
しかし、切り捨てるには惜しい。実に興味深い。
悔やむ様な事ではない。それでもただ幸せに満たされる可能性というものがあったなら、私はどこかで選択を間違えたのだろう。
隔絶を恐れ、喪失を拒み、自分だけの力で作り上げた結果に、神は容赦無く、無慈悲にも罰を下す。
私は神と相性が悪いらしい。悪魔にでも魂を売ってやろうか。いや、意見は合っても気が合わないかもしれないが。
「泣いても、いいですか・・・?」
「構わないよ。私は、瑠璃の全てを手に入れたいのだから」
そう言って、私は頷く。
すると瑠璃は声を殆ど出さずに、瞳の奥から熱い雫だけをひたすらに流し続けた。
心を情報として扱う事はできないが、敢えて苦手な表現を使うならば、器から溢れた心を流しているとでも言うのだろうか。
自分のそれさえ理解に及ばないというのに、瑠璃の心は不思議と理解する事ができた。
ーーーーーーー。
いつの間にか眠ってしまった瑠璃を再びベッドに寝かせ、私は充足感とその余韻に浸っていた。
小柄で華奢な、それでいて女性的な柔らかさを孕んだ体。長く艶のある茶髪に、穏やかな寝顔。
こうして間近で、優しげな表情の瑠璃を眺めたのはいつ以来だろうか。
七十年よりは前で、それより五年以上も昔ではなかった様に思う。
まあ七十年も七十五年もそう大差無い。
そんな事よりも、次は他の瑠璃を起こしてみようか。
情というものかそうでないかは別として、この瑠璃は私に気付きを与えてくれたのだ。
贖いを受け容れる様な表情に変えてしまうのは実に惜しい。
そうと決まれば早速行動に移そうか。
と、独り言を呟いていたのが数時間前だ。
考えてすぐにポットから出したので、そろそろ起きるはずだ。
「様子を見に行くとしよう」
また、誰にともなく呟いて、私は瑠璃の眠る部屋に向かう。
正確には、眠っていた部屋だったようだが。
「兄さん!?」
何も知らない、裸の瑠璃が私の姿を見て声を荒らげる。
「少し落ち着いてくれないか」
「あ、ごめんなさい・・・。で、でも、服が・・・」
窘めると、思っていたよりもあっさりそれを受け容れる。ただ、恥ずかしそうに頬を染めるのだけはどうにもならないようだった。
「瑠璃。こっちに来るといい」
何も言わず頷き、股や控えめな胸を手で隠しながら少しずつこちらに近付いてくる。
私は別段昔の口調を意識して話している訳ではないが、今まで瑠璃がそれに疑問を持った様子はそれ程無かった気がする。
何故だ。短期記憶と同じように情報が欠けているのか、或いは今の体で私の声を聞くのが初めてだから違和感が無いのだろうか。
まあ瑣末な問題だ。そこまで気にかける必要は無いだろう。寧ろ好都合かもしれない。
「それで・・・服は・・・?」
「すまないが、今は持っていないんだ。寒くはないかな?」
「少し、寒いです・・・」
私は内心でニヤリと笑い、小さく体を震わせる瑠璃を抱き寄せた。
左手は使わずに。
「こうすれば、少しはマシになる」
壁に寄りかかりながら、若干安心したような表情の瑠璃を抱きしめたまま、私は自由な左手で瑠璃の右手に手錠をかける。
「ッ・・・!?」
すぐに右手を離し、素早く距離を置く。若い体だからこそできる事だ。
慌てて抵抗しようとするが、壁と手錠を繋ぐ鎖が虚しく揺れるだけに終わった。
慎重に距離を詰める私に、利き手でない左手を不器用に振り回して抗おうと必死になる瑠璃。
「い、いやっ!何するの!?」
「見事に騙されてくれたね、瑠璃?」
「兄さんっ!?」
暴れる瑠璃を、体全体で強引に壁に押し付けて抑え込み、その左手にも手錠をかけた。
離れようとした私の下腹部へ、最後の抵抗とばかりに蹴りを入れる。
「・・・痛いじゃないか。いや、謝る必要は無いよ。どちらにしても、今から瑠璃にはもっと痛い目を見てもらうのだから」
言いながら、私は白衣のポケットからコントローラーを取り出す。
何もコードの繋がっていない、ただの黒いコントローラー。だが勿論、無線で繋がっているので問題は無い。
素っ気ないスイッチと、ツマミがひとつ。
「さて。これが何のスイッチか分かるかな?」
「・・・何なの」
ここまできても尚反抗的な態度を取る瑠璃を見て、私はスイッチを一瞬だけ入れる。
「痛っ・・・」
鈍い音と共に、瑠璃が小さく声をあげる。
流石にこれで分かったとは思えないが、何やら怯えたようにも見えた。
そういえば確か瑠璃は昔、本人的にはそれ程前でもない筈だが、雷が苦手だったような記憶が微かに残っている。
だから如何に微弱なものであっても、本能で同じものを恐怖してしまったのだとしたら、コントローラーが電気を流す為の物だと分かってしまうかもしれない。
「さて、どうする?全ては私の気分次第だ」
「兄さん・・・どうしてこんな事するの・・・?」
「愉しいからだ」
発音としては同じ、楽しいという方で受け取られたかもしれないが、関係無い。
私は電圧を1000Vまで上げて、再びスイッチを入れる。今度は、少し長く。
「ぁぁあああぁあああッッ・・・!!はぁ・・・はぁ・・・」
痛烈な叫び。腹の底から捻り出したように震えた声。
道徳に唾を吐きかけるような、体中を駆け巡るゾクリと感じる快楽。
「どうかねッ!?身に降り注ぐ危機的状況と、それを脱する事の出来ない恐怖の感想は!!」
「はぁ・・・はぁ・・・」
言葉を発する余裕も無いのか、瑠璃は苦しそうに息を吐き出すばかり。
どうにも面白みに欠ける。
なんとかして反応を引き出そうと、私は少しずつ電圧を上げながら、スイッチを入れたり切ったりと断続的に繰り返す。
「うっ、げぇ、ギッ、ぁあッ!ハァ・・・ゲホッゲホッ・・・うぅぁ・・・。うっ・・・ゲホッ・・・」
だめだ。5000V程まで引き上げても、鮮烈な反応を得られなかった。
これ以上電気を上げてしまうと、死んでしまう危険もある。
電気は案外簡単に人の体を壊し過ぎてしまうようだ。自分の手でやった手応えも無い。
もう電気を使って壊すのは二度とやらない事にしようか。
焦点が合わず視線はフラフラと空中をさまよい、体のバランスも取れなくなって、しかし倒れ込む事もできずにガタガタと壊れた人形の様な動きをする瑠璃。
この分だと、暫く動けないだろう。
私は手錠を外し、途端に倒れ込んだ瑠璃をベッドへ運ぶ。そのまま毛布を被せて寝かせ、私は一度部屋を出た。
ーーーーーーー。
二十分程経って戻ったが、瑠璃はまだ横たわったまま朦朧としている様だった。
ベッドの四つ角の柱に瑠璃の四肢をそれぞれ固定し、持ってきた杭とハンマーを瑠璃の視界に映すように掲げる。
「見えるかね?」
「ぃ・・・ゃ・・・」
辛うじて、視界に入ったものが何かは認識しているらしく、怯える様な表情で目尻に涙を浮かべ、言葉にならない声を発する。
試しに、杭は当てず、ハンマーで殴ってみようか。
狙いは外さない程度で、それなりに振りかぶって振り下ろす。
投擲競技の砲丸を落とした時のような音。瑠璃の左腕を決して軽くはない金属塊が叩いた。
「いっ・・・あ・・・」
「痛そうだね」
だが朦朧とした意識は戻らず、呂律も相変わらず回っていない。
「ゃ・・・ぇ・・・て・・・」
「そう言われるとやりたくなるのが人の性というものだろうね」
私が人の心を持ち合わせているかはさておき、だ。
再びハンマーを振り上げ、叩きつける。
今度は鎖骨の辺りを狙った。つもりだったのだが、強く打つ事を重視した結果だろう、狙いは少し逸れて右肩に当たった。
「がっ・・・ゲホッ・・・」
腹部に跨って座っている私に、瑠璃の腹筋の動きが伝わってくる。
特に何の遠慮も無く体重をかけているので、それだけでも相当苦しい筈だが、ハンマーで殴られた痛みよりも重要視される程ではないらしい。
「にい、さん・・・ゲホッ・・・。もう、殺して・・・」
「そうか・・・なら、そろそろ本番といこうか」
まずは左腕。先程ハンマーで殴った辺りに杭の先端を当てて、力任せに突き刺す。
軋む木のような手応えだった。
「ぁぁああああッッ!!」
痛烈な痛みで、朦朧としていた意識が無理矢理引き戻された様だ。
そのまま刺さった杭にハンマーを打ち込む。何度も、何度も打ち、抵抗感の質が変わったところでその手を止める。
刺さった物がそのまま無理に押し込まれてくる痛みに耐えるように、ハンマーを打つ度苦悶の声が漏れていた。
「次は反対側だ。右腕に刺すよ」
そう言って、右腕に意識を向けさせる。
そのまま、言った通りに杭を当てて、今度はハンマーで杭の頭を叩いた。
手で抉るよりも速く刺さったからか、派手に鮮血が飛び散る。白衣の裾と袖に、赤い血が染みた。
「いぁぁあぁぁぁああああああッッッ!!!」
瑠璃の叫び声が部屋に響き渡る。ボロボロと涙を零しながら、それでも軋むほど歯を食いしばって、両腕を突き抜けている杭の痛みに耐える瑠璃。
白くキメ細かい肌には脂汗が滲んで、実に艶めかしく、煽情的な光り方をする。
苦悶の表情と、艶めく肌に、私は自分の体の昂りを感じた。
「ハァッ・・・ハァッ・・・うっ、く・・・る、しい・・・」
「まだだよ」
言いながら私は、何度も打ち付けた左腕の杭を強引に引き抜き、そのまま投げ捨てる。
「ギぃいい・・・ぁぁああぁあああッッッ・・・!」
悲鳴と、床に血が落ちる音。血が落ちるのは心地良い音ではなかった。
杭が抜けるのも、やはり相当痛い様だ。余りの痛みに左腕を体側に引き寄せようとして、鎖と手錠に阻まれる。
金属が擦れる音は力無く、軽い音だった。
杭が突き抜けていた傷口から溢れる血。それが瑠璃の一部だと思うと、急に流したままにしておくのが惜しく思えた。
感情的に、思うがままに、私はその傷に口づける。
「ひぁっ・・・」
痛みに震えた声に高揚感を覚え、私は思い切り溢れる血を吸い上げた。
「いぃぃぁあっぁあぁぁああぁぁあぁっぁぁあっ・・・!!!」
すぐ横から聞こえる苦痛の悲鳴。
なんという事だろうか。瑠璃がこんなにも近くに居て、私にだけ本物の感情を見せてくれている。
その事実が堪らなく私を興奮させた。
口の中を満たす、生暖かい鉄のような味。決して良い味ではないが、それでも瑠璃の血だからだろう、非情なまでに愛おしい味だった。
「あぁ・・・あっ・・・ぅ・・・」
「痛いかな?」
もう意思表示をする体力が殆ど残っていないらしく、反応を見せることは無かった。
聴こえたのは弱々しい呻き声と、苦しげな熱い吐息。
満身創痍と言って相違ない状態。放っておけば、或いはあと一度であってもどこかに手を加えれば簡単に死に至るだろう。
そんな人間の脆さを間近に見た私に、濁りの無い瑠璃の瞳が映った。
「そうか・・・瑠璃の瞳は、そういう世界を見ているのかな?」
勿論、聞いている瑠璃には意味を理解することもできなかっただろうが、私の中ではほぼ明確な答えとしてそれは存在していた。
愛するべきものがある世界。愛されたい人が居る世界。理屈はともかく、そういう世界は輝いて見えるものだ。
そういう世界が、私にも見えていた。いや、今でも時折見えることがある。だがそれは、希望とは全くと言っていい程に異なる性質の生きる糧。
私が三本目の杭を瑠璃の首元に突き付けると、最期を悟った瑠璃は目で私に語った。
私だけを見てくれてありがとう、兄さん。
悲しげではあったが、確かにそう伝えられた。
「さようなら、瑠璃」
激しい金属音。鈍い手応え。飛び散った鮮血は、最高に美しかった。
一瞬、激痛に顔を顰め、そのままの表情で瑠璃は動かなくなった。
「これが・・・私の求めていたものなのだろうか?」
疑問を投げかけるが、答える者は居なかった。
ーーーーーーー。
数時間の自問自答は結局、全く意味を成さなかった。
そして、考えても答えの出ない哲学的な設問に対するフラストレーションが、いつの間にか横たわっている瑠璃に矛先を向けていた。
磁器のように白い肢体。まだ美しく流れる茶髪。光を映さない瑠璃色の瞳。
紛れもなく、私が最も愛する瑠璃のものだった。
もう二度と動かないと、またそうしたのが他でもない私の手であったと思うと、堪らなく血が滾った。
勿論、興奮するというだけの話だが、戦闘狂のそれと似通った部分が比較的多くあるのではないだろうか。
まあそれは戦闘狂にしか分からないのだが。
血に濡れていた肌は赤黒く染まったまま乾き、錠のかかった手足には痕が刻まれている。
一糸纏わぬ姿でこそあれ、あられもない姿と言うにはそのイメージと余りにかけ離れていた。
しかし、だからこそだろうか、そんな悲惨な状態にある骸が瑠璃のものだという事実が堪らなく私を興奮させてくれた。
どうせ動く事など無いのだから、動かしやすい様に錠を外してしまおう、と手を触れて気付く。
冷たい。
およそ人の温もりと呼べる様なものが残っていないのだ。
死を与えた右の手を強く握りこんで、その意味の重さを久しく思い出した。
人間を作る研究で、客観的に理解していた事だが、私の人間性は大きく歪んでしまっているのだろうと、改めて感じる。
細く力無い白磁の肌を触った瞬間にすっと体温を奪われる感覚が心地好い。
私が触れた熱を吸い込んで、今にも動き出すのではないかと思った。
今なら、本当の意味で瑠璃と一つになれるのではないか、と。
無論そんな事はできないと、頭では理解している。
それでも長い間目標としていた非現実的な願望が、私の体を突き動かした。
錠を外し終えて、杭を打ち込んでいた時と同じような体勢になる。
「瑠璃・・・綺麗だ・・・」
反応は何も返ってこなかった。
破裂寸前の風船のように腫れ上がった単気筒エンジンを肉のクレバスに突き入れても、それは同じだった。
だが、熱くない膣内は私の体温を奪っていき、体の芯から快楽を引き出す。
更に、筋肉は動いていない筈だが、そもそもが狭い穴だからだろう、締め付けられる強さは生きていた瑠璃のそれとほぼ同じように感じた。
付け加えて、道徳に反する行為であるという事実が興奮を高めた。
ベッドの軋む音が部屋中を満たす。
徐々に高まる快感。
高まる快楽が、回転数を上げる。
ただしシフトアップの様な回転数の低下は無く、それは上がる一方だ。
欲望の赴くまま、快楽に溺れるように、何に気を遣う事もなく乱暴に体を動かし続ける。
「瑠璃・・・!瑠璃!」
無意識に、愛する妹の名を呼びながら、ただ自分の快感だけを求めて、瑠璃の体を蹂躙していく。
快楽を、背徳感を、或いは愛を貪るように、控えめに見てもひたすらに、暴力的なまでの性交。
盲滅法な営みは、理性ある人の性愛というよりも、本能動物の交尾を思わせる程に激しいものだった。
しかし、交尾としては矛盾のあるものでもあった。
分かりやすく言えば、子孫を残す為のもので無いからだ。
だが、そんな単純な事さえ忘れて、私は瑠璃を犯し続けた。
冷えきった瑠璃の、血に染まった体を抱き締めながらピストンし続けた。
やがて快楽が絶頂に達した瞬間に、爆発するものを最奥に押し込むようにして、膣内を自分で埋め尽くす。
「はぁ・・・はぁ・・・」
息を切らしながら、しかし私はまだ物足りなさを感じていた。
そしてその物足りなさを満たすかのように、その後も幾度となく、破滅的な交わりを重ねた。
だが、流石に体力の限界に達して行為を止めた私を襲ったのは、酷い後悔の念。
その時、愛しい瑠璃の瞳がかつて無い程に冷えきった視線を向けてきたのも、或いは気のせいではないかもしれない。