「君の名は?! ジャギ!!」略して「君ジャギ」 西… 作:高尾のり子
トキ鍼灸院に近いヘリポートで着陸してから、救急車とタクシーで移動した四葉と三葉、俊樹の三人が目的地に到着したのは14時前だった。飛騨高山地方と東京の八王子は直線距離にして200キロ、時速300キロを超えるドクターヘリで移動すれば、フライトそのものは40分ほどだった。
「ここがトキ鍼灸院……」
三葉は雑居ビルの地下一階にあるトキ鍼灸院への下り階段を見下ろして、つぶやいた。古ぼけた雑居ビルでトキ鍼灸院の看板も手作りのようで木の板にマジックペンで書いてあるものがドアへ釘で打ち付けられているだけだった。
「本当に、こんなところで三葉の症状は治るのか?」
俊樹が心配している。
「うう~! 痛い! 痛いぃいい!」
三葉は担架に寝かされてドクターヘリを降りてからは東京都の救急隊員が搬送してくれているけれど、あいかわらず服を着るのも痛いので全裸だった。せめて、四葉と俊樹が左右で毛布を広げて通行人の視線からは裸体を隠している。
「とにかく、入ってみましょう」
三人と救急隊員が中に入ると、受付にいた男が挨拶してくる。
「ご予約の宮水様ですか?」
「そうだ」
俊樹が答えた。
「こちらの問診票にご記入いただき少しお待ちください」
「……わかった」
「急いでるの」
四葉が男を睨む。睨まれて男は目をそらした。
「すみません。トキ先生は先客の治療中ですので…」
「……」
四葉は睨んだまま、男の胸元にある名札を見た。
「………田中ケンシロウ、あなた、ケンシロウさんなの?」
「え、あ、はい。そうですけど」
「…………」
四葉がジッと見ると、またケンシロウは目をそらした。若い女の子に見つめられて困惑しているような様子がある。年齢は俊樹と同じか、少し若いくらいで、受付としての制服はないのか、私服っぽいジーンズを着ている。
「本当にケンシロウさんなの?」
「は、はい。ケンシロウですけど」
「あなた、いい身体してるけど、拳法とか強いの?」
「え? いえ、そういうことは、ぜんぜんしません。自分は人を殴ったり蹴ったりといったことは嫌いですから。暴力は何も解決しませんよ、お嬢さん」
「………田中ってことは、北斗ケンシロウではないの?」
「っ…北斗、…そ…そ、そ、…その話はトキ先生の方にお願いします」
ひどく動揺したケンシロウを四葉は押しのける。
「そう、記憶を…。いいわ。あなたに用はないの。トキさんに会わせてもらう」
「あ、まだ、治療中で…」
引き止めようとしたケンシロウの手を払って、四葉は治療室に入った。治療台に白いヒゲの長い眼鏡をかけた老人が座っていて、そばに松葉杖が立てかけてあり、膝を患っている様子だった。
「その足を治すツボは、これです。たぶん…」
トキが針を老人の膝へドスッと突き刺した。
「ああ!! うぐっ!! ぐああ!!」
「ん? ……ま…まちがった…かな…。やっぱり、この老人の足は時間がかかる…かな」
老人がガクガクと苦しみ、ビシシッと痙攣しているので、トキの顔に冷や汗が浮かぶ。老人の付き添いだった中年女性が怒った。
「お爺ちゃんに何を?!」
「あ、いえ、その、こ、この世には病に悩む人間が、なん千なん万といる、わけで、この老人も、その一人というわけですよ」
「ふざけんじゃないわよ! 訴えてやる!! お爺ちゃん、しっかりして!」
女性は痙攣する老人を抱き支えながら出て行った。ケンシロウが治療室に入ってくる。
「今の方、治療費は、どうしますか?」
「ケンシロウ、お金だけがすべてではないぞ」
「そうですね」
「オレにはな、夢があるんだ。ケンシロウ、お前だけはわかってくれると思う」
「兄さん……ボクだけはわかっていますよ、トキ兄さん」
「ああ、わかってくれるのは、お前だけだ」
「四葉っ!!」
俊樹も治療室に入ってくる。
「お前は、こんな男たちに三葉を診せる気かっ?!」
「ううっ……」
四葉も困る。困っている四葉の肩へ、トキが優しく触れて、澄んだ瞳で見つめてくる。
「お嬢さん、落ち着いて。もう大丈夫です」
「……」
「ご家族を心配する、あなたの気持ち、よーく私に伝わりました。どうか、私に任せてください。きっと、治してみせます」
「……トキ先生…」
優しくて穏やかで純粋な目で見つめられると、四葉は信じたくなってしまう。
「と、とりあえず、診てもらおうよ。お父さん。いい人っぽいし……腕前は、……。でも、他に方法もないし……」
「四葉……」
「ご安心ください。それで病人は?」
待合室から三葉が担架で運ばれてくる。
「痛いぃいい! …お願い、そっと、そっとおろして…ううっ…痛いぃぃ…」
「こ……これは……」
トキが一目見て驚き、それから悩む。
「これは、……え~っと……これは、何だったか……腰椎の……いや、胸椎の…ツボのような……ツボでないような……」
何かを思い出そうとして頭を絞っている。
「ん~……なんだったか……」
「「「………」」」
四葉と俊樹、そして三葉が不安になってトキを見つめる。
「大丈夫、大丈夫ですよ。この身体を治すツボはこれだ!」
グリっ…
トキは三葉の両こめかみを左右から両の親指で強く押した。
「イキャあああああああああああああああああああああああ!!! ひでぶぅううううううううううううううう!!!」
ほんの少し触れられるだけでも激痛が走って身悶えする状態なのに、グリグリと親指でこめかみを押されて三葉は聞いたことのないような悲鳴をあげて、のたうち回った。
「うむ……違ったか……では、これだ!」
トキは三葉の両わき腹に人差し指と中指を突き刺すように押しつけた。
「あべしいいいいいいいいいいいいい!!!」
また、三葉は奇声をあげて苦しんでいる。
「では、これかも!」
トキは三葉の左肩に人差し指を突き立てた。
「ううっ! うわっ!! ひい!!! いっ、いっ! いたああいいい!! やめてえええ! くだけそぉなのおおお!!」
三葉の左手は本人の意思に関係ないようにグーパーを繰り返している。
「あいいぎあが!! あががが~~!! たわばあああああああ!!」
「これも違ったのか……」
「貴様っ!!!」
俊樹がトキの胸倉をつかむ。
「これの、どこが治療だ?!」
「落ち着いてください。大丈夫、安心して」
乱暴に胸倉をつかまれてもトキの筋肉と体格は、ほぼ同じ年齢に見える俊樹より、はるかに大きいので微動だにしない。優しく微笑み返して、娘を心配する父親の瞳をまっすぐに見つめた。
「どうか、落ち着いてください。お父さん。私には、イメージがある。この病は、ほんの一つ、いいところを押せば、きっと、たちどころに治る。そんなイメージがあるのですよ。今ね、そこを探っているのです。ええ、お父さんが見ていてつらいように、私もつらい。ですが、一番苦しいのは娘さんです」
「ハァひっ! ハァひっ!」
三葉はガタガタと震えて変な呼吸をしている。
「三葉……こんなに苦しんで……」
俊樹がトキから手を離した。トキが新たな閃きをもつ。
「そうだ。やはり指圧ではなく、針。しっかりと皮膚にズブズブと入れた方がよいイメージがあります。しかも、あなた方は運がいい。ちょうど、鉄工所に頼んでおいた特注の針が仕上がっているのです。ケンシロウ、あれを」
「はい、兄さん」
すぐにケンシロウがステンレスバッドに入った大きな針をもってきた。それはトキの指と同じ形、同じ太さをしている。
「やはりね、人間の指では鋼鉄のように人の皮膚をズブズブと突けない。どんなに鍛えてみても人間の指は鋼鉄のようにはならない。そこで私は考えた、このような針を造って突けば、きっと、あらゆる病が治る」
「ハァひっ…ハァひっ…」
大きな針を見た三葉は逃げようとしない。むしろ、愛おしそうに針を見上げた。
「ハァひっ……お願い……もう…ハァひっ…早く…」
「お姉ちゃん……」
四葉は姉の表情に既視感を覚えた。もう姉は死にたがっている、殺されたいと願っている。この苦痛から解放されるなら、死こそ甘美な結末として、この針を刺してもらえばショック死することが感じられても、逃げるどころか望んでいる。針を見つめる姉の目は、セックス好きの女が長い長い愛撫のすえに、ようやく男根を向けられたときのような、待ちわびた好色的な瞳になっている。
「早く……刺して…」
「あなたも、わかるのですね。これが効くと」
トキが心得たとばかりに頷く。
「お願い、早く」
「お姉ちゃん…っ…」
四葉は既視感の正体に気づいた。姉の顔は、今までに見た予知夢の中でも最悪の悪夢だった酒税法を気にして口噛み酒を商品化したときの結末、監禁され切り刻まれていたときの最後に、四葉は発狂したけれど、姉は相手の顔に唾を吐いて怒らせ、わざと殺された。そのときのことを四葉は発狂していながらも、予知夢だったおかげで、どこか客観視もして覚えている。建設作業用のツルハシで頭を突かれる寸前、やっと死ねると感じていた姉の甘美な表情と今の顔が同じだった。
「さあ、いきますよ。むんっ!」
「待って!!」
四葉が叫ぶのと、俊樹が手を出すのは同時だった。
ずぶっ!
トキが三葉の胸を突こうとしていた鋼鉄製の指のように太い針は俊樹の手のひらを突き刺していた。
「ぐっ…」
「な…なぜ」
トキが悲しそうに俊樹を見つめる。
「これ以上、貴様に! 指一本たりとも娘は触らせん!!」
「ハァひっ…お父さん…ハァひっ…、邪魔しないで…早く……早く殺してよ!!」
「お姉ちゃん……お父さん………っ?!」
不意に四葉は治療室にかかっている鍼灸師の免許証が目に入った。そこには氏名が表示されている。
「山田トキ……っ! 私は、大変な考え違いをしていたわ!!」
「お嬢さん、どうかしたのですか」
「あなたは北斗トキじゃない!!」
「え? あ、はい。山田トキですが、何か?」
「北斗は?! 北斗の人は、どこに?!」
「「北斗……」」
トキとケンシロウが困った顔をする。
「北斗に会わせて!! ラオウさんに!!」
「はて、何のことやら……」
「あ、そうか。紹介料! お父さん!」
四葉はヘリで移動中で読んだ北斗神拳に関する資料の中にあった紹介料のことを思い出した。手を刺さされている俊樹が痛みに耐えつつ、問う。
「その話は、三葉の後ではないのか?」
「私が考え違いをしていたの。鍼灸院なんていうから期待してしまったけど、この人たちは北斗であって北斗でないの。もう記憶を失っているのよ!」
「四葉……お前の言うことは、なにがなんだか……まあ、いい、ここまできたら、お前を信じよう」
俊樹は負傷した手でスーツの内ポケットから百万円の札束を出した。
「これで、北斗に会いたい」
「…………」
トキの表情が変わる。今まで優しい瞳をしていたトキが冷たく悲しそうな目をして直立不動で構えた。
すーーーっ…
仏を拝むように両手を合掌して、俊樹が差し出す百万円を受け取ると、流れるような鮮やかな動作で白衣のポケットに入れた。
「たしかに、頂戴いたしました。これより北斗へと、ご案内いたします。救急隊員の方は、お帰りください。担架は私とケンシロウが持ちます」
東京都の職員を帰して、トキとケンシロウが三葉をのせた担架をもち、トキ鍼灸院の玄関には休憩中の札がかけられて、再び移動する。商店街を通ると、大都会らしい強引な客引きがされていた。
「ただいまアミバ整骨院ではキャンペーン中です! 一回5万円の小顔矯正コースが、なんと回数券を購入すれば一回あたり2980円に! さらに、天才治療家アミバ先生考案のO脚矯正サポーターを、お友達を紹介するとキャッシュバックキャンペーン中ですよ! 頑張る君を応援したい、レツゴーアミバ!」
怪しいものが多いので、四葉たちも、あまり目立たずに移動できる。トキとケンシロウは、すぐに裏通りへ入り、何度も路地を曲がって人間の方向感覚が不確かになってくる頃、大きな寺院へ四葉たちを導いた。
「こちらです」
「「……」」
四葉と俊樹が無言で頷き、トキが付け加える。
「ご契約の成立にかかわらず紹介料は返却いたしませんので、あしからず、ご了承ください」
五人が寺院に入ると、巨大な阿吽の像があり、その足下に一人の大きな男がいた。男は剃髪した僧侶のような頭で、僧衣を着ている。
「あなたが北斗ラオウさんですね?」
四葉が問うと、ラオウは頷いた。
「いかにも」
「私は宮水四葉、大切な用件が二つあり、ここへ来ました」
四葉は姉を指して頼む。
「まず、姉の三葉を治していただきたいのです」
「ほォ、これは…」
ラオウは三葉の様子を見ると、すぐに指を三本、立てた。
「3000万」
「………。お父さん、払える?」
四葉が不安そうに父を振り返る。
「払えなくは、ないが……本当に、それで三葉は治るんだろうな?!」
「我にはできる。そして、我以外のこの世の誰にもできぬ」
「…………わかった。支払う」
「よかろう」
ラオウは三葉に近づくと、その裸体に軽く触れた。
「っ…、……痛くない……痛くない! ど、どうして?!」
ずっと苦しんでいた三葉が立ち上がり、自分の手を見て不思議がっている。そして歓喜に満ちた顔になった。
「治ってる! 私、もう、どこも痛くないの! お父さん!」
「三葉……よかった」
俊樹と三葉は抱き合い、そしてスーツの上着を脱ぐと娘の裸体に着せてやった。四葉が礼を言う。
「ありがとうございます。ラオウさん、やはり、あなたが正統継承者なのですね」
「して今ひとつの用件とは?」
「私に北斗神拳の奥義を教えてください。今から日没までに可能なだけ」
「愚かな小娘だ」
もう話は終わったとばかりにラオウは踵を返して背中を向けると歩み去ろうとする。
「ラオウさん、ジャギさんという方を、ご存じですか?」
「ぬっ?!」
去りかけていたラオウが振り返って四葉を睨んでくる。
「小娘、その名を、どこで知った?!?!」
咆吼といっていいような詰問でラオウの背中から爆炎のような闘気が噴出し、奔流となって四葉を押し流そうとする。
「ひっ…」
「ううっ…」
その余波を受けただけの三葉と俊樹が気圧され、少し離れていたトキとケンシロウも数歩さがった。それなのに、四葉は動じることなくラオウを見据えていられた。
「我が闘気を受けて微動だにせぬとは……小娘、貴様、何者だっ?!」
「最初に名乗りました。宮水四葉、宮水神社の巫女です」
「ぬう……では、宮水、どこでジャギの名を知った?! 返答次第では、ここから生きて帰れぬと思え!!」
「私は巫女として時間を飛ぶことができます。そして、1990年代後半の世界にいるジャギさんと心と体が入れ替わったのです」
「世迷い言を!! 捻り殺してくれる!!」
ラオウの右手が四葉の顔に迫るけれど、寸止めだった。基本的に女の子に暴力は振るえないタイプのようで威嚇だけに終わっている。その威嚇に四葉は動じていない。
「たしかに、ものすごい闘気。でも、あの世界にいたケンシロウさんに比べても、ジャギさんに比べても、凄味も殺気も乏しいです」
「おのれェ」
ラオウが大きな手のひらで四葉の身体を握り込むと、持ち上げて顔を近づけて睨む。
「………」
「………」
二人の目と目が合い、瞳を見つめ合う。
「小娘………貴様は半分、神か? 天の者か?」
「そうなのかもしれません。使命を帯びているときは」
「バカなことを……もう一度、問う。ジャギの名、どこで知った?!」
「この2020年の私と、1990年代後半のジャギさんの心と体が、何度も入れ替わったからです。そして、こことは歴史の流れが違う1990年代の世界でジャギさんはケンシロウさんと激しく争っていました」
「ジャギとケンシロウが……」
ラオウがちらりと今ここにいるケンシロウを見る。見られたケンシロウは有り得ないとばかりに首を振っている。
「お疑いなら、逆に問います。私の姉、三葉のさきほどまでの症状、北斗神拳によるものではないですか? あれはジャギさんが私の体に宿っていたとき、ほんの指先一つで突いただけで、あのようになったそうです」
「むぅぅ……」
ラオウが呻り、四葉を床におろした。
「そして、もう一つ教えてください。ジャギさんは今どこにおられますか?」
「…………。おらぬ」
「どこに行かれたのですか?」
「この世のどこにも、おらぬ」
ラオウは指を立て、天を突いた。
「ジャギは天におる」
「天……それは……まさか…」
「あやつは我が殺した」
そう答えるラオウの瞳に深い悲しみの色が浮かぶ。
「ジャギ……その男の名は、かつて弟と呼んだ男」
「…………」
「あの男は北斗神拳継承の掟により、北斗神拳に関する記憶を奪うことに同意するか、拳をつぶすか、いずれにも抵抗しおったゆえ、我と戦い、我が殺した」
「っ……そんな……ジャギさんが死んでいるなんて…」
四葉がショックを受けて、膝をついた。何度も入れ替わった相手が今現在は死んでいるというのは、やはりショックが大きかったし、何より四葉が考えていた行動計画も狂ってしまう。
「……ジャギさんが……」
「ジャギの死が悲しいか? ならば、我を憎め」
「…………。憎しみの連鎖が、より大きな憎しみの連鎖しか産まないことを、さんざんに見せられて、ここに来ているのです」
「では、どうする?」
「………………。やはり、計画通り北斗神拳を私に教えてください」
「バカなことを。そんな細腕に何ができる」
「言ったはずです。私はジャギさんになる時間もあるのです。そのとき、北斗神拳を知っていれば、とれる選択肢は飛躍的に増えるはず」
「ジャギ………あの男は我が倒した中で最強の男であった。後にも先にも、あれほどの男はおらなんだ。そのジャギにお前がなるというのか……信じがたいが……だが、お前の目はウソを言っていない」
「お願いします」
「しかも日没までにと言いおったな」
「はい」
「一つだけ方法がある。秘孔、心霊台。これを突けば、その後に我が教授する技、すべて一度で習得できよう。ただし、その習得した技は3日で消え、その後にお前の身体は今の半分しか筋力が残らぬ、歩くことはできても二度と戦うことなどできぬ身体になるであろう。しかも、心霊台を突いた直後、全身を激痛が襲う。その苦痛で、その場で発狂し死ぬやもしれん。それでも、やる覚悟はあるか? お前の姉が受けていた苦痛を上回る苦痛が少なくとも1時間は続き、それは全身を切り刻まれるような痛みだ」
「………3日……」
四葉が悩み、そして決断した。
「それでも、かまいません。お願いします」
「「四葉っ!!」」
父と姉が止めてくるのはわかっていた。四葉は振り返って微笑む。
「どのみち、宮水の巫女として半分は捧げてるの。筋力の半分くらい、おまけみたいなものよ。赤ちゃんを抱っこする力くらい残るでしょう」
四葉がラオウを見上げて頼む。
「お願いします。今すぐに」
「よい覚悟だ。では…」
ラオウが、また指を3本、立てた。
「3億」
「っ…………、……、……お父さん、払える?」
「3億とは……また……しかも、3日のことに……」
俊樹が呻き、ラオウが足元を見てくる。
「北斗神拳の歴史は2000年、その奥義を知るに、わずか3億。おしくば、去るがよい」
「わずか3億ですか…」
俊樹が自分の額に指先をあて、トントンと触れた。
「たしかに、わずか3億、わが町の年間予算程度だ。ところで、北斗さん」
俊樹が逆にラオウの足元を見返してくる。
「お飼いになってる老馬のお加減は、いかがですか? ずいぶんと高齢で、しかも癌を患っている。獣医への支払いも大変でしょうね」
「ぬぅ…」
「それに、お義父さんのリュウケンさんも有料老人ホームに入っておられ、月に36万ほど、ご入り用のようですね」
「貴様、どこで、それを…」
「いやはや、ちょっとした世間話ですよ、世間話」
俊樹は調べさせた資料にあった内容からラオウの足元を見定めていく。多選の町長として交渉ごとは日常茶飯事で、相手の足元を見る眼力は拳法家をはるかに超えている。
「何より、この阿吽の像、そろそろ大規模な修繕が必要ですな。わずか3億では、こういったものは修繕できない」
「貴様、何が言いたい?」
「ご商売の方はいかがですか。暗殺、最近では受注が減っているようですね。平和な時代だ、需要そのものが減っている。たまに暗殺の注文を考える方がおられても、バイクと拳銃で、さっさと済ませる業者に仕事を取られたりね」
「我を愚弄するかっ?!」
「いえいえ、立派なお仕事だと思いますよ。ただ、少し将来性というか、持続可能な事業展開や施設の維持、ご家族の介護といった面から、私にも協力できることが、あるのではないかな、と愚考した次第ですよ」
俊樹が畳み掛けに入る。
「たとえば、ですね。有料老人ホーム、これを特別養護老人施設へ変更するだけでも、月々の支払いは3分の1で済みます。ただ、いかんせん待機者が多くて東京都では1施設あたり360人待ちだそうです。ひるがえって、うちの町でなら、私の顔もあって、なんとでもなる」
「……………」
「うちの町はね、山奥ですが空気はきれいだ。土地もある。長年、連れ添ってこられた愛馬にも、最後の時間を過ごしてもらうのに、広い牧場があれば、どんなに喜ぶことでしょう」
「…………」
「この阿吽の像、とても立派ですね。ですが、以前に文化庁から年代測定を打診されたとき、先代のリュウケンさんが断っておられる。これが、500年以上前のものであれば修繕に補助金をつけることが可能になりますが、そういった補助金も順番待ちという事情もあり、なかなか。だが、私はね、町長となる前は民俗学者なんかをやっていましてね。その関係もあって文化庁に顔もきく、修繕の順番を決める分科会に参加している学識経験者には友人や後輩もいます。また、多選のおかげで全国市町村長会で副議長も務めております」
「北斗神拳の歴史は2000年っ!」
「はい、この阿吽の像、見たところ鎌倉期であることは確実でしょう」
「一子相伝! 我以外に、なせぬ!」
「そうですね。うちの娘は相当にこだわっているようだ。ですが、父親の私としては、ここは止めたい。だって、そうでしょう。こんなに可愛い娘だ。筋力が半分になる? なのに、効果は、たった3日? その前に全身を切り刻まれ発狂し死ぬような痛み? とんでもない話ですよ」
「………」
「それにね、自分の娘だから、わかるんですが、この子はジャギさんが亡くなっていたことで、頭の中で考えていた計画が狂っている。いわゆる計算違いというやつですな。なのに、とりあえず北斗神拳を身につけておけば、なんとかなるかもしれない、という当初の計画を捨てきれず、なのに先が見えない、いわばノープランな状態で突き進もうとしている。そんな顔をしています」
「ぅ…お父さん…」
四葉は痛いところをつかれて、よろめいた。
「この子は、よく母親に似ている。だから、わかるんです。きっと、どう転んでも何とかするでしょう。だから、私個人としては3億も投じて娘に苦しい想いはさせたくない。ですが、娘が望むことであれば、かなえてやりたい気持ちもあります」
「貴様は何が言いたい?! 話が長いぞ!!」
俊樹からの言葉の拳が百烈してくるのに耐えかね、ラオウは不利なところで結論を急いだ。俊樹は勝利を確信したが、ほくそ笑んだりせず、誠実な顔で頼む。
「簡単な提案ですよ。3億ではなく、リュウケンさんの特養への入所、愛馬への牧場を亡くなるまで提供すること、阿吽の像の修繕を斡旋すること、この3つで手を打っていただけませんか。でなければ、この話はなかったことに」
「……………ぬぅぅ……」
ラオウが呻り考え、トキを見る。
「ラオウ兄さん、いい話ですよ」
トキが頷いた。
「そうか。いいだろう」
実弟の意見を長兄が採用するという形でメンツも立て、ラオウは了承した。
「では、始める。背中を向けよ」
「はい」
ラオウが四葉のブラウスを剥ぎ取った。お昼に司から射精してもらった精液と四葉の小水を抱きしめたために、胸のあたりにシミができていたブラウスが阿吽の像の足元へ投げ捨てられる。四葉はラオウへ背中を向けているので、俊樹たちに乳首を向ける立ち位置になった。
「お父さん、お姉ちゃん、外で待っていて。大丈夫、必ず戻るから。切り刻まれるくらいの苦痛なら疑似体験済みだし、その先が絶望じゃなくて希望があるなら余裕だと思う」
「……わかった。行こう、三葉」
「四葉、頑張って……四葉、なら、きっと…」
強がる四葉を残して、二葉の頃から、こうなったら引っ込みがつかないことを悟っている俊樹と、やっと苦痛の連続から解放されて、ほんの少しだけ状況がわかりかけてきた三葉が建物を出る。扉が閉まると背後からラオウと四葉の声が響いてくる。
「心霊台!!」
「くうっ!! うわあっ!! ああわあ!! はあっくう!! うわわっ!! あ!! きゃあっ!! はあっ!! うあっひあああ!! わあ~!! あかわわ!! んんん~~~!!」
のたうち回る四葉の悲鳴に、三葉が振り返った。
「四葉……」
さっきまで似たような苦痛を味わっていただけに、同情の念が強い。俊樹が三葉の背中を押した。
「ここにいても仕方ない。ともかく、三葉の服を買いに行こう。四葉のブラウスも破られてしまったしな」
そう言いながら俊樹はスーツのズボンを脱いだ。
「これを着ていなさい」
「ありがとう、お父さん。ごめんなさい、そんなカッコにさせて」
俊樹が下半身は白いブリーフだけになってしまったことを謝った。
「娘が、つらい想いをするより、ずっといい」
「本当に、ありがとう」
下半身裸だった三葉は父親の配慮に感謝して、男物のズボンをはいて街に出ると最寄りの商店で、とりあえずの衣服を買う。丸四日間絶食だった上に激しい苦痛を受けたためか、ぽっちゃりとしていたウエストが高校生だった頃のように細く戻っていたのは、ものすごく嬉しかったけれど、今は喜んでいる場合ではないので、四葉にもブラウスを買って戻った。道中で三葉は俊樹から、四葉が何かを進めていることと状況を聞き知った。そうして日没まで寺院の外で待っていると、扉が開き、四葉とラオウが出てきた。
「四葉! 大丈夫なの?!」
「うん」
四葉は微笑み、それから手を見せる。
「まあ、爪が3枚ほど飛んじゃったけどね。そのくらいで済んだよ」
「四葉、まず服を着なさい。買っておいたから」
ずっと上半身裸で奥義を学んでいたことに、俊樹はラオウの配慮の無さを残念に思ったけれど顔には出さない。四葉はブラウスを着て、ラオウに礼を言う。
「ありがとうございました。ラオウ先生」
「うむ」
頷いて、初めての女弟子を送り出しつつ、付け加える。
「三千万と、さきほどの件だが」
「えっと……お父さん、どうなるの?」
「お金は1週間以内に、ご指定の口座へ振り込みます。さきほどの件も進めますが、こちらと連絡のつく電話番号を教えていただけますか?」
「ならば、トキ鍼灸院へ電話するがよい」
「わかりました。今後とも宜しくお願いします」
多選の町長らしく事後処理を進め、三人は寺院を出た。父が娘に問う。
「四葉、これから、どうすればいい?」
「糸守に帰ります」
「わかった。今からだと、明日の朝になるな」
俊樹が腕時計を見て言うと、四葉の顔色が凍り付いた。
「どうして?! 今日中に帰らないと困るの!!」
「そう言われても、ここは八王子だぞ」
「だって、来るときは40分だったのに!」
「それはヘリだったからだ。電車なら東京駅に出てから新幹線で名古屋、もしくは山梨県の方から帰るかだが、そっちは列車の連絡が悪い。どちらにしても糸守に着くのは明日の朝になるな」
「それじゃダメなの!! 今日中に! 夜の12時くらいまでに帰りたいの!! ラオウ先生のところにいるのを日没までにしたのは、帰りの時間を考えてだったの!」
「そう言われても、うちの町が、どれだけ田舎か、知っているだろう。名古屋からタクシーを飛ばしたとしても………無理だ。12時は過ぎる」
町長として陳情のために東京に出向くことは多いので、どれだけ時間がかかるかは熟知している俊樹が言うと、四葉が絶望的な顔色になる。
「……そ……そんな……」
「お父さん、何とかしてあげられない? たぶん、入れ替わりにとって糸守の地にいることは重要な条件だと思うの。しかも、四葉は私みたいな不定期じゃなくて、確実に一日で入れ替わってるってことみたいだから、また今夜、変わるのよ」
経験のある三葉が言うと、俊樹も悩む。
「う~む……いや……しかしだ。……」
俊樹はスマフォで乗り継ぎ検索するけれど、どのルートでも明日になる。
「いっそ、小松空港か、富山までフライトして……いや、それでも山道が……」
「「ヘリはっ?!」」
四葉と三葉が同時に問うた。
「ドクターヘリは返してしまったよ。もう、誰も病気ではないのだ。いくら、私でも公私混同にすぎる。消防の方でも拒否するだろう」
「そんな……」
四葉が、また絶望し、三葉は大人だったので再提案する。
「民間のヘリをチャーターすればいいじゃない!」
「それも難しい。費用は80万ほどだろうが、そもそも糸守のヘリポートはドクターヘリなどの緊急用だ。民需での離着陸は、よほどでないと………、それだけ大事なことなのか? 四葉」
「お願いします、お父さん」
すがりつくように娘に頼まれると、俊樹はノーと言えなかった。すぐに電話をかけ、そしてヘリを予約した。
「かなり無理を言って予約したよ。今夜は東京で花火があるらしい、おかげでヘリは出払うのだが、花火が終われば、もどってくる。それで帰れるよ。料金は150万と言われたがな」
「ありがとう、お父さん!」
四葉に抱きつかれると、俊樹は二葉の面影と重なって娘の頭を撫でた。
「本当に、お前らは………おい? 大丈夫か?」
抱きついていた四葉が、ずるずると崩れていったので慌てて抱き留める。
「四葉、どうした?!」
「四葉、どうしたの?!」
「ご……ごめんなさい……目まいが……お腹が空いて…力が……朝から何も………安心したら、急に……」
「まったく」
俊樹は四葉を抱き支えながら提案する。
「どうせ、花火が終わるまでは東京にいるんだ。しっかりした食事を摂りなさい。四葉が食べないことを、お義母さんも心配していたし、三葉も、ずっと食べていなかったろう。どこか、行きたい店はないか?」
「それなら私、IL GIARDINO DELLE PAROLEに行きたい!」
「え~……あそこぉ…」
言の葉の庭というイタリア語を、ずっと覚えていた四葉が提案すると、姉は行きたく無さそうな顔になる。
「あそこ、美味しいけど………」
三葉は入れ替わっていた時にバイトしていたこともあるし、東京で暮らしているときにも何度か利用したことがあるイタリアンレストランへ、離婚した今となっては行きたくない気持ちだった。
「お姉ちゃんが食べた料理の写真はインスタで何度も見せてもらったけど、結局、私は一回も、行ってないもん!」
「う~ん……」
東京暮らしの華やかな側面だけはSNSにアップしていたので、それを妹が羨ましいと思っていることの原因が、過去の自分であることにも自覚はある。俊樹が店の位置を調べて頷いた。
「利用するヘリポートにも、ごく近い。三葉」
「はいはい、わかりました。ご案内します!」
すぐに予約を入れて三人でタクシーに乗り、レストランで食事を摂る。四葉は朝から何も食べていなかったし、三葉は4日間も食べていなかったので、行きたくないと言っていたけれど、いざ食べ始めると、黙々と食べている。
「少し電話をしてくるよ」
俊樹は席を外して喫煙所で電話をかける。町議選の最中で連絡事項は多いし、夜中に町の緊急用ヘリポートを使うことの調整もしなければいけない、娘たちに心配をかけないように、それらの連絡をしていると、この店のオーナーらしき男性もタバコを吸いながら電話していた。
「ごめん、ミキちゃん、やっぱ行けそうにないわ」
「ギリギリまで私を待たせておいて、ドタキャンする気なの?」
オーナーのスマフォからは藤井ミキの声が響いてくるけれど、俊樹にとっては長女の結婚式で一度だけ挨拶したことしかないので、もう忘れていて気づかない。俊樹にとって重要な選挙戦の差配をツイッターで黙々と続けている。
「ごめん、ホント、ごめん。急に店に、奥さん来ちゃって抜けれないんだわ」
「ふーん……待ってるうちに、ワイン空けちゃったのよ」
「その支払い、オレのカードでしといてよ、ね? もう一本いってもいいからさ」
「花火は、どうするのよ? ヘリ、チャーターしてくれたんでしょ?」
「それも難しいんだよ。奥さん、なんか疑ってる感じでさ。もう抜けれないわ」
「………楽しみにしたのになぁ。横から花火みるの」
「今からじゃキャンセルしても、キャンセル料100%だからさ、ミキちゃんだけでも見てきてよ。ね?」
「女一人で乗れっていうの?」
「いっそ、旦那でも呼べばいいよ。どうせ、二人分払ってあるし」
「司にヘリ代のこと、どう説明するのよ。たしか、58万とか言ってたよね。花火の日、特別料金でさ」
「懸賞に当たったとかさ。まあ、ボクの心の中ではミキちゃんを、ときどき借りてるレンタル料みたいな気持ちで支払っておくからさ。たまには夫婦で楽しんでみたら?」
「当日、いきなり? 司に朝、何も言ってなかったのに? っていうかさ、そういうウソからバレていくのよ。奥さんに疑われてるのも結局そのへんの甘さよ」
「あははは、痛いとこつくね。じゃあ、2号くんは? 2号くんいるんでしょ。え~っと、あのタ……タ…タチ、なんとか君」
「タキよ。私に2号いるの勘づいてたんだ」
「そのへんは、ぬかりないさ」
「ふーん……あいつ、ヒマかな? 当日の今で、来れるかな」
「きっと、ヒマだよ。だって、先週、うちに面接に来たから。なんか、再就職うまくいってないらしくて。もう一回、働かせてくれないかって。バイトでもいいからって」
「雇ったの?」
「まさか。うち、出戻りはお断りって言ったよ。まあ、ホントは彼、使いやすい方だったから、欲しかったけどさ、ミキちゃんと穴兄弟なんだから、発覚したとき店でトラブられてもイヤだし」
「賢明な判断ね。まあ、いいわ。今夜は許してあげる。お互い様だし」
通話が終わり、オーナーは舌打ちした。
「ちっ……だんだん図に乗ってきたな。セフレ風情が、もう歳だし、切り時か。先週、かわいい女子大生も雇ったし。そろそろ更新時期かもな」
オーナーは400万円するパテック・フィリップの腕時計を見て、厨房へ戻っていた。俊樹は選挙戦の指令とお願いをスマフォから送り続け、ずいぶんと時間が経ったので一度、テーブルに戻った。
「すまない、もう少し連絡事項があるんだ。二人で食べていてくれないか」
「はーい」
四葉は素直に返事をしたけれど、三葉はナプキンで口を拭いて立ち上がった。そして父親に頭を下げる。
「ごめんなさい、お父さん。選挙のこと、いろいろ大変なんでしょ」
「いや……たいしたことはない」
「ウソを言わないで。立候補者の私が四日も倒れて、選挙活動がストップしてるのに、大変じゃないわけないもの」
「………」
「今からは私も戸別電話、やります。電話なら東京からでもできるもの」
「大丈夫なのか? 体調は」
「もう平気よ。四葉、一人で食べていられる?」
「小学生でも食べるくらい一人で食べてるよ。いってらっしゃい」
すっかり選挙モードになっている父と姉に手を振って、四葉は長年、話だけは聞かされ料理の写真だけは見せてもらっていたイタリアンを、ゆっくりと味わう。四葉が座っているテーブルの隣りには柄の悪い二人組の男たちがいた。
「兄貴、そろそろじゃないっすか」
「そうだな。いつもの、やつ、いくか」
二人は食事の途中で料理へ爪楊枝をさし込むと、店員を呼び、文句を言って無料にさせる。その一部始終を四葉は気づいていたけれど、余計なトラブルは抱えたくないので黙って食事を続けた。
「うまくいきましたね、兄貴」
「おうよ。この店は4年ぶりだからな」
「バイト、ほとんど入れ替わってオレらの顔を覚えてるヤツいない感じっすね」
「同じ店でやるのは最低4年あけないとな」
「爪楊枝一つあれば、三食、タダっすもんね」
「指先一つでぇ~、ってなもんよ」
「今夜も、あの技、またやるんすか。カッターナイフで、女のケツ肉を切らずに、スカートだけを斬る絶妙の神業。あれがデキるヤツは、そうそういないっすよ」
「そうだな、あの新人っぽい女子大生、かわいいしな。あいつのスカート、斬りたいなぁ」
「よっ、待ってました」
「だがな、今夜のオレは今までとは違う。新たな技を身につけた。もうカッターナイフなんてものは使わねぇ」
「じゃ、どうするんすか?」
「素手よ、素手。素手でスカートをバラバラに切り刻んで、パンツ丸出しのディナーショーにしてやるぜ。素手なら、そこまで剥いても証拠がねぇ。女のスカートが勝手にバラバラになったってことで警察沙汰にもならねぇ」
「そりゃ、素手なら証拠は……けど、そんなこと、できるんすか?」
「ふふふ、オレはな、この4年、ずっと修行してきたのよ。シン師匠のもとでな」
「それってあれっすよね。健康体操みたいな拳法道場の。たしか、シン&ユリア美容学院とかで、どっちかというとエステのチェーン展開で成功してるユリア社長のが有名っすけど。拳法道場って、ついでじゃないんすっか?」
「それは表向きの姿よ。裏では本格的な殺人拳を教えてくれる。まあ、授業料は500万もして、タダ飯で浮いた金を全部、つぎこんだがよ。その甲斐はあるほどの拳法を教えてくれた。しかも、オレは筋がいいってシン師匠にほめられたんだ」
「兄貴のカッターナイフさばきは、けっこう超人的っすもんね。ケツ肉を切らずにスカートだけって、普通できないっすよ」
「お前の言う超人的ってのは、まだまだ常識の範囲、常人の範囲よ。オレは、もはや常人の域をこえた。見るがいい! わが、南斗聖拳を! シャォォ!!」
ちょうど通りかかった四葉へデザートを運んできたウエイトレスの臀部に触れるか、触れないかの間合いで、素早く手を振り下ろした。
パラリ…バラバラ…
ウエイトレスのスカートが直線的に切り刻まれ、床に落ちていく。
「っ、キャーッ?!」
急に下半身が涼しくなって下を見ると、スカートが斬られていてウエイトレスが悲鳴をあげ、座り込む。
「す…すげぇ…兄貴……すげぇ…」
「ざっと、こんなもんよ」
「最高っすね! ひょー! このレストランはいいな! こんなショーまでしてくれんのかよ!」
大声をあげると、注目が集まり、ウエイトレスが混乱して泣き出した。他の店員がフォローに出てきて、泣き出したウエイトレスは奥へ連れて行かれ、オーナーが周囲に謝って営業を再開すると、四葉が手を挙げた。
「すいません、私のデザート、さっき落とされたんですけど」
「あ、すいません。すぐに、お持ちいたします」
オーナーが厨房に急ぐよう指示して、すぐ四葉はデザートを食べることができた。そして、食べ終えて再び手を挙げる。
「すいません」
「はい、どうされました?」
まだオーナーは二人組が帰るまではフロアにいるつもりだったので四葉に対応してくれる。四葉は二人組を指さして言う。
「さっき、あの二人、自分で爪楊枝をさし込んで店員さんに文句を言っていました。お店の責任では無いと思います」
「………」
オーナーは4年前にも来た客でない客のことを、わかっていたし、さもしい飢えたノラ犬にエサをやった気分で、もう無料にして穏便に帰ってもらうつもりだったのに、女子高生が余計なことを言い出したので、接客マニュアルに無い対応を考えるため、黙り込んだ。
「ああん?!」
「んなっ証拠が、どこにあんだ?! コラっ?!」
オーナーの背後で、予想通りの反応が返ってくる。
「私の証言が証拠です」
「………」
オーナーが悩む。
「おい、コラっ!! お嬢!!」
「このクソガキっ!! しばくど!!」
「それに、その男たちの身体を調べれば、次の犯行に使う爪楊枝もでてくるでしょうし、このレストランにある爪楊枝と仕入れ先や商品が違うのも、詳しく調べれば明らかにできることです」
「………。お客様、まあ、ここは穏便に」
オーナーは面倒なことを避けたかった。詳しく調べる過程も面倒だし、もう明日からの営業のことと、浮気に勘づきかけている妻への対応に専念したい。四葉は立ち上がって二人組に声をかける。
「外で、お話しませんか」
「お? ……お、…おう! いいだろう!」
「この女、アホっすね」
「お客様……」
オーナーは心配になるけれど、外で起こることに店は感知しないのが基本だった。四葉は外に出ると裏路地まで歩いた。
「お嬢ちゃん、わざわざ、こんな人目の少ないとこまで、ありがとうよ」
「マジでアホっすね」
「一つだけ質問に答えてくれますか?」
四葉が問う。
「ご飯をタダにしただけで、満足すればいいのに、どうして、女の子のスカートまで斬る必要があるんですか?」
「お? ……てめぇ、見てやがったのか」
「話も、だいたい聞こえてました」
「そうか。そんじゃ、教えてやらねぇとな」
「お嬢ちゃんのアホさ加減をよぉ!」
弟分の男が襲ってくるのを、四葉はハイキックで撃退する。
「うあたっ!!」
四葉の気合いとともにハイキックが相手の顔面に決まり、一撃で倒していた。
「この女………腕に覚えがあるようだな。どうりでスマしてやがると思った」
「質問の答えが、まだです。どうして、女の子のスカートまで斬るの?」
「ふっ……決まってるだろ! 斬りてぇからよ! 斬りてぇから斬った! それ以上の理由なんざ、必要ねぇ! 最高だぜ、実にいい気分になる、今夜もグッときたぜ! ヒャッハーっだ!」
知りたかったことを教えてもらって四葉がタメ息をつく。
「はぁぁ……こっちの世界にも、こんなクズがいるのね。いえ、もともとは同じ世界、一つの紐のうちの糸。東京だからかな……ううん、うちの田舎にも似たようなのがいたし、世界が、どうであっても、都会でも田舎でも、人口の一定層はクズってことなのかな。正直、うんざりするわ」
「なにを、ぶつぶつ言ってやがる」
「悪党どもに祈る言の葉は無いって話」
「けっ、腕に覚えがあるようだが。ちょっとばかり相手が悪かったな。このオレ様は南斗聖拳の初歩をマスターした男よ」
「そう」
「お前はスカートだけじゃねぇ、すっぽんぽんの裸に剥いてやるぜ! ヒャッハーー!! 斬れろ、斬れろ、斬れろォ!」
男が襲ってくる。
ザウッ…
四葉と男が交差して、すれ違う。
「ォ…オレ様の南斗聖拳をかわした……」
「っ……せっかく、お父さんに買ってもらったのに……」
四葉はブラウスの袖を切り落とされてノースリーブにされていた。
「それだけで済むとは、お前、何者だ?! なにか、拳法やってるだろ?! お前の名を教えろ!!」
「もう死んでいる人になら、教えてもいいかもね」
四葉は構えを解いた。そして、考える。
「私の拳は北斗神拳、名は……そうね、北斗の末弟より末席の女、拳…四葉……拳四葉でケンシヨウとでも、名乗るわ。本名は、やっぱり秘密♪ 一応、暗殺拳だから」
「ケンシヨウ……お前、男か?」
「………。本名は、もっと可愛いから」
「まあいい、じわじわ素っ裸にして、本名さらしてやんぜ。うっ? ……なんだ、すげぇ、気持ち悪い……ボディなんか、くらってねぇのに……」
「北斗巫娼拳の奥義、秘孔、咽倫義を突いたわ。すぐに、ああなる」
四葉が最初に蹴撃した男を指した。
「…ぁ……兄貴……た……たふけ……うげ! うええ!」
蹴られた男は口から内臓を吐き出していた。
「なっ……何をしやがったんだ?!」
「この秘孔は、地味に効くの。じわじわと吐き気が強くなって、そのうち自分の内臓を吐くわ。まずは小腸、次に十二指腸、そして胃、さらに食道を裏返しに吐く頃には、まあ、死でるわ」
「そ…そんな……バ……バカなことが、あってたまるか……うっ…うっ…うえっ…うおおおえ!!」
小腸をズルズルと吐き始めた。四葉が説明を加える。
「しかも、頭や心臓を一気に破壊するわけじゃないから、しばらく苦しむよ。吐いて吐いて、窒息するか、消化器官の血管がちぎれたことで失血死するか、どっちにしても、とても苦しい」
「ひっ……い、イヤだ! た、助けてくれ!! うぇええ! うぐううう!」
「今日までタダで食べた御飯、全部、吐き戻して死になさい」
四葉は二人組が絶命するまで見ていた後、静かに立ち去ると、父に連絡を取り、ヘリポートへ向かった。そろそろ花火大会が終わり、豪遊していたカップルたちのヘリが戻ってくる時刻になっている。三人で手続きを済ませて、ヘリポートの待合室で待っていると、三葉は着陸したヘリから降りてきたのが、離婚した元夫と藤井ミキだったので驚いた。
「っ、タキっ?! どうして、ここに?!」
「え? うわっ?! お前こそ、どうして、ここに?!」
お互いに不意に離婚した相手に出会って驚いている。
「いろいろあるのよ! あなたには関係ないでしょ!」
「お前だって、もう関係ないだろ!! …うわっ、しっかりしてミキさん!」
いっしょに降りてきたミキはワイン2本を飲んでからフライトしたために泥酔に乗り物酔いが重なってフラフラしている。
「え~……大丈夫……大丈夫………花火、まだ?」
「終わってますよ。いっしょに見たじゃないですか?」
「あ、ん~……うん、そう見た。横から! 花火! 見た! って、あれ、この女……えーっと、もと彼女……じゃなくて、ほら、……ド田舎の……誰だっけ?」
「モトカノじゃなくてモトヨメです。ほら、水」
水をもらってミキは少し落ち着いて待合室の椅子に座った。
「お久しぶりね。三葉ちゃん」
「………あなたに、そういう風に呼ばれたくありません」
三葉は会話したく無さそうだったけれど、ヘリは燃料補給とチェックのために、すぐには出発しない。ミキは酔いがひどいので、しばらく動けそうになかった。俊樹は娘が離婚相手と、どんな会話をするのか、気になったけれど、あえて遠く離れて聴かないことにしている。
「んで、三葉ちゃん、どうしてるの? 彼氏とか、いる?」
「………再婚してます」
「あ~……そっか、たしか、不倫したんだよね」
「くっ…………誰のせいだと思ってるの?!」
三葉が怒鳴った。
「あなたが結婚してからもタキに、ちょっかい出すから!!」
「それでケンカして出て行って親友の旦那と再婚でしょ? ハッピーエンドでいいじゃない」
「どこがっ?!」
「勝ち組、勝ち組。あ~……タバコ……って、ここ禁煙か…」
「あなたこそタキの友達だった藤井くんと結婚したくせに、今夜だって、どうしてタキといるの?!」
「司って、退屈なのよね。まじめで人並みの給料はもらってくるけど、ただ、それだけ。まあ、タキは今フリーターだけど。キャハッハ♪ でも、今夜は懸賞で当たったヘリで花火横から見れて最高だったよね。このあとは、どうしよっかな」
まだ酔いが強いようでミキは饒舌に語りつつ、男にしなだれかかる。不倫相手はコンビニでバイトしていたところを急に呼び出されたようで、バイト先の制服を着ていた。三葉が見たくないものから瞳をそらして問う。
「不倫なんて楽しいですか? 私には後悔しかない」
「チンポ3本」
「は?」
「不倫するなら、3チンポもて。っていう、西原理恵子の格言、知ってる?」
「誰それ?」
「毎日新聞で連載漫画やってるよ。でね、女は不倫するなら、1本じゃダメだってこと。一つにだけウエイトを置くと不安定になるでしょ。三脚でも、そう。しっかりと立つには3本くらいが、ちょうどいいのよ。それなら、そのうちの1本が急に消えても大丈夫、自分は安定していられる。ようはバックアップを持てってことよ」
「くっ………こんな人に………私の新婚生活を……」
「お姉ちゃん、久しぶりだし、そして最期になるかもしれないんだから、彼と話しておいたら? 私は、この人と話してみたい」
四葉がミキを誘う。
「少しだけ、お話しませんか。あちらで」
「ふ~ん……妹ちゃん? よく似てるわね。いいわよ。お説教したそうな顔してる。女子高生が、どんなこと話すのか新鮮そうで聴いてみたいから、お誘いに乗ってあげるわ」
ミキが立ち上がって酔った歩調で歩き、四葉は待合室を出てヘリの発着場で会話する。
「さっき話していた司って、旦那さんですか?」
「ええ」
「愛していますか?」
「クスッ…ええ、それなりに。初々しい質問ね、答える方が恥ずかしいくらい。クスクス…若いって、いいわぁ」
「司さんは不倫のこと、知っていますか?」
「ううん。そんなヘマはしない。あなたたちが告げ口するなら別だけど。あ~…今夜は酔いすぎたわ、こんなことペラペラ話しちゃって。横から見た花火が、あんまりキレイだったから、かな」
「ご自分のされていること、許されると思いますか?」
「ええ」
「………。その理由は、ありますか?」
「私が美人だからよ」
「……………」
「美人は何をしても許されるの。男は、そういうものよ。あなたも可愛いから、もう少ししたら、わかるかもしれない。もう少し長く生きて経験して、お化粧とかすれば、きっと輝くようにキレイになるわよ。せめて田舎臭いところを抜けば、いくらでも男がよってくる。電話一本で犬みたいにダッシュしてくる。すーっと前を歩くだけで、私の残り香を嗅いで発情するの。私は確実に美しいもの」
「あなたは長く生きすぎた」
「はァ? お姉さんと、そんな変わらない歳…っ?! 何するのよ?!」
ミキは急に四葉が身体に触れてきたので一歩さがった。指先で強く突かれ、とても不快だった。
「何のつもりよ?!」
また一歩さがる。
「北斗神拳奥義、残悔積歩拳」
「はァ?」
ミキは仕返しに四葉の肩を押してやろうと思ったのに、本人の意思に反して、また一歩さがる。さらに一歩、さがる。
「え? え? なに? なんで、足が勝手に?!」
「秘孔、膝限を突いたわ。あなたの足は意志と無関係に後ろへ進む!! 地獄まで自分の足で歩いていきなさい!!」
「な、何を言って……、こ、この先は、たしか!!」
ミキが振り返る。高層ビルの屋上にあるヘリポートなので手すりもなにもなく、このまま歩き続けると、地上まで真っ逆さまだった。
「うわあ!! と…とめてよ! あ…足を!! とめてよ!!」
「ほんの偶然だと思う。司なんて、よくある名前だから、ごく偶然に重なっただけ。なのに、こんなに腹立たしいなんて、いつのまにか、私は彼を強く愛している」
「何を言って……と、とめてよ! 助けて! 誰か助けて!!!」
もうミキは大声で叫んだけれど、ヘリポートにいるスタッフは花火の前後の混雑で疲れていたし、四葉たちの乗るヘリの準備に追われ、気づいていない。どんなに大声をあげてもアイドリングしているヘリの羽音にかき消されて四葉以外は誰も聴いていない。
「うわあああぁ! あわわあ!!」
あと落下するまで1メートルもなくなると、いよいよ恐怖で顔中が汗に濡れて、つけまつげがとれている。目の上下につけまつげをしていたので、下のまつげが涙で流れ、上のまつげは目蓋の変なところに貼りついている。涙でアイメイクが解け、黒い涙を流して、ファンデーションが汗で落ちていき、顎に白い汁がダラダラと滴っている。
「い…いやよ! たすけてぇぇぇ……な…なぜ、私が、こんな目に!! 美人の、この私が、なぜぇぇ~!!」
とうとう爪先だけで立っている。
ジョワジョボジョボ!!
ミキは恐ろしくて失禁してしまい、漏らした尿がビル風とヘリが巻き起こしている旋風で舞い上がり、本人の顔や上半身を濡らしてリボ払いで買ったワインレッドのドレスが、ワイン2本を飲んで分解した臭い尿で染まっていく。
「あわ…」
最期の一歩を踏み出して、ミキの身体が落ちていく。
「うわっ! うわああ!! たわばぁぁ………」
たすけて、わあ、と最期に言ったのか、もう声は聞こえなくなった。四葉が黙って待合室に戻ると、スタッフに呼ばれる。
「宮水様、3名様、ご出発の準備が整いました! ご搭乗ください! お帽子やスカーフなど飛びやすい物は必ず手に持っていただくか、カバンに入れてください!」
四葉と俊樹が呼ばれた方へ進み、三葉も会話していた相手に最期の言葉を告げる。
「ごめん。結局、なにもかも、急ぎすぎたのが、いけなかったのかも」
「オレの方こそ、ごめん。未熟だった。君の気持ちを考えられなくて、ごめん」
「じゃあ。さよなら」
「ああ……さよなら…」
男に見送られて三葉は背中を向けると、ヘリに乗った。ドアが閉まると旅客向けのヘリなので会話できるくらいには静かになる。
「三葉、大丈夫か?」
俊樹が、不意に離婚相手と出会ってしまった娘を心配して問い、三葉は微笑んだ。
「うん。話せて、よかった。ずっと弁護士任せで離婚したから、会って話して気持ちがすっきりしたわ」
「そうか、よかったな」
気がつけば、もうヘリは上昇していて、スカイツリーを見下ろす高度になっている。花火が終わった後の渋滞で道路は輝き、ビルやネオンも宝石のように見えた。
「東京………この街が………人を、おかしくしてしまうのかも……私、サヤチンに謝りたい。どんなに謝っても許されないとしても、謝りたい」
「「…………」」
俊樹と四葉も眼下を見下ろす。出発したヘリポートのあるビルの下に救急車やパトカーが集まり始めているのに気づいたのは四葉だけだった。
「東京、たしかに、こんな街、焼き尽くしてしまったら、とも………ううん、それはダメ、なんとか防がないと……でも、疲れた。もうクタクタ……」
四葉は倒れ込みそうなほどの睡魔を覚えたけれど、頭を振って意識を保つ。
「ダメダメ! 寝ない! 寝ない!」
「ねぇ、四葉、今夜も入れ替わるの?」
「たぶん、ううん、きっと。……眠い……ごめん、お姉ちゃん、寝そうだから、何でもいいから話しかけて」
「何でも、って言われると……あ、ほら、もう東京が終わるよ。空から見ると、あんなに小さい都市だったんだ」
三葉が窓の外を指した。キラキラと輝く人工の光りが途切れ、山梨県に入ると眼下は、ほぼ真っ暗だった。
「私たちの町も、上から見ると、こんなに暗いのかな?」
四葉の問いに俊樹が答える。
「その分、星がキレイに見えるさ」
「そうだね」
四葉は星を見ようとしたけれど、旅客ヘリの窓の構造上あまり上方は見えない。しかも、空は曇っていた。
「お客様」
副操縦士が客室と操縦室を隔てる戸を開いて声をかけてきた。
「山梨県から長野県にかけて濃い霧が出ているとの情報です」
「そうか」
「大変申し訳ありませんが、山梨県内にて着陸いたします」
「っ、それは困る!」
俊樹が声をあげ、四葉も叫ぶ。
「お願い! 岐阜まで飛んでください!」
「そうおっしゃいましても、きわめて危険ですから」
「どうしても戻らないといけないの!!」
「追加料金が発生してもかまわない! 飛んでやってくれ!」
「金額の問題ではないのです。運行規定違反になりますから、着陸いたします。料金は後日全額返金されますので、どうか、ご了承ください」
「そ……そんな……」
「どこに着陸するんだ?!」
「検討中です。どうか、お静かに」
そう言うと副操縦士は戸を閉めてしまった。しばらくして、ヘリが山梨県内にある日本航空高校のヘリポートへ緊急着陸した。降り立ってみると、周囲は真っ暗で何もない。コンビニの光りさえ、遠かった。
「………あと2時間も、ないのに……」
「四葉、しっかりして、顔色が悪いよ。まだ、方法はあるかもしれないから!」
三葉が励まし、俊樹が電話をかける。
「タクシーを呼ぼう!」
電話で呼んだタクシーが来るまでに30分を要して、中央自動車道を進むけれど、ヘリと違い、飛騨までは大きく山脈を迂回しなければ到着できない。霧の濃い高速道路を運転手に無理を言ってスピードを出してもらっても、ようやく長野県に入り諏訪湖の近くを通る頃になって、夜の12時になってしまった。
「日付が……四葉っ?! 四葉、しっかりして!」
三葉は妹が、ぐったりとしていることに気づいた。
「寝ちゃダメなんでしょ?! 起きて!!」
大声で呼びかけて揺すっても反応がない。助手席に座っていた俊樹も心配して振り返る。
「四葉の様子は?」
「ぜんぜん反応がないの! 四葉! しっかりして! 四葉!!」
三葉が頬を叩いても反応が無いどころか、顎に力も入っていなくて口が開いてヨダレが垂れてしまう。目蓋にも力が無くて、閉じているというより半眼で瞳に動きもない。
「四葉……」
三葉はゾッと腹の底が喪失の恐怖で冷たくなる。もう四葉からは生きている様子が消えてきている。抱いている妹の全身には少しも力が入っていなくて、とても重たい。じわりと三葉はお尻が温かく濡れてくるのを感じた。触ってみると、同じシートに座っている四葉が小水を漏らしている。三葉は死んだように動かない妹の口元に耳をあてた。
「っ! お父さん! 四葉、息してない!!」
「なっ…」
驚いた俊樹は慌てかけたけれど、長女に言い聞かせる。
「こんなときこそ、落ち着きなさい」
「そんなこと言われたって!! 息してないのよ! 四葉が!」
「私も、どうするのが、いいか考える。お前も考えなさい」
すでに妻を亡くしたことのある男が静かに言うと、三葉も少しだけ冷静になれた。
「…どうすれば……どうすればいいの……息が……息をっ!」
三葉は唇を妹と重ねると、大きく息を吹き込んだ。